< 参 >
暗い森の中、ところどころ空から降り注ぐ金鏡の光が木々の隙間を縫うようにして差し込んでおり、細く這う道を薄く照らしていた。
獣道と呼ぶには幾分広いという程度のその道は、当然舗装などされているわけもなく、恐らく馬車を走らせたのなら車輪を石車に乗せてしまうことは容易に想像がつくほどに、大小さまざまな石が転がっている。
その道を取り囲むのは、風に煽られ時折ザザ、と音を立てる木々ばかり――といえたら、どんなに良かっただろうか。
(十九、二十……一、二十二、かな? ざっと気配探った感じだと……これ以上は隠れてるやつはいなさそう)
ツ、と視線を横へ横へと流していけば、じりじりと距離を詰めてくる大きな影。はっきりとした人相までは確認できないが、まぁ盗賊というからには人当たりが良さそうな優しげな面は期待しない方がいいだろう。
月は取り出した桃木剣を鞘から抜くと、ヒュ、と宙を斬るかのようにその先端を下へと振り下ろした。全長三尺(約百センチ)、重さ二斤(約一キロ)ほどあるこの刀剣は、邪気を払う効果があり対僵尸用としても優れた効果を発揮するが、実際のところこれを振り回し殴れば、人間もお釣りがくるほど十分痛い。
(でも、これどう考えても私、無関係だよねぇ……)
歩く死体を連れた道中というのは、蜘蛛の子を散らすように、そそくさと人から逃げられることはあっても、近寄られるどころか囲まれるなどという経験は皆無であり、月のような所謂嫁入り前の若い娘が見知らぬ土地を真夜中でも歩くことの出来る理由のすべてがそこにある。
さらに、道士という職業柄、武術全般も会得していることは周知の事実であるため、祖父と共に僵尸隊を率いるようになった十のころから、こうしてひとりで引率をするようになった今日まで、僵尸効果も相まってこういう輩に絡まれるという経験は一度もなかったわけだが――。
「まぁすべてはこの悪人ヅラのせいなんだけど……」
「あァ? んだよ、さっきから恨めしそうに人にガンくれやがって……なんか文句でもあんのかコラ」
「はぁ!? ってか、アンタと出会ってから、夜食は奪われるわ盗賊に囲まれるわで、文句しかないんだけどっ!?」
流石を荒事には慣れっこなのか、特に慌てる様子を見せることなく少年は一角獣の鼻面を撫でながら、「はっ、またそれかよしつけーな」と吐き捨てる。けれど、その声を自分たちへのものだと拾ったらしい盗賊のうちのひとりが、元より荒々しかった感情を一気に燃やした。
「んだと、このクソ豎子ッ! 誰がしつこい顔だコラァ!!」
「あァ!? てめェに、んなこといってねーわクソが!」
「あァん!? やんのかコラ!! こちとら泣く子も黙る大盗賊集団だぞ!!」
「おぅ、益。落ち着け。たかが豎子の戯言だ」
「雲大哥! でもよぉ……!」
「まぁ、お前が怒る気持ちはよくわかる。おぅ、師哥ちゃん。随分調子こいてくれたみてぇじゃねーか」
巨体を左右にゆらゆらと揺らしながら、木々の間から少女たちのいる道へと「益」、「雲」と呼び合うふたりの男が姿を現す。雲の方は、大哥と呼ばれていたので、もしかしたら兄弟なのかもしれない。
どちらもこの隣にいる夜食を奪ったアンチキショーと同じくらいの背丈の大男で、虎髭と長い髭をそれぞれ顎に蓄えており、その人相は夜目ではあるもののお世辞にも穏やかそうな人柄には見えなかった。
その証拠を積み重ねるように、ふたりの熊のように大きな手には大凡一般人には縁のなさそうな矛が握られている。
「ここまで期待通り、悪人がきちんと悪い顔してくれてると、なにかあっても良心の呵責に苛まれる心配がなさそうだし、そういう意味では不幸中の幸い……なのかな」
どのあたりが幸いなのか自分自身よくわからないのだが、そう思い込まないと正直やってられない気分になってしまう。
月が額の上で揺れる前髪を整えながら呟くと、手に巨大な矛を持つ男ふたりが下卑た笑いを髭の中に刻んだ。
「おいおい、そいつァ誤解ってやつだ。俺たちゃ仲間同士助け合いながら暮らしてる善良な市民さまだからなァ」
さっき、泣く子も黙る大盗賊集団だといっていた口はどこへ行ったのだろう。
