未曽有の大事件
薫が伊勢より都に帰参して早、一週間。既に礼賛は帰国の途に就き、帝への報告も無事済ませた薫は、ここ数日、留守中溜まりに溜まった政務に追われ、連日深夜まで清
涼殿に出仕していた。
凍て付く厳冬の深深とした寒さを憂えた帝が、冷冷閑散とした殿上の間で残務処理に励む薫をいたわり、より暖のある台盤所を人払いし、詰所として開放していた。こぢ
んまりとした室内は、大机に書類が積み上げられ、椅子が二つと調度類が過不足なく整っていた。
「終わった~!」
自らの申し出により薫に付き合い、残務処理を手伝っていた紅蘭が、からりと筆を擱くと大きく伸び上がる。ふっと気を緩めて脱力するなり大きな欠伸を堪え切れず、憚
りながらふわわと吐いて涙目になると、ちらと横目で薫を見遣った。
「ね、そっちはどう? 終わりそう?」
顔を上げた薫が、すいと柔和に視線を流す。
「そうだね……あと半刻で、今日の所は終えるつもりだよ」
再びすらすらと筆を走らせた薫に、紅蘭が軽く溜息を吐いた。
「あと半刻も? ……もう明日になってしまうじゃない。……まったく。手抜きひとつ、欠伸ひとつしないなんて、薫の辛抱強さと集中力には恐れ入るわ!」
凝り固まった首を回し、肩を上下させて凝りをほぐす紅蘭に、その態度にも言葉にも疲労が一挙に溢れ出た様子を見て取ると、筆を擱いた薫がふっと微笑むなり席を立つ
。台盤所の片隅に置かれた私物の竹籠から陶製の瓶と優美な杯を取り出すと、優雅な仕草でなみなみと注ぎ、ふわりと紅蘭に差し出した。
凍えた手を火鉢で温めていた紅蘭が、きょとんと瞳を瞬かせる。
「え?」
「……梅酒だよ。少し、私も休憩するとしよう」
穏やかに微笑んだ薫が、自らも杯を手に取ると、椅子に深く腰掛ける。
「……やだ、ごめん。そういうつもりじゃなかったのよ。薫の仕事の邪魔するつもりは、さらさらないの」
しゅんとして俄に小心となった紅蘭に、薫がくすりと笑った。
「私も、邪魔されたつもりは全くないよ」
「……まさかこれで、ますます仕事の上がりが遅くなったりしない?」
火鉢に炭を足し、ゆったりと寛ぐ薫に、紅蘭が上目使いにじっと見つめて確認する。その妙に真剣な眼差しに、薫が思わず吹き出しそうになった。
「大丈夫。今日は大方これまでにして、後は明日にするよ。勿論、私がそうしたいからだ。……それにしても、随分と今夜はしおらしいね、紅蘭。どうかしたのか?」
はにかんだ紅蘭が、自嘲気味に笑うと答えた。
「……実は、最近、あまりよく眠れていないのよ。寒さのせいかしら。寝ようとすると、変に頭が冴えてしまって。余計な事ばかりが頭を過って、……後から考えれば、
どうでもいい事だったりするのに、妙に気になったりして。要は、眠る事に集中できないのよ。で、翌日はまた、眠れなかった前夜を思い出して、原因を延々と考え込ん
だりして、また眠れないの。その繰り返し。……だから薫も、もし寝不足が祟って、私みたいになれば気の毒だと思って……。ちょっと気になったの」
受け取った杯をゆっくり回しながら、紅蘭がそこはかとない視線になる。
「眠る事は、そもそも『集中』するものではないとは思うが、寝付きが悪いとは切ないな、紅蘭。私は頭痛で悩まない限りは眠れないことは無いが……。……そうだな。
どうせ考えすぎて眠れないというのであれば、いっそ夜更かしするとして、碁でもひと差し相手になろうか? 心地良く疲れて自然と眠気がでれば、瞬く間に眠れるだろ
う」
「いやよ」
「?」
「……だって、薫はめっぽう強いんだもの。負けたら負けたで悔しいし、かといって手加減されたらなお悔しいし、自分が情けなくなって、悲しいもの」
紅蘭が駄々っ子の様な膨れっ面になると、薫を軽く睨み付けた。あまりに素直な物言いに、くっくと笑った薫が、やんわりと紅蘭を見遣る。
「……かと言って打たないのでは、いつまでも上達しないだろう?」
「そうよね、その通りなのよ。……あ~あ。双六だったら運の強さだから、負けないんだけどな~! ……あれは人数がいないと、つまらないしね。……よし、決めた!
