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史上最大の危機

「……お元気そうで安心しました、薫様」

牢内の薫が天井を振り仰ぐ。顔を覗かせた信頼が、周囲を見回し安全を確認すると、すっと身軽に飛び降りる。微笑んだ薫が口を開いた。

「早耳だね、もう情報を得たのか」

「黒杉殿の使いで、参内された薫様を探しておりましたら、何と牢内に居られると聞き、驚きましたよ。……八条宮が現れた様ですね」

頷いた薫が、事実を肯定する。

「……消しますか?」

さらりと提案した信頼に、薫がくっくと笑うと首を振った。

「この様に屈辱的な仕打ちを受けたのに、報復さえなさらないんですね。淋しい限りです。では今、脱出されますか?」

「いや……機を見て、出るつもりだよ」

艶然と微笑んだ薫を見つめ、信頼がにやりと笑った。

「奴らに、粋な出方を教えてやるおつもりですか?」

毒を含んだ物言いに、薫が爽快に笑った。

「……して、黒杉殿からの連絡とは?」

「はい、実は東宮様の御容体が思わしくなく……抗瘧薬である規那(きな)を用い、東宮様の許容量を具に見極めながら処方しているのですが、期待した程に効果が表れて


いない現状です」

頷いた薫が、顔を曇らせた。

「薬の感受性が特異である東宮は、毒害に対する耐性が極めて高いという長所と、言い換えれば良薬であっても効き難いという短所の両面を併せ持っている。調薬は、元


より至難の極みであり……つまり東宮は結果として、己の気力体力に因って快復せざるを得ないという過酷な運命にある……。……東宮が、瘧である事に間違いは無いの


だな?」

「はい」

「……瘧は、私も留学中に何回か罹患し、悩まされた。確かに規那が特効薬だが、一度、私でさえ全く効かなかった事がある。……紙と筆はあるか?」

信頼が懐より紙筆を取り出すと、薫がさらさらと筆を走らせた。

「青蒿素? 何と読むのですか?」

「チンハオス。和名だとクソニンジンだ」

一瞬閉口した信頼が、口を開いた。

「……哀れな名前ですね」

「東宮が聞けば、絶対に飲まなくなりそうな名前だからね。蓬の仲間で、古来より漢方薬として知られてはいるが、唐名の方が気分的に良いだろう? これは、規那が効


かない種類の熱性瘧にも良く効いた。……もしかしたら、東宮の場合も特効薬になるかもしれない」

「ありがとうございます。急ぎ戻り、黒杉殿に伝えます」

信頼が一礼した瞬間、気配に気付いた信頼が、音も無く天井に飛び上がる。薫が一転して冷ややかな視線で双眸を欹てると、突如、がしゃんという音と共に、牢に至る入


口より、足蹴にされた牢番が血飛沫を上げ、薫の眼前の格子に叩き付けられた。

息吐く間も無く、両眼を血走らせた知長が槍を手に駆け入ると、癇癪を起こして奇声を発し、倒れた牢番に突進する。咄嗟に牢の格子越しに手を伸ばし、はっしと槍を受


け止めた薫が力を込め、難無く圧し折ると、折れた柄を鋭く突き返し、知長を吹き飛ばす。天井裏の信頼の動きを敏に察した薫が、片手でそれとなく制止すると跪き、牢


番に声を掛けた。

「大事無いか? ……一体、どうした?」

下歯を折られた牢番が、口から血を流し、訥訥と答えた。

「い……いえ、……私事ですので、どうぞお構い無く」

怒り心頭に発したまま、目を剥いた知長が、鼻息も荒く大いに憤慨する。

「おい牢番! 何故、命令通りにしないのだ!」

歯噛みした知長が、蹲った牢番を再び足蹴にするなり、牢内の薫を睨み付けた。

「綾小路は、自分の犯した罪を認めていない! 牢内で拷問にしろと言った筈だ! 何故、拷問の代わりに食事などを勝手に差し入れておるのか!」

はっとした薫が、悲哀を込めた居た堪れない眼差しで牢番を見つめる。

「申し渡した筈だ! 綾小路を逃がしたら、お前の一族郎党全てを殺すと! 逃がしていないとは言え、命に背いた覚悟は出来ているんだろうな!」

知長が太刀を引き抜くと、振り翳した。刹那、一瞬の間に牢を破った薫が知長の太刀を蹴り上げ跳ね飛ばす。鳩尾に強烈な一撃を与えると、知長が昏倒した。

天井から再び剽軽に降り立った信頼が、牢番に応急手当てを施す薫の背越しに声を掛けた。「薫様……。貴方様が牢より脱出されない理由は、これだったのですね?」

微笑した薫が、気絶した牢番を信頼に託すと頷いた。

「そうだ……。逃げる事は容易いが、私の身代わりとされる命があまりに多すぎる……。知長の狙いは、抑々、私ひとりなのだ。私への復讐が全てなのだ。皆を巻き込み


、命の危険に晒す訳には行かない」

「……かと言って、いつまで留まるおつもりです」

頷いた信頼が、眉を上げて薫に尋ねる。

「機を見て……判断すると言ったろう? 知長と八条宮を闇討ちするのは容易だが、それでは彼等と何ら変わりない。恒久的な解決を図るには、八条宮と知長を正当な理


由で糾弾する機会を伺うか、或いは……。いや……何れにせよ、東宮が目覚めたのなら……その時、八条宮の天下が終わる」

或いは……? 一体、どの様な手段があるとお考えなのだろうか。皇后様中宮様不在の今、有希皇子様と女御様では、八条宮を糾弾して排除する程の権勢は期待できそう


にない……。……薫様への復讐だけで頭が一杯の知長とどう向き合い、他者の犠牲無くして穏便に牢を出られるおつもりなのだろうか……? 

いかに聡明な薫と雖も絶体絶命と思える状況に、微かな不安が信頼の脳裏を過った。

「やはり私は一刻も早く二条院に戻り、東宮様のご快復に専念した方が良さそうですね」

信頼がじっと薫を見つめる。

「そうだな。……君に、任せる」

柔和に微笑んだ薫が頷くと、信頼の肩を叩いた。

「……思うままに動いて良いのだ、信頼。君が……良かれと信じる道で」

「薫様……?」

不意に、信頼の胸奥が熱く震えた。信頼の胸に、過去が鮮明に去来する。

国司に捨て駒として扱われ、都で下賤な田舎者よと散々に冷遇され、怒りに満ち、頑なに邁進した己の野望……『奪い尽くした』結果、夢破れて全てを失い、絶望の果て


に真の主を見出し、今や仲間と共に『守る』事に心血を注いでいる。迷いも無い……恐れも無い……唯、安らかだ……。私の信じる道……それは……

「お帰りを、心待ちにしております。……必ず、無事お戻り下さい」

言うや否や、信頼の姿が瞬時に掻き消えた。


目を覚ました知長が、はっとするなり牢を見遣る。牢内で悠然と座る薫を認めると、激昂するなり牢前に詰め寄った。

「貴様、ふざけるな! いとも容易く牢を破りながら、再び牢内に戻るなど、私を愚弄しているのか!」

視線を上げた薫がじっと知長を見遣る。

「……そう受け取るのも、お前の性根が拗けているからだ。……私が牢に留まるのは、私ひとりの為に、先程の牢番の様な犠牲者を出さない為だ」

「綺麗事を言いおって!」

がんっと牢の格子を蹴った知長が、憎々しげに吐き捨てた。

「……お前の狙いは、私ひとりなのだろう? いい加減に、他人を巻き込むのを止めたらどうなのだ? 真っ向から私に向き合い、一対一の勝負を挑んだら良いではない


か」

薫が淡淡とした口調で知長に向き直る。途端に、知長が高笑した。

「ふん、その手には乗るものか! 私は、お前が悶え苦しみ、のたうつ様が見たいのだ! 文武両道に秀で、圧倒的な武力を誇るお前に、痩身怯弱の私が敵うものか! 


