【04】 8月10日(土) AM8:00
今日も朝から蒸し暑い。
しかも菜穗子は長袖シャツに長い丈のジーンズ姿だ。
蚊に刺されるのを防ぐため、皮膚の露出を極力抑えるよう、昨夜別れ際にユカリから注意された結果こうなった。
最小限ではあるけど冷房が効いている電車の中はまだしも、降りると、蒸し暑い空気に押し囲まれて一瞬、気が遠くなりそうになる。そしてホームから上野の公園口への連絡橋へ階段を昇るだけで汗が噴き出る。
しかし何で私たちが感染源になったらしい上野公園を見に行かなくてはイケナイのだろう。月曜日にあった堤防爆破事件の時は、現場で捜査支援をしたり(『支援』と言うのはタテマエだなぁ。実際は野澤さん、捜査の『指揮』をしていたよ)、爆破されても街が水没しないための対策を取るという、まさに現場に行かなければ対処できない事態だったが、今回は違う。私たちが公園を封鎖したり、蚊を捕まえて調査したりすることを『支援』したりする必要は無いらしい。
そしてなぜホームレスの人たちが『公衆衛生上の問題』なのか、そしてなぜ緊急対応班が口出ししなければいけないのか。
昨夜中に尋ねたかったが、菜穗子にとって話が訊きやすいユカリは明らかに忙しそうで遠慮しなければいけない状況だったし、「何でも訊いてよ」の野澤に訊くのは、知りたくもない話を聞かされそうでちょっと怖かった。
いや、知りたくもない、というんじゃないな、と菜穗子は自問自答を進める。
私は正直、好奇心が強い。どういうことか知りたくはある。しかし訊けば、まだ覚悟も出来ていないのに、またぞろ深刻な状況に直面するに違いない。それが怖くて少しでも先送りしたい、などと昨夜の私は思っていたらしい。それってちょっと情けなくない?
などと少しだけ前向きな気分になって上野駅の西側にある公園口を出る。
来週はお盆休みに入る時期だ。この週末からまとめて休みを取っている人も多いのだろう。帰省ラッシュが始まるこの時期は、逆に都心は空き始めるので、東京ネイティブの住人は、ここぞとばかり動物園なり遊園地なり公園に行って家族サービスをする人が多い。昔は家族を連れて海外旅行をする余裕もあったが、温暖化による海水面の上昇で多くの空港がダメージを受け、『海辺のリゾート』はほとんど死語となり(ちなみに国内でも海水浴場は壊滅状態)、観光目的での海外旅行者は激減している。
ということで本来なら動物園や博物館に向かう人で賑わっているはずの上野公園だが、さすがに今朝は閑散としている。
ほとんどの人は、昨夜からのニュースを見て来るのを止めたようだった。
町名としての『上野公園』は別として、正式名称『上野恩賜公園』は、舌状台地として、まさにその舌先にある上野台地エリア(北東部分)と、台地の下、ちょっとした崖下にある不忍池エリア(西南部分)に分かれる。
台地部分と不忍池の面では高低差が10m強あり、台地エリアから不忍池エリアにまたがっている上野動物園はその高低差を上手く生かして各種の檻を配置したりしている。
台地エリアは、日本初の公園として整えられている部分だ。
北北東にある東京国立博物館を正面と見立て、そこから縦(北から南)に太いオープンスペースと、その両側に(普通の道路なら)4車線ほどもある広い遊歩道を設けている。そしてやや東にカーブをしながら、崖下まで降りてゆくそのラインの両側に美術館や博物館、さらには元々あった宗教施設などを並らべている。
