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やっこと透と豆まきと

 節分の話や透についての相談をした次の日、やつこはまた礼陣神社に来ていた。今日はおばあちゃんと一緒だ。毎週日曜日は、神社の掃除に来ることになっているのだ。その習慣は、冬も変わらず続いている。

「昨夜も雪が降ったから、境内も水浸しだね。やっこ、転ばないように気を付けるんだよ」

「はーい」

 おばあちゃんのいうことをよく聞きながら、やつこは鳥居や拝殿を拭いたり、雪を除けたりする。鬼たちも手伝ってくれるので、掃除はそれほど大変ではない。おばあちゃんも、鬼たちとたわむれながら掃除をするやつこを目を細めて見ている。

 そんないつもの光景の中に、珍しい人がやってきた。やつこがバケツに浸しておいた雑巾を絞っていたとき、彼はちょうど石段を上ってきたところだった。

「あれ、鹿川君?」

「!」

 やつこが反射的に声をかけると、彼はその場で立ち止まった。それからあわてて踵を返し、石段を下りようとして、足を雪に滑らせた。

「あ、危ない!」

 やつこが叫び、おばあちゃんが透に手を伸ばす。けれども届かない。透は石段の下へ転がり落ちていく……はずだった。

 そこをとっさに助けたのは、おばあちゃんを手伝って鳥居を拭いていた鬼たちだった。上の方を拭くために宙に浮いていたのだが、階段を落ちそうになった透を見るやいなや、すぐに降りてきてその体を支えたのだった。透は前のめりになっていたはずが、なぜか突然石段の上に戻されて、ぽかんとしていた。鬼が見えない透には、何が起こったのかさっぱりわからないのだ。

「鹿川君、大丈夫?」

 やつこが駆け寄って尋ねると、透は我に返って、今度は慎重に石段を下りて行った。その背中を見送ってから、やつこは鬼たちにお礼を言った。

「みんな、ありがとう! 鹿川君、怪我しないで済んだみたい」

『なんのなんの』

『礼陣の子供を助けるのが、私たちの役目だからね』

 鬼たちもホッとした様子で、みんなにこにこ笑っていた。おばあちゃんも、ふう、と息を吐いていた。

「今の子、やっこのお友だち? 良かったねえ、鬼たちに助けてもらったんでしょう」

「うん。……でも、見えないからわかんないよね」

 今のできごとを、透はどのように感じただろうか。不思議なこともあるんだなと、流してくれるだろうか。それとも、不気味がってしまうだろうか。外から来て間もない人が、特に透のような子が、「鬼が助けてくれたんだ」と解釈してくれることはないだろう。

 それでもいいから、せめてちょっとでも話がしたかったなと、やつこは思った。


 次の日、やつこは教室に入って、すぐにみんなにあいさつをした。

「おはよう!」

「あ、やっこちゃん。おはよう」

「おはよう、やっこちゃん」

 たくさんの「おはよう」が返ってくるが、相変わらず透は無言だ。こちらを見ようともしないで、頬杖をついて宙を見ている。そこでやつこは彼の正面にまわると、もう一度、今度は透に向かって言った。

「鹿川君、おはよう」

「……」

 透は目を丸くしていた。周りのみんなも、息を呑んだようだった。先週もやつこは透に声をかけているが、ことごとく無視されてきた。それなのにまだ諦めていないのか、という視線もあれば、やつこならやってくれるんじゃないかという期待のこもった視線もあった。とにかく、みんながこちらに注目していた。

 しかし、透はやつこから目を逸らしてしまった。あいさつは返さない。そこでやつこは、作戦第二弾に出ることにした。その場に留まり、一回だけ深呼吸をしてから、透に向かって言った。

「わたし、根代八子。聞こえてると思うけど、みんなからはやっこって呼ばれてる。得意なことは剣道で、好きなものは商店街の和菓子屋さんで食べる抹茶パフェと、この町」

 周りのみんなはさらに驚いたようだった。やつこがどうして突然自己紹介なんか始めるのか、不思議に思っているらしい。けれども、これはやつこが考えに考え抜いた末の策だった。まずは自分のことを話せば、透も少しは心を開いてくれるのではないかと期待したのだ。

 やつこは透をじっと見つめていた。透はいつまでも自分の前に立っているやつこが気になるのか、ちらりとこちらを見ては目を逸らしていた。そうしてしばらく経ち、そろそろ先生が教室に入ってくるかという頃、透は眉を寄せたままやつこを見た。

「……あのさ、何なの? 俺に同じことしろっていうの?」

 そうして、やつこに問いかけた。うんざりしているような表情ではあるが、これはやつこにとってはチャンスだった。

「そういうわけじゃないよ。ただ、わたしはわたしのことを、鹿川君に知ってほしかっただけ。クラスメイトなんだから、名前と好きなものくらいは知っておいた方がいいんじゃないかと思って」

