12 時間は良悪の二進法 螺旋に2周目なし
二歩の反則でもないだろうが、2度目の覇権を手にする国等がないのはなぜだろう。一度衰退したものは二度と頂点には立たない。役が同じでも役者は常に異なる。今後中国が覇権を握るならば、古代中国(特に漢民族)は覇権を手にしておらず、今回が初めてになるのではないか。しかしタイミング悪く、丁度覇権を取れる筈の頃に深刻な高齢化(率以上に数が問題となる高齢化)に見舞われることから、中国に覇権が移ることはなさそうだ。それはやはり2回目になってしまうからなのかもしれない。
人類全体で見れば、まだ1回目の人口爆発が佳境に達したところだ。2度目の人口ボーナスは誰も経験したことがない。一度没落すると2度目の大増殖は難しい。だからこそ、持続可能性という理想よりも、明日を差し出そうが持続可能性を犠牲にしようが、どこまでも高く飛び続けたいと思ってしまうのだ。
パンドラの箱の最後に残った希望よろしく、ホモサピエンスは最後にアフリカを出たが、その行程は、進化の境目をきれいに拭い去るものとなった。猿人から原人、原人から旧人、旧人から新人など進化の境目には、進化の量子論とでも言うべきミッシングリンクがある。(新時代は、量子的な遷移のように不連続である。)何らかのボトルネックによる隘路だったのかもしれないが、時間は所々で狭くなってしまう。制限的な狭さだ。そこでは全てが接近するので、種々の限界も革命も細分化も同時期に重なる。
取って代わられた古い種族の滅びと、新しい種族の発生とはほとんど同時のように見えて、並列的に重なり合っている期間がまるでないように思える。繁栄の両端は飴細工のように絞られる。繁栄とは、時間のレンズで拡大されたイメージに過ぎないのかもしれない。
先進国の総中流的な繁栄は、途上国の人口爆発なしにはありえなかった。格差のデジタルはもつれている(エンタングルメント)。それは、市場としての途上国の人口が必要であったとか、資源の搾取だとかの理由付けは何でも良いが、両者にどのような関連があろうとなかろうと、1日1ドル以下で生きるような何億、何十億もの人々の存在と先進国の繁栄は同時だった。そして、新興国の隆盛と共に先進国の総中流は消滅した。パイを得ることで人口爆発(陸の赤潮)は起こる。医療や福祉がもたらす訳ではない。それらは原因ではあっても理由とはならない。
時間は革命を育てるが、それ自体は避けられない。これまでは概ね所有に関する分筆方向の革命であったが、分割(私有)か共有(私有禁止)かの違いに過ぎず、組み合わせのパターンはさほど多くない。今後も何らかの革命が必要になるとすれば、良い悪いに関わらずどこかを変えなければならないのだとすれば、次は合筆方向の革命にせざるを得ないのではないか。AI革命は、所有権の括りをどのように変えるだろう。
進化とは、生き永らえることでも生き返らせることでもなく、改変して違うものに置き換えることでしかない。共産主義と同様に資本主義も再生することはないだろう。その次の何かがなければならない。共産主義の失敗は、神の手を払いのけるべきではなかったということ、少なくとも神の利き手は自由であったということに気づかせたが、資本主義の失敗は、適当な所で見えざる手を離さない限り、いつか枠外へ連れ出されてしまうということに気づかせるだろう。公共も市場も、強制性と任意性という受け取り方の違いはあるにせよ、どちらも恣意的な取り決めであることに違いはない。人類と地球との間のミスマッチという意味では大差ないのだ。
時間は、全く同じではないが、少しだけ位相を変えた繰り返しによる蠕動運動だ。それは、少しずつズラしながら汚れを拭き取って行く雑巾に似ている。バケツをこぼしたように広がる空間(の可能性)を拭き取っているのだ。命が寄生虫であるとすれば、進化とは最終宿主を探す旅に過ぎない。




