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二日後のその日、真冬のグウィネイラには珍しく快晴の青空が広がった。陽光に照らされて雪がキラキラと輝き、外の世界は目を眇めても痛いほどにまぶしい。鉄格子の嵌められた窓から外を眺めて、フィオレナは驚くほど冷静な自分を感じていた。
(今日は、グウィネイラの婚儀……)
この大国の王の隣に立つ、この国で一番高貴な女に、フィオレナはなる。その実感はあまり湧かなかった。スヴァログとラドミルとオレーシャ、それから数少ない侍従や侍女たち以外の、この国の民と王族・貴族たちと初めて顔を合わせるのが今日だ。戦かのような慌しさで支度をさせられ、それが終わり、今はやっと一人きりになれて部屋で待機しているところだった。
今から五時間ほど前、日が昇った直後に、食事を運ぶ以外に人が来ることのなかったフィオレナの部屋に、侍女が十人ほどやってきたのだ。まずは湯浴みをさせられ、異常なほどに時間をかけてフィオレナの肌を磨き上げ、髪をすき、花から抽出した香油を揉みこまれる。それが終わると婚儀用に礼装だ。コルセットで腰を締め上げられ、少々寂しい胸元を盛り上げる。フィオレナはけして豊満な体つきではなかったが、代わりにすんなりとした首筋から鎖骨へのラインが、自分ではそうと思っていなくとも、とてつもなく扇情的なのだ。ドレスは彼女の魅力を分かって作られたようだった。――フィオレナは、そんなことを気付きもしなかったが。ドレスの色は黒に近い濃紺で、ティアータの夜の海にそっくりだったためフィオレナの気に入った。着替え終わると鏡台の前に座らされて、化粧と髪を結う。グウィネイラ式の化粧でいつもよりずっと大人びて見え、少し微笑むと赤い唇がつやつやと輝いた。髪は残さずすべて結い上げ、ますます匂い立つような項が際立った。
そうして苦行のような準備を終え、今に至る。
侍女たちはお茶を入れ一礼して部屋を出ていったが、そのお茶は喉を通りそうになかった。小さな蟻や芋虫がカップの底に沈んでいたからだ。準備の最中も、小さな嫌がらせはずっと続いていたが、最後の最後までこういったものを忍ばせてくるぬかりのない侍女たちに、フィオレナは感心すらしそうだった。
(だって、この時期に蟻や芋虫なんて、簡単には手に入れられないでしょうし……)
外は雪で覆われている。虫たちは地中深くで眠っていたのだろう。侍女たちはフィオレナに嫌がらせをするためだけに、この寒空の下、雪を除けて土を掘るということをしたのだ。ただ、フィオレナの嫌がる姿を見たいがために。
(すごいパワーだわ。人を憎く思うと、こんなくだらないことにも、労力を捧げることができてしまうのね)
フィオレナだって彼女たちを嫌いになりたいわけではない。だけど、こんなことをされて好きでいるなんて、無理だった。ただ、フィオレナが怒ったり恐れたりすれば、彼女たちの加虐心を煽るだけだと分かっているので、ただ何事もなかったように平静でいることしかできない。憎むというより、無関心でいることが、フィオレナの精神的健康にも一番いい。嫌いになるのもエネルギーを使うのだ。――その一見“澄ました”態度が、侍女たちには「お高く留まった気取り屋」と映るらしく、なかなか追撃を逃れられない現状なのだが。
慌ただしい準備のことを思い出しながら眩しい外界を眺めていると、扉がノックされ開いた。年配の侍女とその他数名が一礼して、部屋に入って来た。後ろの侍女たちは三人がかりで立派なマントを持っている。それはグウィネイラ王妃が代々受け継ぐ、たいそう貴重なマントだという。表は金糸で見事な刺繍を施された臙脂のビロード、裏は全面が柔らかい真っ白の毛皮だ。しかも非常に大きい。
「これをお召し頂きます。終わり次第、玉座の間にて婚儀が執り行われます」
