やっこと物思いの土曜日
土曜日の稽古の後、やつこは海と一緒に礼陣神社へ向かっていた。けれどもその途中、ずっと溜息ばかり吐いていた。
「溜息吐きすぎると、余計に憂鬱になるよ。やっこちゃん」
「だって、海にい。クラスの雰囲気がなかなか変わらなくて、みんなわたしや雄人に言うんだもん。鹿川君をどうにかできないのかって」
海に透のことを相談した翌日から、やつこと雄人の「あいさつ作戦」は始まった。透の席は廊下側の一番後ろなので、教室に入ってすぐに声をかけることができる。やつこは朝、教室に入ると同時に元気に「おはよう!」と言った。
大抵の子は、やつこに「おはよう」だとか「今日も元気だな」と返してくれる。けれども一番近くにいるはずの透は無言だった。相変わらず頬杖をついて、むすっとした顔をしている。そこでやつこは、彼に直接話しかけてみることにした。
「鹿川君、おはよう」
いたって自然に声をかけたつもりだった。けれども透はやつこをちらりと見ただけで、ふいっと顔をそらしてしまった。あいさつなど一言も返ってこなかった。やつこが呆気にとられていると、どこかから「あいさつくらいすればいいのに」と声が聞こえてきた。すると透は声のした方をぎろりと睨み、乱暴に席をたつと、そのまま教室から出ていってしまった。結局、先生が教室に来るまで、透は戻ってこなかった。
帰りは雄人が明るく「また明日な」と透に声をかけた。けれども透はそれをまるっきり無視して、わざと雄人を避けるように、席から遠い扉から出ていった。
そんなことが週末まで続いていたのだ。クラスの雰囲気は良くなるどころか、さらに悪くなっていた。透とクラスのみんなの壁は、さらに厚いものになってしまったのである。
「鹿川君、わたしたちのこと嫌いなのかな」
やつこが口をとがらせて言うと、海は「うーん」とうなった。歩きながら腕組みをして、しばらく考えてから、その想像を口にした。
「前に住んでた場所が大好きだったのかもしれないよ。別れたくない友だちがいたけれど、引っ越しのせいでしかたなく離れてしまったとか」
「だからこっちで友だちを作ろうとしないの? なんだかそれももったいないよ」
「もったいないと思うのは、やっこちゃんだからだよ。鹿川って子がやっこちゃんと同じ考えを持っているとはかぎらないだろう?」
たしかに海の言う通りだ。考え方が違うから、やつこたちと透はすれ違っているのだ。でも、やっぱりあと一年同じクラスで過ごすのだから、今の雰囲気はなんとかしたい。このままだと、透だけ仲間はずれになってしまいかねない。みんながどれだけ透のことを心配しても、透がみんなから離れていくのだ。そんなのは寂しいと、やつこは思う。
そうこうしているうちに、やつこと海は神社に到着した。境内へ続く石段も、話をしているうちにすっかり上り終えてしまったらしい。やつこたちの姿は、礼陣神社の鳥居の真下にあった。深い緑色をした鳥居は礼陣のシンボルだが、今は上がうっすらと白くなっている。ついさっきまで雪が降っていたせいだ。けれどもこの場所に屯している鬼たちは元気なもので、子鬼たちは駆け回り、大きな体の鬼たちは隅に腰かけたまま、こちらに手を振ってくれた。
手水場で手と口を冷たい水ですすいでから、拝殿に行き、お参りをする。それから二人が向かったのは、社務所だった。ここには礼陣神社の主が住んでいる。
「神主さん、こんにちは」
「こんにちはー!」
海とやつこがそれぞれ声をかけると、奥からぱたぱたと音が聞こえ、それから戸ががらりと開いた。顔を出したのは、長い髪を束ねた、にこにこした若そうな男の人だ。この人が、礼陣神社の「神主さん」である。いわく、「神主さん」というのは役職ではなくあだ名のようなもので、その正体はこの礼陣神社に祀られている鬼の長「大鬼様」そのものであるという。頭につのは見えないが、もう何百年も姿形が変わっていないというのだから、本当のことなのだろう。少なくともやつこと海はそう信じている。
「いらっしゃい。海君、やっこさん。寒かったでしょう。中で愛さんが、温かい甘酒を用意してくれていますよ」
「やった、愛さんの甘酒だ!」
