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桜歌  作者: 碧梨
3/8

序章 3 「奴隷」



「おい!起きろ!!」



薄暗い景色が目の前に広がる。

青々と美しい草原の景色とはまるで異なる、湿った空気が支配する牢屋。

万華と黒は、お互いに体を寄り添いながら目を覚ます。



「ん…」



あの後のこと、遊牧民達は降伏し、鄭国に連れてこられた。

二人の父親が殺されてしまい成すすべもなく、戦意を喪失した仲間たち。

その中でも逆らう者はいた。しかし、容赦なく殺された。

一体何人殺されたのか分からない。

老人や幼子でも逆らえば容赦なく切り捨てられ、死んだ遺体は草原に捨てられた。

母親と共にいたが、兵士の手によって引き離され、後を追おうとしたが、黒と共に捕らえられてしまった。



そして今、遊牧民達がやってきて数日。

彼らは暗い牢屋に閉じこめられ、時間がくれば労働させられる。



「おい、いつまで休んでいる!時間だ!早く出ろ!!」



牢屋の番人が力ごなしに、牢屋の柵を強く叩く。

あまりの大きな音に、二人は思わず体を震わせる。

暗い闇の中に包みこまれている顔は細くやつれ、以前のような明るさはまるでない。



身に着けていたものはすべて奪われた。

今は、最低限の露出を抑えられたボロボロの布を着せられている。

両手足には鎖が繋がれ、重石を引きずりながら歩かなくてはならない。

万華は疲れ切った顔をしている黒の手にそっと触れて、立ち上がる。



あれは悪い夢なのではないか?