」
手にした杯を一気に呷ると、紅蘭が空になった杯を薫の眼前に差し出した。
「もう一杯、頂戴! ……今夜は、いつもなら眠る前に考えてしまう事を全部、口に出すことにするわ! 薫には悪いけど、碁の代わりに、このとりとめのない話に聞き
役として付き合って貰うわよ」
しばし両目を瞬かせた薫が柔和に頷き微笑むと、手にした瓶をゆるりと傾け、紅蘭の杯を再び満たす。豊かな黄金色に彩られた芳醇な梅の香りがいっぱいに広がって、何
とも心地良い。潤沢なる甘露に誘われた紅蘭が陶然と杯を見つめ、思わずふっと口元に寄せた。
「芳しい……」
先程は味も分からず一気に飲んだりした我が身をはなはだ後悔しながら、紅蘭が唇をそっと潤した。
「美味しい……」
艶然として薫が頷いた。
「今年の新酒だよ。丁度、飲み頃になった。……好きなだけ、楽しんだらいい」
「……とても贅沢ね、私」
火鉢の熾し炭が火勢を得て橙色になると、凍えて強張っていた紅蘭の両手が、じんわりとほぐれて感覚を取り戻す。ぬくぬくとして仄かに上気した頬が、何だか少しこそ
ばゆい。
「……あったかい」
さらりと流れる長い髪を払いながら、紅蘭が椅子に凭れた。……幸せだわ、とても……。
「……薫、私ね……」
瞼が少し、重くなってきたみたい。……いやだわ、私、酔っているのかしら……。薫に、今日は長丁場になるって宣言したのに……。
「……ええと……ね」
次第にこっくりとして、まもなくうとうとし始めた紅蘭を見て取ると、薫が慈愛に満ちた眼差しで微笑んだ。席を立ち、真綿入りの打掛を手に取ると、温雅な立ち居振る
舞いで紅蘭に歩み寄り、ふわりと掛ける。
「やれやれ、余程に疲れていたと見えるね、紅蘭。……ゆっくりお休み。後で、送るよ」
薫は自席に戻ると、しばし紅蘭が寝入るまで、仕事の続きを再開することにした。
薫がただならぬ異変を察知したのは、その僅か寸陰後だった。鈍い金属音が数度響いたかと感じた刹那、
「誰か――っ!!」
突如、宿直の女房の悲鳴が無音の闇夜を劈いた。
「出会え――っ!!」
「誰か、出会え――!!」
宮中の警護を預かる滝口の武士の励声が轟いたかと思うと、けたたましい呼子の音が非常事態を告げ、大音響で鳴り響く。
瞬時に方向を感知した薫が、とっさの判断で隣室の朝餉の間を通り抜け、無礼を承知で迷わず裏から夜御殿に踏み入ると、跳ね上がる様に飛び起きた紅蘭が慌てて台盤所
を飛び出し、薫の後を追い、僅かな距離にある帝の御寝所、夜御殿に駆け付けた。
「主上、如何なされました!」
飛び込んだ薫が目にしたのは、にわかに信じ難い光景であった。
切り裂かれた几帳に、斬り付け引き倒された大屏風、破壊された萩戸には腰を抜かした宿直の女房がおののき、二間に伺候する夜居の僧が柱にもたれて朦朧と座り込み、
夜御殿の帳台には片膝をついた東宮が、負傷して気絶した様相の帝を肩に抱き、帳台に刺した太刀にかろうじて掴まり、どうにかやっと、自らを支えている有様であった
。
「主上! 東宮様!」
薫に続き、大挙して駆け付けた侍従、女房、滝口の武士達が我が目を疑うなり、しばし茫然自失に立ち尽くす。薫が直ちに東宮に駆け寄ると、まず手早く帝の安否を確認
するなり、ほっと胸を撫で下ろす。ようやく我に返った侍従と女房達が急ぎ御許に寄り、東宮と薫から帝を慎重に抱き取り丁重に寝かせると、ただちに侍医が呼ばれた。
いまだ息急き切って動けずにいる東宮の受傷を憂慮しながら、手を貸した薫が東宮を抱き寄せる。
「大津! 大津! ……どうした! 怪我は?」
動揺を隠し切れず、東宮の頬に手を添え脈を確認した薫が受傷を疑い、東宮の衣を手早く緩める。東宮が双眸をゆっくりと欹て僅かに首を振ると、負傷を否定した。
「……薫……か。……刺客……だ」
肩で息をする程に荒かった東宮の息遣いが、見る間に少なくなる。……まさか。
「……毒を盛られたのか?」
瞬時に顔色を変えた薫に、東宮が微かに頷き肯定した。
「……すぐに気付き、皆、吐いたつもりだったが……痺れる……な」
駆け付けた紅蘭が、想像を絶する恐怖に、背後で肝を潰して凍り付く。毒の懸念から、敵の分からぬ今、葵以外の処方を避けたい薫が周囲を鋭く一瞥し、紅蘭に命じた。
「紅蘭、早く、水を持て!」
紅蘭が、弾かれた様に御殿を飛び出した。
「毒と分かっていながら、何故、動いた?」
薫が無念至極とばかり唇を噛み締め、東宮の胸元をぎゅっと掴む。
「……酒だ。……親父も母上も飲んでいない。……帯刀は……茜に追わせた」
「……帯刀? ……皇后様も御一緒だったのか? 皇后様は御無事か?」
「……姿が消えた」
「何?」
刹那、東宮が大きく息を吐くと、つらそうに眉を顰めた。
「大津……! 気をしっかり持て。必ず、助ける」
万感込め、薫が東宮の手を固く握り励ますと、紅蘭が疾く持ち来た水を、火鉢の炭粉を浮かせ大量に飲ませる。
「……ふん……そう簡単に……この俺が、くたばるとでも……?」
だがやがて、強気の言葉とは裏腹に……ゆっくりと瞳を伏せた東宮の肢体は強張り始め、最早、呼び掛けても何の反応も示さなくなった。
「いやあ……っ……!!」
絶叫しかけた紅蘭の口をとっさに手で塞ぎ、薫が額を寄せ、耳打ちする。
「紅蘭、ひそかに……酒の入った瓶と杯を、二条院へ持ち帰れ」
鬼気迫る薫の命に、言葉を失った紅蘭が、ただ頷き承諾した。
東宮をしかと抱き抱えた薫が、峻酷冷厳な双眸で立ち上がる。
「……これは……一体? ……何事が起きたのじゃ!」
後宮の女房達から一報を受けた中宮萩の方が急ぎ参上すると、夜御殿のあまりの惨状に度肝を抜かれ、呆然とする。薫に抱き上げられた東宮を認めると、気丈で名高い中
宮が、心胆から恐怖するなり絶句した。
「薫殿……っ! ……と……東宮は?」
寸暇を惜しむ薫が立礼したまま、淡淡と中宮に答える。
「……ご覧の通り、刺客です、中宮様。東宮様が、毒でお倒れになりました。私は東宮様をお連れし、これより救護の為、二条院へ戻ります。主上は負傷されましたが御
無事です。
ただ、現在、皇后様の御所在が不明です。お二方は、経口による毒害を免れておいでの様です。……後を、お任せして宜しいでしょうか」
顔を上げた薫の視線が一瞬、中宮と重なった。その冷静な態度と非情なる双眸の奥底に、灼熱の激怒を垣間見た中宮が、薫の心中をいたく察するなり深く頷き承知する。
目礼で謝意を示した薫が瞬時に踵を返すと、気絶したまま治療を受ける帝の御前に歩み寄り、深く一礼した。
