< 伍 >
かつて世界が陰と陽、天と地の境を曖昧にしていた頃――。
人の死というものは、いまも昔もその定義を変えることなく存在していた。
生命の終わりを迎えた者は、その摂理に従い「魂」と「魄」、絡み合っていたふたつの【気】はすぐに離れ、「魂」はその身体からするりと抜け出る。
けれど、天と地の境がはっきりしていないことが原因か、それとも陰と陽が混ざり合った世の中だからか。今日のようにそのまますぐに天を目指したわけではなかったようで、急に「魄」から放たれた「魂」は、混乱するように、その行き先を迷い、彷徨うことになったという。
天へ昇ることのない「魂」は、やがて「陰」の【気】を取り込み始め、現世へと害をなす幽鬼へと変ずる。「魄」――すなわち僵尸は、失った「魂」を求めるように他者の首筋へと噛みつきそこから「魂」を啜るのに対し、幽鬼は失った「魄」を探し、他者を死に追いやり、それを手に入れようとする。
どちらにせよ生者に害をなす存在であるが故に、僵尸隊という存在が生まれてからは「魂」、「魄」両方の管理を道士が任されるようになった。
「で、『魄』を埋葬して供養した故郷なら、『魂』が迷子にならずに昇天したらしくってね。昔の道士たちは、ああやって『魂』も一緒に故郷に運んだんだって」
いまほど人口が多くなかった昔は、「僵尸隊」と名乗りつつも実際多くても一、二体の死体を連れるような旅であったらしい。そのため、燈籠の中に「魂」を封じ、故郷まで戻し供養をしていたと昔、祖父から聞いた覚えがある。
そのときの燈籠の中は、まるで命そのものが焼べられているかのように、橙色に灯っていたという話だ。
「まぁそのうち、世界の混沌も落ち着いて、いまみたいな天は天に、地は地になってからは、『魄』を離れた『魂』が彷徨うこともなくなっていったって話だから、もう大分古い道術ではあるんだけど……」
「んなカビ生えたような話、なんで羅が引っ張り出してきてンだ」
「さぁ。そこまでは知らない、けど……」
ちら、と睫毛の先を向けて窺えば、雲母の瓶をゆぅらりと揺らす羅の唇の弧が深みを増した。月明りを弾いた瓶の中では、ちろちろと「魂」がその輪郭を幾度も幾度も変化させている。
それはまるで、助けてくれと怯えているようにも見えた。
(まぁ、実際そうなんだろうけど)
死後自我が消える「魄」と違い、「魂」はその人そのものともいえるほど、生前の人格をそのまま残している。勿論、それが幽鬼となり時間が経過すればするほど「陰」の【気】に引っ張られていき、人々が恐れる【妖】そのものになっていくのだが。
ともあれ、彼が持っている瓶の中が、真実「魂」なのだとしたら、それはつまり――。
「少なくとも死ぬ予定になかった人間の、『魂』だけを……抜き取ることが出来るってこと、だよね……」
「……んなこと出来んのかよ」
「普通、は出来ない……けど」
少女の声が、決して寒さが理由ではない震えを孕む。
本来、「魂」と「魄」は絡み合っており、人が生きている限り離そうとしても容易に離れるようなものではない。「陰」と「陽」、「天」と「地」がかつてその境を曖昧にしていたように、人の「魂」と「魄」も同一化といっていいほどに絡み合っているせいで、それを解くことは熟練の僵尸隊の道士においてもきっと不可能だ。
それは、間違いなく「人」としての領域を遥かに超えた能力に他ならない。
人間、一寸先が闇ともいうように、次の瞬間自分がどうなっているかなんて、誰にもわからないことだ。けれど、少なくともあの盗賊たちに関しては、先日会った限りでは病気で死ぬようにはとても思えなかった。
特に目立った外傷などがあるわけでもなく、僵尸特有の硬直も見られない。
彼らは僵尸なのだと現実を突きつけられたいまでさえ、信じられないほどだ。
(でも)
