16:覚悟を持って
西の空が茜色に染まる時間まで、たっぷりと遊びすぎた二人は、気まずそうに婆様の家に戻る。
案の定、婆様は二人をしこたま叱りつけると、てきぱきと食事を準備し、食べ終わるやアルドを布団に押し込んでしまった。
まだ掘り終わってないと抵抗するアルドだったが、やはりそこは婆様の方が強い。
すっかり叱りつけられたアルドは、結局大人しく寝る事にした。
アルドを寝かしつけるのを確認すると、ルルドは婆様に挨拶し、家を後にする。
すっかり日が沈み、遠くの空にうっすらと残る太陽の残骸を眺め、ルルドは意を決したようにヘラルドの家の前にと降り立った。
日が沈み監視の姿はもう無い。
ルルドは何度か深呼吸をすると、一声かけ天幕を潜った。
生まれ育った天幕内は、相変わらず変わった様子は無い。
天幕の奥で、囲炉裏端に座るヘラルドは、集落に戻ったばかりの時に比べ、幾分か顔色は良くなってはいたが、相変わらず目は落ち窪んだままだった。
ルルドはヘラルドの姿を確認すると、何も言わず囲炉裏を囲むように腰を降ろす。
「思ったより元気そうで良かった。これ、良かったら食べて。海に降りた時知り合った海底遊牧民から貰った鮭を干した物」
ルルドはあえて、今まで隠していた事を何事も無いかのように話す。
やはりルルドの思った通り、ヘラルドは海に降りた事を咎めず、差し出された鮭を受け取りまじまじと眺めている。
それからはしばらく、お互い口を開く事も無く、時折薪を追加する為手を動かす程度。
何から話すべきかと考えあぐねるルルドの耳に、落ち着いた声色が届いた。
「この鮭はどうして食べたら美味いんだ。このまま焼くのか、持ってくるなら説明くらいしろ」
怒っているわけでは無いが、どうにも得体の知れない物を見るように、ヘラルドは未だ手に持つ鮭を睨み付けていた。
「どうしても何も、大きさ以外、空の鮭と変わらないよ。そのまま焼いても煮込んでも、何しても美味かった。溢れ出す脂にびっくりするよきっと」
見慣れないヘラルドの様子に、ルルドはどうにもはっきりしない口調で返す。
返事を聞いたヘラルドは、囲炉裏に刺していた鉄串を一本引き抜くと、灰を吹き払い鮭に刺し、囲炉裏の端に差し込んだ。
すぐに鮭の表面が焼け、匂いと共に脂が滴り、焦げた脂が煙となって天井ににぶつかる。
「焼ける前に家が燻されそうだな」
天井を見上げながら独り言ちるヘラルドに、ルルドは静かに微笑むと、足を崩して座り直す。
薪をくべ灰を退かしながら、ルルドは静かに口を開く。
「兄さんだけど、自力で動けるまで回復したよ。酒準備しとくから、羊肉持って見舞いに来いってさ」
ルルドの言葉に、ヘラルドは天井を見上げたまま、そうかと小さく返事をする。
「それと、親に逆らって我を通して喧嘩した事、今まで色々衝突して来たけど、もっと上手いやり方があったって、反省というか後悔してる。俺も兄さんも」
ヘラルドは初めて、ルルドの顔をしっかりと見た。
普段、眉間に皺を寄せ苦々しい顔をしているヘラルドが、初めて喜怒哀楽のどれでも無い、呆けたような間抜けな顔を人に向けた。
意外なその表情に、ルルドは笑ってしまうでも無く、ヘラルドと同じ呆けた顔で見つめ返してしまった。
しばらく見つめ合っていた二人だが、ゆっくりと視線を下げたヘラルドが、ぶつぶつと小声でそうかと繰り返し、鮭を裏返す。
ようやく場が動き出したのを理解したルルドは、海に降りてから子豚達を買い付けに行くまで、どう言った経緯だったか、どう言った話があったかなど、順を追って話して行った。
海でチーズと脂が喜ばれた事。お礼に貰った鮭の大きさと見た事無い蟹の乳の話。
婆様とアルドがどう言った話をし、何を考え買い付けに行ったか。
