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それから

三日後、崩御された筈の帝が突如として無事、都に戻られた。呆然と絶句する殿上人に、殊、空惚ける事に関しては超一流の役者である太政大臣綾小路友禅が、臨時朝議


を招集するなり、事の顛末を弁明する。捲土重来を期した八条宮の出現に、この際、宮中の膿を全て粛正せんが為、敢えて天皇崩御という誤報を流し、一計を用いたとい


う驚愕の説明に、まんまと術中に陥った官吏が悉く粛正された。

中宮、といち、紅蘭、葵の進言により敢えて昏睡を装い、幽明の淵を漂い続けた皇后も、帝の帰還と共に清涼殿に無事、戻られた。

更に三週間が経ち、流石に二条院より何の便りも無い事を怪しんだ帝が東宮侍従を呼び付けると、東宮の様子を根掘り葉掘りと詳細に尋ねた。

「いかに東宮が災難を被ったとは言え、流石に朕が戻り来てより三週間じゃ。とうに皇后も快復して平常に戻っておれば、東宮は如何したのじゃ?」

「はぁ……」

東宮侍従が溜息を吐くと、困惑頻りに泣き顔になる。

「どうした? 首謀者である八条宮を懲罰しようにも、後日東宮が内裏に引っ立て処遇を決めると申したまま、未だ二条院より知らせが来ぬ。同じく謀反人藤原知長につ


いても、薫が二条院に連れ帰ったとの目撃情報があるばかりで、本人からは何の説明も無い。薫については八条宮より無体な毒刑を被ったと聞いておるが、未だ一度も自


邸に戻らぬ状態だとも聞いておる。……東宮は、未だ寝込んでおるのか? 後遺症でも残ったのか? 律儀な薫が便りもせぬとはどうしたのじゃ?」

「ええ……はあ。……それは……」

のらりくらりと返答をはぐらかす東宮侍従に、痺れを切らした帝が憮然として捲し立てた。

「もう良い! ……東宮は、無事であるのか?」

「はい」

「後遺症は?」

「全くございません」

「薫はどうなのじゃ?」

「勿論、お元気です」

「ならば何故、二人揃って顔を見せに来ぬ!」

「はぁ……」

調子良く答えていた東宮侍従が嘆息すると、上目遣いに口を噤む。堂々巡りの回答に、いよいよ機嫌を損ねた帝が、手にした檜扇でぴしゃりと床を叩き、憤慨した。

「ふふ……とうに、二条院には居らぬのです」

どきりとした言葉に、東宮侍従が跳ね上がるなり後方を振り返る。

「これは叔母上! ……久方振りに、都にお戻りになられたのですか?」

驚いた帝が思わず席を立つと、元斎宮の叔母宮に歩み寄った。

「こうして会うのも、久方振りですね。……そなたの即位以来かもしれません」

叔母宮の手を取り、共に安座した帝が口を開いた。

「確か、南紀白浜に自邸を定められたと伺っていましたが……突然の帰京とは、如何されたのです?」

老いてなお矍鑠とした叔母宮が、微笑するなり主上を見遣る。

「……そなたの災難と時を同じくして、私もまた、八条宮に監禁されておりましてな……。京の八条院に押し込められていた所を、過日、ようやく解放されました」

「……何と! 叔母上も、被害に遭われていたのですか。これも朕の不徳の致す所……。本日は、お叱りにお見えになったのですね?」

帝が深深と頭を下げるなり陳謝する。悠揚とした叔母宮が首を振るなり恐縮した。

「滅相も無い……。白浜に戻る前に、ひと目帝に御会いして昔話などと思いましてな……こうして訪れた次第です」

女官が茶菓子と御茶を持ち来ると、帝が叔母宮を私庭に面した私室へ誘った。

「先程は、東宮の所在を御存知であるかの様な口振りでしたが……」

微笑した叔母宮が、躊躇なく頷いた。

「ええ。私を迎えに来たのは、あの子でしたから……。今頃は、海の孤島でしょう」

「海の孤島?」

仰天した帝が、思わず目を丸くした。



