忘れる…
──ボクは昔から完全な記憶を保っていた
「おい、タツノリ。俺、昨日、どっかで財布、落したみたいなんだけど、心当たりないか? 多分、学校から帰る時だと思うんだけど」
そうやって、ボクに声をかけてきたのは、いつも一緒に下校している級友の一人だった。
ボクは、いつものように左手の人差し指を伸ばして額にあてると、昨日の行動を反芻した。
「……そうだね、三丁目の門の郵便ポストの左の自動販売機。……そこでコーラを買ったよね。百三十円の。その時に、脇のゴミ置き場のトコに箱が積み重ねてあったね。……そう、黄色と赤のヤツ。そこに、一度、財布を置いただろう……。それを回収した記憶が無いな。そこじゃないかな」
ボクは、昨日の下校時の一時を、言葉に変換して再現してみた。
「おお! そこだ。きっとそこだよ。さっすが、『完全記憶能力者』。助かるぜ」
彼は、そう言うと、教室を飛び出して行った。
まだ、昼休みが始まったばかりというのに、学校を抜け出して財布を回収しに行こうというのか……。大した行動力だ。その少しでも、年表の暗記に当てれば、少しくらいは成績が上がるというのに。
ボクは、心の内で溜息を吐くと、鞄の中から弁当の包を引っ張り出した。
──完全記憶能力
それが、ボクに備わっている特殊な能力であるようだ。
ボクは、ものごごろついた時から、忘れるということを知らなかった。
ボクが見聞きした物事──いや、五感で感じた事は、全て、時系列と共に正確に記憶されていた。『記録』と言い換えてもいい。ボクが一旦摂取した感覚情報は、そのままボクの身体の一部となるのだ。
物事を思い出す時は、ビデオを再生するかのように、その時に戻って情景を再体験するのに似ている。ゲームセンターのヴァーチャル・ボックスに入ったような、と云うと分かり易いかな。
目を瞑ると、ボクの視野にはその時の情景が、ボクの耳にはその時の音声が、細分の狂いもなく再生される。その時には気が付かなかった些細な風景の違いも、温度差や風の匂いでさえ、思い出すことが可能だ。
ボクは記憶を再生しながら、その時の情景を、『日本語に翻訳して』語って見せることが出来るのだ。
……そう、小さい時には、物凄く苦労したものだ。語彙も少なく、情景を具体的に表現することも、幼少期のボクには難しかったからだ。
ボクは、この能力を他人に説明するために、情景を『言葉』に置き換えて表現する力が自然に培われた。国語力、とでも云うのだろうか。
それで、国語や歴史は、ボクの得意分野だった。記憶していることを、そのまま解答用紙に書き込めば済むからだ。
逆に、数学の類いは苦手だ。簡単な計算問題なら、大したことはない。難問は文章問題だ。公式の応用や、文章から課題を導き出すことは、単純に記憶を辿れば出来るものではないからだ。
どうやらボクの脳神経は、物事を記録するので手一杯で、応用問題に割り当てる分の領域が足りてないようだ。
そう教えてくれたのは、幼稚園からの腐れ縁の友人、ヒロシだった。『博士』と書いて『ヒロシ』と読む。
その名の通り、ヒロシは理数系に滅法強いヤツだった。ボクが記憶を頼りに、ああでもない、こうでもない、と考えあぐねている時に、ヒロシは一瞬で解答に辿り着いてしまう。
「タツノリ、記憶にばかり頼っているから、応用が効かないんだよ。一つの手順さえ覚えていれば、その応用で何百問という問題に答える事が出来るんだぜ」
というのが、ヒロシの言である。
まぁ、確かにその通りだ。でも、ボクは気にしなかった。何百もの応用問題があるというなら、それを全部記憶してしまえばいい。何しろ、ボクは忘れるという事を知らないからだ。
それを、ヒロシに告げると、彼は、
「夢が無いヤツだなぁ。未だ知らない未知の知的領域を想像する。この果てしない、頭脳の力を使わずに放棄してるんだからな。おんなじ事の繰り返しじゃ、詰まんないだろう」
と、自分の人生観を語った。
理数系が得意と言っても、彼はガリ勉タイプの秀才と云うよりも、発想や直感に重きをおく芸術家に近かった。
「そりゃそうだよ、タツノリ。かの天才達──ガリレオやダビンチの事は、当然知っているだろう。彼等は、科学者であり、哲学者であった。と、同時に芸術家でもあった。そして、神学者だった。科学とはインスピレーションなんだ。特異な発想が無ければ、ブレイクスルーは出来ないんだよ」
これも、彼の名言の一つだ。しかし、ヒロシのヒロシたる所以は、この言葉をボクに語って聞かせたのが、ボク等が小学校一年生の時だったと云うことだ。
そんな幼少期から、ヒロシは天才であった。その解析能力とインスピレーションを以ってして、小学校の低学年の頃から、夏休みの自由研究発表では全国的な有名人だった。その独創的な発想と研究成果は、とても歳相応とは思えなかった。
