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桜歌  作者: 碧梨
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序章 5「皇帝の妃」


第五章



「皇帝の妃」





朦朧とする意識の中で、万華は夢を見ていた。

両親の優しい笑顔。自分の名を呼ぶ仲間たちの声。

青々と広がる穏やかで優しい芝生の深緑。どこまでも広がる空。


そして、まるで自分を母のように慕ってくれていた愛おしい弟の姿。



「ん……」



懐かしい日々の夢から万華は目を覚ましてゆっくりと起き上がる。

周りを見渡せば、そこは見たことも無い絢爛豪華な部屋だった。

一面が見慣れない赤色で広がり、万華は唖然としながら、目を擦る。



(ここは…?)



どうやら寝かされていたらしくそこからゆっくりと降りる。



「え……?」



目を疑う。

すぐそこにあったのは、豪華な装飾を施された鏡に映る自分の容姿だった。

奴隷として働かされていたあの水ぼらしい服とはまるで異なる。

鏡に映る姿は、深紅の着物を身に纏い、薄紫色の羽衣を身に着けた貴族の少女。



「なんで、私…こんな服を着ているの?」



顔もよく見れば、日に焼けた肌の色とは打って変わり白粉を塗られ、美しく見えるように化粧が施されているのであった。

奴隷として働かされていた女性とはまるで思えないほどの、容姿の変化に万華は何度も何度も鏡に映る自分の頬を触れ、夢ではないかと疑った。



(一体どうしてこんなところに…?)



混乱しながらも万華は一つ一つ思い出すように記憶を探る。

確か自分は周徠と言う青年に母親の埋葬を頼んだ。

そこから自分は、部屋から出て行った黒を探そうとしてからの記憶がひどく曖昧だった。



(もっと、何か大切なことを思い出せれない…)



必至に思考を巡らせる。

だがそれを遮るように、部屋の扉が突然開かれた。



「目が覚めたかね?」



渋い声。

万華は声のする方へ視線を向ける。

そこにいたのは中年の男性。歳は40近くであろうか。髭をある程度蓄えており、頭には小さな冠のようなものをつけて髪を固定するように上げている。

黒を基調とした着物に身を包み、蓄えている髭を自慢げに触れながらじっと万華を見つめている。



「貴方は…?」



見知らぬ男に話しかけれ、万華は警戒しながら名を尋ねる。

男は彼女の様子を察したのか、まるで安心させるかのようににっこりと笑う。

しかし、その笑顔は皺をより際立たせて万華にとっては逆に不安感を与えてしまうのだった。



「…これは失礼。私の名は余禍(よか)。『大師集たいししゅう』と呼ばれるこの国の政治を行う組織の一人だ」




「大師集…?」



そんな言葉はまるで聞いたことがない。

彼女の様子を見て、余禍と名乗った男は苦笑を浮かべる。




「これは驚いた。我々の存在を知らぬとは…まぁ、君のような奴隷には知る由もない存在ではあるのかな…?」



この国、鄭国はいわゆる皇帝主義の国家である。

王である皇帝が政治を行うのは当たり前だ。

しかし、そんな皇帝も一人で国を取りまとめることなどはできない。

その為には、それぞれの役割分担と言うのが必要になる。それを「しょう」と呼称する。

金銭的な面で管理する省。治安を管理する省。食物を管理する省…など、こう考えると様々なことを管理しなくては国と言うのは成り立ってはいかない。





「我々大師集は、我が君…つまりは皇帝陛下自ら選ばれた優れた人物のことを言うのだよ。簡単にいうところの皇帝の次に偉い存在と言うべきかね…」



余禍は薄く目を開いたまま、口元を歪にして微笑みを浮かべる。

あまりにも不気味なその表情に万華は背筋に冷たいものが走った。

おそらくこの男が、自分をここに連れてきたのは間違いないであろう。

思わず身を強張らせ、足が一歩後ずさりしてしまう。

自然の中で育った五感が万華に告げるのであった。

この男と関わりを持ってはいけないと。



「おやおや、何を怖がる必要がある?私はね、君を助けてあげたいと思ってここに連れてきたのだよ」


「助ける…ですか…?」


「そうだよ。君のような美しい女性が奴隷としているのはあまりにも可哀想だと思ってね…辛かっただろう?」



万華を包み込むように余禍は両手を大きく広げて見せる。

その様子はまるで怯える小動物を落ち着かせるように優しく包み込もうとしているように見えるが、万華は一歩も前進することはない。むしろ足はさらに後退を続ける。



「おやおや…ずいぶんと嫌われたものだ…。まぁいい。私も奴隷を飼ったのは初めてだからね。仕方がない」



深いため息をつきながらじっと万華を見つめる。

まるで狙った獲物を逃がさない獣のような眼光だった。

臆する万華のことを知ってか知らずか、余禍は口を開く。





「君はね、私に飼われたんだよ」


「え…?」



突拍子もない言葉に目を見開く。

飼われた?

