< 肆 >
ヒョオ、と石畳に、冷たい風が走る。
村のどこかで猫がニャーオと高く鳴き、この騒動に気づいたらしい野犬が、遠吠えを満天の星空に転がる金鏡へと掲げた。
(もう、何度目だろ……)
数えることが嫌になるほど、凶暴な風で殴られ、戟や祖父の拳、自身の脚によって吹き飛ばされたというのに、ならず者の面々はまるで痛みを感じない僵尸のように、その都度、ゆらりと身体を起こし立ち上がった。
痛みを感じるような動作は一切見られず、それどころか表情は、先ほど同様に焦りも怒りもない無がただ貼り付けられている。
月はいい加減荒くなってきた息を冷たい空気に溶かすと、ちらりと背後を伺う。そこには固唾を飲んで状況を見守る環と礼の姿があった。隙を縫うようにして襲い掛かる影を、一体、また一体と白い戟が沈めていく。
「ちッ!! んっとにしつけェッ!!」
軽く十間(約二十メートル)ほど吹き飛ばされ、硬い石畳に落とされた巨躯は、損傷など感じていないかのように即座に再び起き上がった。
彼らの攻撃は至って単純で、真っすぐに得物を振り下ろしてくるか、はたまた両手を前に押し倒すかのように襲い掛かってくるかのどちらかだ。恐らく意識を奪われる前は、それなりに武術の心得がある面々もいただろうに、いまは知性のない獣のようだった。
故に、少女たちが負けるということはあり得ないが、けれどこう何度も何度も挑まれれば体力は徐々に尽きていく。僵尸ならば、額に符呪を貼るなり、その他にも行動を封じるための術はいくつかあるが、けれど、彼らはいまだ生者でありその「魂」は天には昇ってはいない。
僵尸の如く不死身さを兼ね備えているというのに、御する術もない存在など、正直お手上げという他はない。
(そんでもって、もっとメンドクサイのが……)
ス、と風のように月の脇を通り過ぎる影が、二体。
「あ、ごめっ! ふたり、そっちいった!」
「……ちッ! テメちったぁ足止めしとけってんだ、でこっぱちッ!!」
「っ、しょうがないでしょ!! こっち何人相手にしてると思ってんの!!」
少女の傍をさらにもうひとり、通り過ぎようとするのへと、月は重心を一気に落とし足を地面へと滑らせる。同時に、大きな音を立てながら石畳の上を巨躯がごろりと転がった。
どういう理由かは知らないが、彼らは執拗なまでに幼馴染の少年を狙って襲い掛かってくる。最初は一番隙があるからかとも思っていたが、祖母の元まで後退した彼をなおも襲い続けるには理由が弱すぎる。
なによりあの時、森に礼の姿は当然なく、無関係な人間を狙い続けるという盗賊たちの行動がよくわからない。
「んっとにキリねェな、クソが……ッ!」
トン、と少女の背に、狼の背が重なり合う。はっ、と視線を周囲へと流すと、前線がかなり押され、後退してきている。単純な「強さ」という問題ならば負けはしないが、圧倒的な数の差と、体力的な問題は時間の経過と共に如実に戦況に現れてくる。
どれだけ時間が経ったのか、と、ちらりと見上げた空の金鏡は、出かけるときのそれよりも高い位置でその光を差していた。
は、と荒く息を吐いた少年の眼前に、白い靄が生まれ一瞬で霧散する。
「さぁて、どうしたもんかの」
一番多くの盗賊どもを相手にしていた祖父もまたいったんその場から離れたようで、気づけば少女の傍らまでその身体を戻していた。
「爷爷ちゃん」
「儂らである程度仕置きしたら、巡補(警察)呼んでこいっちゅーつもりだったんだがのぅ」
「あ、私もそれ思ってた! 礼礼にでも呼んできてもらおうかなって……」