各言うボクも、この完全記憶能力のお陰で、何度もテレビに出演してきた。
全国の駅名とそこの名物の駅弁を語ったり、日本国憲法を前文から全て暗唱したり、地球上の全ての国家と国旗を照合したりと、ボクをネタにしたバラエティ番組は尽きることが無かった。
まぁ、ボク等にとって、テレビに出演したり、自治体から表彰されることは、些細な虚栄心を満たしてくれる、人生にとっての細やかなスパイスに過ぎなかったが。
そんな両極端な能力を持ったボクとヒロシだったが、彼とは妙に馬が合った。お互いがお互いを補完し合う関係だったからかも知れない。
それに、忘れる事を知らなかったボクは、どんな難しい本の内容も一字一句、違うことなく記憶していた。ボクの知識は、同年代の子供達とはあまりに大差があった。そんなボクと対等──いやそれ以上に話が出来るのは、ヒロシを除いて他にはいなかったのだ。
昔、父さんが言っていた。
──ヒロシくんとタツノリがコンビを組めば、どんな難題だって解決できるな。シャーロック・ホームズも明智小五郎も目じゃないよ。
確かにそうかも知れない。実際、ボクとヒロシのコンビで、県警でもお手上げだった行方不明事件を解決したことがあった。小学校の四年生の夏休みだ。当時は、マスコミに追い掛け回されて、難儀をしたものだ。余談だが、カメラマンの名前は馬淵。抱えていたのは、ソニーだった。
まぁ、そんな事も、ヒロシにとっては取るに足らない『些細』な出来事であり、ボクにとっては今朝食べた玉子焼きの味と同じようにハッキリと思い出せる『記録』に過ぎなかった。
そんな、盟友のヒロシだったが、高校に入った頃からボクと距離を置くようになった。
最初は、奇妙な違和感だった。
彼はある日、授業中だというのに、いきなり席から立ち上がり、驚愕したような顔でボクを見つめた。当然、ボクはその時の事をハッキリと覚えている。ヒロシは今にも泣き出しそうな顔で、ボクを見つめていた。その間、一分四十一秒と五分の一。先生に何度も注意されて、やっと席に座ったヒロシは、全ての力を使い尽くしたスモウ・レスラーのようだった。
それからだった。ヒロシは、ボクと顔を会わす度に、悲しそうな表情を見せるようになった。その訳を訊いても、彼はお茶を濁して誤魔化していた。
そして、その事をきっかけに、ボクとヒロシの関係は疎遠になっていった。ヒロシは、ボクの顔を見るのが辛そうで、それがボクには居た堪れなかった。ボク達は段々と会話をしなくなり、距離をとるようになった。そして、ヒロシのこの言葉を最後に、ボク達は顔を会わさなくなった。
──タツノリ。お前は五感に感じた全ての情報を記憶してるんだな。でも気をつけろ。その情報量はトテツモナイゾ
ボクは今でもこの言葉を忘れない。しかし、その意味する事を理解する事が出来なかった。つい昨日までは……
昨夜、ボクは初めて『夢』というモノを見た。
ユメ。人間が睡眠中に見るという、アレだ。ボクは、生まれてこのかた夢を見たことが無かった。本や友人の話から、眠っている時に、いつの間にか記憶されている情景であるらしい事は知っていた。それは、レム睡眠に於ける大脳皮質の活動による疑似体験のようだと云う。
眠っている間に、脳はその日一日に記録した情報を取捨選択し、ある種の『脳内言語』のようなものに変換して、記憶として保存するらしい。その過程で、偶然にシナプス間で生じる神経パルスが作り出した情景が、脳の一次記憶領域に残され、夢として認識される。それが、ヒロシによる解釈であった。
『記録』を『記憶』として、所謂二次記憶領域に固定する作業の際に、一次記憶領域はテンポラリ・ワークエリアとして機能しているらしい。夢とは、そのワークエリアに残された情報の断片が繋がりあって出来た、記憶の残りカスのようなものだ。……と、ヒロシは言っていた。
彼の唱える理論も、その意味も、ボクにはサッパリ分からなかった。何しろ、ボクは夢を見たことがない。ヒロシの言う通り、夢が脳の情報整理作業の残りカスだと云うのなら、ボクにはその作業そのものが、不必要だったからだ。
ボクの感じた全ての情報は正確に記憶され、ボクの脳に刻まれる。二次記憶領域とかいう処に保存するための処理は不要だ。全ては、原始情報をそのまま、ボクの脳神経系に固定される。
従って、ボクが夢を見る事はない。……そう思っていた。
だからだろう、今朝、目を覚ました時から十数分の間、ボクは意識を完全に覚醒する事が出来ないでいた。生まれて初めての経験だった。
ボンヤリとした情景の中で、ボクは少女と遭っていたらしい。
『らしい』だって?