「別に俺はお前のことなんか知りたくもないし、好きなものとかどうでもいい。早くそこ退けてくれない?」

 しっしっと、虫でもはらうかのように、透は手を動かした。それでもやつこは怯まない。堂々とした態度で言い返した。

「邪魔してごめんね。でも、どうしても鹿川君と話したかったの。……昨日、神社の石段で」

「わ、ばか! 黙れ!」

 やつこが昨日のことを言いかけたとき、透の顔色がさっと変わった。今までに見たこともないあわてようで、やつこの言葉を遮った。やつこにとっても、他のみんなにとっても、意外な行動だった。

「……鹿川君、昨日の」

「昨日の話はするな! いいか、絶対だぞ!」

 試しに再度言ってみたら、やはり止められた。今度はきっぱりと、「昨日の話はするな」と。顔を真っ赤にして。転びそうになったのを見られたのが恥ずかしかったのか、それとも不思議な体験をしたことを気にしているのか。それはわからないが、とにかく彼は、あの場にいたのがやつこだと、ちゃんと認識していたらしい。

 やつこはそれがわかっただけで、少し嬉しかった。透は、他人に全く興味がないわけではないのだ。相手の顔は覚えるし、名前だってきっとわかっている。なにしろ彼は頭がいいのだから、クラスメイトの顔と名前は、すぐに一致させることができるだろう。

「ね、鹿川君」

 ちょっとずるい手だが、やつこは思いついてしまった。透と話すための、絶好の口実を。

「昨日のことは誰にも言わないからさ。お昼休み、ちょっと話そうよ」

 やつこがそう言ってにんまり笑うと、透は眉を寄せてこちらを睨んだ。けれども、何も言い返さなかった。このときたしかに、やつこと透は目を合わせていた。

 昼休み、クラス中の注目を浴びながら、やつこは透を教室から連れ出した。向かった先は、階段の踊り場。うす暗く、あまり人も通らないこの場所は、秘密の話をするにはちょうど良いスポットだった。

 やつこから目を逸らしながらも、透はちゃんとついてきてくれた。言う通りにしなければ、昨日のことをクラス中にばらされるとでも思っているのだろうか。もちろんやつこには、そんなつもりはないのだが。

「鹿川君、昨日神社に来てたよね。何しようとしてたの?」

「お前こそ、あんなところで何してたんだよ」

 質問に質問で返される。まずは自分が答えるべきかと思って、やつこはそのままを答えた。

「わたしはね、毎週日曜日に神社の掃除をすることになってるの。うちは神社の管理をすることになってて、大きなお祭りのときなんかにも手伝いに行ったりするんだよ」

「……そういうのって、神社の人がするんじゃないの?」

「礼陣神社は他のところと、ちょっと違うんだよね。神主さんって呼ばれてる人はいるし、一応それらしい仕事は少ししてるんだけど、一人で全部はできないから。わたしたち礼陣のみんなで、それを手伝ってるの」

「じゃあ他のところとそんなに変わらないんじゃないの? よその神社だって、宮司がいて、巫女がいて、毎朝神棚に供物を奉げて祝詞をあげたりしてるじゃないか。祭祀は青年会とか近所の商店街の人たちが手伝ったりもするし、違うことなんてないんじゃない」

 透はそんなことをすらすらと口にしてみせた。

 やつこはそれを、目を丸くして聞いていた。神主さんは、毎日祝詞をあげたりしているのだろうか。なにしろ本人が神社に祀られている大鬼様そのものだから、神様へのごあいさつなんておかしなことだ。自分へのあいさつになってしまう。だからだろうか、そんな「神主さんの仕事」について、あまり意識したことがなかった。

 いや、そんなことより、透はどうして神社のことに詳しいのだろう。

「神社に興味あるの?」

 やつこが尋ねると、透は「しまった」という顔をした。そしてあわててやつこから離れると、言い訳でもするかのように言った。

「こ、こんなの常識だろ。誰でも知ってることだよ」

「ううん。わたし、知らなかったよ。ずっと神社の手伝いしてるけど、あの神主さんが祝詞なんてあげてるの、見たことないし。せいぜいお祭りでちょっと出てきて、みんなにあいさつをしているくらいだもの」

「それ、本当に神主か? 神社の宮司って、もっと忙しいはずだぞ。祭りの前には茅とか人形とか、いろいろな準備があるはずだし、玉串も作って、祈祷もして……」

「ほら、やっぱり詳しい。神社、好きなんじゃないの?」

 やつこがくりんとした目で覗き込むと、透は顔を赤くして目を逸らした。それから、ぽつりと呟いた。

「……前の学校で、自由研究を提出しなくちゃならなくて。それでいろいろ調べたんだよ」

「そうしたら詳しくなっちゃったんだ! 鹿川君、すごいね! わたしなんか調べてもそのときだけで、すぐに頭から抜けてっちゃうよ」

 透の知識に、やつこは素直に感動していた。礼陣神社の「神主さん」が名前だけの存在だからだろうか、今まで神社の人々の仕事というものを、正しく認識していなかった気がする。

