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お嬢様は恋煩い  作者: 霧原善光
2/28

第1-1話 御影麻夕

 

 

「ふぅ――」

 手に持った荷物をベンチに置いて、私もその横に腰掛ける。かなりの時間歩き続けていたので、足はもうがくがくだし、喉もからからだ。しばらくここで休憩することにしよう。

 バッグから水の入ったペットボトルを取り出して一息に飲む。ついさっき、コンビニエンスストアで買ったものだ。コンビニエンスストアなんて入るのは初めてだったから、とても緊張した。

 

 私の名前は御影麻夕。

 年齢は十四歳で、今月中学三年生になったところ。

 血液型はAB型。

 趣味は……特にないけど、強いて言うなら本を読むことかな。

 小さい頃からパパにいろんな習い事をさせられてたから、ピアノやヴァイオリンが弾けたり、絵を描くのがちょっと得意だったりする。

 そんな私は今、最低限の日用品と数日分の着替えを詰めたバッグを持って、家からちょっと離れた公園にいる。

 今日は金曜日で、時刻はだいたい夜の八時前といったところ。そんな時間に、私みたいな女の子がどうしてこんなところで一人ベンチに座っているのかというと……まあ、話せば長くなるんだけど、要は家出をしてきたのだ。

 私は長年、パパの横暴に耐えてきたつもりだった。

 ちょっとしたことで叱られることにも、私のことを何でも勝手に決められることにも、行きたくもないパーティに連れて行かれることにも、ずっとずっと耐え忍んできた。

 だけど、今回だけは我慢の限界だ。

 少なくとも日曜日までは、絶対家に帰ってやらないんだから――

 

 私は明後日の日曜日、お見合いをすることになっているらしい。

 “らしい”っていうのは、当の私もお見合いのことについて、ついさっき知らされたばかりなのだ。

 しかも、相手は私が会ったこともない、顔も名前も知らない男の子だということだった。

 どうして私がそんな子とお見合いなんてしなければいけないのよ。

 それに、お見合いっていうのは結婚するのが前提ってことでしょ?

 この歳で好きでもない人と結婚を決められるなんて、誰だって嫌に決まってる。どんなに大人しい女の子だって、家出の一つくらいしようというものだ。

 私のパパとママはお仕事がとても忙しいみたいで、いつも全国を飛び回っていて、海外に出張することも多い。時々家に帰ってきては、お土産とお小言を置いてまたすぐどこかに行ってしまう。

 昔からそうだった。特にパパは、一か月以上家にいたことなんて、私の記憶にある限りでは二回か三回くらいしかないと思う。

 けれど、別に寂しいと思ったことはない。パパとママがいない間も、ずっと誰かが傍にいてくれたから。

 今は“琴葉”っていう親戚のお姉さんが、私と一緒に暮らしてくれている。

 私が物心つく前からよく遊んでもらっていた人で、一昨年大学を卒業して今は住み込みで私の面倒を見てくれていた。とても綺麗で、お料理やお裁縫もすごく上手で、女の私でもちょっと憧れてしまうような人だ。

 今日、パパとママが出張から帰ってくるということは知っていた。会うのはおよそ一か月ぶりのことだった。

 パパとママがいなくても別に寂しくなんてないけれど、でもやっぱり、久しぶりに会うのは楽しみだった。家族でいろんなことを話したり、一緒にご飯を食べたりするのを楽しみにしていたのだ。

 なのに――

 帰ってきたと思ったら、おかえりって言う暇もなく一方的にパパからお見合いのことを告げられた。

 私は最初、何が何だか分からなかった。

 琴葉も何も聞かされてなかったみたいで、とても驚いていた。

 ちょっと時間が経って、だんだん話の中身が分かってきて、私は絶対に嫌だって思った。

 私、まだ十四歳なのに。お見合いどころか普通の恋愛すらしたことないのに。

 パパは昔からそうなんだ。私にあれしろこれしろって、なんでも押しつけてばっかりだ。私はパパのお人形じゃない――

 私は我慢ならなくて、どうしても嫌で、お見合いなんて絶対に行かないって言ったんだけど、もちろんパパは私の言うことなんて全然聞いてくれない。

 それどころか、私が抗議してる内にだんだんパパの方が怒りだしてきてしまった。

 なんとかママがパパのことを宥めてくれたんだけど、ママも『パパとママもお見合いで知り合って結婚したのよ』なんて言って、遠まわしにお見合いを勧めてくる。

 いつも一緒にいる琴葉ですら、『もしかしたら素敵なお方かもしれませんし、一度お会いするだけお会いしてみてはいかがでしょうか』とパパやママの肩を持つ。

 でも、私はどうしてもお見合いに出るのが嫌だった。

 だから、家出することに決めた。

 せめてお見合いが予定されている日曜日が終わるまで、絶対に家には帰らないと心に決めたんだ。

 だけど……

「はぁ……」

 思わず深いため息が出る。

 パパたちに気付かれず上手く家を出られたのはいいものの、これからどうしようか……。

 親戚や友達の家はすぐバレるからダメだし、ホテルに私みたいな中学生が一人で泊まりに来たらきっと怪しまれると思うし、夜中に外でうろうろしてたら警察とかに見つかって家に帰されちゃうだろうし……。

 家の近くだとすぐ見つかると思って少し遠めの公園まで来てみたものの、あと二日、私はどこでどうすればいいのだろう。

「はぁ……」

 またため息が口から漏れて、春の夜空に溶けていく。

 

 そんな風に私が公園のベンチに座って一人途方に暮れていると、前から背の高い二つの影が、私の方に近づいてきた。

 

 

 ●

 

 

 俺は、バイトと近所のスーパーに買い物に行く以外では、滅多に家の外に出ることがない。

 けれども夕方から夜にかけて、晩飯の前に三十分ほどランニングすることを日課にしている。

 非健康的な生活習慣とタバコによる体力低下に対するせめてもの抵抗というわけだ。

 この日も俺は、夕方までバイトに精を出した後、簡単に晩飯の下準備を済ませてからランニングに出かけていた。

 心なしかいつもよりペースが速いが、それもそのはず、今日の俺は非常にむしゃくしゃしていた。

 大学を辞めてからというもの、月々の仕送りを半分に減らされてしまったので、俺は今まで続けてきたレストランカフェでのバイトの他に、新しい働き口を探さなければならなくなった。

