姫子転校編(3)
「どうぞ」
「あ、ど、どうも……」
マンションの玄関前で姫子ママこと茜谷妃恵と遭遇して数分後、朗太はタワーマンション最上階付近にある姫子宅のリビングの椅子に座り、茶を出されていた。
テーブルの上に湯呑に入れられた茶がうっすらと湯気を立てている。
(恐らく姫子の母親には内緒で)幾度となく訪れたことのある姫子邸だが、母親がいるとその緊張感は段違いだった。
茜谷妃恵の動作はその一挙手一投足が洗練されていて、自然と朗太は居住まいを正していた。出された茶に口をつける気になど起きない。
妃恵は姫子と同じ亜麻色の髪を夜会巻きにした女性だった。
メガネをかけたその顔は年相応にしわが刻まれており、それでいて瞳は猛禽類のように鋭い。
だが顔立ちはもちろん美人で、これが姫子の未来の姿だと言われると納得できるものがある。
「凛銅君、今更だけど、時間は大丈夫?」
と、朗太が妃恵の姿に姫子の面影を見ていると妃恵は腕時計を見て尋ねた。
リビングにある時計は今まさに午後七時を指そうとしている。
「あ、だ、大丈夫です。遅くなると家には連絡は入れておいたんで」
「そう。でも私からも一応連絡しておくわ。凛銅君、おうちの電話番号教えてくれるかしら」
「え」
マジで?
こう見えて姫子との関係性は、弥生との協力の下、親に隠匿している朗太である。
妃恵から電話が行けば当然姫子との関係性は明るみになるのでなんとしても妃恵の申し出は断りたかったのだが
「教えてくれるかしら」
「は、はい……」
凄まれてすごすごと自宅の連絡先を伝えてしまった。
朗太から電話番号を聞いた妃恵は電話の子機を取ると廊下の方へ歩いて行き、朗太の自宅へ電話をかけていた。これまでとは打って変わって気さくな妃恵の声が聞こえてくる。
おぉぉぉぉぉぉ、親にぃぃぃぃぃぃ
その光景に朗太は頭を抱えた。
こうなっては、帰ったら母親からの質問攻めは必至である。
同級生の女子の家にお邪魔しているとなればあの母は何と言ってくるだろうか。
「(アンタ……大丈夫……?)」
帰宅後家で繰り広げられるであろう会話を想像し朗太が落ち込んでいると、横に座る姫子が小声で尋ねていた。
大丈夫なわけはない。
だが今の姫子にそのことをなじるのは酷なので、恨み言を言いたくなるのをグッとこらえた。
「(そんなことより姫子も大丈夫なのかよ……。俺ガチでノープランだぞ……)」
「(そ、そう……)」
「待たせたわね」
声を潜めて話し合っていると電話を終えた妃恵が着座した。
「凛銅君、今日はタクシーで帰って。タクシー代は勿論私が持つわ」
そして明らかに内密な打ち合わせをしていた朗太たちのことを気にもせずそう言うと
「……で、単刀直入に聞くけど、今日はどういった話なのかしら」
妃恵は腕を組み尋ねたのだった。
◆◆◆
そこまでも伝えていないのかよ。
朗太はサッと横に座る姫子に視線を飛ばした。
するとそこには硬い表情で俯く姫子がいた。
どうやらこれまで再三交渉に失敗したことで気勢が削がれているようだ。
仕方がない……。
「ひ、姫子が転校すると聞いて」
「……………………やっぱり、その話なのね……」
言うと妃恵は小さくため息を漏らした。
そのわずかに落胆した様子に朗太がたじろぐ。
妃恵は額にしわが寄りキツク目を閉じた目頭をもんでいた。
そしてしばらくして目を見開くと、妃恵は何でもないように手を振った。
「あぁいえ、きっとそうだとは思っていたのよ。でも今日友人を連れて行っていいかと聞かれて許可は出したのだけど、どういった理由で連れてくるか聞いてもだんまりだったから」
「そ、そうなんですか……」
姫子の多少卑怯に感じなくもないやりくちにジロリと姫子を見る。