遊歩道の東側には、北から国立科学博物館、国立西洋美術館(コルビュジエが設計した世界遺産の建物)、東京文化会館(クラッシック専用の音楽ホール)、日本芸術院、上野の森美術館などが建ち、西側(動物園側)には、旧東京音楽学校奏楽堂、東京都美術館、動物園入り口、上野東照宮などが並ぶ。
台地エリアで、それらの施設を除いた、つまり入園料や入館料を支払わずに入れるオープンスペースとしての公園は縦に500m弱、横(東から西)に200m弱。北は大噴水を中心とした平らな広場ゾーン、南は築山(というか崖下に向かう遊歩道の傾斜をゆるやかにするため削った時の削り残しなど)が点在する凹凸のある緑の濃いゾーンになっている。
JR上野駅は、上野台地の東側、台地から降ってゆく中腹辺りにあり、ホームの上に架かる連絡橋がちょうど台地面になり、そこから通じる『公園口』からは、公園の台地エリアの東側に出る事になる。ほぼ正面に東京文化会館があり、右手(北側)に国立西洋美術館、その間に、公園を東西に横断して動物園に向かう、ここも幅の広い遊歩道が広がる。
その道をそのまま西に向かえば、待ち合わせの動物園前交番、その北側が問題の大噴水付近の広場ゾーンになる。
しかしその手前、国立西洋美術館の入り口の先で、菜穗子はすぐに足止めを喰らった。
一晩で設置されたと思われる立ち入り禁止の臨時の柵(通ろうと思えば簡単に動かせる程度のモノ)と、その内側に警備の警官が複数立ち、そしてその手前に上野公園内の状況を説明してある大きな掲示板が置いてある。
ニュースで確認済みだったが、ほとんどの施設が閉鎖されている。
JR公園口からほぼ直接行ける国立西洋美術館と東京文化会館は開館予定だが、公園内を歩いて行く必要がある上野動物園、東京都美術館、国立科学博物館、上野の森美術館は臨時休園・休館。迂回すれば公園内を歩かなくても行ける東京国立博物館も、公園に隣接し、そのうえ植生が多く、ヤブ蚊がいる可能性があるので臨時休館だ。
さらに台地エリア南側にある、野球場(正岡子規記念球場、などという立派な名前の、しかも謂われのある、しかし観客席もない単なる野球グランド)や神社仏閣、レストランなども閉鎖。つまり上野公園の台地エリアはほとんど立ち入り禁止となっていた。
しかしユカリが昨日から注目していた、デング熱らしきホームレスの人が連れ去られたという、ネット上で話題になった問題の場所、公園の南西に位置する不忍池エリアは、立ち入り禁止にはなっていない。
それに少し戸惑いながら、立ち入り禁止の柵の前で立ち往生していると、柵の内側からちょっと軽薄な口調で話しかけられる。
「待たせた?」
長袖、長いパンツに手袋、養蜂場でよく見る、鍔の下から虫除けネットがぶらさがっている麦わら帽子を被っているスタイルの人間の男が近づいてくる。よく見ると『厚生労働省』という腕章をしている。
野澤だった。
所属詐称だ!
しかし野澤は不審に充ち満ちた菜穗子のそんな視線を全く気にせず、ネット付き麦わら帽子と手袋のセットを手渡す。
「よくこんなマイナーな物を昨日の今日で手配できましたね」
ちょっと皮肉を言ってみるが、
「これはウチの備品」
と言いながら(やっぱり養蜂場スタイルの)ユカリも現れ、サラッと付け加える。
それって準備が良すぎませんか?