 幸か不幸か新しいバイトはすぐに決まり、実は今日が初出勤だったのだが……。

 俺の教育担当になった社員の人が、どうしても気に食わなかったのだ。

 自分は働かないで横から指図するばかりだし、ろくに仕事を教えてもくれず、訊けば怒るし訊かなくても怒る。

 なんなんだいったい。どういう神経構造をしていたらあんな態度を取れるのか、俺にはまったく理解できない。

 おかげで今日は丸一日、非常に不愉快な思いをさせられた。我ながら、よく我慢したものだと思う。

 けれどもさすがにこれ以上はやってられないので、バイトが終わって家に帰るとすぐさま店に電話をかけて、一方的に辞めることを伝えた。

 いくら根気のない俺でも、一日でバイトを辞めるのは初めてだ。最短記録大幅更新。

 まったく……今回は運が悪かった。

 だが、これがバイトだから簡単に辞められたものの、本就職となると話が違う。

 もしこれからどこかの企業に就職して、あんな上司の下で毎日仕事をしなければならなくなったらと思うと、考えただけで胃が痛くなる。

 ああ……やっぱり働きたくないな……。

 とりあえずはレストランカフェでのバイトがあるし、今まであんまりお金を使ってこなかったので、僅かながら貯金もある。これは友達がいないが故のアドバンテージだ。きっと、友達がいると遊びに行ったりしてお金を浪費し、完全に行き詰まっていたことだろう。悲しいけれど、今回は友達がいなくて助かった。

 ……いや、友達がいれば何かと頼れることもあったのか。やっぱり友達はいた方がいいな。

 まあとにかく、今は焦らずじっくり、また自分に合ったバイトを探すとしよう。

 ランニングを始めてからおよそ三十分が経ち、俺は自分の家のすぐ近くの公園まで戻ってきた。

 遠見が丘中央公園というこの公園は、俺が暮らしているこの遠見が丘の町では一番大きな公園で、ブランコや滑り台などいろんな遊具が置いてある区画や、家族でピクニックをするのにうってつけの青々とした芝生の区画、サッカーコートが一面入るくらいの広さのグラウンドもある。

 普段から日中は多くの子どもで賑わっているし、休日はスポーツチームがグラウンドで練習しているし、自治会の夏祭りや運動会もこの公園で開催されている。

 このご時世に珍しい――のかどうかは知らないが、地域住民から愛されている公園である。

 けれどまあ、日も完全に落ちたこの時間だと、さすがに人の気配はない。

 ランニングする時はいつもこの公園を通っているけれど、この時間だとたまに犬の散歩をしているおじいさんとすれ違うくらいだ。

 俺は誰もいない公園に入り、近くの適当なベンチに座る。

 そして、ポケットからタバコを取り出して火をつける。

 煙を肺いっぱいに吸い込んで、思いっきり吐き出す。こうすると、なんだか肺が汚れる代わりに心が洗われる気がするのだ。

 タバコを片手に、ぼんやりと夜空を見上げる。

 この公園は住宅地のど真ん中にあるため、あいにくそれほど星空が綺麗に見えるわけではないが、それでも宵闇に輝く白い月は、十分俺の心を癒してくれる。

 タバコを吸いながらこうして夜空を見上げていると、昼間のバイトのあのいけすかない野郎のことも、どうだってよくなってくる。

 明るい未来を失ってしまった自分の人生だって、自分をまったく必要としないこの世界だって、本当にどうでもいい――

 そうしている内にたちまちタバコは短くなり、気づけば火がフィルターに届こうかとしていた。

 ――さて、帰るか。

 帰って風呂入って飯食って、ゲームに勤しむとするか。今日こそ前から狙っていたレアアイテムを手に入れたいしな。

 タバコの火を消し、近くの煙管に吸殻を捨てに行く。

 

 それは、その時だった。

 

「ちょっと、バッグに触らないでよ!」

 遠くから甲高い女の声が聞こえてきた。女というより、ちょっと幼さの残る少女の声。

 何事だろうかと思って声のした方向へ顔を向けると、俺が座っている場所から少し離れたところに、背の高い影が二つと、小さな影が一つ見える。

 俺が公園に入ってきたところからは木の陰になって見えなかったみたいで、まったく気づかなかった。

 状況から察すると、どうやら二人の男が女の子に言い寄っていて、女の子の方は嫌がっているらしい。

 まったく――俺の家の近所で迷惑な連中だ。

「……ふぅ」

 ……さて、どうしようか。

 あらためて辺りを確認してみる。

 今、公園には絡んでいる男たちと絡まれている女の子以外には俺しかいない。

 つまり女の子を助けられるのは俺だけだ。

 ならば……どうやって助けるか。

 まず思いつくのは警察だ。だけど警察を呼んだとしても、ここに来るまでに多少の時間はかかるだろう。その間に何が起こるか分からない。

 なら、近所の家から助けを呼んでくるか? 若い男が自分では何もせずに?

 それも情けないことだ。いまだに残る俺のちっぽけなプライドが、どうにも許してくれそうにない。

 やっぱり……俺が直接止めに入るしかないか……。

 正直、怖い。

 ただでさえ俺は人に話しかけるのが苦手なのだ。こんな揉め事の仲裁に入るだなんて、考えただけで足がすくむ。

 本心を言うと、このまま見て見ぬふりをしたいくらいだ。

 むしろ、そっちの方が俺らしいと言えるだろう。面倒事はできる限り避けるのが俺の生き方だ。勇者やお節介は早死にする。

 それに、仮にここで逃げたとしても、誰も見ていないのだから俺を責める人間もいない。

 だけど……なぜかどうしてもそうする気にはなれなかった。

 大学を辞めて人生先行きが立たず、自棄になっているのかもしれない。

 なんとか自分を変えようという気持ちが、いい加減俺の中にも芽生えてきたのかもしれない。

 でもとにかく……こんな俺でも、ちょっとくらい他人の役に立てたらいいななんて思ってしまったのだ。

 俺みたいなヤツを犠牲にして未来ある少女が助かるのであれば、社会全体としてはお釣りがくるどころか一挙両得の感すらある。

 俺は夜空を見上げて大きく深呼吸した。

 ――行こうか。

 我ながららしくないなとは思いつつも、意を決して俺は三人の方に歩いて行った。

 

「ねえ行くトコないんでしょ? ウチ来なよ」

「うるさい! どっか行ってよ!」

 少女の必死の声に、男たちはゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。女の子が恐怖と屈辱で今にも泣きそうになっているのが、顔を見なくても分かる。

 本当にこういった連中の思考回路は理解できない。女の子を虐めて何が楽しいのだろうか。こんな連中が俺と同じホモ・サピエンスだということに腹が立つ。ゴミ以下のクズだ。四肢を車に掛けて火をつけた上で八つ裂きにできればいいのに。

