< 肆 >
「覇さんっ!」
月が濛々とする靄の中から一歩、二歩と足を踏み出してきた家人の名を呼ぶと、す、と流れるように彼の視線が向けられた。その面には相変わらず感情の色はなく、月明りの下のその無表情は、彼を知らない人間が目にすれば冷酷と捉えてしまうかもしれない。
けれど、その心の内にある想いをそのまま表す「魄」は既に彼にはなく、その凍り付いた表情は俑故のものである。物心ついたころには傍近くにいたこの死体が、どれほど優しいのかを月はよく知っている。
「月さン」
駆け寄る少女へと、不思議な抑揚がその名を呼んだ。
「老師かラのご指示ハまだあリませンでしたガ、来客でハなク、侵入者と判断シました……問題なかっタですカ」
「うん。大丈夫。ありがと」
問題なかったか、と問いながらも、彼が繰り出した蹴りの威力に、少女は口内でひっそりと笑みを食んだ。なんせ、細身とはいえ長身である大の男がひとり、文字通り吹き飛んだのだ。楊家の用心棒も兼ねている彼が「侵入者」として判断した以上、そこに手加減などというものがあったとは、到底思えない。
「まぁ、そもソも必要なかっタかもしレませン」
月へと落ちていた覇の視線が、ツ、と持ち上げられ、先ほど自身が蹴り飛ばした人物を追うように暗闇を縫う。楊家の前を走る石畳の路は、その先にある水路の橋へと繋がっている。
羅が吹き飛んだ後に、水音など特に上がらなかったことを考えると、恐らく水路前で地面に叩きつけられたのか、それともちょうど橋の上にうまく落ちたのか。そう思っていた月の視界の先に、闇の中から一層濃い影がゆらりと現れた。
冷たい風がカラカラと枯れ葉を運ぶ音と共に、ゆらぁりとまるで陽炎のように暗闇から姿を見せたのは、先ほど確かに覇が蹴り飛ばした羅その人で――。
その長身が金鏡の元へとその輪郭を完全に顕わにすると、そこには相変わらずの美貌の面が三日月を食んでいた。先ほどまでの大暴れのせいで、火照っていた少女の細い身体が、ゾ、と一瞬で外気の温度に囚われた。
「覇さんの蹴りが……効いてないって……」
彼が手荒い歓迎を招かざる侵入者にしたことは、過去何度かあったが、全く損傷が見受けられない、なんてことが、いままであっただろうか。
「はっ、羅のこった、腹になんか仕込んでたんだろ」
「えっ、そうなの?」
その答えの先にあるものを想像し、いいようのない寒気が背を這い上がってくるのを抑え込むように月が唾を飲み込むと、背後から相変わらず人を小馬鹿にしたような声が上がる。
少女が驚きに振り返ると、そこにはいっそ凶悪と呼んでも差し支えがない角度に唇の端を持ち上げた狼の姿があった。白い方天画戟を持て余すようにビュンッ、と宙で回しながら、その名の通り、獣のような鋭い視線を前方の師へと向けている。
「呪術の方はどうだか知らねェがな、体術に関しちゃ、見た通りのモヤシだぞアイツ」
「えっ。道士でモヤシって……あり得るの……?」
「知るか。でもアイツが体術からきしってのは間違いねェわ」
「え!! だ、だって覇さん、昔、楊家に因縁つけてきたチンピラが、振り回した大木蹴り割ったくらいだよ!? その覇さんの蹴りが効いてない人が、モヤシとかありえなくないっ!?」
「だから、腹になんか仕込んでんだろっつったろーが」
なぁ、師傅?
