裏鼻
D県のK山にある禅寺に、黒手寺という寺がある。
長く険しい山道を進むと、唐突にある大きくて立派な山門が印象的な禅寺で、古くは五百年前に、南忠という高層の手によって築かれた禅寺であるという。大きな不動明王や、縄文杉と見紛うばかりの巨大な杉の木を名物に持つ、ごくありふれた禅寺だが、一つ、他の禅寺にはない特徴が有った。
修行している僧の、鼻がないのだ。
鼻のあるべき場所から、そっくりなくなっている。二十人の僧が修行の為に寺にいるが、それら全ての僧の鼻は、そぎ落とされたようにないのだ。ただ、穴が二つ開いているだけだ。
僧に話を聞いてみると、ただ一言「全ては大悟を得るためです」と答えるだけで、詳しい事は何も教えてくれない。出家した僧の家族が、寺を訪ねて聞いてみるも「必要な事なのだ」ととりつく島もない。
どうして、僧の鼻がなくなったのか。
その謎を解明するために、私は黒手寺に入門する事にした。幸いにも、黒手寺のモットーは、悟りを得たいと言うのなら、来る者は拒まず、という事なので、黒手寺の住職である黒忠は、私の入門をあっさりと認めてくれた。
「十分に修行をしたのなら、きっと大悟を得られるでしょう」
黒忠は私に対して、悟然という雲水としての名を与えてくれた。そんな黒忠に対して、私は剃髪した頭をしおらしく下げた。
こうして、フリージャーナリストである私は、禅僧としての修行をしながら、寺について調べてみるも、この寺は修行僧の鼻がないという一点を除けば、おかしな部分は何も無い。
寺の坊主共が私を捕らえて、鼻をそぎ落としに来るかと戦々恐々していたが、今のところ、そんな兆候は欠片もない。
そういう事で、私は黒手寺で唯一の、鼻のある修行僧となった。鼻のない雲水(禅の修行者のこと)達に囲まれて、勤行をしたり、作務をしたり、座禅を組んだりする。もっとも、私は潜入取材をしているのであって、悟りを開きたいわけではない。なので、適当に手を抜いたりする。実際、取材の片手間にやれるほど、禅寺の修行というのは気楽な物ではない。
そうした手抜きを見られぬように、私はこっそりとやっていた。けれどある日、先輩の僧である徳元にサボっている姿を見られてしまった。これは一喝されるに違いないと、亀のように首を引っこめて覚悟をしていたら、彼は見ないふりをした。
そうした事が何度かあった。他の修行僧達は、私に随分と優しかった。他の僧が叱られている場面でも、私だけは向こうにいってなさいと、叱責されない事もあった。最初は、私が潜入取材をしていると気が付いているのかと思ったが、違った。
ある日、徳元が、私を励ますように言ってきた。
「大丈夫だ。そのうち、君にもウラハナ様が来る」
「ウラハナ様? なんだ、それは」
「来ればわかる。来ない間は分からない」
問いただしても、徳元はそれだけしか語らなかった。
ウラハナ様、裏鼻様、浦鼻様、恨鼻様……
私は徳元の言葉を頼りに、ウラハナ様について調べてみたが、殆ど何も分からなかった。小さな収穫は、寺の裏にある小さな塚に『裏鼻塚』と彫られている事を発見した事だった。つまり、ウラハナ様は、裏鼻様であるようだ。後は、寺に裏鼻塚や裏鼻様に関する資料は何も無かった。ただ、古い塚である――ひょっとすると、南忠によって黒手寺が建立されるよりも古いかもしれないと思われるだけだ。
そうした事を調べる間に、もう一つ分かった事がある。
この寺では、鼻がなくなって初めて一人前の雲水として扱われるという事だ。私のように鼻のある僧は、保護されるべき未成年、あるいは子どものようなものなのだ。他の修行僧が私に親切だったのは、大人が子どもと接する時に、便宜を図ってやるのと変わりない。
また、鼻のない僧の間でもヒエラルキーがあるらしい。消えた鼻の部分が、抉れていれば抉れているほど、修行が進んでいるという事になっている。ここの住職である黒忠は、そっくり鼻を裏返したように、顔の真ん中が抉れており、寺の雲水達の尊敬を一身に集めている。
実際、黒忠の慕われ方は激しいものがあり、僧によっては生き仏のように熱狂的に支持している。
その様を見て、私は彼が、件の裏鼻様かと思い、それを問いただすために彼を訪ねた。
「黒忠様。少し宜しいですか」
「はいはい、悟然や。何ですか」
「もしかして、裏鼻様とは黒忠様の事でしょうか」
その時、穏やかで公平明大という態度を取っていた黒忠の顔が、大きく変わった。まるで俗物丸出しな、虚栄心に満ちた顔をしたのだ。