月は胸中で軽くツッコミを入れながら、少なくともこの益という男のオツムはあまりよくなさそうだな、と結論づけた。
「この師哥ちゃんがな、俺たちの職場がある――僵尸隊の道士サマなんてやってるなら晧莱って都市、わかるだろ? あそこによぉ、夕刻前にふらっとやってきて、こいつは腹が減ったってな、こういうわけよ」
「金はあるってェ話だったがよ、流石に御飯食うにゃ心許ねぇから親切心で金が増える商売を教えてやったんだ」
晧莱は、ここから北に三十里(約十二キロ)ほどの距離にある都市の名だ。
都ほどとはいわないが、この界隈にしてはかなり大きな規模の街で、賭場や妓楼など歓楽街としての一面も強い。
恐らく彼らはそこを牛耳る侠客、を自称しているだけの盗賊団――つまるところただの破落戸、といったところだろうか。
「てか、アンタ……銭、持ってたの?」
「まぁな。廟をおん出るとき、アイツが残してた金品ごっそり持って出てやったからな」
「だったら夜食分、後できっちり銭で支払ってよね」
「あァ? ありゃ詫びとして差し出したもんじゃねーのかよ」
「詫びって……んなわけあっか! アンタが勝手に食べたんでしょ!」
彼の身勝手な主張を蹴り飛ばし、月はちらり、少年の道袍へと視線を向ける。
(絹……じゃ、流石にないか。あ、でも、しっかりと内衣も上衣も綿入れされてるし、北から来たってのは本当っぽいな)
高級品とはいわないが、小奇麗な衣服を見る限り、その道士の廟での暮らしはそれなりに豊かだったように思える。
(まぁ全部、盗賊の盗品をさらに盗んだものだから、豊かもクソもないんだけど)
現金として、一体いくら廟に残っていたのか定かではないが、ごっそり、と宣うからには流石に食事が出来ないほどということはないだろう。
つまるところ、いま周囲を取り囲むこの集団は郊外に根城を持つものの、その実、盗賊とは名ばかりの、よそ者を口八丁手八丁で丸め込み、商売と称し賭場へと案内し――そこで金を巻き上げるという規模の小さいチンピラと考えた方が良さそうだ。
「で、それがなにをどうやったらそんな輩の住居に不法侵入した挙句、食べ物漁るような事態になったわけ……?」
「あ? 賭場に連れて行かれた時点で、こいつらがイカサマ仕掛けて金ふんだくる気でいるのはわかったからな。適当に騙されたフリして負けたあと、あいつらの後つけて、全部奪い返しただけだわ」
月がなんとなく事情を探りつつ話を進めると、案の定の返事が少年から寄せられた。この傍若無人が道袍を着て歩いているような彼のことだから、一方的な被害者だとも思わなかったが、やはり彼自身もまた加害者であることに間違いはなさそうだ。
その証拠に、彼のその言を耳にした雲と益が、まるで雷でも落ちたかのようにがなり立ててくる。
「なにが奪い返すだ、クソ豎子! てめェ、自分のモン取り返すどころか、俺たちのモンまで根こそぎ奪っただろうが!!」
「あァ? 根こそぎってほどじゃねェだろ。金目になりそうもないようなモンは置いてきただろうがよ」
「んなもん俺たちだっていらねェよ!! しかもわざわざ盗んだモンご丁寧に僧院で質に入れやがって……っ! もう俺たちじゃ取り返せねぇじゃねぇか!!」
「アホか。常識的に考えてみろや。あんな大荷物抱えて出歩くわけがねェ!」
「アホはてめェだクソ豎子!! 常識的に考えんなら、まず盗賊の根城なんかに不法侵入なんぞしねぇんだよ!!」
月がいることも、その背後に並ぶ僵尸たちの姿も忘れたかのように、大男ふたりは彼の傍らまで足を運ぶと、眉間に皺を寄せながら絡み始めた。けれど、どうにもこの黒髪の少年の方が上手のようで、気づけば話題の本筋が煙に巻かれて消えている。
(まぁ、ワザとなのか本気なのかは、コイツの性格からして微妙なとこだけど……)
どうやらこの大男ふたりが盗賊団の頭領格らしく、自分たちを取り囲んでいるその他の者たちもその成り行きをただ黙って見守っているため、まるで茶館などで時折見かける話芸師の相声のようだ。
(っていうか、これ……私、ここに留まり続けてる意味、なくない……?)