 だが、今はそんなことを言っても仕方がない。

 さあ、行くぞ――

 俺はもう一度、大きく深呼吸をしてから、

「どうかしましたか?」

 と、横から三人に声をかけた。

 俺の喉から出た声は自分でもびっくりするくらい小さかったが、それでもちゃんと三人の耳に届いたようで、三人ともが俺の方を振り向いた。

 二人の男はまさしく“チンピラ”といった出で立ちで、片方は顔の九割が隠れてしまうほど前髪が長くて全身にアクセサリーをジャラジャラとつけており、もう一方はプロレスラーみたいに体がでかくて両腕に入れ墨を彫りこんでいる。

「なんだテメェ」

 でかい方の男がゆっくり俺に近づいてくる。

 ――ああ、ヤバいな。

 近づいてくる男は俺よりもずっと体が大きくて、筋骨隆々としている。ボンレスハムみたいに膨れ上がった二の腕は、俺のふくらはぎくらいの太さがありそうだ。

 対して俺は、自分でも情けないがひょろひょろのがりがりだ。腕も足も棒のように細いし、体も肋骨が浮き出て頼りないことこの上ない。

 いったい日に三十分のランニングが何の役に立つというのだろうか。

 どうしようか……まともにやりあって勝てる相手じゃないな……。

 逃げるか? あの子の手を引いてダッシュで……いや、無理だ。俺と女の子の間に二人の男がいるという位置関係上、二人で逃げるという選択肢はない。

 第一、逃げたとしても女の子の足ではすぐに追いつかれて捕まってしまうに決まっている。

 なら……もう、思いっきり大声を出すくらいしかないか……。

 ここは町で一番大きな公園だけど、大声で助けを求めれば近隣の民家から人が出てきてくれるかもしれない。

 そうでなくても、大事になったらまずいと思って男たちが逃げてくれるかもしれない。

 あまりにも他人任せな作戦で、いや作戦と呼べるほどの代物でもないけれど……。

 どうしようか……せめて警察は前もって呼んでおくんだったな……。

 プロレスラーみたいな男が俺の眼前まで迫る。

 ああ、めちゃくちゃ厳つい顔をしてやがる。

 こいつがその気になれば、俺なんて一瞬にしてミンチと化すだろう。

 まったく……似合わないことなんてするもんじゃないな……。

 けど、そんなふうに頭の中でぼやいてみるものの、不思議と後悔はあまりなかった。

 何発か殴られるかもしれないが、死にはしないだろう、多分。

 俺が殴られて女の子が助かるんだったら御の字だ。

 でも、一方的に殴られるだけ殴られて、女の子にまで危害が及んだら意味がない。

 俺は大きく息を吸って、ちょっとカッコ悪いが大声で助けを呼ぶ覚悟を決めた――

「ダリぃ、もう行こうぜ」

 長髪の男はそう言うと、公園の外に向かってたらたらと歩きだした。

「チッ……」

 でかい男も舌打ちしつつしばらく俺を睨んでいたが、結局長髪の男に続いて公園から出て行った。

 俺は男たちが完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 くそ、緊張した――

 どうやら事なきを得たらしいが、ほっと安心した途端、腰が抜けそうになった。

 心臓もまだバクバクいってるし、膝もガクガク震えている。

 まったく……なんて情けない有様だ。

 今回は運が良かったけど、やっぱり似合わないことなんてするもんじゃないな……。

「あの……」

 不意に声をかけられて、俺はようやく我に返った。

 間抜けなことだが、チンピラどもに対する恐怖心のために、絡まれていた少女の存在をすっかり忘れていた。

「その……ありがとう、ございました」

 少女は俺の方に近づいてきて、ぺこりと頭を下げた。

「ああ、いや――」

 

 ――その時、俺は天使を見た。

 

 歳は十四、五歳と言ったところだろうか。街灯に照らされた黒髪は、一本一本丁寧に漆を塗りこんだかのような艶やかさ。目はぱっちりと大きく、瞳は黒曜石を嵌め込んだかのように深く澄んで美しい。筋の通った鼻に柔らかそうな唇、白い頬に小柄で華奢な体――

 ――これを天使と言わずして何と言うのだろうか。

 先ほどの男たちに対する恐怖は一瞬にして忘却の彼方へと運び去られた。

 この子のためならたとえ火の中水の中、死んだところで悔いはない。

 いや……たまには似合わないこともしてみるもんだな……。

 しばらく俺はその少女に見惚れて立ち尽くしていたのだが、ふと何か言葉を返さなければと思い立ち、

「ああ……うん、どういたしまして」

 ぎくしゃくした声で、何とかそう言った。

 今度は先ほどとは違う意味で、心臓がドキドキしている。

 女の子は俺にお礼を言ったまま、かばんを持って立ち尽くしている。よく見ると、少し肩が震えている。可哀想に、すっかり怯えきっているようだった。

 大人の男の俺ですらこの様なのだから、年端も行かない女の子なら、軽いトラウマになったとしても仕方がない。

 もし俺がこの公園を通りかからなかったらと考えると、本当に背筋が凍る思いだ。何の因果か知れないけれど、今日この時間にこの公園に来て、偶然とはいえこの子を助けることができて本当に良かった。

