王族の毒
「宮様、只今、一報が入りました。早馬です」
簡素な邸宅にある一室に、痩躯の男が足取り軽く歩み入る。恭しく礼を尽くして平伏するなり嬉嬉として顔を上げると、仄暗い室内に孤坐していた男が口元をゆるりと綻
ばせた。
「ほう……吉報と見えるな、知長」
鉛灰色の空より時折差し込む橙色の冬日に、宮様と呼ばれた男の直衣が美美しく色めくと、閃閃とした愛日に目を射られた様相で煩わしそうに眉を顰め、懐中の檜扇を翳
して遮った。
「……帝が、崩御されたのか?」
寒灯に照らし出された宮様が、薄らとした笑みを浮かべると、期待に満ちて知長を見遣る。知長が一瞬身を強張らせると、再び目礼するなり口を開いた。
「いえ……邪魔が入りました」
「何?」
眉を吊り上げた宮様がきっと見据えると、知長が端的に答えた。
「東宮が帝を刺客から守ったとの事」
途端に、宮様の御気色が不愉快になる。檜扇を閉じるなり床を打ち鳴らし、忌ま忌ましそうに舌打ちした。
「……何だと? 東宮は、毒で死んだのではないのか? 貴様、自信があると申しておったではないか。計画通りに運ぶ筈ではなかったのか?」
にわかに咎め立てる宮様に、忍び笑いした知長が悦に入って顔を上げる。
「御安心下さい。東宮が毒を飲んだのは、間違いございません。……ひと息に飲み干したとの事です」
「……真か?」
いたく満足した宮様が脇息に肘を掛け大いに凭れて安らぐと、洋洋とした笑みを浮かべる。
「ふふん……では、これでようやく彼奴も死んだな! 天然最強の毒だ。解毒剤は無い」
頷いた知長を見遣り、まず大いに労うと、宮様が饒舌になる。
「御苦労だった。……我々の計画では、帝が招いた席上で、皇后に毒を盛られた東宮が、帝の謀略と思い帝に斬り付け帝は崩御、そのまま逆上した東宮が皇后に守り刀を
投げ付け重症を負わせ、それが元で皇后も死ぬという完璧な筋書きだったが……化物同然の体力を誇る東宮のせいで、顛末が狂ったではないか。今後に、差し障りはない
のか?」
奸佞邪智の徒である知長が、陰惨に顔を綻ばせた。
「御心配には及びません。……寧ろ、これで良かったのでございます。宮様は長年、あの御三方には『より長い屈辱と辛苦を、簡単な死など与えぬ』と、仰っていたでは
ございませんか。宮様のお望み通り、帝は心身共に削がれる様な苦痛と苦悶の果てに孤独なる凋落を、皇后は苦しみ抜いた末の死を齎され、残念ながら東宮は即死させる
しか手がございませんでしたが……私の仇である綾小路には、自身の死より残酷な結果となるでしょう」
自らの言葉に酔い痴れた知長が、無上の喜びに打ち震える。
「……嬉しそうだな」
「……それは、もう。苦難に耐え、辛酸を嘗めながらも謀略を巡らし、唯、この日の為に生きてきた様なものです。正義を振り翳し、完全無欠と名高い綾小路が、骨の髄
に至る迄、心身ともに再起不能の打撃を受ける。誠忠の臣である彼奴が、生涯ひとりと定めた主を失うのです。没落したまま、二度と浮上できないでしょう。……実に、
実に心地良い」
陶酔頻りの知長を見遣り、一抹の懸念を抱いた宮様が釘を刺した。
「綾小路か……。お前の話に聞くだけで、直接会った事は無いが……。伊勢でも、結局はお前の思い通りにならず、土壇場で覆された。結果として私が渤海国との利権を
失い、資金源のひとつを失い、物的にも資金的にも大きな損失となった。今回は東宮が死んだ事でひと安心だが、綾小路が今後、我々の計画の障害になる可能性は無いの
か?」
もっともな指摘に、頷いた知長が謙虚に答えた。
「伊勢では、礼賛の技量を見誤っておりました。損失はございましたが、目的は遂げております。今回も、二重三重に手を打ってございますれば、綾小路も身動きひとつ
出来ますまい。ご心配はご無用でございます」
心丈夫な知長を見遣り、安意を得た宮様が熟熟として、深く喜びを噛み締める。
「ほう……自信があるのは良いことだ。巧詐に長け、企謀に長じた貴様ならば、多岐亡羊に自分を失う事もないだろう」
不意に宮様が背後を振り返り、開け放たれた隣室に目をくれる。
「先手必勝は勝者の常。……そう思われませんか、大叔母上様?」
侮蔑に満ちた視線の先に、元斎宮である東宮の大叔母が執縛されていた。
「……貴女の頼みの東宮は、もう助けに来ませんよ」
ゆらりと席を立った宮様が、おもむろに大叔母に歩み寄る。立ったまま見下すなり鼻で笑い、微笑を浮かべた。
「さぞかし、無念でしょうね。……悔しいですか?」
老いてなお矍鑠とした大叔母が、凛然と睨まえる。
「八条宮……獰悪なそなたの凶悪なる暴挙、天は決して許さぬぞ」
「この期に及んで、まだ『天』ですか。……懲りない御方ですね」
八条宮が手にした檜扇の先で大叔母の顎を決ると、謗り種を咎と突き立て吐き捨てた。
「天を信じると仰るなら……何故、貴女が手塩に掛けて育てた元斎宮の託宣が……私の母の言葉が信じられなかったのです? ……我が国が未曾有の地震と津波に襲われ
るという大災禍に産まれた大津は、禍を齎す赤子として生を受け、死産として葬られるべきだった。貴女は当時の斎宮として母が託宣した事実を知りながら、それを退け
大津を庇ったのだ!」
大叔母が静かに首を振ると、言言句句に言霊を込め、粛粛として八条宮に向き直る。
「純潔の斎宮として大神にお仕えしていた身であるならば兎も角、既に入内して母となられた元斎宮に、大神の御言葉は下されぬ。その証拠に、当時私が伊勢にて行った
託宣では、そなたの母とは異なる結果が示された。そなたを生んだことで、そなたの母は、身も心も母となった。何を犠牲にしても我が子を守る、母になったのだ。勿論
、それは女人として当然の定めであり、責められるべきものではない。だがその時、大神にお仕えする御杖代としての属性を離れ、大神の御言葉を失ったのだ」
ありったけの嫌悪を込め、八条宮が大叔母を蔑視すると、刺刺しく蔑んだ。
「……母が薨去された今となっては、どうとでも言えるのでしょうね。……では、大津を生かしたことで、何が良かったと申されるのですか? 今上帝を以てしても手に
負えない暴君となり、不羈奔放が日常の横柄な彼奴が、将来推戴されるべき帝になるとでも?」
長年溜め続けた心の丈を剥き晒しに叩き付けた解放感からか、八条宮が大叔母を緊縛していた縄を解くと、我が物顔の恩顔で微笑んだ。
「……まあ、いいでしょう。……貴女には、危害を加えるつもりはありません。貴女には、御自分がなされた結果を全て受け止め、私の手により狂った歴史が是正される
まで……最後まで見届けていただきます。……貴女が大津を生かした事で母は自ら毒を呷り、命を絶たれたのですからね」
刹那、大叔母がキッと睨み据えた。
「それは違う! そなたの母は、そなたの犯した罪を償う為、自ら死んだのじゃ」
