< 参 >
道術家、というものに限った話ではないが、何事であっても宗派によって作法や道具に多少の違いがあるのは、当たり前といえば当たり前の話である。
さらにいうならば、同じ宗派といえども個人によって独自の術式や印を作り出すことも珍しい話ではなく、基礎となる手本はあれど、その先の道というものは人の数だけあるといえた。
けれど、そんな中でも僵尸隊を率いる道士が使用する道具は宗派、個人にさほど違いはない。というのも、僵尸隊の道士に必要なものは、僵尸を制するための能力であり、それは全て彼らの弱点に沿って作られるものだからである。
この「墨頭線」と呼ばれる墨を染みこませた黒い糸も、僵尸隊の道士が好んで使う呪具のひとつで、この線を境界に彼らの行動に制限をかけるためのものである。彼らをこの糸で取り囲めば、結界内に封じ込めることが可能であり、自身を取り囲めば、襲われる心配のない防御壁となる優れものだ。
また、糸という容量の面でも使い勝手がよく、月の肩下げの中にも数十メートル分の糸が収められており、野宿ではなくどこかの街で宿をとる際には必ず彼らの周囲にこの糸で結界を張るようにしている。
(……でも、なんで)
この結界が功を奏しているのだろう。
少女が自身が割った大穴の上部を縦横に走る糸へと視線を這わせていくと、そこに貼り付けられている符呪が風を煽り揺れていた。その先には、木の枝――恐らく桃の木枝――が地面の四方に刺されており、そこに墨色の糸が括りつけられている。
簡易で大雑把な術式ではあるものの、僵尸を封じるための結界術のひとつである。
「爷爷ちゃん」
「なんじゃい」
「これ、僵尸用の結界、だよね?」
「無論。ちゅーか、見てわからんか。こんアホ娘。何年道士やっとるんじゃ」
「いや、わかってるよ! わかってるけど……わかってるから……、だから、」
月は傍らにいる虎へと向けていた意識を、再び巨大な亀裂――否。その、中にいるはずの人物たちへと戻した。同時に思い出すのは、つい先ほど交わした祖父との会話。
――操られ……って、まさか、死……。
――んでないわぃ、アホ娘が。死体がフーフーいうかい。
――あぁ……確かに、息してるね。
――なんでも殺すこと前提に話をするなっちゅーに。
そう。
確かにあのとき、互いに「彼らは死んでいない」と確証に至ったはずだ。
自我は完全に失っているように見受けられるものの、「魂」も「魄」もこの世から離れようとはしていない、と。
けれど――。
――跳屍送尸術ですよ。間違いなく、ね。
不意に、春風の如き声音が鼓膜の奥で蘇る。
跳屍送尸術。
いうまでもなく、死体を操るための術であり、この国に数多くいる道士の中でも僵尸隊を家業とする者にしか使うことが許されず、また、そもそも使うことが出来ないといわれる秘術である。
「ふむ。確かに、対僵尸用の結界ですね」
巨大な深淵の向こうにいる美貌の男が、軽くしゃがみ込みながらピン、と指先で墨色の糸を撥ねる。先ほど雲たちが触れたときには火花を散らせた呪具が、なんの効力も発揮せずに、月明りを弾きながら細かく上下に揺れ動いた。
揺さぶられた糸ごと、カサカサと呪符が風を孕む音を立てる。
「自分が、こやつらを操っとるのは跳屍送尸術だといったんじゃろがい」
「えぇ。まぁそうですね」
「ま、それを鵜呑みにするのもどうかとは思ったがの。じゃが、さっきコヤツらにかけられた術の解読しとるときに、跳屍送尸術が浮かんだのも事実。試すだけの価値はあるかと踏んだだけじゃ」
「なるほど……度胸がいい。流石は、長年僵尸隊を率いてこられただけはありますね」
「銭にもならんような世辞を吐くくらいなら、とっととコヤツら連れ帰ってくれんもんかのぅ」
虎はちょいちょい、と指先で穴の中を指し示しながら、ため息混じりに呟いた。けれど眼前の男は、唇に笑みを刷いたまま、外気のように表情の時を止めており、聞く耳を持つ気は更々ないらしい。
「爷爷ちゃん。結局、アイツら……死んじゃってるの?」
「さてのぅ。対僵尸用の結界が作用したっちゅーことは、死体になってると思ってよさそうだが……じゃが、『魂』が離れたわけでなし、死んだっちゅーには、ちと定義がおかしかろうの」
