ミッション
あたたかい日でした。
ヤマダさんは、マンションのベランダでぼんやりしていました。
今日は日曜日です。奥さんや子供たちがみんな出かけてしまって、久しぶりにゆっくりと過ごせそうです。
ベランダからは、色々なものが見えます。時折前の道路を通り過ぎる車やトラック、ゆっくり歩くおじいさん、小学生の集団が自転車で走り抜けていきます。
人間だけではありません。鳥の群が近くの林から飛び立ち、一軒家の庭では犬が吼えています。かと思うとねこが屋根の上でのんびりと……え?
ヤマダさんは、思わずベランダの柵から身をのりだしました。ねこです。茶渋の縞模様のねこが、こっちを見ているのです。
ねこの姿が、かろうじて判るくらい遠いのですが、なぜかヤマダさんには判りました。あのねこは、ヤマダさんを見ています。
妙な迫力を感じて目を逸らし、しばらくあらぬ方を見て心を落ち着かせてから視線を戻すと、ねこが動いているのが見えました。
屋根から屋根へ、身長の何倍もあるような隙間をかるがると飛び移ります。ルートの選定も堂に入ったもので、無理がなくしかも最短距離のコースを着実に進んでいきます。
しばらく見ているうちに、ねこには目的があるらしいことが判りました。ねこは、ほぼまっすぐにヤマダさんのマンションに向かってきているようなのです。
このマンションに何かあるのでしょうか?
もっともねこがこっちに向かってくるのはただの偶然かもしれず、何かあったとしても、ヤマダさんに関係があるとも思えません。そもそも、ヤマダさんの部屋はマンションの最上階なのです。
そんなことを思っている間に、ねこはどんどん近づいてきていました。もうマンションの隣の家の屋根まで来ています。
ヤマダさんがベランダから身を乗り出して見ていると、ふいにねこが真上を向きました。目が合った、とヤマダさんは思いました。確かに、ねこの顔がこっちを向いています。まだ遠すぎて顔が点にしか見えませんが、それでもヤマダさんはねこの視線を感じました。
ただものではありません。凄い奴です。もしかしたら名のあるねこかもしれません。
ヤマダさんが視線を戻すと、ねこは次の行動に出ていました。ひょいと塀の上に飛び移ると、すばやくマンションの壁面に寄っていきます。そしてねこは、無造作に壁に飛びついて、そのままスルスルと昇り始めたのです。垂直の壁をです。
ヤマダさんがあっけにとられて見ているうちにも、ねこはマンションの2階の部屋のベランダに取りつきました。細い珊の上をかろやかに横切り、しばらく座って隣のベランダを眺めていたかと思うと、突然飛び移ります。
「危ない!」
思わずヤマダさんが叫びました。ねこの後ろ足がすべって空中に投げ出されてしまったのです。しかし、ねこは何と腕だけの力で窓枠にぶら下がり、そのまま横に移動してとうとう隣のベランダにたどりついてしまったのです。何という運動能力でしょう。ねこにしても、凄すぎます。
ヤマダさんの驚愕をよそに、ねこはあくまでクールに、着々とマンションの壁を登っていました。ベランダからベランダへ飛び移り、壁の突起や段差を利用して、とうとうヤマダさんの部屋まで来てしまいました。
ヤマダさんが後ずさると、ねこはひょいっとベランダに降りて、唐突に鳴きます。
「ニャー」
ヤマダさんは迷いませんでした。奥さんが用意してくれた、ヤマダさんの昼食用のおかずの中からヒレ肉を摘み出し、皿に載せてねこの前に置きます。
「ニャ」
ねこは、短く鳴いて当然のように黙々と食べます。ヤマダさんにはわかりました。このねこは、プロです。プロのねこに違いありません。
ねこは瞬く間に肉を食べ尽くすと、ヤマダさんを見て一言鳴きました。
「ニャー」
「うん、いつでも来てくれ」
ねこは、頷くような仕草をして、そのままクールに身を翻しました。ひょいっとベランダの柵に飛び乗り、姿を消します。
ヤマダさんがあわててベランダに出ると、ちょうどしっぽが屋上に消えていくところでした。帰りは階段を使うのでしょう。どこまでもクールでクレバーなねこでした。
「……やつとは、またいずれ会う日が来るだろう」
ヤマダさんもクールに呟きます。
空は、どこまでも青く広がっていました。
(終わり)