同じ時間をずっと過ごしていたあの父親があんな一瞬で死んだことが未だに信じられない。

時に厳しく、優しかった父親。

燃え広がる炎の中で、母親や仲間たちを助け出してくれた勇敢な姿を忘れることはない。



「おい、早く行け!!」


「うるせえな…!」



乱暴な言葉を投げかけられ、憎まれ口を呟く黒。

恨み、つらみ…憎しみを込めて番人を睨みつけている。



「あぁ?なんだその態度は!?」



番人は黒の手に繋がれている鎖を引き寄せる。

彼の力に負けるように黒は、冷たい床に体をたたきつけられてしまう。



「黒!」



万華がすぐさま駆け寄り、力なく倒れている弟を抱き寄せる。

思わず、番人を見つめる。



「なんだ?その目はよ。女のくせに生意気な目をしてるんじゃねぇよ!」



乱暴な言葉を投げつけてくる兵士を無視をし、黒の手を繋いで歩き出す。

横を通り過ぎる際に、舌打ちもされた気がするがそんなことを気にしてなどいられない。



「姉ちゃん…ごめん…」


「…大丈夫よ」



ただ、俯いて後ろからついてくる番人の視線を気にしながらも万華はほほ笑む。

少し痩せた彼女の笑顔も以前のような明るさはない。




牢屋から出て、まぶしい日差しが二人を出迎える。

しかしその青空は二人が望んでいた光ではない。


灼熱の太陽が照らす。


まるで釜茹でに煮込まれるような暑さ。


草原で暮らしていたような柔らかい風は吹かない。

たとえ、吹いたとしても柔らかくも優しくもない。

緩く、体温を下げてくれない。


労働をしている奴隷たちを見ると、建築するうえで必要不可欠となる木や岩を…鉱石などを運んでいる。

造っているこの建物は新皇帝の妃たちが住まう後宮となるのだ。

残っている後宮は、前皇帝のものであったが新しいものができれば取り壊される。

もちろんその処理も共に行われている。

恐らく、今の後宮で生活をしているのは側近達と女官達であろう。

理由として挙げられるのは、新皇帝が新しい物好きでもあって、新たな王宮を建てられるように命令を下したからだ。

そのための労働に必要な一のことには気にせず自分のために造らせていたのだ。


勿論このことは側近達ぐらいしか知ることはない。

奴隷として捕らえられた遊牧民達や下級民などは汗水を流し、辛い労働と生活に耐えているのである。


二人は列に並んで、共に荷を運ぶ。

列が乱れることがないか、兵士たちが監視役としてじっとその場に立ち尽くしている。

強い日差しにも耐え、ただ重たい荷を運び続ける。


ところがその時、万華の前にいた老女が、力尽きたのか地に膝をつく。



「大丈夫ですか!?」



老女に駆けつける万華。

抱き上げると、その身体が酷くやつれ、息も絶え絶えである。

薄い体には骨が浮かび上がっている。



だが…老女がそんな状態ということにも気にせずに…



「何を休んでいる、とっとと運べ!」



兵が太い棒で老女の背中を叩きつける。

真っ赤に晴れ上がり、血が溢れ出す。



「やめて!この人の分は私が運びますから、今すぐに休ませてあげてください!」



老女を庇うように万華は両手を広げて、兵の前へ立ちふさがる。

兵はそんな万華を見て、あざけ笑う。



「ふんっ。ならば今すぐ運べよ」



見下してくる兵を睨み付け、老女が背負っていた石を両手で持ち上げ歩きだす。

万華の額からは汗が溢れ出す。

手先が痺れる。腕が悲鳴をあげる。

背中に背負っている石と両手で抱えている石。

どちらもかなりの大きさで、ふつうの男性が運んでもかなり辛い重さである。

それでも強い足取りで歩き続ける。





