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※残酷な描写があります。特に苦手な方は、注意してください。
美しく若い新郎新婦。彼らの影が重なった。
――会場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。
触れた唇の冷たさにフィオレナは一瞬びくりとしたが、すぐにそんな戸惑いは消えた。
(この人が好き)
改めて自覚した想いに胸がいっぱいで、ゆっくりと求められて懸命に応えようとした。そして唇が離れた瞬間、腰をぐいと強く引き寄せられた。あまりの強さに、指が食い込んでいるんじゃないかと、顔を少ししかめた。
「スヴァログ様……?」
怪訝に思って隣の彼を見上げると、彼はまっすぐに前を見ていた。そしてその瞳は――なにか、狂気をはらんでいて……
「――参れ」
彼が言うと、教会の両壁にいくつかある扉がバタバタと大きな音をたてて開く。突如白銀の甲冑を着た者たちがなだれ込んできた。
参列者たちは恐慌に陥って逃げ惑う。女性の叫び声、男性の怒号、甲冑の金属音……。
あっという間にティアータの参列者たちはとらえられた。その中にはもちろんフィオレナの父王、母王妃、兄王子がいる。フィオレナは訳が分からず、声もでない。
そんな中、呆然とする人々と対照的にスヴァログは悠然と歩み出て、よく響く声で朗々と宣言したのだ。
「先代グウィネイラ国王暗殺の報復に参った。これより、ここティアータ国は我が国の属国となる」
その瞬間、グウィネイラ側の参列者たちは勝利の雄叫びをあげ、ティアータ側は混乱と恐怖でみな青ざめた。
フィオレナの頭の中は真っ白だった。家族や他の参列者の後ろにはグウィネイラ国軍の甲冑を着た騎士がずらりと並び、美しい剣の切っ先を各々目の前にいる者たちの首に向けている。この異常で想像すらしたことのない光景に、すべての思考がストップしてしまった。
スヴァログはそんな彼女を連れて、祭壇正面の階段の先にある神聖な空席に腰を下ろした。そこは“神の御座”と呼ばれ、降臨する見えない神のために用意された非常に大切なものなのだ。しかしスヴァログは祟りを恐れる風もない――。
まるで自分こそが神であると主張するように豪然と組まれた足元に、フィオレナは両手をついて座り込んだ。喉がカラカラで、ひっついて、声が出ない。
ティアータの者たちは祭壇の前に一列に並べられ、その後ろには断罪の剣を握った騎士が控えている。
「……やめ、――」
フィオレナが小さく声を絞り出したのと、スヴァログの命令が響いたのはほぼ同時だった。
「やれ」
彼女の目の前で、両親と兄、親族、貴族、従者や侍女――皆の首が、飛んだ。
舞う血しぶき。果実のように落下する首の数々。その一つがフィオレナのもとへ転がってきた。視線が絡む。涙が一筋こぼれている頬。見開かれた目。口も呆然と開いていて……。
「あ、ああ……」
彼女はそのあとのことを覚えていない。
***
目を覚ましたとき、フィオレナはあたたかいものに包まれていた。それはさらさらとしていて、弾力があって、脈打っていた。
(――脈打つ?)
はっとして目を開いた。とたん、飛び込んできた肌。スヴァログの裸の胸だった。
驚きで声を失い、自分に向けられた灰色の瞳を見つめ返すしかなかった。固まってしまったフィオレナを見てスヴァログは、二人が初めて出会った時のようなあたたかく美しい笑顔を見せてくれた。優しい眼差しに包まれる。フィオレナは、それだけで幸せいっぱいだった。胸に渦巻くこの謎の不安は、きっとさっきまで見ていた悪夢の名残なんだろう――。
ほぅと息をつき、今の状況が頭に入ってきて、フィオレナは一気に顔に血が集まるのが分かった。彼の裸の胸に添えられている自分の手に気付いて、慌ててそれを引っ込めようとした。が、それをスヴァログの大きな手に掴まれて阻まれる。
「あ、あの――」
「夢じゃない」
「……えっ?」
驚き彼の顔を見上げ、フィオレナは凍りついた。
彼は笑っていた。笑ってはいたが、それはあたたかいものなんかじゃなく、震えだすほど恐ろしい残酷な笑みだった。掴まれた手首に痛みが走る。
「痛っ……」
「何にも覚えてないのか? つい数時間前のことなのに?」
嘲笑が、侮蔑の視線が、フィオレナの体を貫いた。――これは、誰だ?