僵尸隊の道士をやっているので、道術や体術には心得があり荒事にも慣れっことはいえ、基本的に乱暴狼藉をしでかした人間の対応は巡補のお仕事だ。彼らも最初はただの盗賊だと思っていたので、ほどほどのところで巡補に引き渡すつもりだったが、どうやら何者かに操られているとなれば話は別だ。
道士が対処に苦しむものを、素人がどうこう出来るわけもない。巡補にできることがあるとするなら、彼らが物理的に行動出来ないように四肢欠損にするくらいではないだろうか。
「ま、流石にそりゃ最終手段ってやつだがのぅ」
「まぁね……流石にそこまでやるくらいなら、もう僵尸にしちゃった方が人道的じゃない?」
「てめェの倫理観、どうなっとんだ」
「えぇっ、アンタ四肢欠損にされる方がよかったの!?」
「なんで俺が四肢欠損にされる話になっとんだッ!」
「してないでしょ! 死んだら、ちゃんと僵尸に」
「すんなっつってんだろッ!!」
「だってそっちなら道士のいうこと聞くし……?」
「例え僵尸になっても、俺ァてめェのいうことなんざ、絶対聞かねェかんな……」
こいつ……、と月は石畳に落ちる金鏡の光よりも冷たい視線を肩越しに一瞬送り、そして眉間の皺をそのままに祖父へと睫毛の先を向けた。
「爷爷ちゃん、どうにかする方法ないの? あいつら一網打尽に出来るような、なんかすっごい道術とか」
「アホゥ。僵尸ならともかく、生きとる人間支配するなんぞ専門外じゃ。全員一か所で大人しくしとるならともかく、バラバラに暴れられたら入る術も入らんわ」
「全員一か所で大人しく……ねぇ。落とし穴にでも作っときゃ良かったかなー」
廟の前の路地にそんなものを掘ったら、その後の生活が大変そうではあるが、今後も彼らの報復が続くのならば罠を張るくらいしておいた方がいいかもしれない。
「……落とし、穴……」
少女が現実逃避に走りかけたその瞬間、ぽつりと背後で声が落とされた。
「? なんか、いった?」
「あ? てめェにゃなんもいってねェわ。おい、老夫」
「なんじゃ豎子」
「落とし穴を掘ったら、どうにかなんのか」
背中合わせだった狼が、身体の向きを変え月たちと同じ方向へとその黒い瞳を向ける。眼前には、三十人超の盗賊の集団。大半が伸され地べたを舐めているものの、ひとり、ふたりと起き上がり始める姿が見えた。
(でも……、一応動きは鈍くなってる、のかな……)
幸いというべきか、どうやら損傷は気にする素振りはないものの、身体が負ったそれはそのまま彼らの機能に影響は及ぼしているらしい。恐らく操られているから、何度でも立ち上がろうとはするが、それを円滑に行うためには健康な器が必須というわけだ。
「確証はないがの。全員同じ深い落とし穴にでも落ちてくれたら、上から解呪でも試してみるか、くらいなもんじゃ。いまんとこはの」
「いまのクソみてェな現状からすりゃ、そんだけで十分やる価値あんな」
「え、なに。アンタ、もしかしてその風で落とし穴とか作れるの??」
「あァ? 作れるわけねェだろボケ」
狼は元より人相の悪い顔にさらに不機嫌そうな感情を貼り付け、少女の脇を通り過ぎる。どうするつもりかとその動向を見守っていると、す、っと彼の姿が視界より消えた。
睫毛を一度羽ばたかせ、下を見れば、月の足元に蹲るような狼の姿。
「?」
なにをするつもりなのか、と黙って見ていると、道袍の下に履く褲の裾を突然ぺろり、と捲られた。
「え……って、うぎゃあぁっ!?」
「月月!?」
突然悲鳴を上げたことで、後方から礼の心配げな声がかけられるが、いまはそれに返事をする余裕が少女にはなかった。
「るせェ。鳥かてめェは」
