旅行1日目(3)
峠越えを始めてしばらく。
(誰だ、こんなことを言いだしたのは……ッ)
朗太は汗だくになりながらペダルを踏みしめていた。
上がる息。軋む肉体。垂れる汗。たちまちその重さを強調しだすバックパック。
朗太はみるみる重くなるペダルを踏みしめながら朦朧とする意識で先の道を見やった。緩やかにカーブする山道が延々と続いている。
いつまでこの苦痛が続くんだ。
朗太は立ちはだかる果てのない坂に奥歯をかみしめた。
いやそもそもなぜ自分たちは箱根峠を越えるなんて馬鹿げたことを言いだしたんだ。
そう、東京から京都へ抜ける場合、箱根峠を越えるルートと、『そうでないルート』があるのである。
朗太は当初のことを思い出した。
『で、皆、相談なのだけど国道1号と国道135号どっちでいく?』
思い出されたのはいつもの光景。
行きつけのファミレスでのことだ。
空調の効いたその快適な空間で姫子は纏が引いた線とは別にもう一本の線を引き、難しい顔をしていた。
『あれ、京都行くメインルートって国道一号くらいしかないんじゃないのか?』
聞いていた話と違う。
朗太が尋ねると姫子は首を振った。
『違うわよ朗太。実は東京から京都へ行く場合国道一号で箱根峠を越えていくルートと国道135号で熱海方面に抜けてる箱根峠を迂回するルートがあるの。だからどっちにしましょうかって話』
『そうなんですか』
姫子の話に纏は首肯した。
『そんなの箱根峠迂回する国道135号に決まっているじゃないですか』
そして何を言ってるんですかときょとんとした調子で言うが
『何を言っているの?』
それまでずっと自転車の数多載った雑誌を眺めていた風華は目を吊上げ語気を強めた。
『京都まで自転車で行きました、でも箱根は避けました、じゃ何の意味もないわ』
『えぇ!? そうですか??』
『そうよ! 困難な道も逃げずに立ち向かったことに価値があるのよ! 箱根越えしていない自転車旅行なんてクリームのないシュークリームよ!』
『また凄いこと言い出したわね……』
『まぁ、白染が言わんとすることも分からんでもないが』
『でしょ?』
――こうして朗太たちは箱根峠越えをすることになったのだ。
風華が原因か――ッ!!
原因が自身の想いの人だと思い出し朗太は言葉にならない怨嗟の声を上げた。
想いの人の発案が故、恨むに恨めない。いややはり多少なりとも恨めしい。
クソ、なぜこんなに大変なんだ。
朗太は力いっぱいペダルを踏みしめた。
最初、登り始めたときは良かった。
千歳橋を渡った後しばらくは眼下を流れる清流を指さし「川だー!」とか言って盛り上がっていた。しかし温泉街を抜け本格的に山道に入り始めると事情が変わってきた。
大平温泉の自販機前で
「ま、まだ余裕ね」
「そ、そうだな」
と軽く息を上げながら飲み物を飲み休憩。
再度登板を開始し宮ノ下温泉を通過し国道138号線との分岐を迷わず国道1号を選択。
朗太たちはせっせと山道を登っていた。
のだが、
あ、あれ、
なんかきつない??
といった具合でダウン。
「凛銅君、大丈夫!?」
「纏も! アンタきつそうじゃない?!」
「大丈夫です……!」
「俺たちは俺たちのペースで行くから先行っていて良いぞ……!」
健脚な姫子・風華ペアと朗太・纏ペアの距離はみるみる開いて行き、朗太の言葉の後再三押し問答した末姫子たちは朗太たちからいくらかの荷物を持ち彼方へ消えた。
もはや二人の姿は影も形も見えない。
「なかなか……ッ、これは大変ですね……ッ!」
そばにいるのはダラダラと汗を流す纏だけだ。
纏はその華奢な体で必死にハンドルを握りしめジリジリと山道を登板していた。
「大丈夫か……!」
「大丈夫なわけ、無いじゃないですか……ッ! かなりエグイですよ、この道……ッ! あの人たち、どうなってるんですか……!?」
「まぁ、あいつらは人の領域から半歩はみ出している感はあるからな……!」
「人間界では、これが、限界です……! 初めての山登りでこんな荷物背負って何とかなろうわけも、ありません…!」
「だな……!」
朗太と纏はお互いに声を掛け合いながら顔を苦悶に歪めながら山道を登っていた。
途中何度も休憩を挟む。
そのたびに下らない話をするのだが
「にしても……、これはきついですね……」
道のわきにロードバイクを置き肩で息をする纏はかなりきつそうに見える。
そうでなくとも纏は今回の4人の中で最も小柄で華奢だ。
そんな少女が息を上げながらスポーツドリンクを飲み干す姿は、とても大変そうで、はたから見ているだけ、ではいられなかった。
「纏、荷物貸せよ。 持ってやるから」
「い、いやそれは悪いですよ…!」
纏は手をワタワタふり朗太の介助を拒否した。だが散々の押し問答の末「まぁ良いだろ。中学からの仲だから持ってやるよ」の一言で押し切られ、しぶしぶといった表情で朗太のバックパックに重そうな荷物を移すことになった。
「てかドライヤーまで持ってきてんのかよ!?」
「美容に必要なものです! 絶対に必要なんですよ!」
朗太のバックパックに余裕があったからこそかなりの重量が移行された。
バックパックはパンパンで今にもはち切れそうだった。
「せ、先輩大丈夫ですかこれ……」
「だ、大丈夫だろきっと……」
そうして朗太たちは再度登板を開始した、のだが
キッツ……!
