< 弐 >
話には、聞いていた。
深い事情は知らないが、どんな理由があるにせよ、道士――世の中の理を司る「道」信奉する士でありながら、自らは手を汚すことなく、十になるかならないかという年の豎子に、「盗賊から盗品を奪って来い」と命じる人間の性質がいいわけがない。
(きっと血も涙もないような、人間だって)
話を聞き、そう思い込んでいたからだろうか。
それとも自分よりもふたつも年嵩である少年を幼いころから育てたとなれば、相応の年の人間なのだろう、と。
(勝手に先入観を持っていたってのは、多分にあるんだけど……)
けれど。
にっこりと優しげな笑みを唇に刷くその男は、どう多く見積もっても三十路ほどにしか見えないほど若く――何より、見目麗しかった。
「おや。誰かと思えば……狼。狼じゃないか」
「はっ、よくいうぜ。とっくに気配で気づいてたはずだろ。てめェならな。羅」
「……相変わらず口が悪いね。まがりなりにも、お前を育ててきた師傅だろう?」
先ほど声をかけられたとき同様に、一足早い春の風を思わせる穏やかな口調の――弟子がいうところの羅という名の男と、そんな彼へと噛みつくように言葉を返す少年。
こうして傍で会話を聞いている限り、一体どちらが「悪い人」なのかと疑いたくなるほどには、彼らの外見印象――だけでなく、恐らく対人的な対応も含め――は、真逆である。
「あの人、ほんとにアンタの師傅だったんだ……」
「あァ? 嘘吐く意味がねーだろボケ」
思わず心が落とした呟きに音を乗せると、機嫌が悪そうな視線が頭上から落ちてきた。
「や、アンタの師傅っていうからには、二目と見られないような悪人ヅラなのかと思うじゃない」
「てめェここ片付いたら覚えとけよ、でこっぱち。あとで絶対ェ一回泣かしたる」
「出来るもんならやってみなさいっての」
月は、んべっ、と舌を出すと、隣で眉間の皺を深くする少年の視線をさらりと無視し、先ほど自身で開けた落とし穴の向こう側に立つ人物へと睫毛の先を向ける。
(むしろ、とっととそんな口喧嘩出来るくらいのんきな空気になってほしいくらいだっての)
長い付き合いではない、どころか、出会ったばかりという関係性ではあるものの、狼が保身のために自らの師を悪くいうような人間とは思っていない。それは、彼の人となりを信じているという意味ではなく、粗野でガサツ、短気で悪人ヅラ。口が悪けりゃお世辞にも性格もよろしいとはいえない――という、既に地に伏した評価が彼にある以上、いまさらそんな保身は無駄である、という意味でだが。
(まぁなんにしても、アレが、多分本当のことなんだってのは……わかってる)
こうして距離を隔てて相対していても、羅という男が見た目通りの人物でないことは、その纏う空気が冷たく張り詰めていることからも嫌でもわかる。三日月を食んだその唇が、次の瞬間に呪詛を紡いだとしてもきっと驚かない程度には、彼に対して脳内で警報が鳴り響いていた。
(この人は)
間違いなく、悪い人で、怖い人間に違いない。
かつて、一度だけ見かけたことのある野生下で僵尸化した死体に、背後を取られたときのように、本能的な恐怖が背筋を舐める。先ほどまで大暴れしていたときに流れた汗とは違う冷えたそれが、ツ、とこめかみから頬を伝い、ぽたん、と玉作りながら落下した。
「で、なんでてめェが、こんなとこにいやがんだ」
「それはこっちの台詞だよ、狼。良い子で留守番しているものだとばかり思っていたのに……まさかこんな、出先で会うことになるなんて、ね」
「……出先?」
狼の眉が訝しげに顰められ、語尾が持ち上がると同時に、羅の視線がふわりと横へと流されていく。狼へ向けられていた瞳が、隣の月へ、そしてその後誰もいない宙を滑り――そして、楊家の周囲を巡る壁へと貼り付いた。
そこは、先ほど月の蹴りによってかなりの範囲が崩れ落ちており、壁と一体をなしている南の倒座房が外から丸見えの状態になっている。幸いにも崩れた先が厨房ではなく、食材などを保管しておく倉庫代わりの室だったため、さほど被害が大きいわけではなさそうだ。
羅の視線は、一瞬そこへと貼り付いたものの、その後ス、とやや上へと持ち上げられ、壁――倒座房のさらに向こう、垂花門を越え、院子へと向けられているように思われた。
(……楊家……、に、用……?)