「っ、い、い、いきなりそんなことされたら、吃驚するに決まってんでしょ!! なんなの、なにすんの、この変態!!」
「誰が変態だ、そんな台詞はそのでこっぱちどうにかしてからいえってんだ。……っつか、ねーな?」
「ってか、でこっぱちっていうなっつってんでしょ!! なにっ、なにがないっての!? 色気!?」
「バァカ。んなもん最初っからねェから安心しろ」
「ぐぬ……っ!! じゃあなにがないっての!?」
「【字】」
「……しる、し??」
少年はちら、と視線を持ち上げると、顔と同じ高さに自身の手の甲を向ける。そこには、ぼんやりと淡く発光する【刃】の文字があった。
「……え、なに……も、文字……?」
「【字】っつって、てめェが会った心、この方天画戟、さっき起こした突風も全部、この【刃】の能力で作ったもんだ」
「……てっきり、あの心は、【妖】なのかと思ってたけど……」
月の言の葉に、狼の唇がやや乱暴にその端を持ち上げる。
「え、でも私そんな……えと、【字】? とか、」
「左じゃ。左の、足の甲」
あるわけがない、と続くはずだった少女の声は、しゃがれた老人特有のそれによってその語尾を奪われた。月がはっ、と弾かれたように虎を見遣ると当時に、彼女の足元にいまだ跪いたままだった狼が左足の甲に被さる褲の裾を捲り上げる。
先ほど同様、悲鳴をあげたい衝動をなんとか堪え、月がその睫毛の先を祖父から足元へと落とすと、そこには狼の【字】と同じく淡く光る文字があった。
「【翔】……?」
「やっぱりな。足癖悪ィから、そんなもんだろうと思っちゃいたが、大正解だ」
「ってか、えっ、ちょ……、えぇぇえッ!! なに、なにこれ!! 爷爷ちゃん、なにこれ!!」
少年が立ち上がると同時に、ぷらんぷらんと淡く光る足を持ち上げ、月は虎へと訊ねる。いままで十六年間生きてきた中で、こんな文字が自分に浮かび上がってきたことなんて一度としてなかったはずだ。
けれど、祖父は最初からそれを知っていたかのように「左足の甲」だといった。
(え、なに……なにこれ。なんで爷爷ちゃんは、これ知ってたの? っていうか、これ、なに??)
【字】とは一体なんなのか。
否。
狼の風を操る能力がそれに起因することは、わかった。
けれど、何故このようなものが自分にもあるのか。
そして、何故それを。
「爷爷ちゃ――」
「話は後だ」
混乱のまま祖父を呼べば、見慣れた背中が短く声を返してきた。
こんな声音のときの虎は、祖父ではなく道術の師としてのそれである。月は混乱のまま、開いていた口を噤んだ。
「……して、どうする」
虎の短い問いは孫娘へのものではなく、彼女の夫へのもの。狼はちら、と肩越しに振り返るとその黒い瞳を再び月の足元へと落とす。
「でこっぱちの蹴りで、地面に穴開ける」
「……へ?」
ぷらぷらと持ち上げていた足へと、少女の視線が向けられた。相変わらず足の甲にある文字が淡い光を放ってはいるものの、特に自分としては別段なんの変化も感じられない普通の足だ。
「いや……いやいやいやいや。無理でしょ。なにいってんの。ここ、石畳だよ? 無理。無理無理無理」
「あァ? なにが無理だ。んなもんやってからいえってんだ、ボケが」
「はぁぁあ!? いや、ってかどう考えても無理でしょ!」
しばらく睨み合っていた狼が、はー、っとわざとらしくため息を吐いた。白い靄が冷えた夜の空気にふわり、生まれて霧散する。
ガシガシ、と乱暴に黒い短髪に指が差し込まれ、もう片方の手に持っていた方天画戟がひゅる、と突如起きた旋風と共に消え去った。
少女が一度、睫毛を羽ばたかせると、不機嫌そうな面が「チッ」と苛立ちを吐き捨てるように舌打ちする。