「えぇ、そうなのよ。ここ最近姫子はずっとその話ばかり。暇さえあれば転校の話を取りやめてくれって。転校を取りやめてくれって」
「だ、だって仕方がないじゃない……! 私は今の高校に居たいんだから……!」
「ですが、模試の結果が悪くなったら會月に行く約束でしょう? 約束は約束です。姫子、約束覚えている?」
「お、覚えているけど……」
「ならもう何も言うことは無いじゃない」
「で、でも……!」
「でも?」
「……」
威嚇するように言い返され姫子は目をうっすらと湿らせながら俯いた。
散々言い負かされているせいで普段の気丈さが欠片もない。
「で、でも約束を破ったから會月に戻すってのはちょ、ちょっと可哀そうじゃないですか? そ、それにこれまで姫子も姫子のお母さんとの約束を守ってきたから今があるわけですしたった一回で會月に戻すってのは、ちょっと性急すぎる気も」
朗太は手をワタワタと動かしながら姫子をかばった。
妃恵はその様子をじっと眺めていた。
その瞳から放たれる視線の強烈さは半端ではない。
身を焼かれるような圧力に朗太は「……ッ」と身を縮こまらせながら耐えていた。
「……確かにそうかもね……」
そしてその圧力に耐えたことが功を奏したのか、しばらくすると妃恵は自分の非を認めた。
「……確かに性急すぎるのも、『約束』をかたにとって姫子を転校させる行為が卑怯なことは分かっているわ」
「な、なら……」
「ですが、姫子は會月に通わせます」
朗太が希望に目を輝かせた次の瞬間、妃恵は断固とした口調でそう言った。
「なんで」
「なんで、ね」
朗太の問いに妃恵は身じろぎもしなかった。
「当り前でしょう、今の世は学歴社会だからよ」
「学歴……」
「そ、学生の身では分からないかもしれないけど、今の世界は学歴社会なのよ」
妃恵は聞き分けのない子供を諭すように持論を語り始めた。
「だから勉強することになにより価値があるの。いえ、正確には今の社会で生き抜くのに必要な力は様々あるのだけど、何よりも容易に、そして確実に手に入れられる力が『学力』なのよ。だから勉強は大切なの。だから私は姫子を會月に通わせるのよ。會月はね、他の高校じゃ考えられないほど受験に対し手厚いサポートをしてくれるの。今から編入すると苦労はするでしょうけど、姫子の才能をもってすれば確実にこのまま青陽高校にいるよりもうんと良い結果が出せるはずよ。そしてそれが遠い目で見た時何より姫子のためになるはずなのよ」
「で、でも姫子は」
「行きたくないっていうんでしょ。知ってるわ。もう何度も話されたもの」
妃恵が冷淡な視線で姫子をちらりと見た。
「でもね、いつだって後悔は先に立たないものなのよ凛銅君。その時は正しいと思っていても、後になってみると間違っていることなんて、本当に良くあることなの。これがそうよ」
「………………」
妃恵の言葉はこれまでの人生経験から告げられているような、彼女の実体験がにじみ出て見えるような言葉だった。
そしてそのような言葉にはなかなか言い返しづらい。
「ところで」
だからこそ朗太が沈黙していると妃恵は問うた。
「凛銅君は姫子とどういう関係なのかしら」
「「………………」」
それは一時期クラスの同級生によく聞かれた質問である。
横を見るとダラダラと姫子は汗を流していて
「と、友達です……」
朗太が代わりに答えていた。
「友達。やはりそうよね。付き合っているようにはあまり見えなかったから」
その観察眼を同級生その他に配りたい。
「はい、姫子とは姫子の活動でよく手伝わせてもらっていて」
と、そこまで言うと妃恵の様子が変わった。
眉をピクリと動かすと顔が険しくなる。
「活動……?」
「え、あ、はい」
あれ、なんか地雷踏んだ?