対死人用の呪術が効いたのは紛れもない事実で――。
「不然」
春風が、少女の思考を冬の気配を以て断ち切った。
「少し違いますね」
「……なに、が」
違うというのか。
少女の語尾を待たずに、月下に美しい面を晒す道士は続ける。
「『魂』だけを抜き取る――、ある意味正しいですが、ある意味それは間違いです。確かにこれはあの盗賊たち……、あぁ、こちらは雲の『魂』かな。それには違いない。でも、これは彼らの『魂』のほんの一部分に過ぎません」
「な、にを……」
月の眉が、深く皺を刻む。
「魄」と絡みついているはずの「魂」を切り離すというだけでも、現実味が薄い話だというのに、一部とはどういうことなのか。
「『魂』には、様々な情報があるのです。ざっくりと申し上げれば、記憶を司る分野や自我を司る分野など、でしょうか」
羅が手に持った瓶を再びゆぅらりと揺らすと、その中で炎が怯えたように再びその輪郭を大きく変えた。
「……つまり、それは盗賊たちの『魂』の、ほんの一部分ってこと……? で、残りは……戻した、と」
「うちの弟子と違って、理解が早くて助かりますよ。流石は楊老師の弟子であり、お孫さんといったところでしょうか」
「……比較する相手が相手なだけに、褒められてる気がしないんだけど」
「おや。それは失礼」
呆れたように半眼になる月に、男は目を細めながら、爪までも美しい形をしているその指で口元を覆い笑う。
「おいコラでこっぱち。そりゃどういう意味だオイ」
「どういうもこういうも、まんまその通りの意味だけど? 一本道で迷子になってた方向音痴サン」
「ぐぬ……っ」
ちら、と視線をへと向けると、鼻先に皺を刻み犬歯を見せる少年の姿。ピン、と張り詰めたままだった少女の意識が、自然に緩み、眼前の男のみに絞られていた視界が、ふ、と広まった。
(いやでもまぁ、緊張が緩み過ぎても駄目だけど……)
月は冷たい空気をすぅ、と大きく吸い込むと、いま得た情報を脳内で順番に整理し始める。行き場のないほどの暗闇の中、煮詰まりかけていた思考が、覚めていく。
(あの瓶に入ったものが、アイツのいう通り本当に「魂」だとして……)
そして、その一部を削り取ることで、支配することが出来るのだとしたら。
(アイツらが、完全な死人ではなく、生きたまま死体の性質を持っていることにも説明がつく……)
僵尸はすでに死んだ魄であるために、疲れるという概念がそもそも存在しない。けれど、あの盗賊たちはみな、激しい動きによってゼィゼィと荒い息を繰り返していた。
恐らく彼らの胸へ耳を寄せれば、鼓動さえ聞こえるだろう。
(つまり)
この術は、死体を操っているのではなく、生者を跳屍送尸術で操れるようにするもの、と認識した方がいいかもしれない。
(ってことは……)
月は自身の脳裏に浮かんだひとつの考えに、ごくりと唾を飲み込んだ。羅がなにを求めてここに来ていたのか。反射的に、穴の開いた廟の壁へと、ちらり、視線を向けてしまう。
穴が開けられた倒座房のさらに先は、垂花門があり――その向こうには院子が広がる。そして、さらにその先にあるもの――いる人物たちは――。
「……馮たちも、同じ……なの?」
思えば、皇帝の宮殿が倒壊し、圧死したはずだというのに、彼らの遺体には目立った損傷がなかった。
勿論、突然心臓発作などを起こし、死んだ可能性もあるだろう。
(でも)
二十人もの、文官、武官全員が同時にそんな死に方をする確率なんて、どこぞの方向音痴が百里離れた目的地まで迷うことなく辿り着けることの何倍、奇跡を重ねればいいのか、というくらい低いものだ。
――これ以上死ぬことはない僵尸、を……作って……、集めている、の?
――そこまで情報与えたつもりもなかったんですがね。
――……やっぱり、そうな……の?
――どう思いますか?
