< 壱 >
磨り雲母がはめ込まれた観音開きの格子戸を、両手でパタン、と閉じたその瞬間、東の空から光が差し込んできた。
眩しさに一度睫毛を上下させ、細めた瞳をそちらへ向ければ、どうやら小高い丘から太陽が昇り始めたようで、夜の帳を押し上げるように目覚めたばかりの朝が広くその腕を伸ばし始める。
(は~、ほんと間一髪だった……)
月は、ツ、とこめかみから流れ落ち顎先で玉作る汗を手の甲で抑えながら、「はぁぁあ」と疲労が多分に含まれた長いため息をひとつ零した。
森での騒動の後、予定外に消費してしまった時間を回復するべく、最初は足早に歩いていたが、いよいよ空の三ツ星が西の低い位置へと傾き出したころからほぼ全力で走ることになってしまった。
森から廟のある集落までは細いながらも道が引かれているものの、お世辞にも綺麗に舗装されているとはいい難い。跳躍しながら進む僵尸たちにはすでに「魂」はなく、ただ月の命令にしたがって「魄」の宿る身体を動かしているに過ぎないので、障害物があれば当然避けるなどという芸当が出来るわけもなくそのまま転ぶ。
そして、その転んだ僵尸が障害物となり、後ろに並ぶ僵尸もまた同じように転ぶ。
まるで並べた麻雀牌をひとつ倒したときのように、面白いほど連続して転んでいくのだ。
(いや、面白くもなんともないんだけど)
彼ら自身はもう既に死んでおり、痛みなど感じるわけもないのだが、それでも僵尸とは「確かに生きていたどこかの誰か」であったことは事実であり、彼らの帰りを待っている者のためにも、極力これ以上の治らない傷を作ってはいけない。
これは、師事している祖父から道術を習う際にいわれた最初の言であり、月が僵尸隊を率いるようになってからずっと軸に定めている信条でもある。
そんなわけで、彼らの転倒に注意しながらも全力で帰路についたのは、いまだ汗が引かないことからもわかるように、つい先ほどのことだ。日頃ならば僵尸を棺に入れるにも、簡易ではあるもののきちんと儀礼に乗っ取って行うが、流石にそんなことをしている暇はなく陽の光から逃がすように木製の黒い棺の中へと押し込んだ。
(ほんと、つっかれた……)
は、と吐き出した息は、視界を一瞬白く曇らせるほどだというのに、道袍の中はまるで真夏のように熱気が籠っている。
(まぁなんにせよ、陽の光に僵尸が当たることもなく帰宅出来たし、盗賊も後を追ってくるわけでもなさそうだし、万々歳かなー)
閉めた戸を背にしながら体重をかけていくと、どっと疲労が肩へ圧し掛かってくるような気がする。とりあえず、このままここにいると寝落ちてしまいそうだ。
重い瞼を、えいや、と持ち上げると、その視線の先には垂花門と呼ばれる内門。先ほど慌てて僵尸隊を引き入れたので、塗装の剥げたところが目立つ朱塗りの扉が口を開いたままにしており、そこに、凭れ掛かるように身体を預けている狼の姿があった。
この廟は、南東に大門(表門)を置き、前庭を経て南の垂花門に至り、院子(中庭)を囲むように四方に棟を頂く典型的な四合院と呼ばれる家屋である。一般の家庭と違うことがあるとすれば、北の正房が、家長の住まう表座敷はなく僵尸を安置するための殯斂であるということだろうか。
大門から前庭には足を踏み入れたものの、それぞれの棟を臨む院子に入ることは遠慮が出たのだろうか。傍若無人が人の面を被って生きているような性格をしているくせに、人の廟に入るのに躊躇うような慎ましさがあったとは意外である。
「遠慮してんの? 別に取って食いやしないし、入ってきたら?」
「アホ。んなこと気にしてねェわ」
「そう? 私の夜食、奪って食った仕返しでも怖がってんのかと思ったよ」
「怖がっとらんわ! つか、しつけェ! もういい加減、時効だろうが!」
「あのね、半日で時効を迎える犯罪があるなら、世の中に巡捕(警察)は必要ないっての」
月は各棟へと十字に走る道へと歩を落としながら、視界の端を流れる左右へと睫毛の先をちらり、向ける。この家を出たときにはまだ葉が落ち切っていなかったはずの棗や李、杏、桃の木は、すっかり裸になっていた。
(うぅ……夜食奪われたこと思い出したら、実がもう収穫されたあとなのが殊更悲しく思えてくる……)
少女の足音が垂花門の二、三歩前まで近づくと、ようやく狼の背が、ギ、という木が軋む音と共に朱色の門扉から離れる。そして月のものよりも一回り以上大きな雲履が、石畳を踏んだ。