 しかし……この子はこんな時間にこんな場所で、いったい何をしていたのだろうか。結構荷物を持っているように見える。

 家に帰る途中だったのか、友達と待ち合わせでもしていたのだろうか。

 何にしろ――このままさよならをして、この子を一人にさせるわけにはいかない。俺が家まで送ってやるべきだろう。

 決して、せっかくだからこの子ともっとお近づきになりたいなーなどと思っているわけではない。

 ……まあ、そういった気持ちがまったくないとは言わないけれども。

「君、家はどこなの? またあんなのに絡まれたら大変だから、家まで送って行くよ」

 可愛い女の子に話しかけるということに多少の緊張を覚えながらも、できる限り平静を装い、声が上擦らないように全力を尽くす。

 けれど少女は顔を伏せて、戸惑うような、悲しむような、よく分からない表情を浮かべた。

 やっぱり少し様子が変だ。

 もしかして、俺のことも警戒しているのだろうか。仕方ないかもしれないが、そうだとしたら些か――いや、かなり悲しい。

「家は……」

 少女がゆっくりと口を開く。

「家は?」

「家に……帰りたくない」

 家に帰りたくない。消え入りそうな声で紡がれたその言葉が、俺の脳内でリフレインする。

 それは、まだ俺と一緒にいたいという意味なのか。

 それとも、今夜は俺の家に泊めてほしいという意味なのか。

 まさか――今の一件で俺に一目惚れしてしまったのだろうか――

 ……ないな。そんなことありえない。地球が明日爆発するのと同じくらいありえない。もしくは俺が明日就職するのと同じくらいありえない。

 人生で一度たりとも女性から好意を向けられたことのない俺だ。もはやそういった幻想を抱ける段階にはない。

 もっとカッコ良く少女を助け出したのならともかく、俺がやったことといえば、消え入りそうな声で男たちに呼びかけただけだ。

 それでたまたま男たちの興が削がれて、本当にたまたま事なきを得たに過ぎない。

 どんなに惚れっぽい女でも、そんな俺にはせいぜい尺取虫に向ける程度の好意しか寄せないだろう。

 しかし……俺に惚れたのではないとすると……

「家に帰りたくないって……どういうこと?」

 訊いてみると、少女はますます顔を俯かせる。

 俺は急かさず、少女の返事を黙って待ち――ふと、あることに思い至った。

「もしかして、家出してきたの?」

 少女はこくりと頷いた。

 家出か……親御さんと喧嘩でもしたのだろうか。

「行く当てとかあるの?」

 そう訊くと、少女はふるふると首を振る。よく見るとその目には、徐々に涙が溜まっていた。

「友達のとことかは……すぐに見つかっちゃうと思うし……頼れる人とか、いないし……」

 話しているうちに、少女の目からどんどん涙が溢れてきた。

 ハンカチもティッシュも持ち合わせていないことが非常に悔やまれる。

 俺の胸で泣いていいよ、なんて気障な言葉が頭の中で思い浮かんだが、言った瞬間自分で自分の言葉に酔って吐きそうだったので言わなかった。

 頭を撫でてあげようかとも思ったが、嫌がられたら一生立ち直れない気がしたので、これもやめておいた。

 けど……これはまあ、どう考えても、俺が引き取るしかない、よな……。

 本来であれば警察に連絡すべきなのかもしれないが、そうすればすぐにこの子は家に帰されてしまうだろう。でも、この子なりに家出に踏み切った理由があるはずで、その事情も聞かずに一方的に親のところへ連れ戻すのはとても可哀想だ。

「…………」

 少女は俯いて肩を震わせている。

 行く当てがないということは、大方駅とか公園で夜を過ごすつもりだったのだろう。あるいは、電車で繁華街の方まで行くつもりだったのか。

 けれど、何にしても、さっき見知らぬ男に絡まれたことで、相当怯えているはずだった。

 それに加えて今夜は単純に寒い。

「くしゅん」

 少女が可愛らしいくしゃみをする。

 うむ……仕方ない。

「じゃあさ……とりあえず、俺ん家、来る?」

「いいの?」

 俯いていた少女の顔に、ぱっと光が差す。

 その光が俺には眩しすぎて、つい視線をそらしてしまう。

「ああ、もちろん。狭いし汚いけど、外、寒いでしょ。これからどうするにしろ、俺ん家で一緒に考えよう」

「う、うん」

 ついてきて、と俺が先導すると、少女は嬉しそうに俺の後をとてとてとついてくる。

 こうも簡単に女の子が知らない男の人について行くのはいかがなものかとも思ったが、とりあえず俺のことは信頼してくれているみたいで良かった。

 まあ、俺の人畜無害っぷりを少女が敏感に察知しているだけのことかもしれない。

 自分の家に女の子を連れ込んでどうにかしようと思えるだけの胆力があれば、先ほどの場面でももっと颯爽と少女を助けられただろうし。

 少女に話しかけようとして、俺はあることに気付いた。

 そういえばまだ、名前を聞いていない。

「ところで、君の名前は?」

 俺が尋ねると、少女は俺の目を真っ直ぐ見つめて、

 

「麻夕。御影麻夕」

 

 と言った。

 麻夕ちゃん。いい名前だ。この子の印象にすごく合ってる。そう思った。

「麻夕ちゃんか。俺は、石神慶太」

「慶太……」

 可愛い声で名前を呼ばれて、俺の心臓は一際大きな音を立てた。これほど自分の名前を誇らしく思ったことはいまだかつてないだろう。

 重たそうだったのでバッグは俺が持ってあげた。こういう気遣いができるあたり、まだまだ俺も捨てたものではないなと思う。

 

 ――こうして俺と麻夕ちゃんは出会ったわけだが、当然この時はまだこの先どうなるかなんて分かるはずもなかったわけで。

 ただ、俺の中でも外でも、ちょっと何かが変わるきっかけになるんじゃないかという漠然とした予感だけはあったのだと思う。

 

 

 ●

 

 

 遠見が丘中央公園から徒歩五分ほどで、俺の暮らすアパートに着く。

 見た目は多少ボロいが中は割と綺麗だ。特に老朽化が心配な部分とかもない。家賃も俺が住んでいる町の相場からするとかなり割安で、我ながらいい物件を見つけたものだと思う。

 アパートを見た麻夕ちゃんは、「これが慶太の家?」と訊いてきた。

 なんだか建物全体を俺の家だと誤解しているようだったので、一階の奥の部屋だけが俺の家だよと説明しておいた。麻夕ちゃんは、知らない人と同じ家で暮らすなんてすごいねと言って、なんだか激しくずれたポイントで感心していた。

 家まで来る途中少し話して思ったけど、麻夕ちゃんはかなり世間知らずなところがあるようだった。着ている服も何となく値が張りそうな感じがするし、自動販売機で飲み物を買ったことがないというあたり(小銭を持っていたからホットココアを買ってあげたのだ)、もしかしたら麻夕ちゃんは相当なお金持ちのお嬢様なのかもしれない。

 そんな女の子を、こんな時間に部屋に連れ込もうとしている冴えないフリーター男……。

 ……冷静に自分の置かれた状況を言葉にしてみると、なんだか頭が痛くなってくる。

 俺は実家暮らしの頃から数えても、家に女の子を呼んだことがない。当然、女の子の家に行ったこともない。ほとほと残念な灰色の人生を送ってきたわけだが、今のこの状況を故郷の家族に見られたならばなんて言われるだろうな……。

 一人暮らしの最大の利点は、好きな時に好きなだけ友達や恋人を家に呼べるところにあると思う。もちろん、近隣に住む人たちに対する最低限の配慮は必要だろうけども。

 まあ、俺がその利点を有効に用いたことがこれまで一度たりともなかったことはもはや言うまでもないだろうが、しかしついに本日、一人暮らしを始めて三年目にしてようやく、その最大の利点を存分に活用できる日が来たのだった。