「……全くしつこいな、これで何度目だ?」

「さあな、軽く二桁は超えたのではないか?」

チッと舌打ちした東宮が小屋を出る。ざあっと吹き上がる風を受け、小高い山の頂上から四方をぐるりと見回した。

「……姿が見えないな」

薫が竈に薪を焼べると、煮立った鍋から何とも美味そうな香りが立ち上った。

「良い香りだな。……今日は、何だ?」

「鳥の焼き物と、白菜と大根の漬物、それに味噌汁だ。……宮様がきちりと役割を担えば、刺身か焼魚が増え、豪勢な粗汁になるかもしれない」

淡淡と答えた薫に、東宮が苦虫を噛み潰した顔になる。

「……くそう、また一品お預けか。おい蒼王、懲りない馬鹿を探して来い!」

放たれた蒼王が滑空するなり天涯に消える。


「信頼様、再び蒼王が放たれました」

海に浮かぶ無人島を偵察していた信頼の配下が、浜辺の離宮下に設えた小屋にて待機中の信頼に報告する。信頼と共に座っていた茜が桔梗と顔を見合わせると、長嘆した


「……いつまで、お続けになるおつもりかしら」

「御二方とも鬼の体力気力があるというか……肝が据わっているというか……」

困惑頻りの二人に、微笑を浮かべた信頼が、皮肉を込め嘆息する。

「未だに隙を見ては脱走し、がむしゃらに抵抗する側も、甚だ度を超えていますよ」

「信頼様。離宮より、またもや御呼び出しが来ていますが……」

崖上の浜離宮から呼び出された信頼が、溜息交じりに頷くと、直ちに参上した。


「呆れた、まだ粘っているのね」

信頼の報告を受けた紅蘭が、呆れ果てて閉口する。

「兄上はともかく、付き合わされている薫殿がお気の毒ですわ」

といちが嘆くと、匙を投げた様子の紅蘭が言葉を返した。

「それはどうかしら? 止めない所をみると、結局、薫も同感なのよ」

ふふっと嬉しそうに笑った葵が口を挟んだ。

「いいじゃない。大津と薫らしいよ!」

「あんたは呑気でいいわね! でも八条宮は、今更手を尽くしてみた所で、絶対に更生などしないと思うわよ。現に、もう一週間は同じ事の繰り返しじゃない」

紅蘭がぴしゃりと葵を遣り込める。

「そうかなぁ。確かに一日目は小舟で脱走しようとして転覆。半日後に、大津の目を盗んで脱走しようとして小屋裏の崖から滑落。その二刻後に寝た振りをして薫の目を


盗み、再び脱走。海を泳いで渡ろうとして力尽き、信頼殿の小舟に拾われて連れ戻された。でも、二日目はちゃんと学習して、直ちに脱走する事を諦めたじゃない」

進歩を認める葵に、首を傾げたといちが疑問を呈した。

「でも……二日目からひとりで自炊すると洞窟に居を構えたものの、火を起こせず凍死寸前で薫殿に救出されましたわよね? その後、火の付け方は覚えたものの、今度


は狩りも釣も料理も作れず衰弱して倒れている所を、一昨日再び薫殿に保護されたばかりではないですか。それなのに、また脱走なんて……」

「薫も救出するから悪いのよ! だから益々図に乗るんだわ。うんと際どくなるまで、八条宮が助けを乞うまで、放っておけば良いのよ。でも大津も大津よ! これじゃ


更生させる気なのか、大津の所為でじわじわと死に追い込んでいるのか分からないわ」

嘆息した紅蘭に、いたく同意したといちが口を開いた。

「……薫殿がお救いになるのは、致し方ないことですわ。それもいつもぎりぎりの線で、お救いになっているのです。だって兄上ときたら、狩りのついでに八条宮を仕留


めかかったとか……。兄上が山頂から山を下った直後、八条宮の洞窟近くに謎の落石が発生したとか……。確か八条宮が小舟を繰り出した時も、転覆した原因は大弩によ


り飛来したと思われる投石だったとか……。およそ限り無く不自然ですもの。頑なに意地を張り、強がっているだけの八条宮を百も承知で、兄上ときたら気絶するまで放


