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浸潤する悪意

「薫様、只今戻りました」

二条院東宮私室の襖がすっと開くと、姿を現した信頼が膝を突き一礼する。

「御命令通り、黒杉殿を連れて参りました」

信頼に伴い入室した医師姿の男性が深深と平伏すると、口を開いた。

「……薫様、お久し振りでございます」

慈愛に満ちた微笑を湛えながら、薫が静かに頷いた。

「久方振りだね、黒杉殿。典薬寮での働き、目覚ましいと聞き及んでいる。流石は公済様の直弟子だと感心しているところだよ。……どうやら、天職だった様だね」

思わぬ賛辞に、黒杉が大いにはにかみ委縮すると、再び平伏する。

「……東宮様始め薫様の御厚情により、典薬寮に配属された私は、榊白山殿の御教示の下、格別のお引き立てを賜り、常々身に余る厚遇と、深甚感謝申し上げておる次第


です」

緊張してがちがちに凝り固まった黒杉に、信頼が思わず噴き出すと、薫が艶然として黒杉を見遣る。

「……ふふ、そう緊張しなくていい。……公済様は、その後どうされている?」

やんわりとした薫の視線に、ふっと肩の力を抜いた黒杉が顔を上げる。

「はい……。東宮様とお約束された通り、余生はいち僧侶として全うすると仰り、信濃国へ旅立たれました」

「ほう……信濃国とは……もしや」

眉を上げた薫が、深き海を思わせる双瞳で黒杉を見つめる。

「はい……。信濃国の善光寺には、男女や宗派の別無く、また身分に拘らず、全ての衆生をお救い下さる阿弥陀如来様がいらっしゃると……。まさしく公済様が目指され


る救済の姿であると仰られ、生涯戻らぬ覚悟で旅に出られました」

「そうか……」

穏やかな微笑を浮かべた薫が、寂寥の内にも感銘深く頷いた。

暫し静黙していた薫が席を立つと、背後の御帳台に歩み寄り、薄絹の帳をふわりと開く。

「君を呼んだのは他でもない。……東宮が毒でお倒れになった事は、知っているね?」

薫がじっと黒杉を見つめる。

「……はい。典薬寮の侍医より……未だ、意識不明の御重体であると伺っております」

どうにか答えた黒杉が、恐懼するなり震え上がる。ある程度の予測をしていたとはいえ、国家枢機の秘密である筈の東宮の容体に言及した薫に、自らが負うべき過分な重


責を予見した黒杉が、迫り来る重圧に緊張する。

「……東宮は昨夜、夜御殿にて、杯に塗られていた河豚毒を酒と共にひと息に吞み、毒と気付いて直ちに吐き出された。だが即効性の猛毒に加え、直後に戦闘となる状況


下に陥り、麻痺、硬直から意識を失ってお倒れになった。……その後、幸いにも毒に打ち勝ち、先程意識を取り戻された」

「何と! ……河豚毒?」

顔色を変えた黒杉が、衝撃のあまり思わず身を乗り出した。

「……しかも早、意識を取り戻されたと? ……信じられない……」

瞠目した黒杉が我が耳を疑うなり、呆然と我を失った。……全てが、驚異的だった。

盛られた毒が解毒剤の無い猛毒であり、当たれば確実に死ぬと言われる河豚毒であり、吐いたとはいえ体内に侵入を許したまま戦闘に及び、自ら浸潤を加速させたなど…


…結果として被った麻痺と硬直で昏倒しながら、自らの気力体力で覚醒したとは……有り得ない。

緘黙したまま言葉を失った黒杉を見て取ると、薫が冷静に口を開いた。

「……驚くのも無理は無い。……少し、説明が必要な様だ」

静臥する東宮に目を配り、慧眼を欹てた薫が信頼を見遣る。

「信頼、暫しの間、隼と共に東宮を頼む。……黒杉殿、ついて来給え」

信頼に後を任せた薫が席を立つと、黒杉を促した。


迷路の如き通路を通り、人気の無い中庭に出ると、鬱蒼とした森林に囲まれた小道を通り、簡素な小屋が眼前に現れる。

「ここは……?」

戸惑いながらも辺りを見回す黒杉に、薫が無言のまま施錠された小屋の錠を開け、扉を開いた。室内を垣間見た黒杉が、異様な光景に度肝を抜かれて思わず後ずさりする


淡淡として黒杉を招き入れた薫が、室内に設置された椅子を勧め、自らも腰掛ける。

「……ここは、二条院の中でも、私と東宮しか存在を知らない場所なのだ。棚には典薬寮と同等か、それ以上の薬草と毒薬が並べられている。現在、国内外で入手できる


ものは勿論……未知なるものも幾つかある」

厖大な量の瓶や陶器、夥しい数の書籍が所狭しと並べられた棚に、黒杉が唖然として圧倒されると、ふとした疑問が口を衝いた。

「……今、ここを御存じなのは御二方だけと仰いましたが……。典薬寮頭・榊白山様の御令息である葵様は東宮様担当の侍医であり、東宮様と薫様とは無二の親友である


と伺っています。此度も東宮様がお倒れになって以来、ずっと葵様が侍医として診療を担当されておいでの筈……。他の者はいざ知らず、侍医としての技量も申し分無く


、御二方とも竹馬の友であられる葵様が、これだけの医学的標本と資料を揃えた場所の存在を御存じないとは……どういう事です?」

刹那、冷艶なる微笑を浮かべた薫が、恐るべき言葉を口にした。

「それは……ここが、禁忌に抵触する場所だからだ」

「禁忌?」

思わずぞっとした黒杉が、息を吞む。

静かに席を立った薫が、背後の扉をすっと開いた。不意に現れた居住空間には寝台が二つと生活に必要な調度が整えられ、水回りも完備されていた。

「これは……?」

不思議な顔で凝視する黒杉を黙止したまま、棚に歩み寄り小瓶を手にした薫が椅子に戻り座り直すと、ことんと瓶を差し置いた。

「……これが、最初だった」

とりあえず瓶を手に取ると、ひと通り検分した黒杉が慎重に栓を開ける。手を仰いで臭いを嗅ぎ、首を傾げて覗き込むと、何らかの液体が入っていた。

「中身に触れては危険だ……それは嘗て、八条宮が東宮を暗殺する為に用いた『腐毒』だ」

「暗殺……腐毒?」

驚いた黒杉が、恐る恐る栓を閉めると卓上に置く。

「そうだ。食中毒を引き起こす毒で知られ、何処にでも存在するものの仲間ではあるが、これは中でも非常に凶悪な毒素を持つ性質でね……気を付けた方がいい」

専門的とも思える薫の指摘に驚くと、黒杉が神妙に頷いた。ふと、大机に山積した冊子に、毒物名の表題と共に日付が振られているのが目に入る。

……大量の毒物や生薬の標本に、本草学を始めとする医学書……居住空間が完備された施設に、毒物名の記録書……医師ではないが、驚く程に博識な薫様……。

「まさか……これは……。この部屋の目的は……」

記録書を手に取った黒杉が、俄に生じた忌むべき疑念にはっと口を慎むと、心胆から震え上がる。冷汗がつうと流れ出た。

「そう……狂気の実験と、その記録だ」

薫が淡淡として、黒杉の懐疑をずばり言い当てた。

「誰が……いや、まさか……」

動転した黒杉が口籠る。東宮様と薫様しか知らない部屋に残された厖大な実験記録……。医師である葵様にさえ秘密とされた人体実験の……実験者は? 被験者は一体誰


なのだ? ……ここは、凄惨な虐殺の現場なのか?