やつこは神主さんの言葉に、両手をあげて喜んだ。愛さんは女子大生ながらも礼陣神社の巫女で、とても料理上手なのだ。もちろん甘酒だって、とても甘く美味しく作ることができる。やつこは元旦の初詣のときにもごちそうになったのだが、口の中がとろけてしまいそうに美味しかったことを憶えている。
靴を脱いで揃え、社務所の一室にあがりこむと、そこには湯気をたてる甘酒をちゃぶ台に置く愛さんと、そのちゃぶ台で教科書とノートを広げている男の子の姿があった。
「愛さん、大助兄ちゃん、こんにちは!」
「やっこちゃん、海君。いらっしゃい。さあ、こっちにきて甘酒を召し上がれ」
「よお、チビども。いいよな、受験がないやつは元気で」
愛さんはふんわりとした笑顔を浮かべているが、大助という男の子は不機嫌そうだった。大助は愛さんの弟で、中学三年生だ。三月には高校入試が控えているため、今は猛勉強の最中なのだった。
「大助さんがここでも勉強してるなんて珍しいですね。天変地異でも起きるんじゃないですか?」
「海、お前一発殴られたいのか。こっちは高校に受かるために必死なんだよ」
やつこが知るかぎり、大助はあまり勉強が得意ではないらしい。けれども昨年の秋頃から、それはもう必死で教科書にかじりついていた。受験生というのは大変なものなのだなと、やつこはそのときから思うようになっていた。
「まあまあ、大助君もちょっと休みませんか。こうしてみなさんが揃ったことですし。おにまんじゅうもありますよ」
神主さんが礼陣名物「おにまんじゅう」の箱を取り出して言った。おにまんじゅうは神社の石段を下りたところにある、商店街の端の和菓子屋「御仁屋」で作られている、美味しいおまんじゅうだ。町の人みんなに人気があるが、きっと一番のファンは店ができたときからおまんじゅうをお供えしてもらっているという神主さんだろう。
美味しい甘酒に美味しいおまんじゅう。やつこの口の中が幸せになったところで、神主さんがおもむろに切り出した。
「さて、今日みなさんに集まってもらったのは、節分の話をするためです」
ぴん、と人差し指を立てて、神主さんはそう言った。どうやらこれが、海の言っていた「大事な話」らしい。やつこはきちんと座りなおして、神主さんの言葉を繰り返した。
「節分ですか?」
「はい。やっこさんは、今年が初めてですね」
神主さんが「初めて」というからには、何か特別なことがあるのだろう。「鬼追い」としての、特別な行事が。
ここに集まっているのは、神主さん以外は全員鬼の子だ。やつこにお父さんがいないように、海にはお母さんが、愛さんと大助には両親がともにいない。鬼の子であるということは、ここにいる全員が、鬼を見ることができる。さらにいえば、やつこたちは鬼の子の中でも「鬼追い」という、特に大切な役目を負っている。
鬼の中には、ときどきとてもつらい思いや悲しい気持ち、激しい怒りを抱えてしまい、それを力の暴走という形で爆発させてしまうものがいる。そのような鬼は「呪い鬼」と呼ばれている。呪い鬼は我を忘れて、他の鬼や人間を傷つけてしまうことがあるため、これをなだめて、神社に帰して、心の痛みを癒してあげる必要がある。それを行なうのが「鬼追い」だ。
やつこが鬼追いになったのは、呪い鬼に出会ったところを、すでに鬼追いであった海に助けてもらったことがきっかけだった。それ以来、やつこはときどき現れてしまう呪い鬼を神社に帰す手伝いをするようになったのだ。ときには暴走した鬼を止めるために、闘わなくてはならないこともある。そういうときのために、やつこは毎日竹刀を持ち歩いている。今ではすっかり鬼追いにも慣れ、呪い鬼との闘いも、彼らをなだめることも、あわてず落ち着いてできるようになっていた。
鬼追いのリーダーは愛さんで、大助と海とやつこでそれをサポートするという形をとっている。けれども愛さんは女子大生で、しかももうすぐ大学を卒業する。春からは商店街の本屋さんで働くために、忙しくなる彼女の代わりを、これからはやつこたちで務めなければならないのだ。そう思うと、やつこは自分にそれができるだろうかと、少しだけ不安になる。
そんなやつこの気持ちを見越してか、神主さんはこう言った。
「やっこさん。今年の節分は、これからやっこさんたちが中心となって鬼追いをしていくにあたって、その練習になるかもしれませんよ」
「練習?」