普段のボクなら決して使わない単語だ。ボクにとって、体験した事は、全て明瞭に記憶されるからだ。
その少女は、ボクに色々な事を問いかけていたように思う。
──この塀の側にあるモノは何?
(合成樹脂のボックスだ、ゴミ分別用の。材質は高密度ポリエチレン。黄色はガラス瓶。青いのは金属ゴミ)
──中身はどうしたの?
(未だ回収前だ。ここは、朝六時から開放される。今は午前四時。だから、中は空っぽ。それぞれ、無造作に積み上げてある。黄色が二十五個。青は十二個)
──じゃぁ、ここは何?
(農業用の用水路。ゴミ回収所は、用水路の上の空間を活用して設置されている)
──では、この道は何処へ…………
そんな風に彼女はボクに質問をし、ボクはそれに『言葉』で応えていたように思う。
『思う』だって!
有り得ない。ボクの記憶は永久絶対だ。曖昧は無い。
それが昨日までのボク。その筈……だった。
「よう、タツノリ。お早う。何、トロトロ歩いてんだよ。寝坊か?」
ボクに声をかけたのは、これも幼稚園時代からの腐れ縁──サクヤだった。
昨日よりも三分三秒は、早い。彼女の目覚めは、スッキリしたモノだったのだろう。
「返事がないなぁ。ヒロシに振られて、眠れなかったのか?」
スラリとした割に、出ている処は出ていて、引っ込んでいる処は引っ込んでいる。そんなメリハリのある肢体をセーラー服に包み込んだ彼女の外見に逆らうように、その言葉は漢前だった。
小走りで、ボクの前に廻ったサクヤは、その長い黒髪を掻き分けるように、ボクの眼を覗き込んだ。
一瞬、ボクは夢に出てきた少女を、彼女と混同して、息が詰まった。
「ンだよ。幽霊でも見るように。タツノリが寝ぼけているなんて、初めて……だよな」
サクヤは人並み以上に整った小顔を斜めに傾けると、不思議そうにそう言った。
黒い瞳が潤んでいる。
少し前屈みになった彼女の制服の胸元から、白い布地の端が覗いていた。
ボクの脳裏に、幼稚園の頃の彼女の姿が浮かんだ。その頃は平で、淡いピンクの粒だけであった胸は、大きく自己主張をするようにセーラー服を押し上げている。その事に、ボクは少し動揺したのかも知れない。
「何でもないよ」
ボクはそう言って目を逸らした。
彼女は、そんなボクの挙動に瞬時に反応した。
「あっ、その眼の逸らし方。ヤラシイ事、考えてたな。サクヤには、お見通しなんだぞ」
サクヤは胸を張るように反り返ると、ボクを指差した。物怖じない挑戦的な眼差し。
(そういや、ヒロシはサクヤの事がお気に入りだったな。……いや、お気に入りというより、ヒロシにとって、サクヤは『特別』だった)
「どうした、タツノリ。本当に変だぞ。風邪か! 風邪をひいたのか。熱っ! 熱、測ろう。保健室、保健室」
サクヤは、そう言うと、いきなりボクの手を掴んで引っ張って行こうとした。
「大丈夫だよ。何でもない」
ボクは、そんな彼女の手を鬱陶しく思って、振り払った。そうして、付け足すように、こう言った。
「今朝、夢を見たんだよ。それでだよ」
そんなボクの態度に、サクヤは眼を見張った。
「ゆめぇ。夢って、あの『夢』か? タツノリが見たのか! 凄いな。初めてじゃないか」