そもそもこうして取り囲まれることとなったのも、この少年が彼らの住居を荒らしたからである。その発端を考えれば自業自得ともいえるが、どちらにせよ月には全く関係のない話である。
(……この悪人ヅラの故郷が不明なままっていうのは気になるところではあるけど……、まぁなんか仲良く喧嘩し始めてるし、この隙にとっとと帰宅したい……なー)
月がちら、と睫毛の隙間から窺うように不毛ないい争いを繰り広げる面々へと瞳を這わせつつ、手に持つ鐘を一度、チリンと鳴らす。冷たい空気に、涼やかな音が波紋を描くように広がり、夜の森とは思えないほどの喧噪が一瞬で氷点下まで冷え込んだ。
一斉に、周囲にあったすべての視線が少女へと注がれる中、それでも少女はなにも見えない聞こえない気づかないフリをして、雲履を一歩前へと進める。同時に、背後では僵尸たちが足裏を蹴り、棒のような身体を弾ませた。
――が。
「オイコラでこっぱち。なに勝手に逃げようとしてやがる」
少年の脇を通ろうとしたその瞬間、唸るような低い声が頭上から降り落ちてきて、ほぼ同時に月の腕が掴まれる。ちら、と視線を声の降ってきた先へと向ければ、そこには凶悪な角度に持ち上がった唇の奥に八重歯を光らせる少年の姿。
「いや~。だって……冷静に考えてみたら、無関係なのにこの騒動に巻き込まれるのもおかしくないかなーと」
「人を迷子扱いしくさった挙句、勝手に死んだあとの心配までして、故郷探しを手伝うだのなんだのホザいてやがったのは、どこのどいつだったっけなァ?」
「いや迷子扱いじゃなくて、実際迷子だからねアンタ」
なんとか腕の拘束から逃れようとするが、どうにも彼は逃がしてくれる気はないらしい。正直なところをいえば、恐らくこの包囲網から力技で脱出するだけの身体能力はある。伊達に、幼少の頃より祖父から鍛えられていたわけではないのだ。
けれど、さらに本音をいわせていただくならば、如何に死体とはいえ僵尸隊にとって僵尸とは「預かりもの」であり商売道具のひとつである。
無駄な争いに巻き込まれそれを失うようなことがあってはならないし、また制御しているとはいえ、いつ僵尸が暴走するとも限らない。一般人とはなるべく距離を持つべし。というのが僵尸隊を統べる人間の教訓でもある。
もっとも、一般人からしても、僵尸隊と積極的に関わり合いを持ちたいなどとは思わないだろうし、お互いに忌避しあう関係は双方にとって得しかなかったわけだが。
「おいおい、なんだよ。仲間割れか?」
「いや全く仲間じゃないです。ホント、たったいま、成り行きで知り合った関係でしかないので」
「オイコラ。なにが成り行きだこのでこっぱちが。てめェから絡んで来たんだろうが」
「アンタが死体のフリなんかしてるからでしょっ!」
「しとらんわッ!!」
「……というわけで、この人とあなたたちの揉め事は完全に無関係なんで、ここで失礼させて頂きます」
「あ、てめッ!!」
月は目つきの悪い道士の拘束をブン、と大きく腕を振って振り切ると、「それじゃ!」と、ぺこり、盗賊ふたりに頭を下げてそのまま通り過ぎようとした。しかし、たったいま拘束を解いたはずの腕が、再び後ろへと引かれ、少女の身体はその場に縫い止められる。
ちらり、自身の腕へと睫毛の先を落とすと、そこには太く短めな指があり、そのまま上へと視線を這わせていけば虎髭の男の面へと行きついた。初見では、人相があまりよろしくない輩だと思ったものの、よくよく見れば毛虫のような太い眉の下にある目は意外とつぶらで、存外睫毛も長い。
ツ、と視線を流し、その横にいる雲を見遣ると、やはり彼もギョロリと目力こそあるものの、目の形がやや丸く大きいせいだろうか。その印象は思ったよりも可愛らしい。
(ぶっちゃけ、悪人ヅラの方がよっぽど人相悪く見えるなー)
――否。
人相だけでなく、少女の対するその態度もいまのところ彼の方が圧倒的に心象が悪い状態だ。
けれど。
「う、わ……っ!?」