先ほどの、羅との会話が脳裏を過る。
彼は確かに、否定しなかった。
この短時間でわかる限り、馬鹿正直になんでもホイホイと答えるような素直な人物とも思えないが、彼の手の中にある瓶が「魂」だと認めた以上、馮の「魂」も同じと見るべきだろう。
「あぁ、馮さんの『魂』ですか……」
月の視線を追うように、羅がスイ、とその瞳を先ほど自身が向かおうとしていた倒座房に開いた穴――その先の北房へと這わせるように流していく。柔らかく微笑むその眼差しは、けれどもいま降り注ぐ金鏡の光のように冷たかった。
「流石にこちらへ持ってくることはしておりませんので、いくら暴れようと『魂』を傷つける可能性はありませんよ」
「まさに傷つけようとしている張本人に、それいわれてもね……」
「傷つけるのではありません。あくまでも……そうですね。例えるなら、分離でしょうか。身体に戻した後の『魂』にも『魄』にも問題はないはずですので、ご安心下さい」
「はっ、てめェのいうことのどこに、安心させる要素があんだクソが」
「……お前は本当に口が悪いね、狼。一体、誰に似たんだか……」
くく、と喉を震わせる羅のその表情は、どこまでも不肖の弟子に対しての苦笑を滲ませた、余裕という言の葉以外相応しい言葉が見当たらないほど軽いものだった。
「まぁ……でも実際問題、馮さんの『魂』を抜いてから約一月ですか……。手元に留めたくとも分割した後に身体へ戻し、再び『魄』と絡み合うかはそろそろカケに近い確率になっているので、安心とはいい難いというのも事実ですね」
結果、嘘を申し上げることになるかもしれません。
そう眉尻を落としながら微笑む彼は、その面だけ見れば、まるで近隣にお使いを頼んでいる程度にしか思えないほどだ。けれど、その実、その三日月を食む唇が紡ぐのはこの夜の闇を幾重にも重ねたような所業。
月が都・陽安に訪れたのは一月ほど前のことだ。あの事故が起こったのは昼間――まだ、太陽が頭上まで辿り着いていない時刻だったが――。
(あの日は……、確か、満月だった)
ちら、と上空を見上げてみれば、そこには冷たい風が走る闇の中にころりと丸い金鏡が転がっている。暦の上でも、今日は月齢十五日――所謂、満月である。
僵尸というものは人間の「魂」が抜け出た後、残された「魄」が地に眠ることなく漂う「陰」の【気】に囚われてしまうことで形成されるといわれている。昼間、空に輝く太陽が「陽」の象徴ならば、夜、空に浮かぶ金鏡は「陰」の象徴。その力は、月齢の数に比例し、増していく。
人がいつ死ぬかは誰にもわからない。
満月の夜でなくとも人は死ぬし、それは誰にも操れない。
だから寿命によって「魂」が抜け出した「魄」から僵尸を作ることは、いつでも可能だ。
けれど。
「もしかして、人工的に作る僵尸は……満月の夜にしか作れない、とか?」
偶然の思いつきから、ぽろりと落としたその呟きに、ずっと唇に弧を刷き、眦に微笑みを溶かしていた羅の面が、周囲の空気の如く瞬時に冷えた。
刹那、ゾク、と震えを伴う怖気が背中を駆け上がる。
一見、文官の優男にしか見えない彼から、息を吐き出すことも出来ないほどの圧を感じ、少女の布鞋がジリ、と半歩後ろへ下がった。
既に引いたはずの汗が一瞬で噴き出し、ツ、とこめかみから頬を伝い、顎先で玉を作る。
「参りましたね……」
春風の声が、冷気を纏う。
耳朶に触れるその声は、どこまでも穏やかなものだというのに、それでもその印象は北の山を思わせるほどに、冷たい。その声を隠すように、瓶を持つ手がその唇を覆った。
「そこまで、踏み込ませるつもりはなかったんですがね……」
押さえる手の奥から発せられた輪郭をくぐもらせたその声が孕んでいたものは、明らかな殺意。
「困りましたよ。本来であれば、特にあなた方に危害を加えることなく、僵尸のみお借りしてお暇しようと思っておりましたのに……」
「はっ、盗賊ども嗾けといて、良く言うぜ」
「彼らは日の出と共に役立たずになる予定だからね。お前たちにしてみれば、大した騒ぎじゃないだろう?」
「いや普通に家の前の道路も壁も、穴開いたんですけど」
「そりゃてめェが開けた穴だろうが」
「そうだけど! でも、この人たちが……、この人があの盗賊たちを嗾けなければ、開くことのなかったはずの穴でしょッ!」
確かにあの時、森で恨みは買っていただろうが、それでもわざわざ報復に来るかといったら、恐らく彼らの性格を考えれば否という他はない。盗賊と名乗ってはいるものの、基本的に日々を小銭稼ぎのために費やしているような小物だ。
今後、晧莱に近づくときに気を付けていれば、遭遇する可能性すら低いだろう。
(それよりも……さっき、アイツがいったのって……)
――彼らは日の出と共に役立たずになる予定だからね。
確かに、彼はそういった。
日の出と共に、役立たずになる予定――と。
もしかしたら、ある意味彼にとっては失言に近いものだったのかもしれない台詞である。
(盗賊たちが本当の僵尸なら、日の出と共に焼けちゃうんだろうけど……)
「陰」に属する僵尸は、「陽」の象徴ともいうべき太陽の光を浴びると、発火し、炭となり消滅する。しかし、彼らは「魂」の一部を奪われ、跳屍送尸術で操られているだけの生者だ。
朝日を浴びたからといって、生きている身体が僵尸のように消滅するとは考えづらい。
(アイツにとって役立たずになる、ってことは……つまり、跳屍送尸術で操れなくなる……ってこと?)