「私が毒を飲み……東宮も毒を飲む。僅か一滴から始め、少量ずつ、死なない程度に限界まで増やし、治療薬を試す……。時機を見てこの小屋に籠り、実験が完了するま


で決して出ない。……一般に信じられていた治療が真でもあれば、効果が無い事も多々あった」

薫が感情を挟まず、残酷極まりない事実を告げる。

「なんと……何と、恐ろしい事を……薫様」

東宮と薫の惨忍な極秘実験に恐怖しながら、ふと自らの言葉に違和感を感じた黒杉が押し黙る。だったら自分は……どうなのだ? ……私に、薫様を責める資格があると


でも? 

黒杉の脳裏を、敬愛する公済がふっと過る。嘗て麻薬の齎す副作用を憂慮された公済様は、御自ら献体され……我が身を犠牲に治験者となられた。

私は……いや私こそが、公済様の自己犠牲の崇高なる精神を良い事に、自分のみ無傷で、葵様に殺人行為と罵られる……悪魔の実験を行った張本人ではないか! 

……そんな私に、どうして御二方を責めることが出来よう? 激しい自責の念に駆られた黒杉が、俄に苦悶の表情を浮かべるなり甚だ煩悶する。

懊悩する黒杉を見つめ、寂寂とした薫がふっと自嘲した。

「君の言う通りだ。一歩誤れば、自死を被る背徳の行い……。それどころか私にとっては、命に代えても守るべき東宮が、眼前で生命の危険に晒されると承知しながら、


諌止しなかったという……八逆以上の大罪となる。医師である葵の倫理にも悖る、許されざる行為だ。だからこそ、今まで東宮と私以外に誰ひとり、この秘密を知る者は


無い」

「どうして……どうしてそこまで……」

自らの危険を顧みず、壮絶な覚悟で非道なる実験に身を呈した東宮と薫に、ただただ驚嘆し、また大いに畏怖した黒杉が絶句する。

稍あって、欝悶していた黒杉が口を開いた。

「暗殺……を防ぐ為ですか?」

薫が静かに頷いた。

「どんなに用心していても、毒見や検分を擦り抜ける害毒がある。防衛に尽力したとして、どうしても避けきれない場合もある。……毒を知ることは毒害を未然に防ぐ防


御に繋がり、解毒の処方を得る事は、毒害を免れ身命を守護する有効な手段となる。……だからこそ、自ら制御可能な領域で限界内の危険を被り、対応策を模索してきた


。確かに残酷非道だが、こうして得た経験と知識が、嘗て絶体絶命の窮地にあっても希望となり、また最強の自己防衛手段でもあったのだ」

凛とした薫が黒杉を見つめた。

「禁断の実験で明らかになった事は、大きく分ければ二つある。病原由来の毒素であれば一度の罹患で免疫が付く類もあるが、それ以外の有害物質……所謂『毒』の摂取


による中毒に関しては、何度飲み慣らしても症状が軽く収まる事は無い。毒への『耐性』は出来ないという事だ。それともうひとつ……東宮の特異的な体質が明らかにな


った」

「東宮様の、特異的な体質?」

医師として大いに興味はあるものの、自らの罪を暴露し、東宮の恐るべき体の秘密にまで言及した薫に、これ以上の機密を聞くべきか聞かざるべきか、この期に及んでな


おも逡巡する黒杉が進退を窮めると、葛藤した胸奥がばくんと破裂しそうな痛みに苛まれる。

悶悶とした黒杉を見遣り、委細構わず、薫が結論を述べた。

「……東宮は、毒物や病毒に対しての感受性と許容量が私と大きく異なる。……つまり、河豚毒の件でも明らかな通り、致死量が大きく異なるのだ」

「!」

全てを聞いた黒杉が、思わずがたんと席を立つ。

最早後戻りできない最高機密の保有という恐怖より、猛毒を克服したという東宮の不可思議な事実を、論理的に納得した喜びの方が大きかった。深く得心した様子の黒杉


に、薫が本題を切り出した。

「河豚毒を見事に克服された東宮だが、お目覚めになって間も無く、先程高熱を発してお倒れになり、現在は再び昏睡状態にある」

「何と?」

吃驚した黒杉が首を捻った。

「河豚毒では、発熱の症状はありません……。何か、別に原因がおありなのでは……」

「その通りだ。突然の発熱に、極度の貧血が見受けられる。数日経過を見なければ断定はできないが……」

頷いた黒杉が、神妙な顔になる。

「『おこり』の可能性が高いですね。しかし、季節は冬……。蚊など居らぬ季節ですのに……感染経路が不明ですね」

「東宮は、二週間ほど前に刀傷を負われた。おそらく、その刀が病原に汚染されていたのだろうと思われるが……」

薫の見解に、黒杉が成程と合点する。

「……だとすると、潜伏期間とも合致しますし、『瘧』である可能性が高いと思われます。ですが、思い込みは何より危険です。まずは時間を掛け、慎重に経過を診て診


断しなければ病名の確定はできませんが……」

刹那、饒舌だった黒杉がはっとするなり、慌てて言葉を吞み込んだ。

……診断? ……何を言っているんだ、私は? ……葵様が侍医でいらっしゃるのに、差し出がましい事この上ない。……いやそんな事より、さっきまで……東宮様の御


体の秘密を知るだけで気息奄奄として、大いに恐れていた筈ではないか。

……やはり、私は何という罪深い人間なのだ。公済様の高遠な信念を良い事に、人倫に悖る実験に手を染め……今また、葵様という立派な侍医がいらっしゃるのに、不遜


にも『東宮様を診断』などと……。なんという無礼、なんという厚かましさなのだ……。

眉を寄せ、甚だしい自己嫌悪に駆られた黒杉が、激しい後悔に唇を噛むなり俯いた。

「……お許し下さい、薫様。私は、なんと無礼で傲慢な事を……」

胸前に組んだ手を震わせ、委縮し項垂れた黒杉の頭上に、清麗なる薫の声が鳴り響く。

「君が謝る必要は何もない。……寧ろ、それでいい。……だからこそ、君を選んだのだ」

「え?」

予想外の薫の言葉に、黒杉が目を瞬くなり薫を見つめた。

「……医師の本分は、誰より臆病で慎重でありながら、真実を見極める鋭い観察眼を持ち、諦めない強い心と忍耐力、そして勇気が必要だ。君は、実にその本質を兼ね備


えている。謙虚で慎重でありながら、医師としての好奇心が、時に大胆な行動を可能にする。そんな君を見込んだからこそ、頼みがある。……東宮を診てくれないか」

黒杉が耳を疑った。

「! ……なんと仰いました?」

「医師として、私と共に東宮を守り……助けて貰いたい」

「医師として……私が……助ける?」

仰天した黒杉が、腰を抜かしそうになる。黒杉は自分を呼び出した薫の要件を、東宮様に毒を盛った犯人を突き止めた薫が、報復に手を貸す事を強要するのではないかと


思い込んでいた。およそ想定外の申し出に、うろたえた黒杉が言葉に詰まる。

「あ……葵様がいらっしゃるのでは?」

頷いた薫が、端然と答えた。

「葵は現在、東宮の命で皇后様の治療に全力を挙げている。……暫くは、戻れない」

「で……ですが、私は身分も低く……何より、非道な実験に手を染めた凶状持ちです」

「……それは、私も同じだ」

薫がやんわりとした瞳で、艶然と微笑んだ。

