< 壱 >
最初にあったものは、ただ――衝撃だった。
金鏡の輝く上空から、勢いをつけて振り落とした蹴りが地面へと落とされたその瞬間、なんの抵抗もなく、まるで砂の城が瓦解するように呆気なく、石畳に亀裂が入った。
少女の左足触れたその一点から、水面に波紋が広がるように地面が割れる。
「ぅわ、……ぶっ!!」
ブワッ、と、足元から一気に吹き返す衝撃波により、黄色の道袍がその裾へとバサッ、と風を孕ませ、月の痩躯が冷たい空に浮き上がった。同時に、見下ろした先で雷鳴にも似た大きな音が生まれ、ひび割れた石畳が一瞬で崩れ落ちるかのように陥没していく。
五間(約十メートル)ほどあった道幅に、突如生まれた闇の如き黒い深淵。衝撃がそのまま伝わったのだろう。元石畳の路であったその場所に接していた楊家の外壁が、それより先に足場を失い落下していた数十人の盗賊たちを埋めるように流れ込んだ。
「は、はは……っ、ホントに、割れた……」
緊張で喉元に貼り付いていた声音が、冷えた宙に白い靄と共にふわりと溶ける。
けれど、ぎこちない笑みを刷いていた頬が、現在の自身の状況にふ、とそのまま固まった。
(え、どうすんの……これ)
――そんときゃ儂が落ちる前に助けるわい。
そう、祖父はいってくれていたが。
正直、半信半疑ではあったものの、当初は地面に穴を開けられたにしろそのまま一緒に穴へと落ちるかと思っていた。その前に、祖父が手を差し伸べるのだと、そう思っていた。
しかし、まるで星が落下したのではないかと思えるほどの冗談のような威力によって、月の小さな身体はぽぉんとその衝撃波で空に投げ出されてしまっている。遥か下にある路へと睫毛の先を落とせば、恐らく驚いた表情をこちらへと向けていると思しき祖父の小さな姿。
(えー!! ちょ、ちょっと!! これどうすんの…………って、あ。待てよ?)
一瞬、沸きそうになった思考へと、冷たい風が走った。
(さっき、私「宙」を蹴った、気がする……!)
何故、そんなことをしたのかはわからない。
何故、そんなことが出来ると思ったのかもわからない。
(でも)
何故か、出来る――と、そう思った。
「よ、っと」
月は不安定に浮かび上がった身体の軸を、中心へと持ってくる。両膝を抱きかかえ、胎児のように丸まると腹筋に力を込めた。
くるり、とその場で一度回転すると、視界の端に発光する【翔】の文字が入ってくる。先ほどまで、十六年間付き合ってきたなんの変哲もない身体の一部であったというのに、こうして意識を向ければ、疼くような熱を放っているのがわかる。
(大丈夫、蹴れる。宙を、蹴るんだ)
脳裏にその状況を想像に描きながら、少女は落下を始めた身体を再び起こすと、冷たい空気を軽く足裏で弾いた。
――刹那。
「ぅ、わぁぁああぁあああ……ッ!?」
たった一度の軽い蹴りにより、ギュン、と一気に落下の速度を速めた痩躯が、真っ逆さまに顔面から落ちていく。自身が流れ星になったような錯覚さえ感じてしまうが、残念ながら生身の人間である。
「ちょぉおおおッ!! じ、じじじじ爷爷ちゃんッ!!」
助けてくれるといっていた祖父を叫ぶように呼べば、驚きにぎょ、っと目を剥く面が飛び込んできた。
「こん……アホ娘ッ!! なにやっとんじゃ――ッ!!」
地上からギャアギャアと喚く祖父の姿が、一瞬のうちに倍、さらに倍へとなっていく。恐怖からかそれとも、無重力によって胃の辺りがずっと浮かび上がっているせいか、全身が妙にそわそわと落ち着かない。
(ってうちに、ちょ……もうこれ、)
落ちる――!!