……だからこそ知恵を使って牢に閉じ込め、お前の身体能力を奪っているのではないか」

圧倒的優位を示し、居丈高に放言した知長に、呆れ果てた薫が苦笑する。

「やれやれ、卑怯極まりないな。……その様に、負けっぱなしで良いのか?」

「負け? それはお前だろう? 私は、体力不足を知力で補ったのだ! このままお前が牢で野垂れ死ねば、最終的に勝つのは私だ! 結果こそ大事なのだ。その為の手


段など、どうでもいい事だ」

陶然とした知長を見遣り、嘆息した薫が静かに首を振る。

「私に勝つとこだわるなら尚の事、その様に歪んだ勝利ではなく、正々堂々と勝てば良いではないか。讒言して失脚させ、寝首を掻き勝利だと豪語しても、後世に誇れる


美談にはならないだろう? それとも、歴史をも歪曲して伝える気か?」

揺るぎ無い知長が、にいっと笑った。

「それも、お前が死んだ後で、どうとでも理屈を考えればいい話だ。歴史など、最終的勝利者が都合良く書き換えるのが常だろう? 悔し紛れに言いたい事はそれだけか


?」

滑らかな口調となった知長を見つめ、薫がふっと微笑する。

「ならば八条宮を補佐して天下を手にし、私が死んだ後、お前はどうするのだ?」

「……さあな、政治などに興味は無い。私の人生を狂わせた、お前さえ引き摺り下ろせば満足なのだ」

「私に人生を狂わされた? 横領を重ね、背任した事も、全て真実ではないか」

慧眼を欹て、ぴしゃりと断言した薫に、かっとした知長が声を荒げて反論する。

「あれは藤原北家の為に、已む無くやらされた事だった! 私の意志ではない! だが、私に全ての罪が負わされたのだ!」

「ならば抑々、お前に全ての罪を被せた藤原北家を憎むべきではないのか? 私に八つ当たりするのは筋違いだろう?」

興奮した知長が、ばんっと牢の格子を叩き付けた。

「分かっていないな! ……あの家に生まれれば、それは仕方ない事なのだ! お前さえ黙認していれば良かったものを! なまじ数学に通じ、出納帳の絡繰りに勘付く


など、余計な事をしおって!」

有りっ丈の憎しみを込め、知長が薫を罵倒する。静黙していた薫がふと視線を上げ、深き瞳で知長をじっと見つめた。

「……そうして罪を被ったお前を、北家は守ってくれたのか?」

刹那、悲哀に満ちた薫の眼差しが、知長の心奥にふっと沁み入る。

「……煩い! 北家さえ安泰ならば、それはそれでいいのだ!」

薫の全てを否定し、掻き消すかの様に、憤慨した知長が喚いた。

「そうしてお前が半生を犠牲にして守った家は、蜥蜴の尾の如く、情勢不利と見るや、お前を簡単に切り捨ててしまった。……信じていたものに裏切られたお前は、遣り


場の無い憤りを、格好の標的とした私に、執拗に向けているだけだろう?」

深遠なる薫の両瞳は哀哀とした憐憫に満ち、昏昏とした知長の深潭を脅かした。

「黙れ! 三百年近く続いている北家の重圧が、新参者のお前になど分かってたまるか!  お前にだけは言われたくないわ!」

断乎として薫を拒否した知長が、容赦無く薫を罵倒するなり太刀を拾い上げ、突き付ける。

「中流止まりの貴族生まれが、太政大臣に上り詰めた父の威光でとんとん拍子に昇進し、不羈奔放の東宮に上手く取り入り、手前勝手な自由を謳歌するなど……政治を嘗


めているのはどっちだ! 偶然転がり込んだ権力を、手にした感慨も感謝も無く、弄んでいるのはお前だろう!」

薫の喉元に、非情なる切っ先を近付けた知長が、どす黒い感情を怒涛の如く溢れさせた。

「到頭、引き摺り下ろしてやった! 今度は、お前の番だ! 東宮を失い、苦しめばいい! うんと苦しめ! そして、お前も後を追うのだ!」

太刀の先端が薫の喉元を掠めると、つうと真紅の鮮血が流れ出る。痩けた頬に飛んだ返り血の温かさに、思わず怯んだ知長が、自らの凄絶な言葉とは裏腹に太刀先を逸ら


すと、憎々しげに唇を噛み、微かに手を震わせた。

「何故、命乞いしないのだ! 惨めに打ち拉がれて取り乱し、私に取り縋らんのだ!」

太刀先を激しく床に叩き付け、知長が忌ま忌ましそうに地団駄を踏む。

「では何故、お前は私を討たないのだ?」

静黙していた薫が、清静とした双瞳で知長を見つめた。

「惨憺たるお前を討つのが、私の望みだからだ!」

屹度して答えた知長に、薫が幽玄なる微笑を浮かべた。

「違うな、知長……。未だ、お前には私という憎悪の対象が必要だからだ。お前が、今後も孤高の内に、気高く生き抜いて行く為に……」

「何を……」

瞠目した知長が瞬きもせず、食い入る様に薫を見つめる。

「身を尽くしても、満たされない思い……そんな遣り場の無い空しさを憎しみに代え、お前はひとり踠き、必死に耐え、生きて来たのだ」

「出鱈目だっ!」

ふっと引き込まれる恐怖を感じ、知長がぱっと視線を退けた。

「では、聞こう。今……権力を手にしたお前は、幸せか? お前の犠牲で守った北家も、幸福なのか?」

微動だにせず、じっと見据えた薫が、静かに口を開いた。

「……」

……惑わされるな! 薫を討つ事だけに、全てを捧げて来た私ではないか! 奴は所詮、北家を否定し、私の復讐の矛先を北家に向け、あらゆる手段で自分の命乞いをし


ているに過ぎないのだ! 断じて、口車に乗るものか! 

知長が懸命に自らを鼓舞するなり、懐柔されまいと頑に耳を塞ぐ。

「お前も北家も満たされているというのなら……北家に翻弄されたお前の不遇な半生も、それはそれで、こうして報われたという事なのだろうな」

艶然とした薫が眼差し深く知長を見つめ、微笑んだ。

「……報われた……?」

知長の手から、がらんと太刀が転がり落ちた。

「……全てを、見透かしているのか……」

怨敵から労わられ、悄然と呟いた知長が、戦意を損なうなり茫然として自失した。


「柔蔓不自勝 嫋嫋掛空虚 豈知纏樹木 千夫力不如 先柔後爲害……」

不意に口ずさんだ薫に、俯いていた知長が顔を上げる。

「白居易、『紫藤』の一節か? 美しいが恐ろしい藤を詠んだ唐詩……」

微笑した薫が、頷いた。

「自ら竪立する事も叶わぬ『藤』は、樹木に嫋嫋と寄生し、見事な花を咲かせ成長するが、最後は、他の樹木を悉く締め上げ、枯死させてしまう……。知長、お前の『藤


原北家』は、その様な『藤』ではなかった筈……」

……天皇家に複雑に絡み付き、権勢を欲しいままにして来た藤原家……。天皇家あってこその繁栄であったのに、今、八条宮様は藤原の力を借り、守るべき大樹を……己


以外の天皇家を根絶やしにしようとしている……。

暗に示された薫の指摘に、思い及んだ知長が、暫し緘黙するなり口を開いた。

「慈恩春色今朝盡 盡日裴回倚寺門 惆悵春歸留不得 紫藤花下漸黄昏」

「白居易の『三月三十日題慈恩寺』……?」

慈恩寺の春も今朝までで終わり、一日歩き回って寺門に寄り掛かる。春が過ぎ去るのを嘆き恨んでも留める事は出来ないが、藤の花の下にも漸く黄昏が訪れる……。

……過ぎ行く春の終わりを惜しむ詩だが、……藤の下にも黄昏……とは……。知長の思慮に、思い至った薫が、感慨深げに瞳を閉じる。

「流石は、知長だ……。ありがとう」

……ありがとう?