自分が?

人間である自分が人に飼われた?



「ありがたいことにね、君のように若くて美しい奴隷はそうそう見たことがなかった。だからそんな優れた存在を是非ともこの国の礎になってほしいと思ってね…。」


「ま、待ってください…!そんなこと、私誰からも…!?」


「あぁ…奴隷である君には選ぶ権利などないさ。だって奴隷なんだからねぇ…?」



心臓の鼓動が大きくなる。

見ず知らずのこの男は、自分と対面することもなく勝手に自分を金銭でやり取りをし、所有物として飼ったのだ。

そこには万華自身の選択の余地など一切ない。



「なに、気にする必要など無いさ。君の代わりの奴隷はまた狩ればいいのだから。…これからは私の奴隷として、暖かな環境を提供してあげよう」


耳を疑った。


『奴隷はまた狩れば良いのだから』


そう聞こえた。




「奴隷はまた狩れば…良い…ですか…?」



余禍の言葉に身を震わせながら、万華はじっと余禍の顔を見つめる。

明らかに先ほどの言葉に万華は怒りを感じているが、余禍は彼女の気持ちなど知らずに残酷な言葉を口にする。



「あぁ、そうだよ。我々のような人間は陛下のご意思で選ばれた貴重な人材だ。しかし、遊牧民など所詮は土の反吐を吸い込んでいる下劣な人種だ」



万華は、込みあがってくる怒りをなんとか押さえ込みながら俯く。

余禍の口は止まらない。



「しかし、君のような生まれもって美しい容姿を持っているものは例外だ。これは是非とも陛下にご謙譲しなくてはいけない…」



余禍は万華に近づき、なんとも貪欲な笑みを浮かべた。

少し太った指で、俯いている万華の顎を掴んで彼女の顔を覗き込む。

万華は、余禍の言葉に目を見開きながら必死に抵抗をする。



「私が何を言っているのか理解してくれているようだね」


「やめてください!」


「君は、わが皇帝の妃候補になるのだよ」



万華は固まった。


自分が皇帝の妃候補になる?

そんな馬鹿げたことがあっていいのか?

自分の親を亡くす原因になった皇帝の妃になれ?



「嫌です!なぜ貴方などに私のことを勝手に決めつけなくてはならないのですか!?」



怒りがついに爆発したのか、万華は余禍の手から必死に離れようと暴れ始める。

しかし余禍は万華の様子に臆することなく、万華の身体を無理やり押さえ込んで耳元で囁く。



「君には否定する権限はない。…それに君は奴隷なのだから私のような高い権力を持つ人間に逆らうとどうなることか分かっているのか?」



先ほどとは違い、酷く恐ろしく低い声。

その声で万華を力ずくで収めようとしているのか、更に腕に力が入っている。

だがしかし、それでも万華は諦めずに抵抗をし続ける。



「そんなの…貴方が勝手に決めたことでしょう!?離して!!



「黙らんか!この奴隷が!!」


必死に万華が抵抗し続けていたが突然、余禍は万華の耳元で大声を上げる。

その気迫に万華は黙らされてしまい、余禍は彼女の髪を鷲づかみにした。


「ッ!!?」


激痛が走り、万華はもはや肉食の獣に捕らえられた子兎のようになってしまう。

もうこうなってしまっては反発の仕様がない。



「私に飼われた奴隷に、選ぶ権利などないのだ!!それに…良いのか?私に逆らえば、まだ奴隷として働かされているお前の弟の命を保証することはできないなぁ?」


弟の存在を思い出させるように万華は、黒の顔が頭に流れ込む。

きっと自分がこうしている間にも、弟は奴隷として働かされ続けている。

たった一人の家族を人質に取られる形となってしまい、万華は力なくその場に座り込んでしまう。



「弟の命が惜しいのなら、私に従え」


余禍は万華の耳元に囁く。

万華は完全に怯え、体をただ震えている。




力なく万華は、静かに頭を下げることしかできなかった。




(黒……)