「私のせいだと仰るのですか?」
峻厳なる大叔母の視線を、八条宮があっさりと嘲笑して受け流す。大叔母が、憤然とした怒りを露わに八条宮を非難した。
「そなたが大津の命を狙ったからであろう? そなたが幼き大津に危害を加えなければ、そなたは東宮のままであった。いずれ帝位に就き、そなたの母も死ぬことは無か
った」
にわかに憮然とした八条宮が、仏頂面になるなり声を荒立てる。
「いいえ、違います。そもそも、貴女が絶たれるべき禍である大津を、生かしたからだ! 大津さえいなければ、私も凶行に及ばず、母も自ら命を絶たれる事はなかった
」
目を剥き唇を噛んだ八条宮が、わなわなと手を震わせる。
「当時、今上帝の嫡子と雖も東宮でなかった幼き大津に……そなたは何を恐れたのか? 東宮という地位にありながら、そなたの猜疑と小心による恐怖が、あの様な凶行
に駆り立てたのではないか。……そなたは自分から、全てを失ってしまったのだ」
容赦無く責め立てる大叔母を聞き置いたまま、八条宮が酷薄なる顔で宣告した。
「許しはしない……。天啓を欺いた貴女も、凶星を生み、育んだ帝も皇后も! ……報いを受ける時が来たのです。絶つべき命を私が絶ち、本来あるべき姿に戻す。歴史
を歪め、天の言葉に背いた輩に、罰が下る時が来たのです」
……まただ……体が動かない。
「……これで、二日目です。意識が戻られては浅くなり、夢うつつでいらっしゃる……」
……夢うつつ? ……違う。ずっと起きてはいるが……瞼が開けられない。
「……実に、奇妙です。熱は微熱程度に収まり、起き上がれぬ程の腹痛を訴えられて臥せておられるのに、瀉痢や吐瀉の症状は現れず、ご病気に掛かられた訳でも無く…
…。調理されたものにも毒物は見受けられず……」
「……何と……これだけ内薬司や典薬寮の医師が付いているのに原因が分からぬとは……。……なんとかならぬのか? 打つ手を考えよ」
「皇后様……お気持ちはお察し致しますが、皇后様もお休みになりませんと……」
……母上?
「私の事は構いません。親王を、誰か、親王を助けられる者はおらぬのか? ……大津、気を確かに持つのです」
……母上が私の手を取り、摩られている……。
……嘆かぬ様、答えて差し上げたいが……。……力が入らない……。
「親王様、お目覚めになったのですね」
「……」
「……ようございました。昨夜、主上が侍医の白山殿をお遣わしになり、綾小路友禅様の亡き北の方が秘伝として残されていた醍醐をご持参になられたのですよ」
「……醍醐?」
「……ええ。とても美味しい妙薬ですよ。少々、お待ちになって下さい。醍醐を取りがてら、皇后様に御報告して参ります。親王様にずっと付き添われていて、ようやく
先程、主上に説得されて貞観殿にお戻りになられたのですよ」
……母上が?
ひとりの女房が醍醐を取りに部屋を出る。別の女房が親王のお召替えを手際良く済ませるなり慌ただしく寝具を整える。親王がむくりと起き上がると、辺りをぐるりと見
回した。
「親王様、まだ、あまり動かれてはなりません。どうぞお休み下さいませ」
「いや……もう起きる」
困り顔の女房など何のその、枕元の小太刀をはっしと掴むや否や部屋を出ようとした親王に、はるか頭上から声が掛かる。
「大津、もう起き出すとは重畳だね。昨夜は生死を彷徨っていた君が、途端に外遊びとは女房達の心配も如何ばかりだろう」
「東宮様!」
親王付きの女房達が、ほっと胸を撫で下ろす。
「……もう病むところもありません。……外に出ては、いけませんか?」
「充分、いけないね……皆の心配が分からないのだから。元気なおチビさん、安心したよ」
東宮である八条宮が温和に微笑むと、親王の額をこつんと小突いた。
強制的に褥に戻され、おとなしく寝かされた親王を優しく見遣り、東宮が親王の額に手を当て熱を診る。親王付きの女房に向き直った東宮が、口を開いた。
「……こうして今はすっかり熱も無い様だが、原因は何だったのだ? 三日前に私が遊びに来た際は、蹴鞠に興じてあんなに元気そうだったのに。……私も少し調子に乗
って、遊ばせ過ぎたかな?」
自戒の念に駆られた東宮が、親王の頭を優しく愛撫するなり、小さな手をぎゅっと握る。
「まあ、東宮様……。東宮様が責任をお感じになられるなど……滅相もございませんわ」
親王付の女房がお茶を淹れながら、甚だ恐縮するなり、微笑ましそうに二人を見つめる。
「原因は、結局分からず仕舞いでしたの。……確かに仰る通り、東宮様がお越しになられる際は親王様も大層お元気でいらっしゃいますのに、やはりまだお小さいせいか
、御一緒に目一杯遊ばれた後はどっとお疲れになるみたいで、しばしば寝込まれていらっしゃるのです。医師の診立てでは、これ以上続く様なら、何か未知なる御病気に
よる発作なのでは……などと言い出す始末でございまして。普段はやんちゃ盛りで元気が良すぎるくらいで、御病気などとは無縁の御方ですのに……皇后様も大層戸惑い
、心配なさっておいでです」
慈愛の眼差しで親王を見つめていた東宮が頷いた。
「それは……そなた達も、さぞかし心配であろうな。だが大津は、そもそも剛健を誇る帝の御血筋だ。繊細な様相も、おそらく幼少の内までだろう。……大きくなるに従
って、体力もめきめきと付くに違いない」
爽快に笑った東宮が、女房から勧められた御茶を受け取ると、高坏から菓子をひとつ手に取った。
「どうだ、大津も食べるか?」
「……いいえ、私は結構です」
親王が首を振ると、東宮が自らの口に放り込んで食べるなり、親王の飲み物を手に取った。
「美味いのに、いらないのか? では、何か飲むか?」
「……いいえ」
「親王様……やはり、どこかまだお悪いのですか? どうぞ、仰って下さいまし」
親王付の女房が、食欲の無い親王をいたく心配そうに見つめると、遣る瀬無い溜息をつく。「飲まず食わずなのに遊びたい……は、理に叶わないだろう。遊びたいなら、
少しは何か口にしたらどうなのだ? よし、ここに来い。私が食べさせてやろう」
女房の憂慮を酌んだ東宮が、親王をひょいと抱き上げるなり膝に乗せた。
……三日は飲まず食わずで寝込んでいたというのに、いささかも寠れていないとは……僅か四歳とは思えぬ驚異的な体力だ……。温和な笑顔の東宮が、心中密かに驚いた
。
「さあ大津、遠慮するな。ひとつが多いなら、私と半分にして食べるか?」
東宮が菓子を二つに割ると、ひとつを口に放り込み、もう半分を親王の口元に差し出した。
「……では、頂きます」
親王が半分を手に取ると、ぺこりと軽く頭を下げる。
……遊び過ぎなんかじゃない……。
……東宮様と飲んだり食べたりすると、必ず後から……忘れた頃に、具合が悪くなる……。
……侍医が毒でないというなら……何だ? ……それとも、偶然なのか……?
