< 弐 >
頭上から闇の帳が落ちてくる。
橙色に染まった空の端に、藍がじわりと滲み出し、冷たい風と共に夜がゆっくりと浸食を始めていく。
今冬は例年に比べ暖かく、湿度も多いと思ってはいるが、それでもやはり冬は冬。一度外に出ると、肌を刺すような乾いた空気が広がっていた。
月は、はーっと空へと白い息を吐き出すと、表門を潜り抜ける。廟の前の路地には、既に僵尸が四体ほど並んでおり、ときおり吹く風に、額の符呪をぱたぱた揺らしていた。
「さて、と。んじゃ、爷爷ちゃん。環さん。そろそろ行ってくるね」
肩下げの中から鐘を取り出しながら、少女は門前に立つ祖父母へと視線を向ける。側頭部で結った輪がふるっ、と踊り、額の前で前髪がさらりと揺れた。
自身の後方には、これから丹完村へと送り届ける馮がおり、その後ろに故郷がいまだ知れない無縁僵尸とでもいうべき三体並ぶ。
(この人達も、故郷はやく見つかるといいんだけどなぁ……)
死後、すぐに埋葬が叶わない故郷で死ななかった人間は、ほぼ例外なく腐敗前に僵尸にされるわけだが、その後帰るべき場所がわからない者たちはこうして僵尸隊が引き取ることとなる。道士によっては、死後に故郷を自身の廟がある場所に定め、埋葬し供養してやることもあるようだが、職業柄、国中を歩き回るため、いつか故郷が見つかるかもしれないとの希望から、月たちはそのまま連れ歩くことを選んでいる。
もっとも完全なる善意の下でそうしているだけでなく、死体と共にいれば、女の一人旅でも余計な揉め事を回避できるという利点もあってのことなのだが。
「ちゅーか、あの豎子は見送りにも来んのか」
「あぁ。まぁ、そもそもアイツには出かける時間とか伝えてないし」
部屋でぐーすか寝てるんじゃないの。
そう返せば、義祖母が「そうかもね」と頷く。
幼馴染が乱入してきた祝いの席という名の夕食から明けて一夜。
今朝起きてからは、月は旅の準備をしていたし、狼は環に頼まれ水汲みなど力仕事を覇と一緒にやっていたようだ。思えば、朝顔を合わせたっきりそれ以降彼の姿は見ていない気がする。
それでもな釈然としないらしい祖父が、ふさふさとした眉を跳ね上げるのへと、環と視線を合わせながら苦笑した。
「まぁ、いーんじゃないの。ぐーたらしてるわけじゃなく、環さんや覇さんの手伝いしてるんだし」
「そうだねぇ。薪もかなり割ってくれたし、覇さんも喜んでたよ」
俑である覇には、肉体としての疲労という概念は存在しないが、それでも誰かに仕事を手伝ってもらえれば、その分ほかのことに時間を使えるために助かっただろう。
「ま、働かざる者食うべからずっていうしねー。アイツに食費の分は役に立てよっていっといて」
「はいはい、若奥さま」
指をひらひら振りながら「気を付けて」と笑う環と、そっぽ向きつつも視線だけちらりとこちらへ這わしてくる祖父を視界の端に収めつつ、少女の布鞋が一歩、踏み出したその瞬間。
「ユ、月月」
前方の建物の影から、聞き覚えのある声が自身を呼んだ。
少女が驚きに軽く睫毛を上下させると、暗がりから一歩、月明りに照らされた路地へと踏み出してくる。そこにいたのは、想像通り、幼馴染の少年の姿。
綿入りの長衫の上からさらに毛糸の外套を羽織っており、その手に握られているのは小さいもののなにか荷物のようだ。足下は、長距離でも足場の悪い山道でも気にせず歩を落としていけそうな靴子。
明らかに、外出――それも遠出するための出で立ちである。
「礼礼!? ど、どうしたの、一体……」
記憶にある限り、彼がこの村を出たことは一度もなかった。さほど大きくはない村だが、何世代も続いている割と大きな酒屋の大切な跡取り息子で――要は、令郎である。月が外に出かける度に「一度でいいから僕も外の世界を見てみたい」といっていた気がするが、それにしたってなにもこんな時刻にするものではないだろう。
祖父母も流石に想像していなかったのか、軽く目を見開き、近づいてくる礼を見つめていた。
「今夜」
「ん?」
「今夜、出るっていってたから」
「え? あ、うん??」
少年の視線が月から傍らに立つ祖父母へと流れ、その後再び少女へと戻ってくる。けれど、日頃柔らかく溶けるように微笑むその瞳が、あれ? というように丸まった。
「えっと……。これから、もう出かける、んだよね? 朱南省に」
「あー、うん。日も暮れたし、そろそろ出ようかなって」
「……そうだよ、ね?」
再び礼の視線が月から周囲へときょろきょろと動く。
「ん?? どしたの?」
「あ、いや……。あの、狼くん、は……?」
「え? あぁ……アイツなら自分の部屋で寝てんじゃない?」
「っ、ね、寝て……っ!?」
思いの外、皆、あの人相の悪い少年が気になるらしい。
月が先ほど同様、さらりとそれを告げると、少年の声がひっくり返ったように語尾を持ち上げた。さすがにそこに反応があるとは思っていなかったので、彼も驚いたようだが逆に月の方がびくっ、と肩を揺らしてしまう。
「えっ、な……なに。なんか、駄目だった?」