 やつこの家は神社の管理をしているとはいえ、担当しているのはほんの一部だ。礼陣神社は町の人々にそれぞれの担当する役割があって、それをもとに存続している、いわば町のみんなでつくる神社だった。なので、他の神社で働いている人のことなど、やつこはほとんど知らなかったのだ。

 それが、どうだろう。透は自由研究で調べただけで、こんなにもよく神社のことを知っている。その仕事がどれだけ忙しく大変なものであるかを、きちんと理解しているらしい。

「自由研究をしようって思うくらい、神社に興味はあったんじゃないの?」

「そのときたまたま神社の出てくる本を読んでいたから調べてみようと思っただけで、前からそれほど興味があったわけじゃない」

「お、本も読むんだね。どんな本が好き?」

「ミステリーとか、SFとか。勉強の合間、寝る前とかに少しずつ読むんだ。……って、何を聞き出してるんだよ。俺の弱みでも握ろうとしてるのか?」

 まだ少し警戒してはいるようだが、かなりのことを話してくれた。本当は、透は自分の好きなことの話ならいくらでもできてしまうタイプなのかもしれない。それなら、やつこにとってはとても好ましいタイプの人物だ。親友の結衣香は手芸が得意で、その話になると熱弁をふるう。紗智は小説や漫画が好きで、お気に入りの作品をたくさん薦めてくれた。透も彼女らと似ているような気がする。本が好きなところなんか、紗智と気が合うのではないか。

「弱みを握ろうなんてつもりはないよ。そうだ、SFや神様に興味があるなら、こんな話は信じる? この町の神様はね、鬼なんだよ。子供の味方なの」

 透はこの話を知っているはずだ。「鬼なんかいるわけない」と言いながら、神社の拝殿に向かって石を投げたのだから。先ほどの話を聞いて、どうしてそんなことをしたのだろうと、やつこは疑問に思っていた。

 その問いに、透は眉を顰めて、やつこを睨むようにして答えた。

「それ、近所の人が言ってた。礼陣の町には鬼がいて、子供を守ってくれるんだって。……でも、鬼なんか現実にいるはずないだろ。あんなの迷信だ。昔話の鬼だって、外国から来た大柄で赤ら顔の人間や、乱暴を働いた賊なんかを表現したものだって、本に書いてあった。それに、子供を守ってくれるって、どういうことだよ。鬼はいつだって、昔話の悪者じゃないか。退治しなきゃいけないものだ」

 それはやつこのいとこがいつか教えてくれた、「一般的な鬼」の話だった。いとこは年上で賢いので、礼陣の伝承を聞いては、「他のところではこういう話がある」と教えてくれた。それに、鬼がよく昔話で退治されてしまっていることは、やつこだって知っている。「桃太郎」なんかは、その代表的なお話だ。

 けれども、それは悪い鬼の話であって、良い鬼の話だってたくさんある。心優しい鬼を描いた作品のことも、やつこはいとこから教えてもらった。そうして礼陣の鬼たちは、そういう優しい鬼たちの一種なんだと思うようになっていた。

「悪い鬼ばっかりじゃないよ。礼陣にいる鬼たちはね、みんな笑ったり泣いたり、人間と同じように暮らしているの。人間を助けてくれることもあるんだよ。……昨日、鹿川君が石段から落ちそうになったのを、支えてくれたりね」

 やつこがにっこり笑って言うと、透は怪訝な表情をした。きっと、やつこが鬼が本当にいるようなことを言うので、不思議に思ったのだろう。けれども、鬼は本当にいるのだ。やつこはこの目で、毎日その姿を見ている。そして礼陣の人々も、鬼はいるものなのだと信じている。たとえ外から来た人が、「そんなのは迷信だ」と言っても。

「昨日のは、その、突風が体を押し返したんだよ」

「あのとき、風なんか吹いてなかったよ。鹿川君には見えないけれど、わたしは見えたの。鬼たちがさーっとやってきて、鹿川君が石段から落ちないように押さえてくれたのが」

「お前、頭おかしいの? そんなのあるわけないじゃん」

「そう思うならそれでいいよ。でもね、礼陣は不思議なことであふれてるから、きっと鹿川君も鬼を信じるようになるよ。たとえ信じなくても、鬼は絶対に鹿川君のことを助けてくれるから」

 透は変なものを見るような目でやつこを見ていた。でも、やつこは気にしない。外から来た人の反応は、それでいいのだ。だからこそ鬼たちは姿を隠しているし、鬼の子もあまり自分から「鬼が見える」ということを言わない。やつこはたった今、透に話してしまったけれども。