目まぐるしく変化する表情の中から、クリクリとした黒目が、ボクを見つめていた。
「そうだな。ボクの確かな記憶によると、初めての夢だ。間違いなく」
ボクが、そう断言すると、
「そっか。タツノリの初体験だ。お祝いしなくちゃな」
彼女は大きくバンザイをして、こう言った。制服の裾が持ち上がり、白い肌がチラリと覗く。
ボクは、ヘソが見えそうなキワドイ部分を見ないように、ぶっきらぼうに応える。
「大袈裟だなぁ。ヒロシが言ってたぞ。『夢を見る事は高度に発達した大脳皮質を持つ人類に授けられた知的現象』だって。小学校五年生のクリスマス会の日」
それを聞いたサクヤは、
「そうかっ。ヒロシがそう言ったんなら、その通りだよな。これでタツノリも、人類の仲間入りだ。……で、どんな夢だった? 初めての記念に、教えろよ」
と、強引に迫って来た。コイツも、自分の外見の何たるかを自覚していない、罪な少女だった。
その事に、ボクは少しムッとしたが、ボソリと呟くように応えてやった。
「女の子。……カワイイ女の子がいたような気がする」
すると、彼女はますます興奮して、こう言った。
「女の子! サクヤか? もしかして、サクヤがタツノリの夢に出てきたのか」
相変わらず彼女は、ボク達の事に積極的だった。幼稚園の卒園式で、ヒロシがテルミット反応で、手の平サイズの火山噴火実験をやった時にも、他の園児達が恐怖で泣き出したのに、サクヤだけが大喜びして、はしゃいでいた。
「違うよ。サクヤより、カワイかった」
ボクがにべもなくそう言うと、
「ええ〜。サクヤだってカワイイのに。残念だなぁ。サクヤがタツノリの初めてになったと思ったのにぃ」
と言って、ムゥと口を膨らませた。
「誤解を招くような言い方をするな。サクヤは、もうちょっとデリカシーってモノを持たなくちゃ。ヒロシが泣くぞ」
疎遠になったとは云え、相変わらずヒロシはボク達の大切な親友だった。サクヤは、そのヒロシの『特別』だ。だからだろう、ボクがサクヤに積極的になれないのは。
「何でヒロシなんだよ。……もしかして、女の子って、ヒロシが女装してたのか? ヒロシって、凶悪な実験とかが大好きなくせに、美少年だもんな。中学の時の文化祭で女装させたら、ダンスの申込みが殺到したっけ」
と、サクヤは、腹を抱えてギャハハと笑っていた。
ああ……。どうしてコイツは……。こんなのがヒロシの『特別なお気に入り』だなんて。ボクは、サクヤに嫉妬に似た何かを感じた。
「中学二年の文化の日の時。女装したヒロシに参った男子は二十七人。そのうち、五人が本気だった。更に云うなら、内、二人はゲイだった」
ボクは、その時の事を正確に語った。
「マジかっ! サクヤも、そこまでは知らなかったぞ。凄いなヒロシは。男の子を三人も『女性として』魅了したのかっ」
天然なのだろうが、サクヤは変なところで賢しかった。ポイントが少々ズレてるが。
「五人が五人とも、この高校に進学しているからな。先輩・後輩も含めて。クラスも教えてやろうか。同学年の二年生はB組とC組に……あれ、A組だったか……。何だ? 何かはっきりしないな」
ゾクリとした感覚が、ボクの背中に触れた。
──記憶が欠けている?