「私……私は、貴方様に毒を盛った経緯もあり、東宮様にも敵対した過去があります。とても許される事ではありません」

「あの時は、公済様の命で、そうしただけの事……。過去は、関係ない」

言い切った薫に、涙ぐんだ黒杉の唇がわなないた。

「……敵であった私に、東宮様を任されるなど……御心配ではないのですか?」

「私は、命に代えても東宮を守る。君も公済様も……今なら、そうではないのか?」

刹那、薫がじっと黒杉を見つめる。

深き海の如く慈愛に満ちた薫の双瞳に、死病を抱えながらも、ひとり決意して旅立った公済の姿が映ろうと、言い残された最後の言葉が燦然と蘇る。

『……なんと幸せな事だろう。最早、迷いは全て吹っ切れた。今や、一片の心残りも無い。唯、いち僧侶として……全うするのみだ』

目頭が、じんと熱くなる。

……深き焦燥感に苛まれ、大破壊にのみ救済を見出されていた公済様が、東宮様と薫様により真の阿闍梨に解脱され、あの様に安らかな瞳で旅立たれた……。

……罪深い私の行いに、報復ではなく恩情を下された東宮様薫様……。今、御二方の窮地にあってもなお、卑賤なる私に御恩返しの奉公を強要されるのではなく、あくま


でひとりの医師として私を認め、必要であると仰って下さる……。

深き感銘を受けた黒杉の双瞳から、漣漣として感涙が溢れ出る。黒杉が頷いた。

「はい、薫様……。身に余る光栄、恐縮の極みですが、いち医師として……東宮様の御快復に、全力を尽くして励みます。医師の本分を……全うします」

艶然として歓迎の意を表した薫に、黒杉が何度も何度も……自らの言葉を噛み締めるかの様に、頷いた。


「信頼、そこに居るのだろう?」

不意に、薫がどこへともなく声を掛ける。声が掛かるや否や、音も無く開いた扉から信頼がひょいと姿を現した。

「恐るべき慧眼ですね、薫様。……御存知でしたか」

「ふふ、必ず来ると思っていた」

やんわりとした笑みを浮かべ、双眸を欹てた薫が信頼を見遣る。

「薫様が、信頼と隼に……と仰っていましたので、これは暗に東宮様は隼に任せ、私に殿を任せると御指示されたのだと推察しました。……僭越でしたか?」

ふっふと笑った薫が頷くと、満足そうに信頼を見遣る。

「いや、その通りだ。臨機応変に即応する君は実に俊敏で、この上なく心強い。……して、話は全て聞いたね?」

愉快至極に頷いた信頼が、拗ねた口調で言葉を返した。

「はい。……でも、私にとっても初耳の興味深い話ばかりでした。薫様、水臭いではありませんか。……まさか、私の忠義を御疑いですか?」

からかうような信頼の視線に、くっくと笑った薫が答えた。

「いや……君に話さなかったのは、別の理由だよ。……なにせ君は、この部屋の存在を知れば、喜んで利用する性質だからね。危険極まりない」

呆気にとられる黒杉を差し置き、図星を指された信頼が、心地良さそうに噴き出した。

「御明察です。……全て見抜いておられましたか」


「では……」

首に掛けていた小屋の鍵を外すと、薫が黒杉に手渡した。

「この小屋には、調薬に必要な全ての道具が揃っている。自由に使って貰っていい。二条院は、東宮に絶対服従を誓った者のみしか居らぬから安心ではあるが……ここに


いる信頼が、君の安全を保障する。何かあれば、彼に言うといい」

「……東宮様の御快復まで、薫様が黒杉殿と御一緒に治療されるのではないのですか?」

信頼の問いに、薫が深刻な顔を垣間見せた。

「勿論、出来得る限りそうしたいが……。主上も父上も不在の今、東宮の代理を有希皇子様が務められる事になり……殿上を放っておく訳にも行かない。帯刀を追わせた


茜も未だ戻らず……桔梗にも繋ぎをとらなければ……。やるべき事が、山積しているのだよ」

そこはかとなく蕭寥として、微微波立つ薫の心中を察した信頼が黙諾する。

……私ならば、東宮様の診察を依頼するのに、恩情を受け、命を助けられた身としては当然の献身であると、黒杉殿に強迫強要する所だった。だが薫様は、黒杉殿の医学


者としての資質を見抜き、敢えて重大な秘密の暴露を以て罪悪感や一切の遠慮を払拭させ、東宮様への心からの忠誠心を呼び起こし、医師として心身共に最大限の能力を


発揮し得る状況を整え治療に専念させた……。

薫様が時間を掛けて黒杉殿を懐柔したのは、御自身で東宮様を診れない状況を想定し、その間の危害を恐れた為……。そして敢えて私に後を追わせたのは、この部屋の管


理も含め、黒杉殿に与える権利が強大となり、その単独管理を危惧された為……。

全ては、東宮様の万全なる守護の為なのだ……。

黒杉を任された信頼が、緊張を新たに気を引き締めた。


「……では、では、私の任を解くと仰るのですか?」

ぶわっと涙を溢れさせた桔梗が、周囲を憚り、懸命に感情を堪えて嗚咽する。桔梗の両瞳から、止め処ない涙がはらはらと流れ落ちた。

「私の忠義には、一点の曇りもございません。……ですから、何卒といち様のお傍に……。交代などと仰らず……今まで通り、お仕えさせて下さいまし」

小屋に籠った黒杉の様子を報告する為、東宮私室を訪れた信頼が、ただならぬ気配を察し、部屋より漏れ聞こえる桔梗の哀訴に驚くと、暫し足を止め聞き入った。

「……それは、出来ない」

哀婉とした桔梗に胸を痛めながらも、凛として薫が応える。

「何故です、薫様? 私の力量不足を憂えておられるのですか?」

「いや……。だが、敵が八条宮と分かった以上、宮中は危険だ」

端的に理由を述べた薫に、一層の悲愁を湛えた桔梗が唇を震わせ、きゅっと噛み締める。

「……まさか、私が寝返ると……御疑いなのでございますか?」

「そうではない」

顔を上げた桔梗が、悔し涙を滲ませた。

「……いいえ、きっと御疑いなのです。私をといち様守護の第一線から外すのは……私が、かつて八条宮の禄を受けた身の上だからでございましょう?」

「桔梗、そうではない」

慧眼を欹てた薫が、はきと桔梗を窘める。桔梗が、感情をどっと迸らせた。

「……八条宮は長年、私を擁護すると見せ掛け、私を都合良く利用したのでございます。……今や恨みこそあれ、一片の情もございません! ……怯弱なる桔梗はあの時


、死んだのでございます。……どうぞ、お信じ下さいまし。今の私はただ、東宮様の御為に生きているのでございます。……東宮様の御為に死ねるのであれば、本望でご


ざいます!」

必死に訴える桔梗の弁を、誠意を以て傾聴した薫が、冷厳なる姿勢で口を開いた。

「東宮至上なればこそ……異存はあるまい。……此度は、二条院に留まるのだ」

絶望の淵に立たされた桔梗が、なおも哀求する。

「……ですが皇后様が御倒れになり、といち様とて暗殺の魔の手が払拭された訳ではなく、今こそ私がお守りせねばならない時に……。我が身の危険を理由に、窮地に瀕


したといち様の許を去るなど、あまりに勝手、あまりに冷酷非情な御命令ではございませんか」

涙に噎ぶ桔梗が愕然として項垂れる。哀切を覚えた薫が惻惻として、桔梗を促した。