置するのですもの。……この厳しい季節に、薫殿が居なければ、とうに八条宮の命は無い様にさえ思えますわ。傍目には、更生の為の試練どころか、過酷な苛めです」

ふうっと大きく息を吐いた紅蘭が、時折ぱちぱちと弾ける火鉢の炭を火箸で突き、火勢を弱める。ぬくぬくとした熾火をじっと見つめると、ふと憂いを帯びた顔になった


「大津にとっては、それでも甘い仕打ちなのかもしれないわね。……だって、大津自身も、殺人の憂き目にあったのですもの。……未遂とはいえ、過去から受け続けた毒


害の恨みも相当あるでしょうし。今回は、危うく薫を失う所だった訳だし……」

「……違うと思うな」

お団子を頬張りながら静聴していた葵がお茶を飲み、ひと息つくと、静かに微笑んだ。

「え?」

総様が、思わず葵をじっと見つめる。やんわりとした眼差しで、葵が答えた。

「大津は、八条宮が『毒化』したのは仕方ないって言っていたもの。……宮中に生まれ育った者の宿命かもしれないって……分かっていたもの。宮中に育った人間が、厳


しい生存競争を勝ち抜いていく中で、自衛の為に『毒化』するしかなかったんだって……。おそらく八条宮はきっと、誰よりも孤独だったんだよ。出された食事にも毒を


疑う様な……過酷な環境を生き抜いて来たんだ。大津だって、居た堪れず宮中を飛び出し、薫に出会って救われたんだもの……。……だからきっと、誰より八条宮の事を


理解しているのは、大津だと思う。……だからこそ、あれだけの大罪にも拘らず死刑とせず、こうして自ら更生を試みたんだ。それに薫は、もとより流血を好まないもの


……。全てを承知で、大津に付き合ってるんだと思うよ」

「葵……」

「僕、甘めの味の煎餅がいいな!」

再び幸せそうにお菓子を満喫する葵を、紅蘭とといちが爛漫として見つめると、和気藹藹と火鉢で煎餅を焼き始める。仄かに立ち上る甘い香りに、心地好さを覚えた信頼


が穏やかに微笑んだ。



「……いつまで強情を張る気だ?」

再び小屋へと連れ戻された八条宮に、魚を脇に抱えた東宮がずいと迫ると覗き込む。

薫にぽんと魚を手渡すと、水洗いして手早く処置した薫が手際良く串に差し、瞬く間に熾し火の周りの砂地に整然と並べる。

最早抵抗を諦めたのか……満身創痍の八条宮が両手を火に翳し静かに暖を取ると、赤赤とした炎をじっと見つめたまま、洞洞として静まり返った。

焚火の周りに座った東宮が、焼けた竹筒を取り上げ鉈でパンと断ち割ると、中からふっくらとした白飯が粒粒として、艶やかに煌めいた。

「ほら、食えよ」

「……いらん」

差し出された白米に、ふんと顔を背けた八条宮が言葉を返した。

「腹が減ってる筈だろう?」

「お前が用意した食事など、誰が食べるものか! どうせ毒を盛り、殺すつもりだろう? その手には乗るものか。見ていろ、必ず、ここから脱出してやる」

窶れた顔で屹度目を剥き、決意を語った八条宮に、東宮がくっくと笑った。

「島からは出られない。ここで食べて生き残るか、餓死するかのどちらかだぞ?」

「だったら、ここで飢死にする! さっさと殺せばいいではないか! 何故、余計な事をする! 放っておけば、私もとうに死ねた筈だ!」

激昂した八条宮に、まだ刃向う余力があるのかと感心した東宮が、ふんと鼻を鳴らした。

「お前を殺す気は無い。死ぬ気だったら、自分で死ねばいいではないか。自死するのも餓死するのも、死ぬ事には変わりない」

「せっかく死にそうなったのに、貴様が勝手に助けるから死ねないのだ!」

「言っただろう? 残念ながら、お前を殺す気は毛頭無い」

口角を上げにやりと笑った東宮に、八条宮が悔しさのあまり膝を叩くと地団駄を踏む。

「くそう!」

癇癪を起した八条宮に、呼応した炭火が真っ赤に燃え、時折ばちんと火柱を上げる。

