コンクリートの向こう側
第一話 「コンクリートの向こう側」
部屋のテレビは、もはやどうでもいい情報を永遠垂れ流す、騒がしい箱と化していた。
どのチャンネルも、どの番組も、家から一歩も出ない僕にはあまり、関係が無い。
毎日に変化が無いせいか、最近では曜日や日付どころか、昨日と今日の区別さえ、つかなくなっている。時間の感覚も薄れ、気付けば朝になっていたし、夜になっていた。
時が経つにつれ、僕の日常から様々なものが失われていった。
かゆくなった時くらいしか、頭を洗わなくなった。
痛くなった時くらいしか、歯を磨かなくなった。
髭を剃らなくなったし、髪も切らなくなった。
食事は扉の前に置かれるし、一階のトイレに行く時以外、部屋から出ることもなくなって、いつしか一日中パソコンをいじっているだけの日々になっていた。
散らかったゴミででこぼこになった床。汗の染みついた枕。しわくちゃのベッド。点けっぱなしのテレビとパソコン。
この部屋に、綺麗なものなんてない。夢も希望も、何も無い。
それらが僕を虫食むせいか、体はいつも、どこかしらの不調を訴えてくる。
突如睡魔に襲われて、いつのものように、僕は後ろに倒れ込む。
ベッドは部屋の半分を占めていたから、倒れ込めば、大抵そこにはベッドがあるのだ。
いちいち振り返ったりなんて、する必要は無い。
でもそこに、ベッドはなかった。ただ、空を掻き分ける感触しかない。それがなぜかなんて、考える暇もなかった。
マズいと思って振り返ったときには、床に散らばったゴミが、もう目の前まで来ていた。
僕は反射的に目を閉じた。
すると頭を打つことも、怪我をすることも、痛みを感じることさえも、無かった。
頬を風が掠める。僕はまだ、落ち続けているらしい。
恐る恐る目を開くと、世界は、白で埋め尽くされていた。
風はしだいに強くなり、僕を手荒く包み込んでくる。あまりの強風に呼吸が妨げられる。
苦しい。息がつまりそうだ。
風は止むことを知らず、尚も容赦なく吹きつけてくる。
乾いた目が痛い。体はとうに冷え切って、ビクとも動かない。
このまま死ぬのだろうか。
それも悪くない。あのままあの部屋で、ありふれた最後を遂げるよりずっといい。
視界は、相も変わらず白で一杯だ。どこもかしこも真っ白で、何も無い。
空っぽだ。本当に、空っぽだ。
だけどあの部屋とは違う。ここにはどこまでも続くような奥行きがある。そして比べ物にならないくらいの開放感がある。
でも寂しい。あまりに何も無さ過ぎて、世界に僕しか居ないみたいだ。
途端に襟首から来た脱力感に襲われる。体がずんと重くなり、堪らず呻き声が漏れる。
真っ白で何も無い世界で、縦とも横ともつかない角度で落ちて行く自分を、僕は遠く離れた場所からぼんやりと眺めていた。それは夢でしかあり得ないことだった。
思わず笑みがこぼれてしまう。
今笑っているのは、一体どっちの僕何だろう。
足元に、落ちて行く僕の背中が見えた。そこには鏡があるらしかった。けれどそこに映り込んでいたのは、昔の自分だった。髪だって髭だって長くない。肌も服装も綺麗だ。なのにつまらなそうにする、なのに不機嫌そうにする、そんな僕が。
鏡との距離はあっという間に縮まって、ついには今の自分と昔の自分が鏡を通して背中合わせになった。
甲高い、酷く耳障りな音がして、鏡は見るも無残に砕け散り、破片が風を受けて花びらのようにひらひらと落下し始める。
そして鏡の向こうには、夕焼けに包まれた、暖かい、のどかな町並みが広がっていた。
――――強風は、心地のいい微風に変わり、僕は静かに目を閉じた。