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冷たい太陽と海の花  作者: 木乃梢
3.悲しみの結婚
10/18

-10

※自傷行為が描かれますが、当作品・作者はこれを推奨するものではありません。

 夜明けが来た。

 フィオレナは泣き腫らした顔をようやく上げて、窓を見上げた。その窓には鉄格子が嵌められていた。小さく切り分けられた朝焼けが、目に染みる。泣きすぎて、頭に靄がかかっているようだった。

(顔、洗いたい……)

 ぼんやりとそんなことを思った。体は寒さと疲れで強張って、うまく動かない。結局暖炉に火も入れず、布団にも入らず泣き明かしたから、全身が冷え切っていた。ほとんど感覚のない足を引き寄せ、手でゆっくりともみほぐす。氷のように冷たかった。

 それから、立ち上がることは無理だったので、四つん這いのまま部屋を移動した。部屋にはドアが三つあった。一つは、昨夜ラドミルが出て行った扉。もう一つは閉じていて分からない。最後の一つは、洗面所に繋がっているようだ。フィオレナは洗面所に向かって這っていき、その奥に風呂場があるのが分かりすぐに湯を出した。冷水がしばらく出たが、そう待たずに熱い湯が蛇口から勢いよく飛び出してきた。浴槽のふちにもたれかかって、熱い湯に手を突っ込む。冷えた指先が急速に熱を取り戻して、ジンジンと痛んだ。

 やがて湯がたまって、浴槽からあふれ出てきた。フィオレナの冷えすぎた体に湯がかかり、ようやく体温が戻ってくる。やっと温まって、着衣のまま湯船に身を沈めた。ぼうっと天井を見上げていて、フィオレナは、なぜかはっきりと、決めていた。――死んでしまおう、と。

 するりと視線をずらせば、鏡の前の小さな棚に櫛が置いてある。髪をすくための、非常に歯の細い金属製の櫛だ。湯船から手を伸ばすと、難なく届いた。美しい装飾を指で撫で、微笑む。――この細さなら、問題ないわ。

 右手に櫛を握り、左手の手首を返す。白い肌がほんのりと色づいていた。

 そこに櫛を突き立てた。痛みと同時に、真っ赤な血がにじむ。しかし想像ほどの傷がつかない。フィオレナは櫛を握りなおし、鋸のように左右に動かした。柔肌はみるみる破れ、やがて血があふれて止まらなくなった。

 フィオレナはそれを見て再びにっこりと微笑むと、手首をあたたかい湯に沈めた。透明な水の中で、血がゆらゆらと空気をはらんだ羽毛のように広がっていく。

 目をつぶると、とっても満ち足りた気分だった。

(お父さま、お母さま、お兄さま。私も、すぐにおそばへ……)

 そして、眠るように、霞のかかる世界へと堕ちていった。



 *****



「陛下、ティアータ新王からの使者が参っております」

 朝日が昇って間もない早朝。執務室に似つかわしくないゆったりしたローブ姿の主人に、ラドミルはお伺いを立てた。

「……こんな早朝に、いったい何の用だ?」

 案の定、主人のご機嫌は麗しくない。これ以上怒らせないように、しかしラドミルも相手の使者がどうしてもと譲らないのでと困った風に、眉を下げる。

「なんでも新王アミルカレ様が、可愛い可愛いはとこ(・・・)のご様子を絶対に確認して来いと、譲らないそうでして……使者も頑固です」

「ふん、イカれた好き者め。王に立ててやれば、すぐにのさばり返るからたまったもんじゃない……」

 スヴァログは熱いコーヒーをすすってから、今回は許すが次からはそう簡単に通すな、とラドミルにきつく言って衣裳部屋に消えていった。

 ラドミルは彼を見送って、すぐに使者を待たせていた部屋に戻る。使者の女は緊張の面持ちで、勧めた椅子にも座らず用意したお茶にも手を付けず、部屋の奥に突っ立っていた。ずいぶんとやつれた顔をしている。30代くらいの、品の良い女性だった。使者には、あまり似つかわしくないように思う。

(まあ、この季節のこの国を通って来たなら、かの国の者には辛かろう)

 ラドミルはそう結論づけて、女に向き直った。

「陛下から許可が下りた。ただし、こんな我儘も今回限りだと、そちらの陛下にお伝えしてくれ」

「御意にございます」

 女は素直に頭を下げたので、ラドミルも多少心持ちを良くして、フィオレナを閉じ込めた部屋を自ら案内することにした。昨晩遅く、追い出されるようにあの部屋を後にしてから、彼女のことが気がかりでもあった。

 スヴァログの執務室からそう遠くないところに、フィオレナの部屋はある。優美でありながら豪奢な扉のその部屋は、代々王妃の〈昼の部屋〉として使われてきた。お客人をそれなりにもてなせる広さはあるし、仮眠用ベッドも湯殿もついているので、ここだけで生活することも十分可能だ。――今はただ、フィオレナにとっては豪華な牢獄に他ならないのだが。