人間の身体には「魂」と「魄」という二種類の【気】があり、それらは絡み合いながらひとつの生命を作りだしている。跳屍送尸術で操れなくなる、ということは、恐らく彼らが元の完全な人間の状態に戻る、ということなのではないだろうか。
(奪われた「魂」の一部は、多分いまも身体と紐づいているだろうし……)
日の出を浴びたら、彼らへかけられた術が解けると踏んで間違いなさそうだ。
ちら、と見上げた金鏡は、ちょうど頭上からその光を降り注いでいる。その位置から察するに、時刻は子時の初刻(午後十一時頃)を過ぎた頃だろうか。
望まぬ来客が訪れてから既に五時間ほど経過している。身体の疲労具合から考えれば、妥当とも思えるし、知らない内にそれほど時が流れていたのか、という驚きもあるというのが正直なところだ。
これほど大騒ぎをしている中で、誰ひとりとして近隣の住民が出てこないのは、恐らく祖父が村の内部へと進んでいく辺りに結界を張ったせいだろう。
(いまの季節、夜明けは……卯時の正刻(午前六時)くらい……?)
季節的に、夜が長いことが心底恨めしい。
「あと六時間……か」
ぽつり、月が呟けば、傍らの青年の視線がふ、と落とされた。
「あ? 六時間?」
「うん。どうやら、それが術の制限っぽい」
ふぅん、と口の中で相槌を打った少年の視線が、少女から空へと向けられる。そこに輝く金鏡の位置に、「なるほどな」と察した彼は口角を凶暴な角度に持ち上げた。
す、と伸ばされた彼の腕の先で、ヒュオッと旋風が起こる。
先ほどからの戦闘で乱れた少女の髪が、ぶわっ、と風を大きく孕み、側頭部に結わかれた輪がふるっと揺れた。月は突如生まれた意思を持つ風に、一瞬目を細め外気に舞う髪を押さえながら狼が手を伸ばした先へと睫毛を向ける。
そこには、いい加減見慣れた真白い方天画戟が骨ばった手に握られ、刺(穂先)が月明りをギラリと弾いていた。
「途中でヘバっても、ちゃんと立派な僵尸にしてあげるから、その辺は心配しないでね」
「なんでてめェだけが生き残る計算だコラ」
「えっ、爷爷ちゃんたちも無事なつもりだったけど!?」
「そこになんで俺だけ入ってねェんだクソが!!」
隣に立つ少年と、いつも通りの言の葉を交わしながら、ジャリ、と音を立て、少女の片足が一歩下がる。
同時にその足元から白い光は発せられ、ばさっ、と道袍の裾が風を孕み翻った。
「愉しいお喋りは終わりかな?」
「愉しかねェわクソが」
先ほどまで自身と交わしていた軽口の応酬とは明らかに異なる、ピリ、とした空気が傍らの少年から発せられると同時に、月下に、少女の影が空へと飛ぶ。
「おや、それは残念」
お前たちの、最期の会話になるかもしれないのに。
相対する春の嵐が、そう嗤った。