去りかけた知長が一瞬、足を止める。何をするにも当然、必然で押し通された知長の人生で、およそ初めて掛けられた感謝の言葉だった。

……ありがとう。

知長の、本来若輩の身でありながら、深き皺が刻まれた峻厳なる双眸が、じんと熱くなる。悟られまいと唇を強く噛み締め、背を向けたまま、牢を立ち去った。



「今更、何を驚かれるのです?」

「……八条宮……何と恐ろしい事を」

後宮、梨壺の方の御座所では、人払いされた部屋に通された八条宮が、梨壺の方と対面していた。

「帝が崩御され、皇后様も東宮も不慮の事故でお倒れになり……未だ意識の戻らぬ皇后様に、何故、私が毒を盛る必要などあるのです?」

「有希皇子様の御為ではないですか。有希皇子様が帝位に就かれれば、貴女様は皇太后として揺るぎ無い権力をお持ちになる……。ですが、身分が上の皇后、中宮の命に


は、仮令天皇の実母としての御立場があっても逆らえません。今、目の上の瘤を排除せねば、正に、今後の障害となるのですよ?」

「帝位などと恐ろしい事を……! 臥せておられる皇后様や東宮も、必ず快復される筈でありましょう。此の上無く不吉な事を口走るとは……何たる無礼でありましょう


!」

梨壺女御が眉を寄せ、不快を露わに八条宮を窘める。

「ふふ……脆弱極まりなかった従姉が、いつから偉そうな口を聞く様になったのか……。権力とは、恐ろしいものですなぁ」

「何を……」

余裕綽々として女御の叱責を受け流した八条宮が、嬲る様な視線で見下した。

「……私は全て、知っているのですよ。嘗て殿上童の御奉公に上がっていた貴女は、私の母である八条女王の姪という事もあり、後宮の宮女として母に仕えていた。貴女


は、何度も見て来た筈ではないですか……母が、親王であった大津に毒を盛るのを」

「!」

息を吞み、絶句した女御の顔が蒼白になる。

「……気の弱い貴女は、母を止める事も、暴露する事も出来ずに、ひたすら見て見ぬふりを貫いた。……そう、有希が生まれるまでは」

陰惨なる笑みを浮かべると、八条宮がせせら笑った。

「軈て左大臣家より正式に帝に入内した貴女は、程無く、有希皇子を出産した。途端に、貴女は叔母である私の母が恐ろしくなったのだ……。母にとって、帝の長子であ


る大津が死ねば、当時東宮であった私の存在を次に脅かすのは、次子であり第二位の皇位継承権を持つ有希皇子となる。……貴女は我が子を守る為に、何としても、大津


を死なせる訳にはいかなくなった。……結果、事ある毎に悉く蔭ながら大津を助け、母からの毒害を未然に防いだ。……ただし、私が彼に齎した毒害には一切、お気付き


にならなかった様ですね」

八条宮が女御に迫ると、声を潜めて陰陰滅滅と囁いた。

「つれないではありませんか……。母が、姪である女御様の産んだ皇子を害するとでも? 私が、血縁である有希を傷付けるとでもお思いでしたか?」

ぞっとした悪寒が体を突き抜ける。蒼然としながらも、女御が嫌悪を露わに言葉を返した。

「同じく従弟である筈の大津に、執拗な迄にその命を狙い続けたそなたを、母となった私が警戒しない筈はないでしょう?」

薄情顔に令色を浮かべ、八条宮が微笑する。

「……自分の子を守りたい……母という存在は皆、そうなのでしょうね。……ですが、嘗て幼少の大津が毒害に遭うのを知りながら黙認していた貴女に、私や母を糾弾す


る資格が、あるとでも思われるのですか?」

言葉に窮した女御を見遣り、八条宮が懐に手を忍ばせるなり、小瓶を取り出した。

「我々は、疾うに同じ穴の貉なのですよ。今更、善人面されるとは烏滸がましい」

陰湿なる八条宮が注意深く歩み寄り、女御の両手に小瓶を握らせる。

「気付かれぬ様……少量ずつ、お盛り下さい。深く傷を負われた皇后様ならば、おそらく数日と持たないでしょう。貴女様の行動は筒抜けです……ごまかしても無駄です


よ」

八方塞がりに突き落とされた梨壺女御が、奈落の深潭に没了として絶望する。

意気昂然とした八条宮が、女御の居室を恭しく辞するなり、万端の備えに勤しむべく、勝手知ったる後宮を我が物顔で闊歩するなり、皇后の居室へと向かった。



「母上様……」

深深とした貞観殿に静臥する皇后に粛粛と侍り、といち皇女が時折そっと帳を開いて母后の御気色を垣間見ては、容体を逐一確認して一喜一憂する。

「夕方になり、だいぶ冷えて来たわ……。といち、これを」

寸陰さえ惜しみ、ひたすら介護に没頭するといち皇女に、寝ずの看護に伺候する紅蘭が、そっと綿入りの打衣を羽織らせた。

「ありがとう、紅蘭姉様」

「といち様も、そろそろ御休息なさいませんと」

大層窶れたといちを気遣い、女官長が温かい茶を淹れると、といちを(いざな)った。素直に頷き、紅蘭と交代して炭桶で手指を温めながら、といちが隅の火鉢で薬を煎


じる葵を見つめ、ぽつりと呟いた。

「……大丈夫よね。母上は、まだ御目覚めにはならないけれど……きっと、大丈夫よね?」

哀愁に満ちたといちに、葵の胸がぎゅっと締め付けられる。双瞳を潤ませたといちが、かじかんだ両手を炭火で熱心にほぐしながら、唇を震わせた。

「強健を誇る兄上でさえ、まだ御目覚めで無いんですもの……。母上が寝込まれたままであるのも当然よね?」

「といち様……」

悲嘆に噎ぶ心中を深く思い遣り、掛ける言葉を失った葵が、皇女をじっと見つめる。

「でも、父上の様に……。もし、父上の様に……あの父上が……」

ぶわっと涙を溢れさせたといちが、思わず言葉を詰まらせる。気丈に振る舞おうと懸命になればなる程、言葉にならない感情が溢れ出て、どうしようもなくなった。唇を


噛み締め、必死に心を平静に保とうとする皇女に、悲愴を覚えた紅蘭が、皇后様の介護に専念する様、しかと己を奮い立たせては、堪え切れずに目頭を抑える。

突如として齎された父の訃報……母と兄の重篤……ひとり残されたといちの悲痛を慮ると、周囲の誰もが張り裂けそうな胸の痛みを覚え、唯々、沈黙した。

「……大丈夫。大津には薫が付いているし、皇后様も大津も、皆が全力を尽くしているのだから、必ず御目覚めになる。……絶対に」

とかく優柔である葵が、珍しく断定的な口調になると、精一杯皇女を励ました。

「でも……でも先程、薫殿も官位を剥奪され、牢に入れられたと……」

怒涛の如く突き付けられた残酷なる現実に、といちが惨然と口籠る。手を止めた葵が、煎じ終えた生薬を薬缶に移し、慎重に煮立たせる。やがて、静かに口を開いた。

「うん……でも薫は周到だから、おそらく心配無いよ」

「……どういう事?」

紅蘭が、思わず口を(さしはさ)んだ。

「壁に耳ありだから、詳しくは言えないけれど……。端的に言うなら、薫の最大の武器は武力じゃない……。それに薫に関しては、寧ろこれで……良かったのかもしれな


い」

「?」

意外な言葉に顔を上げ、きょとんとしたといちが、紅蘭と顔を見合わせた。

「……官位が剥奪された事で、これで晴れて、薫は大津の事だけに専念出来る。自由を得た訳だから、薫にとっては本望だと思うよ」

驚いた女官長が、目を丸くして葵を見つめた。

「まさか……。地位も名誉も失い、牢に入れられ、喜ぶ者などおるのでしょうか」

「そうよ……それに、八逆の罪人が牢から出される時は、死罪と相場が決まっているのよ」

冗談じゃないわ、と深刻な表情で頷いた紅蘭が、怪訝顔で葵を見遣る。匙を回しながら薬の精製に集中する葵が、誰とはなしに呟いた。

「薫にとっては、牢など、物理的には何の問題も無いんだけれど……。出方に関しては、確かに、薫ならではの問題があるかもしれない……」

薬の味を確かめた葵が、あまりの苦さに顔を顰める。

「薫は、本当に流血を好まないからね」

淡淡として、別の生薬を刻み始めた葵を、紅蘭が不思議そうに見つめると口を開いた。

「……それはつまり、他者の犠牲よりはと、自己犠牲を選ぶかもしれないって事?」

紅蘭の問いに、再び薬を煎じながら葵が顔を曇らせた。

「……うん。勿論そういう傾向はあるけど、薫の場合、ちょっと違うかも……。でも、薫にとって大津は、言葉通り至上なんだ。だから何事も、最終的に大津の為だと判


断すれば、薫はおそらく何の躊躇も無く、全てを犠牲にしてしまうかもしれない」

「全てを……?」

といちと紅蘭が戸惑い顔で葵を見つめる。

……そう……。……だからこそ、薫は無敵なんだ。……でも僕は親友として、窮地にも迷わず心を殺して、何の痛みさえ感じない薫なんて、絶対に嫌だ……。そんな薫は


、見ていられないよ……。だから、大津……どうか大津、早く戻って来て……。

葵が自らの懸念を払拭するかの様に、黙々と生薬を磨り潰した。


「ほう……そなたが唯一の内親王であり、大津の実妹である当代一皇女だな」

抑揚の無い平坦な声に、火の温もりにじんわりと癒されつつあったといちが、ぞくっと体を震わせ背後を振り返る。

咄嗟にといちを庇う様に進み出た女官長が、毅然とした態度で口を開いた。

「ここは後宮、皇后様の御座所です。療養中の皇后様を突然見舞うは、無礼でございます。どうぞお引き取り下さい、八条宮様」

「八条宮?」

紅蘭と葵に一気に緊張が走ると、八条宮の一挙手一投足に傾注し、鋭意に警戒する。ふんと鼻を鳴らした八条宮が語気を強めると、女官長に侮蔑的な視線を投げ付けた。

「下がれ、女官長。帝の崩御により恩赦を受けた私は、有希皇子の宣旨を受け、摂政を拝命した。仮令皇后様が臥しておいでとあっても、就任の御挨拶に罷り越すのは礼


儀である。無礼者はそなただ」

すっかり度肝を抜かれたといちの眼前に、女官長を退けた八条宮が安座する。

「そなたは従妹とはいえ、私と会うのは初めてだな」

恐怖で凍り付いたといちが、唖然として蒼白になった。

「そなたの兄や父母には恨みがあるが、そなたと利害関係で争った事は無い。……まあ、このまま後宮で飼い殺しにするか、どこぞに嫁がせるかはいずれ決めるとして、


それまでは、おとなしく後宮で過ごすといい」

仰天する総様をさて置き、一方的に宣告すると、八条宮がちらと視線を葵に向けた。

葵に目を留めた瞬間、八条宮が獰悪な形相になるなり、残忍に笑った。

「ふん……さてはお前、榊 雪菜の息子だな?」

「はい」

答えた葵を捨て置いたまま、八条宮が挑発的な視線でといちを見遣る。

「内親王も、さぞかし母后の御容体が御心配な事でしょうが……良いのですか?」

「?」

眉を顰めたといちが、不可解な顔になる。

「よりによって、この様な母殺しを侍医として侍らせるなど……皇后様のお命が脅かされる危険こそあれ、御為にはならないでしょうに」

「……え?」

耳を疑う言葉に、絶句したといちが葵を振り返ろうにも兢兢として凍り付く。

「ちょっと! 貴方、聞き捨てならないわね、何て暴言なの! あれは、事故だったのよ! 葵のせいではないわ!」

ぴしゃりと床を叩いて非難した紅蘭を一瞥するなり、八条宮が鼻先であしらった。

「ふふん、だが息子である此奴が治療を開始した途端、死んだのは事実ではないか」

「仮令事実であっても、語る人の口によって、こうも聞こえが違うとはね! 悪意に満ち、人の胸を抉る様な言い様は、絶対に許せないわ!」

烈火の如く怒った紅蘭が、畏れることなく八条宮を睨み付ける。窮鼠となった葵を見遣り、小気味良く感じた八条宮が、蒼白になったといちに向かい尚一層、饒舌になる


「おやおや……やはり、内親王様は何も、御存じ無かった様ですね。此奴の母、雪菜は腕の立つ医師でしたが、今から数年前、急逝したのですよ。薬草を取りに出掛け、


刀子を持ったまま転倒し、太腿に僅かな怪我を負っただけでしたが、治療の際に此奴が不用意に刀子を引き抜いた為に血が噴き出し、哀れにも……息子の手により失血死


したのです」

「もう、やめて! 一番傷付いたのは葵なのよ! 傷の大小が問題なんじゃないわ! 不運にも、御母上は重篤な怪我だったのよ! あれは、誰が治療しても同じだった


筈よ!」

悲痛に叫んだ紅蘭が、思わず葵の許に駆け寄ると、葵をぎゅっと抱き締めた。

「……母は刀子で、太腿にある大動脈を深く傷付けていました……」

呟く様に葵が口を開いた。

「刀子を刺したままにも出来ず、傷が大動脈を損傷していない様に願いながら、慎重に刀子を引き抜きました……。でも、刀子は、大動脈に達していたのです……」

俯いた葵が、訥訥とした口調になる。

「僕には……どうする事も出来ませんでした」

手を休める事無く、黙々と調薬を続ける葵が、唇をぐっと噛み締めた。

「ふん、医師であるのに、どうする事も出来ないなどと、己の医療過誤と放棄を正当化し、よりによって怪我のせいにするとは、もってのほかではないか。侍医のくせに


、一体どの面下げて言えるというのだ。皇后様が、いつまでも御目覚めにならないのは他でもない。分を弁えず、藪医者の貴様が治療しているせいではないか。早々に、


失せるがいい」

八条宮が吐き捨てる様に言い放つと、俄に立ち上がるなり葵に迫った。

「僕は何があっても、ここを動くつもりはありません」

態度を固めた葵が、調薬し終えた薬を紅蘭に渡すと、毅然として八条宮に向き直る。

「何?」

「絶対に、皇后様をお助けしてみせます」

膝上で拳をぐっと握った葵が、凛として反発した。

「失せろ!」

激昂した八条宮が、腹いせとばかりに調薬器材をことごとく蹴り飛ばすと、容赦無く葵を足蹴にする。

「何という事を!」

「やめて!」

といちと紅蘭が悲鳴を上げると、ありったけの軽蔑を込め、八条宮を睨み据える。

「命が聞けぬのか!」

憤慨した八条宮が、頑として居座り続ける葵を忌ま忌ましそうに蹴り付け、滅多打ちする。

……大津と、約束した。八条宮が仕掛ける筈の、皇后様への毒害を防いでみせると。何が何でも皇后様のお側を離れるものか! ……離れるものか!

