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フィオレナとスヴァログの、ティアータでの小さな婚儀の日。グウィネイラによって廃絶された王家の代わりに、玉座に登った者、それがアミルカレ・ジュリオ・ランバウディだ。彼はフィオレナの父の叔父の子、つまりフィオレナにとっては、はとこにあたる男だ。フィオレナの祖父が王位を継いだ際、祖父の弟であったアミルカレの父は臣下に下り、地方に領地を得てランバウディ大公を名乗るようになった。アミルカレはフィオレナより十歳年上で、確かに王家の血を継ぐ者ではあったが、長子相続が原則のティアータでは王座からは程遠い存在だ。フィオレナには兄がいたし、父王は一人っ子の長男だった。
しかし、今は亡きランバウディ大公は腹の底に黒い欲望を抱き続けていた。そしてその強すぎる思いは息子のアミルカレにもしっかりと受け継がれてしまい、彼らは二代に渡って虎視眈々と玉座を狙っていたのだ。そんな野望を見抜いたグウィネイラに、彼は喜んで利用される道を選んだ。アミルカレがグウィネイラと手を組んで、フィオレナの父王を権力争いの名のもとに排し、王座を乗っ取った。ティアータはグウィネイラへ協力的な姿勢を見せること(その内実はほぼ傀儡政権といっていい)でその軍事力の恩恵を受け、グウィネイラは軍事力を提供する代わりに経済的貧困を脱する足掛かりとフィオレナを得ることになった。
グウィネイラ国には、もう一つ考えがあった。
ティアータとグウィネイラの間に、一つの王国がある。その王国はマンティと言い、かつてのグウィネイラ王と身分の低い愛妾との間の子が与えられ治めた地で、元はグウィネイラ領土の一部分でしかなかった。それがだんだんと勢力を増し、一つの王国として成長・独立し、現在に至る。グウィネイラの悩みの種の一つは、ここにあった。この数年でマンティ王が、自分たちこそグウィネイラ王にふさわしいと主張し、勢力を拡大し始めたからだ。大国グウィネイラの南端と接するその地は、周辺各国の流通の要ともなっており、無視しきれない存在感があった。一方大きいだけで経済的にはよっぽど引けをとるグウィネイラは、しかし軍事力だけでマンティをねじ伏せる訳にもいかず、困り果てていた。
そんなときに話に出たのが、ティアータとの同盟だったのだ。ティアータがグウィネイラの味方になれば、かの王国は二国に挟まれることとなり、グウィネイラとしても監視がしやすい。しかし元々の婚姻の話だけでは、その結束はずいぶんと弱くグウィネイラの要望を大きく叶えるものではなかったのだ。そこで、アミルカレが利用された。グウィネイラに協力的なティアータ王アミルカレという、グウィネイラの傀儡ができることで、マンティは下手な動きができなくなったのだ。マンティから戦を仕掛ければ、グウィネイラは嬉々としてそれに応戦する。それはつまり、前からも後ろからも攻められることとなり、純粋な軍力でグウィネイラの負けの可能性はかなり低いのだから、マンティにとって自分から仕掛ける戦争は意味をなさない。グウィネイラから仕掛けようものなら周辺諸国は黙っていないだろうし、そうでなくとも、グウィネイラとしては、豊かなマンティとの“兄弟的”な繋がりを途切れさせたくはなかったのだ。
そこで、スヴァログたちにとってアミルカレという男は実に使い勝手のいい駒だった。彼自身は王の器ではおよそない、考えなしの自分本位な男だったから、彼にとってのメリットを囁いてやれば簡単にスヴァログたちに加担した。もっとも、馬鹿だからこそ、スヴァログやラドミルが考えもしない行動をとることがあるため、その点だけは少々扱いに注意が必要であるが。
今回も、ラドミルには少々理解し難い彼の判断によって、フィオレナの侍女だったという女と一緒に、フィオレナのベッドを挟んで対峙していた。
自ら死のうとしたらしいフィオレナは、ラドミルの迅速な対応によって事無きを得た。医者によると、手首を傷つけてもそう容易くは死に至らないらしいが、フィオレナは、まだ目を覚まさず眠ったままだった。手首には包帯が巻かれ、痛々しい。そのそばを優しくさすってやりながら、女――ニーナは動こうとしない。沈黙で以ってラドミルをきつく責めていることが分かった。しかしラドミルも、そう簡単に流されるような性格はしていない。重い沈黙などまるっと無視をして、自分にとって必要な情報を聞き出すことにした。
「ティアータ王は、なぜお前を使者として使ったんだ? もともと城に勤める侍女ならば、この時期のグウィネイラに行かせるような過酷な仕事は向かないだろう」