市で見聞きした、各地で起こっている環境の変化など、ルルドは時間も忘れ、じっくりと話していった。
ヘラルドは話を遮ることも、返事をすることも無く、ただただルルドの言葉に耳を傾け、時折小さく頷くのみ。
事件のあった日、海底遊牧民の族長に婚姻用の贈り物を頼まれ、自分で彫刻していると言った時だけ、ヘラルドは訝しげに片方の眉を上げルルドを仰ぎ見ていた。
事の成り行きとルルド達の考えを全て聞かされたヘラルドは、話が終わってもしばらく黙り込んでいた。
とうの昔に黄金色の焼き目をつけ終えた鮭は、今串に刺さったまま、ヘラルドの手の中にある。
くるりと串を回し、眺めていると言うより何も考えていないように、どこか遠い所に意識を飛ばしているヘラルドに、ルルドは更に、これは自分だけの考えだと前置きし、言葉をかさねた。
「ずっと、お互いの事になるとムキになる父さんと叔父さんが苦手だった。伝統だ族長だって、家族とあまり触れ合わない、母さんが死んだ時泣かなかった父さんが苦手だった。遊牧に出れば、酒ばっかり飲んで羊の事は俺に任せきりの叔父さんが苦手だった。父さんと叔父さんの関係が嫌だったのに、結果的に同じように父さんと対立してしまった自分が嫌だった。……昔、もしかしたら兄さんは内心風追いの事を疎んでるんじゃ無いかと、勝手に思い込んで変に気を使おうとした自分が嫌だった。嫌気がさしたら出て行けば良いんだと、責任感も無く他人事に考えていた自分が嫌いだった」
思いをぶつけるルルドに、ヘラルドは変わらず静かに耳を傾けていた。
全てを吐き出し、ようやくルルドがひと息ついたの確認したのか、ヘラルドはおもむろに鮭を一口頬張ると、目を細め眉を上げると、鮭をくるりと回した。
「年寄りにはしつこい脂だな。焼いた物は若いやつが好きそうだ」
ヘラルドはもう一口頬張ると、囓った場所のみ切り取り、串ごとルルドへとつきだした。
条件反射的に串を受け取ったルルドは、一口囓ると、溢れ出た脂の多さに前のめりになる。
「で、このまま出て行くから挨拶にって来たのか?」
口の周りを滴る脂が、囲炉裏の灰に落ち、転々と濃い色がつく。
怒るでも無く、どこか楽しそうな声色に、ルルドは萎縮するどころか、何を言ってるんだと思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「俺って出て行くからってご丁寧に挨拶に来る性格してる? 出て行くつもりなら海の事なんて言わないし、兄さんみたいに言葉を選ばず文句を垂れるよ。正直、残るか出て行くかはこの前まで悩んでたけど」
「まぁそうだろうな。何だかんだ、お前はそう言うやつだからな」
ルルドが不満げに声を上げると、ヘラルドは気持ちが悪い程上機嫌に顔を緩める。
少しは頭が冷え丸くなったかも知れないとあたりをつけては来たが、こうも今までのヘラルドと様子が違うと、さすがに心配になってくる。
ルルドは鮭を片手に変な物を見るような、不躾な視線をヘラルドに浴びせると、二の句が続かず顔を顰めこめかみを叩く。
すると、ヘラルドは部屋の隅に置いてあった酒瓶を手繰り寄せると、雑に酒を注ぎルルドにつきだし、自分も一気に煽った。
「ダッドはなぁ、昔から酒癖が悪かったが、まさか遊牧先でそんなだとはな。……羊の囲いを覆ったのは、アルドでは無いとアリンに聞いた」
ヘラルドは酒が弱いわけでも無い。
しかし、何か吹っ切れたのか分からないが、酒を扇ぎ覚悟を決めたのか、饒舌に話し出した。
ダッドの妻であるアリンは、ダッドが集落を出て以来、なるべく人目に触れないよう生活をしていた。
朝の洗濯の時間も水汲みの時間も、皆とはずらし、一人貯水雲海まで降りていた。