「……心配せずとも、といち様の身辺は別の者に警護させる。……といち様の安全もさる事ながら、お前の命もまた尊い。……夜も更けた。今宵は、久方振りに此処でゆ


っくりするといい」

桔梗が静かに首を振る。桔梗の双瞳から、涙が再び零れ落ちた。

「薫様……では明日、再度お願いに参ります」

失意の桔梗が悄然として、東宮私室を後にした。


吃驚した信頼が思わず襖を開くと、開口一番、薫に尋ねる。

「……偶然、廊下にて話を聞いてしまいましたが……どういう事です? 過去にどういう経緯があったか分かりませんが……長年お仕えしてきた桔梗殿を、今、といち様


守護から外すのは、客観的に見ても不利益だと思われますが……」

「……そうだね」

眉を顰めた信頼が不可解な顔になる。

「まさか、貴方様が本気で桔梗殿の忠義を疑っておられるとも思えませんが……」

薫が切切として、深く頷いた。

「……桔梗は言葉通り、八条宮と刺し違えてでも、といち様や東宮をお守りするだろうね。そして、それが心からの本望だと感じるだろう」

「至極結構な事ではありませんか……。何故二条院に留め、それを制止されるのです?」

あっけらかんとした信頼に、悲哀を湛えた薫が、遣る瀬無い瞳で微笑する。

「……八条宮と桔梗は、腹違いの兄妹なのだよ」

「!」

「……桔梗殿は、それを……?」

「知らない筈だ」

流石に驚いた様子の信頼が暫し静黙する。稍あって、黙考していた信頼が口を開いた。

「先程、桔梗殿が話していた『あの時』とは何です? ……八条宮が、桔梗殿を庇護していたとは、どういう事ですか?」

もっともな疑問に、薫が静かに頷いた。

「……桔梗は、八条宮とは異父兄妹なのだ。今上帝の長兄に当たられる先々帝と八条女王の間に生まれた親王が八条宮だが……桔梗は、八条女王が宿下がりの際に男と通


じ身籠った不義の子でね……。月満ちて出産となったが、死産として扱われ、存在を抹消された子なのだよ」

「!」

度肝を抜かれた信頼が、ただただ絶句するなり薫を凝視する。

「先々帝の正妃の御出産とあり、今は亡き葵の母上が出産に立ち会われ、確かに姫君がお生まれになった。だが忌まわしい子として内密に殺される運命にあると聞き、葵


の母上が決死の覚悟で女王を諌め、公には死産として届け出るものの、捨て子として葵の母上が拾って育てるという約束で存命を許されたのだ。……しかし、約束の日時


になっても、葵の母上が待てど暮らせど……姫君は指定の場所に捨てられず、行方不明となったのだ」

薫が厨子から白布を取り出すと、氷桶に浸し、きりりと絞る。御帳台に歩み寄り、薄絹をふわりと開くと静臥する東宮を見つめ、その額を丁寧に冷やした。

「東宮が十四歳の時、都の花街の外れで、男に凌辱されかかった女性を見掛けた。咄嗟に太刀を引き抜き助けようとした処、女性は襲い掛かった男の腰に佩いた太刀を引


き抜き、胸元をひと突きにして自らの身を守った。……血塗れのまま呆然として立ち尽くす女性に、花街から女性を探す追手が掛かった。刹那、機転を利かせた東宮が、


素早く女性の沓を橋の中央に揃えると、女性を抱え、欄干から迷わず川に飛び込んだ」

「……それが、桔梗殿だったのですね?」

「そうだ。これは後から桔梗に聞いた話だが、桔梗は遊郭の女主人に拾われ、赤子の時から育てられた。八条宮から女主人に桔梗を養育する為の禄が支払われ、同時に仕


(・・)も依頼されていた。八条宮から渡された健康(・・)()を、客の酒に盛る役目を負っていたのだ」

眉を顰めた信頼が、嫌悪を露に舌打ちする。

「……幼子を利用するとは……酷い事を……」

頷いた薫が東宮の脈を測り、瞬時に温くなった白布を取り換えては氷水に浸す。

「……ある時、かつて健康薬を混入した客が、その後再び訪れない事を怪しんだ桔梗が客の後を付けると、毒が回り酩酊状態になった客を、八条宮の帯刀が抹殺している


現場を目撃した。おののいた桔梗が帰るに帰れず彷徨っていると暴漢に襲われ、正当防衛で切り抜けた所を東宮に助けられたのだ。その後、助けた桔梗が捨て子であった


事から、親を探す為出生を探らせた処、葵の母上が拾う筈であった姫君である事が分かったのだ」

委細を承知した信頼が、ふと生じた疑問を尋ねた。

「……何故、桔梗殿に出生の秘密をお話にならないのです?」

哀哀とした微笑を浮かべ、薫が頷いた。

「桔梗は、自分を政敵抹殺の為の傀儡とした八条宮を……心から憎んでいる。もとより東宮への忠義も篤い桔梗が、東宮の宿敵である八条宮と兄妹であると知ればなおの


事、自らの血を呪う程に憎しみは増し……喜んで八条宮を討つだろう」

「東宮様の益となれば、結果として寧ろ、願ったりではないですか」

即答した信頼が、不可解な顔で薫を見つめる。

「八条宮を討った所で……桔梗の心が晴れるだろうか。憎むべき敵と同じ血が流れる自分自身を……骨の髄まで憎みこそすれ、そう簡単に許せるものではないだろう」

「では……八条宮を討った後で、桔梗殿も自死されると? ……そう御懸念され、桔梗殿を外されたのですか?」

「……いや」

薫がふっと自嘲すると、その真情を口にした。

「……ただ、その出生より八条宮の良い様に利用され尽くした桔梗に、……恩を着せ、憎悪の種を捲き、我々の都合で翻弄するのは、あまりに忍びない。……我が身を削


り、自暴自棄に心を痛めながらも主君の為に復讐する桔梗など、見てはいられないのだよ」

瞠目した信頼が、刹那、爽快に口元を綻ばせた。

「……いかにも、慈悲深い貴方様らしい御決断ですね」

静黙した薫の脳裏に、公済の言葉が蘇る。

……高潔なるお前のやり方では、いつかきっと抗えない現実が来る……。

……公済様……甘い、と笑われるのでしょうか。

……意に添わずと雖も剣を取り、戦わなければならない時が来る……。

……そうなのでしょうか。

寂静とした孤絶に陥り、ひとり懊悩する薫に、東宮の言葉が煌然と過った。

『……恐れるな、お前は、お前のやり方で行け……』

……大津……お前なら、何と言うだろうか。

沈思黙考した薫に、意を受け深く感銘した信頼が口を開いた。

「薫様のお気持ちは良く分かりました……。桔梗殿ですが、私が様子を見守りましょう」

「……信頼?」

眉を上げた薫が、信頼をじっと見つめる。

「ふと……ある女を思い出したのです」

嘆息した信頼が、ふと遠い視線になる。

「……情に絆され、憎むに憎み切れず、忠義に背けず……純粋なるが故に煩悶し、不幸な最期を遂げた哀れな女です……」

寂寂とした薫が、深遠なる瞳で呟いた。

「……花柘榴の君……か」

「……貴方様の御慈悲に触れ、私も少々調子が狂った様です。……焼きが回りましたかね」

信頼がにやりと口角を上げた。

「御安心を……。決して、薫様の意には背きません」

「信頼……では、君に任せるとしよう」