必死に堪える葵の眼前が、やがてふっと暗くなった。

「……そこまでにして頂きましょう」

「!」

背後から首筋に当てられた冷たい鋒鋩に、気付いた八条宮が硬直したまま、視線を背後にちらりと流す。

「信頼殿!」

「どうして、ここに?」

吃驚したといちと紅蘭が叫ぶと同時に、互いに顔を見合わせた。突如として何処からともなく現れた信頼に、驚いた八条宮がぎろりと信頼を睨み付ける。

「貴様、何奴だ!」

背後から八条宮の片手を後ろ手に拘束し、何の躊躇いも見せずに刀子の切っ先を八条宮の首に押し当てた信頼が、冴え冴えとした爽快な視線で飄飄と答えた。

「名乗る程の者でもありませんよ」

「ふざけるな! 畏れ無く私に刃向うとは……おのれ、東宮の手の者か?」

「さあ、どうでしょうね」

鼻で笑った信頼が、拘束した片手に力を込める。

(たばか)りおって! 無礼であろう! 離せ!」

「お静かに……騒ぐとほら、喉がぱくりと切れ飛びますよ」

微塵も動じる事無く、信頼が冷酷無情に刀子をぐいと押し当てた。

「衛兵! 何をしている! この無礼者を取り押さえよ!」

八条宮の声に、付近を警戒していた衛兵がどっと駆け付けるなり、信頼の姿に驚いた。

「……西九条? あれは、東宮様の下僕となった信頼ではないのか?」

戸惑いを隠せない衛兵達に、聞き耳を立てていた八条宮が勝ち誇った顔になる。

「何、西九条信頼とな? ふふん、では貴様は、八逆第一の大罪である謀反の罪で、人権さえ奪われたという人非人ではないか」

「ええ、そうです」

あっさりと頷いた信頼が、妖治に笑った。

「東宮に虐げられている身であれば丁度良い! 今こそ、日頃の鬱憤を晴らす絶好の機会ではないか。……そうか、こうして現れたのは、私にお前の技量を披露するつも


りであったという訳か。ふふん……なかなか計算的で挑戦的な姿勢ではあるが、良いだろう。お前程の腕利きであれば、この私がお前の復讐劇に手を貸してやってもよい


。まず先にお前が殺したいのは、牢に捕えている綾小路か? それとも、時間の問題で死ぬ東宮の方か?」

「……つくづく、おめでたい御方ですね」

呆れ果てた信頼が嘆息すると、ちらと葵を垣間見る。駆け寄ったといちが心配そうに葵を助け起こすと、水に浸した清潔な白布で、打撲傷をきちりと冷やした。

「他に望みがあるというなら、この手を解けば聞いてやる。まずは、離せ」

「お断りします」

手を振り解こうと八条宮が身をよじる。だが信頼の拘束は、びくとも動かなかった。

「何? 東宮と綾小路に復讐するに、申し分ない機会ではないか……。まさかお前ひとりで成し遂げたいとでも? ……それほど深い恨みなのか? とにかく、向き合っ


て話そうではないか。この刀子を下げよ」

徐徐に焦り始めた八条宮が、手を変え品を変え信頼の気を引こうと躍起になる。

「人非人と貴方が分析した通りですよ、私は。私にとって、貴方が如何なる身分のどんな御方であるかなど、何の意味も無い事です。同時に、貴方が与える報酬などには


、些かの興味も関心も無い。こうして捕えた貴方を殺すのに、私に微塵の躊躇いがあるとでも?」

背筋の凍り付いた八条宮が、俄に浮足立った。

「何? ……まさか、お前は逆に、東宮か綾小路の差し金でここへ参ったのか?」

「いいえ。東宮様も綾小路様も、何の御命令も出されていません」

信頼の言葉に、ほっと胸を撫で下ろした八条宮が饒舌になる。

「東宮……『様』とな? 成程、自らの意志でここに来たというのか。ならば良く考えよ。お前が主の為を思い、忠義故の独断行動として摂政である私を殺しても、事実


上の必然として、それは主である東宮や綾小路の指示と見なされる。必ず、報いを受ける事になるのだぞ。お前は勿論の事、お前の血族や主に至るまで徹底的な追及の果


てに全てを失い、法の下に裁かれる事になる。そしてお前が信じた主である東宮や綾小路は、摂政殺しの大罪を、独断専行したお前に押し付け、利益のみ享受してお前を


消し、素知らぬ顔で自らは罪を逃れるに決まっている。大罪人として処されたお前は、結果として忠義も報われず、厄介者として命を散らす事になる。何故、それに気付


かぬのだ」

「御心配無く。私は貴方に何の情報を与えるつもりもありませんし、うわべのみ気遣ったふりの貴方に懐柔されるという義理もありません。さて、下らない話はもう沢山


でしょう」

言い終えるや否や、信頼がぱっと刀子を外す。途端に八条宮が崩れ落ちた。

「八条宮様!」

宮様の受傷を疑い、衛兵が一斉に駆け寄ると、倒れた宮様の襟元を丁寧に確かめる。だが、宮様の首元には、掠り傷ひとつ付いていなかった。

「……これは、一体?」

首を傾げた衛兵に、妖麗に笑った信頼が、しれっと答えた。

「高貴な御方ですからね……。どうやら強気な御言葉とは裏腹に、内心は相当な恐怖を感じておられたのでしょう。……失神された様です」

傍若無人なる八条宮の振る舞いに、密かにうんざりしていた衛兵達が、内心喜びながらも任務に忠実なる故に困惑する。

「貴方の脅迫現場を見た我々としては、貴方の罪を問わねばなりませぬが……」

衛兵の言葉に驚いたといちが、顔を上げると眉を顰めて抗議した。

「罪ですって? 八条宮の謂われない暴力から、信頼殿は葵殿を救われたのですよ? 罪など、ある筈がないではありませんか」

「といち様……確かに仰る通りではありますが、帯刀が厳禁の殿上にて、刀子を用いたとなりますと……」

至極もっともな皇女の理を重々承知しながらも、いずれ目覚める八条宮に、信頼の罪状を看過したと詰難される事を恐れた衛兵達が、戦戦恐恐と当惑する。

「刀子? ……これの事でしょうか」

信頼が懐から刀子を取り出すと、衛兵達にぽんと投げる。受傷せぬ様、慌てて慎重に受け取った衛兵達が、思わず口元を一斉に綻ばせた。

「これは……竹光?」

「え?」

目を丸くしたといちが、興味津津と覗き込む。竹で作られた偽物の刀身に、気絶した八条宮を見つめた衛兵達が、ぷっと噴き出し、必死で笑いを噛み殺した。

「くくっ……まさか、竹光で失神されるとはなぁ」

「所詮は、公家様という訳だな」

「情けない……。なんだか、口先だけの御方だな」

衛兵どもが口々に納得すると、皇后の居室を後にする。

「信頼殿……ありがとうございました」

手を突いた葵が、信頼に深く礼を述べると畏まる。振り返った信頼が、恭しく一礼した。

「葵様……では二条院にて、お待ち申し上げております」

「二条院?」

「はい」

眉を顰めたといちと葵が、思わず顔を見合わせる。転瞬の間に、信頼の姿が掻き消えた。



「鮮やかなお手並みでしたね、敬服しました」

内裏の外へと通じる忍びの道を剽軽に渡る信頼の背後から、不意に声が掛かる。振り向いた信頼が、速度を緩めると振り返った。

「……桔梗殿、貴女の方は?」

「信頼殿が時間稼ぎをして下さった御蔭で無事、皇后様をお連れ出来ました」

「上首尾でしたね。皇后様は?」

「摩り替えの事実は、女官長に仔細を説明してあります。替玉の方は、女官長が上手く采配して下さるでしょう。本物の皇后様には紅蘭様が付き添われ、右大臣家の牛車


で密かに二条院へ向かわれております」

「では、我々も戻るとしましょうか」

頷いた桔梗が、嫣然と微笑んだ。

「……本物の刀子、仕込針による気絶……でしたよね」

看破した桔梗に、信頼が眉を上げ、鋭利な双眸を欹てる。

「おや、不服ですか? ……やはり旧恩に胸を痛め、心を揺さぶられた様ですね」

口元を綻ばせた桔梗が、大きく首を振った。

「いいえ、まさか! 貴方の厭味に満ちた機転が、何とも痛快だったのです。だって周囲には、八条宮が醜態を晒したとしか映りませんもの」

小気味好く何とも嬉しそうな桔梗を見遣り、信頼が残念そうに口を開いた。

「本当は刀子で一閃、ざくりと終いにしたかったのですが……東宮様はまだしも、薫様が好まれる手段ではありませんからね」

桔梗が、ふふっと頷いた。

「慈悲深い御方ですからね」

「主の意向を最大限に叶えるのが、従者としての務めですからね。八条宮を殺らない以上、東宮様と薫様に御迷惑を掛ける訳にも行きませんから……当然、配下である我


々も下手人として名が挙げられては都合が悪い。微微細細、気を遣わなくてはなりません」

「八条宮も目が覚め衛兵を問い質し、己が竹光で気絶したとあっては、それ以上追及してまで自分の怯弱を人に晒す気にもならないでしょう。実に、お見事でした」

「皇后様も二条院にて御静養されれば、これで東宮様の憂いも無くなる事でしょう」

「まずは、重畳」

二人の諜報員は爽快に笑い合うと、一路、二条院に帰参した。



「東宮の生死は未だ、分からんのか!」

苛立った八条宮が、台盤上の杯を掴むなり、凶猛に投げ付ける。花瓶が木端微塵に砕け散ると、戦いた女官がひっと悲鳴を上げた。

「はい……未だ、死んだという一報は入っておりませんが……時間の問題でしょう。ですが全てを手にした今、そう焦る必要もないではありませんか。どうぞ、帝王らし


い御振る舞いをなさいます様……」

知長が恭しく諫奏すると、八条宮が怫然として嘆息する。

「宮様……いえ、摂政様」

廊下に平伏した侍従が畏まり平伏すると、機嫌を損ねた宮様に代わり、知長が応じた。

「何用か?」

「はい、有希親王様の御使いで参りました」

「何、有希の? 申してみよ」

一転して身を乗り出した八条宮に、入室した侍従が再礼する。

「有希皇子様におかれましては、先程無事、意識を取り戻されました。現在、御母上である梨壺女御様が付きっ切りで看護されておいでですが、有希皇子様の勅意を急ぎ


、御伝えに参りました」

「……勅意、とな?」

眉を顰めた八条宮が、途端に不愉快な顔になる。

「はい。現在、牢に囚われている綾小路薫殿を直ちに解放せよ、との御言葉です」

「何?」

著しく機嫌を損なった八条宮が、苦虫を噛み潰した顔になる。

「綾小路を即解放しろとは、それはそれは寛大な御言葉ですな……。ですが、摂政であるこの私に相談もせず、勝手に勅意を伝えるなど……。天皇としての自覚に満ちた


御立派な態度とは雖も、あまりに股肱の臣である私を蔑ろにした行為ではありませんか」

委縮した侍従に苦苦しい厭味を放ち鼻を鳴らすと、底意地の悪い顔を大いに歪ませ、知長を見遣った。

「のう、知長。そなたも相当、頭に血が上っていることであろう? ……して、拷問に処すと張り切っていた綾小路は、その後どうなった? 解放する以前に、よもや既


に死んだのではあるまいな?」

恐怖した侍従が絶句するなり、額から冷汗が噴き出した。知長が無表情で顔を上げると、八条宮に向き直る。

「いえ……拷問には処しておりません」

「何と?」

驚いた八条宮が、瞠目するなり知長の正気を疑い、繁繁と見つめる。

「何故だ?」

憮然と問う宮様に、知長が私情を挟まず、無機質に答えた。

「……不本意ながら、綾小路には、左大臣様を筆頭に、宮中の百武百官より釈放を要請する陳情が何件もありました。帝王たる者、今後の忠臣となる臣の意向も、今後は


十分考慮しなければなりません。私自身、当初は綾小路を拷問するつもりでおりましたが、我々も政権を手にした以上、己の意のままに全てを独断する事は憚らなければ


なりません。現状として奴を釈放する気は毛頭ありませんが、拷問は明らかに殿上人の意向に背き、こちらの立場を危うくするばかりで、何の得もありません」

「何を言い出す! 奴を懲らしめ、のたうつ様が見たいと、かねてより申しておったではないか! この私と同等、いや、それ以上の妄執さえ感じていたに……陳情如き


で急変するとは。さてはそなた……弁舌巧みと噂の高い綾小路の詭弁に、早、説得されたのか?」

「いいえ、滅相も無い。己の恥でございます」

八条宮が怒りのあまり、手にした檜扇を知長に投げ付けた。罵声を浴びせ、有希皇子の侍従を追い払うと、禍禍しい形相で口を歪ませる。

「ふん……陳情は、左大臣を筆頭に……だと? この私の御蔭で、誉の裏金疑惑から綾小路の追及を救ってやったというに、感謝もせぬとはけしからん。有希も有希だ!