挑発するように、「刺」と呼ばれる戟の刃先が、白皙の男へと向けられる。それを受けた彼は、相も変わらず笑みを浮かべたままの表情で小さな足音を転がしながら、自らの腹部へと手のひらを当てた。
直後、急にそこが空気の密度に似た「なにか」を増していく。
(……っ、これって)
月が、ハッと息を呑み目を見開くと、視界の端で覇の指がピクリと僅かに動いた。ちらりと見上げた傍らの彼の面は相変わらず感情の色は宿っていないが、けれど明らかに空気が変わった。
「……道術、だね……。対僵尸用の、防護壁……?」
「そノようデすね」
「さっきまでは意識してなかったから気づけなかったのも大きいと思うけど、多分あれ、触れて発動する型の術かな」
「御名答。素晴らしい」
パチパチ、と場違いな拍手が周囲に響く。
「跳屍送尸術が使えるとはいっても、私は長年僵尸隊を率いてきたわけでもなく、その手の知識は付け焼刃に過ぎません。なにか手違いがあって、制御が出来なくなったときが困るなぁと思いまして。襲われないために、対僵尸用の結界を自身の身体に巡らせておきました」
先ほど虎が張った結界は空間結界だが、それを応用すればその効果を身体に貼り付けるように固定させることも可能だ。それを僵尸隊を先導する道士がしてしまうと、もしなにか不測の事態が起きたときに自身ではなく一般人へとその牙を向けてしまう為、自身に施すことは滅多にないが。
「ってことは……、やっぱりアイツら、僵尸なんだ……」
「勿論。疑っていたのですか?」
「……悪い人のことを馬鹿正直に信じられるほど、お人よしじゃないの」
「それどころか、食いモンの恨みいつまでもギャーギャー騒ぐようなやつだしな」
「そこ、うっさい!」
後ろからの笑いを多分に含んだ声へと振り向きざまに噛みつくと、ふ、と視界に入ってきた景色に、ぐ、と彼へとその後続くはずだったいつもの舌戦を飲み込んだ。睫毛の先にあったものは、先ほど祖父に蹴り飛ばされた盗賊の兄弟ふたりが、石畳の上に膝をつき、再び起き上がろうとする姿。
けれど、その動きは酷く緩慢で、まるで錆びついた鉄のようにギシギシとぎこちない。どうやら、虎の蹴りで脳を揺らされたのか、彼らに下された「足が捥げようと進め」という命に従いたくても思うように身体がうまく動かせないようだ。
(でも、多分すぐにまた襲い掛かってくる……はず)
彼らの動きを完全に封じるには、やはりもう一度あの大穴に落とし、結界を張る必要があるだろう。先ほど羅によって結界は破られてしまったが、逆をいえば、彼を結界から離しておけばその心配はないのだ。
「覇さん」
「はイ。なんデしょう」
「爷爷ちゃんが結界を張り終えるまで、盗賊お願い出来る?」
一瞬、月が足止めに向かおうかと思ったが、羅には覇の攻撃は届かない。それどころか、もしかしたら彼の身体を纏う結界の種類次第では、触れただけで覇の方が傷つく可能性さえある。
「わカりましタ。月さンは……?」
「私は、こっち受け持つよ」
月が、石畳をタン、と右のつま先で叩くと、再び足の甲がじわりと熱を持つ。ぽぅ、と白い光がそこで生まれ、硬いはずの地面が途端に豆花のように柔らかなもののように思えた。
「【字】……ですか。まぁ、それを持たれる貴女がそれをいうのは、過信とまではいいませんが……」
随分、見縊られたものです。
春風の声を紡いでいた羅の微笑んだ瞳の奥に、月明りよりも冷たい光が宿る。刹那、ぷらりと宙を遊んでいた彼の右手が、左の袖口へと伸び、引き抜かれると同時に符呪が周囲に舞った。
まるで流水のような動きで羅の手が印を刻む。
「……ッ!! 跳んでッ!!」
術式の展開を見取った少女の声が、弾けた。
ほぼ同時に全員の足裏が石畳を跳ね、覇は先ほどの言通り、祖父が対峙する方へと駆け出していく。ふわ、と浮かび上がった上空から先ほどまで立っていた辺りへと視線を下ろせば、羅の放った呪符が発動したらしく、ボンッという音と共に火花が散った。
ぶわっ、と下方から噴き上げてくる衝撃波にも似た爆風に、少女の頬がヒリついた笑いを浮かべる。
「うっわ……、あの一瞬で組み上げたとは思えない道術のエグさ」
「お褒めに預かり光栄ですよ」
どこまでも優しげな声音が、背後で生まれた。
少女はギクリと鳴った背筋に、はっと肩越しに振り返る。すると、そこには自身と同じ高さまで跳び上がっている羅の姿があった。
しまった、と思うよりも早く、羅の手が再び印を編み込んでいき、符呪が月を取り囲む。
「しかし、思い違いをされているようですが……道術に関しては、私の方に一日の長があります」
クルクルと円を描くように回っていた数枚の符呪が、男の指に従って一斉に月へと襲い掛かった。
その、刹那――。
――ブワァアッッ!!