僅かではあるが、ようやく休憩する時間がやってきた。

万華と黒は、木陰で休む。

多くの素材を運んだ二人の身体は、既にボロボロである。

疲れきっているため、二人は話す力もなくただ木にもたれ掛かって疲れを癒すのであった。



「もし…そこのお嬢さん…」



ふと、二人の目の前に何者かが話しかけてきた。

万華は重たい瞼を開くと、そこにいたのはあの老女であった。



「貴女は…あの時の…?」


「そうじゃ…。先ほどはこんな年寄りを庇ってくださり、本当にすまんかったのぅ…」



老女は覚束無い歩き方ではあるが、顔色が少しだけ良くなっている。



「姉ちゃん、この人とは知り合いなの?」



二人の関係に黒は興味を持ったのか、老女を見つめる。

万華は少し笑いながら、黒には老女との出会いを話して老女に軽く自分と黒の自己紹介をした。



「そうかい、そうかい。姉弟だったんじゃな…。いやはや、まだこんな場所に若い二人がいたとは…」



老女は、深い皺を寄せながら穏やかに笑う。

黒と万華はそんな老女の笑顔に答えるように笑う。



「私は名前を持っていないこの国の下級市民なんじゃが、お前さんたちはどこからきたのじゃ?」


「私達は…元は遊牧民の者です…」


「なんと…お前さんたちは遊牧民じゃったのか…。さぞつらい思いをしてきたであろうに…」


「えぇ…。色々とありました…」



正直に万華は、自分たちの素性を偽りなく老婆に話す。

目の前で起きた悲劇のこと。

父親が殺されてしまったこと。



「まさかそんなことになっておるとは…。しかも、父親を目の前で…さぞ、辛かったであろう…」



ある程度の話を聞いた後に、老女は静かに俯いたまま呟く。

言いしれようもない悲しみに、かける言葉も見つかりはしない。


「あの…その、一つお聞きしたいのですが…私たちの母を知りませんか?」



老婆の言葉に二人はふとあの時以来、離れ離れになってしまった母親のことを尋ねる。


父親の死を何よりも嘆いていた母親。

兵士たちに追われながらも、必死に二人を逃がそうとしてくれた。

引き離される瞬間まで、名前を呼び続けてくれた。


そんな母親が、今どこで何をしているのか…二人にはまるで検討がつかない。


「弟と同じ黒い髪をしている女性なんですが…」


「さてのぅ…。おぬしたち二人に似ているとしても、たくさんの奴隷たちがおるし…。

 すまないが、見かけてはおらんな…」


「そう、ですか…」


見つかるはずがない。

ここ数日、奴隷として働いているけれども一度でも母親の姿を見たことはない。

特徴があったとしても、衣服はすでに取り上げられこんなにも水ぼらしい服を着ているのだから。

誰が誰なのかわからないといったのが現状である。


「さて…、ワシは今から支給される水をもらいに行くが、一緒に、どうじゃ?」


この休憩時間は、本当に短い。

そんな中でも一応労働者のための水支給ぐらいはある。

たった一杯の水であったとしても、彼らにとっては命の次に大切なものだからだ。


そのため、人の欲望と言うものはなんともどす黒い。

労働者たちは限られた水を求めて、争いが起きる。

生き残るためには多少の犠牲はいとわない。


万華と黒はそんな状況の中でもなんとか姉弟の関係は保っていた。

決してお互いを恨まず、何があってもお互いの心配をしていた。

しかし、さすがにこれ以上続くと一体どうなってしまうのか分からない。



照り付ける灼熱の太陽に、ほんのわずかだが雲がかかる。

二人は老女と共に水が支給される場所に足を踏み入れた。



「ふざけんな!この野郎!!」



叫び声が響き渡る。

