4 比率の型紙 ゼロサム化する世界
まだ人類は地球の資源を使い切っていない。シェールに限らず、例えば海水中にも膨大な資源が眠っている。だが、比率の問題を量で解決することはできない。仮に3割が危険ラインであるとすれば、それは3リットルでも30リットルでも、300万円でも3億円でもなく、3割失えば同様に危険ということだ。
ライオンのシマウマに対する比率には限界があり、その限界比率に達するまでは繁栄することができる。だがその先に祝賀会が待つ訳ではなく、そこで終わりにするか、大きな対価を支払ってもう一度繰り返すかのどちらかしかない。
少子高齢化が、人間の地球に対する比率の限界を示唆しているとすれば、もはや宇宙進出以外に解決策はない。人工光合成には一定の可能性があるかもしれないし、人間の在り方次第では限界比率が変わる可能性もあるが、地球だけではもう人口曲線のスケールを変更することができない。現在のスケールでは、人口曲線が時間軸に対して垂直(時間停止)となり、宇宙へ逃亡しようともがいているかのようだ。人口曲線を水平方向に落ちつかせる(時間進行を取り戻す)ためには、数百、数千億という人口爆発のスケールシフトが必要であり、それには宇宙進出しかないだろう。問題は、受け入れる側の宇宙にその需要があるか、人間の環境改変効果が宇宙でも必要とされるか否かである。こちらの都合だけでは契約はまとまらない。
比率の限界に待つのはゼロサム化の網だ。ウインウインはallではなくオレとお前の延長であり、地球というパイに対するシェアを切り取るナイフの呼び名に過ぎない。しかし、ウインウインナイフではそれ以上切り込めないほど固い部分へ到達したか、それ以上切り込めば元も子もなくなる所まで来ている。
ウインウインでは、これまで一度たりとも新たなパイが創造されたことはない。一切合切、地球というパイに対するシェアの拡大に他ならなかった。プラスサムは人以外(まだ見ぬ可能性含む)の犠牲に他ならない。だが、人間の地球に対する比率が限界に達しているとすれば、もはやウインウインはオレとお前、つまり人と人の間に限定しても成り立たず、完全なゼロサムゲームと化すことになる。
ゼロサム化すると、例えば金融緩和をしても銀行を痛めつけて金融仲介機能を阻害してしまうとか、財政出動をしても完全雇用によるクラウディングアウトや金利上昇を来してしまうなど、他のどこかに皺寄せが及んで、反作用が同量且つ同時に返って来るようになる。まるで部屋の形に合っていない絨毯を引き合うような状態だ。こちらへ引けばそちらが、そちらに引っ張ればこちらに空きが生じてしまう。シェアという絨毯は、比率の限界までは編み上げることができるけれども、その型紙は決して部屋全体を覆いつくすようには出来ていないのだ。
仮に移民受け入れを選択した場合、当初は経済的に良くなるかもしれないが、本当にゼロサム化しているなら他国がその分悪くなるので、貿易が命綱である日本にとって必ずしも良いことではない。移民で人口が増える分(或いは上手く減らせなくなる分)輸入しなければならない資源も多くなり、その潜在的不安から、益々個人消費は伸び悩むかもしれない。少子高齢化と移民の結末という二重の不安が重くのしかかる。消費を増やせば良いかどうかではなく、消費を増やしても良いかどうかの問題だ。絨毯が足りない以上、どこかを増やせば他のどこかを減らそうとするのがゼロサム化世界であり、もう全体では増えないという仕組みなのだ。
ボトルネックとなる資源がないと仮定すれば、地球の資源だけでも計算上はまだ余裕があるだろう。しかし、シェアの絨毯の型紙は、シマウマに対するライオンや、地球に対する人間などのように、それぞれの装い(在り方)に応じてただ一つだけ決まってくる。違う型紙が欲しければ、在り方(分子)を変えるか、パイ(分母)を変えるしかない。
計算上、つまり量的には余裕があっても、比率的な限界が先に来ることがある。少子高齢化・低インフレ・低生産性上昇率(以下日本化現象と呼ぶ)の世界的拡がりが、その比率的な限界を示唆しているとすれば、世界は既にゼロサム化の網に捉われている。細く長く、太く短くという面積的な制約は概ね事実であり、比率を無視できるテクノロジーなど存在しない。