目前に迫った地面に、月がギュ、っと目を閉じその衝撃に備えた、その、瞬間――。
「……クソが」
唸るような低い声と共に、バサッ、と布が風を孕む音が鼓膜を叩く。
それと同時に、地面へと叩きつけられるはずだった少女の痩躯をふわりと柔らかいものが包み込んだ。さら、と頬へと触れるそれは、極上の絹を思わせるような肌触りで、空からのその威力ごと抱きしめてくる。
「……ふぁぁああぁぁあ!! 死ぬかと思ったぁぁあああ!!」
まるで鳥の羽が地上へと落ちたかのように、知らぬ間に身体を包むそれごと地面へと転がっていた身体を起こし、月はため息というには喧しすぎる声を上げた。全身を包んでいた浮遊感はすでに去っていたが、先ほど喉のすぐそこまで込み上げていた恐怖がいまだ胃の腑で蜷局を巻いている気がする。
ふ、と自身の膝を見遣れば、カタカタと笑う姿か視界に映った。
「月! こんアホ娘がッ!!」
「爷爷ちゃん……、って、あだっ!」
少女がぺたりと座る傍まで小走りで駆け寄ってきた虎は、その無事を確かめると容赦ない拳をガツン、と彼女の脳天へと落とす。持ち上げていた面が強制的に下を向いた。ジィィ……ン、とヒリつくような痛みが分け目で響く。
「だって!! まさかこんな速度出るだなんて思わなかったんだもん……! ってか、爷爷ちゃんだって、助けてくれるっていったくせにさぁ……!」
「アホーゥ。あんな速度で落ちてくるもん、受け止められっかい! 一緒にお陀仏すんのが目に見えとるっちゅーんじゃ!」
「ぐぬ……っ!」
祖父から鉄槌を食らった箇所を摩りながら、少女が再び顔を持ち上げると、す、と黒い影が落ちてきた。月が睫毛をそちらへと向ければ、そこにいたのは夜空の色よりも黒い髪を持つ少年。
思えば、いま自分を包んでいるこの布の色は白。
近づいてくる彼の手に、先ほどまであったはずの方天画戟がないことを考えるに、まぁそういうことなのだろう。
「……えー、あー、大変お手数を、おかけいたしまして……?」
「わかっとんのなら、とっとと布返せや、でこっぱち」
「……ぐっ!!」
常ならば「でこっぱちっていうなっつってんでしょ!」とでもいい返すところだが、流石に命を救われたことは事実なので、唇の先を尖らせるだけに留め、月はよいしょ、と立ち上がった。思いの外大きかったらしいその布は、小柄な少女をまるで外套のように包めるほどの大きさで、先日彼が首に巻いていたものとは明らかに形や長さが異なるように思える。
(つまり……まぁ、そういうことなんだろうね……)
ちら、と睫毛を向けて窺えば、相変わらず眉間に皺が寄せられた悪人ヅラが「んだ、コラ」と毒づいてきた。つくづく、顔と口調で損をする部類である。
素直に礼を述べたい気持ちと。
そもそもなんでこんな悪人ヅラに睨まれなければならないのか、という気持ちと。
ふたつが混ぜこぜになり、結果、少女は「どーも!」とシュルシュル、衣擦れの音を立てながら、やや乱暴に腕の中で丸め少年へと手渡した。
その様子に、少年が軽く犬歯を見せる。
「てめ……、オイコラ丸めんな!」
けれど、彼の手にその白い布が触れた瞬間、ぶわっ、と風が舞い、瞬時に真白い武器へと姿を変じた。戟を握る彼の手の甲に刻まれた【刃】の文字は、一瞬その光を増した後、月光にも似た光を淡く放つ。
ちら、と睫毛の先を足元へと向ければ、褲に半分隠れているものの、同じように光る【翔】の文字。冷たい空気に晒された足元は、それでも文字が熱を持ったように火照っていた。
「さて……と。なんか色々訊きたいこともあるけど……。とりあえず、あいつらどうにかした方がいいよね。いつまた這いあがってくるか、わっかんないし」
「ちょうどいい塩梅で壁が崩れたせいで、生き埋めみたいになっとるし、そうそう出ては来れんと思うがの」
「くくっ、つーか想像以上の足癖の悪さだな、オイ。どんだけの穴だ、ありゃあ」
「アンタがやれっつったんでしょーが!!」
月が眉尻を持ち上げ噛みつくように睨み付けると、そこには存外楽しそうな表情の少年の姿。森で益と名乗るあの男を伸したときもそうだったが、どうやら彼は自身のことのみならず、荒事全般を愉しむ傾向があるらしい。