そんな筈はない。ボクの記憶は完全だ。
「どうしたんだ、タツノリ。真蒼だぞ。もしかして、本当に病気か? 風邪か? 流行ってるらしいからな」
サクヤは、半分泣きそうな顔で、ボクの顔を見上げた。潤んだ黒瞳に吸い込まれそうになる……
「大丈夫だよ。最後に風邪をひいたのは、百六十八日前……え? 百七十日前だったか……」
まただ。記憶に欠落した部分がある。ボクはどうしたんだ。
「そんなコト言って強がっても、サクヤには分かるぞ。シンドイんだろ。スゴい汗かいてるぞ」
彼女はそう言って、スカートのポケットから取り出したハンカチを、ボクの額に近づけた。眼の隅にハンカチの柄が入る。
この柄は……、ヒロシがサクヤにプレゼントしたものだ。六年前の彼女の誕生日で……いや、五年前だったか。
「あ、……あ、ぁあぁ、あぁ」
まただ。ボクの記憶に齟齬がある筈がない。何だ? 何が起こっているっ。
ボクは、言い知れない不安に襲われた。左手で額を押さえると、その場に蹲ってしまった。足に力が入らない。
何かが眼に入ってきて、視界がボヤける。……あ、せ。冷や汗か? 全身の血液が逆流するような悪寒に襲われたボクは、それ以上、動くことが出来なかった。
「どうしたんだよ、タツノリ。おい、ダイジョブか、タツノリ。タツノリ、……タツ……
サクヤの声が遠くなった。ボクの記憶は、そこで一旦途切れた。
──拒まないで
キーンとした耳鳴りの中に、そんな声が響いたような気がした、……これは夢か?
──ワタシの言う通りにして。これは何? いつの事だったかしら
イヤダ
──お願い、言葉で答えて、手遅れにならないうちに
イヤダ
──ワタシの言う事を聞いて
イヤダ、ダメダ
──そうしないと、キミは壊れてしまう
イヤダ、キライだ、オマエは
──記憶の変換を
イヤダ、ソンナことは
──もうリミットなの
イヤダ、これはゼンブ、ボクのモノだ
──オネガイだから、言う通りにして
イヤダ、そんなコトは
──キミのコトを大切に思ってるヒトがいるのよ
イヤダ、これはボク自身だ
──リミットを超えかけてるの、あのヒトの計算よりハヤイ、……間に合わなくなる前に
イヤダ、ボクがボクでなくなる、……ソンナのはボクじゃない
──オネガイ、コンフリクトしかけている、バッファ・オーバーフローが……
イヤダ、イヤダ、イヤダ、イ、ヤ、ダ、!
「わぁー」
この叫び声に驚いて、ボクは眼を開いた。
目の前に、灰色の天井とLEDの照明が見えた。
ボクは……どうしたんだ……
「眼を覚ましたみたいだな。……おい、タツノリ。大丈夫か?」
その声につられて、ボクは首を回した。視界が流れて、黒の詰め襟を着た白い顔が見えた。
「ヒ、ロシ、……ヒロシか?」
そう。ベッドの端からボクを見つめていたのは、誰でもない、ヒロシだった。
「そうだ。オレだ。ヒロシだ。済まなかった。こんな事になる前に……、もっと早いうちに処置にかかっていれば……。済まない、タツノリ、全部、オレのせいだ」
(オマエは何を言っているんだ)
「タツノリ……オマエは、限界に達したんだ」
(限界? リミット……誰かが言っていたような。……何だそれは)
「タツノリ、よく聞け。人間の頭脳は千年は生きられるように出来ているそうだ。でも、それは、普通の人間が普通の体験をした場合の話だ」
(千年……? ボクはそんなに長生きする気はない)
「タツノリ、人間のセンサーが受信する情報は膨大なものだ。当然、それを記録するには、それなりの大容量のストレージが必要だ。だが、それにも限りがある。人間の脳にも容量と云うものがあるんだ」
(容量? ストレージ・サイズの事か。記憶容量……何だソレハ)
「普通の人間の脳には、膨大な情報でパンクしないようにする機能が備わっている。大脳には、容量オーバーに至らないように、二つの機能が実装されているんだ。一つは、情報を脳内言語に変換して高密度で圧縮する機能。そして、もう一つが『忘れる』という機能だ」
(アッシュク? 圧縮か。ソレハ、可逆的ナ、モノカ)