「御馳走様でした」
ひと口でぱくんと食べた親王が、小太刀を持つなりぱっと部屋を飛び出した。
部屋を出るなり口から菓子を吐き出すと、掌中に隠した親王が裸足のまま庭を駆け抜ける。菓子を柴垣に投げ入れ、中庭を隔てる門の隙間を擦り抜けると、渡殿を飛び越
え、簀子に転がり込むなり、小声で室内に呼び掛けた。
「……直孝」
年の頃十五ばかりの随身が、驚いた顔で親王に歩み寄る。
「これは、親王様。伏せられていると伺いましたが……もう回復されたのですか?」
「醍醐とかいう薬で治った。……それより、調べてくれたか?」
「……しぃ……お静かに。東宮様の事ですね?」
直孝と呼ばれた少年が周囲を憚ると、親王を物陰に招き入れた。
「そうだ。……毒を盛った素振りはあったか?」
「前回お倒れになった際、親王様がそう仰っておられたので、今回は親王様がお倒れになる以前から張り込んでおりました。露骨に毒物を扱っておられる仕草はございま
せんでしたが……ひとつ、気になる事が」
「何だ?」
眉を上げた親王が、直孝の言句に一心集中する。
「親王様はもしや、東宮様から……いつも御手渡しでお召し上がりになっているのではありませんか?」
親王が暫し考え込む。
「……そうかもしれない。……それが、どうした?」
直孝が、親王をじっと見つめた。
「東宮様は、親王様のお部屋に行かれる際、必ず壺に手を浸されるのです。決まって、右手の薬指と小指なのですが……当初、私も膏薬の類かと思っておりました。です
が、お怪我をされた訳でも無いのに決まった指のみであるという事も妙ですし、膏薬であるなら、軟膏を塗るという行為ではなく、液体に浸すという行為も不思議です。
他に不審な行動は見受けられませんでしたし……親王様への毒物の懸念は、かねてより皇后様や侍医団も銀の食器や毒見役を設置し、厳しく防いでいるところです。東宮
様が万一、親王様に毒を盛る機会を得るとしたら、最早直接しか手段が無いと思われるのですが、警戒されている親王様と大勢の女房達の眼前で行うには、持ち込んで混
入するという行為も難しいでしょう」
「……だから決められた手に塗り、自分は毒を避け、俺に盛ったのか?」
「……それが毒であるかは未だ断定しておりません。ですが皇后様の女房に頼み、東宮様のお部屋にある壺から、少量の液体を抜き取って貰いました。親王様がお倒れに
なった事でここ二日、典薬寮と内薬司は大騒ぎでしたから……今日にでも、典薬寮の医師に中身を確認して貰おうと思い、こうして私が手許に持ち歩いております」
直孝が、胸に仕舞い込んだ瓶を取り出して見せた。
「そうか……ありがとう」
親王が、神妙な面持ちになる。
「……親王様もご信頼されている侍医の白山殿に、秘密裏にお願いしてみますか?」
「……いや」
俯いた親王が暫し緘黙した。
「直孝、瓶を俺に渡してくれ」
「親王様?」
腹を決めた親王が、凛として顔を上げる。
「……毒かどうかは、俺が自分で確かめる」
「……何をなさるおつもりです? ……まさか、お忘れですか? 私は、貴方様の守役である随身です。太刀を以てお守りするのがその役目……。危険な真似は、看過で
きません」
「ならば、黙っていてくれ」
小さな親王が、にやりと笑った。
数日後、随身の詰所である兵衛府にて、直孝は東宮と親王が病に倒れたという一報を耳にした。驚いた直孝が典薬寮を訪れると、医師に二人の病状を問い質した。
「東宮様も親王様もお倒れになったと伺いました。……御二方の御病状は何なのです? 流行病に罹られたのですか?」
「御二方とも微熱程度ですが、甚だしい腹痛を訴えられ……瀉痢も吐瀉も見受けられないのですが、意識朦朧として寝込まれておいでです。これは親王様が時折お倒れに
なる症状と全く同じですが、東宮様までお倒れになったとなると……これは親王様のご体質が繊細なのではなく、何らかの未知なる病気に罹られた可能性が高いと思われ
ます。とはいえ、今まで親王様以外の方が罹られた経緯は無いので、感染性が低い病気と推察されますが、東宮様が罹られたことで、今後も人に感染する可能性があるの
では……と、只今、医学博士が召集され、医師による御病状の検討会が発足したところです」
「何と……!」
血の気の引いた直孝の眼前が真っ暗になる。典薬寮を辞した直孝が急急として、親王の居室へ馳せ参じた。
廊下を行き交う女房の噂話が小耳に入る。
「……こうなると、親王様は何度もお倒れになっている分、却って容体の経過予測がついて安心だけど、東宮様の御殿はえらい騒ぎになっているみたいよ」
「お倒れになったのは、初めてですものね……」
「……未だに、昏睡状態でいらっしゃる様よ……。親王様のご体質特有の発作だと思っていたけれど、どうやら病気だったみたいね……それはそれで、恐ろしいわ」
「東宮様も年の離れた親王様を弟の様に可愛がっておられたから、慈しみ過ぎて御病気が移ってしまったのかしら……お気の毒に」
「……でも、それだったら、私達がいの一番に罹患するんじゃないかしら。次に、皇后様?」
「……それもそうよね。やはり私達下々の者は体が頑強なんじゃないかしら。皇后様は、母は強しで、御病気など蹴散らされておいでとか」
「もう! あなたったら、誰かに聞かれたら、不敬で怒られてしまうわよ」
女房達が廊下の端に消え入ると、直孝が親王の居室前に平伏した。
「随身の源直孝です。入っても宜しいでしょうか」
親王付きの女房に案内され、直孝が親王の枕元に歩み寄る。親王は昏昏として寝ている様であった。
「親王様……」
聞くに聞けず、責めるに責められず、守るに守れず、直孝がただ、無言で唇を噛み締める。
刹那、ふっと目を開いた親王が、むくりと起き上がった。驚いた女房が直ちに駆け寄ると、褥に安座した親王が女房に向き直る。
「直孝と、二人にしてくれ。……人払いを」
「親王様……それは……」
反論しようとした女房が、凛然とした幼き親王の気迫に圧倒され、言葉を吞み込むなり直孝に後を託し退出する。
しんとした室内で、声を震わせた直孝が静かに口を開いた。
「お体は、大事無いのですか」
「……もう、何ともない」
親王が淡淡と答える。
「親王様……何てことをなさったのです……」
