姫子転校編(2)
「ママはね、女手一つで私を育ててくれたの」
姫子の住む高層マンションへ電車で向かう際、姫子は珍しく自分を語っていた。
車内はガタゴトと揺れ、横に座る姫子の髪もつられてわずかに揺れていた。
電車の外では夜のとばりが落ち始め、暗い街並みを煌々と照らす街灯が飛ぶように後方へ遠ざかっていく。壁一面がガラス張りのジムで壮年の男性がランニングマシンの上を走っているのが見えた。
「私がちっちゃい時、親は離婚していてね、ママと私は二人暮らしなの。これ、言ったことあったっけ?」
「どうだろ、覚えてないな。でも姫子がお母さんと二人暮らしなのは知っていたぞ」
だというのにお前料理できないんかいと思った記憶がある。
「そ、なら良いの。でね、ママはとても教育熱心なの。私が小さい時から勉強に対しては厳しかったわ。よく勉強しろー勉強しろ―って言われたわね」
「ありがちだな。俺もよく言われたよ。あれやる気が削がれるよな」
「そう? 私は嫌じゃなかったわよ。私は勉強好きだったから。ちっちゃい時から自分がレベルアップしていくような感じがあって」
「レベルアップて……」
姫子の住む高級マンションを思い浮かべる。
開放的な間取りに都心の夜景を展望できるガラス張りの壁面。
低層階にはコンビニ他、様々なサービスを有するあのマンションの最上階付近に住むのにはどれだけの収入が必要なのだろうか。
それを女手一つで払いきりながら、姫子を育てあげる。
姫子の母親は、社会人としても相当優秀でかなり意識が高い人物であろうということは容易に想像できる。
暗黙のパーソナリティ理論的な考えだが、会話の節々に挟まる姫子の母を表現する口ぶりからも間違っていないと思う。
そのような人物の娘が勉強を自らのレベルアップと評するのを目の当たりにして血は争えないなと朗太は思わず苦笑してしまった。
「でもだからこそ、私が私立をやめたいって言いだしたときは大変だったわ」
姫子と姫子の親の性格の関連性を思う朗太をよそに姫子は一点を見つめ話し続けた。
「私が公立に行きたいって言うのも、ママの言うような大企業で働くんじゃなくて人を直接助けるような仕事に就きたいって言うのも聞き入れてくれなかったわ。あなたはこの国を引っ張っていくような人物になるんだっていう一点張りで」
姫子は不満げに眉を顰めた。
「……私がしたいのは、人を助ける仕事なのにね……」
「そうか」
これまでの彼女の活動を見てきたからこそ、その言葉が嘘じゃないことなどすぐに分かった。
「姫子、お前成りたいものとかあるのか?」
朗太が尋ねると姫子は唇に指をあてしばし考え込んだ。
「スクールカウンセラーかなやっぱ。あとそれ以外で最近興味あるのは、ケアマネとか」
「そうか」
スクールカウンセラーや、ケアマネージャー、か。
その直接人の悩みを聞き、力を尽くす職業はとても素晴らしく、また姫子らしいように思えた。
そしてそれらの職は、どちらが上とか下ではなく、姫子の母親の願う大企業で働くこととは、確実に違う道にあるものだろう。
「だけど言ったように親は認めないのよ。公立に行きたいって言うのも、そういった職に就きたいって言うのもね。で、どういう職業につくかは先延ばしで、とりあえず公立に行くか、私立に行くかは、あんまりにも私が抵抗するから一度は公立に行くのを許してくれたってわけ。で、出された条件が……」
「模試で順位を落とさないってことか……」
きっとそれは姫子の母親の願うキャリアを積むために必要な、エリート大へ進学、という可能性を残すためなのだろう。
姫子の母は、今も姫子に大企業で働くことを願っているのだ。
最終的には自分の意思で姫子を管理するつもりなのだ。
だからこそ予防線を張ったうえで、姫子を公立に行かせた。