ニーナは口を開かない。
「……答えろ、さっきの俺の言葉を忘れたか?」
ギロリと睨まれたが、ラドミルは痛くも痒くもない。ニーナは諦めて、ぽつぽつと話し出した。
「アミルカレ様の真意は私には量りかねますけど……これは私の推測ですが、きっと、私とフィオレナ様が対面したら、それがより面白いと思ってそうしたのでしょう」
「……面白い?」
「フィオレナさまは、目の前で肉親や親しくしていた方たちを殺されました。きっと天涯孤独です。そんなフィオレナさまの前に、唯一残った懐かしい顔が現れたら、きっと、フィオレナさまは大きく反応するに違いない。だからその反応を確かめてこいと、そう、おっしゃっていました」
ラドミルは溜息をついた。
(アミルカレがあの日、この女に頼み事をしたというのは、こいつを生かすための口実だったのか……)
そう気付いて、余計なことをしてくれやがって、と毒づいた。ニーナがフィオレナにとって失いたくない人であるのは確かだろう。だから、アミルカレはラドミルたちにそうと悟られないようにニーナを生かした。ラドミルたちは全く知らないまま、こうしてこの女を城にまで迎え入れ、まんまとフィオレナと対面させ、馬鹿なはずのアミルカレの考えにはまってしまったのだ。屈辱以外の何物でもない。
(しかし、この女を彼女に会わせて、いったい何がしたいんだ、あいつは)
ギロリと女を睨むが、相手はもはやラドミルなど見ていなかった。
「……フィオレナさま?」
ニーナは何かに気づいたように腰を浮かせ、フィオレナの顔を覗き込んでいる。ラドミルも、はっとして様子を見る。
フィオレナの眉が少ししかめられて、瞼が動いた。
「フィオレナさま……? お目覚めですか?」
ニーナは驚くほど優しい声を出した。
「ん……、ニー、ナ……?」
かすれた小さな声が、色を取り戻した唇から漏れ出る。
「ああ、フィオレナさま、よくぞお戻りに……」
ニーナは涙をポロポロ流して、フィオレナの頭をそっと抱きしめた。フィオレナはぼんやりとして、まだ現実がよく分かっていないようだ。
「ニーナ……ああ、私、あなたたちの元へ来られたのね……。お父さまたちは、みんなはどこ……?」
その言葉に、ニーナの笑顔がさっと強張った。
「フィオレナさま、しっかりなさいませ。あなたはまだお父上さま方のもとに行くのは早いはずです。まだ、地上の世界でやらねばならないことをお忘れでは? このニーナ、そんなフィオレナさまを叱りに参りましたのよ」
フィオレナは目をぱちくりと瞬かせ、それから、ニーナの腕をつかんだ。そのぬくもりに驚いたのか、次は自分の頬に触れ、そして左手首の傷に気付いたらしい。包帯の上を、指でなぞった。
「あなた、生きて……いいえ、私も……」
正気に戻ったらしいフィオレナに、ニーナは安堵のため息をついた。
「ええ、そうですわ、フィオレナさま。ニーナは生きておりますよ。たった一人祖国に残され、あなた様のことをずうっと考えておりましたのに……!」
ニーナはひとしきり泣いた後、フィオレナの傷ついた左腕をそっと持ち上げ、片手を彼女の頬に添え、諌めた。
「なぜご自分を殺めてしまおうなどと! 陛下たちが、あなたがこんな風に自分たちのもとに来て、喜ぶとでもお思いですか! これだけはなりません、フィオレナさま。あなたは、清き水ティアータが王の誇り高き血を継ぐお方……国を捨て、民を捨て、自ら神の御許へ行こうなど、あるまじきことです」
叱られて、フィオレナは涙を流した。ようやく、自分がしでかしたことがどんなに罪深いことなのか、気付いたのだ。
「ニーナ、私、なんて浅ましいことを……あなただけじゃない、国にはもっと混乱している人がたくさんいるだろうに、私だけ楽になろうと……ああ、本当に、自分が恥ずかしい」
「もう二度と、私をこんな風に泣かせないでくださいませ。快活なフィオレナさまらしく、明るく、強く、生き抜いてください」
「そうね、ニーナ、ありがとう……私、頑張らなくちゃ……。ねえ、あなた、ティアータに残っていたと言っていたけれど、どうしてここに? ティアータはいったい、今どうなっているの? 私、あの日から何にも……」
「――失礼。感動の再会の最中に申し訳ありませんが、ニーナ殿、あなたはもう行かねばならないのでは?」
その時になって初めて、フィオレナは部屋にラドミルがいることに気が付いた。一気に緊張感が高まって、フィオレナは自分の油断を悔いた。ニーナが自分と気の置けない仲であるとラドミルにばれてしまっては、ニーナの命も危険にさらすかもしれないのに……!