膝上で衣をぐっと引き掴み、両拳をぎゅっと握り締めた直孝が、声を殺して俯いた。万感を堪え、噎ぶ直孝を、親王がじっと見つめる。
「……結果として、東宮様を御重体にさせたことを責めているのか」
「いいえ」
直孝が強く首を振り否定すると、顔を上げ、溢れ出る思いを親王にぶつけた。
「何故、ご自分もお飲みになったのです? あれが害毒であることは、重々承知なさっておられた筈ではないですか。医師に分析を仰ぎ、東宮様に結果を突き付ける事も
出来た筈! 何故……どうして、この様に危険な手段を選ばれたのです?」
唇をぎゅっと噛み締めた親王が、俯いた。
「……自分で確かめると、申したではないか」
強く噛み締めた唇がわなないた。膝に掛けた純白の寝具に、大粒の涙が零れ落ちる。
「……やはり、毒であったのだな。……命を奪う、害毒であったのだ……」
肩を落とし、人目を憚り忍び泣く親王に、掛ける言葉を失った直孝が、共に声を殺して泣き濡れた。
二日後、昏昏と死線を彷徨っていた東宮が静かに目を開ける。
「東宮様! お気が付かれましたか」
東宮侍従がほっと胸を撫で下ろすと、直ちに侍医が呼ばれ診察が開始される。
「東宮様、よう御病気に打ち勝たれましたな! 大した御気力と体力じゃ」
安堵した様子で侍医が感心すると、東宮が驚いた様に口を開いた。
「病気……ですと?」
頷いた東宮侍医が、安心したせいか饒舌になる。
「左様、親王様と同じ御病気にございます。今回、親王様と東宮様が同時にお倒れになった事で、繊細なるご体質故の発作だと思われておりました親王様の御病状が、病
に因るものであると判明したのです。親王様が醍醐で回復された経緯がございますので、今回も、いたく心配された皇后様と太政大臣綾小路様より妙薬として醍醐を頂き
、治療させていただきました。効果覿面となり、まずは重畳でございます」
「なに、私が親王と同時に倒れた? ……皇后様より醍醐を頂いたと申すのか?」
度肝を抜かれた東宮が瞠目して狼狽えると、東宮付の女官が満面の笑みで申し上げた。
「まあ東宮様、なんとお優しい御方でございましょう! 自らもお倒れになっていらっしゃったのに、親王様がお倒れになったと聞いて、心配で居た堪れないのですね?
」
東宮付の女官は勿論、東宮侍従も皆、微笑ましく東宮を見つめると和やかに笑った。
「ほんに謙虚な東宮様でございますこと! 皇后様から妙薬を御下賜頂いた事にも、斯様に恐縮されるなど……。ご自分のお体はさて置き、皇后様への感染を憂えての御
配慮でございましょう? ……どちらも御心配には及びません。皇后様への感染を憂慮された主上が、同じ御病気で先に回復された親王様を名代として醍醐を届けさせま
した。それからはずっと、親王様が東宮様のお世話をされていたのですよ。お小さいのに、ほんにかいがいしくて……。きっと、日頃の東宮様のご慈愛を感じて、何とか
御恩をお返ししようと張り切っておられるのですわ」
「……さ、親王様。遠慮なさらず、こちらにおいでなさいまし」
女房達が軽やかに笑うと、その場の皆が和気藹藹と談笑する。心胆を寒からしめた東宮が、蒼白になるなり瞠目したまま頭を抱えて項垂れると、異変に気付いた侍医が声
を掛ける。
「東宮様? いかがされました?」
「……気分が悪い……」
腰を折り、寝具に突っ伏したままの東宮が唸る様な声を絞り出すと、侍医が慌てて診察する。侍医の手を荒く撥ね付けた東宮が、低い声で呻いた。
「親王と二人で話がしたい……。皆、出て行け、……出て行ってくれ!」
東宮の突然の変わり様に、その場が一瞬で静まり返る。錯乱を憂慮した侍医が再度脈診を試みたものの、侍医の手を乱暴に振り解き、東宮が診察を拒否した。戸惑う女房
に、静観していた親王が冷静に口を開いた。
「……昏睡中は、私も何度も夢を見ました。悪い夢でも御覧になっているのでしょう。ここは、東宮様の仰る通りにして下さい」
「しかし……」
俄かに乱暴になった東宮様の御気色に、周囲が判断を鈍らせる。親王が再び促した。
「私であれば、心配はいりません。随身の直孝を同伴させましょう」
「うるさい! うるさい! さっさと皆、出て行け~!」
東宮の無体な要求に為す術無く従った皆が、親王と直孝を残して退出する。その場が水を打った様に静まり返るや否や、東宮が憎々しげに親王を睨み付けた。
「ふざけるなよ貴様、一体、私に何をした?」
「……貴方が一番、ご存じなのではないですか」
親王が、冷ややかな瞳で東宮を見遣る。
「しらばっくれるな! お前が知り得る筈がない! そこの随身の入知恵なのか?」
恐怖からくる焦燥を募らせ、妄想に取り憑かれた東宮が、がなり立てる。
「お静かに……。人払いの意味が無いではありませんか。醍醐で治られたなら、それで良いではありませんか。御病気が治り、何よりです」
毅然として言い放った親王に、鼻を鳴らした東宮がせせら笑う。
「病気だと? ……貴様、とぼけるのもいい加減にしろ! ……どこで、手に入れた?」
「……これの事ですか?」
刹那、親王が懐から小瓶を取り出すと、中の液体に薬指と小指を浸した。
ぞっとして背筋を凍らせた東宮が、恐怖のあまり硬直する。
「怖いですか? ……これが、内薬司と典薬寮の毒物検査を擦り抜けた害毒です」
凛とした炯眼を欹てると、親王がゆっくりと東宮に歩み寄る。
「寄るな……来るな……!」
身動きひとつできない東宮に、近寄った親王が東宮の頬を両手で静かに包み込む。無差別な殺戮を好む沈黙の甘露が人肌に温められ、東宮の頬をひたと伝った。ゆっくり
と指を滑らせた親王が、東宮の口元ではたと止める。
「こうして貴方は、何も知らない私に……善なる姿で、毒を盛ったのだ」
「止めろ!」
不意に、東宮が親王を突き飛ばした。吹っ飛んだ親王を、直孝がしかと受け止める。
「茶番は、もう沢山だ!」
「茶番?」
眉を顰めた親王に、追い詰められた東宮が怒涛の如くに食って掛かる。
「何が望みだ? 真実を知って、私を弄ぶ気か? それとも、ゆする気か? ……どうせ主上や皇后様に告げ、私の廃位を狙っているのだろう? だったら回りくどい事
をせず、さっさと突き出せばいい!」