やつこが首をかしげると、神主さんは深く頷いて続けた。
「二月に行なう節分というのはですね、邪気を祓って春を迎えるためのものなんです。季節の変わり目には、良くない気が溜まりやすいんですよ。そのせいか、気分が落ち込んで呪いを溜めこみやすくなってしまう鬼も増えるんです」
「それって、呪い鬼になるかもしれない鬼がたくさん出るってことですか?」
それは大変なことなのではないか。一度にたくさんの呪い鬼が出たら、さすがにやつこたちでも対処しきれないかもしれない。不安をますます濃くしたやつこに、しかし、神主さんは微笑んだまま語りを継いだ。
「ええ。ですからそれを防ぐために、毎年節分には、鬼追いによる町の見回りを行なうんです。町中の鬼たちの様子を見て、つらそうな者がいたら声をかけてあげる。それだけで呪い鬼になってしまう鬼はほぼいなくなるんですよ」
それはまさしく、普段やつこがしていることだった。もともとやつこが担っていた鬼追いとしての役目は、心を痛めている鬼がいたら声をかけて、呪い鬼になるのを防ぐことだ。呪い鬼になってしまったものを神社へ帰すというものは、最終手段でしかない。つまり、節分といえども、いつもとすることは変わらないらしい。
「でも、それがなんで鬼追いの練習になるんですか?」
「鬼と接してあげること。それが鬼追いに一番大切なことだからです。つまりですね、やっこさんはいつも通りに鬼たちと接していてくれれば、それで十分鬼追いができているということになるんです」
神主さんはそう言って、やつこに二杯目の甘酒を勧めてくれた。それほど緊張せずに、普段と同じでいるといい、ということらしい。やつこはホッとして、甘酒のおかわりを飲んだ。とろんとした甘酒がのどを通ってお腹に届くと、体がぽかぽかと温まって、気持ちもゆったりとするようだった。
「神主さん。やっこちゃんは小学生なので、飲ませすぎちゃ駄目ですよ。……でも、そういうことなの。節分の日は特別にみんなで見回りをするけれど、気持ちはいつも通りでいいのよ。鬼たちと接して、言葉を交わして、一緒に春の訪れをお祝いしましょうっていう行事なの。だから陽気な鬼たちは、気分が落ち込むどころか、むしろ豆をおつまみに宴会なんて始めちゃったりするんだから」
愛さんがおどけて言うと、やつこも自然と笑みがこぼれた。鬼たちの宴会。それはなんて楽しそうなんだろう。きっと神社の境内に集まって、歌ったり踊ったりするのだ。同じようなことは、夏祭りのときにもしている。とても愉快そうな鬼たちの姿を、そのときもやつこは目にしていた。
「豆って、鬼たちのおつまみになるんですね」
「そうなの。礼陣で豆まきをするようになったのはここ二、三十年のことだそうだけれど、ここの神様は鬼だから、誰もよそみたいに『鬼は外、福は内』だなんて言わないでしょう? だって、鬼が福を運んでくれるんですもの。撒いた豆はね、鬼たちが拾って、美味しくいただいているわ」
そういえばそうだった。やつこはそれほど意識したことがなかったが、礼陣では節分の豆まきでよく言われるという「鬼は外、福は内」という文句を聞かない。その代わりによく聞かれるのが、「春よ来い」というものだ。やつこの家でも、節分にはお母さんが「はーるよこいっ」なんて歌いながら豆を庭に撒いている。
それを言うと、神主さんがふふっと笑って教えてくれた。
「その『春よ来い』ですけれどね。ここ二十年ほどで、私が勝手に流行らせたものなんですよ。よく神社に来ていた女の子が考案したんです」
「じゃあ、これも新しいものなんだ。礼陣にとっては、豆まきも『春よ来い』も、それほど伝統的なものじゃないんですね」
けれどもこのまま続けていけば、いつかは伝統になっていくのだろうか。遠い未来に、礼陣の人々が「春よ来い」と言いながら豆を撒いて、「これは昔からの方法なんだよ」と語る日が来るのかもしれない。そう思うと、やつこはなんだか面白くなってきた。
とても楽しそうな、礼陣の節分の話。けれども、やつこたち鬼追いにとって、いつもよりもほんの少しだけ鬼たちに気を配ってあげる、大事な日であることには変わりない。節分の日の夕方には必ず神社に集まるようにと、神主さんは言った。