顔を真っ青にして自分を見上げるフィオレナを、ラドミルはじっと見つめる。その、屈さずに戦おうとする瞳を見て、内心ほっとした。昨夜話した限り強い姫だと判断して、ラドミルも安心してしまったのだ。まさか自ら死を選ぶほどの精神状態であったとは、と思った。しかし、考えてみれば彼女の反応も至極当然だ。肉親たちを目の前で殺され、祖国を奪われ、異国の地に連れ去られ、たった一人で戦わねばならない娘。王女とは言え、所詮まだ十七歳の娘……混乱に満ちた状況で死を選ぶことも想像できたはず……。ラドミルはフィオレナの見かけだけで判断して、彼女の深いところまで気を遣おうとしていなかったから、この事態を招いた。自分の甘さを再認識し、また彼女に必要以上に絆されたことを苦く思った。
(この子をどう思おうが、それは俺個人の勝手な気持ちだ。だけど、公人の俺は、あくまでもグウィネイラ王の側近……。しっかりしろ、俺らしくもない)
今は冷徹な宰相の仮面を。
ラドミルはフィオレナからふいと視線を外し、ニーナを見た。ニーナも主人と同じような目をしてラドミルを見ていた。この者たちをどう利用するか、それがラドミルに課せられた使命だ。
「聞こえなかったか? フィオレナ様との面会は済んだ。お前は祖国に帰り、自分の役割を全うしなさい」
ラドミルの言葉にニーナは悔しそうに唇を噛んだが、ここで反抗するのは得策でないと判断した。生きていれば、きっとまたアミルカレは面白がってニーナをグウィネイラに送り込もうとするだろう。今はただ、フィオレナも自分も無事に生きていることが最優先だ。このラドミルという男も、食えないやつだが、どことなく他のグウィネイラ人とは態度が違う。もしかしたら希望になり得る可能性を秘めている。
「フィオレナさま、私にはこれ以上語れる力がございません。今回は、これで失礼します」
「ニーナ……」
不安げな主人の黒い目。ニーナもフィオレナも、また引き離されるのだ……。
「ですがフィオレナさま。どうか、絶対に、お忘れになりませんよう……。どんなことがあっても、私は貴女さまの味方でございます。私たちは、どんなに辛く苦しくても、地獄と思しき場所でも、生きなくてはなりません」
「ええ、ニーナ。私、もう二度とこんなことはしない。ごめんなさい……。誓うわ、何があっても、もう逃げない」
「それを聞いて安心いたしました。……では、フィオレナさま。また必ず、生きて……」
するりと、手の中から抜けていくぬくもりに、フィオレナは心臓がギュッとつかまれる思いだった。だけど、縋ってはいけない。追いかけては、自分にもニーナにも不利になる。ベッドから動けない自分が、今は有難いくらいに、ニーナと離れがたかった。
ニーナはベッドから一歩離れて一礼すると、それからは振り返らずに扉から出て行った。
ニーナが出ていき、扉が閉じられるなり、ラドミルがベッドの横に椅子を近付けた。
「ご気分はいかがです」
「……最悪だわ」
「それは、ようございました」
嫌味に嫌味で返すと、フィオレナはラドミルを睨んだ。そんな彼女を相手に、ラドミルはふわりと笑う。
「そのような目ができるならば、もう安心できますね」
「……心配など、していたのかしら? グウィネイラの冷たい宰相殿は」
どうやらフィオレナは、ばつが悪く思っているらしい。ニーナに諌められ、自分の軽はずみな行動を恥じ、弱った姿をラドミルに見られたために居心地が悪そうである。
「ええ、もちろん……しかしまさか、櫛で自らを傷つけるとは、思いもよりませんでしたよ。医者の話では、しばらく安静にして滋養を摂り、失った血を取り戻せば大事ないと。しかし……傷そのものは、おそらく残ってしまうだろうと、申しておりました」