「……主上。今、お傍を離れるは不敬なれど、東宮の臣として、その責を全うします」
主上の手当てに追われる侍医と侍従長に細心の救護を重々依頼した薫は、宮中の警護を預かる滝口の武士に夜警を誡めると、夜居の僧と宿直の女房を伴い、二条院へと急
行した。
中宮の命により、ただちに清涼殿、後宮の一斉捜索が始まった。
「きゃああああああああああああ! 皇后様が!」
殿上に女官の悲鳴が響き渡る。夜御殿近くの弘徽殿上御局に、胸を刺された皇后と皇后付きの女房が倒れている事が発見されたのは、それから暫くしての事であった。
東宮を連れ二条院に戻った薫は門を固く閉ざし、邸宅全体にかつて無い厳重な箝口令を敷くと東宮私室に引き籠り、外部から一切の情報を遮断した。ひそかに呼ばれた葵
と紅蘭が東宮に付っきりで救護に専念し、薫は信頼と諜報員を集め、清涼殿から連れて来た夜居の僧と宿直の女房を尋問しながら経緯を詳細に尋ね、今後の対策を講じる
協議に入った。
まもなく宮中より中宮の急使が到着し、皇后の負傷を知った薫が静臥する東宮の御許へ戻り来たのは、二条院へ戻ってから一刻が過ぎた頃であった。
東宮の枕元へと歩み寄った薫が粛粛として侍座すると、東宮の脈に触れ、顔色を窺い、呼吸を診る。顔を上げると、神妙な面持ちで東宮の治療に励む葵に尋ねた。
「葵、容体の経過はどうだ?」
「……相変わらずの微弱な呼吸だけど、時折大きく呼吸が乱れたり、浅くなったりを繰り返してはいるものの、一番悪かった状態よりも悪化する事はなくなった。まだ予
断は許されないけれど、注意深く見守っていれば、対応可能な状態だと思う」
「……そうか。……大津」
薫が東宮の手を取り両手でしかと握ると深く頭を下げ、己の額を静かに押し当て、一心に祈った。殿上では強く硬直していた東宮の手が僅かに緩んだ様に感じると、一縷
の光明を信じて葵を振り返る。
「……葵、紅蘭の持ち帰った酒と杯を調べたか? ……毒は、河豚のものだったのか?」
生死に関わる非常事態に際し、極力無駄を省いた実利の会話を弁え、葵が端的に頷いた。
「うん、間違いない。……それと、実は酒は無毒で、杯に塗られていた様なんだ」
「何?」
眉を顰めた薫が不可解な顔になる。
「お酒好きの皇后様は、酒器を凝るのもご趣味だったから、大津用の杯は常に決まっていた筈なんだ。三つの杯の内、毒が入っていたのはひとつだけ。おそらくこれは当
初から、大津に毒を盛る目的で、計画的に仕掛けられた陰謀だと思う」
侍医である葵が恐ろしい懸念を指摘すると、にわかに信じ難い面持ちで紅蘭が反論した。
「一体誰が? 何の為に? ……帝と皇后様もおられる席で大津を毒殺しようとしたの? しかも事件が起きたのは、もっとも警備が手厚い清涼殿なのよ! およそ普
通じゃ考えられないわよ! ……ねえ、薫。貴方は大津から毒の正体も聞いていないし、毒を見た訳でも無いのに、なぜ河豚毒だと分かったの? ……まさか、何か心当
たりでも?」
薫が溜息をつくと頷いた。
「……伊勢からの帰り、大津から直接、聞いたのだよ。大津が伊勢に来る前、南紀白浜にお住まいの大叔母である元斎宮様に呼ばれてお会いした際に、『河豚毒』に気を
付けろと忠告されたと……。『俺は食べないのにな』などと一笑に付していたが、大津が『痺れる』と訴え、症状に麻痺、硬直、呼吸困難が出た事で、もしやと思ったの
だよ。……大津も毒に気付いた瞬間、同じ事を思った筈だ。河豚毒には解毒薬が無い。……だからこそ、直ちに自ら処置した筈だったのに……」
遣る瀬無い思いに、薫がぐっと拳を握り締める。紅蘭が溢れ出る思いを抑え切れず、薫に向き直ると、薫の衣をぎゅっと引き掴んだ。
「私と薫が駆け付けたあの時、帝は気絶されていて、大津は帝を肩で庇ったまま、毒が全身に回り、既に動けなくなっていた。……ねえ、薫。夜居の僧と宿直の女房は何
を見たの? 何があったのか、全て聞いて来たのでしょう?」
興奮頻りの紅蘭を、背後から肩を抱いた葵が慰めながら無垢な瞳で薫を見つめ、誠意ある回答を促した。頷いた薫が葵の意を酌み、口を開いた。
「……いつまでも不在となっている東宮妃の問題について、どうするつもりなのかと……大津があの通りの性格だから、まず本人の意思を確認するつもりで、帝と皇后様
が夜御殿に呼び出されたのだ。様々な思惑を持つ側近を遠ざけ、宿直の公達や世話役の女房達さえ退けて、大津の率直な本心を探られるおつもりだったらしい。……無論
、その様な目的の御召とあれば大津が来ないので、呼び出す名目は単に、酒飲みとの事だった様だ。皇后様付の女房達はみな弘徽殿上御局にて控え、宿直の女房は後宮と
清涼殿を結ぶ北廂にて待機し、忍ぶ人影が無いか見張る役を仰せつかり、夜居の僧も昆明池障子前の広廂にて、同じく見張り役を任されていたらしい」
「……それは、誰からの情報?」
瞳を上げた紅蘭が、素直な疑問を口にした。
「先程、中宮様から書状が届いた。意識を取り戻された帝が、中宮様に経緯をお話しになったとの事だ」
納得した紅蘭が小さく頷く。
「それで?」
「皇后様ご自身が酒の世話をされ、酒を杯に注いだが、肴が何も無い事に気付き、弘徽殿上御局に取りに行かれたらしい。お戻りがあまりに遅いので、大津が様子を見に
行ったのだが、席を立つ前に杯をひと息に飲んだ。そのまま上御局の戸を開け、中に入った途端に、金属音が数度したので、不思議に思われた帝が夜御殿からお出ましに
なった。途端に、上御局から飛び出た人影に襲われ、とっさの事で不意を打たれた帝は、負傷して気絶された。ここからは夜居の僧による目撃談だが、御溝水付近に待機
していた東宮の帯刀が、逃げ去る人影を見付け異変を察し、二間と上御局に大挙して押し寄せた為、御殿は踏み荒らされたという顛末らしい」
「帯刀? 大津は、連れ歩いていたっけ?」
深刻な疑問を感じた葵が首を捻ると、もっともな意見だと同調した紅蘭が、他にも沸沸と生じた疑問を一気に問い質した。
「上御局では一体何が? 帝が気絶された後、駆け付けたのは帯刀なのでしょう? だったら、上御局から戻った大津が帝を守ったのは何故? 帯刀ならば、東宮の守護
は勿論の事、帝の守護も当然のお役目の筈。……大津が帝を守護したままの姿勢で太刀を抜き、立てなくなるまで動かなきゃいけなかったなんて、どうしてよ!」
ぴくりとも動かない東宮を深く見つめると、紅蘭がぶわっと涙を溢れさせた。
「ねえ、薫なら分かるでしょう? 東宮の帯刀って誰よ? 一体、帯刀は何をしたのよ? どうして大津がこんな目に遭わなきゃならないの! 理不尽じゃない……これ