「ふっ。ふっ。ふっ。誰がそんなことを?」
「い、いえ、誰がではなく、単に黒忠様の鼻は、裏返っているようになっていますから、噂の裏鼻様とは黒忠様の事ではないかと」
「ははは」
黒忠は笑った。顔の筋肉だけ使った、とても不自然な笑いだ。あくまで自分は笑い飛ばしているのだと、こちらに知らしめんとする格式張った笑い方だ。
「なにを馬鹿な事を言っているのです。私などは裏鼻様ではありませんよ。持ち上げられるのは光栄ですが、比較対象が高すぎると、逆に貶めになるというものです」
そう言いながらも黒忠は『まんざらでもない』という顔をする。
「では、裏鼻様とは?」
「来ればわかる。来ない間は分からない」
黒忠は、徳元と同じ事を言った。恐らくは、元々は黒忠の言葉なのだろう。いや、もっと古く、黒手寺が創設された時代から、伝わっている言葉なのかもしれない。
結局、裏鼻について何も分からなかった。これ以上、いくら調べても無駄ではないか。いい加減に切り上げるべきではないか。そう思って逐電しようとした矢先、一人の少年が黒手寺の山門を叩いた。
それが白道という少年だった。
勿論、それは僧としての名前であり、本名は別にあるのだろう。だが、私は彼の本名を知らず、その素性の殆どを知らない。一つだけわかっている事は、彼は十三歳の少年で、何らかの問題を抱えていて、それの所為で、黒手寺の修行僧になったという事だけだ。
「よろしくお願いします」と彼は屈託なく私に挨拶をした。
彼は黒手寺ではじめてできた後輩であり、この寺で二人目となる、鼻のある修行僧だった。殆ど、寺の事情を知らずに入門したらしく、唯一鼻のある私に対して「ここの人はどうして鼻がないんですか?」と聞いて来た。
「分からないね。どうも修行が進むと鼻がなくなるようなんだが、私はとても未熟者だから、全然鼻がとれないんだ」
「修行が進むと鼻がなくなるんですか?」
「らしい。まあ、私には少し無理そうだけど」
「悟然先輩は、無理なんですか?」
「私は裏鼻様ってのがよく分からないんだ」
「裏鼻様?」
白道が私を見上げて聞いて来た。干支一回り分幼い少年僧を前にして、私は少し悪戯心が芽生えた。二ヶ月ほど、この禅寺で修行僧として暮らしている。周囲は山しかないという場所での、禁欲的な毎日だ。私は娯楽に飢えていた。だから、正直に話せば良いところを誤魔化した。
「来ればわかる。来ない間は分からない」
何も分からないのに、厳かに、鸚鵡返しに――
私は白道が気になった。
だから、少しだけ逐電の時期を遅らせる事にした。どうせ自主的に始めた取材。フリージャーナリストに待ち人なんて、いないのだ。一週間程度、娑婆に戻るのを遅らせたところで、困るやつなんて誰もいない。それだけの時間があれば、白道も寺に馴染むだろう。私も、その手伝いが出来るだろう。
消えるのは、それからでいい。
私は黒手寺での修行を続けた。
今までは修行は苦しいだけだった。壁に向かって座禅は辛いし、作務にしたところで面倒臭く、公案という名のなぞなぞも、私には頭が痛いだけだった。
けれど、白道が来てからは少し楽しい。まだ何も知らない白道に寺での決まり事を教えるのは気分が良いし、いちいち感心する様子が、なんというか可愛いのだ。
「いいか。畳を雑巾かけする時は、何度も丁寧にするんだぞ。少しでも汚れが残るようでは、作務にならないからな」と私が先達から言われた事をそのまま言うと、白道は「はい、悟然さん」と一々頷く。
サボってやっていた私とは違って、白道は心を込めて丁寧に作務を行うのだ。
お陰で、私も最近は真面目に修行をしている。
白道が一生懸命修行をしているのに、私がサボるわけにもいかない。だから、一緒になって真面目に雲水をしている。真剣な顔で座禅を組み、一生懸命作務をして、真面目な顔で勤行をする。
ある日、白道が「悟然さんは立派だな。おれも悟然さんみたいに頑張るよ」なんて言ってきた。先輩の雲水も「白道が来てくれてよかったよ。これでお前も一人前だな」と私に太鼓判を押す。
どうやら白道の信頼を裏切れないと修行をした結果、禅僧としての信頼を得る事になってしまったようだ。私は単に潜入取材に来ただけなのに、このままでは後輩可愛さに、本物の禅僧になってしまう。
その日、私は脱走する決意を固めた。
裏鼻様が現れたのは、その夜の事だった。
その夜は、新月だった。