艶然として、薫が頷いた。



清涼殿より逃走した帯刀を追い、野を擦り抜け山を下り、茜がひたすら追跡する。

全身に毒が回り、麻痺と硬直に苛まれながらも帯刀を追えと命じた東宮の厳命を忠実に守り、孤独に耐え、追跡する事一日半、ようやく敵の本拠地と思しき場所に辿り着


いた。

山中に突如として穿たれた洞穴に、帯刀共が吸い込まれる様に消え入ると、周囲を確認した茜が甚だ吃驚する。

……ここは、あの娘の父が囚われている場所ではないか。


伊勢にて東宮様が救出された『口のきけない少女』は、礼賛様が唐の太子と出立される際、薫様と渤海語を話された際に反応し、突如として口を開いた。

「礼賛様……? ……貴方は、渤海人なのですか?」

唐突に発した少女の渤海語に驚いた礼賛が、少女に向き直るなり問い返す。

「私は渤海国宰相の息子、礼賛です。……渤海語を話す貴女は、渤海人なのですか?」

頷いた少女が、どっと涙を溢れさせる。渤海語で事情を聴いた薫と礼賛が顔色を変えた。

少女は渤海国出身の山師の娘で、来日した際に父と共に拉致され、父と引き離されたのだという。父は男共に連れ去られ、少女はずっと斎宮寮跡地に監禁されていたとの


事だった。礼賛様が捕えた渤海人の盗賊団を詰問すると、父である山師は鉱脈を探す技術師として、どうしても必要だったのだという。父である山師が連行された凡その


場所を聞き出すと、伊勢国にある元東宮領である事が分かった為、急遽、伊勢からの帰りに東宮様と薫様が少女を連れ、現場周辺の様子を探り、今後の対策を練る事にな


った。

 伊勢国から近江に至る治田峠に差し掛かった頃、そろそろ元東宮領に入る為、野営の準備をしていると、不意に山中には不釣り合いの鳩が飛び去った。とっさに伝書鳩


と見抜いた東宮様がすかさず蒼王を放つと、天空の覇者である蒼王は、鬱蒼と森立する樹海を物ともせず、凄まじい速さで樹間を縫う様に鳩を追い、見事に仕留めた。黒


王で後を追っていた東宮様が、下乗するなり捕えた鳩から文書を取ろうとした刹那、密林より放たれた矢に気付き上体を大きく反らせると、片手を突き、飛び退いた。二


射目を防ごうとした私が茫茫とした森林に駆け入ると、眼前を人影が走り、猛然と東宮様に飛び掛かった。

「大津!」

少女を連れ、追い付いた薫様が馬上から矢を番えたものの、襲い掛かった男と東宮様は、組み合ったまま崖を転がり落ち、二人共湖に落下した。間髪入れず蒼王を放った


薫様と、直ちに湖の岸へ馳せ参じると、蒼王が氷結した湖上の一点を旋回していた。薫様が水中に入ろうとした刹那、東宮様が自力で岸辺に浮かび上がられた。

火を起こしている間、自ら単衣姿の薄着となり、意識を失われた東宮様を背後から抱き抱えられた薫様が、鳥類の体温が人より遥かに高い事を利用して東宮様の懐に蒼王


を忍ばせ、礼賛様から贈られた毛皮で包むと、まもなく東宮様がお目覚めになった。

鳩に添えられていた文書には、付近の村名と人数が記され、死体として打ち上がった男を検分すると、懐から銀子が転がり出た。

元東宮領であった村を尋ねると、相当数の行方不明者が出ている事が判明し、それは鳩の文書の人数と重なっていた。村では奇病に悩む者が続出しており、その症状を診


た薫様と少女が蒼白になった。少女は父の仕事先で良く目にした症状だといい、鉱毒によるものだと結論した薫様が、無許可で採掘された鉱山の可能性に言及し、急ぎ伊


勢国国司に村の集団移転を促す文書を認められた。

その後、鉱山と思しき坑道入口を特定し、おそらく少女の父も中に捕らわれていると推察するに至ったものの、東宮様と薫様、私と少女ではあまりに寡少な無勢である為


、疾く都へ戻り、楓様率いる検非違使に今後の対応が任された。

……だが、おかしい……。

……激怒された楓様は直ちに一軍を率いられ、鉱山の粛正と少女の父の奪還に向かわれた筈……。同じ洞窟に、東宮様の帯刀を名乗る不埒な一団が堂堂と出入りするとは


、一体どういう事なのだ……? 楓様は……? 行動を共にした少女は……? 

重責を自覚して俄に緊張した茜が、慎重を期して虎穴に忍び入った。


迷路の様に煩雑な坑道を覚悟した茜が、存外な展開に思わず背後を振り返る。闃然とした坑道は入口近くで大きく曲がり、僅か一丈程で外に通じていた。出口付近には建


物が林立し、ひとつの街並みを形成していた。鉱山労働に強制連行されたと思しき人々が、最早悶絶する声さえ絞り出せずに疲れ果てた体を小屋の前に投げ出すと、見張


り番と思しき粗暴な男が、容赦無く甕から柄杓で水を浴びせ掛ける。

 身を潜め、素早く小屋の陰から影へと渡った茜が、労働者の出入りが著しい本坑道の脇に穿たれた坑道に狙いを定め、忍び入る。

打って変わって人気の無い坑道は既に廃抗となったのか、奥に進むに従い狭隘となり、やがて胸元まで水に浸かる深さとなった。未知なる深奥を垣間見た茜が、朧げなが


ら明かりのある事を確認すると、すいと水に浸かり潜行する。鉱山特有の環境のせいか、水は温泉成分を含んだぬるま湯が所々混在し、やがて炎蒸なる空間が開けた。

眼前に堅固な牢獄が現れると、悪辣無比なる手口に吃驚した茜が息を吞む。

屈強なる武人達が、両手両足を縛られた不自由な恰好で、無数の柱に縛り付けられていた。劣悪なる悪条件に安心したのか、見張りはひとりも見当たらない。手早く水よ


り上がった茜が、瞬く間に牢の格子に歩み寄ると声を潜め、牢内に話し掛けた。

「……貴殿はもしや、武者小路中納言様の配下の方々ですか?」

意気消沈と倦怠していた武人が、はっとして目を醒ますなり、食い入る様に茜を見つめた。

「いかにも……。だが、貴女は?」

「……東宮様配下の者です。……直ちに、お助け致します。……楓様は、どちらに?」

天の助けと喜びながらも、忠義に篤い武人が主の安否を気遣い、囁いた。

「……おそらく、隣の牢だと思われます。……どうぞお先に、お早くお救い下さい」

頷いた茜が寸陰を惜しみ武人に小刀を握らせると、気力を振り絞った武人が周囲を憚り、掌中に隠し持つ。転瞬の間に隣の牢獄へ移動した茜が、頑丈な柱に緊縛された楓


を見付け、呼び掛けた。

「……楓様、……楓様」

項垂れた楓が既に気絶していると見て取ると、茜が牢の施錠を難無く破り牢内に侵入する。楓を執縛していた縄目を瞬時に切り解くと、楓の首に手を当て脈を確かめる。


弱弱しい脈に触れるや否や、懐から気付け薬を取り出し、迷わず楓に含ませた。

「……う……」

眉頭を震わせ、楓が薄らと瞳を開く。

「……お気が付かれましたか」

茜が楓を丁重に助け起こす。

「……貴女は……茜?」

鬱血する手首を摩り、次第に了然として、置かれた状況を察知した楓が茜を見遣る。

「はい、東宮様の命により、帝を襲撃し夜御殿を攪乱した『帯刀』を名乗る輩を追って、ここに辿り着きました。……仔細は、後で伺います。……お体はいかがですか?