では、あまりに大津が可哀想じゃない……っ! 私も薫も近くにいたのに……居たのに! 何も……何も出来なかった」
激しい怒りと相当の自己嫌悪に駆られた紅蘭が薫の衣を引き掴み、震える手でその胸元を叩きながら、起きてしまったどうしようもない現実に慟哭するなり泣き崩れる。
「済まない……紅蘭……」
薫がぐっと拳を握り、唇を噛み締める。
「……なんで、……なんで薫が謝るのよ……」
詮無き事とは知りながら、紅蘭が遣り場の無い悲憤を迸らせた。東宮の足下に縋る様に崩れ落ちた紅蘭が、漣漣として泣き濡れる。姿見えぬ敵への憤りと罪悪感に苛まれ
る紅蘭の心情を慮り、自らの思いを重ねた葵が哀哀として薫に目を配る。紅涙に噎ぶ己の本心を胸奥深く閉じ込めたまま、東宮の傍に留まり続ける事も、感傷に浸り涙を
流す事すら許されない薫の過酷な立場を深く思い遣ると、千千に心を痛めた葵が涙を滲ませた。
「薫様、只今戻りました」
滑る様に襖を開け、平伏して現れたのは信頼だった。
「御苦労だった。……して、どうだった? ……主上と皇后様のご容体は?」
「……皇后様のご容体?」
酷く驚いた葵が瞠目するなり薫を凝視する。顔を曇らせた薫が頷いた。
「先程、中宮様の書状で明らかになった事は、もうひとつある。皇后様が弘徽殿上御局で、お付の女房達とお倒れになっていた。女房達は全て殺され皇后様は重傷で、現
在意識不明のご重体だ。東宮の……守り刀が胸に刺さっていたらしい」
「!」
「何ですって?」
葵と紅蘭が真っ青になるなり、続く言葉を失った。平伏していた信頼が顔を上げ、己の任務を忠実に報告する。
「帝のお怪我はごく軽傷で、部位から察するに、最初の一撃を防御されるために負われたものと考えられます。気絶の原因は、鳩尾に強い衝撃をお受けになった為と推察
されます。骨に異常はございませんが、鞘先で突かれた様な打撲痕が残っておりました。皇后様のお怪我は配下を女官として忍ばせ確認したところ、腋下近くの胸部に割
創を受けられておりました。臓器の損傷は無い為、直ちに命に関わる傷ではないものの、かなり深刻なご様子でした」
「そうか」
皇后の容体が深刻であるにも拘らず、薫がほっと胸を撫で下ろす。中宮の書状にて最悪を覚悟していた薫の心中を察した信頼が、口角を上げた。
「……安堵なさいましたか」
薫が頷いた。
「敵はあらゆる証拠を揃え、東宮を皇后様暗殺の首謀者に仕立てる算段だと憂慮していたのだが……まずは皇后様のお命に別状が無いと聞き、ひとまず安心した」
「まことに……不幸中の幸いでした。皇后様の負傷部位の詳細ですが、胸部外側の湾曲した肋骨に添う形で刀傷がみられました。傷はそのひとつのみです。腋下の受傷に
も拘らず、皇后様が羽織られていた唐衣には刀痕も血痕も見当たらず、中に着ていた小袿の背中側に血溜まりがありました。血痕は傷口周辺を除けば胸元に数滴、畳上と
几帳にも数滴が残されておりました。続いて皇后様付きの女房についてですが、死亡した侍女四名の内、河豚毒にて毒殺された可能性のある者は三名で、残る一名につい
ては胸に刀傷がございました。痕跡からして東宮様の守り刀と同様の形状である事が疑われ、即死と思われる致命傷であり、また損傷角度から、投擲による受傷と判断で
きます」
信頼の報告に傾聴していた薫が、納得した様子で頷いた。
「……成程。立ち姿の人間の腋下部分を腕の損傷無くして刺突するには、たとえ相手が無抵抗だったとしても難しい。また、上に羽織っていた唐衣を汚損せずに腋下を受
傷させるには、投擲では絶対不可能だ。……つまり犯人は、何らかの理由で既に(・)お倒れ(・・・)に(・)なって(・・・)いた(・・)皇后様の傍らに座し、東宮の守
り刀を使い、凶行に及んだとみえるな」
薫の鋭い明察に、数多の修羅場を潜り抜けて来た玄人筋の信頼が、感心するなり頷いた。
「はい。皇后様のお倒れになっていた原因につきましては、配下の者が、皇后様の耳下に
針孔を認めており……これは我らと同業の者か、或いは心得を持つ者の仕業ではないかと思われます」
「流石だね」
事件以来、はじめて薫が静かに口元を綻ばせた。
「細微に至るまで詳悉に調べ、常に先を読んで行動する君が、事こうなっては、どれほど心強いか……」
信頼の的確な諜報能力と確かな洞察力に満足した薫が、緊張を少し解いたのか、自らの見解を口にする。
「何故東宮が守り刀を手放し、不覚にも利用される経緯に至ったのか……気になっていた。だがこれで、ようやく繋がって来たな……。おそらく、死亡した侍女に何らか
の理由で守り刀を投擲したのは東宮だ。それを回収できないまま、悪用されてしまったのだろう」
信頼が、真摯に頷いた。
「私も同感です。残された血痕が何よりの証拠。犯人は、東宮様の投擲を受け死んだ侍女から、血が噴き出さない頃合い(・・)を(・)図って(・・・)守り刀を引き抜
き……そのまま血糊を拭かずに、無抵抗に横たわる皇后様に狙いを定めて刺突した。……そうでなければ、どう考えても、数滴のみ点在するという様相の血痕にはなりま
せん」
不意に信頼の双眸が、狐狼の如く鋭利になった。
「犯人は……殺しに慣れていますが、私どもの様な玄人ではありませんよ」
鋭意に発せられた警戒に、薫がじっと信頼を凝視する。
「確かに、玄人にしては失態が多過ぎる……。だが殺しを厭わない筈の人間が、致命傷を与えなかった事といい、未だ我々が気付いていない犯人の思惑があるとは思えな
いか?」
「仰る通りです。しかし玄人が素人に見せ掛けようとした場合、或る意味、ぼろが出るものなのですが……今回、それが見当たらない……」
真剣な表情で思考を巡らせた信頼が、新たな懸念に眉を顰めると薫に向き直る。
「……薫様。……もしこれが、玄人集団のなせる技であるとしたなら……敵の技量は正直、私共以上かもしれません。……確かに現状で、犯人を暗殺専門には素人と決め
つけるのは、早計かもしれませんね……」
静かに頷き、双瞳を伏せた薫が深く嘆息する。
「何れにせよ、犯人は『時』を知り、『機』を図っていた事は間違いない……」
自ら発した言葉を噛み締めるかの様に、薫がしばし無言になった。
……清涼殿にて側近も女房の姿も無く、宿直も寡少である宵など……。ましてや夜御殿という禁裏において、両陛下と東宮が一堂に会する確率など……奇跡的とも思える
機会を、確実に狙って実行するとは……。まさに驚異的な敵だ。
……犯人の目的は何だ……?