「だよね……あんなにフーフー元気に息してるし、ちゃんと生きてるのに……」
「散々ぶん殴られて蹴り飛ばされて、挙げ句半身埋まって息があがっとる状況を『ちゃんと生きてる』って断言できる判断力がすげェな」
「……僵尸にする前はみんな生前!!」
「僵尸になる、じゃなくて、するって辺りが怖ェわボケ」
「あたっ」
ぺしん、と後頭部を叩かれ、傍らの少年を横目に睨む。けれど、彼の面は少女へと落とされることのないまま、真っすぐに大穴の向こう側へと向けられたままだった。
唇を凶暴な角度に持ち上げてはいるが、その黒い瞳は奥に好戦的な光を宿している。
「まぁ、俺にゃどういう理屈かはさっぱりわからねェが……ともあれこれで、てめェの頼みの綱である盗賊どもは機能しなくなったっつーことだ、な!」
狼が手に持った真白い方天画戟をその場で勢いよく薙ぐと、ビュッ、と鋭い音が空気を切り裂く。同時に起こった風が、刃のように大穴の向こう側の羅へと走っていった。
巨大な力に煽られた男の長い髪が、バサッ、と乱れ、その一束が闇の中へと散っていく。けれど、男の口許から三日月が消えることはなく、むしろたったいまの攻撃にしても避けられなかった、というよりは、避けなかったといった方が恐らく正しい。
それほどの、余裕がまだ彼の周囲に満ちていた。
「久方ぶりに会う師傅に対し、口の利き方もなっていなかったが、血の気が多く、手が早いのも相変わらずか」
「はっ、よくいうぜ。自分で、そう、育てたんだろうが」
「ふむ。まぁそれもそうか……」
羅は自身の過去を巡るように、一瞬視線を宙へと這わせ――、そして納得したのか再び唇へと笑みを宿す。
「しかし私はどうやら教育を間違ったらしい」
「……あァ?」
「あぁ、口の悪さや喧嘩っ早さをいってるんじゃないさ。……ただ、まがりなりにも何年も道士の許で暮らしていたのだから、狼。状況くらい読めなければいけないな」
「なにが、いいてェんだ……」
「なに、こういうことさ」
男はそういうと、先ほど指先で触れ弾いた墨頭線をむんず、となんの躊躇いもなく両手で掴んだ。当然、先ほど同様、僵尸ではない彼には術は発動しないため、火花が散ることはない。
けれど――。
羅が掴んだ糸を力任せに左右へと引っ張ったその瞬間、バチンッ! と大きな音を立て、墨色の糸が千切れた。同時に、糸に貼られていた符呪が突如発火し、一瞬で大きな炎を上げたかと思うと炭となり闇に溶ける。
「……っ!!」
確かに、いかに虎が作ったものとはいえ、即席で術式を編み上げ作り出した大雑把な結界である。それなりの力を持った道士ならば、破ることはさほど難しい話ではないだろう。
いままでの話から察するに、実際に率いていた僵尸はいなかったにせよ、彼が僵尸隊道士としての能力を持っていることは疑いようがない。
「さて……頼みの綱が、なんといったかな」
指の間に絡む千切れた墨頭線を風に遊ばせながら、羅は唇の端を持ち上げた。ビュオッ、という冷たい風に、墨に染まった糸が月の転がる夜空へふわり、消えていく。
同時に、先ほど結界に阻まれ、穴から脱出出来なかった雲と益兄弟が、再び美貌の道士に操作されたのか、感情の色の宿らない面をひょこりと出してきた。
穴の縁にかけられた太い指には、先ほどの火花で傷ついたようで赤い爛れが確認できる。もっともそれ以前に、礼へと向かおうとする彼らに対し、殴る蹴るを繰り返してはいたので、いまさらといえばいまさらの傷ではあるのだが。
見た目には痛々しい火傷に思えるが、先ほど同様彼らの表情にそれを気にする様子は見受けられない。けれど、意識がどうであれ物理的に損傷している指先に力が入らないのか、雲が指の力だけで穴から身体を持ち上げようとした瞬間、ズル、と爛れた部位の皮がめくれ、ガタッ、と巨躯が大きく傾いだ。
「んー」
「んだ、でこっぱち」
「うっさい悪人ヅラ。いや……、いま考えるような話じゃないかもなんだけど……」
「あァ? んだよ、また食いモンの話か?」
