14 屋上屋 持続可能性など有効期限内のお話
右に切ろうが左に切ろうが、繁栄を目指す以上いずれ辿り着く場所(比率の限界)がある。生産性も規制改革も、財政・金融政策も、そこに到達するまでの論点(道順)に過ぎない。神の目を盗み契約内容(法則)を書き換えることでもできない限り、明示的或いは黙示的に、またしても生贄を差し出すことになるだろう。選ばれて泣くか選んで泣くかの問題である。それを回避するためには、宇宙進出という新たな契約を新たな当事者(宇宙の貸し手となる新たな神、以下「甲」とする。)と締結するしかないが、光速不変の相対論が正しい限り、もう甲は間に合いそうにない。それとも全てのヒーローがいつもそうであるように、今度もまたギリギリ間に合う演出と見て良いだろうか?
日本化現象は、何かを間違えたのでも、他のやり方なら良かったという訳でもない。天災は何かを間違えたから来るのでもなければ、何の落ち度もなければ来ないという訳でもない。更新時期も同様だ。金の斧と銀の斧のように、ハードランディングとソフトランディングのどちらかを選ぶことはできる。ただし童話のように正直さが求められている訳ではなく、その二択が強制されているだけだ。世界は全ての二択を合計したものに過ぎないとは言え、もはやリスク回避とは、リスクの選考過程リスクオーディションと化している。
AIなら全て正しい資源配分・制度を構築できるとしても、そこに持続可能性は成立しえない。世界は特定の誰かが幸せになるためのものでもなければ、全員が幸せになるためのものでもなく、正しい世界になるための過程や、天国の材料という訳でもない。「現在人」は最終消費者ではなく生産者であり、未来人等のための苗床、未来に消費してもらってナンボの存在である。現在人のための正しい資源配分なんてものは最初から存在しない。
人々は従順になって行くだろう。麻痺というより、それしかないと気づいて受け入れ始めるのだ。民主主義に失望するのではない。それに代わるものが見当たらないこと、それ以上のものが見出せなかったことへの落胆である。その程度のものが最高傑作(遺作)であったことに愕然とするのだ。
パイをしゃぶりつくす方法でしかないとは言え、資源配分の効率化、つまり富の分配も損失の負担も最適化できたとして、それは誰のためだろうか? 今存在する人々のためか、まだ存在しない人々も含むのか、一部の人のためか、それとも全員のためか。命は一部が有利になるシステムである。それは別にその一部のためという訳ではなく、公平である必要がなかっただけだ。種全体としての機能で契約を履行できればそれで良い。
再生エネルギーのような持続可能性を意識した取り組み、それは正しいし、恐らくそれ以上に遠くへと続く道はない。しかし、少々都合が良すぎるような一種の狡さがある。狡さの持続可能性でもあるのだ。時間の無銭旅行と有償旅行とでは後者に分がある。実際他の全ての種族は、何を支払うことになろうが少しでも遠くまで行こうとする一途な本能に従う。その先に行ければどんな犠牲も厭わず、むしろ持続可能性すら顧みない彼らからすれば、人間の言う公平も不公平も狡さの程度に違いはない。
効率化は、競争相手(過去未来含む)がなくては意味がない。どこを見渡しても同胞で一杯になっている状況では、どこをどう効率化しようと誰にも勝つことはできない。共産主義あっての資本主義なのだ。生物が、必要以上に過剰な欲望を持つように見えるのは、徒に競争をするためではなく、適度な滅びをもたらすためだ。常に止めどない増殖という破滅の弁を開こうとしている。もしも永遠なら競争の必要もない。いずれ全ての役が回って来るのだから。
AIの脆弱性に限らず、効率化はなぜ脆弱化でもあるのだろうか?足元を削り自らで棒倒しを試しているかのようだ。いつか倒れるための発展。決して良いとこ取りなどではない。発展は、膨らむと言うより削り出したものだ。細く脆弱になりいつか折れる。食べやすく皮を剝かれるように裸になって行き、もはや電気の毛皮を着ているだけになった。