 家の鍵を開けて、麻夕ちゃんを中に招き入れる。麻夕ちゃんは行儀良く、お邪魔しますと断って俺の部屋に入って来る。

 麻夕ちゃんが俺の傍を通るとき、不意に花の香りが俺の鼻腔を満たした。頭がくらくらした。今までに死にたいと思ったことは数知れない俺だったが、こんな幸せな気持ちで死にかけるのは初めてだ。

 電気を点けると、はっきりとした白い明かりの下で、俺はあらためて麻夕ちゃんの可憐さを思い知らされた。本当に、美少女という言葉をそのまま具象化したらこうなるのかもしれない。かぐや姫や紫の上ですら、これほどではなかっただろう。

 俺の部屋をきょろきょろと見回していた麻夕ちゃんと不意に目が合って、俺の鼓動が一際大きく鳴り響く。それを誤魔化すように、

「そこに座って」

 顔をそむけながら、とりあえず普段俺が愛用している座布団に座るように勧めた。

 ああ、情けない。こんな年下の女の子ともまともに視線を交わせないなんて。

 けれどこれも仕方のないことなんだ。誰だって真っ暗な部屋で急に明かりを点けたりしたら、眩しくて目がくらむだろう。俺の真っ暗な人生にいきなりこんな可愛い女の子が転がり込んできたら、どぎまぎしてしまうのもやむを得ないことだと思ってほしい。

 俺の部屋の造りはキッチンとリビングの二部屋からなっている(構造的には1Kとなっていたと思う)。風呂とトイレももちろんあるし、ユニットバスじゃなくてセパレートタイプだ。

 洗濯機も置けるし、広さも男一人が住むのには申し分ない。

 もっとも、そこはかとなくお金持ちの香りを漂わせている麻夕ちゃんからしてみれば、こんなところウサギ小屋も同然なのかもしれないけれど。

「ちょっと散らかってるけど、ごめんね」

 と言いながら、昨日久しぶりに掃除をしておいて良かったと、内心ホッとしていた。

 これが一昨日だったら、本やら服やらゲームやらお菓子の袋やら使用済みティッシュやらで、俺以外には足の置き場の一つさえ見い出せない状況だった。

 珍しく、俺の普段の善行が実を結んだのかもしれない。

 とりあえず麻夕ちゃんには俺の座布団に座ってもらって、音がないのも寂しいのでテレビをつける。

 バラエティ番組の空虚な笑い声も、このぎこちない空気を和らげるのには大いに役に立ってくれる。

「麻夕ちゃん、晩御飯はもう食べた?」

「ううん、まだ」

 そうだろうと思って訊いてみたけど、やっぱりそうだったか。

 時刻は午後八時を回ったところ。晩飯をまだ食べていないとなると、そろそろ空腹が堪えてくる頃だろう。

 一人暮らしを始めてもう三年が経つ。初めの頃は毎日コンビニ弁当やスーパーの惣菜ばかり食べていたのだが、だんだんそれらに飽きてきて、ここ一年ほどは節約がてら毎日自炊をしているのだった。

 面倒臭がりの俺からすれば、奇跡的なことだといってもいい。

 結果、たまに実家に帰った時には母に代わって俺が夕食を作るようになり、両親からも料理の腕だけは褒められるというほどにまでなった。

 まあ、料理人志望でもないのにこの三年間で一番成長したのが料理の腕というのは自分でもどうかとは思うが。

 ちなみに今日の献立は、石神慶太特製スペシャル焼きうどんだ。

 肉と野菜は既に一口大に切り終えて、肉には下味をつけてある。

 あとは適当に肉と野菜とうどんを炒めて、調味料を加えて素早く和えて、鰹節をたんまり乗せれば出来上がり。

 極めて簡単かつ美味しくできるので、俺はスーパーで安売りをしている時にしこたまうどんを買い込んでは、しょっちゅう焼きうどんを作っていた。

 せっかく人に、それもこんな美少女に食べてもらえるのなら、もっと凝った料理を作りたかったとは思うけれども、こればかりはどうしようもない。こんなことになるとは思わなかったし、何より俺自身、今は焼きうどんが食べたくて仕方なかったのだ。

「それじゃあ、焼きうどんでよかったら食べる? 味の保証はしないけど」

「いいの?」

「もちろん。一回誰かに食べてもらいたいと思ってたし」

 そういえば、これだけ料理が上手くなっても、家族以外に俺の飯を食わせたことがないなと思って若干悲しくもなるが、もはやその程度で精神的ダメージを食らうような俺ではない。

「じゃあ、お願い」

「お任せあれ」

 麻夕ちゃんの言葉に大仰に答えて、俺はぱぱっと料理を作り上げる。

 分量は元々俺一人分の予定だったから、二人で分けると俺としては少し物足りなくなってしまうが、麻夕ちゃんは見た目からしてそんなに食べないだろうから多分問題ない。レシピ上では二人前になってたはずだし。もしまだお腹が空くようであれば、冷凍保存してあるご飯をレンジで温めて、卵でも乗せて食べればいいだけだ。

 さすがに焼きうどん一品では寂しいので、インスタントの味噌汁を用意する。飲み物は無難に麦茶だ。

「おいしそう!」

 料理をテーブルに並べると、麻夕ちゃんが目を輝かせて嬉しいことを言ってくれる。

 麻夕ちゃんが普段食べているものに比べれば粗末なものかもしれないが、味は間違いないはずだ。

「ありがとう。じゃあ、食べようか」

「うん、いただきます」

「はいどうぞ」

 そうして二人で俺の作った焼きうどんを食べ始める。

 思えば家族やバイト仲間以外の人と一緒に食事を摂るなんていったいいつ以来のことだろうな。

 しかも女の子と二人きりでなんて、間違いなく人生初の快挙だ。嬉しさの余り涙を流しそうになるのも、おそらく人生で初めてだろう。

「おいしい!」

「ホントに? 味濃かったりしない?」

「ううん、とってもおいしい!」

 麻夕ちゃんは小さな口でぱくぱくと俺の作った焼きうどんを食べ進める。

 気に入ってもらえたようで何よりだ。

 それにしてもやっぱり可愛いなぁ……さっきまではちょっと硬い表情をしていた麻夕ちゃんも、ようやく顔がほころんできた。

 焼きうどんは瞬く間になくなり、麦茶を飲み干して麻夕ちゃんはふーっと息をつく。

「お腹は膨れた? まだ空いてるようだったらご飯あるけど」

「ううん、お腹いっぱい。ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 特に会話もないし、料理だって大したものじゃなかったけれど、久しぶりに他人と食べた焼きうどんはいつにも増しておいしかった。