冷や汗を流し姫子を見ると、姫子もまたびくびくと怯えていた。
「活動、とは」
「え」
やばいと思いとっさにごまかそうとする朗太。しかし姫子の血を継ぐというか、姫子に血を継がせた二人の張本人のうち一人である妃恵の問答に朗太が耐えられるわけもなく
「活動、とかいうものの中味を聞いているんです。まさか、活動に参加しておいて分からないなんてことは無いですよね?」
「……………………」
しばしの沈黙の後、姫子に謝罪しながら白状した。
「……せ、生徒の悩みを聞いて、か、解決するような活動、です……」
「教えてくれてありがとう、凛銅君」
「はい」
ユダ化する朗太。
姫子からは机の下でバシッと足を蹴られたが、お前それもう仕方がないだろうという感じである。
「ハ~、姫子。アンタまだそんなことしていたの?」
そして姫子の活動を聞いた妃恵はというと姫子を問い詰めていた。
「會月の時にもそういうことやろうとしていたって聞いたけど、私はやめなさいと言ったわよね。公立に行きたい理由でも確か同じこと言っていたけど、最近じゃそんなこと言わなくなっていたからもうてっきり辞めていたのかと思っていたわ。いや……」
そこまで言うと妃恵は額に手を当て顔をしかめた。
「そんなこと明瞭ね。あなたが公立に行きたかった理由は人助け。そしてもし転校を拒む理由があるのならそれは『人助け』だものね。私が見たくない現実から目をそらしていただけか。はぁ、頭が痛くなる」
「ママ……」
「縋っても無駄よ姫子。私の意見は変わらない。あなたのことを『誰よりも良く知る』私の意見はね。あなたのその優秀な脳みそは誰かの悩みを解消する、そんなことのために使うものじゃないわ。もっと、もっと大きいことを成し遂げるために使うべきなのよ」
「でも」
すかさず朗太が応援に入る。しかし
「もう良い時間じゃない」
妃恵はもう話は終わりといわんばかりに席から立ち時計を見ていて
「凛銅君、今日はタクシーを呼ぶからそれで帰りなさい」
朗太に帰るように言ったのだった。
そして朗太に逆らう術はなく、数分後、
「じゃぁな姫子」
「うん、また明日学校で」
姫子と別れを告げると朗太はタクシーに乗っていた。
去り際、妃恵は
「凛銅君、姫子のことを大切に思ってくれてありがとう。一時は公立に行くのを反対したけど、あなたのような友達と出会えたのなら行かせた価値があるとも思うわ」
と言っていたが結果は変わらなかった。
結果が変わらなければ意味がない。
タクシーの窓から夜の街並みを眺める朗太の脳内には今日の出来事が反芻していた。
妃恵は考えているらしい。
姫子を大企業で働かせたいと。
だが姫子は言っていた。
スクールカウンセラーやケアマネなど一人一人に役立つような仕事に就きたいと。
そして妃恵は言っていた。
姫子の脳はもっと大きいことを成し遂げるために使うべきと。
だが姫子は常々言っている。
人助けが生きがいだと。
彼女たちの意見は、どこまでいっても平行線だ。
一体どうすればいいのだろう。
どこに解決の糸口があるのか、皆目見当がつかなかった。
……だがこれを解決しないと姫子が『転校』する。
――ならば、なんとかするしかないだろう。
それになにより
「てかお前さー、活動のこと隠してるなら言っておけよ」
『仕方ないでしょ……! 私だっていっぱいいっぱいなのよ……』
朗太は自宅に帰ると母親の攻撃を受け流し切り、飯を食べて風呂に入ったあと、自室へ戻ると姫子に電話をしていた。
『と、というかどうするのよ……。どうしよう。欠片も話が好転しなかった』
電話越しで姫子は何か良い手はと悩むが
「説得しかねーよ」
朗太に浮かぶ案は話し合いによる解決しかなかった。
大人相手に取れる手など限られているからだ。
だからこそ
「まぁまた説得しに行くしかないだろうな」
と再び自分も説得に行くことを告げると
『また一緒に来てくれるの?!』
と姫子は電話越しでも分かるほど如実に喜んだ。
だがそんなの当り前である。
「行くに決まってんだろ」
それは、なにより姫子は大切な友人であり、そして
――才能通りではない。
自身の持つ才能にいつも抗っているのは、なにより自分だからだ。
――あなたの才能はそんなことに使うべきではない
明らかに理系の才能を示しつつも、小説の道に憧れ、日々執筆している朗太に、その言葉は深く刺さっていた。