「てめェはアイツを見殺しにしてェんか」
「……っ!」
アイツ――とは、間違いなく、礼のことだろう。
何度吹き飛ばしても起き上がってくるならず者たちを一掃するには、虎の術に賭ける以外道はなく、それをしなければジリ貧でいずれこちらの体力が尽きた頃に隙を見て礼へとその凶器が届いてしまう。
「てめェの能力――【翔】は、いままでの足癖の悪さをみても、間違いなく足技の強化に違いねェんだよ。それがわかったら、とっとと地面に穴開けろってんだ、クソが」
「……っ、やればいいんでしょ! やれば!! ってか、アンタがいうほど、私、足癖悪くないかんね!!」
「はっ、あんだけ盗賊ども蹴り倒し吹っ飛ばしといて、いまさらかよ」
「ぐぬ……っ!!」
確かに身体が小さい月にとって、威力的と間合いの不利を補う意味で足技を多様するのは間違いない。いまだに【翔】の文字がなんであるのかわからないが、いま、この場を切り抜ける能力であるというのなら。
大切な幼馴染を助けることが出来る能力であるというのなら。
自身の得意なものを強化してくれるものだというのなら。
(ありがたいって、思う以外ないじゃない……っ!)
月がぷらりと浮かしていた左足を下ろすと、タン、タン、とその爪先で石畳に口吻けをする。今まで通り、なにも変化がないただの足のようにも思えるし、いま自身の足元を砕こうと思えば出来るような気もする。
「俺が、【刃】でてめェだけ上空に飛ばしてやっから、そのまま一気にアイツらの前の地面踏み抜け」
「踏んで、穴開いたとして……で、私はどうすんの? アイツらと一緒に、穴に落ちない?」
「そんときゃ儂が落ちる前に助けるわい」
「爷爷ちゃん」
月たち三人の睫毛の先が、ならず者の集団へと向けられたちょうどその時、地べたに寝ていた面々が起き上がり、再びこちらへとなんの感情も持ち合わせていない面を持ち上げた。
「――っし、んじゃ……跳べッ!!」
狼の声と共に、月が「浮かべ」と念じながら、左足裏で石畳を叩く。
すると、そこでなにか爆発でも起きたかのようにブワッ、と密度の濃い空気――風が少女の痩躯を空へと持ち上げた。
ジン、と足の甲が熱を帯びる。
恐らく、自身の蹴りの力と、少年の風の力が合わさったのだろう。黄色の道袍が、バサリと風を孕ませながら、月鏡の輝く夜空に舞う。ふる、と揺れるのは、側面に輪を作る少女の髪。
廟の壁の高さを優に超え、広がる眼下にはまるでひとつの巨大な黒い獣のような集団が、虎と狼の方へと襲いかかっていた。向かう先が微妙にふたりの位置と異なっているのは、間違いなく彼らの後方にいる礼が目的だからだろう。
環の背に庇われる礼は、それでも彼女を護ろうとしているのかなにかを祖母へと話しかけているようだ。
(優しいよね)
礼礼は。
決して強くないのに。
(だから)
――てめェはアイツを見殺しにしてェんか。
(んなわけあるかっての!)
護る。
絶対に、護る。
月は知らず、唇に刷いた三日月を飲み込むと、再び黒い集団へと瞳を這わせた。
狼の風によって持ち上がった身体を宙で御すると、落ちようとする重力に合わせて宙を蹴る。何故かはわからない。でも、出来ると思った。何故か、それを自分は知っていた。
「――落ちてッ!!」
まるで見えない壁でも蹴ったかのように、月の痩躯が石畳に向かって鋭い角度で落ちてきた。左足全体が、熱い。空に輝く金鏡の光を集めたかのように、熱かった。
冷たい空気に一閃が走る。
上空を駆けた少女の布鞋が、石畳に触れたその瞬間。
――ガ、ゴォォォオオン……!!
轟音と共に。
地が―――割れた。