 これでデザートでもあれば良かったんだけどなぁ。だが、ないものは仕方がない。俺は食後のデザートを堪能できるような余裕のある身分じゃないのだから。

 とりあえず食器をキッチンに下げて、流しに突っ込んで水に浸しておく。

 リビングに戻ると、麻夕ちゃんは女の子座りでテレビを見ていた。

 俺も元の席に腰を下ろし、テレビを見る麻夕ちゃんの横顔を眺める。

 麻夕ちゃんは時折くすくすと笑ったり、へぇと言って感心したりして、表情がころころとよく変わる。それを見て、俺もつい笑いそうになったり、くだらない冗談を言いたくなったりする。

 このまま二人で一緒にテレビを見ながら談笑でもできたら、本当にどれだけ楽しいことだろうな……。

 しかしそうは思いつつも、やっぱり一応、一人の大人として一時的にでも麻夕ちゃんの身を預かるならば、訊くべきことは訊いておかなければならない。

 腹ごしらえも済んだことだし、いよいよ俺は、麻夕ちゃんが家出をした理由について訊ねることにした。

「ねえ、麻夕ちゃん。ちょっといい?」

「何?」

 きょとんとした表情でこちらを振り返る麻夕ちゃん。そのあまりの可愛いさに、一瞬自分が何を言おうとしていたのか忘れかけてしまう。

 けど、訊いておかないといけない。

 俺の立場の問題だけじゃなくて、それが麻夕ちゃんのためにもなるはずだから。

「麻夕ちゃんはさ、なんで家出したの?」

 瞬間、麻夕ちゃんの顔が一気に強張った。

 やっぱり、麻夕ちゃんとしてはあんまり訊かれたくないことだったかもしれない。出会ったばかりの人間にいろいろと詮索されるのは、誰だって嫌だろう。

「…………」

 麻夕ちゃんは黙ったまま答えない。

 目を泳がせて、言おうか言わないでおこうか迷っているみたいだった。あるいは、どう言っていいか分からないのか。上手く言葉にできないでいるのか。

 もちろん、無理に聞き出すつもりは毛頭ない。人にはそれぞれ事情があるし、どうしても言えないというのであればそれで構わない。

 だから、別に無理して言わなくてもいいんだよと言おうとしたのだが、麻夕ちゃんはゆっくり口を開いて、言葉を紡ぎだした。

「私……今度の日曜日にお見合いさせられることになって」

 ……は?

 一瞬、自分の耳を疑った。

 お見合い? お見合いって、あのお見合い? 年頃の男女が結婚を前提に行うという、あの? こんな、結婚可能年齢にも満たないような女の子が?

「パパが私に黙って勝手にいろいろ話進めてて。それが嫌で、私……」

 話している内にまただんだんと麻夕ちゃんの声は震え出し、目もうるうるしてきていた。

「そっか……」

 あまりに予想外のことに、俺はそれしか言えなかった。

 父親からお見合いを強制されたのか。確かに、それじゃあ家出の一つもしたくなるだろうな。この年頃の女の子なら、好きな男の子の一人や二人いるだろうし、そうでなくても恋愛くらい自由にさせてほしいと思うのが普通だろう。

 だけどこの歳でもうお見合いなんて、麻夕ちゃんってやっぱり相当な名家のお嬢様なのだろうか。

「ママも琴葉も、私のこと庇ってくれないし……」

 ぽつりぽつりと麻夕ちゃんの告白は続く。

 “琴葉”――初めて聞いた名前だが、友達だろうか。

「パパもママも、いつも私にあれしろこれしろってうるさくって……」

 どうやらお見合いのこと以外にも、家のことから学校のことまで、いろいろ鬱憤が溜まっているらしい。

 ――しばらく話を聞いて、ようやく俺にも麻夕ちゃんの家庭事情と今回の家出の背景が見えてきた。要は、以前から麻夕ちゃんは束縛の強いご両親に対して不満を持っており、それが溜まりに溜まった挙句、今回のお見合いの件で一気に爆発したのだろう。

 多分、この年頃の子どもであれば、男女を問わず誰もが通る道なんだろうな。

 特に、麻夕ちゃんのように特殊な環境に置かれていると、思春期特有のストレスも殊更大きいのかもしれない。

「だから……」

 そこまで言うと、それきり麻夕ちゃんは俯いて黙り込んでしまった。

 俺は少し、自分が思春期だった頃を思い出していた。

 自分ばかりが正しくて、自分ばかりが物事を感じていると思っていた俺。いったいどれだけ家族や周囲の人に迷惑をかけたことだろうか。

 消し去りたいと思うけれど、そう思えば思うほど強く俺の心に浮き上がる苦々しい記憶。

 今だって、あの頃と比べて自分は成長していると、胸を張ることができないでいる。

 ――本当に救いようがない。

 そんな俺に比べれば、麻夕ちゃんのなんて純真無垢なことか。

 この子が今の俺と同じくらいの年齢になったとき、後悔するようなことにだけはなってほしくない。

 俺はもう、どうしたってこの子を助けたくなっていた。

「パパもママも、私のことなんて何にも分かってないの。ただ自分たちのさせたいことをさせてるだけで、私の気持ちなんてどうだっていいんだ……私のことなんてどうだっていいんだ……」

「そんなことないよ、麻夕ちゃん」

「え?」

 麻夕ちゃんは少し顔を上げた。

 俺は麻夕ちゃんの目をまっすぐ見据えながら、少しずつ言葉を紡ぎだす。

「俺は麻夕ちゃんのお父さんとお母さんには会ったことないからよく分からないけどさ。でも、麻夕ちゃんのことをどうでもいいだなんて思ってないと思うよ? 麻夕ちゃんのことが大切で、将来幸せになれるようにって考えていろんなことをさせてるんだと思う。それが正解なのかどうかは俺には分からない。麻夕ちゃんにとってはとても窮屈だったかもしれない。そのせいで麻夕ちゃんは嫌な思いをしたかもしれない。けれど、麻夕ちゃんのお父さんとお母さんが、麻夕ちゃんのことをどうでもいいって思ってるなんて、そんなことはないよ。だってもしそうだったら、麻夕ちゃんがこんなにいい子に育つはずないから」

