序章 1 「遊牧民」
この物語はフィクションであり、古代中国をモデルにした世界観です(史実とは関係ありません)
中国の漢時代のイメージです。
はるか昔のことである。
かつて…この大地には何も存在していなかった。
虚無が広がる世界に、二人の神が舞い降りたのであった。
1人は太陽の女神。
彼女はそのまばゆい光で、海を作り上げ、生き物や人間…生命を創造した。
1人は月の神。
彼はその漆黒の闇で、生命が還るべきである死という概念を生み出した。
異なる性質を持つ二人の神は最後に、自分たちを守護するために神獣を生み出した。
天は命を育められるように紅き死を知らぬ、不死鳥に。
月は命に正しき冥界の地へ誘える、漆黒の龍を。
神獣は神が作りし大地に舞い降りた。
そして、人々共に国を作り上げた。
しかし国の存続は長く続くことはなかった。
相反する二匹の神獣は、互いが互いを相容れないため人々を導く道を違え、共にに共存することが出来なくなった。
多くの犠牲者の血が、大地に流れ込む。
神獣を生み出した神々は、己が生み出した者たちの惨状を嘆いた。
そしてそれぞれの大地の間に、大河を生み出したのであった。
再び神獣たちが争わぬように。
二度と人が犠牲にならぬように。
己の浅はかさを恥じた神獣たちは、人の姿となり自らを「王」と名乗った。
それぞれ相反する存在でありながらも、生と死をつかさどる者として共に人々の行く末を見守ることにした。
これが、鄭国、榎国の始まりである。
書物「鄭榎建国碑文」より
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―桜歌―
序章「遊牧民」
どこまでも青く広がる美しい草原。
心地よい春風が吹き渡る中で、羊たちが草花を食べている。
体毛は柔らかく、陽の光を浴びて心地よさそうだ。
数匹の羊たちに囲まれている中で、一人の少女が心地よさげに眠っていた。
「…。」
少女は小さな寝息を立てて、起きる気配がまるでない。
美しい深紫色の髪を風で遊ばせながら、草原の横になっている。
見た目の年齢からすると、15、16歳を思わせる幼さが少し印象的である。
羊たちの鳴き声がこだまする中で、ひときわ小さな羊が少女に近づいてくる。
まだ生まれて間もない子羊は、まるで親を求めるように足にすり寄ったり、頬に顔を摺り寄せたりする。
「ん…?」
子羊の感覚に気が付いたのか、眠たげな吐息を漏らしながら少女は目を開く。
その瞳は髪と同じ深紫色で、薄いまぶたを擦る。
少女が起きたことが嬉しいのか、子羊はその場で飛び跳ねながらそっと膝の上に乗るのであった。
「…あ、あれ…?私、眠っていたのかしら…?」
自分が眠っていたことに気が付いていなかったのか、きょとんとした表情を浮かべながら子羊の頭を撫でる。子羊は甘えた声で鳴く。
眠っていたことに気が付いていないというのもなんとも間抜けな話だ…少女はそう思いながらまだ自分の周りにいる羊たちを見つめる。
気持ちよさそうにごちそうにありついている羊たち。
しかし、空は美しかった青空をかき消すように暗雲が徐々に現れた。
「あら…いけない。一雨来てしまうわね…」
彼女はぽつりと独り言を呟き、大きく息を吸ってうつくしい歌声を響かせる。
まるで羊たちに話しかけるように。優しい声色で、安心できる不思議な調べを奏でながら。
子羊は少女のそばを離れようとはせずに、寄り添っている。
羊たちは、少女の歌声を聴いた瞬間にふと空を見上げると異変に気が付いたのか集団で移動を始める。まるで、心が通っているようだ。
「みんな、帰りましょう。…家へ」
雨が降る時には、羊たちは屋根のあるテントのような場所に集まっていた。
全員無事に移動させることができたことに安堵のため息を溢す。
「万華、すまなかったな。お前に羊たちの世話を任せてしまって」
万華と呼んだ人物は、背後にいた。
同じ毛色を持つ男性。背丈は高く、たくましい体つきをしている。
おそらく父親であろう。よく見れば万華と同じ温和な目元だ。
「ううん、お父さん。気にしなくて大丈夫よ」
少女…万華は、父親を安心させるかのようにとても穏やかな笑みを浮かべる。
その笑顔に答えるように、父親は彼女の頭をそっと撫でる。
暖かくて少し大きな手に包まれて、少しくすぐったい。
「そうかそうか。羊たちもお前にすっかり懐いているからな。安心して任せられるよ。」