心の中で万華はただそう呟いた。











後宮とは将来皇帝の妃達が住まう場所のことを指す。

王のための花園。いくら位が高い貴族出身の男であったとしても中に入ることはできない。

許されるのは男としての役目を終えた宦官や妃たちの世話をする女官ぐらいだ。

しかし、鄭国では例外として皇帝自ら許可を出した者であれば後宮の出入りを許されている組織が存在する。


それが『見廻り組』である。




後宮の廊下と外へ続く道で、足音が響く。

金属音も混じっている。

足跡の主の姿は茶髪で無造作に一つに縛っており、瞳の色は緑…。

立派な剣を腰にかけ、後宮内を歩いている。


その正体は、周徠であった。

見廻り組である彼は後宮の警備をしている。




「…。」



辺りを見回す周徠。

その顔はどことなく真面目である。


トタトタと何かが走ってくる音が聞こえる。

周徠の耳にはその音が聞こえなかったのか、未だに辺りを見回している。



「周徠~!」



どこか色っぽい声が耳元に響きながら、彼の後ろ髪は引っ張られた。

痛みと同時に、彼の脳裏には敵襲という言葉が連想されてしまう。

目つきを鋭くさせながら、剣を引き抜こうとすると…



「あらやだ。物騒ねー!いきなり剣を抜くなんてー!」



どこか色っぽい声が彼の耳に入り、彼を襲撃した人物が誰なのか理解する。

抜きかけた剣を鞘に収めながら、周徠は声の正体を見ようと振り返る。



「はぁー…また君か…茜」



茜と呼ばれた女。

その姿は妖艶で美しく、この鄭の国では珍しい橙色の髪が印象的である。

服装は貴族が着る優雅な着物。そして何よりも印象に残るのは、猫のような鋭い目。



「その様子からすると、敵が現れたと思ったのねぇ?相変わらず"仕事馬鹿"という言葉がよく似合う男ですこと…」



クスクスと扇で口元を隠して笑う茜。

人を小馬鹿にするような笑い声は、周徠にとって少し不愉快だ。



「全く…本当に困ったものだな。突然後ろから来られるとびっくりするかやめてほしいといつも言ってるだろ?」


「え~?だってあなたの驚く姿がおもしろくて何回もちょっかいを出したくなるのよ」




またクスクスと笑う茜。

その姿を見て、周徠は溜息を溢す。



「はぁ…。茜、君は妃候補の一人なんだから、俺なんかに構う暇は無いだろう?」



妃候補者は皇帝の子供つまり後の後継者を産むことが求められる。

そのためには知識と教養を身につけなければならないため、講義などの時間が必要になる。

基本的に一日九時間程度の講義を受け、さらに実習的な内容が三時間程用意されている。

つまり、一日の約半分は暇ではなく勉学に努めればない。

ほかに朝食昼食夜食。さらには休憩として昼寝時間。

妃候補たちはすべてこの時間を決められている。



しかし、この茜という妃候補は普通の妃候補とは違うのは一目瞭然であろう。

まず何が違うかと言うと、容姿には触れずに見廻り組である周徠とまるで親しい関係のようにも見える。

周徠はあまり茜のことを好意的に見ているようには見えはしないが。

後、この会話からすると茜は妃候補者であるにも関わらず講義をなんとすっぽかしているのだ。

このような者がいることなど、この国からすれば前代未聞だ。



「大丈夫よ。今している話の内容は全部知っているし、別に対した支障はないわよ」


「…いくら君みたいに優秀な人間だったとしても、講義を受けないと言うのはどうなんだろうな…」


「いいじゃないの~。だって老師の話、無駄に長いし全然おもしろくないし退屈なんですもの」


「いや…だから…」


「せっかく会いに来てあげたのにそんなこと言うのかしら?」



必死に茜に授業を受けるように説得をする周徠だが、茜は猫が甘えるような声を出して寄りかかってきた。

周徠は焦り、すぐに茜を引き剥がす。

その様子を見て、茜は楽しく感じているのかまだ笑っている。



「会いに来てくれたのはありがたいけれど、俺の仕事を増やすことだけは、いい加減やめてもらえないか?」


「え~?いいじゃないの。相変わらず連れないわね…そんな堅い男だったら女にもてないわよ?」


「堅い男で結構。良いから早く講義に戻ってくれ。先生や他の人にも迷惑がかかるぞ?」



普通はこのようなことをすればすぐに失格対象となってすぐに追い出されるはずだが、恐らく周徠や他の見廻り組の者達がなんとか失格にしないように手を回していると考えてもおかしくは無いだろう。