 ――きっと、それだけは間違いない。

「そうかな……」

「うん、今もきっと、一生懸命麻夕ちゃんのことを探してると思う。不器用かもしれないけれど、それでも麻夕ちゃんのこと愛してるはずだよ」

「…………」

 麻夕ちゃんはまた顔を伏せてしまう。

「嫌かもしれないけれど、麻夕ちゃんのお父さんとお母さんが、麻夕ちゃんのことをとっても大切に思ってるってことは理解してあげて」

 麻夕ちゃんは俯いて、きゅっと唇を引き結んでいる。

 俺の言いたいことは、麻夕ちゃんに伝わっただろうか。

 伝わらないだろうな……俺みたいなヤツの言うことなんて、俺だったら絶対耳を貸さないだろうから。

 でも、ほんの少しでも、麻夕ちゃんの心に何かいい影響を与えられていればと思う。

 自分の無力さを痛感しながら、俺は体を反らして宙を睨んだ。

 

 

 ●

 

 

 時計を見ると、そろそろ十時を回ろうとしていた。

 テレビの音が、虚しく部屋に響いている。

 麻夕ちゃんは先ほどから何も話さず、俯いていろいろと考え込んでいる様子だ。

 俺は何も言わない。もう何も言えないし、そもそも言う資格もないだろう。俺は麻夕ちゃんのことを、何も知らないのだから。

 だけど、もうこんな時間だ。麻夕ちゃんがこれからどうするにしろ、一旦結論を出さなければなるまい。

「ねえ麻夕ちゃん。今日はこれからどうするの?」

 そう訊くと、麻夕ちゃんはますます俯いてしまった。

 本当にどうする当てもないのだろう。

 家に帰るのはやっぱり嫌だろうし、けれどさっきの公園での出来事もあるから一人で外にいるのはとても怖いだろうし。

 俺に女友達の一人でもいれば紹介してあげたりできたのかもしれないけど、そんなのいるわけもない。

 だから――

「もし麻夕ちゃんが良かったら、ここに泊まって行ってもいいけど」

 麻夕ちゃんがいろいろ考えている間に、俺もいろいろ考えた。とりあえず当面の間、麻夕ちゃんにとってこれからどうすることが一番良いのかを。

「ホント?」

 少し顔を上げる麻夕ちゃん。

「ただし、二つ条件がある」

 麻夕ちゃんはきょとんと首をかしげる。

 ……まったく、いちいち可愛いなぁ。

 やっぱり条件なんて言わずにずっとここにいてもらいたくなる。

 けど、そんな気持ちをぐっと堪えて、俺は一人の大人としての役割に徹する。

「明日には家に帰ること。あと、今から家族に連絡すること」

 それが、俺が考えた麻夕ちゃんを家に泊める条件だった。

 まあ、無難なところだろうと思う。

 麻夕ちゃんの心の整理にかかる時間と、麻夕ちゃんを心配して気が気でないであろう麻夕ちゃんのご家族のことを俺なりに考えた結果だ。

 けれど、俺の出した条件に麻夕ちゃんは表情を曇らせる。

「でも……明日帰ったら、明後日のお見合いに連れて行かれるかもしれないし、家に連絡したら……」

 そうか、お見合いは明後日か。

「それじゃあ明後日まではウチにいていいよ。明々後日は学校があるでしょ?」

「うん……」

 それでもやっぱり麻夕ちゃんは戸惑っている。

 家出した手前、家に帰るのも連絡を取るのも憚られるのはよく分かる。

 だが、ここは俺も譲れない。少なくとも、家には絶対に一報入れてもらわなければならない。

「ね、麻夕ちゃん。一度さ、麻夕ちゃんが思ってること、お父さんとお母さんに伝えてみなよ」

 俺が優しく声をかけると、少し間が空いた後、麻夕ちゃんは小さく頷いた。

「うん……分かった……」

 俺もゆっくり頷き返す。

 麻夕ちゃんは持っていたかばんから携帯電話を取り出して、切っていた電源を入れた。

 横からちらっと画面を覗き込むと、やはりというべきか、メールの受信件数と電話の着信件数が凄まじいことになっていた。

 麻夕ちゃんは心配そうに俺の顔を見る。

 俺は大丈夫だよという思いを込めて、もう一度ゆっくりと頷いた。

 麻夕ちゃんはしばらく自分の携帯を見つめていたが、意を決して誰かに電話をかけた。

 電話は即座につながったようだった。

「もしも――」

『お嬢様ですか!? 今どこにおられるんですか!?』

「っつ……」

 いきなり携帯から大音量が聞こえてきて耳がキーンとしたのか、麻夕ちゃんは顔をしかめて耳を押さえている。

 若い女の人の声だった。

 ”お嬢様”という言葉からして、麻夕ちゃんの家の使用人か何かなのかな。

 しかし、この様子じゃあやっぱり麻夕ちゃんの家の人たちは相当心配していたのだろう。きっと気が気でなく、ずっとあちこち探し回っていたはずだ。ちゃんと連絡を入れさせて本当に良かった。

「今、友達の家。明後日までは帰らないから」

 麻夕ちゃんはきっぱりとした声でそう言う。

 だけど、連絡が取れたとはいえ、家出したまま外泊するなんて、向こうもそうそう認められないだろう。

『明後日まで帰らないってどういうことですか!? とにかくすぐにお迎えに上がりますので、今いらっしゃる場所を教えてください!』

「だから帰らないって言ってるでしょ! 日曜日の夜になったら帰るから、探さないで」

『そんな、お嬢様――』

 ――しかし、ふと、女の人の声が不自然な形で途切れた。

 どうしたのだろうかと、俺は眉をひそめる。

 そして次の瞬間、

『麻夕、どこにおるんだ!!』

 雷鳴が轟いた。

 男の人の声――多分、麻夕ちゃんのお父さんだろう。

 こう言ってはなんだけど、なるほど声を聞くだけでお父さんの巌のごとき頑固さがよく分かる。

「……友達の家」

 怒鳴られて、麻夕ちゃんはかなり萎縮してしまった。麻夕ちゃんの小さな体が、余計に小さく見える。

 しかし、麻夕ちゃんのお父さんは追求の手を緩めない。

『だからそれはどこなんだと訊いとるんだ!』

「どこでもいいでしょ……」

『いいわけあるか! さっさと教えなさい!』

「う……ぅ……」

「あ――」

 麻夕ちゃんの肩が、声が、震え出していた。臨界点突破まであと五秒。四、三――

『こら麻夕! 何とか言いなさい!』

「馬鹿! パパの馬鹿!!」

 今度は麻夕ちゃんが叫ぶ番だった。

 俺は心の中で、ご近所さんに謝った。

「私はパパの人形じゃない! 好きな人くらい自分で決める!!」

 多分、こんなふうにお父さんに向かって声を張り上げたのは、麻夕ちゃんの人生で初めてのことなのだろう。興奮して、涙がぽろぽろと零れていた。

『親に向かって馬鹿とはなんだ!』

「うるさい馬鹿! パパの馬鹿!」

 泣きながら貧弱な語彙で可愛い罵声を浴びせる麻夕ちゃんと、それに生真面目に反応するお父さんの応酬は続く。

 ――正直、これは賭けだったと思う。言いたいことがあるのなら溜め込まずにはっきり言って、フラストレーションを発散させるというのは間違いじゃない。けれども、雨降って地固まるとなればいいが、これで麻夕ちゃんとお父さんとの間に埋まらない亀裂ができないとも限らない。