 お助け致します。どうぞ何なりと、お申し付け下さい。まずは急ぎ、脱出なされませ」

頷いた楓が立ち上がろうとして、ふらっとよろめいた。とっさに手を貸した茜に、悲嘆した楓が苦笑する。

「……かたじけない。ふっ……何とも情けない限りだ。……鍛え直さねば」

生身こそ女性でありながら、骨の髄まで武人である楓に、茜が甚だ驚嘆する。

隣の牢では、茜より手渡された小刀を巧みに使い、楓の配下である武人が次々と仲間を助け出していた。茜が堅牢なる錠前をかちりと開くと、痛手を負いながらも、生気


を取り戻した(つわもの)達が続々と脱出する。

先導した茜が水に潜ろうとした刹那、楓が茜を呼び止めた。

「待たれよ。……牢さえ出れば、かえってここで貴女に話した方が安全かもしれない」

「楓様? ……しかし、敵が襲ってきませんか?」

「いや……楓様の仰る通り、ここの方が良いでしょう。おそらく敵の主力は今、ここに無いと思われます」

ひとりの側近らしき男が進言すると、居並ぶ楓の配下が悉く同意する。寸陰の間に、配下である兵が楓と茜をぐるりと取り囲むなり、四方八方に睨みを利かせ、万全の守


護体制を取る。微笑した楓が口を開いた。

「順を追って説明するとしよう。東宮より少女を預かり、無許可に採掘されているこの鉱山の存在を知らされた私は、直ちに検非違使に捜索を命じた。……結果、薫の指


摘通り、付近の行方不明者を強制労働させて開拓されたこの鉱山は主に銀を生産しており、得られた銀子は表向き石清水八幡宮に匿名で寄進された形となっているが、実


はその後、密かに都内に運ばれている事が分かった」

「都……と言いますと?」

瞠目した茜が、眉を顰めて問い返す。

「藤原四家の中でも最有力の筆頭である藤原北家……中でも左大臣様の御令息である藤原誉、また南家の藤原元直大納言などを始め、殿上において有力な貴族に寄贈され


、残りは八条女王の菩提寺である八条院に寄付されている」

「八条院……? ……では、この鉱山の目的とは……」

仰天した茜が緊張を新たに、努めて冷静になる。頷いた楓が、混沌とした事実に嘆息した。

「伊勢にて捕らわれていた少女……その父である山師が拉致監禁されていたこの鉱山は、斎宮跡と同様、藤原知長の資金源のひとつと考えていいだろう。問題は……その


裏金の流れが、藤原知長の出身である北家に留まらず、宮中全体に及び、最終的には八条宮と繋がっているかもしれないという点だ」

「藤原知長の背後に、八条宮が……?」

迫り来る真の恐怖に、茜が顔を曇らせる。

「……そうだ。これはまさに、宮中全体を震撼させる……恐るべき謀略なのかもしれない」

深刻な事態に、楓が静かに頷いた。

「ひとまず裏金の流れを把握した私は、証拠を迅速に抑えるべく、早速配下を鉱山に潜入させた。鉱山内部を詳細に調べ、捕らわれていた山師の居所を突き止めた我々は


、まず無断採掘の証拠となる銀子、刻印、出納帳を入手し、太政大臣様と薫宛てに書状を認めた。早馬を利用すると目立つ為、配下のひとりを民間人に仕立て上げ、都に


向かわせた。時間差を考慮するとおそらく今頃、薫と太政大臣様の手に事の仔細が渡っているだろう」

迅速かつ要領の良い楓に、感嘆した茜が微笑する。

「お役目、真にご苦労様でございました。……ですが、どうして牢に捕えられたのです?」

苦笑した楓が、悔しそうに自嘲した。

「今、思い起こしても屈辱なのだが……鉱山内部の詳細を得た私は山師の娘を連れ、配下と共に鉱山に侵入した。捕らわれていた山師を難無く連れ出した刹那、突如とし


武士(もののふ)の集団に襲われた。血に飢えた狼の様な奴らは戦いを欲し、血を好んでいる様だった。暫し激しい交戦となったが、どうにか山師と少女を無事に逃がし


、配下の者もようやく上首尾に撤退しようとした矢先、忽然として、ひとり雰囲気の異なる男が現れ……此奴が、やたらめっぽう強かった。不覚にも、太刀を飛ばされ気


絶した私がまず捕虜となり、私の身を案じた配下が悉く抵抗を諦め、無念にも共に捕らわれの身となったのだ」

武道を誇る武者小路家出身であり、中でも幼少より武芸に秀で、今や指導者的立場にある楓が後れを取るなど……俄に信じ難い事実に、茜が眉を顰める。

「雰囲気の異なる……強い男ですか?」

頷いた楓に代わり、配下の兵が答えた。

「はい。彼は、明らかに他の武士とは異なっておりました。彼は、楓様の腕が立つと見るなり楓様に狙いを定め交戦した様ですが、楓様がお倒れになるとすんなり身を引


き、その後は一切の手出しをせず、知らぬ間に姿を消しました。だが彼が手を貸した武士の集団は修羅の如く血を好む輩の様で、気絶された楓様と執縛した我々を牢に運


び込むなり嬉々として拷問を重ね、我々の素性を自白させようと試みました。ですが楓様始め、我々が誰ひとり口を割らなかったので諦めたのか、武士共は撤収するなり


暫く姿を見せませんでした。ところが先程急に戻り来て『宮様に報酬を貰いに行く』と言い置き、我々を放置したまま、囚われていた少年を連れ出し、どこぞへ出て行っ


たのです。……ですが、腕利きの男はどうやら、下卑た奴等とは事情が違う様です」

「……囚われていた少年? ……事情が違うとはどういう事です?」

傾聴していた茜が視線を上げると、兵をじっと見つめた。

「ええ。実は私共が囚われていた牢には先客がおり……どうやら彼の子供の様なのです」

「……子供?」

吃驚した茜が目を瞠る。

「はい。七歳程の少年なのですが、凄惨な拷問の光景を目の当たりにしてもたじろがず、とても利発な子で、父を案じていました。剣客である彼の父は、楓様がお倒れに


なると姿を消していた為、その間の事情は分かりませんが、牢に入れられていた少年が戻り来た武士共に連れ去られてまもなく、血相を変えてここに来たのです」

「なんと……ではその少年は人質として、下卑た輩に囚われていたのか?」

卑怯極めた下衆共の行いに、初めて耳にした楓がいたく憤慨する。

「おそらく……。剣客である彼には、我々の存在など眼中に無い様子でしたから」

配下の兵が頷くと、楓の推測を肯定した。

「おのれ……。彼も敵には違いないと思っていたが、もしや……非道の輩に無理強いされ、不本意ながら太刀を振るったかもしれぬとは……彼もまた、被害者なのか? 