まぁ確かに、この状況で現れたことといい、その後の発言を考えれば、「用がある」というのはまさにその通りだろう。けれど、そこで埋まっている盗賊たちと違い、一度見たら忘れそうにないほどの美貌の男に月は全く見覚えがなく、大華の片田舎で僵尸隊を営むしがない道士の家に、用があるような人物とも思えなかった。
「馮さん、といいましたか……。都で、亡くなった僵尸は」
笑みを含ませた唇が紡ぐ言の葉に、月の睫毛が驚きに上下する。
「……えっ」
確かに馮という名の青年だった僵尸を都で引き取り、預かっている。そして本来ならば、今ごろ彼の故郷へ向けて共に旅立っていたはずだ。
「なんで、」
「……あっ、もしかして昨日の……!!」
馮さんを知っているのか。
そう訊ねようとした少女の声は、後方で上がったそれによって音をなくした。
は、っと肩越しに振り返れば、そこには思った通りやや前のめりになった礼の姿。こちらへと近づこうとするのを、まだなにがあるかわからない為、環が抑えている状態だった。
「えっ!! 礼礼、知り合い!?」
「あ、いや……知り合いってわけじゃないけど。昨日、月月の廟から帰るときに……、会った、人だと思う……」
ちらりと窺うような礼の視線に気づいたのか、壁のさらに向こうへと視線を投げていた羅が小川を流れる水のように再び睫毛の先をこちらへと戻してきた。その瞳は先ほど同様穏やかに微笑んだままで、けれど宿された温度は外気よりもずっと冷たい。
月は知らず、喉をこくりと鳴らした。
「そうですね。昨晩、お会いしましたね」
「なんかされたんか?」
「えっ!? ……い、いや。特に、なにも……」
狼から問われるとは思っていなかったのか、礼が驚いたように声を跳ね上げ否定する。それを聞いた羅はクスクスと笑い声を辺りへと響かせた。
「長く育ててやったというのに、私はよっぽど信用がないのかな」
「本気でんなもんがあると思っとるなら、てめェのそのニヤついた面以上にめでてェ思考回路だとしか思えねぇな」
「参ったね。私はただ、馮さんの僵尸がこちらにあるか、昨夜偶然会ったそちらの少年へと訊ねただけだというのに」
「……はっ、相変わらず息吐くように嘘つきやがんな。てめェは」
黒髪の少年の唇が、凶悪な角度に吊り上がる。
「嘘じゃないさ。そこの少年に訊いてみるといい」
「訊いたのは本当かもしれねェ。けどな、それだけじゃねぇだろ?」
「……へぇ? なにをしたっていうんだい?」
「ばっくれようったって無駄だぜ。礼につけられた目印から、てめェの呪術のにおいがすっからなァ」
はっ、と弾かれたように狼を見遣れば、その表情はカマかけというようなどこかに探る気配を滲ませたものではなく、真実を手にしていると確信を得ているそれ。
(確かに……)
盗賊たちの凶器は、常に礼へと向けられていた。
目の前には明らかに遺恨の相手である月や狼がおり、そしてさらに邪魔をする祖父がいたにも関わらず、だ。
常に、彼らは遠くで祖母に保護されている礼を狙い続けていた。
呪術によって操られた盗賊たちの攻撃対象として、目印をされていたと考えれば、その不可解な行動にも納得がいく。
(でも)
何故、礼がそんな呪術をかけられているのか。
胸の内側で徐々に大きくなっていく心臓の音を鎮めるように、月の喉が再び上下する。けれど口内は、先ほどの戦闘と徐々に明らかになっていく事実からの緊張でカラカラに乾いており、ピリっとした痛みを喉の奥に走らせただけだった。
「全く……名は体を表すとはよくいったものだよ。随分鼻がきくじゃないか、狼。いつ、気づいた?」
「最初っから、妙に知った気配が近くにあんなぁとは思っちゃいたが……決定打は、てめェがこうして面見せたからだよ。羅」
「なるほどね……。まぁいまさら隠す意味もないし、師傅として、そこは正解とだけいっておくよ」
あっさりと肯定した羅の表情は、先ほど同様に穏やかなままだ。先ほど、何十人もの凶器が一身に集められていた礼のことなど、最初から眼中にないのだろう。
彼の瞳の奥に滲む冷たく尖った感情に、それを嗅ぎ取っていた自身の勘が正しかったことに、月はぐ、と奥歯を噛み締めた。
「……なん、で……、礼礼に……そんなことをしたの……」
因縁がある自分たちならばともかくとして、何故なんの咎もないはずの礼を盗賊たちに狙わせたのか。
少女が眉を顰めたまま、誰に問うわけでもなくぽつり呟けば、その音を拾った美貌の男が三日月の角度を深くした。
「それは、さっきもいった通り……楊家に、馮さんの僵尸があるから、ですね」