「……じゃあ、節分とかどうするんだよ。あれ、鬼を追い払うんだろ。『鬼は外、福は内』って言いながら豆をぶつけて、柊の枝で目を刺してさ」

「ううん、礼陣の節分はそうじゃないの。鬼を追い払うんじゃなくて、悪い気を祓うんだよ。だからね、豆を撒くときはこう言うんだ。『春よ来い』って」

 そこまで言って、やつこの頭にある名案が浮かんだ。少なくとも、やつこは名案だと思った。透がクラスの一員として参加できて、クラスのみんなも楽しめること。ちょうど次の日曜日は節分だ。みんなが学校にいる金曜日になら、それができるかもしれない。少し急だけれど、五年二組は団結力のあるクラスだ。準備もあっという間にできるだろう。

「鹿川君。礼陣の節分、やってみない? クラスのみんなで、一緒に豆まきしない?」

「は?」

 透は呆気にとられた顔でやつこを見た。けれどもやつこのきらきらした目を見ていたら、言葉を継ぐことができなくなってしまったようで、しかもちょうど昼休みも終わりに近づいていたので、それ以上は何も言わなかった。

 その日の帰りの会で、やつこはみんなに提案をした。神主さんから聞いた、「邪気を祓って春を迎える」という節分についての話をしてから、こう言った。

「わたしたちももうすぐ六年生になるし、嫌なことは全部忘れて、みんなで楽しい春を迎えたいと思います。だから、金曜日に時間を借りて、節分をやりたいです!」

 ちょうど金曜日の時間割には、学級活動の時間があった。本当はこの時間を使って、「六年生になったら何をしたいか」をみんなで考えることになっていた。けれどもそこをなんとか使わせてもらって、みんなで礼陣の節分をしてみたいと、やつこは考えたのだ。

 クラスのみんながわいわいと盛り上がり始める。「いいね」「楽しそう」という賛成の言葉があがるとともに、「豆は用意するの?」「恵方巻とかはいるのかなあ」という声も聞こえてくる。どうやらみんな、クラスでやる節分に興味津々らしい。あとは先生の許可だけだ。

「先生、金曜日に節分の豆まきをやってもいいですか?」

 やつこが真剣な表情で尋ねると、先生はちょっと考えるそぶりを見せた。やつこたちの先生は、ときどき厳しいけれど、楽しいことが大好きな先生でもあった。もったいぶって「どうしようかなあ」などと言ったあと、おもむろにチョークを手に取って、黒板に大きく文字を書いた。――「礼陣の節分体験」と。

「ちょうど鹿川君も転校してきたことだし、礼陣のちょっと不思議な文化に触れてみるのもいいかもしれませんね。それに、新しい気持ちで六年生になるというのも素晴らしいです。根代さんの提案、採用しましょう!」

 クラスのみんなから、やったあ、という声が一斉にあがった。やつこが透の方をみると、彼だけは驚いたような顔をしていた。こんなことが採用されてしまうなんて、思っていなかったのだろう。でも、それはやつこも同じだ。まさか本当に提案を受け入れてもらえるなんて、思っていなかった。みんなも喜んでくれたので、嬉しさもひとしおだ。

 あとは、透が休まずに参加してくれるだけだ。具合が悪いと言って、当日に休んでしまうという選択もある。その時間だけ保健室に引っ込むことだってできる。それは透次第だ。やつこができるのは、こうして「きっかけ」をつくるところまでだ。

 そうと決まれば、クラスのみんなはさっそく動き出した。やつこは剣道の稽古があるので長くは参加できなかったが、放課後に「豆をどうやって用意するか」などの話し合いをした。

「掃除が大変だから、豆粒を撒くのはやめたほうがいいかもね。わたしの家では、小袋に入った豆をそのまま撒くの。あとで拾って、食べられるように」

「学級活動って五時間目だよね。たしか金曜日は節分の特別給食のはずだけど、豆ってないかな」

「だめだ、給食は煮豆だった。これは撒いたらべとべとになっちゃうよ。もったいないし」

 様々な意見が飛び出してくる。やることが決まれば、このクラスはどんどん動くことができるのだ。そしてそれを引っ張るのが、大抵の場合やつこや雄人だった。

「ねえ、やっこちゃんはどうしたらいいと思う? 剣道に行く前に決めてよ」

「え、わたし? ……うーん、大豆や小豆はばらばらになっちゃうし、やっぱり袋で小分けにしてある豆を用意したほうが良いのかな。おうちでそういうのを用意してもらって、持ち寄ってさ」

「やっぱりそうだよねー」

 やつこが言うと、みんなそれに賛成して話を進めていく。でも、やつこの頭には、ふと海の言葉がよぎっていった。

「やっこちゃんが動けばみんなは安心するかもしれないけれど。でもそれじゃ、みんなやっこちゃんに頼りっぱなしになるよ」

 やつこの言う通りに、事は運んでいく。さっきまであんなに話し合っていたのに、やつこの一声でみんながそっちのほうへ進んで行ってしまう。でも、本当にそれで正しいのだろうか。たとえば、家で小袋の豆を用意できなかったら、どうするのだろう。みんな、それをちゃんと考えているのだろうか。