帝の暗殺ではなく、皇后暗殺を企て実行犯を東宮に仕立てる訳でもなく……東宮の毒殺こそが真の目的なのだろうか? 両陛下は、その陰謀に巻き込まれただけなのだろ
うか。……それとも、東宮が犯人の目的を妨害し、未然に防ごうとした結果としての現状なのだろうか……。分からない……。
単に不運が重なった一夜の悪夢の様であり、実は沸沸と燻っていた悪意が綿密なる計画のもと絶好の機を得て励起し、一瞬にして破滅的な害毒となって迸散し、浸潤し始
めたのではないだろうか……。
伊勢にて、私は自らの思慮に過信するあまり、長年に渡る知長の奸計であるとは露とも気付かず、結果として東宮を窮地に陥らせ、負傷させてしまった……。
己の不甲斐無さに慨嘆した薫が、奈落の深潭に崩落する。
今また、私は再び東宮を毒害から守り切れずにいる……。……なんという失態だ。
際限の無い罪の意識に絡め取られ、無間地獄に沈下した薫の思考に、不意に嘲笑する知長が鮮明に蘇る。俄にはっとした薫が、堂堂巡りの絶望を破り戦慄した。
……まさか……これはまた、周到な知長が仕掛けた罠なのか?
……つまり、これから(・・・・)始まる(・・・)悪夢なのか……?
平素はとかく温容な薫が冷冷とした沈黙を貫き黙考する。そのかつてない長き沈黙に、未曾有の恐怖を感じた総様がしんと静まり返った。やがてふと我に立ち返った様子
の薫が淡淡として口を開いた。
「諜報員の話では、今宵、東宮はいつも通り帯刀の護衛を近衛府には要請せず、茜のみを影従させ参殿したとの事……。この一件、現在調べを命じている『御溝水付近に
待機していた帯刀達』の正体を暴く方が早いのか……。或いは東宮が意識を失う直前に口にした、『帯刀は茜に追わせた』の言葉通り、事件の鍵となる人物を茜に追わせ
たのだとしたら、茜の帰参を待って、大きく事が進むのか……」
事件の概要が朧げながらも掴めてきたとはいえ、解決の糸口に繋がるどころか、なお一層の混迷となった深刻な事態に、天を仰いだ紅蘭が堪らず嘆息する。
「……上御局での真実を知っているのは、茜を除けば大津と皇后様だけ。……何としても、大津は勿論の事、皇后様には快復して頂かなければ……」
生来より大層な心配性である葵が、寂寂として頷くなり肩を落とす。
「もちろん殿上の侍医達もあらゆる手を尽くしていると思うけど……。もし悪意ある者が潜入していたらと考え始めれば、全てが心配になってくる……」
もっともな懸念に、信頼が応えた。
「現在、殿上各所に配置した諜報員の他、私の配下をそのまま女官、医官として潜入させています。……敵も、これ以上は、そう簡単に事を進められない筈。……まずは
それぞれの報告を待ち、手を打たれるとしますか?」
葵の憂慮をとりあえず払拭した信頼が薫に裁可を求めると、沈深とした薫が頷いた。
翌早朝、急遽内裏より呼び出された薫が直ちに参上すると、殿内は未明の大事件を受け、臨時の朝議が召集され、擾擾とした様相を呈していた。
薫の隣席に座した橘右大臣が、それとなく扇子を広げるなり口元を隠し、読唇を恐れて密やかに耳打ちする。
「……薫殿。簡潔に言うと、どうやら状況は東宮様に不利の様じゃ。勿論、こなたも出来る限りの加勢は惜しまぬが、本日の詮議は覚悟された方が良い」
「……どういう事です?」
俄の忠告に、眉を上げた薫が怪訝顔になる。
「……して、東宮様は御無事か?」
「……いまだ意識が戻られません。紅蘭が、付っきりで看ております」
「そうか……。一刻も早く、お目覚めになって頂きたいものだが……」
憂慮から焦燥を募らせた右大臣が、深く嘆息するなり緘黙する。
帝の出御を知らせる蔵人の声に、殿上がしんと静まり返った。腕に包帯を巻いた帝と中宮が平敷御座に出座すると、藤原左大臣が朝議の開始を厳かに宣言する。薫の父で
ある太政大臣友禅が一切の私情を挟まず、帝が中宮に話された内容を元に粛然として、起きた事実を一同に報告した。
経緯がひと通り説明されると、今度は各寮からの目撃情報や犯人の推測が飛び交った。
「薫殿の報告によれば、東宮様はいまだお倒れになったまま、一度も意識のご回復はされていないとの事……。皇后様もお目覚めにならず、主上は気絶されていたとの事
では、刺客の探し様がないではないか。夜居の僧と宿直の女房は、犯人を目撃しておらんのか?」
官吏全般の監察役である弾正台弼が、厳しい口調で侍従長を追及する。
「はい……。夜居の僧は、瞬く間の出来事で『凄まじい敏捷性を持つ男であった』という印象のみ、後は東宮様が『帯刀!』と叫ぶ声しか記憶していないとのことで、ま
た宿直の女房のいた北廂からは夜御殿が死角にあたり、この間のやり取りは見えておりません。女房の証言によれば、東宮様の帯刀が殿内に突入する以前に、上御局より
何度か金属音が響いたのを耳にした、との事でありました」
夜居の僧と宿直の女房を管轄する侍従長が礼に則り答えると、事件当日、同じ音を聞いた帝と薫が頷いた。
「そうじゃ。朕が、その金属音に異変を感じ、夜居の僧が保持する太刀を持とうと席を立った瞬間、影の様に飛び込んだ何者かが朕に衣を投げ、斬り付けて来おった。と
っさに太刀を引き抜き腕を交差して防御したが、衣のせいで、彼奴の顔は見えなんだ。防御姿勢が仇となり、二撃目に鳩尾を強襲され、不覚にも気を失ってしまった。…
…だが朕も確かに、東宮が『帯刀』と叫ぶ声を耳にした」
帝自身の証言に、薫が暫し沈思するなり静黙する。兵衛府大将が、御前に進み出た。