「……それと、彼に、なんの関係が……?」
「直接的には、なにも? ただ、私が馮さんの僵尸を盗む際に、道士の方々がいてはお邪魔なので、盗賊を嗾けようと思ったわけですが……こちらに狼が厄介になっていたことがわかったのでね」
なるほど。荒くれ者の盗賊相手に平気でやりあっていたことを知る師傅ならば、ただ盗賊を嗾けただけでは時間稼ぎにもならないことはわかっていたのだろう。
(だから)
昨夜、偶然出会ったらしい、礼を狙わせることで、こちらの手間を増やし自身の目的を達しやすくしたのだろう。
「……なんで、そこまでして、馮さんの遺体がほしいの? 馮さんが、なにかしたの?」
「いいえ。別に、彼だけではありません。田さんに程さんも回収しましたよ」
「田さんに、程さんって……」
宮殿内の事故による犠牲者で、たまたま都・陽安の近隣出身だったために帰郷がてら月が届けた僵尸の生前の名だ。
「全く……あのとき騒ぎにさえならなければ、わざわざここまで出向くような面倒な話にもなっていなかったんですけどね」
はぁ、とため息を吐きながら独り言のように愚痴を口にする羅に、月は眉間の皺の数を増やしながらその言の葉を再度脳裏に巡らせる。
(馮さん、田さんに程さん……。みんな、あの時宮殿の倒壊によって、亡くなった人たちだ……)
馮と田は文官だったが、年の頃はやや離れており、二十代前半の馮に対し、田は四十過ぎの男だった。
程は武官だったが、確か馮と同年代だったはずだ。
(生まれ故郷も年齢も、職種さえも……バラバラの三人だけど……、共通点は、あの時、宮殿で亡くなったこと)
一介の僵尸隊道士である自身が触れてはいけないことだと、特に詮索もしなかったあの事故だが、もしかしたら想像もしていないようなきな臭いなにかが隠されているのではないだろうか。
馮、田、程だけでなく、あの場で亡くなった二十名ほどの人間全てが、その回収の対象なのだとしたら――。
「たくさんの、僵尸を集めているってこと……?」
「……おや。お喋りが過ぎましたかね」
羅は口許に笑みを食んだまま、スゥと瞳の温度を低くする。
刹那――、ゾク、と悪寒が背筋に走り、周囲の温度が氷点下まで落ち込んだ錯覚に襲われた。
手に刃物を握った荒くれ者である盗賊たちからのそれよりも、純度の高い――まるで、冬の夜空のような殺気だった。
ビュオ、と風が石畳の上を走り、男の背を流れていた癖のない髪をふわりと乱す。月明りの下で、男の美貌が一層鋭利に尖っていった。
「さて……、そろそろ回収させて頂きましょうか」
「はっ、この状況でやれると思っとんのか」
「狼。私は、やれないと思っていることは口にはしない主義だと教えていたはずだよ」
ふわ、とまるで鳥が翼を広げたように、背で髪を遊ばせていた男の両手が軽く持ち上がる。優雅、という他はないほど、洗練されたその両の腕が、次の瞬間胸の前で組まれ、いくつかの印を指が結び始めた。
「【雲、益、上がって来なさい】」
道術の展開と共に、羅の唇が発動の呪詛を吐き出す。
すると、月が開けた大穴の中で身動き取れずに埋まっていた巨躯ふたつが、まるで制限が外れたかのように、呻き声を上げながら土砂の中で暴れ出した。
先ほどまではピクリとも動けなかったはずのふたりの身体が、徐々に土の束縛から逃れ、穴の壁面へと指を突き立て昇り始める。その他の人間に効果がないということは、恐らく名によって支配をする呪術なのだろう。
(え、ってか……そういえば、さっき……)
――跳屍送尸術ですよ。間違いなく、ね。
そう、彼はいっていた。
けれど、こうして壁を登ろうとするふたりは確かにまだ生きている。
まだ「魂」が、体内に留まっている状態だというのに何故、死体を動かすための跳屍送尸術が有効なのか。
(わからない)
わからない。
何故、馮が狙われているのか。
何故、馮を狙っているのが、狼の師匠なのか。
わからない。
わからないことで、手の中すべてが埋まりそうだ。
(でも)
雲と益、ふたりの太い指が穴から這い上がり、出て来ようとしたその、瞬間――。
バチィッッ!!
穴と石畳のその境界で、火花が走った。
その衝撃で、盗賊の兄弟ふたりの身体が一瞬のうちに再び深淵へと消えていく。
「……結界、ですか」
「グダグダとご高説宣っておったからのぅ」
男が現れて以降、対応を狼と月に任せっきりにしていたはずの虎が、小首を軽く傾げながら羅を見遣った。コキッ、と小気味よい音を立てながら、老人の指が軽く宙を弾く。
ピィ……ィィン……
虎によって穴の入り口で術を結んだ糸が、金鏡の光を弾き揺れていた。