父親は困ったように笑いながら愛おしい娘の髪を優しく撫でる。
優しい手つきから感じられる感覚が、万華にとってはとても心地よく目元を細める。
ひとしきり親子の会話が弾んだ後、二人は家屋の中に入ることにした。
彼ら、彼女たちは遊牧民だ。
遊牧民は一つの家に固まって生活をすることはなく、移動をしながら生活をしている。
「ゲル」と呼ばれる移動式の家に住み、家畜を遊牧し、木の実や魚釣りなど食料を蓄えながら自由に移動をしながら生きている少数民族だ。
「お父さん、そういえば黒はどうしたの?昼間から見ていないけれど…」
家屋の中に入って辺りを見回す万華。
親子は、静かに絨毯の上に座る。
ゲルの中にあるものはすべて遊牧民が作ったものだ。
動物の毛皮を使い、縫込んだもの。洋服などもすべて手製だ。
よく見れば自然信仰の象徴とされる文様の飾り物もある。
「黒か?…あぁ、あの子のことだから、きっと今日生まれる子羊のことが心配なんだろうな。
まぁ、初めて羊の出産を見るのだから気になって仕方ないんだろう」
手製のものを眺めながら、父親は口を開く。
黒というのはおそらく万華にとっては家族の一人なのだろう。
「そうなの…」
「これもある意味、いい経験になるさ。命が生まれる瞬間は中々見ることは出来ないからな。」
少し頬を膨らませる娘を後目に、父親はほっと一息をつきながら宥める。
「そういえば母さんも羊の様子を見に行ってくると言っていたな…。きっと黒と一緒にいるな。
ただ、あまり出産の手伝いをするのは、羊にとってもよくはないと注意はしたんだがなぁ…」
父はこうしてどっしりと構えているにも関わらず、母と黒は心配性なのだ。
仕方ないと言わないばかりに、万華はその場に立ち上がる。
「父さんは、明日も早いしゆっくりと休んでいて。
私も出産のことちょっと気にしていたし、少しだけ様子を見てきてもいい?」
「お、お前もいくのか…!?まぁ、止めはしないが…。
くれぐれもほどほどにするんだぞ?明日は明日で少し遠い場所に移動をするつもりだからな」
父の言葉に万華は一瞬目を見開く。
しかし、それ以上深く言及することは敢えてしなかった。
「はい、いってきます」
踵を返して、ゲルから出る。
目の前に広がる景色は、先ほどの優しい夕焼け空とは打って変わり真っ黒な夜空だった。
雨はまだ降っている。
体をなるべく濡らさないように、腕で頭を隠しながら羊たちが眠っている小屋に入る。
夜であるため、辺りは暗いが一つの光が見えた。
「母さん!黒!」
一つの光に向かって万華は、探し人を呼ぶ。
するとその声をかき消すかのように「しー!」っと、静かにするように促す声が聞こえた。
それに思わず口を手で塞いで少しだけ、赤面する。
「姉ちゃん声が大きいよ!もう足が出てきているんだから…!」
暗い明りに照らされながら現れたのは、少年と女性だった。
二人とも漆黒の髪を持ち、親子であることが一目でわかる。
少年の髪は少しくせ毛で母親も同じだ。
おそらくこの二人が万華の弟である「黒」と母親だ。
「黒、その手…」
「あぁ…これ?足が中々出てこないから少しだけ、引っ張ったんだよ」
黒の両手を見ると真っ赤だ。
見せびらかすように万華に見せるが、彼女は見慣れているからか表情がゆがむことはない。
「…もう大丈夫だわ。足も出てきているから、もうほんの少しで生まれるわよ」
優しい声色で母親は、出産の様子を見ている。
羊は苦しそうにその場に倒れ、いきんでいる。
「…もう少し、もう少しなんだけどなぁ…」
「…。」
心配になったのか万華は羊の傍に寄り添い、黒と同じように背をかがんでじっと見つめる。
その姿はまさに瓜二つで、母親は思わず笑みがこぼれた。
苦しそうにしている羊は、呼吸を整えながら何度も何度も痛みに耐えている。
見ている側からしても思わず力が入ってしまうのか、とても真剣な眼差しで見守られている。
「頑張って…もう少しよ…」
囁くように万華が呟くとそれに応えるように、羊は大きな声を上げる。
瞬間、小さな命が力弱く産まれ落ちた。
「産まれた…!」
弟の黒は、その感動を抑えきれず思わず感嘆の声を漏らした。
すぐさま母親は生まれた子羊を優しく布で覆い、そっと体を拭いて母羊の元へ近づける。
ぐったりとしている中でも、母羊は愛しい我が子を優しく舐めとり始めた。
そして子羊は、大きな産声を上げた。