節分の話を終えたあと、やつこは学校であったできごとを神主さんと愛さんに話した。透とクラスメイトとの間に壁ができてしまって、それがなかなか解消できそうにないこと、このままだと透が孤立してしまいかねないということを、できるだけ詳細に語った。
神主さんはふむふむとそれを聞いていたが、やつこが話し終えると、透についてこんなことを言いだした。
「突然環境が変わって、戸惑っているんでしょうね。鹿川透君のおうちは、お父さんのお仕事の関係でここに引っ越してきたそうです。その前は門市の、大きなマンションに住んでいたそうですよ」
町の人々のことなら何でも知っている神主さんは、新しくやってきた住人のことも把握していた。でも、そのことならやつこも知っている。商店街で立ち話をしているおばさんたちが、興味深げに話していたからだ。けれども、神主さんの情報はもっと詳しかった。
「透君は、門市にいた頃には塾に通い、特に勉強ができる子のクラスにいたそうです。学校でも常にトップレベルの成績を保っていた、非常に優秀な子なんですよ。……ですが、今回の引っ越しで塾にも通えなくなり、これまで勉強に費やしてきた時間を何をして埋めたらいいのかがわからなくなってしまったんですね」
やつこは首をかしげた。勉強が好きなら、そう言えばいいのに、と思った。塾に通いたいのなら、礼陣にも小さいながらも良い塾がある。門市は隣町なので、列車で通うようにすれば、これまでの塾にも行けたはずだ。それなのにそうしなかったのは、いったいどうしてなのだろう。
その疑問を、神主さんは、やつこが口にせずとも汲み取ってくれる。
「彼がここに引っ越してきたのは、お父さんのお仕事の都合です。塾をやめなければならなくなったのもまた、お父さんのお仕事に関係しています。透君にはどうにもできない問題があって、こうなってしまったのですよ」
「……それって、大人の都合ってこと?」
「そうですね。大人の都合で、おうちの都合です。透君は自分には何もできないことで、とてももどかしい思いをしているのでしょう。それを誰かにわかってほしくて、でも自分の家の都合のことだから誰にも言えなくて、とても苦しんでいるのだと思います」
世の中には、大人の都合というものがよく顔を出す。子供ではどうにもできないことが起こってしまう。たとえば、やつこがお父さんを亡くしてしまったように。どうにもならないことというのは、ある日、突然やってくるものなのだ。
透にもそれがやってきたのだろう。お父さんの仕事の都合だから、透にはどうすることもできない。それで塾をやめざるをえなくなっても、しかたのないことだ。透がどんなにやめたくないといっても、大人の都合がそれを聞けないようにしてしまう。透にとって、礼陣に来るということは、不幸の結果だったのだろう。
だから透は、礼陣を、新しい学校を、好きになれない。自分はこんなに不幸なのに、周りはどうしてあんなに幸せそうにしているんだろう。そんな考えに押しつぶされそうになっている。――透の今の気持ちは、きっと呪い鬼に似ていた。心が痛くて、つらいのだ。
やつこはふと、先日の朝に会った鬼のことを思い出した。「お社に石を投げられた」という、しょんぼり鬼のことを。
「ねえ、神主さん。鹿川君、最近神社に来なかった? 拝殿に石を投げたりしなかった?」
やつこが尋ねると、神主さんはこくりと頷いた。
「そうですね。新しく来た人には、誰かしらが必ずこの町に鬼がいることを言いますからね。礼陣には鬼がいて、礼陣の子供になれば鬼がきっと守ってくれる。そんなことを、誰かが透君に言ったのでしょう。でも、外から来た子、それもあまり良くない理由でここに来なければならなかった子にとっては、あまりにも信じがたいことで、……もしかしたら、子供だと思って馬鹿にされたと思ったかもしれません。きっと今の彼は、子供扱いされることを嫌うでしょう。自分が子供だから何もできなかったんだと、思っているでしょうから」
やはり拝殿に石を投げたのは、透だったらしい。たしかに鬼が住んでいるなんてことは、外から来た人にはとても信じられないことだろう。やつこのいとこもよそに住んでいるが、礼陣の独特の文化や伝承は、すぐには信じられないことばかりだと言っていた。透にとっても同じだったはずだ。