掴まれたその腕を、ひょい、と上へ持ち上げられ、月の足裏が地面を離れた。ゆったりとした黄色の道袍の中で、身体がぷらりぷらりと泳いでいる。
「悪ィが、俺たちの根城を知られた以上、もう無関係とはいえねぇなぁ」
如何に外見が想像していたよりも愛嬌があるもので、オツムの具合も可愛らしいとはいえ、所詮盗賊は盗賊らしい。月はたったいま、甘めに点数をつけた彼らへのその評価を心の中で地面に叩き落とし、足裏でぐりぐりと踏みつけた。
「僵尸隊連れた道士に無体な真似すると、どうなるかわかんないよ?」
「へへ、そりゃあ噂にゃ知ってっけどよ。これでも随分と丁重に扱ってるつもりだぜ?」
「こんな吊るされた状態で、そういわれてもね……」
「そもそもお前ら僵尸隊の道士は、如何なる理由があっても一般の人間に危害を加えるのはご法度って話じゃねーか。それを破るような真似は、しねーんだろ? お偉い道士サマよ」
「保証なんて出来ないよ。拷問とかされて、痛みで、術が解ける可能性もあるわけだし」
傷みや苦痛による集中力の低下から、道術の効果が薄まることは良くある話だ。それでも取り扱っているものが危険な僵尸ということもありいざという時のために、二重、三重に術は重ねがけし対応はしているが、流石に道中に襲われた経験がないため、この先の仕打ちによって起こりうる事態など責任が取れるはずもない。
「へっへ。まぁ、落ち着けよ。なにもお前みたいなちんまい豎子を、寄って集っていたぶったり吊るしたりするほど、俺たちも落ちぶれちゃあいねェ」
「いや実際いま、吊るされてんですけど」
「はっ、つーか盗賊の分際でそれ以上落ちる場所があるとでも思ってんのかよ」
「アンタがいうな、アンタが!! 他人事みたいな顔してっけど、原因アンタだからね!!」
「あァ? 知るかよ。てめェが他人だっつったんだろうが」
「ぐぬ……っ!」
確かに、そうだった。
それにしても、しれっと会話に混ざってきた割に一向に助け船を出そうとはしない少年を恨めしそうに睨めつけていると、目の前の虎髭の奥から、腹立たしそうな感情をそのまま舌へと打ち付けた音が響いた。
「オイ師哥ちゃん。誰が仲良くお喋りしていいっつった? お仲間は、俺たちの手の中にあるんだ。立場、弁えねぇとなぁ?」
「その耳飾りなの!? なに聞いてたの! 仲間じゃないっていってるじゃない!!」
「あぁ、そうかい。仲間じゃねぇっつーなら、尚更だな。無事、帰りてぇんなら、ちょちょいと僧院に行ってきて、質に入れたもんを取り返してきてくれねぇか?」
やり取りの大半を益に任せたままだった雲が、突然口を開いた。
「はぁ? 僧院? 別にことと次第によっちゃ…………って、ん? 僧院??」
言質を取ったとばかりに、突然大男がニヤリと唇の端を持ち上げ笑う。まるで知己にお使いを頼むようなその口振りのせいで、一瞬その言葉を流してしまいそうになるのを慌てて引き戻し脳裏に叩きこむが、その後大量の疑問符の波が押し寄せてきた。
僧院とは、主に修行や勉学のために僧たちが集団生活を共にし、己を高めながら暮らしている場所だが、それ以外にも質屋としての機能がある。元々、歴代の皇帝から幾度となく質屋というものは規制されてきていたらしいが、あるときから利害が一致したのか、僧院でそれを任されるようになったという。
「ってか、アンタ、僧院までよく辿り着けたね。方向音痴が祟っていま迷子のくせに」
「迷子じゃねェっつってんだろ! ……ま、こいつらの根城から丸見えの崖切り崩したとこに建ってたからな」
「あぁ……あの近くなんだ……」
晧莱から西へ十里ほど行ったあたりに、岩肌を晒す小高い丘がある。その崖部を切り崩したところに、そこそこの大きさを誇る僧院があった気がする。
(あんな辺鄙なところ、それこそ修行僧以外、用はなさそうだし……まぁ盗賊の隠れ家としてそこを選ぶのは、わからなくもない、かな)
知りたくもなかった盗賊たちの根城という情報を得た月は、苦笑いに片頬を引き攣らせながら、なるほどと頷いた。
「で、なんでそれを」
自分に?