 全く、誰の御蔭で東宮……いや、天皇代理に上り詰めたと思っておるのだ! 偉そうに、この私に指図するなど……傲慢にも程がある」

宮様の沸沸とした激憤が口を衝いて冗冗と出る。知長が真一文字に口を結び、閉口した。

……違う。綾小路は殿上で、誉殿の失態を一切、表沙汰にはしなかった。……藤原左大臣を巻き込もうとした我々の謀略から……左大臣を守る為に。

今……左大臣様も、梨壺女御様も、有希皇子様も……綾小路の釈放を求めているのは、藤原北家筆頭もまた……綾小路を必要とし、守ろうとしているのだ。それが……北


家の意志なのだ。

政権を欲し、政敵を悉く排除してきた藤原北家……。充分に敵視される立場でありながら、こうして北家筆頭に擁護される存在であるとは……不思議だ。……何という幸


せ者なのだ、綾小路……。

黙念として座す知長に構わず、八条宮が呶呶として放言する。

「ふふ……左大臣は、嘗て藤原北家の跡目争いを制して筆頭となった人物……。そなたの親は敗れ……そなた同様身分を失い、流刑となった。そなたを直接流刑に追い込


んだのは綾小路なれど、そもそも……北家の正統として係争を勝利しておれば、今頃左大臣であったのは、そなたなのかもしれんのう……。……して、知長。……どうな


のだ? この際、北家筆頭となる覚悟はあるのか?」

「は……?」

緘黙していた知長が、ふっと耳を疑い、思考を中断する。

「何と……仰いましたか?」

「そなたを、藤原北家筆頭にしてやる、と申したのだ」

「え……?」

傲岸に言い切った八条宮に、度肝を抜かれた知長が瞠目する。

「それは、つまり……」

肝を冷やした知長が、恐るべき宮様の妄挙に青ざめた。

「ふふ、有希にも教えてやらねばならんしな」

八条宮が知長の心奥深く睥睨すると、佞悪邪智に微笑んだ。

「誰の意志が、勅意なのかを」

俄かに動いた宮様が、脇息の後ろに置かれていた厨子から豪奢な箱を取り出すと、御前に置いた。

「誰かある!」

俄かの御召に馳せ参じた侍従に、眼前の御箱を指し示し、爛漫なる令色を浮かべた。

「有希皇子に、丁重に見舞いを届けよ。一日も早く全快する様にと、此方の言葉を慇懃に添えてな」

「はい、直ちに」

拝命した侍従が、宮様の恩情に絆されると、殊の外嬉嬉として退出する。血の気の引いた知長が言葉を失い、麻痺した様に硬直した。

「知長、付いて参れ」

刹那、八条宮がすっと席を立つ。蒼白となった知長を見遣り、御気色麗しく満面の笑みで歩み寄るなり、声を潜めて囁いた。

「心配には及ばん。……少々、懲らしめるだけだ」

俯いた知長が唇を噛み締め、震わせる。意気揚揚とした宮様が知長の背を叩くと、足取り軽く先導した。

「さあ、来い。我が意志を、皆に知らしてやるのだ」



昏昏とした灼熱に彷徨い、涼を求めて枯渇していた全身がふと緩む。柔らかな光を感じて薄らと目を開けると、漠とした視線の先に天井絵が浮かび上がる。瞳を瞬かせて


暫し夢うつつに漂うと、再び静かに双眸を閉じた。

『ここは……俺は……』

次の瞬間、はきと目覚めた東宮が、突如として上半身をぐいと跳ね上げた。

「東宮様?」

仰天した黒杉が生薬を盆ごと取り落とすと、慌てて声を張り上げる。

「お目覚めになったのですか! ……信頼様! 紅蘭様!」

炯眼を欹て、周囲をぐるりと見回した東宮が、黒杉に目を留めると口を開いた。

「……黒杉か。手間を掛けたな。……俺は、何日寝ていた?」

「三日程になります」

「そうか……」

東宮が大きく伸びると肩を回し、首を前後左右に傾けた。

「大津!」

「東宮様!」

駆け付けた紅蘭が歓喜の声を上げ、馳せ参じた信頼が心から安堵した表情で微笑んだ。

「紅蘭、仔細は後だ。まず、飯をありったけ持って来い」

「……え、何ですって?」

度肝を抜かれた紅蘭が耳を疑うと、東宮が煩わしそうに言付けた。

「体力を回復するのだ、急げ」

紅蘭が慌てて部屋を飛び出すと、呆気にとられた黒杉をさて置き、褥に安座した東宮が、信頼に向き直った。

「御苦労だったな、信頼。……薫はどうした?」

片膝を突き、一礼した信頼が簡潔に状況を報告する。

「実はその後、有馬温泉にて帝が崩御されたという一報が入り、直ちに中宮様が向かわれました。同時に臨時朝議が開かれ、有希皇子様の皇位代理が決められましたが、


その最中突如として、主上崩御の恩赦により有希皇子様の宣旨を受けたと称した八条宮が現れ、そのまま摂政の座に就き、薫様に礼賛様と通じたという謀叛の濡れ衣を着


せ、幽閉しました」

事態の急変に驚愕した東宮が、唖然として問い質した。

「馬鹿な……奴が摂政だと? いくら中宮不在とはいえ、殿上は何をしていた?」

「有希皇子様もお倒れになり、帝と同等である摂政の意には逆らえず、唯唯諾諾と八条宮の意のまま引き摺られ、現在、政治機能は制御不能のまま、独裁により暴走して


います」

チッと舌打ちした東宮が不快千万に眉を顰めると、話題を転じた。

「……して、母上はどうなった? 御無事か?」

「東宮様が危惧されていた通り、葵様と紅蘭様、といち様で御守りしていた所、八条宮が現れた為、一計を用いて二条院にお連れ致しました。未だお目覚めではありませ


んが、現在、といち様と葵様が付き添われ、奥の間で静養されています」

東宮がにやりと笑うと、信頼の労を労った。

「御苦労だった。……茜は戻ったか?」

「はい。つい先程、戻りました。桔梗殿が手当てをしております。……呼びましょうか」

「……茜が、負傷したのか?」

東宮が顔を曇らせる。

「腕の骨折です。……命に別状はありませんが、少年を連れて戻りました。子供を含めて手当てを優先した為、私も未だ、仔細は聞いておりません」

「……子供?」

「茜殿を、連れて参ります」

深く一礼した信頼が、席を立った。


「東宮様……」

敬愛する東宮との再会に、瞳を潤ませた茜が懸命に感涙を堪え、座礼する。

「茜、難儀を掛けたな。……腕は、痛むか?」

「東宮様こそ……御無事で……! よく、御無事で……! 痛みなど……」

後は、言葉にならなかった。茜の両瞳から、堪えていた涙がぶわっと溢れ出る。

「追っていた帯刀どもにやられたのか? ……直孝は、どうなった?」

「はい。順次、御報告致します」

東宮の言葉に、事の危急を弁えた茜が直ちに私情を切り離すと、凛とした姿勢で畏まった。

「自称帯刀と名乗っていた者共を追跡した所、東宮様と伊勢から戻る途中、口のきけない少女の父が囚われている鉱山へと奴等が逃げ込んだ為、直ちに潜入しました」

「何と? ……そこは既に楓に頼み、検非違使を派遣した筈ではないのか?」

想定外の展開に、東宮が吃驚するなり茜を見遣る。

「はい。検非違使と楓様も、鉱山内部に囚われておいででした。拷問を受け、気絶されていた楓様は御存知ありませんでしたが、検非違使の目撃に因ると、自称帯刀の集


団の内、直孝殿だけがどうやら他とは事情が異なり、人質を取られて無理強いをさせられているのではないか……との事でした」

「楓が拷問された……? それに、直孝に人質とは……どういう事だ?」

眉を顰めた東宮が怪訝顔になる。

「はい、七歳になる彼の息子です」

「息子? ……そうか」

東宮が、沈深として静黙する。

「口のきけない少女と父は、楓様の手により既に難を逃れており、二条院に向かう様に命じたとの事でしたが、検非違使と楓様は鉱山脱出後、伊勢国司に連絡を取り帰京


されるとの事でした。帯刀どもが『宮様に報酬を貰いに行く』と直孝殿の人質を連れて出立し、直孝殿も後からそれを追ったというので追尾した処、直孝殿が途中で帯刀


の集団に追い付き、人質を返す様、彼らと口論しておりました。帯刀どもが子供を返さなかったので直孝殿が斬り掛かった所、状勢不利と見るや、彼らは子供を崖上から


川に投げ捨てたのです」

「何だと?」

傾聴していた東宮が、嫌悪を露わに不快になる。

「咄嗟に私が飛び込み、何とか子供を抱え上げましたが、骨折した影響で岸に上がれず、かなり下流に流されてしまいました」

「成程。……その時、負傷したのか」

頷いた茜が、話を続けた。

「かなり手間取りましたが現場に戻ってみると、周辺に帯刀の死体が散乱しておりましたが、直孝殿の御姿はありませんでした」

「……それで、子供は?」

「……はい。それが水に落ちた際、直ぐに気絶した為、溺死は免れたのですが……。どうやら、事前に毒を吞まされていたのではないかと思われまして……」

「毒……だと?」

東宮が、思わず身を乗り出した。静聴していた信頼が、はっとした様子で席を立つ。軈て、ぐったりとした少年を抱き抱えた桔梗が、信頼と共に現れた。


「水難を免れた当初は元気だったのですが、京に入った頃より急な腹痛を訴え、意識はあるものの、まともに歩けない程に悪化したのです」

遣る瀬無い顔で茜が事情を説明すると、憐憫に満ちた桔梗が腕の中の子供を見つめ、哀哀として頷いた。

「呼吸に問題はありませんが、腹部に強い痛みを訴え、一方で吐瀉や下痢の兆候は現れず、ぐったりとして微熱が続き、如何せん生気が無いのです」

「まさか……」

静黙していた東宮が顔色を変える。東宮に侍座し、話を真摯に聞いていた黒杉が大いに驚くと、恐怖のあまり、思わず口を滑らせた。

「……それは腐毒、なのでは?」

「黒杉?」

眉を顰めた東宮が、鋭敏に事情を察するなり黒杉を振り返る。はっとした黒杉が、我に返るなり平伏した。

「差し出がましい事を申し上げました、東宮様。……お許し下さい」

「いや、要らん遠慮はするな。……そうか、お前……薫から、全てを聞いたと見えるな」