どうしたら、透の心の痛みを癒してあげられるだろうか。礼陣が嫌いで、鬼のことを信じない透に、礼陣が大好きで、鬼とも仲良しなやつこが、何をしてあげられるというのだろうか。やつこは膝を抱えてうつむき、考えられるだけのことを考えた。けれども、どれも透に対して物事を押し付けるような形になってしまう気がしてならなかった。このまま放っておくしかないのだろうか。透がいつか大人になって、礼陣を出ていく日まで。
「やっこさん、気落ちするのはまだ早いですよ」
泣きそうな顔をしていたやつこに、神主さんは優しい笑顔で言った。
「何かちょっとしたきっかけで、人の気持ちが大きく変わることがあるということを、やっこさんは知っているはずです。透君にはまだ、そのきっかけが掴めないだけかもしれません。きっかけをこちらで作ってあげるというのも、彼と仲良くなる方法の一つですよ」
「でも、雄人が遊びに誘ったら、鹿川君は怒ったし……きっかけって、どうやって作ったらいいんですか?」
「遊びに誘って怒ったのは、彼が子供扱いされたくなかったからというのもあるでしょう。透君の好きなものがわかれば、一番良いんですけれど」
やつこは考えてみた。透の好きなものとは、いったい何なのだろう。頭がいいというのだから、勉強が好きなのだろうか。でも、授業中はつまらなさそうな顔をしているし、休み時間もただ頬杖をついてやり過ごしているだけだ。勉強が好きなようにはとても見えない。スポーツはどうだろうか。冬の間は体育の時間は屋内で球技をやっている。でも、透はチームに加わろうとしなかった。先生に言われてしぶしぶやっていたけれど、結局一度もボールに触ろうとしなかったことが何度もあった。バスケットボールはパスを無視し、ドッヂボールはわざとボールに当たってすぐに外野に行き、そこで退屈そうに立っていた。
そういえば、やつこは、いや、きっとクラスのみんなが、透のことをよく知らなかった。お互いのことを知らないと仲良くなれないということは、知っていたはずなのに。
「でも、鹿川君に何が好きか訊いても、答えてもらえなかったよ。趣味とか、特技とか、最初はみんないろいろ質問したけれど、鹿川君は何も言わなかった」
「そうですか。では、やっこさんのクラスのみなさんは、自分の好きなものの話を透君にしましたか?」
神主さんに尋ねられて、やつこはハッとした。やつこたちは透に質問ばかりしていたけれど、自分たちのことは話していない。一緒に遊ぼうと誘うけれど、透が何をしたいのかは確認していない。
「そうか、わたしたち、まだ鹿川君となんにも話してないんだ……」
透は雄人たちクラスメイトのことを「理解できない」と言った。雄人は透とは「わかりあえないのかな」と悩んだ。理解も何も、話ができてすらいないのだから、わかりようがないのだ。よく考えてみれば、自己紹介すらろくにしていない。雄人は自分の名前を言っていたような気がするけれど、透がそれを無視したために、他の子は自分の名前を教えようとしなくなったのだ。
「わたし、またさっちゃんのときみたいに、大事なことを忘れて勝手に進んじゃうところだった。機会を見て、鹿川君とちゃんと話します。男の子だから雄人の方が話しやすいかなって思ってたけど、もうそんなこと関係ない」
できそうなことが見つかって、やつこは気合が入った。月曜日に透に会ったら、まずは「おはよう」と、それからちょっとだけ自己紹介をしてみよう。もしかしたら、何か共通するものがあるかもしれない。
しかし、意気込んだやつこに、それまで話を黙って聞いていた海が言った。
「やっこちゃん、あんまり自分がやらなきゃって思いすぎない方が良いよ。そりゃあ、やっこちゃんが動けばみんなは安心するかもしれないけれど。でもそれじゃ、みんなやっこちゃんに頼りっぱなしになるよ」
「……?」
やつこは海の言っている意味が、よくわからなかった。頼られるのは嬉しい。やつこがやればみんながついてきてくれるのであれば、良いことはどんどんしていきたいと思う。けれども、海はそれでは良くないように思っているようだ。
再び悩み始めてしまったやつこに、海はあわてて「考えすぎなくていいから」と言った。けれども、一旦湧いた疑問は解決するまで気になってしまうのが、やつこの性格だった。