しかし、自分の張った予防線を姫子が破った。
だからこういう話になっているのだ。
つまり――
「姫子、進路に関しては親とやり合わないのか」
「そ、それは時々あったわね……。最近は喧嘩になるから話題にもあまり上がらないけど……」
そうつまり、この問題はいつの日か明るみになるものだったのだろう。
今回、姫子の成績が落ちたことで白日の下に晒されたが、『姫子の将来』という問題はずっとそこにあったのだ。
また姫子の母親と會月の関係を詳しく聞いたところ、姫子の親と會月中高一貫校の経営者は繋がりがあり、姫子の母親が頼めば学期末ならば若干名の募集枠を設け、編入試験を受けさせてくれるそうだ。
姫子の本来の勉学に対するポテンシャルを知ることもあって、学園側も姫子を編入させることに躊躇いは無いらしい。
朗太は編入試験で敢えて無回答にし無理やり落ちることをすでに提案したが「そんな親不孝なこと出来ないでしょ」と却下された。
姫子からするとそこまで話が進んでしまったら全力でテストを受けるしかないらしい。
そして転校届を出された後の編入試験を敢えて落ちるという選択肢がない以上、姫子に残された選択肢は、転校届を出す前に親を説得し、そもそも転校届を出させないという手法しかないのだ。
それにしても、と思う。
かつて朗太たちの下に『友人を作りたい』と訪れた者がいる。
日本有数の大企業、緑野財閥のご令嬢たる緑野翠だ。
彼女もまた、その外面のスペックだけ見た場合、姫子の通っていた會月中高一貫校に通っていてもおかしくない人材だ。
というより未だに緑野のような人物が教室にいて違和感を覚えることもあるので、朗太の心理的には彼女は本来、會月のようなお嬢様学校に通うべきスペックを誇る人間だ。
しかし彼女の父親は強制的に彼女を都立に通わせた。
その理由は私立のお嬢様学校のような同じような人種のいる場所ではなく、様々な人物の集う学園で交流させ、彼女の高慢ちきなメンタリティーを治すためだった。
皆、同じ人間なんだと分からせるために彼女の父は彼女をこの学園に通わせた。
つまりそれは、彼女の父が公立の学校にも価値を見出しているということであり、
(緑野の時とまるで逆だな……)
都立青陽に価値を見出さず、私立のエリート校に通わせようとする姫子の母に、大企業のトップ層で働くという同じような肩書を持つもの同士で(社長と、例えば役員では確かに雲泥の差があるが)こうも考え方が違うものかと朗太は感慨に耽っていた。
そして朗太が黙っているうちに電車は姫子の家の最寄り駅に滑り込み
「そういえば私が『なりま』見てるのも同じ理由よ」
朗太が電車から降り人を避けながら歩いていると先を歩いている姫子が振り返りながら言った。
「私はね、困った人や才能の無駄遣いをしている人を見ると助けたくなる。あそこは原石の宝庫よ。だから暇なときに眺めていたの」
そしてそれが自分と姫子を引き合わせた。
「つまり俺の中に才能の煌めきを見たわけか」
「言ってなさい」
朗太の戯言に姫子は取り合わなかった。
それから数分後には天にとどかんばかりの高さのタワーマンションの前まで来ていた。半月の浮く薄雲のかかった空に白い摩天楼が伸びている。
姫子によるとEポストメールで自分が来ることは既に親に伝えたらしい。
「どんな関係って伝えたんだよ」
「そりゃ友達って言ったわ」
朗太が尋ねると姫子は事も無げに告げた後、声を強張らせた。
「……男って言って驚いていたけど」
「だろうなぁ」
そんな話をしていると、かつかつとタイルを踏み鳴らす眼鏡をかけたスーツスタイルの女性がやってきて
「あなたが凛銅君ね」
姫子のママがやってきた。
「茜谷妃恵です」
というわけでママ子登場です。