「あぁ…良かった…。無事に生まれて…」
その様子に安堵したのか、万華はその場に力なく座り込む。
黒も万華の傍で座り込むが、目を輝かせながら羊たちの様子を見ている。
「よかったぁ…本当に…!ねぇ、姉ちゃん!」
「えぇ、ほんとうね…」
子羊は足を震わせながらも、懸命に立ち上がり母羊の乳を飲み始める。
生命の誕生の瞬間を、じっと三人は見守り続けていたのであった。
「さ、二人とも。もうずいぶんと遅い時間になってしまったわね。
あとは母さんが面倒を見るから、安心して眠りなさい」
生まれて間もない子羊を母羊は大切に愛おしく見つめている万華と黒。
二人の母親は安心させるように微笑む。
「…うん、でもお母さんは?」
黒が心配そうに母親を見つめる。
母親は黒の頬と頭を撫でて、優しく話しかける。
「大丈夫。母さんもすぐにお前たちと一緒に寝ることにするわ。
黒、本当によく頑張ってくれたわね。この子たちもきっとあなたに感謝しているはずよ」
ふと気が付けば、産れた子羊を祝福するかのように仲間の羊たちも集まってきていた。
母羊は黒を見つめて、何かを伝えるように鳴き声をあげる。
その声は、母親の言っていたようにやさしさが伝わっているように感じられる。
「へへへ…よかった。ほんとによかった」
照れくさいようなくすぐったいような感覚を感じながらも、黒は笑う。
万華はそっと彼の手を握りしめて、そのまま静かに羊たちのいる小屋から出て行くことにした。
どこか誇らしげな顔をしながら黒は笑う。
「父さん喜んでくれたらいいな!」
「ふふふ、そうね。今はもう寝てしまっているかもしれないけど、明日伝えたらいいわ」
目を細めて、嬉しそうに話す。
血で汚れた手を、溜池から組んだ水で洗い流す。
何かを思い出したように黒は、万華を見る。
「そういや、姉ちゃん。父さんから聞いたんだけど、明日にはもう移住するんだって?」
「ええ、そうよ」
濡れた手を手ぬぐいで拭き取りながら、黒は夜空を眺める。
「なんか最近移住するの早くない?ここに来たのもまだ4日しか経ってないのにさ…」
少しつまらなさそうに唇を尖らす。
苦笑を浮かべながらも、万華は目を閉じて口を開く。
「そうね。それに明日は汀たちがいる一団と交流したいって前に父さんが言っていたからかもしれないわね…」
遊牧民は各地で様々なグループが点在している。
一つのグループにおよそ20人から50人近くの人が、共存している。
無論リーダーも必要となり、「統領」と呼ばれている。
万華と黒の家族が属しているグループは少人数で、20人ぐらいしかいない。
二人の父親は、この遊牧民の統領だ。
無論、息子である黒もいつかは、父親の跡を継いでこの一団をまとめていかなくてはならないのだ。
「汀のやつ元気にしているのかなぁ…」
「あの子のことだから、きっと元気にしているわよ。」
ゲルの中に入り、寝室にある布団の中に入り、万華と黒はお互いに体を寄せあう。
羊の毛で作られた毛布はとても柔らかく、疲れた身体を癒してくれる。
「…でも、俺…明日はうれしいようでうれしくないんだ…」
ふと、黒が目を伏せて悲しそうにつぶやく。
万華はその理由が分からず、心配げに頭を撫でる。
「なぜ?」
「だって、汀の兄貴も来るんだろ…?」
その言葉に万華は、少し動揺する。
「…炳のこと?」
「うん、そうだよ。父さんが、爺さんたちと一緒に話していたのを俺、聞いたんだ。姉ちゃんももう16歳だからそろそろ嫁として嫁いでもいいだろうって…」
「…そう…」
「俺、汀も炳さんのこと嫌いじゃないし元々姉ちゃんと炳さんは許嫁だったしいつかは一緒になるんだろうな…って思ってたんだ。でも…」
寂しそうに呟く黒を安心させるように万華は背中を擦る。
姉の体温が背中から伝わり、黒は眠たげな表情を浮かべた。
「…黒、そんな心配しないで。大丈夫よ。…だから今は静かにおやすみなさい。」
「…うん。おやすみ。姉ちゃん…」
万華は、囁くように歌を歌う。
歌に合わせて、背中を優しく摩ると黒はすぐに寝息を立て始める。
寝顔からはまだまだ子どもらしい寝顔を見て思わず苦笑する。
しばらく、その寝顔を眺めた後万華も静かに眠りにつくことにしたのであった。
前回掲載していたものから新しいエピソードを追加しました。
物語の始まり方も多少変化していますが、内容の流れ自体には大きな変化は特にありません。