「んなわけあっか!! そうじゃなくって!! アイツら跳屍送尸術で操作されてて、僵尸用の結界も効いて損傷も受ける……死んではないけど、僵尸の特性は持ってて……それってどういうことなのかなって」
「…………」
いままで基本的にぽんぽんといい返してきていた狼からの反応がないことに、月はちら、と傍らにいる彼へと睫毛の先を向ける。そこには、なんとも呆れたような感情を瞼に刷く少年の姿があった。
「な、なに……?」
「……んっとにいま考えるような話じゃねェな」
「うっさい! ちょっと思っちゃっただけでしょ!」
「んなもん羅ぶん殴ったあとの話だろうが」
狼の得物の先が、月明りを弾き光る。
「でかい口を叩くのは相変わらずだね。狼」
でも――。
白皙の男は、形のいい唇に深い弧を食ませた。
「それには、まだ一歩及ばないんじゃないかな」
春風の声音が冷たい風に乗った、その瞬間、穴から飛び出しすように出てきた雲と益が、言葉にならない呻き声を上げながら突進を始めた。
(でも)
その標的が自分たちでないことは、もうすでに知っている。
案の定、彼らの足が向かう先は、月たちからは僅かに角度がずれている。
だから。
「行かせるわけ、ないでしょおッ!!」
ダンッ! と月は地面を蹴り、盗賊ふたりへと距離を詰める。同時に背後から少女の僅かに頭上を掠めるように、風の刃が飛んでいった。
「ちょ……ッ!」
ちょっと間違えれば自身の首が飛んでもおかしくないほどのそれは、そのまま盗賊たちの足下の石畳を斬るように割る。ギィン、と鋭い音が冷たい空気に木霊した。
「【雲、益……足が捥げようと、進みなさい】」
多少の損傷はあっただろうに、恐らく、あのふたりに関しては、名を知られることで呪詛の力が増大しているのだろう。羅からかけられたその呪詛により、ふたつの巨躯は転がりながらもその前進をとめることはなかった。
「ユ、月月っ!!」
「礼礼!!」
金鏡の光が造り出した石畳の大きな影が、表門近くで震えていた幼馴染と祖母へ、あと一歩――という、その瞬間。盗賊ふたりの側頭部を、いつの間に追いついたのか虎の脚が吹き飛ばした。
「爷爷ちゃん……ッ!」
「あっほぅ! 道士が術をかけなおしたんじゃ。さっきまでと同じと思うな!」
「わかってる!!」
(もう一回、大穴作る……? でも、いまのアイツらじゃすぐに穴上ってきちゃうし……っ)
最初話に聞いた際は、腕は立つが方向音痴過ぎて道士としての才覚が皆無である狼を用心棒代わりにしているのかと思っていた。けれど、恐らく羅にそのようなものは必要ない。これほどの操り人形が作れるほどの道士ならば、誰かに頼まずとも自分の身くらい護れるに決まっている。
虎が吹き飛ばした盗賊ふたりを、さらに追いやるために宙へと跳んだ少女の視界の端に、先ほど崩れた外壁の内部――倒座房へと足を向ける羅の姿がちらり、映った。
――馮さん、といいましたか……。都で、亡くなった僵尸は。
――ただ、私が馮さんの僵尸を盗む際に、道士の方々がいてはお邪魔なので、盗賊を嗾けようと思ったわけですが……。
蘇るのは、つい先ほど春風の声音が発した、言の葉。
彼は。
(馮さんの、僵尸を……盗むって……)
確かに、そういった。
すぐ傍で荒事が繰り広げられているとは到底思えないほどの優雅な足取りで、一歩、また一歩と羅の布鞋が石畳へと歩を落としていく。さらり、癖のない長い髪を背で遊ばせながら、先ほどの衝撃で、いつまた崩壊を起こしてもおかしくない外壁の中へと均整の取れた長身が入り込もうとした、その直後――。
ズ、ダ……ンッ!!
壁の内側――倒座房から、いままさにそこへ足を踏み入れようとしていた羅の身体が飛び出してきた。その衝撃で、恐らく内部の埃が舞ったのだろう。煙にも思える不透明な靄が、崩れ落ちた壁の辺りで幕を作りだしている。
(そうだった……)
廟には、まだ最後の砦ともいうべき死体がいた。
月の睫毛が、一度、頬の上で羽ばたいた次の瞬間――、薄らいだ煙幕の中から藍色の長衫が現れる。
「ほんっと、頼りになるよね……覇さん」
少女は自身が物心ついた頃にはすでに傍にいた死体へ、頬の位置を高くした。