「帝が負傷された原因でもある『上御局の扉から飛び出した影』については現在、五衛府と検非違使が総出で捜索に当たっておりますが、何せその影を目撃したのは『帯
刀』のみで、しかも昨夜務めた『帯刀』自体が何故か、兵衛府近衛府の全舎人を探しても該当する者がおらず、行方知らずになっている次第です」
頷いた薫が口を開いた。
「昨夜、東宮様はいつも通り、兵衛府に『帯刀』の要請をしないまま参殿されました。つまり昨夜の『帯刀』は、東宮様のご意志とは無縁の『自称帯刀の集団』かと思わ
れます。故に私の方でも追手を掛けておりますが、いまだにこちらも行方は掴めていません」
「何、東宮様は『帯刀』を要請されていない?」
滝口の武士を預かる蔵人頭が、驚いた様に問い返す。『帯刀』を統括する兵衛府大将が、はきと頷いた。
「はい、内大臣様の仰る通りです。東宮様からの要請はございませんでした。私も兵衛府より、同様の報告を受けております」
にわかに殿上が騒がしくなる。喧々囂々と手前勝手な推測が錯綜した。
「……ということは、昨夜の『帯刀』は、何者じゃ? 兵衛府や近衛府に属さず、薫殿も知らぬとは二条院の私兵でもなく……自主的に東宮様の警護に当たっておったの
か?」
「いや、現在姿が見えぬという事が、何より怪しいではないか! 昨夜の『帯刀』を名乗る集団が善意であるとは限らぬ。……賊が名を騙り、侵入した可能性も否定でき
まい」
「しかし賊であるなら、そう易易と集団で禁裏に潜入するのは、いくら何でも無理ではないか? 偽物の『帯刀』に、滝口の武士が気付かぬというのも妙な話だ。……ま
さか、宮中に手引きした者がおるのでは……?」
「しぃ……滅多な事を口にするでない」
「内大臣様。……まさか都合により、貴方が『帯刀』を匿われているのではありませんな?」
突如として発せられた悪意ある物言いに、薫がゆっくりと炯眼を欹てる。挑戦的な発言に、好奇心を掻き立てられた無責任な殿上が、俄然ざわめいた。
「……何と、申された?」
大納言藤原元直が微笑を浮かべるなり主上に一礼し、薫に真っ向から向き直る。
「お気を悪くなさいますな。……主上の御為に、我ら臣下は、あらゆる刺客の可能性を考えなければならないという事ですよ。貴殿は東宮様の忠臣なれば、ゆめゆめ東宮
様をお疑いになる事はないでしょうが、次期天皇であり皇位継承権一位の東宮様が、帝を害し奉り、天皇の座を欲されたとしても、何の不思議もないという事を申し上げ
たかったのです」
あまりの暴言に、薫の双眸が見る間に冷厳になる。不愉快な邪推に、左大臣が眉を顰めるなり大納言を窘めた。
「大納言、不敬な憶測を申すでない。……そう自信有り気に大それた嫌疑を掛けるとは、無論、根拠あっての事であるのか?」
ふふんと鼻を鳴らすと、大納言が慇懃に一礼する。
「勿論でございます、左大臣様。……清涼殿を護持していた滝口の武士によれば、帯刀は昨夜、滝口の陣にほど近い御溝水付近に近侍しており、殿上の異変に気付き、東
宮様の危急を察して殿上に踏み込んだとの事でした。帯刀は『東宮様をお守りする』と口々に叫んでおったそうにございます。清涼殿の変事に驚いた滝口の武士が慌てて
帯刀に続き駆け付けた所、帝は既に負傷され、東宮様は帯刀に囲まれておいでになり無傷、滝口の武士の増援に気付いた帯刀が総じて東宮に一礼すると、逃げた刺客の影
を追うと言い残し、滝口の武士に後を託してあっという間に清涼殿を立ち去ったとの事でした。……今の話でお分かりの通り、東宮様の警護が第一の役目である忠義な帯
刀にも、清涼殿の警護が役目の滝口の武士にも、殿上の急変という対応に際し、なんの落ち度もございません。……それが帯刀のみ、ひと晩明けて近衛や兵衛府、東宮様
の御許にも居らぬとは……甚だおかしいではございませんか。都合の悪くなった誰かが、故意に、忠烈なる帯刀を口封じしているのでは……? そう考えても、道理に適
う話ではありませんか?」
殿上がしんと静まり返る。静聴していた太政大臣が、滝口の武士を預かる蔵人頭に尋ねた。
「大納言の申しておる事は、事実か? 今の言に、虚偽の部分はあるのか?」
辺りが身の凍る静寂に包まれた。派閥に属さず公平な人格者と名高い蔵人頭が、深深と一礼すると顔を上げる。
「は……。滝口の武士の目撃談は、まさに、大納言殿の言葉通りでございました。愚鈍な私には『真実』であるかは分かりかねますが、『事実』には間違いございません
」
傾聴していた中宮が眉を吊り上げると、にわかに口を挟んだ。
「帯刀のとった行動が忠義に見えても、必ずしも正義であるとは限らぬ。東宮や内大臣に、主上に仇なす歴とした証拠があるならともかく、悪意ある邪推をするは許せぬ
! 東宮は臣であるが、おそれ多くも帝の嫡子である。子が親を害するなど、忠孝の道に背く大罪。根拠の無い妄言は、天下動乱の大罪である。大納言、その畏れを知ら
ぬ不忠なる発言、耳を汚すばかりじゃ。控えよ」
大納言が冷淡に口元を綻ばせるなり呟いた。
「成程……。かつて谷間の姫百合に魅入られた貴女様は、東宮様に並々ならぬ遠慮がおありとお見受けします。公明正大な中宮様とは思えぬ程に、熱心に肩入れなさると
は」
「!」
「何?」
予想だにせぬ大納言の毒言に、とっさに冷静を装った中宮と薫が、内心はなはだ吃驚する。
……なんと、こやつ……わらわの秘密をどこぞで嗅ぎ付け、このわらわを脅す気か……?