何事かと思い、万華は自分のすぐ側にいる男性に話しかける。

困ったような顔をしながらも、男性は答えてくれた。



「どうやら、一人の女が水を一人分以上とってしまったらしい。そこで気性の荒い男が女を一方的に攻めてね…」


「なんとまぁ…そんなことがあったのかい…」



多くの奴隷たちが女を囲み、罵詈雑言を投げ飛ばす。

黒は、その群れの中をかき分けるように中へ入り込んでいく。


「ちょ、ちょっと黒!」




奥へ進んでいこうとする弟を万華は追いかける。

たくさんの声が行き交う中で、黒は足を突然止めて叫ぶ。



「母さん!!」




と。



*******








鄭国には、兵士と言っても大きく二つの種類が存在している。

一つは「武官」

一般的な平民から兵士となったもののことを指す。

仕事内容としては、戦場への参加。訓練。国を脅かすものを討伐すること。


そしてもう一つは「見廻り組」と呼ばれる組織が存在する。

彼らは貴族出身者のみで構成されており、武官より上の立場に存在している。

主な仕事内容はその名の通り、都の警護、王宮や後宮の見廻りである。

戦場への出兵をされることもあるが、兵力不足である場合のみに限る。


身分制度が強い国であるため武官と見廻り組の間では派閥が生まれている。


貴族で構成されている見廻り組は、国の政を行う文官からすると信頼関係が高いものの武官は平民だけで構成されているため信頼は低い。


奴隷たちの管理を担っているのは、身分の低い武官が行っている。

その中でも、まだ経験が浅いものたちが抜擢されることが多く奴隷同士の暴動があったとしてもそれを抑えることは難しいのである。

自分たちの実力と力量に見合っていない限りまともな仕事はもらうことはない。



王宮から離れた場所に位置する武官専用の兵舎「武者宮ぶしゃきゅう

そこに一人の若々しい兵士が全速力で走り、兵舎に入り込んでくる。



「おい!おい!またあいつらやってるぞ!?」



扉を勢いよく開き、息を切らしながら叫ぶ。

話しかけられた仲間の兵士二人は動じることなく、自室にある机にだらしなく足を乗せて怠けている。



「またかよ?全く飽きない奴らだな~…」


「おいおい、そんな呑気なこと言ってて良いのかよ!?この手の騒ぎは俺たちがなんとかしないとダメなんじゃないのか?」


「どうせ止めたってまたやるだろ?あいつらには学習能力がないから無駄さ、無駄」


「で、でもよ…今日は見廻り組が来るんだぜ?しっかり対処しておかないと俺たちの首が飛ぶことになるんじゃ…!?」



焦りを見せる若い兵士を後目に、だらしのない兵士は手をぶらぶらとさせながら机に乗っている酒に手を伸ばして一杯飲む。



「ハハハ…どーせ見廻り組の奴達も俺たちと同じようにめんどくさく感じてるはずさ。心配いらねぇよ」


「でも、でもよぉ!」


「うるせぇなぁ!お前もこんなかったるい仕事のことなんか忘れて、一杯やろうぜー?」



既に何杯か飲んでいたのか、顔を真っ赤にさせながら仲間を酒に誘う。

その様子にさらに焦りを感じ、どうすればいいのかまるで分らずにその場で立ち尽くしてしまう。



すると、トントンと扉をたたく音が聞こえた。




「あ?」



扉が開き、そこには普通の兵士が纏う服とは違う兵士がいた。

白髪の髪をなびかせた、明らかに高貴な生まれであることがわかる容姿をしている男が現れる。



「あ…!あっ…!」



間抜けな声を出すが、誰が入ってきたのかようやく分かったのか急い酒のみ兵士はすぐさまその場に立ち上がる。



「おい、お前達。…外で騒ぎが起きているんだろう?