「ね、ねえ、みんな。わたしの意見に反対とか、疑問とか、ないのかな」

「え、ないよ。だってわたしたち、やっこちゃんを信頼してるからね」

 みんなはそう言って頷きあう。それはたしかにやつこにとっても嬉しいことで、みんなが頼ってくれるならもっと頑張りたいと思う。だけど、心に何かが引っかかった。

 合唱コンクールの練習のとき、みんなは紗智を「ちゃんと歌わない」と責めた。それから、「その相談を聞いてくれなかった」と言って、やつこを責めた。頼られるのは、それだけみんなにとってやつこの存在が大きいからだ。でも、もし失敗したらどうするのだろう。提案したのはやつこなのだから、やつこが責任を負うべきだろうか。

 胸がちくりと痛んだ、そのときだった。少し遠くの方から、彼の声がした。

「あのさ、家で豆を用意できなかったらどうするわけ? うっかり忘れたら、そいつの分はどうするんだよ? 持ち寄れなかったときのこととかをちゃんと考えないと、仲間はずれが出て失敗するんじゃないの?」

 やつこもみんなも、一斉に声の方を向いた。珍しく帰らずに残っていた透が、自分の席で頬杖をついて、でもしっかりこちらを見て、発言していた。

「持ち寄れない人なんかいるの? クラスの行事なんだから、豆が必要なんだって、親に頼めばいいだけじゃない」

 一人の女の子が言う。しかし、透は言った。

「いるよ、俺がそうだ。家でごたごたがあって大変な時期に、そんなのんきなことを、親に頼めないよ」

 そういえば、透には「おうちの都合」があるのだ。本当はそんなことを口にしたくはなかっただろうに、透ははっきりと「家でごたごたがあって」と言った。やつこはその言葉に、どきりとした。

 みんなはそれで、黙ってしまった。一人でも豆を持ってこられなかったら、仲間はずれが出てしまうから中止にするべきだろうか? いや、ここまで盛り上がったのだから、今更やめようなんてことはできない。先生も賛成してくれたのに、やっぱりやめますだなんて言えない。それでは、どうすればいいのだろう。

 考え込んで静かになってしまったその場を、しかし、変えた子がいた。

「……ちょっと多めに持ってきたら、持ってこられなかった人にも分けてあげられるんじゃないの。わたし、そうするよ」

 普段はおとなしい、紗智だった。自分から発言することはめったにないのに、率先して自分の考えを言った。するとそれに続いて、結衣香が「はいっ!」と手を挙げた。

「わたし、お豆ってちょっと苦手だから、チョコレートがいいな! それとも学校にお菓子持ってきちゃだめかな?」

「それは先生に訊いてみないと……」

 透の言葉をきっかけに、また相談が始まった。やつこがここを離れても、みんなはちゃんと話を進められそうだ。それどころか、「やっこちゃん、剣道の時間は?」なんて訊いてきたりもする。もうみんなは、自分たちで計画を進めることができそうだった。みんなに「また明日」と言って教室を出るときに、やつこは透の肩を叩いた。

「鹿川君、ありがとう」

「お礼を言われるようなことは何もしてないけど」

「ううん、わたしは助かったの。何か意見があったら、みんなと一緒に話すといいよ。それじゃ、また明日ね!」

 やつこが笑顔で手を振ると、透は小さく「うん」と言ってくれた。今日一日で、随分と仲良くなれた気がする。少なくとも、話しかけて睨まれるということは、もうないようだった。


 その日の剣道の稽古のあと、やつこは雄人と海と、そして鬼たちと一緒に話をしていた。今日はよくやつこたちに話しかけてくる、おかっぱ頭の子鬼もいる。

「やっこの言いだすことには、いつもびっくりさせられるよ。オレ、先に教室出てきちゃったけど、節分の話し合いって進んだ?」

 雄人が半ば呆れながら、でもやはりわくわくした様子で、やつこに尋ねた。

「進んでるよ。豆はみんなで持ち寄りになりそう。教室が散らからないように、小袋に分けられてるのを持ってくるの。持ってこられなかったり、忘れても大丈夫だよ。多めに持ってこられる人が用意することになったから。わたしもちょっと多めに持っていくつもり」

 教室を出てくる前までの話の流れを説明してから、やつこは透のことを思い出した。ここまで話が進んだのは、透のおかげだ。教室に残ってくれたということは、やつこの提案にも興味を持ってくれたのだろう。

「やっこちゃん、なんだか嬉しそうだね?」

 海がそう言ってくれるのを待っていた。やつこはここぞとばかりに、透が助け舟を出してくれたことを話しだした。

「透君が疑問を言ってくれなかったら、当日誰かが困ることになったかもしれない。たぶん、透君本人が一番困ったんじゃないかな。みんな、わたしが言う通りにすればうまくいくと思ってくれてるみたいなんだけど、そうじゃないんだよね。わたしだって考えが足りないことはたくさんあるから、誰かがこうやって確かめてくれないと、大変なことになっちゃう」