一体、敵方はどうなっているのだ!」

遣る瀬無い苛立ちに、怒りを露わにした楓が拳をがんと膝に叩き付けた。

「調べてみなければ仔細は分かりませんが……やがて少年の姿が無い事に絶望した彼は、発奮するなり激怒して、あっという間に坑道を飛び出して行ったのです」

残虐なる武士の集団と剣豪の特徴を尋ねた茜が、それぞれ清涼殿に現れた『自称帯刀の集団』と『かつての帯刀先生である藤原直孝』だと確信するなり、宮中で起きた悪


夢を話す。仰天した楓に後を託すと、『宮様』に報酬を要求しに向かったという『自称帯刀の集団』を追い、速やかに鉱山を後にした。


……楓様は鉱山脱出後、とりあえず伊勢国司に鉱山の管理を任せて事態を収拾し、その後、二条院を目指して逃がしたという山師と娘を追い、都に戻ると話されていた…


…。

ならば……。茜がさらさらと薫宛ての書状を認め、密かに鳥を放つ。天空に無事姿を消した伝令鳥を見届けるなり踵を返すと、茜が尾行を開始した。冴え冴えとした観察


眼を鋭意に研ぎ澄まし、微微なる痕跡を逃さず追跡する。

『自称帯刀の集団』が向かった場所こそ、八条宮が本拠として潜伏している場所に違いない……。いよいよ迫り来る直接対決に、緊張を新たにした茜が、暗暗裏に行動を


開始した。



翌朝、内裏に出廷する直前に楓からの書状を受け取った薫が、甚だ吃驚するなり蒼白になる。民間人へと身を窶した検非違使の兵を丁重に労い、咄嗟の機転で何事か指示


を与えると、一転して冷静を装い、急ぎ朝堂院へと参内した。

 未だ人影も疎らな内裏に左大臣の姿を認めると、それとなく執務室に誘引した薫が周囲を憚り、声を潜めて耳打ちする。

「左大臣様……例の、渤海国山師父娘が囚われていた鉱山ですが、武者小路中納言より報告がありました。やはり無断で銀の採掘が行われ、得られた銀子は表向き石清水


八幡宮へ奉納された後、八条院を筆頭に、多くの殿上人に内々に裏金として渡されている模様です」「なんと……! 何という破廉恥な話じゃ!」

不正を憎み、怒り心頭に発した左大臣が、わなわなと手を震わせる。凛とした慧眼で見定めた薫が、なお一層声を落とすと衝撃の事実を囁いた。

「……これが、裏金を受け取っていた者の一覧です。御令息の誉中納言殿の名前も挙がっておりますが、左大臣様は御存じでしたか?」

「何!」

まさに青天の霹靂、腰を抜かさんばかりに仰天した左大臣が、瞬きさえ忘れて瞠目する。

「……ほ……誉が? ……何かの間違いではないのか? ……どういう事じゃ?」

一覧を受け取り、震える手で何度も目を通すと、怫然とした怒りに我を忘れ、執務室の戸をきっと開くなり、思わず声を張り上げた。

「誉! 誉中納言!」

俄の励声に驚いた朝堂院が、しんと静まり返る。温和な父とは思えぬ叱声に、度肝を抜かれた誉中納言が飛び上がらんばかりに驚くと、慌てふためき執務室に馳せ参じた


「ち……父上! ……一体、何事でございます?」

「惚けるでない! そなた、まさか謀叛人の八条宮から裏金を密かに受けていたのか! どうなのだ!」

謹厳実直と名高い左大臣が、愛息子の嫌疑に激昂する。朴訥として、およそ悪事とは無縁の人柄である誉が、あらぬ疑いに肝を潰すと心胆から震え上がった。

「えっ……? 何かの間違いではないのですか? 私が裏金を受け取ったなどと……? その様な恐ろしい事、小心者の私が出来る筈もございません! どうかお信じ下


さい、父上! 天地神明に誓い、私は潔白でございます」

「何? 身に覚えがないと? ……だが検非違使の捜査では、そなたの屋敷に銀子が運び込まれたと明記してあるではないか! 日付も明白に記載しておる! まさかこ


の期に及び、白を切っておるのではあるまいな?」

一覧を手に、目を剥いた左大臣が容赦無く糾弾する。

「銀子? ……さあ、その様なものは、全く心当たりがありませんが……」

本気で考え込んだ様子の誉に、顔を顰めた左大臣が、なおも語気鋭く追及した。

「では、石清水八幡宮からそなたが受け取ったものとは、一体何なのだ? ついこの間も、一月二十日に三箱搬入……と、書いてあるではないか!」

「二十日に三箱……はっ、……それは、もしかして……」

俄に思い当った誉が、了然として顔を上げる。

「やはり、心当たりがあるのか?」

峻厳に睨まえる父の視線を受け止め、一覧を凝視していた誉が頷いた。

「……いえ、中身は分かりませんが、頼まれて預かっている荷物なら、確かにあります。……この一覧の日付通りに……確かに預かっています」

「預かり荷物とな? ……一体、誰からじゃ?」

「唐への留学仲間であった、橘沖(おき)(ただ)参議です。唐からの荷物を置く納屋が無いとの事で、泣き付かれまして……それぐらいならばと、引き受けたのです」

疑義を晴らし、ほっと胸を撫で下ろした誉が清清として安堵する。

「橘沖忠……?」

「参議だと?」

静聴していた薫が眉を顰めると、怪訝顔の左大臣と視線を交わす。

「……それは、一体誰の事だ?」

蒼白になった左大臣が問い質す。

「誰……と仰いますと?」

父の形相に、不安を抱いた誉が両目を瞬かせた。

「橘沖忠という人物は、参議は勿論、殿上人にも存在しない」

「え……?」

薫が淡淡と事実を告げると、誉の顔が見る間に青ざめる。

両瞳を伏せた薫が、恐るべき謀略の根深さに驚嘆するなり閉口した。

……数年前の誉殿の留学時より、緻密に計算し用意された奸計だとは……。

「……罠か? ……これは、私を嵌める為の……仕掛けられた罠なのか」

左大臣が茫然として、呻く様に呟いた。

「左大臣様、御心配には及びません。誉殿も荷の中身にお心当たりが無いのであれば、軽度の戒告で済むでしょう」

意気消沈した左大臣を、薫が安慰した時だった。

「左大臣様! 内大臣様!」

ばんと開け放たれた執務室の扉から、息急き切った急使が飛び込むなり、肩を震わせ平伏する。ただならぬ事態に、朝堂院が水を打った様に静まり返ると、一斉に視線が


注がれた。

「有馬より……急使です! 帝が……帝が、崩御されました!」

「!」

卒倒した左大臣を、薫がとっさに抱き留めた。

俄に信じ難く風雲急を告げる事態に、奉仕していた女官達が総並に泣き崩れると、百部百官が愕然と膝を折り、絶望に脱力する。緘黙したまま祈る様に手を組み、がちが


ちと歯を鳴らした誉中納言がその場に蹲ると、底知れぬ恐怖に打ち震えた。


帝が崩御されたという驚天動地の凶事に、直ちに朝議が開かれ、対応策が講じられた。

「皇后様が臥せていらっしゃる現在、陛下の訃報を受け、中宮様が有馬に向かい、只今出立されました。後宮は中宮様が戻られるまで、梨壺女御様が総轄されるとのこと


です」

後宮を統括する女官長が粛粛と報告すると、留守を預かる左大臣が重々しく口を開いた。

「では……国政については、東宮様代理の有希皇子様が暫く帝の代理を務められ、第三親王の雨宮皇子様が東宮代理を務める事で、各各方、異論はございませんな」

「はっ」

沈然とした内裏が、衣擦れの音さえ煩わしい程に静まり返る。委縮しながら玉座に座り、沈痛な面持ちで俯く有希皇子の顔色が優れない事を気遣った薫が、やんわりと囁


いた。

「御心配には及びません。万事、国政が滞りなく行われます様、我ら臣下一同が、万全の態勢でお仕え致します」

「……薫殿……いや、内大臣殿」

生来より温和にして柔弱なる傾向の有希皇子が両瞳を潤ませ、ただ、縋る様な視線で薫を見遣る。哀哀とした悲痛を胸奥深く閉じ込め、毅然と振る舞う薫が思わず胸を打


たれると、万感を込め微笑した。

「緊張なさらずとも、大丈夫ですよ」

「兄上は……いつお戻り下さるのですか」

僅かな言葉に込められた切なる思いに、一瞬、薫が居た堪れない顔になる。

「有希皇子様……」

「私は……私は、嫌なのです。巻き込まれるのは……怖いのです」

有希皇子が唇を震わせ、必死の形相で懇願する。