じゅうっという音を立て、魚の串から滴り落ちた滴が焼けた砂地に染み込むと、炭火に炙られ、ぷくぷくとした焦げ目を付けた魚から、芳しい磯の香りが立ち上る。火脹


れを起こした魚が時折ふっと破れて身を縮めると、尚一層、食欲をそそる美味そうな匂いが溢れ出た。器用に串の方向を変え、丹念に魚を焼いていた東宮が視線を上げる


と、かっかと発奮する八条宮を見遣り、呆れ顔で嘆息する。

「死にたいなら、お前が毒入りと騒ぐ食事を、食べれば良いではないか。毒入りならば、一番確実に死ねるのではないか?」

東宮が丁寧に焼き終えた魚の串を引き抜くと、八条宮に差し出した。

「ほら、食べ頃だぞ」

ぐうの音も出ず歯軋りしていた八条宮が意を決すると、ひったくる様に串を取った。

「いいだろう、死んでやる! お前の目の前で、死んでやる!」

呆気にとられた東宮が、薫にひと串手渡すと自らも手に取り、美味そうに食べる。

「熱っ!」

がぶりと噛み付いた八条宮が慌てて口を離すと、慌てふためき東宮を罵った。

「貴様、私の口に火傷を負わせて殺す気か!」

茫然とした東宮と薫が顔を見合わせると、涙目になった八条宮を見遣り、東宮が大笑する。

「何がおかしい!」

優雅な仕草で席を立った薫が、とく清水を持ち来ると、八条宮に手渡した。ひと息に飲み干した八条宮が、牙を鳴らして東宮を睨み付ける。

「……いや、悪かった。つい、昔を思い出したのだ」

「昔?」

眉を顰めた八条宮に、くっくと笑った東宮が頷いた。

「火で焼いたものが熱いという当り前の事を……昔は俺も、知らなかった」

「何?」

東宮が魚をぱくりと食べる。同じく魚の串を持ちながら、何とも優雅に食べる薫の所作をちらと垣間見た八条宮が、密かに真似をするなりぱくんと食べた。

「……!」

瞬く間に一匹を食べ終えた八条宮に、やんわりとした微笑を浮かべた薫が、もうひと串を差し出した。白米を食べていた東宮が箸を休めると、一心に魚を食べる八条宮を


じっと見つめ、寂寂として口を開いた。

「宮中の食事は厨房も遠く、毒見役も通る為、俺達の口に入る頃には疾うに冷えている。焦げ目の付いた焼魚という名ばかりの、冷えた魚に冷めた飯……。香りも無く温


度も無く冷め固まり……視覚的には美しいが嗅覚も触覚にも訴えるものが無い食事など……ただ口に運んでいるというだけで、生きている気がしなかった」

竈に掛けた鍋から、味噌汁を盛った椀を持ち来た薫が、湯気立ち上る椀を二人に手渡した。こくのある豊かな香りが辺りに浥浥と立ち籠めると、八条宮が慎重に口を寄せ


、えも言われぬ幸福に浸る。

「……美味い」

八条宮が、ぽそりと呟いた。

微笑した東宮が、ふと遠く遥かな視線になる。

「宮中を抜け出し、薫と出会い、海や川、山に分け入り散散遊ぶ内、羽目を外し過ぎて都に戻れなくなり、山中で一夜を明かした事がある。俺の場合は幸い、薫が寺で自


炊した経験があった為、何も困らなかったが……その時初めて、出来立ての料理を口にした。端から自分で作れば、毒害を気にする事は無い。毒害の懸念から逃れ、それ


でいて美味い料理なら、申し分無い。以来、すっかり自炊が気に入って宮中を出た俺は二条院に居を構え、自分の好きに暮らしている。もっとも野外料理については、狩


人や漁師の爺達に教わる事も多かったがな」

「ふん。……不羈奔放の初まりか」

鼻を鳴らした八条宮に、酒を温めていた東宮が杯を渡した。

「飲むか?」

「……酒か」

満満と注がれた杯を見つめ、不意に蕭寥とした八条宮が口を開いた。

「お前にひとつだけ、聞きたい事がある……」

眉を上げた東宮が、八条宮に向き直る。