 奴隷たちの管理をするのがお前たちの仕事じゃないのか?」



その男の顔を見た瞬間に兵士二人は冷たい何かが走った。

噂をすれば影とはよく言ったものだ。


見廻り組だ。


今現れた白髪の男は、明らかに二人が持ちえない高貴な雰囲気を纏っている。

美しい髪と凛とした目。

もはやここまでかと言わんばかりに兵士二人組は深々と頭を下げる。



「も…申し訳ありません!!」


「い…今からすぐに事を片付ける次第でありますっ!」



必死な形相で頭を下げる兵士たちの姿は滑稽で、白髪の男は飽きれたように軽くため息をつく。



「…もう良い。お前達の変わりは別の者に行かせた」


「な…なんと!?」



予想外な言葉が飛び、兵たち二人は顔を上げる。

またその様子に飽きれたのか、見廻り組の男はため息とつきながら前髪をかき上げる。



「お前達じゃ頼りにならないから代わりを出しただけだ」


「そ、そんなわざわざ見廻り組の皆さんに手を煩わせるなんて…」


「よくそんな言葉が出るな?昼間っから酒なんぞをぶら下げている奴にだけは言われたくない」


「う。そ、それは…」



目を細めて、男は二人を睨みつける。

あまりにも威厳のあるその顔を見ることもできずにその場で硬直する。



「お前たちは鄭国の兵士としてその身を捧げるのだろう?覚悟がないのなら、すぐにここから立ち去れ。いいな?」


「は、はい…」


厳しい一言を放たれた兵士たちはただその場を硬直する。

白髪の男は静かに髪をなびかせながら、扉を開けてその場から去った。







***********






太陽と照らす光が厚い雨雲に包み込まれていく。

たくさんの奴隷たちが、一人の女を囲んでいる中で黒は目の前にいる母親を呼んだ。

よく見ると、その場で横たわっており動く気配がない。



「母さん!!」



黒はすぐに母親の元に駆けつけて、抱き上げる。

だが、その顔は酷く腫れ上がった顔をしており、留めていない。

無残な姿となった姿に、黒はその場で立ち尽くしてしまう。

あまりのことに万華も急いで駆け寄ろうとするが、一人の男の手によって遮られた。



「あ?なんだ?この女の子どもか?」



万華を遮った男は巨大な身体を持ち、じっと見つめてくる。

この男が今回の騒ぎの犯人であることに万華はすぐに分かった。

憎しみに似た感情が込みあがるが、男の顔は酷く残忍な顔をしており、逆らえばどうなるのか分からない。


さらに周囲には駆け寄った黒と万華をまるで見世物のようにじっと見つめてくる奴隷たち。

まるで氷のように冷たい。

自分たちは何もしていないのになぜこのような視線を浴びなくてはならないのか。



「その女は、俺たちが必死で手に入れようとした水を奪おうとしたんだよ」


「そうだ。だから当然の罰を与えたわけだ」



水が欲しかった。

たったそれだけの理由だったのかもしれない。

けれども、それでも、なぜ母親がこんな無残な姿にされなければならないのか。


まだ生きているかどうかもわからない母親の体を強く強く抱きしめる。

万華は巨大な男に遮られたまま、弟の姿を見つめることしかできなかった。



「なんで…なんで母さんまでこんなことにならないとだめなんだよ…」


「あ?被害者面か?ここでは、生きるためにはどんな手を使っても構わねぇんだよ」



巨大な男が、黒を睨みつけながら万華をじっと見つめる。

あまりにも身体的差があるために、その場で固まることしかできない。



「ふーん、良い女だな…まさかこんな場所でこんな良い女がいたなんて思いも知らなかったぜ」



男は万華を捕まえ、周りにいる奴隷たちを混乱の渦へ巻き込む。

逆らえば、あの母親のようにされてしまう恐怖。

労働者達は、ただ緊迫した空気の中で何もすることが出来ない。



「離して!離してください!!」


必死に男の腕の中で暴れる万華。

だが男はむしろそんな様子の彼女を見て楽しんでいるように見える。



「おうおう、よく暴れるなぁ。こんな国で働く労働者同士なんだからよ、仲良くしようぜ?」


「ふざけないで!!私の母さんと弟に手をかけた奴なんかに、大人しく出来るわけないでしょう!!」


「おおー、言ってくれるじゃねぇか。お嬢ちゃん」



言葉での抵抗も万華はするが、それでも男は離れようとしない。

あまりのしつこさに苛立ちを感じる。


「姉ちゃん!!姉ちゃんから手を離せ!!」


「あぁ?うるせぇな。ちょっと黙れよガキが!」


男は子どもである黒に対して容赦なく怒鳴り、殴りかかろうとする。



だが、そんな緊迫した空気の中。

若い男の声が響いた。



「離せ」



人混みの中から、茶色と緑の瞳を持った青年が輪の中から前に出てきた。

まるで黒を守るように、鞘をおさめたまま男の拳を受け止めている。



「なんだぁ?お前は…?」



見慣れない人物の登場に、巨大な男は眉間に皺を寄せ、睨みつける。

だが青年は、臆することなく深緑の瞳で男を見つめる。



「…聞こえなかったのか?その人を離せと言っているんだ。」