 今のこの状況は、俺が仕向けたものだ。そう遠くない未来に、麻夕ちゃんの不満が爆発することが確定的だったとしても、弾を込めて引き金を引いたのは俺だ。どうにかして、俺が責任を取る必要がある。

 このまま麻夕ちゃんとお父さんに任せていても埒が明かないだろう。

 ……仕方ない。できることなら避けたかったが、俺が麻夕ちゃんと替わって話をつけるしかなさそうだ――

『麻夕、お前――』

 そこで、お父さんの声は途切れた。

 どうやらまた、別の人に話し相手が替わったようだ。

 今度の相手は落ち着いた人のようで、麻夕ちゃんの携帯電話から相手の声を聞き取ることはできない。

 あちらにも冷静な人がいたようで良かった。俺の出る幕はなさそうだ。

 お父さんと話している時はちょっと取り乱していた麻夕ちゃんも、落ち着きを取り戻していた。

 途中、麻夕ちゃんが”ママ”と言っていたので、どうやら相手はお母さんらしい。

 それから麻夕ちゃんとお母さんの話は五分くらい続いた。

 そして、麻夕ちゃんはお母さんに別れの言葉を告げ、電話を切った。

 麻夕ちゃんは携帯電話を握ったまま、唇を噛み締めていた。

 俺は麻夕ちゃんの傍に寄ると、そっと頭を撫でてやった。

 すると、一度は泣き止んでいた麻夕ちゃんだったが、また泣き出してしまった。

「どうなったの?」

 泣いている女の子に話をさせるのもどうかと思ったが、これは聞いておかなければならなかった。

「ママが、お見合いの話はなしにするから家に戻ってきなさいって」

「そっか……」

 家に帰ることになったのか。

 まあ、ちょっと惜しい気はするが、お見合いの話もなくなったようだし、家に帰った方が麻夕ちゃんにとって良いことは明らかだし。

「それじゃ、家まで送ろうか?」

「ううん、ママが迎えに来てくれるって。近くのコンビニで待ち合わせってことになった」

「そっか……じゃあ、コンビニまで送るよ」

「うん、ありがとう」

 麻夕ちゃんのお母さんはすぐに迎えに来るらしい。

 ということで、俺たちもすぐに家を出て、待ち合わせのコンビニに向かうことにした。

 二人で家を出ようとして――俺はふと、あることに思い当たった。

「ねえ、麻夕ちゃん。俺の連絡先教えとくよ。もし何かあったらいつでも言っておいで。なんでも話聞くから」

「うん……ありがとう」

 そうして俺の携帯電話のアドレス帳に、御影麻夕の名前と連絡先が加わった。

 母親以外では、初めての女性の連絡先だった。

 俺たちは、麻夕ちゃんと麻夕ちゃんのお母さんの待ち合わせ場所になっているコンビニに向かった。

 麻夕ちゃんが迎えを待っている間、心配だったので俺はコンビニの中に入って雑誌を読むふりをして麻夕ちゃんを見守っていた。

 しばらくして迎えの車が来た。一目で分かった。コンビニに場違いな黒塗りの高級車だった。

 車がコンビニの駐車場に停まるや否や、助手席から女の人が飛び出してきて、麻夕ちゃんを思いきり抱きしめた。

 続いて運転席からも女の人が出てきて、先に出てきた人に替わってやっぱり麻夕ちゃんを抱きしめた。

 麻夕ちゃんも含めた御影家の人たちは、二言三言会話した後、すぐに車に乗って行ってしまった。

 車に乗る直前、麻夕ちゃんがこちらをちらっと振り返った。

 俺が小さく手を振ると、麻夕ちゃんはにこっと笑った。

 ”ありがとう、さようなら――”

 俺は車が見えなくなるまで待ってから、肉まんを買って家に帰った。

 そして、二人分の食器を洗い、風呂に入ってベッドに潜った。

 途端に疲れが一気に吹き出してきた。

 ――それにしてもなんていうか、嵐みたいな出来事だったなぁ。

 寒さに頬を上気させていた麻夕ちゃん。

 テレビを見て屈託なく笑っていた麻夕ちゃん。

 泣きながら両親に自分の気持ちを訴えかけていた麻夕ちゃん。

 もしかしたら、今日は麻夕ちゃんがまだ隣にいたのかもしれないと思うと少し寂しい気持ちになる。

 あんな可愛い子、世界中を探したところで滅多に見つからないだろう。

 ――多分、もう会うこともないだろうなぁ。

 俺がもっとカッコ良くて、気が利いて、立派な人間だったら、これからお近づきになれるようなこともあったかもしれない。

 そう考えると、昨日までの自分にとても腹が立つし、もったいない気持ちにもなる。

 でも、“ま、いいか”とも思えた。

 少なくとも、これが麻夕ちゃんにとって最上の結果だったと自信を持って言えるから。

 俺がどれほどの役割を果たせたかどうかは分からないけど、多少は力になれたんじゃないだろうか。

 なら俺は、少なくとも今日は一つ良いことをしたんじゃないだろうか。俺は人の役に立てたんじゃないだろうか。

 そう考えると、少なくとも――少なくとも、今日は良い気分で眠れそうな気がした。

 眠りに落ちる寸前、俺の携帯電話にメールが入った。

 もしやと思って見てみると、やっぱり麻夕ちゃんからだった。

 メールには、『今日はありがとう。公園で助けてくれたのが慶太で良かった。慶太に会えて本当に良かった』と、書かれてあった。

 もちろん女の子から、いやそもそも他人からこんなことを言われたのが初めてだった俺は、頭から布団をかぶって身をくねらせて喜んだ。

 そしてつい調子に乗って、『俺も会えて良かったよ。もし良ければ、今度一緒にどこか遊びに行こうか』とメールを返してしまった。

 メールを送信してからちょっと調子に乗りすぎたかなと後悔したが、すぐに『行きたい!』という返信が来て、俺は体をくねらせすぎて、ベッドから落ちて頭を打った。 

 

 

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