「母上は……お前が八条院に訪れた直後に自ら服毒し、亡くなっている……。世間では、お前を殺害しようとした俺の減刑を願い出た母が、自らの死を以て訴えたとされ


ているが……私にはどうも、腑に落ちない。正直に答えてくれ。お前が……母上を殺したのか?」

「……」

緘黙した東宮に、杯をぐっと握り締めた八条宮が、唇を噛み締める。

「……お前も承知している通り、お前に毒を盛り、殺害してまで私を帝位に就けようとしていた母なのだ……。私がお前を害したあの時、既に帝は太政大臣友禅の進言に


より、私の流刑を決めていた。母が命を掛けなくとも……私は死刑を免れていたのだ。それなのに……それなのに、私の減刑を理由に自ら死を選ぶなど……おかしいでは


ないか! 大津、直前に母上と会っていたお前が、復讐の為、母を殺したのではないのか?」

真実を求める八条宮の眼差しに、真っ向から向き直った東宮が意を固めると、凛として応えた。

「叔母上は……八条女王は、八条宮……お前の為に死んだのでは無い。自らの罪を償い、自死を選んだのだ」

「!」

「何?」

度肝を抜かれた八条宮が、瞠目するなり東宮を見つめる。静聴していた薫が初めて聞く話に眉を顰めると、東宮の話に傾注した。

「何と……おかしいではないか。母がお前に齎した毒害は、有希の誕生以来、梨壺女御が全てを未然に防いで来た……。赤子のうちにお前が被った毒害は、皇后もお前も


自覚が無く、証拠も無い筈のもの。……それなのに、お前は母に、死という刑で償わせたのか」

八条宮が声を震わせると、手にした杯を取り落とした。四散した酒が炭火に降り注ぎ、ぱっと鮮紅に燃え上がる。冥冥として沈黙する炭の狭間より灼灼と噴き上がる炎を


見つめ、稜稜とした東宮が真摯に八条宮をみつめると、静かに口を開いた。

「八条女王は……先帝を暗殺した罪により、自死を選んだのだ」

「!」

衝撃の発言に、その場がしんと静まり返る。息を吞んだ八条宮が激しく首を振り動揺した。「……そんな馬鹿な! 母上が……先帝を? ……一体、どうして?」

「先帝は、生来より体が弱かったのではない。成人され帝位を継ぐ前後から……体調が悪くなられたのだ」

「何……?」

「お前により卑劣な毒害を被った俺は、既に崩御された先帝の死に疑問を抱いた。お前が利用した毒も、その匙加減により現れる症状は大きく異なる。先帝を診ていた侍


医の記録を徹底的に洗い直した結果、八条女王による毒害であるとの証拠を得た。……そしてあの日、俺は証拠を持って八条院を訪れ、女王に事実を突き付けた。最早全


てを観念した女王は俺に、先帝を殺害した罪を公にしないという約束を取り付けると、自ら死を選んだのだ」

「……嘘だ」

蒼白となった八条宮が、愕然として呟いた。

「嘘ではない。……先帝の御代より、東宮は八条宮……お前だった。女王の謀略により早々とお前に与えられる筈だった帝位は、死期を悟り……女王の計略に薄薄気付い


ていた先帝が残した最後の言葉により覆り、急遽親父が帝位を継ぐ事となった。だが、先帝が東宮を廃した訳では無かった為、宮中の同情を集めたお前が、そのまま東宮


となったのだ。それなのに、お前も母も執拗に、親王である俺の命を狙い続けた。我慢を重ねた俺だったが、お前の母が桜の父である先帝を殺めたと知った時、無言のま


ま散っていった先帝を思うと、これ以上、お前の母を許す事は出来なかった」

八条宮を見据えた東宮が、秋霜烈日に冷厳になる。

「……だからあの日、俺が訪れた事が、そのままお前の母の自死を招いた原因だと言えば、確かにそうなる。……だが俺は、詫びるつもりは一切無い」

「……そうか」

顔を上げた八条宮が、ふと穏やかな視線で東宮を見つめる。

「……八条宮?」

不可解な顔を向けた東宮に、安座した八条宮が転がった杯を拾い、瓶に入った熱燗を手に取ると、自分の杯になみなみと注ぐ。