集落内は人目もあり、風が穏やかで、もし風に流されるような事があっても、すぐに誰かが気付くようになっている。
しかし、積乱雲である貯水雲海の周りは風の流れが速く、誰も一人で行こうとはしないものだ。
噂で朝アリンの姿が見えなくなったと小耳に挟んだルルドは、もしやと思い少し時間をずらし貯水雲海へと降りてみた。
すると案の定、ありったけの羊毛小物を担いだアリンが、一人洗濯をしていたのだ。
アリンはルルドと顔を合わせると、挨拶もそこそこに顔を背けると、逃げるように洗濯を終わらせ、ルルドに背を向けた。
しかし、何度アリンが遠慮しても、ルルドは一人で置いておけないと叱りつけ、それから毎日皆と時間をずらし、二人で貯水雲海まで降りていた。
しかし、アルドが貯水雲海に落ちてからは洗濯に行く事も無くなり、家に閉じこもっていた。
吹き抜ける風からどうにか水を得ているのだろうが、心配した人が家を訪れても、大丈夫の一点張りで中に入れてはくれなかった。
そのアリンがなぜヘラルドにと、ルルドは顔を曇らせる。
アリンにとって、一番会いたくないのは、ヘラルドのはずだ。
「アルドが寝込んですぐ、今のお前みたいに監視が居ない夜に話しに来てくれた。皆に申し訳が無く出て行きたいが、風追いでも無い子連れの女が、一人で飛び出したところでどうなるかなど目に見えている。アルドが怪我をしたのもダッドを止められなかったのも、全て自分のせいだと、随分とんちんかんな被害妄想に駆られていた。それで俺も目が覚めた」
どんな決意でアリンはヘラルドに会いに行ったのかと思うと、ルルドは今にも身が裂けそうになる。
「目が覚めたよ、何やってるんだと。冷静に考えれば、族長として上手いやり方が、いや、今までずっと族長としての身の振り方では無かったのだな。お互いの事になるとどうしても頭に血が上ってしまう。お前達の言う通りだったのだな」
「うん。俺達も自己判断で動きすぎた。黙って豚や鶏を買い付けに行く前に、殴ってでも父さんを止めて話し合いをすれば良かったんだ。羊も重要だし、羊が抜けた穴をどう埋めて一族を導くかも重要で、どちらかだけが正しいって事はない。……あぁ、あの時なんで俺は殴らなかったんだろう。風追いの俺のが絶対有利なのに尻込みするんじゃ無かった」
お互い歩み寄りを見せ、すっかり肩の力かが抜けたルルドは、思わず本音を溢してしまった。
すかさずヘラルドに頭を叩かれ、初めて笑い合った。
笑えば目元はアルドとそっくりなのだと、ルルドは初めて見る父の満面の笑みに、思わず涙がにじむ。
「子豚と鶏の育て方は分かっているのか? 仔羊も、今年は遊牧に出ず様子を見ても良いが、風が足りないようであれば遊牧に行く事になるぞ」
「それは大丈夫。二匹だけなんてただの散歩だよ。ただ、子豚には風以外の物も食べさせる必要にあるから、先行投資と言うか、育つまで少し金がかかりそう。……それと、叔父さんの捜索に行く人を決めよう。叔父さんが見付からなくても、羊が一匹でも見付かればそれで」
連れ出された羊は市に出されていなかったと付け加えると、ヘラルドは意外そうに目を丸めた。
豚と鶏の他にどんな家畜が居たかを再度ヘラルドに伝えると、ヘラルドは次の市はアルドも連れて三人で買い付けに行くとまで言い出した。
嫌そうにしながらも、何だかんだ嬉しそうに笑うんだろうなと、アルドの顔を思い出し、ルルドは思い切りふき出してしまう。
そう言えば海で貰った荷物がそのままだと、取りに戻ろうとするルルドの腕をヘラルドが掴む。
作りかけの婚礼用の贈り物を見せろと言われ、素直に差し出してみれば、みるみるヘラルドの眉間に皺が寄り、どうにも聞き慣れた懐かしくも怖い声でノウハウを叩き込まれ、結局朝まで角を彫らされる事となった。