「もう、さすがは見廻り組に属する男ね。仕事のためには女も眼中にはなし?」


「……もういい」



どんなに説得をしても戻ろうとしない茜の腕を周徠は掴む。

そして、彼女を引き連れてどこかへ歩きだした。



「ちょっとちょっと!腕が痛い!もう少し優しくして!」



どうやら強行手段に入ったようである。







講義を受ける妃候補たちの場所は旧後宮で行われる。

人数分の席が用意されており、候補者たちは席に座って前にいる指導者の話を聞く。

皆、それぞれ個性のある美しい服に身を包み真剣に前にいる指導者を見ている。

よく見れば、様々な地方からやってきたのかこの国では見かけない化粧を施している者もおり、個性豊かだ。



逆に候補者の前に立って、話をしている人物は老人でずいぶんな歳であることがわかる。

杖を使って、回りを見渡しながら歩く姿はまるで長老のようだ。



「皆さんには新皇帝様に相応しい妃としての知識と教養を学んで頂く事は、始めの講義のときに私の口から言いましたね?…皆さんには陛下と結ばれた後には立派なお子を産んでいただくという大切な使命があります…」



講義が行われて、どれほどの日が経ったのかは正確には判らない。

しかし、妃候補者の人数を数えてみるとまだ90名ほどは残っている。

その様子からして、まだ数週間程度しか経っていないと考えられる。


老人が話をつらつらと数時間かけて話をしていると、わずか少数の妃候補者たちが眠そうにしている。

その中でも既に深い眠りにはいっているものもいれば、寝ないように必死に顔を上げて話を聞いている者もいる。

老人は眠っている妃候補者に対して、特に注意はせずにそのまま女性の身体についての講義をする。



「女性と男性の身体は決定的な違いがあることが、皆さんは分かっていらっしゃるでしょうか?そう、それはつまり子を宿す力を女性は持っているということ。子を育むことは女性にしか出来ないことであって、男性も男性でそのために必要なものをもっています…」


何か制限が掛かりそうな内容ではあるがこの時代ではこの知識と言うのはとても貴重なものであり、一番大切なものとされていた。

生き物の最終目的と言うのは、子孫を作ること。

このことの重大性は、人間にとってもなんら代わりは無いだろう。

老人は、自分の知っている知識そのものを国に役立てるがために話をし続けている。



その為、場の空気は少し張り詰めていった。



「逃亡者を確保しました」



しかし、その空気は長くは続かなかった。

何故かと言うと、講義から逃げてきた茜を周徠が連れてきたからである。


緊迫の空気が少し壊れてしまい、集中力が切れかけになっていた妃候補者たちにとってはある意味助けになった。

ギョロリとした目で、周徠は妃候補者たちに見られるがそんなことは気にも留めない。



「おやおや、周徠君。見廻りご苦労様。どうしたね?」


スウ先生…」



のんびりとした口調で、崇と呼ばれた老人は入り口付近にいる周徠に軽く挨拶をする。

老人のそんな姿に周徠は少し苦笑を浮かべながら、捕まえた茜を崇老人の目の前に差し出す。



「あらあら…ご機嫌麗しゅうですわ、崇先生」



先生の目の前にも関わらず、茜は簡単に挨拶をする。

そんな茜の態度に周徠は少し怒りを覚えながら、少し強い口調で話をする。





「また、この茜が講義から逃げ出しました」


「おやおや、茜君。また君は私の講義をすっぽかそうとしていたのかね?よいかね、いくら知識がある君だったとしても講義に出ないというのは…」



どうやら、この崇老人は話を一度始めれば中々止まらないらしい。

また講義のように長い話をし始めてしまった。

周徠は苦笑を浮かべながら、クスクス笑い出してしまいしまいには「また始まったわ」と言う声が笑い声に混じって聞こえる始末である。

どうやらしばらくはこの話は止まらなさそうだ。

茜の他に逃亡したものはいないか、周徠は生真面目に妃候補者たちの人数を数え始めた。



だが…ふと周徠の目はある妃候補で止まった。



(ん…?)