「……不思議だろう? ……自分でも驚く程に、気持ちが晴れ晴れとしているのだ」

唇を寄せ慎重に温度を確かめた八条宮が、温くなった熱燗をひと息に飲み干した。

「私は今の今まで、母は私の為に死んだと思っていた……。原因をお前のせいだと罵りながら、心の奥底では……私が死なせてしまったという、どうしようもない罪悪感


に苛まれていた……。……望みもしない東宮という立場に生まれ、母の望むままに帝位を欲し、母の願いを叶える事こそが私の使命であり、親への孝行であると信じてい


た……。母が薨去した事で、最早、道半ばで彷徨いだした私は、お前を滅する事しか頭になかった。お前にさえ復讐を果たせば、母が救われるものと……思い込んでいた


再び杯を呷り、潔くよしと頷いた八条宮が、木製の杯をぽんと火に投げ入れる。瞬く間に炎に包まれていく杯に暫し目を留めると、やがて顔を上げ、東宮に向き直った。

「よくぞ長年、母の凶行を誰にも打ち明けず、母との約束を守ってくれたな……大津」

今や燃え尽きようとする杯を見遣り、毅然として灰燼に帰す様を見届けた八条宮が、清清しい眼差しで天を仰いだ。

「母は、己の罪を償う為に死んだのだ。……それは、最期に示された母の正義だったのだ。母が自ら清算したのならば、私が最早妄執する事など何もない。……漸くこれ


で、私も私の一歩が踏み出せるのだ……」

「八条宮……」

ふっと笑った東宮が別の杯を手渡すなり酒を注ぐ。

「では、新しい門出に」

自らも杯を取ると、高く掲げて乾杯した。


信頼を待機させていた浜辺の小屋より、鏑矢が放たれた。

ひゅうという号音に、逸早く反応した薫が手を翳し、沖を見遣る。遥かな水平線に現れた大型船に温顔を綻ばせると、疾風の如く山を駆け降り、港に向かう。

「何事だ?」

八条宮が狐につままれた顔で東宮を見遣る。

「おそらく、知長を迎えに来た船だ」

徐徐に近付く船影を視認した東宮が、淡然と答えるなり席を立つ。

「……知長を? どういう事だ」

眉を顰めた八条宮に、炭の始末を始めた東宮が、あっけらかんと呟いた。

「留学するのさ。……礼賛の奴、早かったな」

八条宮に箒を投げて寄越した東宮が、周辺を掃く様に指示するなり、自らも撤収作業に勤しみ始めた。

「留学だと? 礼賛……渤海国か? 何故だ」

唖然として箒の手を止めた八条宮に、チッと舌打ちした東宮が箒を取り上げると、空になった鍋を押し付け、洗わせる。自らも椀を手に取り、がちゃがちゃと洗う手本を


見せると、鼻を鳴らして嘆息した。

「野暮な事を聞くなよ。皇族には皇族の思惑がある様に、貴族には貴族の秘めたい事情があるんだろう。……知長が、お前の意に反して薫を助けた様にな」

「何? あれは知長の仕業だったのか」

吃驚した八条宮が、思わず手を止める。

「……気付かなかったのか」

驚いた東宮が、茫然として手を止める。鍋洗いの手を休め、どうやら本気で思い捲ねている様子の八条宮を見て取ると、再び仕事をさぼった事に苛立った東宮が、ばしゃ


んと水を叩いて撥ね上げるなり、制裁を食らわせた。



無人の港に佇み、船を待つ薫が澄んだ水涯を見つめ、洋洋として思いを馳せる。


「ありがとう。御蔭で東宮の危機に間に合った」

東宮を腕に抱き、安堵の表情を浮かべた薫が知長に向かい、艶然と微笑んだ。

「礼など、言う必要は無い」

清涼殿東庭の玉砂利を踏み締め、薫と共に歩く知長が、俯き様に自嘲する。

「お前にも私にも都合良く牢を出させるには、お前に無難な死罪を与え、お前を無事、死体と見せ掛ける必要があった。だから私は八条宮の毒薬を麻酔薬と摩り替えた。