思えば、祖父の養子になった面々の大半がそういう気質だった。ある意味、祖父好みの性格であるといってもいいかもしれない。僵尸隊の道士を家業にしていることもあり、出来ることなら多少そちら方面への耐性があった方がお互いのためという意味もあるだろう。
(だとしたら、)
今後、家族として、うまくやっていけないこともないかもしれない。
「……まぁ普通に腹立つし、ムカつくし、夜食を奪われた件は許してないけど」
「あ? なにぶつくさいってやがる」
「いいえー? お褒めに預かった悪い足癖とやらで、蹴り倒してやりたいムカつく悪人ヅラがあるなぁって思っただけー」
「……てめェなぁ……」
月は、べーっと舌を出しながら、一足先に落とし穴へと向かった祖父の背を追う。通り過ぎざまに見かけた狼の鼻が不機嫌そうに軽く皺を刻んだのへ、唇の端を持ち上げた。
「爷爷ちゃーん、どう?」
「見ての通りじゃ。見事に全員埋まっとるわ」
「……こいつらの故郷探すの、大変そう……」
「アッホゥ。よく見ィ。まだ生きとるわ」
「だからてめェはすぐ人を殺すのどうにかしろっての」
ぺし、と後頭部を軽く叩かれ、肩越しに振り返ると狼が半眼を向けて立っている。どうやらすぐに自身の後を追ってきていたらしい。
「ちゃんと最期まで責任感があるっていってほしいんだけど」
「『さいご』の字、明らかに間違っとるわアホ」
「えぇっ! 死後って意味だよ!」
「だからだわッ!!」
「おい、遊んどるなら邪魔じゃ。あっちいっとれ」
盗賊連中にかけられている術の解析を始めていたらしい虎の一言に、月と狼は、互いの視線をしばらく交えた後に、冷えた空気のみを間に残した。そして、ふたり同時に落とし穴を覗き込むように僅かに身を乗り出す。
落とし穴は、想像していたよりも大分深く、金鏡の光が辛うじて当たった先に、ようやく蠢く影がいくつか見えた。
どうやら頭から壁やらがなだれ込んだものの、術者によってかけられた「起き上がり、対象者を攻撃をしろ」という命を守るために、頭上の土砂類を跳ね除けていたらしい。けれど、結果として身体の大半がそれらで埋まってしまい、物理的に見動きが取れなくなったようだ。
「どう? 解呪できそう?」
「どうじゃろうなぁ。『魂』が抜け出とるわけではないようだし、生きとる以上、跳屍送尸術じゃなく、それに近いなにかじゃとは思うが――」
「――不然」
虎が顎へと拳を当てながら、眉を顰めたその瞬間、春風を思わせる穏やかな声が闇からかけられた。刹那、月と狼、そして虎の視線が声が発した方向へと鋭く走る。
小さく、足音が石畳に転がる音が響いた。
「誰じゃ」
虎が短く問うた瞬間、金鏡の光の届く世界に、闇の中からひとりの男が現れる。
年の頃、二十代後半ほどだろうか。
都でもこれほど目鼻立ちが整った者はそう見かけないと断言できるほど、美麗な男だった。肩口から零れ落ちた癖のない髪が背中で夜風を孕み、月明りの中、袖口にされた細かな刺繍がキラキラ光りを弾いている。
一歩、さらに靴の先を踏み出した男の足取りは、ただただ優雅の一言。す、と身体の前で重ねられた手の動きさえも、洗練されたものだった。
いっそ、幻想的ともいえるほどの光景に、思わず月が睫毛を一度上下させていると、頭上から僅かに息を呑む音が落ちてくるのを耳朶が拾う。
「跳屍送尸術ですよ。間違いなく、ね」
「……誰じゃ、と訊いたはずじゃが?」
拱手の姿勢のまま、三日月を食んだ男の唇が、先ほどの祖父の言を否定した。虎は眉間の皺をさらに深くしながら、喉の奥で低い声を鳴らす。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは、」
「羅」
男の言の葉へとかぶせるように、月の隣から嘲るような声が響く。見上げた先にいる少年は、その唇を凶暴な角度へと吊り上げ歯を見せていた。
「……えっ、あ、アンタ、知り合い??」
少女の問いへと、少年の黒い瞳がちらりと落とされた。
「……そーだな。てめェがいうとこの、『悪い人』ってやつだ」
――つまり、悪い人?
――まだ十歳程度の子供だったアンタに、そういうことやらせてたんでしょ。悪い人じゃない。
先日、森でなされた会話が、耳朶の奥で蘇る。
「――なぁ、師傅?」