皆、妃候補であるがゆえに中々の美貌を持つものが集まっている。

だが、しかし周徠はその中で少し前に助けた奴隷の姉弟の姉によく似た人物がいることに気が付く。

顔は俯いているためよく分からないが、あの紫色の髪は見たことがある。

周徠は己の目を疑い、何度も瞬きをして確認をする。

だが、その者は顔を上げることはないため周徠はちゃんとした確認を取ることが出来ない。



(気のせい…だよな…)



自分の思い込みだと思い、周徠はすぐに考えるのを止めてまだ話を続けている崇老人と茜を見た。

もう、自分がここにいる理由はないと思ったのか周徠は崇老人の話を一旦、区切ることにした。



「あの崇先生。お話をしてくださるのは結構なのですが、今はこの妃候補を教室に入れることが先決だと思います…」


「おお、そうじゃな」



ようやく、話が終わり茜は講義に参加する。周徠はその場を後にすることにした。

再度気を引き締めて彼は仕事である見廻りをし始める。



(まさか…あの人が、妃候補になるなんて…有得るはず…)



気を引き締めてはいるものの、やはり周徠の頭の中ではあの紫髪の妃候補のことが気になって仕方が無いらしい。

周徠の考えでは、以前自分が助けた姉弟との姉によく似ているように思えて仕方がないのだ。


もし、彼女だったら…一体何があったのだろう?

