< 陸 >
満天の星空に、肉眼ではほぼ丸にしか見えない月が転がっていた。
どこぞの食い意地の張った少女は今年の冬は湿気が多いと雑談の合間に口にしていた気がするが、それでもやはり季節柄、空の水分が少ないのか、その光は目に痛いほどに鋭く地上を照らしている。
かつて見上げていた空よりも、随分高い位置にそれらを感じるのは、きっとここがいままでのように山の上にはないからだろう。
は、と吐き出した息は白く、過去を思い出そうとする思考へと無理やり靄を抱かせた。
(……寒ィ)
狼は軽く鼻を鳴らしながら、首元に巻いた白い布を持ち上げ顔を埋めると、ふわりと自身から酒が淡く漂う。
結婚祝いだと強制的に参加させられた夕飯は、件の少女の幼馴染を交えなんだかんだとグダグダ続いていたが、腹が満たされ一気に眠気に襲われたらしい月の寝息と共にお開きとなった。
一度部屋に入ったもの明け方から昼間に仮眠を取っていたせいか、どうにも寝付けないため、酒が入った身体を醒まそうと外に出たが、明るすぎる月明りに一層睡魔が遠ざかるような気がしてくる。
「なんじゃ、豎子か」
背後で扉が開く音が聞こえ、肩越しに振り返ると同時に声がかかった。見遣った先にいたのは、とても十代後半の孫がいるとは思えないほどの体躯を持つ老人。酒をちびりちびりと飲んでいる姿ばかりが思い出されるが、その年齢にしてその筋力を維持していることを常に頭に入れておかなければ、きっと痛い目を見るだろう、相手。
「オイ老夫、豎子っっていうなっつってんだろ」
「お前に老夫呼びされるほど儂ぁ落ちぶれとりゃおらんわ、ボケが」
この廟の家長たる老人は、鼻に皺を寄せながら後ろ手に格子扉を閉め、狼の傍らまでその歩を進める。彼の孫娘が起きている間は、酔っぱらったような素振りで正体をなくしていたが、この迷いのない足取りを考えるにどう考えても素面だろう。
(ま、じゃなきゃいくら小っせェからって、あのでこっぱち抱きかかえて部屋まで運ぶなんて芸当、出来るわきゃねェか)
如何に名が「狼」と「虎」とはいえ、流石に老人と金鏡を愛でるような趣味はない。狼はくるりと身体の向きを変えると、抄手游廊の欄干へと背を預けた。
背後から照らされる月明りで、自身の影が石畳の床へ伸びている。
「こんな時分にそんなところでなにしとる。寝んのか」
「あァ?」
「あぁ、まだ腹減っとるんか」
「違ェ。変な時間に、」
「なら酒か」
「てめェと一緒にすんじゃねェよクソ酔っ払い」
「じゃあなにか。月の寝顔でも」
「見たくもねェわクソが」
「はっ! まさか、お前月ん寝所に夜這――」
「んなわけあっかッ!」
言葉の終わりを待たずに被せてくる虎の声を、さらに少年のがなるそれが蓋をする。シン、と静まり返った夜に、声の余韻ばかりが響き渡った。
「なんじゃ。なら、はよいわんかい。もし夜這いなんぞする気なら、今夜、新しく死体一体こさえにゃらんとこじゃった」
はー、と握りしめた拳に息を当てながら、横目に睨んでくる老人の面には、冗談で済まされるだけの余裕は一切ない。眼前に持ち上げた拳が、ゴォキ! と、重い音を立てた。
「はっ、そんなに大事な大事な孫娘だっつーのに、よくもまぁ得体の知れねェ【妖】なんかと結婚させたもんだ」
狼は、自嘲に頬を歪めながら、老人へと這わせていた視線をスイ、と外す。そして、首に巻いていた白い布を乱暴に取り去った。
ふわりと空気を孕んだ布が、宙に揺れる。
けれど、次の瞬間それはまるで幻のように霧散した。
節立った指が掴むものは、ただただ冷たい夜の風ばかり。
「なんじゃい。気づいとったんか」
横目にその様子を目に収めていた虎は、まるで児戯でも見たかのように鼻先に集めた笑いを弾く。
「そりゃこっちの台詞だ、クソ老夫」
「お前、嫁の祖父に向かってようもそんな口利けたもんじゃの」
「……はっ、祖父」
少年の声が嘲笑に弾ける。それを受けた老人の皺だらけの面は、温度のない表情を作り出した。
「血が繋がってねェどころか、【妖】でも孫として育てるうちに情が芽生えたってか?」
「犬っころでも飼えば情が移るもんじゃろ。孫として育てりゃ当たり前じゃ」
「……一体、なに企んでやがる」
「お前がそれをいえた義理かい。まぁ、ただ……儂ぁ赤子のころのお前に、会ったことがある」
「……ッ!?」
今ごろ夢の中にいる少女をして「悪人ヅラ」といわしむる狼の表情が、驚きに一気に丸まる。その顔に満足したのか、眼前の老人の唇が楽しげに弧を描き頬の位置が高くなった。
少年は苛立ちから、再び眉間に皺を寄せる。
「――そう、いうたら……どうする? 【妖】の国の、太子さま」
老人のその言の葉に、舌打ちの後に「クソ老夫」という声が夜の闇に落とされた。