こういった家が珍しいのか、少年の目が、周囲を巡る棟をきょろきょろと泳いでいる。
「結構、でけェな」
「そう? 生きてる人間はそんないないけど、僵尸はその時々で相当数入れなきゃいけないし、近隣住民の儀礼なんかもここでやるからそれなりの広さは必要だし……ま、こんなもんじゃない?」
道士の住まいというものは、風水を大切にするという職業柄どこも似たような造りかと思っていたが、どうやら彼の物珍しそうな視線を見るに、違うらしい。もっとも、すでに人が去った集落しか近場になく、盗賊と変わらない生活をしていた道士の元での生活ではこれほどの家の広さは必要ないのかもしれない。
「で、生きてる人間とやらは何人いんだ? 爷爷ちゃんとやらの他にもいんのか?」
「うん。爷爷ちゃんのほかには――」
「あら? 月ちゃん??」
突然、狼の背後から声がかけられた。
ふ、と見遣れば、彼の背後からひょっこり顔を出すひとりの女性。左右から編み込み、後ろで結い上げている髪から後れ毛が零れ落ちたのを、さ、と耳にかけながら、驚いたように睫毛を何度か羽ばたかせている。
「環さん」
「あぁやっぱ月ちゃんだ。どしたの? 帰ってきたの?」
自身の前にいる狼へとちらり、視線を一度向けるものの、それに気づいた彼の視線が彼女のそれとかち合う前にさ、と、逸らされる。案の定、少年の眉は不機嫌そうに顰められたが、それをいちいち気にするような繊細さは環にはない。
「うん。ちょっと手持ちが心許ないってのと……、あと、これ。拾ったから」
「あ?」
月は道袍姿の少年へと指先を向けながら、環に告げると、なるほど、と彼女の視線が再び狼へと這った。同時に、彼の眉の皺が濃くなっていく。
「へぇ。こりゃまた月ちゃんには珍しい……随分オトコマエ拾ってきたねぇ」
「あァ!? んだ、てめェは」
「コラ。これから世話になる分際で偉そうにすんなっつったでしょ! 彼女は環さん。ここの家でアンタ一番世話になると思うし、飯抜きになりたくなきゃちゃんと挨拶して」
「……飯……? んだ、使用人か?」
「んー? いやー……」
一瞬、どう伝えたものか悩む。
環の年齢は二十代中盤であり、月と十ほどしか変わらない。狼の後方から現れたということは、恐らく南の倒座房にある厨房で朝食の準備をしていたのだろう。実用性を重視した地味な旗装を身に纏っているが、それでも間違っても老婆には見えないだろう。
環へと、ちらり、視線を向けると、軽く彼女の顎が引かれた。
(まぁコイツがどれだけ滞在することになるかわからないけど……、まぁ隠しておくほどの大層な理由があるわけでもないし、いいか)
月が再び少年へと視線を戻すと、「んだよ?」と彼の目が続きを促してくる。
「環さんは、私の奶奶ちゃんだよ」
少女が紛れもない真実を紡いだその瞬間、狼の日頃険を含んだその双眸が、間が抜けたように見開かれた。暴言以外を発することが出来ないのではないかと思われた唇が、ぽかんと軽く開いている。
「………………は?」
ようやく落ちたその声は、それでも疑問符で染まりきったものだった。月は、「だよねぇ」と口の中で苦笑を転がしながら、彼のそんな表情にしてやったりと内心密かにほくそ笑む。
「…………奶奶ちゃんって、あの、あれか」
「どのあれなのかわからないけど、あの奶奶ちゃんだよ」
「ば、……って、あ??」
彼の脳内で、「奶奶ちゃん」という単語の意味と、目の前の二十歳をいくつか過ぎたばかりの女性が一致しないのだろう。どうやら月に揶揄われていると察したらしく、ぽかんとしていたその面が、徐々に不機嫌な色に染まり始めた。
「ははっ。月ちゃん、月ちゃん。師哥さん反応に困ってるから、ネタバラし早めにしたげてよ」
「えー。でも環さん、コイツのせいでホント散々な目に合わされたんだから! もうちょい引っ張って、そのアホ面拝んでいたいんだけどなぁ〜」
「……おい誰がアホ面だ、コラ。つーか、全部てめェの自業自得だろうが!」
「私の夜食全部食べたことを忘れたとはいわせないから!」
「またそこかよ! どんだけ食い意地張っとんだ、てめェは!」
話す相手もいない孤独な真夜中の行軍において、食べ物がどれほど慰みになるのか彼は知らないからそういえるのだ。月は意識の片隅に追いやっていた空腹を思い出し、いますぐ鳴りそうなぺったんこの腹へ手を押し当てる。