どうして、こんな場所に身を置くことになってしまったのか。




周徠はそんなことを考えながら仕事を再開した。












茜が周徠に連れ戻されたあと、彼女は崇老人による長い説教話を聞かされることになり、今日の講義はこれで打ち切りになった。

講義が終わりと知ると、妃候補者たちはクスクスと笑いながら茜のことをあげて笑っていた。

…が、一人だけぽつりと無心で俯いている妃候補がいた。


深紅の着物を身に纏い、暗い表情のまま俯いていたため、顔を見ることができない。


そんな彼女が不気味に想えてならないのか、後ろ指をさしてくる者達もいる。


「気持ち悪いわね…早くここから出て行けば良いのに…」



同じ妃候補であったとしてもそれは、女としての欲望などが見事に交じり合ったこの後宮。

自分は別に好き好んでこの世界に入り込んだわけではないのに、何故後ろ指を指されなければならないのか。

彼女は、そう心の中で感じておきながらももはや以前のように反発する力などない。

静かにその場から立ち上がり、そっと部屋から姿を消していった。



妃候補者の部屋は基本的に四人部屋と決められている。

だがしかし、万華が部屋に戻った時にはすでに何人かの妃候補が戻っていた。

鏡台の椅子に座る。



「……。」



鏡に映る自分の姿。

それは今まで遊牧民として生きてきた自由奔放な自分ではなく、操り人形として生きているただの人形。

無口無表情。そして何を考えているのかよく分からない虚ろな瞳。

今の彼女の瞳には色のあるものが写っているかは定かではない。




「ねぇ?万華さん?」



黒衣を纏った一人の妃候補が、鏡台で座っている万華に話しかける。

派手な牡丹の花飾りを髪に着け、高飛車とも思える女。


「貴女、本当に余禍様の娘さんなのよね?それにしては似てないし、教養もないし、本当に貴族出身なのかしら?」


「…」


「駄目よ、零蘭。その女誰とも話をするつもりなんてないんだし、ほっとけばいいじゃない?」


零蘭と呼ばれた妃候補は、背後にいる別の女に声をかけられる。

それを無視するように、じっと万華の顔を覗き込んでくる。

長くまとめられた漆黒の三つ編みの髪を揺れしながら零蘭は、するどい眼光で万華を眺めている。


「ふーん…」


細い目で見つめられ、万華は視線を感じながらも目を合わせようとはしない。

何故だか目を合わせてしまえば、何かを見透かされてしまいそうな気がしてならなかった。


「どうせその女、どこかの没落貴族なんでしょ?見てみなさいよ、この荒れた汚い手!それに髪だって艶が全然ないし…。よくこんなので妃候補になろうと思ったものだわ!」


野次馬のように他の娘たちが万華を蔑む。

万華からすれば別に好きでこの場所にいるわけではない。

誰が好き好んで、香の匂いで満たされた後宮になど行くものか…。


決して口には出すことはないが、万華は視線をただ逸らしてその場の空気が収まることを待つしかなかった。


「まぁ、いいわ。そんな貴女に私から素敵な贈り物をあげましょう」


零蘭は女官を一人呼び出した。

手に持っているものは木箱。

しっかりとした木材で作られており中身には何が入っているかは予想がつきそうにもない。


「零蘭様」


「あぁ、ありがとう。さっさとそこに置いてどこかへ行きなさいな」


木箱を持ってきた女官は、万華が座っている鏡台の机にそっと置く。

零蘭はその様子を見守った後はすぐに追い払うように手で払い、女官は軽く頭を下げてから退室していく。


「ねぇ?零蘭、それ何?」


「うふふ、さぁ…なんでしょうね?」


目の前に置かれた木箱を見つめる。

中身が何なのか、見当もつくことはない。


「貴女みたいな品がない女でもとても似合うものを用意してあげたわ。さぁ、空けて頂戴?」


万華の耳元で囁く零蘭。

皮肉たっぷりの囁きの声で、とても開ける気にはなれない。

それでも今、この場で彼女に逆らえばどうなるか。


この国で、自分よりも権力が上の者に逆らえばどうなるのか、万華は何度も見てきた。

奴隷だったころには兵士たちに繰り返し叩かれ、大師集の余禍に逆らえば自分の弟の命はないと脅された。


命令には従わざるを得ない。


「ありがとう、ございます」


そう、一言呟いて万華は震える手で木箱に触れる。

静かに蓋を開けることにした。





箱に入れられていたものは、目を疑うものだった。


「ねぇ?どう?気に入ってもらえたかしら?」


「なになに?何が入っているのー?」


口元を歪にゆがめ、喉を鳴らしながら笑う零蘭に続くように同席している妃候補たちが集まってくる。

そこに入っていたものは、美しい装飾をされた…小刀だった。


「…これ、は…」


「どう?とても綺麗でしょう?」


集まってきた妃候補たちには決して見えないように、万華は蓋をしようとするが零蘭がそれを遮るように手を掴んでくる。


「あら?なんでそんなことをするの?私からの贈り物よ?」


「ねー?何なの?私たちにも見せなさいな!」


さらに近づいてくる娘たち。


この後宮では、どんな理由があろうとも危険物の持ち込みは原則として禁止とされている。

ましてや刀、単筒など殺傷力があるものなどは許されるわけない。

見つかってしまえばすぐに、この後宮から追放される…もしくは即刻牢屋へ送り込まれることになる。最悪な場合は死刑を宣告される可能性すらある。


この刀を持ってくるように命令させたのは零蘭だ。

ただし彼女の様子を見る限り、自分の罪を認めるつもりなどさらさらないだろう。

万華がこの小刀を持参した。もしくは女官に罪を被せることも簡単なことだ。

何しろ彼女は、万華と違い…生まれ持っての「権力」があるのだから。





「…!!」


一秒一秒ごとに、妃候補たちが近づいてくる。

小刀が彼女たちの目に入ってしまえばきっとけたたましい叫び声が響き渡るだろう。

そうなってしまえば…どうなるか。


冷や汗が一気に噴き出してくる。

喉が渇く。

どうすればいいのか、わからない。


万華の耳元でじっとその様子を眺めている零蘭。



「…あんたなんて女。ここにはいらないのよ。だから、ここで死んじゃえば?」



誰にも聞こえない小さな声で零蘭は確かに言った。

残酷な言葉を何のためらいものなく言ってのけた。


万華の中で何かがはじけた。

昔のように幸せに暮らしていたあの安らぎがここにはない。

どんなに苦しくても足掻いても、権力という大きな壁が聳え立ち、邪魔をする。


自分一人ではどうしようもない。



万華は、この場所にいることが嫌なのだ。

嫌ならば、ここからいなくなればいい。

逃げてしまおう。やめてしまおう。何もかも。



万華は、木箱に入っている小刀を着物の裾に入れ込んだ。

そして音もなく、零蘭を腕で押しのける。


「きゃ!?」



「零蘭!!」



零蘭に気を足られていた妃候補たちを後目に、万華はものすごい速さで部屋から飛び出していった。



「ちょっと…何なのよ!あいつ!!」


「ほっときなさい!!」


1人の女が、万華を追おうとする。

しかし、それを零蘭が許すことはなかった。


「なんでよ!零蘭!?」




「どうせ、もうここには帰ってこないんだから…」







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