 やつこの言葉に、海も、鬼たちも、頷いた。おかっぱ頭の子鬼が、三角座りをしていたやつこの背中に抱きつきながら、弾んだ声で言った。

『そうだぞ、やっこ。人間も鬼も、そうやって助け合いながら生きていくものだ。誰かが誰かに一方的に頼りっぱなしではいけないし、誰かが背負いすぎるのも良くない。神主も言っていただろう、何事もバランスだと』

 いつかやつこが、鬼追いと、人間としての普通の生活を両立させることに悩んでいたとき、神主さんが言っていたことだ。人間として生活を営んでいく中でも、バランスをとっていくことが大事なのだ。やつこは深く頷いた。

「うん、バランスが大事なんだよね。ちゃんとみんなと一緒に考えないと、せっかくの良いこともうまくいかなくなっちゃう。それがよくわかったよ」

「鹿川も結構良いとこあるんだな。やっぱりオレも、あいつと仲良くなりたいな」

「なれるさ。やっこちゃんも雄人も、人の心を掴むのは得意だからな。俺も、礼陣の鬼たちも、みんな君たちを応援してるよ」

 海はやつこと雄人の頭を優しくぽんぽんと叩き、頼もしい笑顔で言ってくれた。これだけ強い味方がたくさんいるのだから、きっと大丈夫だろう。クラスでの節分も、大成功するに違いない。


 クラスでの節分の準備が着々と進む中、鬼追いの節分の準備も少しずつ進んでいた。ただ見回るだけではなく、呪い鬼が出る可能性も考えて、それを神社に帰すための札を作らなければならないと、神主さんからお達しがあったのだ。

「いつもは私と愛さんとで作っていますが、やっこさんも作ってみましょうか」

 神主さんは簡単に言うが、やつこは鬼追いの札の作り方など知らない。鬼に関わる札が何種類かあることと、その使い方だけは、これまで学んできた。

 一つは呪い鬼を神社へ帰すための札。これは「神社にお帰り」と念じながら呪い鬼に触れさせたり貼りつけたりすることで、対象を神社まで送り届けるものだ。やつこは「ワープの札」と解釈している。また別のもので、呪い鬼を封じるための札がある。こちらは呪い鬼の動きを封じるための札と、呪い鬼とその力の全てを封じるものがある。鬼追いで使うのは、動きを封じる方だ。暴れる鬼を動けなくするために、使うことがある。

 ものによって違うが、どれも不思議な模様が書いてあって、とてもやつこに作れるとは思えない。うねうねと曲がりくねった、字のような絵のようなよくわからないものなのだ。それを作ることを想像すると、やつこは失敗する気しかしなかった。

 けれども神主さんが「さあ、やってみましょう」と取り出したのは、すでに模様の入っている札の束だった。これでもう完成しているのではないかと思ったところで、神主さんはそのうちの一枚を手に取り、もう片方の手をそっとかざした。しばらくそうしてから、その一枚をちゃぶ台に置いた。

「これで完成です」

「? 今、何をしてたんですか?」

「札に祈りを込めていたんですよ。どうか鬼たちに安らぎを、と。そうすることで、はじめてこの札は完成するのです。やっこさんにもできますよ、やってみてください」

 そう言って、神主さんは札を一枚、やつこに手渡した。すっかり見慣れた、鬼を神社に帰すための札だ。けれどもこの状態では、まだ使えないらしい。やつこは神主さんのしていたことを思い出しながら、左手に札を持ち、右手をそれにかざした。そして、神主さんの言う通りに、一生懸命祈った。

――どうか、鬼たちに安らぎを。その言葉を心の中で呟くと、右の手のひらが温かくなってきた。そのぬくもりは札に移っていき、気が付くと札がほんのり熱を帯びていた。

「はい、やっこさんにもできましたね。こうして祈りを込めた札が、鬼たちを神社へ帰す道しるべとなるのです」

 札の見た目は何も変わっていない。ただ、左手の指からほんのりと温かさが伝わってくる。鬼追いの札がこのようにして用意されていたのだとすると、神主さんと愛さんは、いつもどれだけの祈りを札に込めているのだろう。どれだけの鬼の安らぎを願ったのだろう。

「これ、どれくらい作ればいいんですか?」

「そうですね。真剣に祈りを込めなくてはなりませんから、十枚も作ればかなり疲れるはずです。やっこさんは初めてですから、あと九枚作ってもらいましょう」

 たったそれだけ? とやつこは思ったが、実際あと九枚を作るのは大変だった。心から祈るというのは、強い精神力を必要とするようだ。中途半端な気持ちでは、札にぬくもりが宿らない。それでは呪い鬼を神社へ帰すことはできないと、神主さんは言った。

 そういう神主さんはというと、何枚もの札に祈りを込めていた。大鬼様の力なのだろうか、神主さんが祈りを込めた札は全て光を放っているように見えた。見ているだけで心が落ち着くような、やわらかな光だった。