「話してたらお腹すいてたの、思い出しちゃったじゃない。まぁとっとと環さんのご飯食べたいから教えてあげる」
「なんで偉そうなんだてめェは」
「アンタにいわれたかないっての! 環さんは、私の奶奶ちゃん。ただし、血は繋がってない義理の、だけど」
「まぁ流石に実の祖母なら、どんだけ若作りなんだって話だよねぇ」
環が手首を宙でかっくんと折りながら、「あはは」と屈託のない笑顔を見せた。この飾りのないさっぱりした表情を見る限り、とても数年前に祖父に妓楼から落籍された妓女とは思えない。
祖父がどこからともなく幼い孤児などを保護して養子として育てるのは、珍しい話でもなく月の出生前からあったことらしいが、流石に酔っぱらった勢いで妓楼から妙齢の妓女を落籍してきたのは初めての案件で、祖父を知るすべての者が目を見張り驚いた。
もっとも、こうして致命的な方向音痴かつ素性の知れない幼子でもない少年を拾ってきた自分には、もう彼のことをあれこれいう権利などないのかもしれない。
「そういえば環さん、爷爷ちゃんは? 寝落ちた?」
「あぁ、楊老師なら、寝ちまったみたいだよ。月ちゃん帰ってくる、ほんのちょっと前さ」
環は、自身の伴侶であるはずの祖父のことを、養子兼弟子たち同様「楊老師」と呼ぶ。戸籍上夫婦であるものの、実際環は月の姉代わりのようなものだ。
「……お酒、かなり飲んでたでしょ」
「ここんとこ、月ちゃんいなかったからねぇ。怒る人もいないってんで、毎晩楽しんでたみたいだね」
「環さんも、いい加減爷爷ちゃんのこと怒っちゃっていいんだからね」
しかし、祖父がつい先ほど寝落ちたばかりだというのなら、半日は起きてこないだろう。月本人としても、夜通し移動していたので、そろそろ眠りにつきたいのが本音である。
「なんか急用でもあった? だったら、起こしてくるけど」
環が祖父の寝ているはずの東廂房へ窺うような視線を流すのへ、少女は手を振って否定する。
「あ、ううん。急用ってほどじゃなくて、ただコイツ……、迷子拾ってきたって報告しようと思っただけだから。まぁ寝てるなら、起きてからでいいよ。私も朝ご飯食べて、お風呂入ってちょっと寝たいし」
「あぁ、そうだね。お疲れ様。……で、そっちの師哥さんもそれでいいかい?」
「あ?」
少女とその義祖母で進む会話についていけないようで、物珍しそうに周囲へと視線を流していた狼が、瞼を一度上下させる。
「ご飯。アンタも食べるでしょ? 厨房こっち。その後、お風呂入って爷爷ちゃん起きてくるまでちょっと仮眠。その後の身の振り方は、爷爷ちゃんと相談しつつって感じでいい?」
「……おぅ」
先に厨房へと入っていった環の背を追うように、月はそちらを指差しながら雲履の先をそちらへと向け歩き出した。夜中の戦闘で結われていた輪がほどけた髪が、さら、と朝焼けの宙に舞う。
「つか、どういう心境の変化だよ」
「え、なにが?」
「あんだけ餅奪っただの文句いってたくせに、随分好待遇じゃねェかよ」
「森で会ったときのアンタは他人だもん。でも、廟に足を踏み入れたからには、客人だし、そりゃ空腹のアンタの目の前で私だけご飯食べるなんてこと……、いや待って。ちょっとした仕返しにそんくらいしても、バチは当たんないんじゃないかな……」
「アホか! 天が当てねぇなら俺が当ててやるわ!」
「あだ……っ!」
すとん、と頭上から手刀が落とされ、痛みというほどではない衝撃が少女を襲った。キッ、と振り返った先には、相変わらず人相の悪い面が月を見下ろしている。
「ちょっと! 身長これ以上縮んだらどうすんの!」
「あ? 身長? そりゃいまさら一寸(約三センチ)も二寸も関係ねェだろ、でこっぱち」
「関係あるっての!! 一寸変わったら、大分世界は変わるわっ!!」
「……そうか? あんま変わんなくねェか?」
「ぐぬ……この独活の大木め……」
「あァ!? 誰が独活の大木だ、コラ!」
「自分がどこから来たのかも、どこへ向かっているのかもわからず、森の一本道からも逸れるくらい方向感覚が死んでるアンタに決まってんでしょ!!」
「あんだとコラ!!」
腹いせとばかりに軽く体当たりをしつつ、彼の足を踏みつけてやると、少年の眉間の皺がますます濃く、深くなっていく。
環の「ご飯出来たけどー?」という呼び声が厨房の扉の向こうで響くそのときまで続いた少年と少女の口喧嘩は、ふわりと肉が包の中で蒸されるにおいと共に終わりを告げた。