心胆を寒からしめた中宮が、わなわなと怒りを滾らせ大納言を睨み付ける。人心を翻弄し貪り読んでは悦に入る大納言の下卑た視線を冷ややかに見遣ると、薫が艶然と口
を開いた。
「……貴殿の申す通り、あらゆる刺客の可能性を考えるならば、貴殿の推論もまた、ひとつの可能性に過ぎぬ。現段階で畏れ多くも東宮様を疑うとは、あまりに性急な結
論ではないのか? 中宮様は、東宮様を庇われたのではない。そもそも東宮様が帝位の簒奪を図られたのであれば、実母であらせられる皇后様までご危難に遭われる謂れ
は無いではないか。……公平に状況を見るならば、毒害に遭われた東宮様もまた重篤な被害者であるという事に、貴殿も異論はないだろう。それに貴殿の推察通り東宮様
が帝位を欲されたのであれば、御自身が毒害に遭われるというご行為は、著しい矛盾ではないのか?」
極めて沈着に論破した薫に、大納言が視線を上げると冷笑を浮かべた。
「内大臣殿は、弁舌巧みでございますなぁ。賊の仕業にしては、不可解ではありませんか。事実として、帝も皇后様も受傷された急難にも拘らず、帯刀に守られた東宮様
だけは無傷であられた。……毒害に遭われた事が、叛意の無い事の、なんの証拠になりましょう? 東宮様はかねてより激情家であらせられ、生来より主上に恭順だった
事など、ただの一度も無い御方。素行も甚だ破天荒にて、貴殿も数々の辛酸を嘗められた筈。東宮様の平素の常状あればこそ、拝察申し上げたまでのこと。皇后様は、大
それた凶行を止めようとして、不遇にも東宮様の守り刀を受けられたのかもしれませぬ。東宮様が御危篤であるならばいざ知らず、多少の毒害なれば、自作自演も何ら不
思議ではございますまい」
「何と……!」
不敬極まる冒涜に、殿上が呆然として言葉を失う。思慮深く寛容で知られる左大臣が怒りのあまり声を震わせ、大納言を睨み付けた。
「……何という不忠じゃ。賊の懸念も払拭できぬ内から、猜疑の目で東宮様を見るとは。此奴の舌こそ、百害あって一利なしじゃ。太政大臣様、大逆罪の適用も視野に入
れねばなりませぬ」
太政大臣が端然として襟を正し、大納言に問い質した。
「左大臣の申す通り、臣として皇族に嫌疑を掛けるは、あってはならぬ不義である。そなたは、八虐を自ら被る覚悟で物申しておるのか?」
殿上が一斉に目を見開き、耳を欹て傾注する。
「八虐を恐れ、正義が闇に葬られるならば、官吏である私が正さずして国の政道が守れる筈がございません。皇族であれ官吏であれ、疑わしきものは疑わしいと指摘した
までです」
緘黙していた右大臣が目を剥き、大いに怒ると叱声を放った。
「大納言、それは、恐るべき詭弁である! 貴殿の屁理屈によるならば、貴殿が有希皇子様を微塵も疑われない事もまた妙ではないか。皇位継承第二位であられる有希皇
子様も、第三親王の雨宮様も、帝位に絡めて動機を求め、貴殿の様な穿った心に懐疑の目で見るならば、早、親王殿下のみならず宮中全てが詮議の対象となってしまう。
この国の中枢を担う重責にありながら、充分な証拠の無いまま結論を焦り、天下動乱を招く讒言を言って憚らずとは、一体、どういう腹積もりか!」
「よくぞ申された、右大臣殿」
左大臣が深く同意すると、殿上がやんやと誉めそやす。はらわたが沸騰寸前に煮えくり返っていた中宮が満足そうに眉を開くと、衵扇を片手に艶笑を浮かべる。中宮の視
線に、僅かに微笑した薫が複雑な表情を垣間見せた。
故なき嫌疑に事態が膠着したままいたずらに時を費やし、妄執に取り憑かれた輩に糾弾された被疑者の立場なればこそ発言さえままならぬ薫が、人知れず嘆息する。胸奥
深く秘めた本心は最早一切の政務を投げ出し、一刻も早く、昏昏とした東宮の御許に馳せ参じたい衝動で溢れていた。八方塞の閉塞感に苛まれ、哀哀とした薫が静黙の内
に悲嘆する。
「……発言をしても宜しいでしょうか」
熱気を帯び、次第に険悪になりつつある殿上に、凛とした声が鳴り響く。
いまだ若輩ながら、英明を見込まれ昇進した清原中納言が進み出た。学者仲間として親交のある清原家の中納言に、良識的な発言を期待して安意した太政大臣が、温雅な
瞳で右大臣に目を配り同意を得ると、発言を許し指名する。
「清原中納言、遠慮なく申してみよ」
深深と一礼すると、中納言が冷静に口を開いた。
「ありがとうございます。……僭越なる言い方ではございますが、確かに左大臣様、右大臣様の仰る通り、大納言様の不穏当極まる発言は聞き捨てなりませぬ。東宮様へ
の無礼な態度は、責めを負うべき許されざる暴挙と言えましょう。しかしながら大納言様は、あくまでそういった可能性に言及したまでと申されておりますれば、これま
た国政の最高意思決定機関である太政官としての責を弁えた発言であるとも思われます。……いずれにせよ、証拠に乏しく、帯刀の正体さえ分からぬ現状なれば、可能性
だけの詮議をした所で不毛の議論。まずは皇后様東宮様におかれましては一刻も早くご回復頂く事に我々が全力を尽くしますれば、御二方よりいずれ、真実が語られるこ
とでございましょう。むしろ太政官としての我々が喫緊に為すべきは、こうした不測の事態においても諸事万端に差し障りが無い様、今後の対応を協議する事ではないで