しかしそんな疑問も、
「借りたのはこれだけ。もちろん厚労省の梶原君からね」
と所属詐称の腕章をユカリから差し出されて雲散する。
「念のため服のつなぎ目とか、肌が露出しやすい所には防虫スプレーかけてね」
警備の警官に会釈をして園内に入る。
動物園前交番の角を右(北)に曲がると、大噴水付近のスペースが広がる。噴水のある池は既に水が抜かれているようで、水しぶきは上がっていない。
広いスペースの両サイド、樹々がまばらに立ち並ぶ場所では、菜穗子たちよりもう少し本格的っぽい虫除けネット(目の前面が透明なアクリル板になっていて、視界が邪魔されないようになっている)をかぶり、白色のツナギの防護服を着た人たちが、大きな網を振ったり、蚊の採集の仕掛け(国内でデング熱に感染した患者が出るたびにニュースで見る、ドライアイスを使ったワナ)を設置をしている。
セミの鳴き声だけが響く、どことなく非現実的で、妙にのどかな雰囲気。
朝から照りつける、真夏の強烈な日差しが時間の流れを遅くしているようだ。
「しかし蚊のメスって悲しいね」
「はぁっ?」
予期しない野澤の発言に、菜穗子は上司に対してちょっと失礼な返しをしてしまう。しかし野澤は全然気にせず、
「ああいうワナに引っかかるのってメスの蚊だけなんだよね」
「どういうことですか」
「ヒト、に限らず他のイキモノの血を吸う種類の蚊の中で、実際に血を吸うのって、メスだけなんだよ。だからああいう二酸化炭素を出すワナにひっかかる。イキモノの吐く息だと思ってね」
「えっ、オスの蚊は血を吸わないんですか」
「蚊が血を吸うのは生きるためじゃなくて卵を産むためためだからね。オスは当たり前の事ながら産卵しない。従って血を吸わない。生きるためには花の蜜とか吸ってるみたいだよ」
「知りませんでした」
「虫って結構そういうオスとメスで全然違うところ、たくさんあるよな。たとえばセミって鳴くのはオスだけだし」
ウルサいくらい鳴いている蝉の留まっていそうな木の枝を指さし、野澤は何か付け加えたいらしくニヤニヤする。
「それは知ってます! ソクラテスが自分の奥さんに『セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから』とか失礼千万な発言をしたとか」
「あぁ、知ってたの。オチが言えなくて残念」
何が残念だ!
メスだけがヒトの血を吸う事に対しても何か言いたいんじゃない?
しかし、左手奥(北西側)の方から妙に殺気だった言い合いが聴こえて来たので、あっさり切り替えた野澤が先を促す。
「それじゃ高見の見物としゃれ込みますか」
東京国立博物館の手前、向かって左手(北西)、旧東京音楽学校奏楽堂(日本最古の西洋式音楽ホール)の手前まで、奥に向かってなだらかに傾斜している場所は、樹々がまばらに立っていて、林ともスペースとも言えない空間になっている。そしてそこ一面に、ブルーシートで覆われた手製のテントが立ち並んでいた。
殺気だった言い合いはその前で起きている。
少し汚れた雰囲気の人たち(たぶんホームレスの人たち)と、その人たちを護るかのようにその前に立つ小綺麗だけど、どこか垢抜けない服装の人たち(半袖の人が混じっている)が、虫除けネットを被っているがやはり小綺麗な普通の服装(そろって長袖のシャツに長い丈のパンツ)の人たちと、時に大声を出して揉めている。
そして警官たち(長袖の制服は着ているが虫除けネットは被っていない・・・大丈夫なのか?)が虫除けネットを被っている人たちを守るように出動している。
「あの人たち何を揉めてるんですか?」
「ここで屋外生活をしている人たちに、ここより安全などっかの屋内に避難してもらう交渉をしてるんじゃない?」
野澤がテキトーな返事をする間に、ユカリはサササっとタンマツを見てフォローする。
「近くの上野中学と忍岡中学に避難させて、そこで診察もする段取りですね。中学校は夏休みですし、この騒ぎで部活も含めて登校禁止にしたようですから」
「デング熱が発生した所に住んでいて、感染しているかもしれないので診察してくれる。それで揉めることがあるんですか?」
「避難した後、荷物とかあのテントをどうするかで揉めてるんだろう。感染源の蚊がいる前提で考えれば、繁殖場所の処置や、蚊を駆除して安全が確認できて、ホームレスがここに戻れるまで二、三日じゃ済まないだろうし、その間に荷物やテントが撤去されるんじゃないかと疑ってるんだろう。というか本当に戻れるのか怪しいと思って当然だしね」
野澤の推測通り、そういう趣旨で揉めてるようだ。