鋭い刃で切られていたならまだしも、フィオレナの左手首は櫛でこすったため、傷口が不揃いに抉られているために、縫うこともできず治りも遅いだろうと、医者は言っていた。高貴なお姫様にとって、傷など卒倒しそうなほどのもののはずだ。
しかしフィオレナは、すでに落ち着きと理性を取り戻しており、静かに首を振った。
「いいのです。これは、一度は民を捨てようとした私への戒め……忘れてはならない罪の証として、我が身に残しておくべき傷です。痕が残ろうとも、どうか、診てくれた医師を罰することのないよう、お願いします。……もとより、私はそこまでの扱いはされておりませんでしょうけれど」
挑戦的に、でも少し悲しげに、フィオレナは微笑んでラドミルを見上げた。そんな小さな彼女に、ラドミルは冷たい塊を喉につかえさせたような気持になった。
(この場から、逃げ出したい)
情けなくも、そう思った。この子は、どこまでも強く気高い。自分はなんと卑小で、弱くて、情けないんだろう。
思わず謝罪の言葉が出そうになった、その時。部屋の扉が大きく開かれた。ノックもなく堂々と入って来たのは、スヴァログだった。
「ラドミル以外の者はさがれ」
一歩後ろをついてきていたスヴァログの近衛騎士は、一礼をして部屋を出て行った。どうやら扉の前を守っていた騎士も離れたらしく、気配がすっかり遠ざかった。
フィオレナはベッドの上で居住まいを正し頭を下げていた。ラドミルもすぐさま椅子から立ち上がって一歩退いた。心を失くしてしまったかのようなスヴァログが、フィオレナの自殺未遂の話を聞いて、どう反応するか。ラドミルはスヴァログを、そうと分からないようそっと観察した。二年前は確かに、フィオレナを憎からず思っていたスヴァログだ。彼女の命の儚さに気付き、もしかしたら……という期待がよぎる。
「話は聞いた」
スヴァログの、深い声がフィオレナにかけられた。
「意識は戻ったようだな」
「……はい。ご迷惑をおかけいたしました」
どうやらラドミルの期待は裏切られたようだった。スヴァログは氷の表情を崩さず、フィオレナを気遣う言葉一つも発さなかった。平伏し続けるフィオレナをそのままに、ラドミルに向き直った。
「ラドミル、医者はなんと言っていた?」
「は。しばらくは安静にせよと申しておりましたが、もう命の危険はないそうです」
「そうか。それなら、いい」
そして事務的に、フィオレナに言い放ったのだ。
「二日後、予定通り婚儀を行う。そのつもりでいるように。それだけだ」
そしてフィオレナの返事も聞かず踵を返し、部屋を出ていく。スヴァログは固まっているラドミルを肩越しに振り返った。
「ラドミル、中断していた仕事の続きをする。もういいだろう、戻れ」
「……は。すぐに」
ラドミルが条件反射で一歩踏み出した時、フィオレナがやっと顔を上げた。驚いて彼女を見ると、フィオレナは、完璧にコントロールされた微笑でスヴァログの背を見ていた。その表情に、悲愴とも恐怖とも言える思いが募り、ラドミルは目をみはった。
――それは、国王を送り出す王妃の表情そのものだったのだ。
(フィオレナ様、あなたは、なんて強い……)
ラドミルは何故だか涙が滲んだ目をギュッとつぶり、様々な思いを振り切るようにして足を踏み出した。必要以上に大股で、廊下へと続く扉まであっという間に到達する。重い扉を抜け、それが完全に閉まる直前。そっと、隙間から中を盗み見た。
こちらへ向かって再び平伏する彼女の姿が、痛いほど脳裏に焼き付いた。
強い女を書きたがる作者は、フィオレナも強い女に覚醒させました。
フィオレナの奮闘記が始まります!(たぶん。)