起き上がった親王が、ぽんぽんと膝を払うと呟いた。
「主上や皇后様に申し上げるつもりはありません……」
「何?」
驚いた東宮が、瞠目するなり親王を凝視する。親王が、じっと東宮を見つめた。
「……ですが、『次』はありませんよ」
「どういうつもりだ?」
踵を返した親王が、肩越しに答えた。
「忠告したのです。……帰るぞ、直孝」
頷いた直孝が東宮をひたと見据えると、無言のまま眦を裂いて牽制する。東宮が忌ま忌ましそうに舌打ちすると、憤然として唇を噛んだ。
「何故、東宮様の罪を公にしなかったのです?」
先を歩く親王に、背後から直孝が問い掛けた。
「……どうしてだろうな、分からない」
振り返らずに、親王が答えた。
「東宮様には、親王様の恩情は伝わらないと思いますよ」
「恩情?」
親王がついと振り返る。
「……慈しみの心、情けの事です」
「……よく分からないな、それ」
くるりと踵を返し、再び前を向いた親王が呟いた。
「……でも、何かまずかったかな、俺?」
「いいえ……でも、」
直孝が静かに首を振る。
「……でも?」
「ああいう御方は、恩を仇で返します」
「仇?」
再び向き直った親王に、直孝が誠実に答える。
「恩を恩と思わす、逆恨みするということです」
「……つまり……」
親王が顔を曇らせた。
「……ええ。……おそらく、益々、親王様への害意を募らせるかもしれません」
不意に簀子を蹴った親王が、庭にひょいと飛び降りた。
「……それなら、大丈夫だ。……直孝が居る!」
手を上げた親王が、陽気に庭へと直孝を誘った。
「今日こそ、剣を教えて貰うぞ」
呆気にとられた直孝が、ふっと顔を綻ばせると頷いた。
「……そうですね。貴方様は、私がしかとお守り致します」
血腥い臭いが鼻に突く。
「親王様、御無事で?」
血塗れの随身が部屋に駆け入る。仄暗い部屋の中央に、俯いた親王がゆらりと立ち竦む。
「……親王様は、御無事です」
髪を振り乱し、片腕を負傷した女房が、肩で息をつき漸く答える。
「親王様、ここにおられましたか! お怪我はございませんか」
血染めの太刀をがらんと投げ捨て、片膝を突いた直孝が、親王の身体を丁寧に改めるなり、安堵に胸を撫で下ろす。膝を屈した女房が、その場にわっと泣き崩れた。
「恐ろしゅうございました! ……賊が入るなり、次々と女房達をひと突きで打ち殺し、とっさに厨子に親王様を匿いましたが、賊が乱暴に突いて回るので、私が立ち塞
がりました。私が切られると思った瞬間、厨子から飛び出された親王様が、太刀で賊を斬り捨て、私が命拾いしたのでございます」
「女房殿、よくぞ、親王様をお守り下された」
頷いた直孝が布を裂くと、女房の腕に応急処置を施した。
「随身も部屋の内外で乱闘となり、相打ちになった者が多数、生き残った者も重傷を負いました」
女房が恐怖に戦慄くと、直孝の負傷を認め、自らの衣を裂く。
「貴殿も肩に怪我を……」
「血糊で滑った太刀が当たった掠り傷です。……御蔭で、命拾いしました」
肩当を脱ぎ、女房の手当てを受けながら、直孝がひとこと報告する。
「……首謀者は、東宮様かと」
「……何と」
顔色を変えた女房が、思わず親王の御気色を伺った。直孝が、続け様に報告する。
「東宮様の帯刀が、何人か紛れておりました」
俯いたままの親王が、小太刀を握った拳にぐっと力を込める。
「直孝……これは、俺が招いた惨劇なのか」
「……親王様?」
女房が、驚いた様子で親王を見つめる。直孝が暫し緘黙した。
「……その様に、御自分を責めることもございますまい。……あの時、東宮様の罪を公にしておれば、東宮様の侍従は勿論、一族郎党全てが処刑されておりました。親王
様の御慈悲の御蔭で、彼等は助かったのでございます。……そうお考え下さいませ」
唇を噛み締め項垂れていた親王が、がくんと膝を折る。
「俺があの時、東宮様を許さなければ……今日の皆の悲劇は無かった! 直孝も、世話をしてくれた女房達も……死ぬ事はなかったのだ! ……俺が皆を、死なせてしま
った」
悔やんでも悔やみ切れない悔しさに、親王が声を殺して噎び泣く。
「嘆いても、死んだ人間は戻りません。親王様……この世は、食うか、食われるかでございます。……先手必勝、相手に殺られる前に殺らなければ……被害を未然に防ぐ
ことはできません。今日の悲劇を胸に深く教訓とされるなら、甘ったれた恩情は御捨て下さい」
肩を震わせ、慟哭した親王が深く頷いた。
「許すものか……。見ていろ、必ず報いを受けさせる……」
悲憤を堪えて忍び泣く小さな親王に、直孝の胸がきりきりと痛む。
……私こそ、罪を負うべき人間だ。……親王様の御信頼に甘んじ、自分を過信していた。……守り切れなかったではないか。親王様の周りにおられる愛すべき方々を……
。親王様の御命でさえ、身を呈した女房殿が辛うじて守られたのだ……。随身として失格は勿論、何という不甲斐なさなのだ……。
直孝が自らの無能を過酷に咎め立てると、哀哀として親王を見つめた。
「何? 親王も重傷を負い、臥せっていると?」
東宮が、帯刀の報告に小躍りせんばかりに喜ぶと、思わず身を乗り出した。
「はい……。私共は、親王様の随身と戦闘しておりましたので現場は見ておりませんが、まさに血の雨が降り注ぐ修羅場でございました。女房も殆どが死に絶えた様子で
すので、親王様が重傷を負われたとしても、何ら不思議はございません」
脇息に凭れた東宮が、したり顔で笑みを漏らした。
「そうか……して、主上と皇后様は」
「主上が加持祈祷を命じられ、現在、皇后様と共に御祈祷されているとの事です」
「ほう……」
東宮がおもむろに立ち上がる。
「……東宮様、どうかなさったのですか?」
薄ら笑いを浮かべると、東宮が慇懃に答えた。
「……慈しんできた親王が、危篤なのだ。……見舞わぬ筈が無いではないか。そなた達も付いて参れ」
「は……」
親王の居室は、水を打った様に静かだった。
「……これは、東宮様」
東宮の来訪に気付いた女房が、ひっそりと東宮を迎え入れる。
「賊に襲われたと聞いたが、親王の容体はどうなのだ?」
「はい……。侍医によりますと、賊に完膚無きまでに猛襲された衝撃により、心身共に絶対安静が必要との事で、現在お人払いをしている次第です」
