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フィオレナは地獄のふちを見ていた。
「お願いニーナ、もうだめ!」
「何をおっしゃいます。レディたるもの、殿方の前に出るのならこれくらい我慢しなくては」
「無理……内臓、出るわ!」
ギリギリと胸の下から腰を締め付けられて、フィオレナは思いっきり息を吐き出した。これで少しは楽だ。
「よし、これでいいでしょう」
しかし再び息を吸おうとして、泣きたくなった。これ以上、体に空気を取り入れるだけの余裕がない。
「ね……本当に、世の女性たちは、こんなものを、身につけるの?」
浅い呼吸の下で切れ切れに問う。我ながら情けない。
「社交の場ではこれが普通です。フィオレナ様はいつも楽な服をお召になってらっしゃるから、こうなるのですよ。前々から申しておりましたでしょう? そろそろ、コルセットの練習をしましょうって」
フィオレナは、うっ、と言葉につまった。ちょうど婚約の話が持ち上がったころから、確かにそう言われていたのだ。
(こんなに大変なんだと知ってたら、ちゃんと言うこときいたかも……)
とぼとぼと、知らされていた部屋に向かう。
昨日の昼、グウィネイラ王太子がこの城に入ったと報告があった。初夏に婚約の話を聞かされてから両国間であっという間に話が進められ、ついに今日、フィオレナは夫となる予定の王子と顔を合わせる。今回は大々的なパーティなどはなく、グウィネイラ王太子とティアータ王家のごく中枢のみで顔合わせとなっているため、大広間でなく、フィオレナも時々使う小さなティーパーティ用の部屋に彼が通されているらしい。
苦しさに耐えながら扉の前に立つと、兄王子の上品な笑い声が響いてきた。先に男同士で話をしていたらしい。ノックしようと手を上げた時、その扉がぱっと開いた。兄は妹の姿を見て一瞬意外そうな顔をしてから、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「フィーナ、ちょうどお前を呼びにいこうとしたところだよ。さあ、おいで」
兄にそっと手を取られ、部屋の中に導かれる。まるで貴婦人のような扱いがちょっとくすぐったい。
「スヴァログ殿、妹のフィオレナです」
兄の体が脇によけて、フィオレナの目に見慣れない青年が飛び込んできた。
「はじめまして、フィオレナ王女殿下。スヴァログ・シーア・ウィクターです。お会いできたこと、光栄の至りにございます」
流暢なティアータ語で言い、気品に満ちた動きで膝を折ると彼はフィオレナの手を取り、甲に唇を寄せた。その途端、フィオレナは手袋をしてくるんだった、と後悔した。その熱くやわらかな感触に顔が一気に赤くなった。
「こちらこそ、おめもじ叶い、嬉しいです、スヴァログ様……」
グウィネイラ語で返した。スヴァログはびっくりしたのか、ぱっと顔を上げてフィオレナを見つめたあと、今度は溶けるような笑顔を見せた。再び目を奪われ、フィオレナの頭が真っ白になるころ、兄が言った。
「ほら、お二人とも。そろそろお茶が運ばれてくるよ」
「はい、では失礼して……」
放されてしまった手をちょっと残念に思いながら、フィオレナは彼と直角の席についた。横目でこっそり彼を見て、フィオレナは自分の反応にびっくりしていた。初対面の男性にこんなにどぎまぎしてしまうのは初めてだった。
スヴァログの髪は明るい褐色で、金とも茶ともつかない色をしている。先ほど吸い込まれそうになった瞳は冬空のような灰色。彼の背は、兄の長身を見慣れているフィオレナにはちょっと小柄に見えた。背の低い方であるフィオレナより頭一つ高いくらいだ。でも、それがまったく短所になっていない。彼には、背が低くてもついつい目で追ってしまうような、不思議な魅力があった。
(それに……あの笑顔)
思い出しただけで頬に朱がさす。つぼみがほどけて咲く花、雪解けで顔を出す若芽、雲からのぞいた青空……そんな形容がぴったりだと思った。
このお茶の席には両親の姿はなく、ティアータ王家の兄妹とスヴァログと彼の側近だという青年が同席しているだけだった。聞けば、スヴァログはティアータ王夫妻にはすでに謁見したらしく、今日は「若い人たちだけでの楽ちんなおしゃべり」の場を用意されたのだとか。フィオレナは、直感で、母の仕業だと思った。王妃は笑顔の下でなかなか計算高い。一体何を考えているのやら。
(日没前だから許されるわ、こんなこと)
少し話したあと、スヴァログとフィオレナを残して兄と側近は部屋を出ていった。よって部屋に、スヴァログとフィオレナの二人きり。なんだか緊張してしまって、フィオレナは借りてきた猫のように静かだった。
そっとカップをソーサーに戻したとき、右側に座るスヴァログがフィオレナの顔をのぞきこんだ。
「難しい顔をしてますね。大丈夫ですか?」
フィオレナはびっくりして、かくかくと頷くことしかできなかった。その様子にぷっと吹き出した彼は、それでもやっぱり魅力的で、笑われているというのにまったく嫌な気がしなかった。
「どうやらご兄弟にいらぬ気づかいをさせてしまったようだね。あなたにも内緒にしていたみたいだし。でも、安心してください。扉の外には俺の近臣のラドミルと、ティアータの近衛がついてるって話ですから」
俺、というちょっと砕けた自称にフィオレナはどきりとした。こんなに心安く話していいのだろうか? 兄は時々自分を「僕」と言ったりするけれど、ひとたび公の場に出れば見事にスイッチを切り替えて「私」を使う。
(では、私たちはもう、夫婦になるというのが決定事項なのかしら――?)
自分でも意外だが、それを嫌だと感じない。フィオレナはグウィネイラの王太子がこんなにも素敵な人物だとは思わなかったのだ。厳しい大国の王太子ということで、どんな怖い人かと恐れてもいたが、先ほどから物腰も柔らかく穏やかな彼。目にしてたった数十分、もう、こんなにも惹かれている。
「フィオレナ殿下? グウィネイラの言葉では難しかったでしょうか……先ほどのご挨拶があんまり流暢でしたので、つい」
「い、いいえ。分かります。ごめんなさい、実は、コルセットが苦しくて。その、ぼんやりしてしまうんです」
半分は本当だ。嘘ではない。
すると、スヴァログは今度こそ腹を抱えて、大声で笑った。しばらくして彼は苦しそうな息の下でなんとか言葉をつむいだ。
「お元気でらっしゃるようですね。昨夕、お庭であなたの姿を見かけましたよ」
そう、昨日用意された部屋から見えた庭園の噴水で遊んでいたのは、フィオレナと彼女の愛犬マヌエルだったのだ。今日顔を合わせてそれが分かった。スヴァログがそう言うと、フィオレナは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「失礼をしました。あの部屋に殿下がいらっしゃると知らなくて……。あとで侍女にたっぷり叱られました」
「いや、俺は構わないんです。この国の繁栄を見た気がして、まぶしく思っておりました」
ああ、この人は優しい人だ、とフィオレナは思った。世のレディたちは外で犬と一緒に走り回ったりしないしコルセットに苦しんだりもしないのに、王女でありながらこんなにおてんばなフィオレナを、忌避しないのだから。その目には、本当に、優しくて楽しんでいるおおらかさがあった。
もっと、この人のことを知りたいと思った。
「あの……グウィネイラのこと、教えてくださいませんか。言葉を習っても知らないことがたくさんあるんです」
フィオレナが意を決して言った言葉に、スヴァログは嬉しそうに微笑んで強く頷いたのだった。