風音が響く夜、私は一人目を覚ましている。部屋の中には明かりがなく、廊下から差し込むの微かな明かりだけが、大部屋で眠っている雲水達を青白く浮かび上がらせていた。
剃髪された頭と、鼻のない顔。
それは不気味な光景であるが、私には見慣れたものである。むしろ白道の鼻のある顔の方が、私にとっては違和感がある。
「……すっかり、毒されてしまったな」
逐電する前、できる事なら白道に一切を打ち明けておきたかった。彼にとって私の行動は裏切り以外の何ものでもないだろう。だから、理由ぐらいは明かしておきたかった。
けれど、白道は若いながらも立派な雲水だ。脱走の事を話したら、間違いなく止めてくるだろう。打ち明け話などできない。だから、彼の枕元に置き手紙を残そうと思った。
雲水達の間を縫って、そっと白道の元に向かう。途中で足を踏みかけて、冷や汗を流す事もあったが、どうにか白道の元に辿り着く。
私の影が、白道の顔にかかった。彼は小さな声で「ううん」と唸る。私は慌てて、その場にしゃがんだ。そして、しゃがんでから気が付く。
どうして白道の顔に影などがさしたのか。この部屋は、真っ暗だった筈ではないか。見回すと、部屋はうっすらと明るくなっていた。外が昼間のように明るくなって、障子の向こうから光が漏れてきているからだ。けれど、そんなに明るいのに、雲水達は誰も起き出さない。すうすうと静かに寝息を立てている。
障子に影が映った。
それは横向きに移った鼻のようだった。人間ぐらいの大きさの鼻が、障子の向こう側にある渡り廊下を静かに歩いている。そんな事を連想させる影絵だ。
私は動けなかった。腰が抜けていたからだ。やがて、静々と歩いていた鼻は、この部屋の前にピタリと止まる。障子が、音なく開かれる。
現れたのは、裏返った鼻だった。
肉や血管を剥き出しにして、じゅぶじゅぶと鮮血を滴らせながら、裏返った巨大な鼻は、雲水達の寝ている部屋へとやってくる。私は、動く事が出来なかった。声を上げることもできなかった。私に出来たのは、失禁して腰を抜かす事だけだ。
裏鼻。
ああ、これが裏鼻なのか。
私の脳内を、何度も聞いた言葉がよぎった。
『来ればわかる。来ない間は分からない』
そりゃそうだ。こんな訳の分からない物体、来るまで予想のしようがあるか。裏返った鼻だから、裏鼻。全くもって言葉の通りだ。だが、そんなものが存在するなんて、どうして考えられるのか。
悲鳴にならない悲鳴を上げながら、私は這うように逃げだそうとする。だが、裏鼻は、そんな私など見向きもしない。
ただ、眠っている白道へと向かっている。
じゅくじゅくと血を流しながら裏鼻は、白道の形の良い鼻に触れた。その瞬間に、彼の鼻がぐるりと裏返り、取れてしまった。裏返った鼻はふらふらと宙を舞って、裏鼻へと吸い込まれていく。裏鼻は身体を揺らす。それは新しい鼻を歓迎しているようで――白道は、他の雲水と同じように鼻なしとなってしまった。
私は悲鳴を上げて、逃げ出した。
黒手寺を脱出した。
這いずって、匍匐前進で、死に物狂いで逃げ出した。それは亀の歩み並みに遅いものだったが、それでも明け方までは寺の敷地外に出る事が出来た。その後も、必死になって山道を這いずった。昼頃に、どうにか歩けるようになったので、そこからは走って逃げた。山を降りるまで一度も休まなかった。裏鼻が恐ろしくて仕方がなかったからだ。
山を降りて、私は親切な人に保護された。近くに畑を持っているという、歳を重ねた農夫だった。
「なんだ。アンタ、鼻無し寺からやってきたんかね」と彼は私の様子を見て、賢明にもすぐに事情を察してくれた。家に案内してくれて、暖かい食べ物を貰った。食べて休み、私はようやく人心地ついた。
私は寺を潜入取材していたフリージャーナリストであることを開かし、あの寺で起こった怪奇について洗いざらい打ち明けた。語ってみればあまりにも荒唐無稽な話である。この人がいくら親切な人であっても、信じてくれるとは思えない。いや、私は信じて貰おうとしたわけではない。だが、そうでもしないと、とてもではないが、私は正気が保てなかった。あの恐ろしい光景を胸に納めて、生きていけるわけがないのだ。
私の話が終わると、老人は「なるほど、アンタも大変だね。そんな姿になって」と、とても気の毒そうに言う。
私の顔の中心を見ながら。
「…………鏡を見せてもらえますか?」
差し出された鏡には私の顔が映っている。
そこには、
目を大きく見開いて、
顔を恐怖で歪めて、
絶望を称えた、
鼻のない雲水が、うつっていた。