「当然、情報変換にあたっては、不可逆圧縮を行っている。そして、重要ではないと判断された情報は、削除される。記憶を構築するにあたって、選択的に拾い上げられた情報を、高効率で大脳に蓄積する必要があるからだ」
(ナンダ、ソレハ……ダト、シタラ……)
「そうだ、そうしなければ、脳が情報を記録しきれなくなる。容量オーバーになるんだ。そうならないための機能が『忘却』だ」
(イヤダ、ワスレル、ナンテ)
「タツノリ、オマエの脳には、この『忘れる』という機能と、情報を圧縮する機能が欠けている。だから……」
(ダカラ? ナンダッテ、イウンダ)
「だから、タツノリ、オマエの記憶は、普通の人間よりも遥かに早く脳の記憶容量を喰い潰していったんだ。そして、限界を超えて記憶しようとすると……」
(スルト、……ドウナル、ト、イウノダ……)
「オーバーライトだ。タツノリ、隙間なく情報で埋まってしまったオマエの脳には、もうほかに書き込む場所が無い。そこに無理やり情報を記録しようとすれば、……オーバーライト──既に書き込んでしまった領域に、情報を上書きすることになる。その結果、記憶に齟齬が生じる。最悪の場合、人格を司る脳内情報が書き換えられてしまう事も考えられた」
(オーバー……ライト、ダ……ト……)
「それに気が付いた時、オレは……オレは恐怖した。オマエがオマエで無くなるかも知れない。そんなのはイヤだ。だが、完全記憶能力を欠いたオマエは、オマエじゃなくなるだろう。……オレは成す術のない自分を呪ったよ。それで、タツノリ、救ってやれないオマエを、壊れてしまうかも知れないオマエを、見ていられなくなった。……済まない、タツノリ。オレは逃げたんだ。誰よりもオレが、オマエを助けなきゃならないのに。済まん、タツノリ。本当に、済まなかった」
(スマナイ、ッテ、ナニヲ、イッテ、イルン、ダ)
「だが、大丈夫だ。方法は見つかった。『夢』を見るんだ。オレは、オマエの脳に『情報圧縮機能』を実装する方法を見つけた。それが『夢』だ。夢の中に少女が出てきただろう。ソレはオマエのアニマだ。少女の言葉に従え。『生の記録情報』を、『脳内言語』に変換することで、記憶の圧縮が実現する。言語とは膨大な経験情報を高効率で圧縮するためのツールの一つだ。既に記録された情報を、抽象化された脳内言語に変換して、『記憶』として圧縮・再記録する事で、脳内の記憶領域をこじ開ける。そうすれば、オマエは生き延びられる」
(ナンダ、ソレハ、……ソレジャァ、ボクノ、キオク、ハ、ドーナル……)
「タツノリ、残念ながら、完全記憶能力は、無くなる。不可逆圧縮された記憶からは、不要と判断された情報が抹消される。風の匂いも、水の冷たさも、……あの日一緒に喰ったチョコレートの甘苦さも、……『言葉』になる。記号化され、失われてしまう……」
(ボク、ノ、キオク、……カカセ、ナイ、アノ、ヒ、ノ、カンカク……)
「そうだ、失われる。……だが、大丈夫だ。完全記憶能力を失っても、タツノリはタツノリだ。オマエは誰でもない、オマエである事に変わりはない。オレの大事な親友だ」
(ボク、ハ、ボク、デ、ナクナル、ノ、カ……)
「眠るんだ、タツノリ。眠って、……夢を見るんだ。少女が導いてくれる。記憶を圧縮するんだ。そうすれば、記憶の上書きによる人格崩壊は回避できる。大丈夫だ、タツノリ。オレがついている。信じて眠れ」
(ネムル? ネム、ル、ト、ドウ、ナル、……ユメ、ヲ、ミル、ト、ドウ、ナル? キオク……、ナクナル?)
「信じて眠れ。タツノリ。夢の中で少女の導きに従うんだ」
(ネムル、ユメ、ショウジョ、……キオク、……ナクナル)
イヤダ、
イヤダ、
イヤダァーーーーーーーー
「うわぁー、ああああああああああああ」
「どうした、タツノリ、落ち着け」
「いやだぁぁぁぁぁぁあああああーーーーー」
「落ち着け、タツノリ。眠るんだ。眠って、夢を……」
「オマエ、ハ、……ダレ、ダ……ボク、ハ、ナンダ………………ユ……メ……ミタク……ナイ」
「タツノリ、しっかりしろ。落ち着け。眠るんだ」
ダ レ
ワ ス レ タ ク
ナ
イ
(了)