少女の周囲で風が巻き起こる。
「……っ!?」
まるで竜巻に飲み込まれたかのように、辺りを暴風に囲まれたと思った次の瞬間、吹き荒れる風が一瞬で凪ぎ、シュルルルッという甲高い音と共に、なにかが少女の痩躯を包み込んだ。大凡、優しさとは縁がない力で、身動きが取れないほどにぎゅうぎゅうと締め上げるように取り囲むそれは――。
――ボンッ!!
その正体に気づいたと同時に、なにかが弾ける音が大きく響いた。ごく近くで起こっただろうその音に、けれど少女の身体にはなんの損傷もない。
(ってか、待って。いまなんか、色々あったけど待って。そんなことより、私、いま……空中に、)
跳んでいたはずだ。
そこに思いが至った瞬間、ひゅっと胃が浮き上がるような感覚に、月の喉元で「ひぃ」とも「ぎゃあ」ともつかない声が生まれた。
「ちょ、ちょちょちょ……!! 落ちるっ、これ落ちてるぅっ!!」
【翔】を使って宙を蹴ろうにも、いっそ悪意を感じられるほどにぎっちぎちに身体に巻き付くもの――恐らく、白い布によって、うまく力を使うことが出来ない。
「ちょー!! ちょ、待って待って! 落ちる!! 死ぬっ!! 死ぬって、これ!!」
力の限りに喚いてみるか、果たしてこの布の中から声は外に届いているのだろうか。
胃の浮く感覚と、足元の不安定さがなんとも気持ち悪いが、このまま地面に叩きつけられるくらいなら、いっそこの感覚が一生続いた方がマシなのではないかということまで考え始めた少女の身体が、がし、となにかに支えられ、がっちりと固定される。
そして、足裏からそのまま落下していた身体がひょい、とその方向を変え、瞬きをする間に落下する感覚が消え失せた。
(??)
くの字に折りたたまれた身体を無理やり起こし、ミノムシが顔を出すかのようにもぞもぞと身体を捩ってみると、視界が途端に開け、冷たい風が頬を撫ぜる。少女は金鏡の眩しさに、一瞬目を細め――次の瞬間、眼前に現れた風に踊る黒髪に、ビクッと大きく肩を揺らした。
「はっ、散々いってたじゃねェか。死んだらてめェも僵尸になれや」
嘲るように笑い、吐き出す白い息さえも、近い。
ふ、と自身の状況を確認すれば、どうやら彼の【刃】で作られた布によって簀巻きにされ、米俵のように肩に担がれているらしい。
状況を考えれば、まぁ羅の符呪から護られた――ということなのだろう。
「えっ、無理じゃない!? 私の故郷、皙慶だし、僵尸にする必要なくない?」
「いや知るか! つか、そこかよっ!」
「ていうか、自分が死んだらどうやって自分の僵尸作るんだって話になるじゃない!」
「死体が自分の僵尸作る気だったんかよ!」
「だっから、そんなん出来ないし、そもそも前提として無理じゃない? っつってんの!」
「アホか! 前提もクソも、死人はもう動けねェし意思もねェんだよボケ!」
狼の語尾と同時に、彼によって制御された落下は、ズダン、という音で終わりを迎えた。ぎゅうぎゅうと縛り上げるように巻き付いていた布が一瞬巻き起こった小さな風と共に消え、「おらよっ」と少女の痩躯はぺいっ、と地面へと投げ出される。
「うわっぷ! とっと、と、……あっぶないな、もうっ!」
よろけそうになりながらもなんとか堪えるように、月の足がタン、タン、タン、と石畳の上で弾む。その後なんとか体制を整えた少女の睫毛の先で、石畳にひとつの影が這っていた。
ゾク、と寒気が背筋を駆けるままに、面を持ち上げると、いつの間に上らか降りてきたのか羅が周囲に再び呪符を舞わせながら、その唇に弧を描いて立っている。
いま現在、組み立てようと展開している術式はなさそうだが、流水のように流れる印があっという間に構築され、発動することは既に経験済みだ。油断は出来ない。
(っていっても、いまのところ……対僵尸用の結界だけかな)
彼の輪郭を舐めるように貼り付けられている防護壁を確認している月の脳裏に、不意に先ほどの狼との会話が蘇る。
――ていうか、自分が死んだらどうやって自分の僵尸作るんだって話になるじゃない!