「何? ……人払いとな? ……それ程に、悪いのか」
内心酷く喜びつつも、あくまで丁重な姿勢で尋ねると、東宮が部屋の様子を垣間見る。果たして女房の言葉通り、人の気配はほとんどなかった。
「はい……。申し訳ございませんが、いかに親しい東宮様と雖もお引き取り下さいます様、お願い申し上げます」
「そうか……」
心中密かに舌打ちした東宮が引き揚げようとした刹那、室内から女房の声が掛かった。
「……東宮様がいらっしゃったのですか?」
取次の女房が、静かに振り返る。
「はい。静粛の命に従い、お引き取りをお願い申し上げた所でございます」
室内から、再び声が掛かった。
「東宮様は、兄の様に親王様をお世話されて来た御方……どうぞ、お入り下さいませ」
足を踏み入れた東宮が御帳台に歩み寄ると、侍座していた親王付きの女房が促した。
「どうぞ……御遠慮なく、親王様のお傍へお寄り下さいまし」
親王は、寝ている様であった。しばらく様子を見つめていた東宮が、女房に問い掛ける。
「親王は、寝ているのか? 意識はしっかりしておるのか?」
「先程、お眠りになりました。……よく休まれていらっしゃる様です」
頷いた東宮が、親王の胸元に滲んだ血の跡を認めると、にわかに女房を叱り付けた。
「なんと! 親王に血で穢れた衣服を着せたままにするとは何事か! 一刻も早く着替えを持参せよ」
顔色を変えた女房が慌てて衣服を取りに退出すると、東宮が辺りをぐるりと一瞥する。周囲に人気の無い事を確認すると、手早く親王の胸元を開いた。血の滲んだ包帯を
緩めると、懐から小瓶を取り出し、慎重に蓋を開ける。ふと、ぞくっとした気配を感じると、親王がじっと東宮をみつめていた。
「ふん……起きたのか」
「何をなさるおつもりです」
「これだけの傷だ……強がっても、起き上がれまい。おとなしく寝ていろ」
「この瓶は……?」
静臥する親王が瓶に手を伸ばすと、東宮がぴしゃりと払い除ける。鳩尾に一撃を食らわせ親王を昏倒させるや否や、東宮が得たりと笑うなり、瓶を傾けた。緑色の液体が
、血の滲んだ包帯の隙間に流れ落ちる。
「……さらばだ、大津」
東宮が耳元で囁いた。
衣装を取りに出た女房が戻り来ると、東宮がきっと女房を睨まえる。
「親王の世話をするのが務めの女房でありながら、親王の傷の手当てを怠るとは何事か! ……私が診た所、傷が既に緑膿に侵されていた。敗血症にでもなれば、命に関
わる重大事ではないか! 直ちに侍医を呼ぶのだ」
「え……傷が……?」
女房が蒼白になると、酷くうろたえる。
「何をしている、まずは早く侍医を呼ばぬか!」
お世話をしていた女房が、とっさに衣服を手に親王に駆け寄ると、親王がむくりと起き上がる。女房が手早く血で穢れた包帯と衣服を取り去ると、真新しい白布を手桶の
水に浸し、親王の胸元を拭き清めた。女房がほっと胸を撫で下ろす。
「何!」
絶句した東宮が、唖然として親王を見つめた。
「……傷が、無い? ……おのれ、貴様、どういう事だ!」
御帳台に安座した親王が、冷淡に東宮を見据えた。
「東宮様は、必ず自ら私の止めを刺しに来られると思っていました……」
怒り心頭に発した東宮が、激怒に手を震わせる。
「小癪な! ……私を、誑かしおったのか」
「嘘は申しておりません! 親王様は心身共に衝撃を受けられ、侍医の診立ての下、絶対安静を余儀なくされておりました。一度も、お怪我をされたとは申し上げており
ません!」
女房の反論に、東宮がぎりっと歯軋りすると、苦苦しく親王を睨み付けた。
「今日の所は、引き揚げてやる。命拾いしたと感謝するんだな」
「……そうは、参りません」
不意に、簀子から声が掛かる。直孝が捕縛した東宮の帯刀を引き出し、どんと東宮の眼前に突き出した。
「親王様を襲った賊の中に、此奴等が紛れておりました。此奴等は、東宮様の帯刀ですね? ……賊を仕掛けたのも、東宮様だったという証拠なのではないでしょうか?
」
東宮が鼻を鳴らすと、憮然として直孝を睨み付けた。
「貴様、たかが随身の分際で何様のつもりだ? 偶然居合わせた帯刀が賊の存在を逸早く見付け、親王を守るために後を追い、戦闘となったのではないか。親王の臣とし
て礼を言うならともかく、よりによって恩ある帯刀を捕え、あまつさえこの私の悪意を勘繰るとは……無礼討ちしても飽き足らぬ」
侮蔑に満ちた視線で見下す東宮に、直孝が毅然と言葉を返した。
「お言葉ですが、私の小刀はこの世に二つと無い特殊な形をしており、親王様に襲い掛かった逆賊共に応戦するに当たり、確実に傷を負わせてございます。帯刀が親王様
を守られたなら、私が投げた小刀で傷を負う筈がございません。ですが東宮様の帯刀は、全員が傷を負っております。私の小刀と照合すれば、ほら、私に穿たれた傷だと
分かるでしょう」
直孝が懐中の小刀を取り出すと、鞘を取り払う。四つ又に分かれた複雑な形状は、帯刀の傷痕とぴたり一致した。東宮がふふんと鼻で笑うなり冷笑する。
「その様な傷、今、簀子で帯刀を捕まえた貴様が、その場で付ければ良いだけの話ではないか。言い掛かりも大概にしろ」
「東宮……。見苦しいぞ、そこまでじゃ」
刹那、息を吞んだ東宮が蒼白になるなり親王を振り返る。親王が無言のまま御帳台背後の軟障をぐいと引っ張ると、軟障がふわりと舞い落ちた。突如として背後に現れた
空間に、整然と居並ぶ人の姿を認め、東宮の全身が凍り付く。
「……主上! ……何故……ここに?」
帝が不快千万に睥睨すると、冷淡に口を開いた。
「そなたの親王に対する凶行、全てをつぶさに見せて貰った。最早、言い逃れは出来ぬ。皇后、太政大臣を始め、ここにいる者達全てが証人じゃ」
居並ぶ重臣が御帳台に安座する親王の下に急ぎ罷り越すと、あたかも親王を守護する人垣の如く円座し、悉く東宮に詰難の眼差しを向け抗議する。
憤然としてはらわたが煮え繰り返った東宮が、きっと目を剥くなり親王を睨み付けた。
「姑息な真似をしおって! 貴様、主上が加持祈祷などと、偽情報を掴ませたのか!」
冷然として静黙する親王に、激怒した東宮が掴み掛かろうとした瞬間、主上が命じた。
「何をしておる、東宮を捕えよ!」
「はっ」