……だがそれも、全てはお前が私を信じなければ、無駄な徒労に終わる所だったのだ。あの状況でお前がもし私を疑い、八条宮の毒を逃れようと武力で抵抗していたのな


ら……おそらく斬首に処せられたお前を、助ける術は無かった」

立春近く、勢いを増した朝日が燦燦として心地良く降り注ぐと、清涼殿の白砂利が晶晶として煌めいた。思わぬ美しさに、足を止めた知長が手を翳すと、眩しそうに天を


仰ぐ。

「寧ろ、礼を言うのは私の方だ。よく……私を信じてくれたな」

麗らかな日差しに爛漫とした薫が、やんわりと口元を綻ばせた。

「藤の下に黄昏と……お前が私に、自らの意志を示したのだ。生殺与奪は八条宮の意志ではなく、天皇家の意志でもなく、藤原家の意志に於いて行われる……。それこそ


がお前の貫く道なのだと……。だからこそ、少なくとも八条宮の意志で下された故なき毒刑に、お前が従う筈は無いと思ったのだ」

痩骨の頬を緩めると、矜持に満ちた知長が頷いた。

「北家、南家、式家、京家と四分派して揉めてはいても、天皇家を擁護しながら、共に繁栄の道を歩む……それこそが始祖である藤原鎌足の誓願であり、不比等より確立


した誇り高き藤原家の哲学なのだ」

皓皓とした白洲の粒粒を確と踏み締めながら、顔を上げた知長が、ふと清涼殿を振り返る。

「帝の許で権勢発揮し、永続的に支配する事が目的であり、とかく藤原一族の独占と専断に走り勝ちではあるが……本来、数多の貴族の排除滅亡を願う訳ではないのだ」

「多様性を……認めると?」

薫が静かに微笑んだ。

「藤原北家の意志によりお前を助けた事が、良い例ではないか」

雅量を示し悠悠と応えた知長が、再び足元の玉砂利に目を留める。

嘗て川の激流に翻弄され、悉く角が取れた丸い小石が個性を失い、累累として一様に降り積もり、体裁を整え不毛の白洲を形成する。足下に容赦無く踏み付けられてはき


ゅうきゅうとした悲鳴を上げ、風雪に虐げられては耐え、唯ひたすら清涼殿を守り、統一された美観に奉仕する。初めて殿上に上がった日も、流刑を言い渡された日も緘


黙沈然として、今も変わらぬ不変の美に、ふと貴族という存在を重ね、底知れぬ恐怖を抱いた知長が、呻く様に呟いた。

「永続を願いながらも、それを実現させ続ける事は、己を捨て去る事への挑戦でもある。須らく温故知新でなくてはならない。必要とあれば敵と手を組み、目的遂行の為


ならば、時に身内の犠牲も厭わない。……実に、苛酷だ。……だがそれが、大貴族の宿命なのだ」

熾烈な権力争いに巻き込まれ、消耗し続けた知長が、惨憺たる過去に囚われると、苦悶に満ちて難渋する。俄かに沈黙した知長に、冥冥とした懊悩を見て取った薫が、哀


憫の情を抱きふと話題を転じると、慈悲に満ちた温雅な瞳で知長に尋ねた。

「……して、お前はこれから、どうするつもりだ?」

ふっと現実に引き戻された知長が、悄然として呟いた。

「私には、お前の主の様な存在が無い。……身を挺して守りたいと願う存在も居ない。北家の血縁としての矜持はあるものの、とうに家族も失った。そんな私が政治に戻


った所で、再び良い様に利用されるだけだ。……寒山にでも隠棲するつもりさ」

眉を顰めた薫が、言葉を返した。

「お前の年齢で隠棲とは……早過ぎるのではないか? ……何をするつもりだ?」

「……四書五経でも読み直し、昼寝でもして好きに暮らすさ」

投げ遣りに答えた知長に、憂慮した薫が真摯に向き直る。

「……都を離れれば、手に入る本も限られる。……入学から卒業まで勧学院の主席だったお前の事だ。……存分に本を読み、学問に没頭したいのではないのか?」

知長が甚だ苦笑した。

「今更、戻るべき学籍も無ければ、未熟な学生に教えるという気概も器量も無い。それに大学寮の手前勝手な学者どもとは、昔から犬猿の仲だしな」

「……では、留学したらどうだ?」