いやいやいやいや調子乗ってたわ重すぎるわこれ
先輩風を吹かせすぎたが故の受難。
一瞬にして凶器と化したバックパックに朗太は目を剥いた。
そしてそれは余りにも顔に出すぎていたため
「先輩大丈夫ですか!? やっぱり私持ちますよ!? いや持たせてください!」
朗太の表情を見るや否や纏が駆け寄ってこようとするが
「いや……大丈夫だ……! これぐらい……なんとかなる……! それになにより」
朗太は歯を食いしばりながら頑なに纏の申し出を断った。
「結局纏に返したなんて……情けなさすぎる……! ここは俺の漢を立たせる意味でも俺に持たせてくれ……!」
「先輩……」
それから二人は蟻のように遅々とした足取りで箱根峠を登板し続けた。
時には自転車から降り歩き、時には立ち漕ぎし、ただひたすらに山道を登り続ける。
そうしていくうちに二人は徐々に、この受難を克服しつつあり──芦の湯温泉を過ぎしばらくした時だ。
「おーーーい!! 凛銅くーん! 纏ちゃーん!! 大丈夫ーー!?」
「こっちよー!! 朗太ー! 纏ー!! ガンバ―!!」
道の先に二人の少女が現れた。
姫子と風華が路肩にバイクを止めてこちらに手を振っていたのだ。
朗太たちが辿り着くと二人はこちらのことを何かと心配してきた。
「二人とも全然来ないからどうしたのかと思ったよー!」
「大丈夫アンタたち?!」
「だ、大丈夫だが……」
「二人が早すぎるんですよー! 人間様にはこれが限界です……! 疲れたー!」
「人間様て、私たちも人間よ。てか纏、アンタ汗凄いわよ!? スポーツドリンクちゃんと飲みなさい!? ホラ!」
「あ、ありがとうございます……!」
「凛銅君もヤバいって! ホラ、飲みなドリンク? わ!? てかどうしたのそのバックパック!?」
「纏の分が入ってる」
「先輩に持ってもらったんですー」
「てか何で二人はこんな場所にいるんだ?」
「これよ」
朗太が風華から渡されたドリンクを飲み干したのち尋ねると姫子は道の隅の看板を顎しゃくった。
そこには箱根山を模した山の描かれていて、こう書かれていた。
国道一号最高到達点874m
つまり。
「ここが最高到達点ってことか!?」
「そういうことよ! だからアンタたちを一時間以上待ってたのよ!」
「ここで皆で写真撮ろうってね! 皆お疲れー!!」
「ようやくですか……! 達成感も一入ですね……!」
「ホントね、纏も朗太も良くやったわ! ごめんね先行っちゃって」
「別に気にすることじゃない。自分のペースで行けばいいだけの話なんだから」
「まぁとにかく皆で写真撮ろうよ! ホラ! 凛銅君も遠慮しないで近づいて! ハイチーズ!!」
風華のスマホからパシャリとシャッター音が響く。
その後も女子勢はしきりに自分のスマホで集合写真を撮っていた。
朗太は恥ずかしいので彼女たちからシェアしてもらう予定である。
ともあれ最高到達点だ。
あとは下るだけである。
ようやくこの苦難から解放されたな、そう朗太は安堵していたのだが……
「自分、一つ良いすか……?」
「何よ……?」
数分後、4人で列をなして自転車をこいでいると朗太は唸った。
「わざわざ下って登るのは良くないと思います……!!」
「仕方ないでしょ……! それが山よ!」
「でもさーでもさー!! 最高到達点とかいうともうずっと下りかと思うじゃないですかー! 思った後の坂道はさすがにきついじゃないですかー!」
「凛銅君ー! それは仕方ないよー!」
「先輩……! 私も激しく同感です……! 思わせぶりな態度は良くないです……!」
「だよなー!」