侍従が有無を言わさず東宮を捕縛すると、瞬く間に殿外へと引っ立てる。峻厳なる双眸で周囲を威圧した帝が、平然として勅命を下した。
「八条宮の東宮を廃位し、今、これより大津大浪皇子を東宮とする」
「はっ」
威儀を正した重臣達が、整整として深く平伏する。くらりと眩暈を感じた親王が、不意に脱力するなりその場にどさりと崩れ落ちた。
……駄目だ……思う様に、動かない……。
ありったけの力を両腕に込め、上半身を起こそうと試みる。渾身の力を振り絞ったにも拘らず、ぴくりとも動かせない。
……くそう……情けない。こんな所で……今……倒れる訳には……。
悔しさに拳を握り、ぎりっと歯噛みしようにも全身が強張り……どうにもならない。
……何度も、味わってきた感覚だ……。
……だが……もはや、疲れた……。
詮無き尽力に空しさを覚え、ただ焦燥を募らせると儚さを感じて脱力する。
……このまま……ふとした瞬間に……消え入るのだろうか……。
抗うのを止め、静穏の内に平安に至る。
……この感覚……覚えがある。
……伊勢からの帰り、間者と交戦した際、湖に落下した。氷点下の刺す様な痛みに体の自由を奪われ、鉛の如く重い体でようやく岸辺へ辿り着いたが、感覚を失い、力尽
きた。
……あの時は眼前が真っ暗だったが……今は、そうでもない。
……ただ、静かだ……。
不意に、ふわりとした温もりが手を包み込む。慈愛に満ちた春のひだまりの様な温もりがじんわりと広がり、冷えて頑なに固まっていた指先が、やんわりと解される。
心地良い……。
安らかに身を委ねると、冷たい鋼の如く凍て付いた全身が、ゆっくりと融解する。
……ふと、指先が動いた。
「……大津?」
東宮が、ゆっくりと瞼を開ける。
「……薫」
刹那、薫がしかと東宮を抱き締めた。
「……良かった、大津、良かった……」
抱擁したまま、薫が声を震わせる。
……温かい……。
瞳を閉じ、しばし薫の温もりを全身で感じると、東宮が朧げに薫を見つめた。頬に添えられた確かな温もりは何よりも心強く、深き海の如く寛容な双瞳が無上の喜びに潤
むと、拈華微笑に安慰する。
……俺は、再び帰って来た……。
東宮の双眸が俄に生気を取り戻すと、薫の肩を確と抱き寄せた。
「……心配を掛けたな。……今、戻った」
「……おかえり。必ず帰ると……信じていた」
長き眠りから覚めた東宮に、薫が艶然と微笑んだ。
「主上と母上は御無事か?」
東宮の問いに、薫が顔を曇らせる。
「主上は……負傷自体は軽く済んだが、破傷風の兆候が出た為、有馬の湯に治療に向かわれた。皇后様は重傷を負われ、お命に別状は無いものの、未だに意識不明の御重
体だ」
「何? 主上はともかく……母上がお怪我をされた……とは、どういう事だ?」
顔色を変えた東宮が、眉を顰めて薫を見遣る。
「中宮様の書状によると、お前を二条院に連れ帰った後、弘徽殿の上御局でお倒れになっている所が発見され……何故かお前の守り刀で腋下胸部を負傷されていた」
「俺の守り刀……だと?」
吃驚して瞠目した東宮に、薫が頷いた。
「馬鹿な……。あの時、肴を取りに行った母上が弘徽殿上御局に入られたまま戻られないので、俺が様子を見に行った。上御局の扉を開けた途端、直前に飲んだ酒に毒が
入っていた事に気付き、すぐに吐き出した。室内を見ると既に母上の姿は無く、足下には母上付きの女房達が死に絶えていて、ひとりだけ女官が立っていた。毒が回り出
し、片膝を突いて凌いでいたが、どうやら即死すると踏んでいた俺が死なない事に苛立った女官が舌打ちすると、刀を抜き斬り掛かって来た。とっさに突き飛ばし、守り
刀を投げ付けた。次の瞬間、帯刀が現われた」
「帯刀?」
頷いた東宮が、薫を見遣る。
「そうだ……。お前は、会った事が無いだろうな。現在は空位にしている帯刀先生(帯刀役の長)だが、かつてお前が就任した以前は、源直孝が務めていた」
「源直孝?」
静かに傾聴していた薫が、東宮をじっと見つめる。
「俺が東宮になった当時(四歳)から、お前に会う(十歳)直前まで、帯刀先生だった男だ。俺が親王だった時からの随身であり、守役であった。十一歳年上だったから
……今は、三十三になる」
「三十三歳?」
眉を顰めた薫が怪訝顔になると、単刀直入に核心を突いた。
「帯刀は加齢や負傷により敏捷性を欠くと引退するのが常だが、二十歳で引退とは早過ぎる。何故、彼は帯刀を辞めた(・・・)のだ? ……それとも、お前が罷めさせた
(・・・・・)のか?」
怜悧な薫の鋭い指摘に、お手上げだとばかり軽く片手を上げた東宮が、ふっと自嘲の笑みを浮かべ、俄かに遼遠な視線になる。
「……辞めたのだ。……とは言っても、俺のせいだ。町に出ていて野党共に襲われ、帯刀が……直孝が俺を守り、賊共を悉く斬って捨てた。……だが賊には子供が居たら
しく、懐に手を入れ、猛然と俺に駆け寄って来た。直孝は……懐から刀を出すと踏んで、迷わず先手を取り、一撃の下に斬り伏せた……。……だが彼女は、凶器な
ど持っていなかった。懐に忍ばせた盗んだ財布を返そうとして……許しを請う為、俺に走り寄って来ていたのだ」
言葉を吞んだ薫が哀然として、居た堪れない顔になる。
「全ては、俺を守る為にした事だ……。直孝に罪は無い。……だが、直孝の負った心の傷は深かった……。結局……考え抜いた末に直孝は帯刀を辞し、俺は、それを引き
留められなかった」
昔歳を回顧した東宮が暫し沈黙すると、遣る瀬無い心中を慮った薫が惻然として哀傷した。
稍あって、再び東宮が口を開くと話を戻した。
「現れた直孝の背後には別の男がいて、直孝に帝を殺す様に促した。夜御殿の入口に居た俺が立ち塞がると、倒れた女の衣を引き掴み、直孝が襲い掛かって来た。数度斬
り結んだが押し返され、そのまま直孝が夜御殿に乱入したので、抜刀して後を追った。だが毒で思う様に動けず、何とか帝の許に馳せ参じたものの、既に親父は気を失っ
ていた。二の太刀を防ぎ、迎撃するだけで精一杯だった。程なく……東庭から本来俺を(・)守る(・・)筈の(・)帯刀が集団で駆け付けたが、お前も知っての通り
……ここ数年、兵衛府に帯刀を要請した覚えは無い。武装した連中を十二人も連れて歩くのは、煩わしい以外の何物でもない。真っ平御免だ」