炯眼を欹てた東宮が口角を上げ、にやりと笑い、得心する。

「……はい。申し訳ございません」

甚だ委縮した黒杉に、頷いた東宮が鋭利な視線で誡めた。

「では、お前が治療に当たれ。……必ず、治せよ」

「はい、必ず」

黒杉が了然と拝命した。


紅蘭が持ち来た料理を悉く平らげると、東宮がついと席を立つ。吃驚した紅蘭が、思わず東宮を窘めた。

「ちょっと、大津! いかに体力自慢の貴方でも、急に動いては体に障るわ。どこへ行くつもりよ? ゆっくり休んだらどうなの」

「湯に入る」

当然顔で答えた東宮に、仰天した紅蘭が、はらはらとして諌めに掛かる。

「冗談も大概になさいよ! せめて、少し休んでからにしたら?」

「ふん、煩いな。構うものか」

委細構わず部屋を出た東宮に、どっと疲れ果てた紅蘭が嘆息する。

「河豚毒から奇跡の生還を果たし、瘧に倒れ、目覚めた瞬間に暴飲暴食……入浴とは」

東宮の容体を診に来た黒杉が、要らぬ心配であったのかと、半ば茫然として自失する。

「人間じゃないと思えばいいのよ、この際。そう思わないと、やっていけないわ!」

頭を振った紅蘭が独り言の様に呟くと、両者の遣り取りを面白そうに見ていた信頼が口を挟んだ。

「確かに、奇跡の連続の様な御方です。……が、確かに紅蘭様の御指摘通り、些か性急な気もします。おそらく宮中の危機を憂慮されるが故に、多少の無理は承知で急が


れているのかもしれません」

「あの大津が、私利私欲以外に動く玉かしら……?」

「まさしく帝王の器をお持ちの御方です」

長嘆した紅蘭に、信頼がはきと頷くなり明言した。



湯船に全身を浸した東宮が、ざぶんと潜り心身を緩やかに解放する。くらりとした眩暈を感じ、檜の縁に両肩を掛け背を預けると、天を仰いで双眸を閉じた。

……くそう。湯に入った程度でこの(ざま)では、馬にさえ乗れないではないか。

「大津」

驚いた東宮が、瞬時に目を見開くと振り返る。

「……葵か、どうした?」

哀然とした葵が湯船に歩み寄ると、切切としてしゃがみ込む。

「……薫を助けたいのは分かるけど、幾ら何でも今、動くのは無茶だよ」

ふんと鼻を鳴らした東宮が、豪然と葵を見遣る。

「お前に、ひと言もそんな話はしていないが」

哀哀として、葵が答えた。

「紅蘭から、大津が復活した途端、がむしゃらに動き出したと聞いたんだ。現に今だって、僕が声を掛けるまで、僕の気配に気付かなかったじゃない。今、動くのは自滅


行為だよ」

東宮が、くっくと笑った。

「……流石に、長い付き合いだな」

眉を上げた東宮が両手を組み、真っ向から葵に向き直ると、にやりと口角を上げる。

「では俺が、八条宮なんぞに負けると思うのか?」

瞳を閉じ、静かに首を振った葵が、ぽつねんと答えた。

「そうじゃない。でも今、無理したら……大津が死んじゃう」

東宮が、炯眼を欹て葵を見遣る。揺るぎ無い双眸で、微笑した。

「今、俺が動かなければ……確実に死ぬのは、薫の方だ」

唇をぐっと噛み締め震わせた葵が俯くと、自らの両肩を抱き、顔を埋めた。

「……薫は、信頼殿に伝えた言葉通り、きっと自力で牢を出るよ」

葵を一瞥した東宮が、湯気立ち上る様を漠然と見つめ、濛濛とした天井を見上げる。

「難無く牢を破る実力はある。……だが、俺の為にそうできないのだ」

雲霞の如く立ち籠めた靄が無偏に漂い、時折吹き込む風の悪戯に煽られては縷縷と流され、やがて風景に溶け込み消滅する。額に降り掛かる冷たい水滴を払いもせず、東


宮がじっと天を仰いだ。

「支離滅裂な冤罪だとしても、もし法を犯して牢を出れば、それはつまり俺の罪となる。東宮である俺を守るが故に、おとなしく牢に捕えられ死を待ち、仮令ひとりでも


死罪を覆す程の確かな実力を持ちながら、虫けらの如く、従順に殺されなければならないのだ」

……だとしても! ……今の大津は、とても動ける状態じゃない。

俯いた葵が必死に涙を堪えると、呻く様に言葉を返した。

「でも、むざむざ殺される薫じゃない。……死を覚悟したのなら尚の事、大津の天敵である八条宮を放ったまま無駄死するなんて真似は、絶対にしないよ。……ここは薫


を信じて、大津はもう少し、体力の回復を図ったら? 大津が死んだら、元も子も無いじゃない」

「……分かってないな!」

刹那、東宮にぐいと引っ張られた葵が、湯船にざぶんと引き落とされた。慌てて浮かび上がり、呆気にとられた葵の眼前に、鬼気とした東宮が迫る。

「あんな奴に、薫をくれてやるつもりはない! 誰ひとりとして、俺のものをくれてなどやるものか!」

「俺の……もの? ……わっ!」

葵がたじたじとして怯むと、指で湯を弾いた東宮が、容赦無く葵の顔面に浴びせ掛けた。

「……時間が無い。八条宮は、俺が健在である事が分かれば、その時点で失脚させられる。だが八条宮を摂政の座から降ろさぬ限り、薫が無事に戻る保障はない。……上


がるぞ」

勢い込んだ東宮が、立ち眩みを感じて目を瞑り、よろめいた。とっさに両手で支えた葵が、驚きのあまり蒼白になる。

「大津……まだ、熱が……」

「……構うな、動けていれば、問題ない」

葵の手を払おうとした東宮が、葵の腕に目を留めるなり眉を顰める。

「お前こそ、その腕の痣は何だ?」

「僕の方こそ、こんなもの、どうでもいい事だよ! ……さ、大津、僕につかまって」

「ふん、はぐらかすつもりか」

東宮が葵の肩をむんずと掴むなり、直衣をぐいと開き上半身を露わにする。思った通り、葵の腕と背、脇腹には痛痛しい程に、赤黒い打撲痕が広がっていた。

「酷くやられたな……。奴に、蹴られたのか?」

忌ま忌ましそうに舌打ちした東宮に構わず、葵が汲汲として促した。

「僕の事はいいから、大津、早く上がって!」

「医師であるお前を見境なく痛め付けた所を見ると、奴の人心も疾うに失せた証拠だな。害獣駆逐は世の常だ。……これで、決まりだな」

鷹揚に構えた東宮が、獰猛に微笑んだ。

「大津、半端じゃない熱があるんだから、さあ早く上がって! 熱冷ましを処方するから」

「……その手には乗るものか、これ幸いと静養させる気だろう」

「もう! 早く!」

はらはらした様相でせかせかと葵が動き回る。軈て、闇に乗じた東宮が、密かに二条院を後にした。



「ふん、流石は頑丈だけが取り柄という大津の片腕だな」

折れた棒をがらんと投げ捨て、八条宮が感心した様に肩を竦める。

「水を打て!」

自由を奪われ、雁字搦めに拘束され柱に括りつけられた薫に、非情にも冷水が浴びせられると、炭火で真っ赤に焼いた刀子を持った八条宮が歩み寄る。思わせ振りにひら


ひらと刀子を振り翳し、薫の腕にひたひたと近付けるなり濡れた衣が瞬時に焼け爛れ、じゅっと不吉な音を立てた。残忍顔でさっと刀子を掠らせた八条宮が、にたりと笑


い誉めそやす。

「ほう、悲鳴ひとつ上げぬとは、大した度胸ではないか」

酷薄に嘲った八条宮が、項垂れた薫の顎をぐいと引き掴み、乱暴に引き起こす。冷ややかな薫の双眸を目にするや反射的にかっとなり、ぴしゃりと平手打ちを食らわせた


「何という、ふてぶてしい奴だ! 恐れるどころか、びくともせぬ!」

俯いた薫が不敵にも口角を上げ、密やかに微笑んだ。

……ふっ……誰が、悲鳴など上げるものか。……悲鳴も、苦痛に歪んだ顔も醜態も、およそ八条宮が喜び、求める姿態など、断じてするものか……。

「もうおやめ下さい、摂政様。先程、申し上げた筈です。こんな事が殿上人に知れれば、あまりの非情なる御振舞に、宮様の名声こそ傷付くばかりで、何の得もございま


せん」

無表情の知長が一礼するなり進み出ると、冷静に諫言する。

「名声だと? 既に、大津により罪人に処せられ流刑となり、傷付くところまで傷付いたというに、今更、何を恐れるというのだ?」

意固地になり、溢れ出る憎悪を薫にぶつける八条宮が、知長の正論に俄然憤慨する。

「……どうぞ今のお気持ちより、今後をお考え下さいませ」

はらわたを滾らせ振り返った八条宮が、知長を苦苦しく睨み据えた。

「……今後とな? 早、位人臣を極めた私に逆らう者など、居る筈もないではないか」

「……ではせめて、東宮の死を見届けてから仰って下さい」

刹那、八条宮が突如として鎮静するなり頷いた。

「……そうであったな」

知長に歩み寄った八条宮が、知長の肩を叩くなり、大いに労った。

「大事な事を忘れていた。そもそも私は、拷問をしに来たのではない。我が意志こそが勅意である事を、世に示しに来たのだ。……綾小路を、引っ立てい」

八条宮の従者が薫を柱から引き摺り下ろすと後ろ手に縛り上げ、強暴に薫を連行した。



激しい悪寒を感じた東宮が、堪らず黒王の背に突っ伏すと、負傷した茜の代わりに背後を守っていた桔梗が異変を察し、馬を操るなり黒王に並走する。

「東宮様、どうなさいました? 大丈夫ですか?」

無言のまま、漸くにして手綱を引き絞った東宮が黒王を止まらせると、そのままずるりと馬上で失神した。馬を乗り捨てた葵が血相を変え走り寄る。葵同様、東宮の容体


を案じ、馬に牽かせた車駕を走らせていた信頼が追い付き、東宮の許に馳せ参じると、丁重に東宮を抱え下ろした。

「大津、大津……しっかりして!」

東宮の頬を軽く叩き、必死に呼びかけた葵に、東宮が微かに反応する。

「……葵、か?」

「大津、やっぱり無理だよ! 瘧による極度の貧血だ。……二条院に帰ろう」

「……いや……このまま」

「眼前だって、まともに見えていない筈だよ? 相変わらずの高熱も続いている。今、無理をすれば命に関わる! 河豚毒の麻痺だって、完治していない状態なんだ! 