「わたしの祈りを込めた札でも、本当に鬼追いはできるのかな」

 やつこが不安げに呟くと、神主さんは「大丈夫です」とはっきり告げた。

「愛さんも昔同じことを言っていましたが、ちゃんと鬼追いはできました。やっこさんが作ってくれた札は、必ず呪い鬼を神社へ帰してくれますよ」

 鬼を束ねる大鬼様がそういうのだから、きっと大丈夫だろう。やつこは自分が祈りを込めた札を、そっと、大切なものに触れるように撫でた。


 いよいよ明日はクラスでの節分という日、やつこは豆を入手するために、商店街にやってきた。スーパーマーケットで買おうかと思っていたのだが、遠川小学校の五年二組の子供たちが節分をするという噂を聞きつけた八百屋のおじさんが、気を利かせて袋入りの豆を用意してくれたのだ。

「おう、やっこちゃん。待ってたよ。そうら、五年二組の節分用の豆だ!」

 小さな袋に、大豆に小豆、とら豆に、殻をむいた落花生まで入っている。その場で食べられそうなものは落花生と煎り大豆くらいだったが、それをちゃんと年の数だけ入れておいてくれた。中身がこぼれないよう、袋の口をきっちりたたんで、ホッチキスで留めてある。

「おじさん、わたしたちのために、わざわざこんなの作ってくれたの? ありがとう!」

「いいってことよ。ほれ、クラスの全員分。明日みんなに配ってくれな」

 八百屋のおじさんは、豆の小袋がたくさん入った大きな袋を、やつこに渡してくれた。八百屋のおじさんが協力を申し出てくれたおかげで、やつこが代表して豆を取りに来るだけでよくなったのだ。全員がそれぞれ豆を持ち寄らなくてもいいということは、やつこさえこの大荷物を忘れなければ、みんなが豆まきをすることができる。おじさんには感謝してもしきれなかった。

「でもおじさん。これ、本当にタダでもらっちゃっていいの? お店の経営、大丈夫?」

「こいつらは傷がついてしまったものや、売れ残ってしまったものなんだ。もう値段をつけられないものだけど、味は変わらないから、こうしてもらってくれた方がいいんだよ」

 おじさんは豆の袋を、優しい目で見つめながらそう言った。「活躍の機会があって良かったな」と、豆たちに語りかけているようだった。

「ありがとう、おじさん。これでわたしたちが、礼陣に新しい春を迎えるからね!」

「おうよ、あったかーい春を呼んでくれ。はーるよこいっ、てな!」

 やつこは八百屋のおじさんに大きく手を振ると、商店街を走って抜けて行った。そうしてほくほくした気分で商店街の入り口まで来たとき、見知った姿に出会った。

「鹿川君! どうしたの、お買い物?」

 透が商店街の入り口のあたりで佇んでいた。よく見ると、もうしばらくそこにいたのか、頬を赤くして、さっきから降っていた雪が頭や肩に薄く積もっていた。

「……根代さんが、豆を引き取りに行くっていうから。手伝おうと思って」

「わあ、ありがとう! でも、平気だよ。おじさんが大きい袋にまとめてくれたから、わたし一人でも持って行けるよ」

「じゃあ、それ持つよ。貸して」

 透はやつこの抱えていた袋をひょいと取りあげると、自分で抱えて、やつこの隣を歩き出した。まだ雪がちらちらと降っている中を二人で歩くのは、なんだかおかしな感じがした。男の子と並んで歩くのは、やつこにとっては珍しいことではない。道場に行けば男の子の方が多いし、雄人ともよく一緒に過ごしている。けれども、何も言わずに、ただ透と肩を並べて歩いていくのは、少しだけ緊張した。

「ねえ、なんで手伝ってくれたの?」

 沈黙に耐えられなくなって、やつこは透に尋ねた。透はやつこの方を見て、相変わらずの仏頂面で言った。

「節分やろうって言いだしたの、俺のためだろ。……正直、最初は迷惑だって思った。余計なことするなって。でも、節分の企画をクラスのみんなと立てているうちに、少しずつ楽しくなってきたんだ」

 その顔はとても楽しそうには見えないけれど、心の中ではそう思っているのだろう。やつこは相槌を打ちながら、透の言葉を聞いていた。

「ここのやつらって変だよな。鬼がいるって言ったり、鬼を祀ってたり。それから、散々自分たちを無視したり文句を言ったりしてきた俺のことを、話し合いの仲間に入れてくれたり。根代さんがいないときも、普通に俺に意見を求めようとするんだ」

 この数日で、透とクラスメイトとの壁はなくなりつつあった。それはやつこの目から見ても明らかだ。雄人以外の男子が自然に透に話しかけるようになっていたり、女子も透に声をかけるようになったりしていて、だんだんとクラスの雰囲気が明るくなってきていた。