言い合いを続けても埒が開かないと思ったのか、虫除けネットを被っている小綺麗な普通の服装の人で、責任者っぽい小太りの男性が、ハンドマイクで色々説明を始めた。
『こちらは台東区保健所です』
『今回の措置はデング熱の拡大を防ぎ、皆さんを病気から守るための措置です』
『避難している間は食事を用意します。ただし検査が済むまで外出は控えてください』
『避難している間に勝手にテントを撤去したりはしません』
が、『感染源となる蚊が完全に駆除されるまで公園は完全に封鎖します。貴重品や生活上、必要なモノは必ず持ち出してください』
『テントの中にも殺虫剤を撒きますので食べ物は置いておかないでください』
『食品に限らず、殺虫剤に当たるのを避けたいもので持参できないものはこちらで預かります。預かり証を出しますのでご利用ください』
『空き缶は中に水が溜まりやすく、たとえ水が少量でもボウフラが湧いている可能性があります。これもこちらで預かり、検査、蚊の駆除をした上でご返却します』
しかし、その男が一言しゃべるたびに、ホームレスを護るかのように前に立つ人たちから非難めいた声が上がる。
そちらはハンドマイクを使っていないので、少し離れた所から見ていた菜穗子たちからは、何を言っているか聞き取れない。
「正直、説明されていることを聞いても、揉める理由が分からないんですが。というか何を非難してるんでしょうか」
「ホームレスって基本、『お上』からの干渉を嫌うからね。嫌うというか避けるというか。信じてないというか、信じられなくて当然というか」
「でも実際に非難の声を出している人たちは別ですよね。ホームレスの人たちの前にいる、ちょっと小綺麗なあの人たちは何者ですか?」
「ホームレスの支援団体の人たち。社会のセーフガードから落ちてしまった人たちの生活権を守る。そして『いわれのない』差別から守る。感染が疑われる事自体が差別である、という人たちね」
やけに『いわれのない』にアクセントを置いて野澤が話すので、菜穗子はちょっと小首をかしげたのに対して、
「あぁ、去年までは疑わしくても検診できる法律がなかったから。実際に公衆衛生上に問題があったとしても、証拠が示しようがなかったんだ。だから『いわれ』があるんだかないんだか証明のしようがなかった」
と、言われても。ホームレスの人たちは屋外で、蚊の刺されやすい所で暮らしているんだから確かにデング熱にかかりやすくて、あの人たち自身を保護しなきゃイケナイとは思うけど、『公衆衛生上の問題』って???
どうやらこれは避けて通れないようだ。
菜穗子は思いきって野澤に訊ねる。
「すいません、昨日から良く分かっていなかったんですが、ホームレスの人たちが何で『公衆衛生上の問題』なんでしょうか」
「あれっ?説明してなかった?それはスマンな」
と、野澤はとぼけて、
「しかしこれはオレから説明してもな。ユカリ、説明する時間ある?」
そのユカリは、肝心な説明をしない野澤をちょっと睨みつけたように見えたが、防虫ネットで互いの表情は正直よく分からない。それに気がついて、逆に笑いだし、
「あの人たちの押し問答が続く限り時間はありますね」
そして菜穗子に対して、
「結構長い話だけどなるべく手短に話すわね」
他の人に聴かれない配慮をしながら語り始める。
「まず言えるのは、現在の日本の気候下では、都市部の公園以外でデング熱が海外渡航歴のない第三者に感染する確率は非常に低いということ。
公園だけが感染場所になる理由は、主にデング熱を媒介する蚊の種類にある。
デング熱は一般的に『ヤブカ』って言われる昼行性の蚊、って言っても朝方とか夕方がメインの活動期なんだけど、その蚊が媒介する。流行地で主にデング熱を媒介しているのは、そのヤブカの一種、『ネッタイシマカ』。こいつは基本、日本には生息していない。
『ネッタイシマカ』はデング熱に限らず黄熱とかも媒体するやっかいな蚊なんだけど、その中でも『都市型』っていう亜種が問題で、他のヤブカがあえて人の家の中に入り込んだりしないのに比べて、こいつはヒトの家の中に好んで侵入して、ヒトを好んで刺して、ヒトの家の中、たとえば花瓶の中の水とかでも繁殖する。だからネッタイシマカのいる地域では年間1億人近くの人がデング熱にかかっているって言われてるの。
幸いなことに、これだけ温暖化が進んでも都市型のネッタイシマカは未だ日本では定着してない。空港の周辺で見つかったりしてニュースになることがあるけど。
一方、日本でデング熱を媒介してきた『ヤブカ』は日本在来の『ヒトスジシマカ』。
ヒトスジシマカはまさに『藪蚊』で、藪の中が好み。あまり家の中には入ってこない。そして『藪』っぽい所で不特定多数の人が昼間に集まるのは公園くらいなもの。