――死体が自分の僵尸作る気だったんかよ!
――だっから、そんなん出来ないし、そもそも前提として無理じゃない? っつってんの!
そうだ。
(死なないと)
僵尸は、作れないのだ。
けれど、彼はいまだ生者であるはずのあの盗賊たちを、確かに跳屍送尸術で操っている、といっていた。聞き間違えなどではなく、何度も、そういっていた。
(死んでいない人間を……僵尸に……?)
ふと思い出すのは、数代前に出たという皇族の僵尸の話。
僵尸になった皇族というのは、そもそも不幸が重なり僵尸化したわけではなく、なんでも当時皇子であったというその人は永遠の命とやらを望み、辿り着いた答えが動く死体だった――と聞いたことがある。
死後も自我を持つ僵尸になることが可能ならば、それは永遠の命と等しいのではないか、と。
なにぶん、昔の話であり詳しい当時の状況は伝わってはいない。
(結果的に、その皇子さまとやらは普通の僵尸になって処分されたって話らしいし……)
失敗に終わった以上、机上の空論という他はないだろう。
けれど。
生きている人間を、僵尸に出来るなら。
それを、成功させた人間がいるのなら。
油の切れた鉄製品のように、ぎこちない動きで視線を巡らせれば、僅かに離れたところに虎の術が完成するまでの間、盗賊の兄弟ふたりと対峙する覇の姿があった。
(生きている、僵尸)
――馮さんの遺体がほしいの? 馮さんが、なにかしたの?
――いいえ。別に、彼だけではありません。田さんに程さんも回収しましたよ。
(……死体を、集める……道士)
馮、田、程の三名は、宮殿にあるひとつの建物の倒壊により亡くなっていた。
――無傷で。
(亡くなってた……)
確かに、その三名は亡くなっていた。
その身体――「魄」には既に「魂」が残っていなかった。
(でも)
全体像は、いまだに見えない。
そんなことをして、どうするつもりなのかもわからない。
けれど。
「これ以上死ぬことはない僵尸、を……作って……、集めている、の?」
少女の乾いた唇が、冷たい空気に声を溶かした。
不安と、混沌と、僅かな恐怖の滲むそれに、周囲に符呪を遊ばせる羅は「おや」というように柳眉を軽く持ち上げる。
「そこまで情報与えたつもりもなかったんですがね」
「……やっぱり、そうな……の?」
「どう思いますか?」
羅はそういうと、ふ、と空気を絡めとるように指を宙に躍らせた。すると、彼を取り囲むように浮いていた符呪が一か所に収束し、そのまま彼の手の中に消えていく。
そして、刺繍の施された袖の中に手を差し込むと、そこから手のひらほどの大きさの雲母の瓶を取り出した。月明りを弾くその瓶は、中がぼんやりと橙に染まっており、どうやら灯明のようなものが入っているらしい。
「……んだ、ありゃ」
「さぁ……。火が入った、瓶としか……」
「チッ、使えねーな」
「だってそれ以外どう説明すんのよ、あんなん!」
目を凝らして確認しようにも、どう見てもただの瓶だ。
強いていうならば、その口の栓が木などではなく符呪で封されていることくらいだろうか。道士が意味ありげに持っている以上、呪具のひとつなのだろうが、月は勿論、虎が使っているのも見たことがない。
「つか、よくあんな紙っぺらで蓋してて燃えねェな」
「まぁあの符呪も呪具だからね。まぁ、そういう術をかけているんだと思うけど……。私はそれより、あんな火を持ってあれほどの大立ち回りしてたことの方が怖いよ」
「それこそ、羅のこった。燃えねぇようにしてんだろ。まぁそもそも本物の火かどうかさえ、疑わしいもんだぜ」
「え、そっから?」
そういいつつ、月の意識をくん、と過去の記憶が軽く引っ張る。
「待って……、灯明……?」
「あァ?」
「……いまは……、もう使われなくなったもの、なんだけど……」
それこそ、恐らく件の皇族が生きていた頃の話。
人が死んだときに、その「魂」を一時的に捉え、封じ込めていたことがあったという。
「ま……さか、あの、火は――」
「御名答です」
にっこり笑った男は、春風の如き声音でこう呟いた。
「これは、人の『魂』です」
と――。