今度ばかりは、僕も医者として絶対に譲れない! ……さ、帰ろう」

葵が半ば強引に説得すると、信頼に向き直る。冷静に頷いた信頼が、東宮に跪いた。

「車を用意してあります。殿上へは影武者を仕立て、対応する事も可能かと思われます。今はまず、葵様の仰る通り、東宮様の御体を最優先に考え、二条院へお戻り下さ


い。薫様につきましては、このまま、直ちに私が探って参りましょう」

「……駄目だ……信……頼……」

激しい動悸に襲われ、息苦しさに眉を顰めた東宮が、力無く首を振る。

「東宮様……どうぞ、お戻り下さいませ」

桔梗が悲痛な面持ちで涙ぐむ。信頼が東宮を静かに車に運び込むと、枕元に付き添った葵が東宮の手首を取り、脈診した。

刹那、ぐいと手を引っ張られた葵が前のめりに倒れ込むと、首に手刀を受け昏倒する。

「……東宮様?」

物音に気付き、御者台より後方を振り返った信頼が、吃驚するなり東宮を見つめた。

「許せ……葵」

片肘を突き、何とか上半身を起こした東宮が、漸くにして壁に凭れると片膝を立て、呼吸を整える。

「信頼……早く、清涼殿へ……桔梗を、呼べ」

明確に示された東宮の意志に、しかと頷いた信頼が寸陰を惜しみ、猛然と馬を走らせる。

激しく揺れる車内に飛び乗った桔梗が、目礼して畏まった。

「……俺が健在であることを、一目瞭然で殿上に知らせなければならない。先に行き、左右大臣を始め、八条宮以外を密かに召集するのだ。……残念だが、方方歩き回る


体力は、今の俺には無い」

「畏まりました」

倒れた葵を一瞥した桔梗が、東宮の決意が固い事を見て取ると、凛として頷いた。拝命した桔梗が瞬時に去ると、双眸を閉じた東宮が脱力し、束の間に体を休めた。



黎明の稜稜とした月に、吹き付ける風が尚一層冴え返る。早朝開いたばかりの応天門から、凛冽なる冷気が殊の外染み入る大内裏を急ぎ駆け抜けると、桔梗が朝堂院の扉


を開いた。

「これは……一体?」

通常であれば朝議前の人で溢れ、囂囂たる様相の朝堂院が、唯ひとりの姿も見当たらない。驚いた桔梗が朝堂院を守護する衛兵に尋ねると、衛兵が俯き様にひと言答えた


「摂政様の急な御召があり……殿上人は皆、清涼殿に向かわれました」

顔色を変えた桔梗が胸騒ぎを覚えると、急急として清涼殿に向かった。


「おやめ下さい!」

「御止まり下さい!」

悲鳴にも似た諌奏が、四方八方から木霊する。清涼殿東庭にぐるりと輪になり立たされ、槍先を突き付けられた殿上人が、必死の形相で声を張り上げ悲憤する。

涼やかに佇む八条宮が、したり顔で悦に入ると、足下に緊縛した薫を見遣る。非難の声が怒涛となればなる程、嘆きの声が高まれば高まる程、恰も拍手喝采の栄誉を受け


るが如く、八条宮が甘美な陶酔に打ち浸る。

「八逆第三、謀叛の罪により、ここに綾小路を死罪とする。摂政である私の言葉は、帝の意に同じである。私の意志こそ、勅意なのだ。お前達も、身に染みて覚えておく


のだ」

誹謗中傷の怒号が飛び交う中、八条宮が指を鳴らすと、白い壺を抱えた役人が歩み出る。怒声が一瞬にして鳴り止むと、総容が息を吞み、未曾有の恐怖に凍り付いた。

「よく、見ておくがいい」

執縛して座らせた薫の髪を引き掴み、強引に開かせた薫の口に、八条宮が白い壺の液体を無理矢理流し込む。息吐く間も与えず全てを凶暴に飲み干させると、服毒の虐刑


を被った薫が、その場に崩れ落ちた。

「!」

心からの快感を得た八条宮が、にいっと獰悪なる笑みを浮かべると、無表情なる知長を清清と見遣る。しんと静まり返っていた殿上人が悉く紅涙を浮かべると、慷慨を胸


に深く刻み、恨みに満ちた罵詈雑言を浴びせ掛けた。

「何と言う事を……!」

「東宮様の許可なく処刑を執り行うは、いかに摂政と雖も大罪じゃ!」

「黙れ! 同罪になりたいか!」

恫喝した八条宮が、禍禍しい形相で八方を睨み据える。

「東宮、東宮などと……忌ま忌ましい。奴は、とうに死んでおるのだ、分からぬか!」

激昂した八条宮が、背後の衛兵に向き直る。

「刀を貸せ!」

ひったくる様に太刀を奪い取った八条宮が、倒れた薫の首を狙い太刀を振り翳すと、総容が唖然として息を吞む。

「……お待ち下さい。一体、何をなさるのですか?」

自らの太刀を奪われた役人が、八条宮の暴挙に驚き、恐怖を押して口を開いた。

「知れた事よ、死にかけの東宮に此奴の首を投げ入れ、冥土の土産に持たせてやるのだ」

冷酷非情に八条宮が太刀を振り下ろす。

ぶんっという聞き慣れない重低音が鳴り響いた。

「!」

残酷非道なる光景に、殿上人が哀傷非絶に目を覆う。

「ぬぁ?」

刹那、突如として発せられた八条宮の頓狂声に、異変を察した殿上人が、恐る恐る目を開ける。果たして、どこからともなく飛来した長槍が八条宮の袖衣を貫き大地に深


く突き刺さると、両手を振り翳したままの恰好で動きを封じられた宮様が奇声を発し、槍を引き抜こうと醜悪に踠いていた。

長槍の軌道を見極めた兵衛大将が、迷う事無く紫宸殿に瞳を凝らすと、歓喜の声を上げる。

「何と! ……東宮様!」

「何!」

「まこと、東宮様とな?」

「東宮様じゃ!」

遠目に槍を投げ終えた東宮の姿を認めると、殿上人が欣喜雀躍するなり紫宸殿を仰ぎ見る。無上の喜びに湧く東庭に大歓声が湧き起ると、先程まで殿上人に槍を突き付け


ていた兵衛の兵が悉く踵を返し、八条宮に槍を突き付けた。

「ぐうっ……くそぅ! そんな筈は無い! 大津は死んだ筈だ!」

喚き散らした八条宮が、遠く紫宸殿を睨み据えると、刹那、にいっと陰湿に笑った。歓然として大挙するなり紫宸殿へと駆け寄った殿上人が、突如として齎された凄惨な


状況に、悲痛なる絶叫を上げる。

くらりと傾いた東宮が、ふっと倒れ込むなり欄干を超え、真っ逆様に墜落した。咄嗟に欄干を蹴り飛び降りた信頼を始め、兵衛の舎人や殿上人が身を挺して東宮を受け止


めると、熱を帯びた東宮のあまりの熱さに驚き、蒼白となる。

「東宮様、お気を確かに!」

「……東宮様!」

古今無双の暴れん坊であり極めて強健と名高い東宮でさえ、陰謀の結果として被ったこの恐るべき窮地に、若き殿上人が宮中に潜む底知れぬ恐怖を思い知ると、総並に震


え上がる。

やがて薄らと目を開けた東宮が、信頼の姿を認めると口を開いた。

「信頼、肩を貸せ。……薫の……元へ」

「東宮様……」

唇を噛み締めた信頼が静かに頷くと、兵衛の舎人が急ぎ輿を用意した。


恰も視界に無きが如く、槍で囲まれた八条宮を捨て置いたまま、輿を降りた東宮が静かに薫に歩み寄る。歩むにつけ、より鮮明に映ろう筈の薫の姿が白くぼやけて霞がか


った。

「薫」

がくんと膝を折った東宮が、両手を地に突き、肩を震わせ慟哭する。

「……済まなかった」

項垂れた東宮から、熱き涙が止め処なく流れ出ると、薫の頬に滴り落ちた。


けたたましい悲鳴が上がり、俄かに八条宮の周りが騒然となる。衣を引き裂き、地に刺さった槍を漸くにして引き抜いた八条宮が、無闇矢鱈と槍を振り回すなり必死に抵


抗する。捕縛しようと兵衛の舎人が取り囲んだ瞬間、黒い影が走り込むなり、八条宮が腕を斬られて負傷した。事態を敏に察した信頼が、東宮の背後からそっと囁いた。

「……東宮様、八条宮を狙う曲者が現れた様です。放っておかれますか?」

悲愴の果てに、奈落の深潭に埋没した東宮が、黙然として傷悴する。

「あれは……嘗て東宮様の帯刀先生を務めていた、源直孝ではないのか?」

薫を失い、最早自他共にどうでも良いと感じていた東宮が、左大臣の言葉にふと振り返る。逮捕せんとする兵衛の舎人が戸惑いを隠せず、八条宮を狙い斬り掛かる直孝を


防いだら良いのか、そのまま放置し、好きに斬らせておくべきなのかと逡巡すると東宮を仰ぎ見た。

「……直孝、なのか?」

東宮が漠然とした双眸を向けた。

「貴様等、邪魔立てすると、容赦はせぬぞ!」

殺気立った直孝が、介入しようとした兵衛の舎人を跳ね除けると、太刀を大きく振り回す。数人の舎人が負傷すると、眉を顰めた信頼が東宮に進言した。

「八条宮が如何に憎かろうと、罪の無い舎人を巻き込む訳には参りません。ここは八条宮を捕縛する為にも、私が帯刀を抑えましょうか?」

憎かろうと、罪の無い舎人を巻き込む訳にはいかない……。

信頼の言葉に、ふと薫を見遣った東宮が、唇を噛み締め震わせた。

かつて公済に斬り掛かった際……断じて殺すなと俺を制したのは、お前だった……。

慈悲深いお前は、敵さえ守り……常にひとりの犠牲も許さなかった……。

慈愛に満ち、聡明なお前が、こんな不条理な死に方をするのか? 

俺には未だ、信じられない……。

……そして、お前が守り残した者達を、再び俺は失うのか?