つまり公園みたいな、『藪』っぽい屋外に自ら行かなきゃ、ヒトスジシマカに刺されにくいわけ。
海外でデング熱にかかった人が、たまたま自分の家の庭に出てヤブカに刺されたとしても、蚊はあまり移動しないし、その蚊がよその家の中に侵入して感染を拡大するなんて確率は非常に低くて『無い』に等しい。
ちなみに日本で家の中に入ってくる夜行性の蚊は『イエカ』の類いで、デング熱は媒介しない。ここまでが公園以外で第三者が感染する可能性がほとんど無い主な理由」
「つまり日本の環境においては、屋外でしか感染しにくいし、不特定多数の人が出入りする『藪』って公園くらいなもの、って言うわけですね」
「今のところだけかもしれないけど」
ユカリはここで一回話を止め、さらに周囲に人がいないことを確認してから話を続ける。
「さらに言えば、屋外で定住している、つまりホームレスの人が住んでいる公園でなければ感染が拡大する可能性も低い。現実問題、海外渡航歴のない第三者がデング熱に感染したのって、こういうホームレスの人が住んでいたり、炊き出しに集まったりする公園以外で一例も無かった」
ユカリはちょっと間を置く。未だ押し問答を続けている人たちを見ているようだ。
「『ヤブカ』に刺されやすい場所で、よりにもよって屋外中心の生活をしているっていう人たちがいる。もちろん本人たちの健康が脅かされるっていうのも大問題だけど、問題はそれだけじゃない」
そしてため息をついて、気が重そうに続けた。
「こういう感染しやすい環境に『定住』している人たちが、本人は意図してなくてもウイルスを増殖させて、さらに拡散させる『中継地点』の役割を果たしちゃっている可能性がある。少なくとも私はそう考えている」
「ユカリだけじゃなくて、少なくとも厚労省の彼、梶原君もそう思っているから、内々に協力してくれているんだけどね」
「悟朗さん、話を脱線させないでください」
ユカリは野澤に軽くツッコんでから話を続ける。
「現在、日本で感染が拡大するメカニズムはこう『推測』されているわ。
まず海外でデング熱に感染した人が帰国する。まだそれほど症状が出てくる前に、公園に行く。そしてその人を刺した蚊が次の感染源になる。
でも、それだけで感染がすぐに拡大するわけではない。
感染が拡大する最大の要因は、感染した蚊が増える、ということだけど、デング熱のウイルスは、たとえば黄熱とかと違い、蚊の卵にまでウイルスを伝える能力が高くない。いわゆる『垂直感染』しにくい。感染した蚊が卵を通じてネズミ算的に増えてゆく、という確率は低い。
さらに『垂直感染』しにくい理由としては、蚊は血を吸った後しか卵を産まないけど、最初の感染者の血を吸った直後の蚊の中ではまだ充分にウイルスが増殖していないので、その時に産む卵にはまずウイルスは感染していないっていう理由もある。ちなみに他のヒトに感染させるまで蚊の中でウイルスが増殖するには一週間前後の時間が必要って言われている。
とにかく、海外からデング熱に感染した人が帰国して、その人が二、三匹の蚊に公園で刺されただけで感染が拡大することはまずない。刺した蚊は、まず産卵するまで基本的には別のイキモノの血は吸わない。最初の卵を産んだ後、二回目以降の吸血でしかヒトを感染させない。
そして一週間に二回連続でヒトを刺せるほど、運の良い蚊は普通、ほとんどいない。
ヒトの方も同じ。
感染源になった蚊に刺されたからといって、その人がすぐに感染源になるわけじゃない。
発症直前までゆかなければヒトの体の中でもウイルスは増殖しないし、刺されたのと同じ日に別な蚊に刺されても、その蚊にウイルスが感染するわけじゃない。
そして大事な所。
普通の人は発症したら公園には行かない。
デング熱だとは思わなくても、熱が出て、『重たい風邪』くらいに思ったとしても、普通、公園には行かない。
その人が新たな感染源になりえるのは、『体の中でウイルスは増えてるけどまだ発症はしていない』状態になってから再び公園に行った時だけで、確率は非常に低い。
『普通』の人はね。
つまり普通なら日本でヒトと蚊の間での感染拡大のサイクルは始まらない。
第一段階『ヒトから蚊』の感染が起こっても、第二段階『蚊からヒト』の確率、つまり二回目もヒトを刺す確率は『普通』は低くて、さらに第三段階『さらにヒトから蚊』の確率は更に低い。
もっとも第二段階の『蚊からヒト』では都市部の公園、がリスクが高くなる。他の動物よりヒトの数の方が多いから、最初の産卵後に再びヒトを刺す確率が高まる。
しかし第三段階『さらにヒトから蚊』は?
