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「ああ、嘆かわしい!」
本日何度目か分からない言葉に、フィオレナは苦笑した。
昼過ぎに伝えられた、フィオレナと大国グウィネイラの王太子との結婚話を聞いてから、彼女の侍女ニーナはずっとこういう状態だ。
「いくら国のためとは言え、まだこんなにも若く美しくていらっしゃるフィオレナ様が、主ある花になろうとは……」
「ニーナ、私の役目はまさにそれなのよ。男であったなら選択することも多かったでしょうけど、王族の女は、婚姻関係で国同士を結ぶのが使命なんだから。国の役に立てるなら、私にとってそれ以上に嬉しいことはないわ」
「……まったく、姫様は。普段はあんなにもお転婆で幼いご様子なのに、国のこととなると、あっけないくらい大人なのですから。しがない侍女の私には、姫様のお考えは理解しがたいですわ」
鏡の前に座り、ニーナに髪を結われながら、フィオレナは唇をとんがらせた。
「私だって小さい頃は、おとぎ話のように、王子様が白馬に乗ってお迎えに来たり、囚われの身の私を颯爽と救い出してくれるものだと思っていたわ。でも、私は囚われることを心配しなくていい平和な環境で、優しい両親と兄、世話を焼いてくれる多くの人に囲まれて、とっても幸せに暮らしているんだもの。おとぎ話とは違うんだって、気付いちゃうわ」
「姫様は本当に、強くて賢い方ですものね。でも、グウィネイラの殿下がフィオレナ様の王子様になるのですから、あながちはずれでもないのでは?」
ニーナは優しく笑う。30歳半ばを過ぎたニーナは侍女の中でもベテランになるが、まだ結婚していない。フィオレナが5つになったときから彼女の側付きで、愛らしい彼女を心から大切に思い、その身を捧げる覚悟でこれまで仕えて来た。少しいじけるような言葉も、彼女と引き離されるかもしれないという寂しさゆえのことだった。フィオレナも、それを分かっている。
「そうね……スヴァログ様、といったわ。まだ名前しか知らない、私の王子様……」
ふっと目を閉じて、フィオレナは想像した。
「いつこちらにお越しになるのですか?」
「お父様は、できれば今年の秋までにはお目通りを、とおっしゃっているわ」
どんな人かしら、と言うフィオレナの声には、少なからず不安もにじんでいる。国のためとは言え、たいして知りもしない人と結婚するのに不安にならないはずがない。口では平気なふりをしているが、やはり彼女もまだ15歳の子供なのだ。対して相手は六つも年上だという。国の言語も文化も環境も違うのだし、どれだけの共通点が見つけられるか、今は全く分からない。
「姫様なら、きっと大丈夫ですわ。どんな殿方もあなた様を愛さずにはいられない……そんな魅力を持ってらっしゃるもの」
「うん……ありがとう、ニーナ」
侍女の頬に親愛のキスをして、フィオレナは立ち上がった。
「……それじゃあ行くわよ、マヌエル!」
ワンッと一声鳴いて飛び跳ねる愛犬を連れ、少女は部屋を飛び出した。
「せっかく結いあげたのにねえ……」
ハァとため息をつくニーナだったが、その表情には慈愛があふれていた。
「マヌエル、私、結婚するんだって」
庭の小さな丘のてっぺんに植わる樹に背を預け、フィオレナは隣の愛犬の背を撫でた。その表情は先ほどと打って変わって、物憂げだ。
「前に聞いたことあるの。政略結婚には感情なんていらないって。むしろそんなものは邪魔になるだけなんだって。でもね、私は、どうせ一緒になるんだったらちゃんとお互いを理解して、相手を愛そうとするのが正しいあり方だと思うんだ……」
ぼんやりと言った言葉に、突然同意の声が上がった。
「その通りだよ、フィーナ」
「――お兄様!?」
背後からひょっこり顔を出した王太子に、フィオレナは顔を真っ赤にした。
「お兄様、こっそり近づくなんて失礼です」
「ごめん、驚かそうと思ってたんだけど、そんな雰囲気じゃなかったね……」
困ったように笑いながら、彼もフィオレナの隣に腰を下ろした。マヌエルが細い尻尾を振って彼に飛びつく。その背を撫でてやりながら、王太子は口を開いた。
「フィーナ、私はまだ結婚していないから、実際それがどんなものかは分からないけど……私たちの両親を見てごらん。お二人は、大恋愛の末に結ばれたのでもなんでもないけど、あんなに仲がいいんだよ。一つ屋根の下で暮らすのだから、やはり、結婚には感情がいらないなどと言うのはただの迷信だ。だから、フィーナの今の思いがあれば、きっと、うまくいくさ」
穏やかな兄に優しい言葉をかけられ、さらに頭を撫でられるものだから、フィオレナは涙をこらえるのが大変だった。敏い兄は、きっとそんな彼女はお見通しだっただろうけど……。
「私より先に、お前の結婚が決まってしまうとはなあ。私も、早く身を固めなくてはね」
その時になって、フィオレナはそっか、と思った。兄はもう22歳になる。きっともうすぐ、国内の大貴族か近隣国のお姫様をお嫁さんにもらうのだ。フィオレナと同じように、たいしてよく知らない女性を。
でも、とフィオレナは思う。この兄はこんなにも穏やかで優しいのだから、兄の妻となる人は幸せになるに違いないと断言できる。きっと国の関係などと言うこと以上に、その人を愛すだろう。
(私もめそめそしてないで、もっと強くならなくちゃ。夫となる人に、少しでも近づけるように……)
そう思ったら、吹っ切れたのか、フィオレナの胸に渦巻いていたもやもやがすっきりと消えた。今悩んでいても仕方ないのだ。
「ありがとう、お兄様! 元気になれたわ。午後はグウィネイラ語のお勉強をします」
「うん、そうしなさい。今からできることを少しずつ、ね」
「はい!」
兄のひいき目で言わせれば、妖精のような、という形容のよく似合う妹は、くるりと踵を返して日差しの中を走っていってしまった。艶やかな黒髪が跳ねて、ワンピースの裾が風でふわりと揺れる。
明るく優しい妹。幸せになってほしい、と、彼は心から願った。