 透の方も、それに応えるようになってきた。昼休み、五年生が体育館を使えるときに、雄人が透を遊びに誘った。雄人も自分なりに考えて、雪に濡れる遊びは避けたらしい。透はそれを受け入れ、昼休みにクラスの男子と遊びに行った。表情はあまり変わらなかったらしいが、体育のときと違って真剣にやっていたので、きっと楽しんでくれたのだろうと雄人が言っていた。

「俺、あんなに嫌なやつだったのに。父さんが仕事で大きな失敗をして、しかたなく転校することになったから、この町に来るのも嫌だったのに。……でも、今はなんだか、そうでもないな、って思う」

 そのとき、透の仏頂面が少しだけ緩んだように見えた。周りにいた鬼たちが、にわかに騒ぎ出す。『嬉しそう』『喜んでる』『楽しいんだね』と。人の感情を敏感に察知する鬼たちには、透の心の動きがわかるようだった。

「父さんも母さんも、ここは心が落ち着く良い町だよねって話してるんだ。俺もやっとその言葉の意味がわかってきたところ。門市は大きな町だけど、少しせかせかしていた気がする。それに比べてここは、とてものんびりしているなと思う。勉強も遅れてるし」

「まあ、それは……鹿川君の頭がいいからだと思うけど」

「最初はそれも嫌だったけど、だんだん気にならなくなってきた。急がなくても、自分の言いたいことをはっきり言えて、毎日楽しそうな、根代さんや吉崎みたいな人になれたらいいなって、最近は思うんだ」

 やつこは思わず「えっ」と声をあげた。雄人はともかく、自分まで透が「なれたらいい」と思う人に入っているだなんて。驚いたけれど、嬉しくて、やつこは顔が熱くなった。にやけそうになるのを抑えながら、透に向き直る。

「鹿川君は、鹿川君でいいんじゃないかな。雄人やわたしみたいにならなくても、鹿川君の楽しみ方で、この町での生活をしてほしい。神社が好きなら、礼陣神社の話をいっぱい教えてあげる。本が好きなら、本屋さんと図書館の場所を教えてあげる。鹿川君がこの町を楽しめるように、わたしたちにできることならなんでもするよ!」

 やつこは腕を広げて、透に笑いかけた。もっともっと、この町を好きになってほしい。楽しんでほしい。礼陣は、やつこの大好きな町だ。好きになってくれる人が増えるのは、とても嬉しいことだ。

 そんなやつこを見て、透も微笑んだ。それはやつこが初めて見る、透の心からの笑顔だった。


 金曜日の五時間目。いよいよお楽しみの時間がやってきた。机や椅子を壁際に寄せて広いスペースをとった教室に、透も含めたクラスの全員が豆の入った小袋を持って集まった。

「もう少しだけ離れましょうか。……そうそう、輪になって」

 先生の指示通りに、五年二組のみんなは円をつくる。もうわくわくしてしまって、今すぐにでも袋を放り投げそうな子たちもいる。だけど、今日の学級活動では「礼陣の文化に触れる」ことも目的としている。まずは少し、勉強をしなければならない。

「先生も、少し礼陣の節分について勉強してきました。みなさんも知っての通り、礼陣は『鬼の町』といわれています。神社でも大鬼様という鬼の神様をお祀りしていて、私たちの生活を見守ってもらっています。ですから、礼陣では多くの地域で聞かれるような『鬼は外、福は内』という掛け声を言いません。節分は春分の前の日で、これから春を迎えようとする日ですから、『春よ来い』と言うそうです」

 やつこはこっそりふきだしてしまった。先生が胸を張って説明していることは、ここ二十年ほどで定着してきたことだ。礼陣は豆まきに関しては、それほど長い歴史は持っていない。それを神主さんから聞いて知っているやつこは、面白がる反面、正しいことを教えた方が良いのかどうか迷っていた。

 けれども迷っているうちに、先生の説明は終わった。「みんなで良い春を迎えましょう」という言葉とともに、全員が豆を持った手をかまえる。そして。

「はーるよ、こーいっ!」

 一斉に、豆の入った小袋を、天井に向かって放り投げた。豆まきというよりは、豆投げだ。それをまたうまくキャッチしたり、頭にぶつけて痛がったり、誰かと交換したり。五年二組の豆まきは、賑やかに楽しく行なわれた。

 みんなでしばらく投げ合いを繰り返していたけれど、そのうち先生から「そこまで」と声がかかった。それを合図に再びみんなはきれいな円をつくり、その場に座った。全員がにこにこしていた。結衣香も、紗智も、雄人も、透も。もちろんやつこも。外はまだまだ寒い冬だけれど、この教室には、たしかに温かな春が来ていた。

「鹿川君、どうでしたか? 礼陣の節分は、楽しいですか?」

 先生が尋ねると、透は大きく頷いた。

「とっても楽しいです」

 その笑顔は、みんなが今まで見た透の表情の中で、一番輝いていた。

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