「いや駄目っていうか。あの、駄目じゃないけど……え、だって、月月、もう出かけるんでしょ?」
「うん」
「あの、じゃあ……さ、彼、は……狼くんは、その……一緒じゃないの?」
気まずそうに一度面を俯かせた礼が、ちら、と窺うように視線だけ月へと向けてきた。
「一緒じゃないって……、え? 一緒に朱南省にいくかってこと?」
「うん……いや、ごめん。ほら、だって、月月、狼くんと結婚したっていうから、二人で僵尸隊を連れて、旅に出るのかなって……」
「はー、あー、なるほどー」
確かに、道士の中には家族総出で僵尸を連れる者もいるにはいる。
月にしても、独り立ちする前――祖父が現役の僵尸隊道士だった頃は、共に国中を歩いていたし、礼がそう思うのも不思議はないのかもしれない。
「まぁ結婚したっていっても、ほら。あれ、昨日もいったと思うけど、勝手に勘違いした爷爷ちゃんが結婚させただけだから」
「なんじゃい、儂が悪いようないい方しおってからに!」
「いやどう考えても、あれは爷爷ちゃんが悪いに決まってんでしょ!」
「アホーぅ! 同じ架子床に上がっとって、結婚せん方が問題じゃろが!」
「架子床にアイツ投げ込んだのは誰なのって話!!」
ため息混じりに虎を指さしながら少年へと告げれば、眉尻をくわっ、と持ち上げた祖父が噛みつくようにいい返してくる。少女がいつも通り、負けずにさらに反論を口にし、空気も読まず舌戦が始まろうとしたその瞬間、礼から「えぇッ!!」と声が上がった。
「えっ、ど、どうしたの!?」
「い……いや、あの……っ、ベ、架子床って……!」
「いや!! いやいやいやいや。違う違う。そうじゃなくて」
「あ、いや。あの、うん。ふ、夫婦だからね、うん! そ、そりゃそっか……」
「いや違うってば! さっきもいったけど、それ爷爷ちゃんの勘違いからの暴走だから。爷爷ちゃんがアイツを私の架子床に投げ込んできただけだからっ!!」
「……そう、なの?」
「当たり前でしょ……。ってか、それにぶっちゃけ夫婦なんて名ばかりっていうか、実質いままでもいた爷爷ちゃんの養子の子たちと変わんないよ」
「あ……、そう……。そう、なんだ」
この寒空の下では無理もないとは思っていたが、顔を見せたときからどうにも日頃とは違い強張っていたように思えた礼の面が、ふ、と緊張を解く。は、と短く息を吐き出した唇が、緩く持ち上がった。
月は軽く首を傾げつつ、ぱちくりと一度睫毛を羽ばたかせたが、ともあれ先ほどまでの不安げな表情が礼から取り除けたのは幸いである。少女も幼馴染の少年と同じように、「へへ」と笑い、頬を緩めた。
「あ。でも、礼礼、結局どうしたの? こんな時間に……どっか、出かけるの?」
いままでも見送りをしてもらったことがないわけではないが、少なくともこんな旅支度をしている姿は初めてだ。夜風にふわりと外套の裾を膨らましている少年へと月が訊ねると、彼は、柔らかくしていた頬を僅かに硬くし、「あぁ、うん」と曖昧に呟いた。
「え、と……。ごめん、聞いちゃ駄目なやつ?」
彼とは幼馴染であり、基本的になんでも話せる仲だとは思っているが、杜家は代々続く商家であり、もしかしたら経営上漏らしてはいけないような外出なのかもしれない。
「いや! そんなこと、ない!!」
月がちらりと窺うように訊ねると、少年の硬くなった頬が再び時間を刻み出した。慌ててぶんぶんと首を振った礼の背で、緩く編み込まれた髪が踊る。
「あ、なら良かった。なんかお店の大切なことなのかと思っちゃったよ」
「あー、うん。そういうんじゃなくて。全然、大した話じゃな……くも、ないんだけど……」
「あははっ、なにそれ結局どっちなの」
「えと……」
少年の喉が、一度上下し、一度逃げるように逸らされた彼の視線は再び少女へと戻された。
「ユ、月月!」
「ん?」
「あのさ――」
少年の唇が、気まずそうに、けれど確かにゆっくりと音を紡ごうとしたその、瞬間――。
彼の、さらに背後の闇から一層黒い大きな影が現れた。
「……っ!?」
月と、その気配に気づいたらしい傍らの祖父の視線が一瞬のうちにそちらへと走っていく。ゆらりゆらり、徐々に大きくなるその影は、やがて月明りの下でその輪郭を闇の中からふわりと浮かび上がらせていく。
「アンタたち……」
視界の先にいた人物を見止めた瞬間、脳裏に思い浮かぶのは先日の森での出来事。
――こちとら泣く子も黙る大盗賊集団だぞ!!
――俺たちゃ仲間同士助け合いながら暮らしてる善良な市民さまだからなァ。
耳朶の奥で蘇るのは、なんとも矛盾した頭の悪そうな彼らの声。
ゆらりゆらり、大きな身体を揺するように歩きながら近づいてくるのは、紛れもなく雲と益と互いを呼んでいた、あのならず者たちだった。
「……やっぱアイツ拾ったの、失敗だったかな」
恐らく部屋でなにも気づかずぐーすか寝ていると思しき夫へと、少女はぽつり、恨み言を落とす。
夜風がヒョォ、と駆け抜けていき、少女の声を真ん丸の金鏡へと攫った。