陽だまりの中で
陽を浴びて、良く手入れされている黒髪がつやつやと輝いている。
彼女は私の方を見て微笑むのだ。温かな陽だまりの中で。
私と彼女、名前でいうと木乃香と海未は相思相愛だった。
海未は小学校からずっと一緒のクラスで、高校に進学してからも運がよく同じクラス。これで10年連続になる。年を過ぎるごとに私達は仲良く、そしてお互いを好きになっていった。当然、いけないことだということは承知の上で、だ。大人になったら同性結婚出来る国に移住しようという話すらした。それ程に私達は本気で愛し合っていた。
「海未!帰ろ」
「うん」
こんなたわいもない会話の一語一語さえも大切にしていた。お互いに恐れていたのだろうか。いずれ私達の関係は何者かによって引き裂かれてしまうことを。
「ねぇあなた…」
「なんだ?」
「前にも言ったことあったでしょ?海未とすごく仲のいいお友達のこと」
「あぁ…確か木乃香ちゃんと言ったっけかな」
また妻の悪い癖が出たのか。海未の事となるとすぐに嬉しそうに、まるで自分の事であるかのように話す。
と、思ったが今回は何だか不安げな顔をしている。前のこの話題は明るかったような気がする。
「何か問題でも?仲がいいことはいいことじゃないか」
あさげを啜りながら聞いた。
「…それが…ちょっと仲良すぎないかしら?あの二人…」
「さあな。今時の女子高生二人の考えてる事なんて俺にはわからないよ。学生時代のお前の考えてる事もいまいち理解できてなかったけどな」
「なんか変な事がないといいんだけど…」
俺のボキャブラリーをスルーされ、その上粉々に砕きやがった。
「あんまり詮索するなよ。心配してることはわかるけど、なんか感じ悪いぞ」
「海未!おはよー」
「おはよう。木乃香」
私達は誰にも見つからないように、朝早くから登校するようにしている。こうして二人だけでいられるのは、休日と、こういった朝の僅かな時間だけなのだ。手を繋いでいるところを見られたら勘の良い人にバレてしまうかもしれないからだ。海未は親に早く家を出ている理由を部活の練習と言ってあるらしい。ところが勿論嘘で、海未の所属している箏曲部は朝の練習がない。
こうして二人で朝の時間を共にした後、いつものようにHRの為に教室に向かう。そしていつものように何事もなく終わるかと思いきや、担任が不穏な台詞を発し始めた。
「ここら辺で不審者の目撃情報がある。包丁を持っていたらしいから気をつけるように。下校時は二人以上で、夜は出来るだけ家からでないようにしなさい。」
世の中は危険になってしまった。不審者なんてこの辺は全く無縁なものだと思っていた。
不審者の目撃情報により、全ての部活は放課後活動なしで解散となった。詰まり帰りも海未と一緒なのだ。こんなに嬉しいことはない。
「木乃香…手、繋ご?」
朝ならまだしも、昼間から繋いでしまったら誰かに見られてしまうかもしれない。だが、内気な彼女からのせっかくの誘いを断るわけにもいかず、しばらくの葛藤の末についに繋いでしまった。
「木乃香の手、あったかい」
「海未もあったかいよ」
こんな幸せな時がずっと続けばいいのに。だがこの偽りの幸せはもう長くなかった。
「海未。ちょっと話があります」
「何?」
「これを見てどう思いますか?」
そう言って母が机の上においたのは、木乃香と海未が手を繋いだ写真が画面に映る携帯電話だった。
「これ…!」
「お母さんの友達が送ってきてくれたのよ。このことはお父さんが帰ってきてからじっくりと話し合います」
「違う…違う…!」
震える声で言い放った後、海未は靴を履いて全力で外に走っていってしまった。
「海未!」
そう読んだ時にはもう既に手遅れだった。
私は自分の部屋で好きな漫画を読んでいた。
「木乃香ー!冷めないうちにお風呂入って!」
もうすぐクライマックスだったから、終わってから入ろうとしたが仕方が無い。
階段を降りて一階にある風呂に向かおうとしたとき、プルルル、と電話のベルが鳴った。一番近いのは私なので私が出た。
「もしもし!?あの、木乃香さんのお宅ですか!?」
「あ、はい。私が木乃香です」
一体誰だろうか。物凄い慌てようだ。
「あの、うちの海未がお宅にいませんか?」
この人、海未の母親だったようだ。
「いえ、来てませんけど…何かあったんですか?」
「さっき飛び出して行ったきり帰ってこないんですが、心配で心配で」