先ほどこの目つきの悪い少年が勝手に彼らの隠れ家から奪ったものを売り払ったとはいっていたが、その返品を月に頼むというその理由がわからない。
「なんでって……お前の連れの、」
「連れじゃないっ」
「あァ? めんどくせぇなオイ。だから、さっきもそこの師哥ちゃんが、僧院に俺たちの財産勝手に質に流したからつっただろうがよ。俺たちゃここいらではそれなりに顔が売れててな。僧どもの前に顔を出せる状況にねぇっつーわけだ」
「でもそもそも質に流したものなら、返してくださいっていったところで返してもらえるわけじゃないでしょ」
「そりゃあそうだ。だが、道士ってのは、奇怪な道術が使えるってぇ話じゃねぇか」
ニヤリと三日月を模る欲にまみれた唇が、身勝手な願望を紡ぎ出した。月はぷらりぷらりと吊るされたまま、そういうことかと溜息を吐く。呆れから、溜息と共にかく、と項垂れると、ぷる、と側頭部で結った輪が小さく揺れた。
「悪いけど、悪人の片棒を担ぐつもりは微塵もないよ。あと、道術を使っても、あっちも修行している僧なんだし、見破る人、絶対いると思うし」
「おいおい。そこは男らしく、道士の矜持に賭けて、どうにかするって話だろ。まだ十を過ぎたばかりの豎子とはいえ、僵尸隊任されてるくらいなんだ。知らねぇが、それなりの使い手なんだろ?」
「…………はぁ?」
望んでもいないというのに、いっそ小気味よいほどに応酬が続いていた雲との会話が、一拍子遅れた月の声で、終止符を打つ。
(いま)
なんと、いったのだろう。
「あ? んだ? なにか文句あんのか?」
「……え、いや……なんていうか。あれ? 空耳? 聞き間違えた??」
救いを求めるように、少女の視線が雲から益へと流れていくが、その目的地の男もまた、不思議そうにいまこの場では腹の立つほどつぶらな瞳を月へと返してくる。
「……えーっと。もう一度、いってもらえると助かりマス」
「はー。しょうがねぇ……。だから、お前もいくら豎子とはいえ男として生まれたからにゃ相手を負かすぐらいの気持ちでやってこいっつったんだよ」
どうやら聞き間違えではなかったらしい。
月が温度のない表情でそれを受け止め、ツ、と流した先には、雲の言葉になんの疑いも感じず、うん、うん、と頷いている益の姿。
(これは)
もしかして。
もしかせずとも。
ふるふると、月の左手に握られた桃木剣がその切っ先を震わせる。
思い返せば、確かに先ほどから、この輩どもは月へ「豎子」という呼称を使っていた。けれど、この目つきの悪いアンチクショーも同じように呼ばれていたため、特に深くは考えなかった。
彼も、自分も大人かと訊かれれば、是と即答できるには未だ青い部分が目立つから、仕方がないことだと。
(明らかに大人以外は、そういう風に呼んでるんだとばかり……)
そう、思っていた。
けれど。
「なんだか知らねぇが、そいつ女だぞ」
「…………」
「…………」
しばらくの間黙ったままだった少年が、独り言のように呟くと、大男ふたりは、ぱちくりかと瞼を何度か上下させ、そしてお互いの顔を見遣った。そしてその後、ゆっくりと少女へとその視線が伸びてきて、ふわり、浮いている道袍へと縫い止められる。
右手を掴まれ、持ち上げられた月の身体は、その黄色の道袍の中でゆらりゆらりと泳いでいた。いくら食べても上にも横にも大きくなれない体質のようで、ゆったりとした道袍の中で踊る様は、まるで青天を願う紙人形のようだ。
けれど、流石に年頃の娘らしく、胸元は多少、膨らみのような、そんなモノが辛うじて主張をしている――気がする。個人的に。希望的なものを、口にしていいのならば。どうやらそれに気づいたらしい大男ふたりの視線が、俄かに落ち着かない色に染まり始めた。
「いや、でも……女っつったら、あれだろ。もっと……こう……」
「待て、益。ぱっと見ただけで判断するのは、愚者のすることだ」
「なるほどな、大哥。じゃあ、ここは、じっくりとその中身を確かめる必要があるってことだな!」
「そういうことに、なるだろうな!!」
「って、なってたまっかッ!!」
吊るされたままの月の胸元へ手が伸びるその瞬間、少女は左腕を大きく振りかぶり、一気に眼前の男めがけて振り下ろした。
鈍い音と共に、衝撃による痺れが細い腕へと走り抜ける。
ゆっくりと後方へと倒れていく益の指が、ゆっくりと月の腕を手放して、地面へと靴裏が着地の音を小さく響かせた。
「オイコラ。僵尸隊の道士は、一般の人間へ危害を加えるのはご法度っつってなかったか?」
「道士としてならご法度だけど、素手で殴れば合法!」
「いや素手じゃねェし、なんにせよ犯罪だろ」
「アンタがいうな!!」
気づけば隣へとやってきて笑う少年へキッと視線を飛ばしながら、月は怒りに震える周囲へと手に握る武器の切っ先をツ、と向ける。
ぞくり、肌が粟立つようなピリピリとした殺気が肌に染み込む感覚の中、は、と吐き出す息は白い。
ちらり、窺った空は、三ツ星が先ほどよりも西へと流れている。
夜明けまでの時間と、その後の展開を想像し、少女は八つ当たりに近い感情を瞳に宿した。