「神聖なる教会は、血に染まった」
その瞬間、フィオレナの頭にその光景が閃いた。
混乱。叫び声。恐怖。金属音。光る剣。血。真っ赤。転がる首、首、首……。
「ああ、そんなっ……」
ガクガクと震えだした彼女をそのままに、スヴァログはベッドから下りた。近くの椅子にかけてあったシャツをはおると、その背に軽く腰かけて楽しそうにフィオレナを眺める。
「思い出したか? あんな歴史的な瞬間を、忘れてしまうのはもったいない」
「なんて、ことを……!」
「――お前は美しい」
突然の言葉。何もかもが脈絡がない。フィオレナは怒っていいのか悲しんでいいのか、何がなんだかさっぱりだった。
「国を傾がせるほどのその美貌だ、みすみす血に染めるのはもったいないと思ってな。幸い俺たちは結婚することになっていた。ティアータ殲滅が目的だったが、お前は、もうグウィネイラの人間だ。俺がお前を勝ち取った。俺の国に連れ帰ってやろう」
スヴァログがパンパンと二回手を叩くと、唯一の扉から三人の侍女が音もなく入ってきた。
「準備ができ次第、すぐに出発する」
彼女たちと入れ違いにスヴァログは部屋を出ていき、フィオレナは侍女たちに身ぐるみはがされ湯浴みをさせられ、また服を着せられた。旅装で動きやすい。しかし、どうやらティアータのものではなくグウィネイラ産のようだった。透けるようなレースの装飾が少なく、右肩から飾り布が垂れているのはグウィネイラ貴族の服の特徴だ。
服の次は髪だ。鏡の前に座らされ、六本の手によって自慢の黒髪が魔法のように結いあげられていく。ティアータでは首の回りなどにわざと後れ毛を残すのが普通だが、グウィネイラではすべての髪を結いあげるようだ。髪が終わると化粧をされた。ティアータよりも目の周りを濃く囲う。慣れ親しんだ化粧よりも目に力が入り、落ち着かない。
ふと窓から外を見るが、そこには紅葉の美しい木々があり、ここがまだティアータ国内ないしはそれに近いところだと分かる。
「ここはどこ? まだグウィネイラではないわね」
鋭い沈黙を破ってフィオレナが毅然と尋ねてみるが、侍女は三人とも一言も話さなかった。つんと顎を上げてフィオレナを見ようともしない。フィオレナは、気付きたくなかったがそうと認めるしかない事実にぶち当たった。お風呂に入れられているときは氷のように冷たい水とタオルで体を洗われ、髪を結いあげるときはブラシで頭皮を引っ掻かれ髪を必要以上に引っ張られ、化粧のときは侍女の長くないはずの爪が肌に食い込んだ。嫌われている、というよりは薄ら寒い憎しみすら感じられたのだ。
(グウィネイラで一体何が起こったというの? スヴァログ様はどうして、あんなに……変わってしまわれたの)
こみあげてきた涙は止まらず、フィオレナはついに頬を濡らした。喉が震えて、抑えようとすればするほど嗚咽が漏れる。侍女たちはそんな彼女を汚いものを見るかのように見下ろし、両脇に腕を入れるとぐいと引っ張って立たせた。そのまま引きずられるようにして部屋を出る。女にしては随分力が強い。フィオレナは唇を噛みしめた。悔しくて、悲しくて、訳の分からない状況に混乱するばかりだ。
フィオレナはそのまま外にまで連れ出される。建物は、石造りの小さな見張り小屋のようなものだった。二階建てで部屋数はざっと数えて十もないだろう。狭い玄関から外に出ると、正面に馬車が二台停まっていた。そのうちの一つに、スヴァログが寄りかかってこちらを見ている。
「そうしていると、なかなかグウィネイラの貴婦人らしい」
スヴァログは冷淡な笑みを浮かべ、フィオレナの前にすっとひざまずき、その手を取った。
「さあ、国に帰りましょう、私の愛しい“花”」
おどけたように軽い演技で手の甲にキスをして、スヴァログは完璧なエスコートでフィオレナを馬車に乗せた。自分も乗り込むのかと思いきや、彼はそのまま扉を閉めて、もう一つの馬車に乗り込んだ。フィオレナは侍女と、近衛なのだろう、甲冑に身を包んだ騎士の二人とともに馬車に閉じ込められた。馬車はゆっくりと走りだす。
混乱だけがフィオレナを取り囲んでいた。声をかけても、侍女も近衛もフィオレナを視界に入れもしない。ただ無視されるだけならまだましだったかもしれない。しかし彼らは、フィオレナに悪意を持っているようだった。馬車が跳ねるのに合わせて、近衛の固い甲冑の靴が足に当たったり、侍女の肩がぶつかって座席から突き落とされたりした。理由も分からず憎まれ、王女として必要な自尊心も砕かれた。
フィオレナを守ってくれる国も、肩書も、家族も、もう何も無いのかもしれない……その空虚という恐怖に取り込まれないよう、フィオレナは必死に抗うことしかできなかった。
外の景色がどんどん流れていく。
(これから、グウィネイラへ……)
少し前まで楽しみだった旅程が、今では何の感慨も湧かなかった。むしろ地獄への階段のように思える。ガタガタと揺れる馬車は、フィオレナをどこに連れていくつもりなのだろうか。
(さようなら……)
何に対しての別れだったのか、フィオレナ自身分からなかったが、胸に浮かんだのは、そんな言葉だった。