年配の侍女が指示を出し、他の侍女たちがフィオレナにマントを着せていく。恐らく様々な着付け方があるのだろうが、今回は首元にボリュームを持たせて、肩から背中の中程までを覆い、あとは腰から後ろへ流す、という着方だった。マントを引きずるような形になるが、その部分は侍女が二人で折りたたんで抱え込むようにし、一緒に歩くのだという。侍女たちが半分ほどを持ってくれているとはいえ、その重さはかなりある。
「お似合いです」
感情のこもらない声でそういうと、年配の侍女に先導され、フィオレナは扉を出た。
部屋に入れられた時は気を失っていたので、初めて扉の外を見る。部屋の前は左右に廊下が伸びており、絨毯が敷かれた床は柔らかい。出て右に進み、そう歩かず〈玉座の間〉とやらに到着した。大きな両開きの扉の前に待機させられる。恐らく中にはグウィネイラの貴族たちがひしめきあって、フィオレナの登場を待っているのだろう。玉座にはスヴァログがいて、無表情でこちらを見るに違いない。もしかしたら、オレーシャがその後ろに微笑んで控えているのかもしれない。
(もう、そんな想像も容易にできてしまう……)
つい先日まで、フィオレナは夢見る小娘のままだった。しかし裏切られたこの現実が、フィオレナの生きる現らしい。認めざるを得ない。何度目覚めても、フィオレナは囚われたままなのだから。
きっと貴族たちは好奇の目を向けるだろう。すでに寵愛する妾を持つグウィネイラ王に嫁いでくる異国の王女、それが彼らの目に映るフィオレナだ。取るに足らないか弱い小鹿なのか、敵に回せば噛みついてくるオオカミなのか、品定めをする。今のフィオレナには、どちらの仮面をかぶるのが最良なのか分からない。
(だったら……私はただ、祖国の誇りと言われるような“王女フィオレナ”であろうとすればいい)
グウィネイラでのフィオレナの立場は、きっと良いものではない。だったら人として、ティアータの人間として、侮られないように誇り高き王女でいればいい。そうしていつか……ティアータを清き国に建て直したい。今はグウィネイラによって混乱しているだろう民たちを、もう一度取り戻したい。
(歩むべき道は見えたわ。あとは私の覚悟だけ。……ニーナ、私は戦うわ。あなたたちのために。何よりも自分のために。ティアータの民が一人でも残っているのなら、最後まで)
フィオレナの決意を読み取ったかのようなタイミングで、控えていた騎士たちが扉を押し開けた。中はまばゆい金の光であふれ、酒と香水と煙草のにおいの熱気が流れてくる。ざわめきがゆっくりと消えた。フィオレナの前には一本の赤絨毯の道が階段を上り玉座まで伸びている。その終着点にスヴァログが足を組んで座っていた。
音楽も何もなく、ただ異様な熱気と静けさの中を、フィオレナはゆっくりと歩き出した。重いマントやドレスに負けず、すっと背を伸ばして堂々と。口元には慈愛に満ちた微笑を浮かべ、瞳は生命力と気高き精神を映し出して輝くようだ。鬼気迫るような、それでいて余裕のあるオーラに、その場にいた人々は皆しばらく我を忘れて彼女の姿を目で追った。
数段の階段の下まで来ると、フィオレナはゆっくりとひざまずいた。直前、近くにオレーシャがいてこちらを呆けて見ていたが、慌てて笑みを張り付けたようだった。フィオレナはなんとなくそれを感じながらも、彼女へは視線をくれてもやらなかった。負の感情からではない。
フィオレナは女王だった。
気高く、誇り高く、清く強い心を持った女王。卑しい心を持つ者には、見向きもしない。一方で嫁ぐ国王に寵愛する女性がいたとしても、「わたくしこそが王妃、お慕いし敬う国王陛下の愛する人ならば、わたくしも同様に愛しましょう」と、女神のような心ですべてを愛し包み込んでしまう。例え自分の内情がどうであれ、だ。
オレーシャは、この時自分がその場で一敗を喫したとは気付きもしなかった。彼女は確かに、フィオレナに気圧されたのだ。その王たるオーラは、オレーシャには持ちえないもの。それを見せつけられたのだと、思いもしなかった。その場にいた貴族たちも同様に、それこそが〈真の王〉の独特のエネルギーだと思い至る者はいなかった。