「必ず、東宮様はお戻りになります。それを信じて、暫しの間、どうぞ御辛抱下さい」

「薫殿……」

追い詰められた有希皇子の両瞳から、止め処ない涙が零れ落ちる。途端に、激しく噎せ始めた皇子が発作を起こし、胸をぎゅっと押さえ、堪らず床に手を突いた。

「有希皇子様? ……侍医を、早く!」

驚いた薫が疾く侍医を呼ぶなり有希皇子の背を摩り、乱れた呼吸を落ち着かせ様と試みる。すわ一大事と駆け寄った左大臣が、皇子をしかと励ました。

「有希皇子様、気を確かにお持ち下さい。東宮様が戻られるまでのお役目です。斯様に憂慮なされる事ではございません」

皇后と東宮の事故による不在に続き、齎された帝の崩御……今また発作に倒れた有希皇子と、かつて無く連続する不吉な災厄に、言葉を失った朝堂院が不気味に沈黙する


「下がりや、綾小路」

初めて聞く抑揚のない声に、薫が思わず振り返る。

つんと背を伸ばし、麗麗しく着飾った男が整正とした礼儀で扇子を捧げ持ち、顎を上げ、つま先からついと歩み寄る。

「八条宮様……?」

謀叛により佐渡に流刑されていた筈の八条宮が突然登場した事に、緘黙していた朝堂院が総並にぞっとするなり、ざわざわと険悪に動揺する。

「……何故……ここに?」

不吉な予感に、右大臣と左大臣が瞬時に視線を交わし呟くと、息を吞み警戒する。

八条宮の背後から、従者らしき痩身の男が、そそと随従した。従者の顔を認めた薫が、きっと鋭い視線で眉を顰める。

「藤原知長……」

玉座に歩み寄った八条宮が、手にした扇子でついと薫の顎を上げるなり鼻を鳴らし、酷薄なる笑みを浮かべた。

「そちが、東宮の腰巾着の綾小路か。……聞こえぬか、下がれと申しておる」

「生憎ですが、もと皇族と雖も、謀叛により全ての官位を剥奪された貴方の命に、従う謂れはありません」

冷冷とした双眸で相対した薫が、凛然と言葉を返した。

「ふん、成程な! 主が主なら、配下も屑か。躾がなっていないと見えるな。私の官位が無いから従えぬというならば、今ここで、お前の官位をこそ、全て廃してやろう


八条宮が声高に笑うと、右大臣がきっと進み出た。

「その様な無体は、道理に適いませぬ。どうぞ、速やかにお引取下さいませ」

「戻る必要などない」

「?」

唖然とした朝堂院が水を打った様に静まり返る。八条宮がおもむろに懐に手を忍ばせると、恭しく宣下を取り出した。

「この通り、私はこの度、帝崩御の恩赦により罪を許された。そして有希皇子に要請された摂政として、これより帝の代理を務め、同じく恩赦された藤原知長を、その補


佐とする」

「何と!」

「有希皇子様の宣下であると?」

「そんな馬鹿な!」

降って湧いた勅旨に某某が思わず耳を疑うと、朝堂院がにわかに囂囂とした喧噪に包まれ、あちこちから痛烈な非難が飛び交った。だが有希皇子の宣旨を盾に、堂堂と居


座った八条宮が委細構わず聞き捨てると、薫を退け有希皇子を腕に抱き、気絶した有希皇子を優しく介抱するなり愛撫した。

「有希……可哀想に。……そなた、誰ぞに、毒でも盛られたのではあるまいな?」

「!」

突如として発せられた妄言に、周囲が思わず絶句する。

「そなたがこのまま帝位に就けば、困るという存在が多いからなぁ。……そう……綾小路が、東宮を脅かす存在として、そなたに毒を盛り続けたのかもしれぬなぁ。……


有希、くれぐれも油断は禁物だと申し付けていたではないか」

「何と……!」

ねちねちとした物言いに、舐るかの様な視線でこれ見よがしに有希皇子を労わった八条宮の想像を絶する言い掛かりに、身の毛がよだった総様が、冷汗を感じて縮み上が


る。

「綾小路様は、その様に下卑た事をなさる御方ではございません」

「そうじゃ、いかに宮様とはいえ、あまりに酷い仰り様ではございませんか」

口々に反論する面々を見遣り、八条宮が緩慢なる薄ら笑いを浮かべた。

「ふふ……渤海国の礼賛に亡命を促し、他国と密通している売国奴だとしても? 此奴の善行を信じると?」

「?」

狐につままれた百部百官に、八条宮が俄に饒舌になると、根も葉もない話を真しやかに話し始めた。

「更に近頃は、もと東宮領に銀鉱山を見付けたのを良い事に、渤海国と交易し、私腹を肥やしているとか」

「……それは、貴方と知長がなさっている事でしょう?」

きっぱりと否定した薫が、あまりに幼稚な讒言に呆れ果て、冷然と微笑した。

「左様……それは全て、貴方様の仕出かした悪事ではないのか?」

正義漢である左大臣が、詰難の視線で八条宮を睨まえる。

刹那、八条宮が憐れみを込めた同情顔で左大臣を凝視すると、盛大な溜息を吐いた。

「左大臣……。聡明な貴方まで、此奴に誑かされておるのですか。綾小路は腹黒い男です。良く考えて御覧なさい。綾小路は東宮派なのですよ? 何があっても東宮を帝


位に就け、自分が権勢を掌握したいのです。梨壺様の実父であり、有希皇子様の祖父である貴方が、此奴にとって邪魔な存在であるのは明白ではないですか。奴は隙さえ


あれば、貴方を陥れる機会を虎視眈々と狙っているのです。どうぞ胸に手を当て、冷静にお考え下さい。善良で知られる貴方の御子息が、それとは知らずに裏金を受け取


ったなど……事実として、おかしいではないですか。それに……貴方の北の方と私の母は姉妹ですよ? 甥である私が伯父を罠に嵌めるなど、有り得ないでしょう? 自


分の親族を陥れ、私に何の得があると言うのでしょうか。……騙されてはいけません。奴こそ、私と貴方を陥害せんが為、自分が仕掛けた謀略を私のせいであると貴方に


虚言し、我々の仲を裂き、惑わせているのです」

「なんと恐ろしい虚言を申される! 清廉潔白で知られる内大臣が、その様な事をする筈が無い! 左大臣様、謀叛人の謗言に、断じて耳を貸してはなりませんぞ!」

八条宮の詭弁に屈する事無く、右大臣が毅然と一蹴する。

「黙れ!」

耳まで紅潮させ激怒した八条宮が、声を張り上げた。

「摂政の言葉は帝に同じである! 口答えは一切、許さぬ! 右大臣如きが! 控えよ!」

「くっ」

右大臣が唇を噛み、押し黙る。早、独壇場となった殿上を見渡し、悦に入った八条宮が声高に衛兵を呼び付けるなり命令を下した。

「衛兵! 八逆第三、謀叛の罪により、綾小路薫の内大臣の官位を剥奪する! 直ちに引っ捕らえ、牢に放り込め!」

「!」

左大臣と右大臣が咄嗟に顔を見合わせると、蒼白になるなり震え上がった。

「何という事を!」

「非道にも程があります!」

「証拠も無い内に決めつけるとは、なんたる無体! お止め下さい!」

「どう考えても、これは有希皇子様の御意志ではありますまい!」

四方八方から異口同音に諌止の声が湧き上がる。益々激昂した八条宮が、怒鳴り散らした。

「早くせぬか! 躊躇、制止する者も同罪だ! 貴様等も牢に入りたいのか!」

しんと静まり返った朝堂院に、衛兵が粛粛と薫に歩み寄るなり、深深と一礼する。

「薫様……お許し下さい」

「私に遠慮はいらないよ。君の任務を遂行するといい」

微笑した薫が、静かに答えた。

意のまま凶暴に権力を行使し始めた八条宮に、恐れをなした衛兵が、涙ながらに薫に縄を掛ける。待ちに待った勝利の瞬間に、知長が恍惚として蔑む様に薫を見遣り、ほ


くそ笑む。当の薫はあたかも他人事の様に清静として、全く抵抗しなかった。

……恐ろしい御方だ。東宮様に皇后様、太政大臣様も不在の今、有希皇子様の宣旨を盾に、東宮様に近しい勢力は、根こそぎ消すおつもりなのか……。……これでは有希


皇子様の暫定天下と雖も、皇子様もまた、傀儡としての生き地獄が始まったに過ぎない……。

左大臣が心奥深く驚怖するなり震え上がる。

……帝、

……皇后様、

……東宮様、

……薫様……我々は、どうすれば……。

百部百官が、各各深く思いを馳せると、逼迫する恐怖に身を強張らせた。


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