しょうか。つきましては東宮様がご不在の間のご公務を、代理として有希皇子様にお務め頂き、国政が万事滞り無き様、毅然と対応されるのが最上と思われますが、如何
でしょうか」
紛う事なき正論に、殿上が総並に感嘆する。異論無き様子を踏まえた太政大臣が檀上の帝に向かい深く一礼すると、厳かに奏上した。
「中納言の意見は真に的を射ており、こたびの件に関する主上のお考えをお聞かせ下さい」
沈黙を保っていた帝が頷き、口を開いた。
「確かに清原中納言の指摘はもっともじゃ。……だが、何か勘違いしておるようじゃな」
「?」
何やら棘のある御気色に、不穏な空気を察した殿上が総じて静まり返る。
「藤原元直大納言についての見解じゃ。……太政官としての責を弁えた発言などと、評価しておったな」
眼光炯炯として、帝が委縮した殿上を睥睨する。
「は……」
太政大臣が帝のご不興を察し、短く御意に添うなり低頭した。
「藤原大納言に、申し渡す」
大納言が、その場で深く平伏する。峻厳なる面持ちで、帝が大納言を睨み付けた。
「太太しいのう、死罪じゃ」
「!」
「何と!」
突如として発せられたあまりに厳しい量刑に、度肝を抜かれた殿上が静まり返る。双眸を大いに怒らせた帝が大納言を平然と見下すと、鬱憤とした憤激を募らせ、御座に
突き立てた扇子を片手でみりりと圧し折った。
「……経緯がどうあれ、結果として全身を毒に侵されながら、ひとり朕を守ったのは東宮じゃ! たとえ朕が気絶していても、滝口の武士や内大臣、侍従達や女房共……
朕の急難に際し直ちに馳せ参じた全ての忠臣が、それを目撃した証人じゃ。……これ以上の真実があろうか。東宮は放逸にして手に負えない暴れん坊であるが、断じて姑
息で卑怯なる手段は選ばぬ奴じゃ。帝位を欲するならば、堂堂と朕に譲位を迫りに来るであろう。それが分からぬとは……そなたに邪心があるからよ。中宮の諌めにも耳
を貸さず、左右大臣の制止も聞かず、疑心暗鬼に捏造した妄想を殿上に強迫して良臣を誑かし、以て白を黒と思わせるとは! 何という恥知らずじゃ。そなたの様な臣な
ど、いらぬ。……連れて行け」
「主上! ……私は、決して……」
大納言が必死に取り繕うも、帝の玉意を受けた侍従長が侍従に命じ、有無を言わさず大納言を連れ去った。
「して、現在公務不能の東宮についてだが……」
あたかも何もなかったかの如く、帝が語調を変えずに話題を転じると、勅命を下した。
「東宮が復帰するまで、代理を有希皇子に務めさせる事は良かろう。……だが、あくまで代行じゃ。東宮の地位や立場が揺らぐものではない」
強大無比なる帝の御意志に、殿上が悉く平伏するなり拝命する。
「主上」
「なんじゃ」
双眸を転じた帝が、満足そうに薫を見遣る。
「内大臣。流石にそなたは、窮地においても冷静にして沈着、また驚く程に辛抱強いのう! 大したものじゃ。朕も東宮も、あの様な暴言は、聞くも腹立たしい性分でな
。いつ斬って捨てようかばかり考えておったわ! ……して、後日の死罪では不服か?」
深く座礼した薫が端然として顔を上げる。
「……いえ、ご高配は誠に有り難く、東宮の臣としましても、主上の信認篤き事は主の誉であり恐縮の極みでございます。……ですが大納言の死罪ばかりは、いささか行
き過ぎでございます。どうぞ御止まり下さいます様、伏して御願い申し上げます」
「ふん……何故じゃ?」
途端に帝が不満気な御気色になる。とっさに薫が適当な理屈を見繕った。
「只今、皇后様も東宮様も臥せられておりますれば……縁起でない事はおやめ下さい」
陰陽寮頭が易経を繙き、もっともな配慮であると薫に同調すると、帝が渋渋頷いた。
「ならば……幽……へ」
突如、帝の御唇がわなわなと震え、言葉が不明瞭になる。
「主上?」
不随意に震顫する御唇を認めた薫がさっと顔色を変えるなり、心胆から戦慄する。
「侍医を! 早く!」
急を知らせる薫の命に、殿上が蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「薫殿? いかがされたのじゃ?」
侍座していた中宮が驚き、帝の額に手を当て熱が無いことを確認すると、御唇が時折震える以外は、特段他にお変わりないとお見受けする帝の容体を察し切れず、狐につ
ままれた様子で目を瞬かせた。
帝の御許に参じ、速やかに御傷の包帯を解きながら、薫が中宮に囁いた。
「……破傷風の恐れがあります」
「破傷風?」
「はい。通常は、不衛生な状況下で受傷した場合に発生する感染症なのですが……」
中宮の疑問に短く答えた薫が、ふと緘黙する。
……昨夜、帝は直ちに侍医の診察を受けられ、衛生面では問題が無かった筈ではないか。……受傷された場所も、土壌近くとは無縁の殿上……。……破傷風の症状が現れ
るのは、受傷してから一週間以上が経過し、傷自体は治りかけた頃というのが圧倒的な通例だ。これほどまでの短時間に、破傷風を疑う症状が出るとは……どういう事な
のか?
駆け付けた侍医団が帝の創傷を丹念に診察する。直ちに破傷風の疑い、或いは近似した症状を齎す遅効性の毒物の疑いありと診断が下されると、朝議はその場で強制解散
となり、そのまま帝は侍医に伴われ、治療に入られた。