ただ、スヴァログだけは。ほんの一瞬、自身の胸に穿たれた氷の楔に顔をしかめた。次の瞬間にはそれを無表情で抑え込んでしまったが……。
「……司教」
呆けていた老齢の司教は、スヴァログの低い声に慌てて居住まいを正し、祝いの言葉を読み上げた。今や聖典の内でしか存在しないその古い言葉の意味を、真剣に考える者はもう多くはないだろう。
(――汝ら、分かつ魂を見つけし者なり。我が元で無欠の存在とならん)
以前教わった意味を反芻し、フィオレナは瞑目した。
魂の片割れ。その相手を見つけたはずなのに、フィオレナの心はちっとも晴れなかった。
「お二人の間は、神とその使いである私の名のもとに、深く結びつきました」
司教が、玉座のスヴァログと階段下のフィオレナの間に差し入れていた杖をどかし、一礼した。
奇妙な静けさが、まだ続いている。そんな中スヴァログは堂々と立ち上がり、小さく右手を挙げた。するとラドミルが布のかかった小さな臙脂のクッションを手に、近づく。スヴァログの前で掛け布をとると、その下に輝くティアラが鎮座していた。
「我が妃となったあなたに、この王冠を贈ろう」
スヴァログの大きな手に持ち上げられ、その王冠の小ささ、繊細が際立つ。フィオレナは元々下げていた頭を尚のこと低く垂れ下げ、手を胸の前で組んで恭順の姿勢で待つ。玉座からゆっくりと降りてきて、フィオレナの目の前に立つと、スヴァログはそっとそれをフィオレナの頭の上に乗せた。そのあまりに優しい手つきに、一瞬、フィオレナの胸がチクリと痛んだ。
目の前に右手が差し出され、素直にその手に左手を重ねると、強めに掴まれて引き上げられた。ドレスと同色の手袋の下で、包帯に巻かれた傷に激痛が走る。しかしそれをおくびにも出さず、微笑を湛えて王妃らしく、堂々とスヴァログの隣に胸を張って立ち上がった。
その時になってやっと、金縛りが解けたかのような貴族たちから割れんばかりの拍手が贈られた。
中にはフィオレナを憎らしく思う者もいるだろう。だがこの場で、フィオレナは必要以上の敵を増やさず最大限抑えることに成功したのだ。多くの貴族たちは“異国の小娘”という認識を改め、“一筋縄ではいかない王妃”という警戒の目で彼女を見るようになった。ごく少数だが、彼女を純粋に敬い憧れる令嬢も数人いたかもしれない。酒池肉林に溺れる貴族の皮を被った狸親父たちは、オレーシャを愛すスヴァログに捨てられるだろうフィオレナを下賜されるかもしれない、という妄想に色めきたった。
オレーシャは、一人訳のわからない悔しさに唇を噛みしめた。
(スヴァログ様は、……彼の体も心も、私が掴んでいるのよ。優位なのはわたくし。わたくしは勝っている……。なのに、なぜなの! この敗北感は……!)
フィオレナの隣のスヴァログにはいつもオレーシャに見せるような優しく愛に満ちた微笑みはなく、無表情だ。それだけが、唯一オレーシャの荒れる心を癒してくれる。彼が昨夜言っていたのだ。愛し合い、肌を重ねた後のオレーシャを優しく抱きしめながら、耳元で、そっと。
『立場上、あの娘を正妃にしなければ収まりがつかないのだ。だけど俺の心は……オレーシャ、お前に捧げている。俺があの娘の隣にいるときは、きっと、お前の隣でいるような輝きは持てないだろう。お前は最高の女だ、オレーシャ……』
(大丈夫、私からスヴァログ様を奪うことなど、無理だわ)
オレーシャは胸の内の不安をぐっと抑え込み、彼の激しく強引ながらも優しい愛を何度も思い出した。あの娘はまだスヴァログの愛を知らないだろう。だってスヴァログは、ちっとも幸せそうでないから。
プライドを取り戻したオレーシャが顔を上げると、二人はゆっくりと玉座に向かっているところだった。スヴァログがフィオレナの手を取り、エスコトートしている。たった数段をいやに時間をかけて上りきり、二人は王座の前でくるりと振り返った。
その時、二人の頭に戴かれた揃いの意匠の王冠がキラリと光り、オレーシャの目を刺した。
眇めたオレーシャの目に焼き付いたのは、これまで見たことのない、精悍で厳かな〈国王〉の顔をしたスヴァログだった――。