ふっと我に返った東宮が、信頼に敢然と向き直る。

「……直孝は強い。自暴自棄になっている今、制するのは至難の業だ」

「しかし、このまま放置する訳にも参りますまい」

信頼の憂慮に、頷いた東宮が呼吸を整える。

「信頼……舎人を護り、殺さぬ様に八条宮を捕えろ」

「しかし、東宮様の御身が万全では……」

躊躇した信頼に、東宮が凛とした炯眼を欹てた。

「先に突入し、直孝を八条宮から引き離せ。呼吸を合わせろ。一瞬で、けりを付ける」

東宮に視線を合わせた信頼が神妙に頷くと、滑らかな動きで疾走する。瞬く間に八条宮と舎人、直孝が入り乱れた混戦に参入すると、八条宮を庇い次第に後退させ、それ


となく直孝との距離を保ち、舎人に囲ませる。

八条宮を猛追する直孝が、攻撃の隙を伺い猛然と太刀を繰り出すと、八条宮を擁護する信頼に鋭く切り込んだ。紙一重で凌いだ信頼の袖が峻烈なる太刀風に寸断され千千


に切れ飛ぶと、巧みな足捌きで瞬時に軸足を引いた直孝が、次の瞬間、大きく体を回転させるなり信頼に強烈な足蹴りを食らわせた。咄嗟に両腕を組み、しかと防御した


信頼が、大きく後方に吹き飛ばされる。無防備な八条宮が露わになると、透かさず上段の構えを取った直孝が軸足に力を込め、怒涛の連撃を打ち込んだ。

 八条宮の手にした槍が木端微塵に打ち砕かれると、正眼に構えた直孝が鬼の咆哮を上げ、八条宮に襲い掛かる。渾身の一撃を加えた刹那、直孝の太刀が虚空に舞った。

じんとした両腕の痺れに、はっとした直孝が眼前を見据える。下段の構えから、鞘ごと一挙に振り上げた東宮の太刀が、眉間にびたりと突き付けられていた。

「……そこまでだ、直孝」

「……東宮様」

ぎりりと歯を噛んだ直孝が、屹度東宮を仰ぎ見る。

「お退き下さい。其奴が庇護に値しない残虐非道な鬼畜である事は、貴方様も身に染みて御存知の筈。何故に、庇われるのです」

「……お前の為だ」

東宮が凛として、揺るぎ無い双眸を向けた。

「私の為……?」

直孝が顔を歪めると、到底不服とばかり嘲笑する。東宮が、直孝をじっと見つめた。

「俺がこうして東宮である以上、摂政などという此奴の妄言は全て無効だ。仮令奴の言葉通り帝の恩赦があったとしても、回復するのは皇族の身分だけであり、官位の授


与は無い。……だが、分かっている筈だ。官位が無くとも、皇族を手に掛ければ八逆の罪は免れない。結果、お前の恨みは晴らせても、お前の命も断たれる事になるのだ


ぞ?」

東宮の言葉に感情を爆発させた直孝が、屹度険相な顔を向けると、剥き晒しの心情を峻烈に迸らせた。

「恨みが晴らせる……? 愛する子供を失った身に、晴らせる恨みなど、ある筈無いではありませんか! ……此奴を殺しても、もう息子は戻らない! だが、此奴がの


うのうと生きている事だけは許せない! ならばせめて、此奴の命で償わせる! それだけです。……私が命を長らえた所で、それが何だというのです! これから先、


私ひとりが生きた所で、何になるというのです!」

有りの儘にぶつけられた激情に、ふっと伏し目がちに視線を落とした東宮が、寂寞として憫笑するなり、人知れず呟いた。

『それでも俺は、生きねばならない……』

視線を上げ、しかと直孝を見つめた東宮が、柔和に微笑んだ。

「安心しろ、お前の息子は生きている」

「! ……しかし忠孝(ただたか)は、崖下の急流に落とされ……そのまま……」

動揺する直孝が、東宮の双眸深く凝視する。

「俺の配下が助けたのだ。二条院にて、保護している」

直孝の両瞳から、涙が漣漣と溢れ出る。固く握り締めた両手から、がらんと太刀が転がり落ちた。


「ははははは……!」

突如として高笑が辺りに鳴り響く。二人の会話を盗み聞いていた八条宮が、得たり顔を向けるなり大いに笑うと、愉快千万に口を挟んだ。

「直孝! かねてより切れ者と踏んでいたそちも結局、己の事となると盲目だな! 大津の言葉を、鵜呑みにするのか?」

眉を顰めた直孝に、陰湿なる笑みを浮かべた八条宮が、滔滔と語り掛ける。

「お前の倅は、早、死んでおる。大津の狙いが、まだ分からぬか? 文武両道に秀でた守役の綾小路に先立たれ、そちにまで死なれては、己を護る帯刀に事欠く。なれば


こそ、己の為に、そちを失うものかと躍起になっておるのだ」

降って湧いた妄言に、その場がしんと静まり返る。呆れ果てた東宮が嘆息した。

「子供は無事だ。奴が佞奸である事は、百も承知の筈だ。讒言に惑わされるな、直孝」

「ほう……生きておると、言い張るか。……だが、息災(・・)ではあるまい?」

極悪なる笑みを浮かべた八条宮が東宮を一瞥し、直孝の瞳を窺い動揺を垣間見る。安堵と不安に翻弄される直孝を佞悪邪智に見下すと、懐から小瓶を取り出した。

「ふふ……そちにも、懐かしい代物だろう? これで、全ての意味が分かった筈だ。そちの倅が生きているというのなら、時間の問題でいずれ死ぬ」

「!」

蒼白となった直孝が、瞠目するなり東宮を凝視した。

「……まことなのですか、東宮様?」

「心配無い。奴が行使する腐毒を最も知っているのは、この俺だ。忠孝は、必ず助ける」

毅然と頷いた東宮に、誠信を得た直孝が、豁然として八条宮を睨むなり牙を剥く。

「卑怯な! 年端の行かぬ子供にまで毒を盛るとは! 恥を知れ!」

「ふふ……だから、浅慮だと言うのだ」

居丈高なる直孝の非難に些かも動ぜず、譎詐に長けた八条宮が余裕綽綽として物語った。

「あれから何年経ったと思っておるのだ……。嘗て大津に破られた毒を、何の改良もせず用いる私だとでも思うのか?」

愛おしそうに小瓶を見遣った八条宮が、あざとく揺揺と振って見せる。思いも寄らぬ話の展開に東宮が眉を顰めると、直孝が思わず息を吞む。

「嘗ての腐毒に改良を加えた『新型』だよ。……もっとも……人間に使用するのは、初めてかもしれぬなぁ」

「!」

空惚けた口調で得意満面となった八条宮が、懐から別の小瓶を取り出した。奸悪にして、巧詐に優れた八条宮が、嘘か誠か分からぬ話を言葉巧みに展開する。

「治療薬はほれ……微量ならば、ここにある。だが、お前の子供を完治させる量となると……潜伏先の屋敷にまで戻らねばならぬなぁ」

独壇場の如く熱弁を揮い、直孝の心理を思いのままに引き込むと、狡猾を極めた八条宮が徐々に己の益へと誘導する。

「ふふ……直孝、倅の命が大切ならば、私をここから救い出し、屋敷まで護衛するのだ。そうすれば、必ず渡してやろう」

「直孝、惑わされるな。全て、奴の得意とする佞言だ」

次第に苦悶の表情を浮かべ始めた直孝を見て取ると、剛毅果断なる東宮が牽制する。八条宮がもっともな令色を浮かべると、真しやかな巧言を弄した。

「ふっ……そちも散散、目の当たりにしただろう? 大津が腐毒に何度も耐えられたのは、醍醐などという薬の御蔭などではない。化物染みた体力があったからなのだ。


嘗て私も同じ毒害を被ったが、密かに解毒薬を用いる事が出来た私の立場と異なり、今、新型の腐毒に苦しむそちの息子に、醍醐などという妖しい治療薬が有効だとでも


思うのか? さあ、冷静に考えよ。(いた)(いけ)な子供であるならば、私の持つ解毒薬無くして、助かる筈が無いではないか」

「くっ……」

「直孝、出鱈目だ」

追い込まれた直孝が、ぎりぎりと牙を噛む。

「さあ、何を迷う? 子供が大事なのではないのか?」

「ぐうっ……」

畳み掛けた八条宮が、ひらひらと小瓶を弄び挑発する。観念した直孝が瞳を上げた刹那、眼前を一陣の風が過った。

「!」

八条宮の両手から、一瞬にして二つの小瓶が消失すると、東宮の御前にひとりの女官が恭しく跪く。

「桔梗」

東宮が静かに微笑むと、労を労った。

「東宮様、参上が遅れました。……どうぞ」

「御苦労だった」

桔梗の働きにより、いともあっさりと小瓶を手にした東宮が、呆然と佇む直孝に小瓶をしかと握らせる。

「二条院に、急ぐといい」

恩顔で促した東宮が、直孝の肩に手を添えた。

「最早、何も考えるな。……ただ、お前の日常に、戻るのだ」

「東宮様……」

小瓶を握りしめた直孝が、肩を震わせ噎び泣くと、唯々何度も頷いた。


「桔梗?」

蒼白となった八条宮が、目を瞬かせるなり瞠目する。

「まさか……八年前に行方不明になったとばかり、思っていた。……無事だったのか」

東宮に傅き、その足下に黙然と控えた桔梗が、敵意を露わに八条宮を睨まえる。桔梗の動静を鑑み、俄かに湧いた疑念に激しい憎悪を抱いた八条宮が、勃然と激昂した。

「桔梗! ……まさかお前、宿敵である東宮に寝返ったのではあるまいな!」

「……寝返った?」

振り返った桔梗が凄凄と表情を凍らせると、苛烈に八条宮を非難した。

「異な事を。私の主はこの世に東宮様、唯おひとり。貴方には積年の恨みこそあれ、それ以外の感情などありません」

「何だと? 育ててやった恩を忘れたのか!」

取り付く島も無い桔梗の冷酷な態度に、八条宮が憤然と激怒する。

「生来より貴方から間接的に禄を下され、良い様に使われていた事だけが、私の恥であり業罪です」

「何を言い出す!」

「桔梗」

東宮が顔を曇らせるなり、窘める。極度の貧血により時折ふっと遠退く意識の狭間で、己の限界を見極めた東宮が、ようやくにして意識を保つと、命令を下した。

「八条宮を拘束し、そのまま檻車に入れ、堅牢無比な二条院の牢に連行しろ。日を見て、処遇を決める。信頼は清涼殿に行き、俺の輦をここへ……薫を連れ帰る」

「はっ」

薫に歩み寄ろうとした東宮が、俄かに激しい動悸を覚えると、胸を抑えてその場に暫し蹲る。咄嗟に背後から東宮の肩を抱いた桔梗が悲涙を浮かべ、東宮を諌めた。

「東宮様……。今、歩かれるのは御体に障ります。どうか、輦が来るまでお待ち下さい」

「少しでも……薫の傍に、居たいのだ」

片手を突き、動悸と眩暈に苛まれながら、東宮が静かに呟いた。

「東宮様……」

唇を震わせた桔梗の両瞳から、汪汪とした涙が溢れ出る。

「では、では……どうぞ私の肩を、御杖代わりにお使い下さい」


異父妹と雖も今の今まで愛情など無く、都合の良い手足としか感じていなかった筈の桔梗の存在が、身体を拘束され、俄かに全てを奪われた今となっては、恰も怨敵に略


奪されたかの如く、途轍もなく巨大な喪失感となって圧し掛かる。

何故……身内である筈の桔梗までもが、大津に靡くのだ!

どうして……皆が大津に傅くのだ!

彼奴が生きている限り、我が全ては奪われ続けるのか……!

帝位も……人心も……全てが! ……全てが!

おのれ……許せるものか! ……断じて、許してなるものか!

鬼気迫り、舎人の執縛に必死で抵抗する八条宮が、言葉にならない猛烈な嫉妬に駆られると、怨念に満ちた励声を張り上げた。

「桔梗! そなた、異父兄である私を蔑にするとは何事か! 恥を知れ!」

「……兄?」

驚いた桔梗が一瞬戸惑いを見せるなり、背後を振り返る。

「桔梗! 大津の許に居るなど許さぬ!」

執縛する舎人に噛み付き、体当たりで弾き飛ばした八条宮が、そのまま猛然と桔梗に迫る。東宮を護る為、桔梗が咄嗟に自分の傍から東宮を突き放すなり八条宮に向き直


る。次の瞬間、八条宮がしたり顔で桔梗を踏み蹴り上体を転じると、忍ばせた刀子を手に、東宮の背後から襲い掛かった。獰猛な殺気に、反射的に振り返った東宮が、酷


い眩暈に見舞われ、意識を失って崩れ落ちる。

「東宮様!」

「!」

絶叫する桔梗に総様があっと息を吞んだ瞬間、深深と肩に太刀を受けた八条宮が、彼方に吹き飛び昏倒する。駆け寄った舎人が直ちに八条宮を縛り上げた。

悠然と東宮に歩み寄る人影の確かな足取りに、時を止めた総容が唖然と見入る。

ふわりとした気配に、夢うつつとばかり双眸を開いた東宮が、微笑を浮かべた。

「……迎えに来たのか」

しかと東宮を抱き起こした薫がふっと微笑むと、艶然として口を開いた。

「……三途の川は、渡っていない」

愁眉を開いた東宮が、穏やかな視線で目笑を交わす。

「今度ばかりは……お前を失ったと思った……」

慈愛に満ちた深き瞳が東宮にそっと寄り添うと、凛として薫が答えた。

「お前を必ず守ると誓ったのだ。そう簡単に死ぬものか」

東宮の額に手を当てた薫が、東宮を静かに抱き上げる。

「酷い熱だ……二条院へ帰ろう」

「お前を迎えに来たのだが……お前に連れ帰られるとは……滑稽だな」

くっくと笑った東宮が、自嘲するなり薫を見遣る。

「だが……これで俺も、漸く休める……」

ふっと脱力するなり無防備になった東宮が俄かに意識を失うと、背後の薫に全身を預けた。


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