『体の中でウイルスは増えてるけど発症していない』『発症直前』の人が再び公園に行って、さらに蚊に刺される。
『普通』だったらそんなこと、ほとんど起こり得ない。
ただし蚊に刺されやすい屋外生活をしている人が公園に『定住』していたら?
そしてその『定住』している人に感染したら?
デング熱は、『常在化』『風土病化』してない現時点では『重たい風邪』に過ぎないって話は昨日したよね。ホームレスの人たちって基本、公的機関からの干渉を嫌う人がほとんどだし、よっぽど深刻な事にならない限り自分から医者にかかろうって思わない。もちろんお金の問題もあるけど、無料診察所とかにも行きたがらない。
発症しても蚊に刺され放題。蚊に刺されやすい環境で生活してるから、体の中でウイルスが増えている状態で次々と別な蚊に刺され、ウイルスを持った蚊が増えてゆく。
そして別な定住者にも感染、その人の中でもウイルスが増殖、さらにウイルスを持った蚊が増えてゆく可能性も高まる。
つまりは感染拡大のリスクを格段に上げて、ウイルスを増幅する役割を果たしてしまう危険があるということよ」
「つまりホームレスの人がデング熱の感染拡大要因になっているって事ですか?」
菜穗子がついつい大きい声を出して訊くが、野澤は窘めもせず(彼らの会話に聞き耳を立てている人間がいないことは確認済みだからだろうが)、
「さっきも言った通り、ここ数回、日本でデング熱が小流行した時に感染場所になった公園はホームレスが住み着いていたり、炊き出しが行われているところばかりだった。しかし状況証拠だけだから、公的機関が表だって『公衆衛生上、問題がある』とは言えなかったわけだ、今まではね」
野澤が身も蓋もないことを言う。
しかし『今までは』って?
菜穗子はまた疑問が顔に出ていたんだろう。ユカリが説明を付け加える。
「デング熱は、感染症予防法上、これまで感染法上『第四類』の感染症だったので、感染が疑われる人でも、自分から申し出て診察を受けなければ、感染しているかどうかを調べられなかったのよ。
現実的にホームレスの人は国民医療保険に入っていない人が大半だから、ちょっと重たい風邪にかかったくらいじゃ医者にかからない。『第四類』は、『診察の結果、見つかったら保健所に届ける義務がある』病気だから、熱が出ても医者に行かない人がデング熱にかかっても表沙汰にはならない。
つまり『公衆衛生上の問題』、感染の拡大要因であるという話は証明できなかったのよ。
逆にホームレスの人たちへの言われなき差別とか人権侵害という主張に打ち消されて、その主張に対抗する証拠も今までは出せなかった。
しかし、温暖化で予想される熱帯性伝染病の発生に対応するため、っていう名目で、今年の春に施行された改正後の感染予防法(感染症法)では、デング熱など熱帯性の伝染病は、第二類の感染症に格上げされて、『感染が疑われる人には保健所が健康診断を行わせることができる』ようになったし、感染してたら強制的に入院させることもできるようになった。
で、今回が施行後、初のケースになるわけ」
厚労省の彼が、感染予防法の改正で世話になったってユカリに言っていたのはこのことか。
「いくら非難されても押し切るだけの法的根拠がある、ということですか」
「法的根拠はあるけど、心情的にはすぐに納得はしないでしょうね。『近くの中学校に避難してもらう』って言ってるけど、実体は『隔離』することでもあるから。避難中、食べるのに困らないとしても、行動の自由は制限されるし」
ユカリの説明に野澤がちょっと皮肉っぽく付け加える。