凛とした声で発せられる言葉。

そして、印象的な深緑の瞳で男を睨みつけるその姿はどこか威圧感を感じさせる。

大男はこの青年が放つ威圧感に何かを察したのか、一気に冷や汗をかいてしまう。

黒は何が起きたのか分からず、ただぼーっとその場に立ち尽くしている。

青年はぐっと腕に力を込め、男の腕を鞘から押し出す。



「!?」



男は体制を崩し、一度倒れてしまう。

その隙に青年は黒を抱きかかえ、万華のもとにあっさりと返した。


「…大丈夫ですか?」


先ほどとは違い、とても優しい声色で青年は万華を落ち着かせる。

深緑の目が印象的で、髪型もあいまってか中世的な印象を持っている。

だが、その隙を狙ってか巨大な男が青年の背後に現れる。



「危ない!!」



あまりのことに万華は青年を心配して、悲鳴に似た声をあげる。

その声が発せられる前からすでに知っていたのか、振り返り男がまた拳を振り下ろす前に鞘に納められた剣でわき腹に一撃を打つ。


「がっ!?」


強烈な一撃が入ったことで、その場に座り込んでしまう。

大男は自分の実力を簡単に見透かされたと感じたのかギリッと強く唇を噛み締める。



「てめぇ…ふざけるんじゃねぇぞ…!」


「もうこれ以上のやめておけ。さらに罪を重ねることで厳しい処罰を受けることになるぞ」


「うるせぇ!!俺はお前たちのために働いてるんじゃねえ!なんで俺たちがこんなことをしないとならねぇんだ!!」



吠える大男。

口から発せられる言葉に思わず万華と黒は驚いてしまう。

この男も自分たちとなんら変わらない立場であったのではないかと。


青年は何も言葉を告げることもなく、大男が跪きながら握りしめているものを見てそっと静かに剣を抜く。

その手に握りしめられていたのは、資材として使われるはずの木材だった。

もはや、自棄となっているのかその木材はかなりの太さがある。



「この野郎がぁあああ!!!」



男はそのまま青年に向かって木材を振り下ろす。

何も恐れることなく、青年は抜刀し風を切るように振る。


真っ二つとなった木材が空を飛び、カタン…と虚しい音が響く。

青年が大男を追撃するのはまだ止まっていない。

彼の左手には剣が握られ、そのまま全速力で大男に向かう。



「んのやろがぁぁ!!」



男は、本気で青年を止めるために再度腕を振りかぶって殴りかかる。

目にも留まらぬ速さで大男の拳は、青年に向かって襲い掛かる。

だが青年はその瞬間を待っていたのか、一つに括った長い髪を靡かせながら身を屈んで避けた。



そして、青年は右腰に備え付けられている剣の鞘を右手で引き抜いて、大男の腸に強い刺激を与えた。



「ゲボッ!?」



予想をはるかに超えた威力だったのか大男は口から唾液を吐き出しその場に倒れこんでしまった。


青年は息を一切乱さずに、一度抜いた剣を鞘になおす。

逆に大男はあまりの激痛に、腹を抱えながら苦しそうに横たわっている。


その状況を周囲にいる者たちはあまりの出来事に、唖然としてしまっている。

だがその状況を見て一番驚いたのは万華と黒であった。

あまりの青年の強さに、目を丸くしている。



「…怪我はありませんか?」



青年はまた、先ほど同じ優しい笑顔と声色でゆっくりと万華に近づいてきた。

万華の意識は、青年に声をかけられた瞬間に戻った。



「あは…はい…ありがとうございます…」



まだ多少の動揺を感じながらも、万華ははっきりと頷く。

その様子を見て、青年は安心したのかまた柔らかく笑う。


そうして、なんとか騒ぎは突然にして現れた青年の手によって落ち着いた。

だがしかし、万華はまだ黒と母親のことを確認していない。

そのことを思い出した二人は急いで母親のもとに駆け寄る。


「母さん!」


青年も二人と共に母親の傍に寄り添う。

そっと腕の脈を計ってみると、目を細める。

脈を感じない。呼吸もしていない。

すでに氷のように冷たくなった体温だけが伝わってくる。


静かに青年は、首を振る。

間に合わなかった。


万華と黒は母親と再び言葉を交えることは許されなかった。



「嘘だ。嘘だろ…?」


「…うっ…」



どうしようもない無力感。

唇を噛みしめて、万華は涙を拭き取ろうとするが何度拭いても止まらない。

何故、こんなことになったのか…。

それは誰にも分からない。



原因と言う原因はあるが、何故このような結果になってしまったのか。


すべての気力が虚しく無くなり、黒はパタンと膝を地面につける。

止めどなく流れてしまう涙。

そしてまた、大切な家族を失ってしまった悲壮感。



「…。」



二人が悲しみに打ちひしがれている合間も青年はただその光景を見つめていた。

ほかの奴隷たちも、ただ見つめることしかできない。


太陽を隠したぶ厚い空雲から、冷たい雨が降り始める。

ただその場を濡らすだけだった。








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