皮肉を込めた東宮の物言いに、薫がくっくと笑うと話の続きを促した。
「東宮様の帯刀というだけあって、口々に俺を守ると称した輩は実際の所、確かに真っ向からは俺に手出ししなかった。だが隙あらば親父に斬り掛かり、勝手に夜御殿を
踏み荒らした挙句、滅茶苦茶に破壊した。滝口の武士が駆け付ける直前、帯刀も直孝も逃げ去った。茜は、いかなる場合も俺が命じない限り、天井裏で待機している状態
が常だが、一連の逼迫した事態に適宜小刀を投げ、助太刀していた。帯刀共が逃げる際、茜に命じて直孝と帯刀を追わせたのだが……茜は戻ったか?」
「いや……」
夜御殿での詳細を聞き、沈深とした薫が静慮する。稍あって、口を開いた。
「だがお前が倒れて、実の所、まだ一日経っていない。じきに戻るか、報告が入るだろう」
「大津?」
不意に、背後の襖がぱたんと開いた。
「葵、紅蘭」
上半身を起こして薫と話していた東宮が、視線を上げ二人を見遣る。
薫と看護を交代し、宮中の典薬寮と中務省にて情報を集めていた葵と紅蘭が、揃って戻るなり欣喜雀躍した。
「大津! 目覚めたんだね! 良かった!」
葵が飛び付くと、駆け寄った紅蘭が東宮にしがみ付き、わっと泣き崩れた。
「襖近くで、声が聞こえたから……薫の独り言の筈ないし、もしかして……と思ったら、ああ大津、良かった、本当に良かったわ……!」
噦り上げた紅蘭が、今度は葵と抱き合い歓喜に涙する。紅蘭に託された父よりの書状に目を通した薫が顔を曇らせると、内薬司より気になる情報を耳にした葵が口を開い
た。
「ね、薫。友禅様の書状にもおそらく書いてあると思うんだけど、帝の御容体について、侍医団や父さんに聞いた所、やっぱり薫が疑問に感じていた通り、自然の経過で
破傷風になったとは考え難いって。受傷して数刻以内の発病なんて、僕も手伝って過去の受診記録をあれこれ探したけど、およそ前例は見当たらなかった」
「……何?」
顔色を変えた東宮に、普段と異なる気配を敏に感じた薫が振り返る。
「大津、どうした?」
東宮の脳裏に、過去の忌まわしい記憶がまざまざと蘇る。
「……八条宮だ」
ひと言呟いた東宮が、ぞっとした悪寒に見舞われる。いつになく神妙な面持ちの東宮に、感受性に優れた葵が心胆を寒からしめると、東宮に問い返した。
「大津……どういう事?」
東宮が炯眼を欹てると、葵に向き直る。
「……葵、お前は以前、最も恐ろしいのは遅効性の毒だと言っていた……正にその通りだ。八条宮は、欲しいものを手に入れるのに手段を選ばない非情なる性格……。嘗
て俺が親王時代、己の猜疑心から毒を盛り続け、周囲は誰ひとりそれに気付かなかった」
初めて耳にした衝撃の事実に、紅蘭が持っていた盆を取り落とすと、がしゃんと水差しが割れ飛んだ。
「奴が使う毒は病理に叶う、病の種……。自分が盛った痕跡を残さず、病に見せ掛け確実に死に至らしめる。親父が破傷風になったのは、おそらく刺客が太刀を病巣で汚
染させて負傷させた為……。それは嘗て奴が東宮を廃された際、重傷を負わせたと思い込んだ俺に、緑膿菌を用いて死を齎そうとした手段と同じだ」
弾け飛んだ破片を拾おうとして伸ばした紅蘭の手が、鮮明なる恐怖に凍り付く。生生しく蘇った過去の凄惨な場景に、その場がしんと静まり返った。
「なにも、驚く事はない。極めて古典的なやり方さ。……王族の使う、毒害だ」
「……王族が使う毒害?」
震慄した葵が尋ねると、頷いた東宮が淡淡として答えた。
「そうだ……。王族は、人々の支持無くしては王族で居られない。……権力を手にするまでは、あくまで善人で在り続けなければならない。だからこそ、本当に消したい
存在には、即効性の毒などで死んで貰っては困るのさ。死は、それらしき正当な理由と経過を辿り、自然死を装うものか不慮の事故死でなくては都合が悪い。間違っても
自分が疑われぬ様、平素から善良を装い、良心ある味方と思わせて裏をかき、残酷に欺く。万一足が付いたら、自らの忠臣さえ冷酷非情に切り捨て、自分のみが生き残る
。悲愴な顔で血族の死を悼みながら、転がり込む地位と権力に随喜の涙を流す。……それが、王族だ」
嫌悪を露わにした東宮が、自らさえ嘲る様に冷笑する。
「……親父についてだが、友禅と白山始め侍医団が付き、有馬へ行くのであれば心配無い。親父も友禅も白山も、過去の経緯は踏まえた上での動きだろう。敢えて今、都
を留守にするのは、八条宮の思惑と気付いた上で、それなりの対策を取るつもりなのだろう」
東宮が葵と紅蘭に目を配ると、惨慄して絶句する二人を見つめ、苦笑する。
「ふん、そんな時化た顔をするなよ。……臆した所で、どうにもならん話だ。……だが、八条宮が狙いを定めたのであれば、必ず母上にも止めを刺そうと画策する筈。…
…母上に今、病の兆候が無いのであれば、葵と紅蘭は直ちに後宮へ行き、といちと共に交代で母上に付き添い、降り掛かる毒害を未然に防いで貰いたい」
「大津……」
続く言葉を失い、言葉を吞み込んだ二人が涙ながらにただただ頷くと、危急を察して決意を新たに、急ぎ部屋を後にする。
「薫……桔梗に繋ぎを」
頷いた薫が機微を敏に察すると、東宮の肩を抱え、東宮の双眸をじっと見つめる。
「大津……まさか……お前……」
蒼白になった薫に、ふっと揺らめいた東宮がどっと体を預けた。
「ふっ……どうやら、そういう事だ……」
悪寒に震える東宮を、しかと抱き留めた薫が東宮の頬に手を添える。
「馬鹿な……お前は、無傷だった筈……」
言い掛けて、はっとした薫が息を吞む。まさか……まさか……。
「……気にするな、お前の所為ではない」
微笑した東宮が、静かに両目を閉じる。未曾有の恐怖が薫を貫き、残虐に肺腑を抉り取る。
「……伊勢での負傷か? ……そうなのか? ……大津、いつからだ?」
悲痛に叫んだ薫がぎゅっと東宮を抱き締め、為す術無く非絶する。
「……言っただろう? ……王族の宿命だ……」
東宮の体がにわかに発熱すると、見る間に凄まじい高熱となる。
「大津、大津」
必死に呼び掛ける薫に、東宮が微かに答えた。
「……恐れるな。お前は……お前のやり方で行け……」
「大津!」
くらりとした眩暈に、がくんと倒れた東宮の意識が、ふっと遠退いた。