「まあ、あの人たちがいくら自由を愛する人たちだって言っても、『オレは病気かかってないから』とか検査も受けずに別な公園に移られたら、そこが新たな感染場所になっちゃう可能性があるし、ウイルスを持っている蚊が駆除されるまでここに戻られても困る。
ともかくここにいるホームレス全員を別な場所に移して、検査をして、シロの人も含め、ここにしばらく戻さないことが重要。
感染の拡大要因になっているかどうかの証明は別として、感染の拡大阻止自体に必要な措置なのに、法的根拠がなかったから徹底できなくて、感染が拡大したって疑われた例もあったからね」
一旦、野澤は話すのを止め、
「でもユカリが懸念しているのはそこじゃないんだよ。デング熱が発生した時、ホームレスに強制的に検診を受けさせる、っていうのは既に法律も改正してるし、施行もされている。これからやることではあるけど、実際は既に決着している話。問題は『デング熱にかかったホームレスが拉致された』可能性がある、っていうところ」
菜穗子は少し混乱する。じゃあユカリさんが懸念しているのって何?
問題はデング熱に罹ったホームレスの人がいた、っていうことじゃなくて、『拉致された』可能性があるっていう方にある?
ホームレス支援者たちと、保健所の人たちの押し問答はその後も続いたが、移動用のマイクロバスが公園内に何台も乗り入れ始めたことで尻すぼみとなった。支援者の主張する『人権』論より、デング熱にかかる危険がある場所に留まりたくない、というホームレスの人たちの切実な欲求がとりあえず勝ったようだ。支援者の人たちから離れている人たちから、置き去りにする荷物の引換券を保健所の人から受け取ってバスに乗り込み始める。
「上野中学も忍岡中学も、ここから500メートルも離れてないのにバスで移動させるのは、親切のようでいて、本当は『逃亡』を防ぐためなんでしょうね」
ユカリがちょっと悲しそうに言う。
「しかしあのの人たちも変わったな。聞き分けが良くなってる。団塊の世代の人がほとんどいなくなったからか」
野澤が呟く。
団塊の世代の人が少なくなると聞き分けが良くなる?
菜穗子には野澤の呟きの意味がさっぱり分からない。
そうこうしている間に、支援者のそばに立っていたホームレスの人も、最後には支援者たちに謝りながらバスに乗り込み、保健所の人たちもその場を離れ、支援者の回りから人がいなくなる。
それでも支援者の人たちは、その場で話し合い、国立博物館の前の通りを二手に分かれ、東と西に歩き出した。
「支援者の人たち、完全に『はしごを外さた』のに、怒りもせずフォローのため上野中学と忍岡中学まで歩いて向かうのか。頭が下がるというか、正直、オレには出来んよ」
「そうでもないですよね。悟朗さんだったらはしごを外されたことを笑いのネタにして、ニヤつきながら善後策を採るでしょ?」
珍しくユカリにツッこまれたことに野澤は苦笑する。菜穗子もここは一矢報いてやりたくなり、
「そもそも支援団体の人たちみたいに、青筋立てて他人を非難する野澤さんって想像がつかないです。そういうのって時間の無駄、くらいにしか思ってないんじゃないですか」
「イヤイヤ、青筋立ててヒトサマを非難するのが有効ならそうするよ。支援者たちだって、ホームレスがここに戻れるように保健所の人に約束させたじゃない。実際問題として、今現在、支援者が取り得る有効な手段って、『文句を言ってくる面倒くさいヤツらがいるからとりあえず本質的な問題は先送りにしておこう』って行政側に思わせることくらいしか無いからね」
「本質的な問題って何なんですか?」
「そりゃ、ホームレスがここに住んでいること自体の問題だよ。公衆衛生上問題がある、っていう話は別にしても、そもそも『公園って勝手に人が住んで良い所なのか』っていう抜本的な問題」