朗太は愚痴りながら必死に自転車をこいでいた。
そう、最高到達点を迎えた国道一号。あとは下るだけと思われたのだが、一様に下りのみになるのではなく、確かにトータルで見れば下っているのだろうが、下った分だけ登るケースが散見されるのである。
確かに、先ほどの看板があった場所が最高到達点であったのだろう。だが坂道はまだまだあったのである。
そして一度気が抜けた心に立ちはだかる坂は心に来るのである。
朗太、そして纏は必死にその後も襲い掛かる坂を登板していた。
だがしばらくするとふと気づく。
これまでに比べ圧倒的に下りが多くなり始めるのだ。
そして直面する。
『歓迎 芦ノ湖遊覧船のりば』
ついに箱根最大の湖、芦ノ湖に到達したのだ。
目の前にこれまでの緑と灰色の山道とは対照的な濃紺の大きな湖が広がる。
芦ノ湖周辺はこれまでの山道とは打って変わって無数の民家や商店が立ち並び観光地として栄えているようだった。レンガで舗装された歩行の脇にはアイスやお土産を売っている店があったりいくつも飯屋があり、湖面には遊覧船が寄せられていて多くの観光客が歩いている。
国道一号が直面した遊覧船乗り場。
そこを左折するとでっかい鳥居が朗太達を出迎えた。道路を股がるように立てられている。
「箱根神社というらしいわよ!」
「ほーん」
有名なのだろう。
今日も多くの参拝者がすぐ横の神社にはいるようだった。
そのすぐさきに雰囲気の良いカフェがあったので4人揃ってそこに入った。
時刻は昼過ぎ。
朝から走り始めたことで身体には疲れが溜まっていた。
だがその湖面に面したカフェは素晴らしいレイクビューを有しており
「凄いわよ! めっちゃ綺麗だよ!?」
「湖面がキラキラ光って見えるな……」
「箱根峠登ったからこそ感動もひとしおね」「私、ちょっと感動してます……」
陽光を跳ね返し輝く広大な湖面に皆みいっていた。みていると吸い込まれそうになる深い青の湖の上を野鳥の群れが気持ち良さそうに滑空していた。
しかもその後出てきた料理も
「美味しいよ凜銅くん?! カレーが最高に美味しいよ!!」
「疲れた体に染み渡るな」
「今までで一番美味しいカレーかもしれません」
「疲労が一番のスパイスってことね…」
絶品で4人揃って夢中になって舌鼓を打った。
ピリリと利いたスパイスが最高に旨かった。
そんなこともあり休憩を挟んだことで幾分疲れが取れた4人。
少し休むと再びロードバイクに股がりいざ静岡へ目指しだす。
そして彼らに待っていたのは登ったことによるボーナスステージであり
「ヒャッホー!」
「おーい白染ー!飛ばしすぎんなよー!?」
「大丈夫よ朗太! アイツ運動神経良いんだし! にしても気持ちいいわね!?」
「あい姫子も!?あぶねーぞ!?」
「先輩、先失礼しますー」
「纏まで?!」
彼らは延々と続く下り坂を風を切り滑走していた。
下り坂ということもありブレーキをかけないとあっという間に時速50キロ以上の速度が出る。それはそれで若干の恐怖を感じるもので当然ブレーキをかけるのだが、体の周囲を吹き抜ける風が心地よいのも事実だった。
青葉の茂る緩やかな下り道をロードバイクで滑走する。すぐ横のガードレールの下は崖になっていたりもした。
そして箱根峠から下り次第、4人は神奈川を脱出し静岡へ突入。静岡東端の三島市の市街地から県道380に入り5時間近く走り続け――
「ついに……ついたわね……!」
「まじで行けるんだな…」
「ふー疲れましたー」
「さ、さすがに私も…」
静岡県静岡市。高いビル群が朗太たちを出迎えた。
初日の目標地である。