もう真っ暗なのに海未が家から出た!その時今朝の担任の話と、海未の顔が頭に浮かんだ。
「海未…!」
私は受話器を放り出して海未と同じように家から飛び出していた。
「やめて!私お金なんて持ってない!」
海未は案の定不審者に追われていた。そして最後に公園の公衆トイレに逃げ込んだところで捕まってしまった。相手は包丁を持っている。まともに相手をしたら殺されてしまう。
男は私の髪の毛を掴んで引っ張った。
「痛い!」
「欲しいのは別に金じゃない。若い女と一発やってみたかっただけだよ!」
そう言って男は私の服を無理矢理引き剥がそうとした。
「海未!海未ー!」
もう小一時間程探しただろうか。海未は全く返事をしない。一度家に帰ろうとしたその時、なんと公園に海未を見つけた。
「海未!心配したんだよ…」
そう言って私が海未に駆け寄ると、海未は私の肩を荒っぽく掴んだ。
「海未…?」
下を向いているので海未がどんな表情をしているのかわからないが、明らかに只事じゃない事だけがひしひしと伝わってきた。
そのまま海未は私を公衆トイレに押し込んだ。
「ちょっ…海未?何やってるの?ここ男子の方だよ」
トイレ特有の独特な匂いと、便器からの鉄サビの匂いが私の鼻を刺した。さらに水で濡れているのか、床からペちゃペちゃというあしおとがする。
そのまま一分ほど海未は私を壁に押し付けて下を向いたまま黙っている。暗がりに慣れた目で海未を見ると、服が所々破れていて、靴を片方履いていない。そして何より海未の着ているキャミソールに点々と血痕が付いている。もう異常性を感じずにはいられない。
「海未!?何があったの!?」
私がそう言ったところで遂に海未が沈黙を破った。
「私、木乃香がすきだよ?木乃香は私のことすき?」
「えっ…勿論好きだよ?」
「なら…よかった…」
私はその時思い出した。このトイレはまだ一ヶ月前に作られたものだということに。つまり新品であるこのトイレの便器からは錆の匂いなどする訳がないのだ。ましてや水漏れで床が濡れているわけでもなかった。さっきから気になっていた違和感は、完全に目が暗闇に慣れてしまった事で全て理解することが出来た。
海未の足元に男の人が、捨てられた玩具の様に転がっていた。しかもその男のものと思われる血がまるで海のように床を一面覆っていた。そう、あの鉄サビの匂いと床の違和感は血によるものだったのだ。
「海未!これ海未がやったの!?」
「そうだけど、特にもんだいないよね」
海未の右手には血の付いた包丁が握り締められていた。男が元々持っていた物で、海未に取られて返り討ちにされてしまったのだろう。
その瞬間左腕に激痛が走った。
「っ!!」
「よけないでよ…これから私と木乃香は繋がって一つになるの。木乃香を殺して私も死ぬよ」
もう彼女は私の知っている海未ではない。
今度は痛みを感じなかった。私の左肩に包丁が刺さり、海未の顔を私の血が染めた。
私は体に力が入らなくなり壁にもたれたまま倒れた。
「聞いた?二組の海未さんと木乃香さんの話」
「聞いた聞いた!可愛そうだよね木乃香さん…」
窓から吹く風がこんなに気持ちいいと感じたのは初めてだ。どうやら私は生き残ったようだ。刺さった包丁が心臓まで届いておらず、出血が多かったものの一命を取り留めたのだそうだ。
あの時ショックで何が起こったのか理解できていない。
その後ニュースでこの事件のことが取り上げられた。包丁を持った不審者として現地で厳重注意されていた男と、高校一年の女子が公衆トイレで死亡していた、と。他重傷者一名は勿論私のことだ。
男は心臓を一突きされたあとに、胴体をめった刺しにされていた。女子高生の方は首に包丁が刺さったまま死んでいたと報道された。
後から聞いた話だが、海未はかなりのお嬢様で両親から受けるプレッシャーで押しつぶされそうだった。そこで私と一緒にいることでストレスを発散していたが、私達の関係が終わりになるんじゃないかと思い、半狂乱になって心中をはかったと。
私は今でも思い出す。気が遠くなる中、自害した彼女の姿を。
包丁を自らの喉元に突き立た。ごりっ、と首の骨に刃が当たる音がした後、腕に力が入らなくなったようで、血まみれの腕をだらんとぶら下げた。
血を浴びて、長い間逃げ回った髪が乾いて固まっている。
彼女は狂気に満ちた満面の笑顔を向けるのだ。生暖かな自らの血だまりの中で…。