思わぬ提案に、面食らった知長が思わず薫を凝視する。

「留学? ……馬鹿な、遣唐使は廃止となったばかりではないか」

「渤海国だ。文明高雅にして、唐との関係も深い。仏教も儒教も独自の発展を遂げ、文献に事欠かない上に、高名にして実力のある学識者も多い。……君にさえ気持ちが


あるなら、喜んで礼賛に手紙を書こう」

薫の誠実な申し出に、知長が真剣に考え込む。

「……渤海国か。……未だ見ぬ新天地へ、留学できるのか」

知長が何度も、噛み締める様に呟いた。

「ただ……三年以内には、帰国して貰いたい」

「何?」

意志を固めつつあった知長が、期限を設けた薫の条件に、怪訝顔で眉を顰める。

「唐の崩壊がこのまま進めば……遅かれ早かれ渤海国にも危機が及ぶのは確実だ。存分に知識を吸収し……帰国した暁には、遺憾無く、その辣腕を発揮して貰いたい」

「!」

温柔にして敦厚なる薫の言葉に、知長の目頭が熱くなる。悟られまいと、慌てて視線を逸らした知長が、遥かな天涯を見つめ、眩しそうに瞳を震わせた。

「それまで、私は……待つとしよう。お前の、帰還を」

知長をやんわりと見つめた薫が、温雅な瞳で微笑んだ。



「留学? ……知長をですか?」

およそ想定外の叔母宮の言葉に、驚いた帝が繁繁と叔母宮を見つめた。

「ええ。薫が渤海国の礼賛殿に早舟を出し、海の無人島にて、返事を待っておるのです」

「朕には、何の相談もありませんでしたが……」

どこか侘しそうな主上の様子に、朗らかに笑った叔母宮が顔を綻ばせた。

「おや、……薫は今、内大臣の官位も無い、只人(ただびと)の扱いですからね。私人としての薫が、その個人的な交友関係により、私的に留学を依頼し手配しようがしま


いが、それは薫の自由というものです。主上がとやかく仰る範疇ではありませんよ」

はたと気付いた様子の帝が膝を打つ。

「……しまった! そうでしたか」

俄かに蔵人を呼び付けた帝に、融融として寛ぐ叔母宮が尋ねた。

「どうなさったのです?」

「……東宮はともかく、薫の参内が無い事を案じておりました。道理で、薫の報告すら無い筈です。一刻も早く勅旨を出し、内大臣に復位させます」

悠然とした叔母宮が目笑するなり頷くと、穏やかな口調で進言した。

「ならば、もう少し後になさるが良いでしょう」

「何と……?」

「少しだけ、羽を伸ばしておやりなさい。……薫も東宮も、まだ若い。青春、真っ只中なのです。何者にも縛られず、自由を謳歌する時があっても良いではありませんか


「叔母上……」

「今までの薫の忠義を思えば、あまりに細やかな恩賞ではないですか」

「その通りです。……が、」

途端に、帝が苦虫を噛み潰した顔になる。

「薫に与えた褒賞を、棚から牡丹餅とばかり満喫しておる東宮を思うと、最早、寸陰の我慢もならんのです!」

「それは……。まあ御茶でも一服、召されませ」

苦笑した叔母宮が方方手を尽くして宥め賺すと、想像力に富んだ帝が東宮の高笑いを随所に見出し、ぎりぎりと歯噛みする。

「奴は薫と異なり……遊びに事欠いた過去などございません! いつだって自分勝手に振舞い、甚だ不羈奔放でございました!」

怒り心頭に発した帝が、矢継ぎ早に勅命を発すると蔵人を煽り、駆り立てた。

立春も間近の清涼殿に、一刻も早く追儺の豆を捲き、帝の心中に巣食う鬼を退治せんと思い及んだ叔母宮が、これも大晦日の追儺が不十分だった為ではないかと思い至る


なり、陰陽寮に活を入れてから白浜に戻らんと大いに意気込むと、疾く席を立つ。

長き冬より目覚め、俄かに囂躁とした清涼殿に、春陽が爛漫として降り注いでいた。



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