「こちらが、フィオレナ様のお部屋です」

 使者の女に言いながら、扉のわきに控える近衛騎士にご苦労、と声をかけ、ノックをしながら素早く部屋の鍵を開けた。部屋の窓の鉄格子を見ればすぐにばれてしまうことかもしれないが、この国での姫の扱いを、あまり悟られたくなかった。

 ノックに返事がない。

「王妃陛下、ラドミルです。王妃陛下? ……この時間です、まだお休みなのかもしれません」

 女に、暗に出直せと言うが、相手は頑として譲らなかった。

「私が来たと言えば、フィオレナ様はきっと通してくださいます。私がノックしても構いませんか?」

 許可を得るというか、“そこをどけ”と言うように鋭い目で言われ、ラドミルは少したじろぐ。しぶしぶ扉の前をずれると、女は程よい力加減で二回、少し間をあけて強めに一回、扉をノックした。

「フィオレナ様? 私です、どうか、開けてくださいませんか? フィ……、待って、この音は?」

 突然、女が扉に耳を当てた。

「水の流れる音が、ずっとしています。この部屋には湯殿がありますか?」

「ええ、広くはありませんが、浴室も完備しております」

 すると女は許可も得ず、扉を勝手に押し開けた。ラドミルは思わず怒鳴る。

「おい! 勝手な行動は――」

 しかし女は聞きもしない。足早に部屋に入っていった。慌ててラドミルも追う。短い廊下の先にあるメインの部屋に、彼女の姿はなかった。ベッドにも、テーブルセットにも。女が強張った表情で部屋を見渡し、浴室に繋がる扉に手をかけた。確かに水が絶えず流れているようだ。扉が開く。途端、はっきりと耳に届く音。そこに入っていいものか、ラドミルは迷った。本来なら入るべきではない。ラドミルは男だ、女性の浴室に入るなどもってのほか。しかし、そんな言い訳もすぐに霧散した。

「フィオレナさまっ……!」

 女の悲痛な叫び声が響き、ラドミルは無心で浴室に飛び込んだ。洗面台を右手にして曲がった先に、女が立ちすくんでいる。その向こうに見えたのは、湯の中でゆらめく青毛の馬のような真っ黒の髪。それにふちどられた蒼白な美しい顔。長い睫は湯気で重たそうに湿っていた。しかしいつもは薔薇のように色づいた唇は紫を通り越して白っぽい。異変に気付き、ようやくラドミルは歩を進めた。女はガタガタと震えて口を両手で覆っている。女の隣に並んだとき、ラドミルはことの重大さに慄いた。湯が薄赤く染まっていたのだ。着衣のまま浴槽に沈むフィオレナは微動だにしない。左手首が裂け、裂傷から絶えず血が流れ出ていた。

 ラドミルはフィオレナの首筋に指をあて、脈を調べた。

「……かなり弱いが、まだ脈はある!」

 女は震えて動けないようだった。ラドミルは彼女を叱咤する。

「すぐにタオルを用意して! 彼女を運んで、医者を呼ぶ。急いで!」

 その怒声にはじかれたように女は動き出した。その間にラドミルは湯を止めて、浴槽の栓を抜く。フィオレナの左手を、傷に触れないよう彼女の頭上に持ち上げた。手首から腕を伝って、血が彼女の濡れた服の胸元に赤く滲んでいく。女がタオルを持ってきたので、フィオレナの手首をきつく縛ってベッドに運んだ。その軽さに驚くと同時に、恐怖する。彼女の存在が、とてつもなく儚く思えたからだ。

 ベッドに移動すると、ラドミルは扉の護衛に医者を呼びに行かせた。またスヴァログの耳にも情報を入れる必要があるため、信頼のおける伝達係をここに連れてくるように頼んだ。

「フィオレナ様……」

 ラドミルがベッドに戻ると、女は震える指でフィオレナの頬を撫でていた。

「お前は……フィオレナ様の、なんなのだ?」

 ラドミルがベッドの反対端から、女を見下ろす。

「ティアータ新王の、ただの使者というわけではなさそうだ。彼女と、いったいどんな関係だった?」

 女は彼を見返した。睨みつけたと言ってもいい。

「答えなさい。でなければ、お前を拘束する」

「――フィオレナ様のように、ですか」

「……心外だな、我々は彼女を拘束などしていない」

「この、部屋は! まるで牢獄ではありませんか! 豪華で品のいい、けれどなんて冷たい部屋……グウィネイラ王は彼女を愛していたのではなかったのですか! なぜ、愛しい人に、こんな扱いを……! いいえ、あなたたちは、なぜ、我が国をあんな男に……!」

 女は激昂して歯を噛みしめた。ラドミルは静かに彼女を見つめ返す。何も、言い返すべきではない。この激しい怒りはぶつけられて当然の怒りだ。グウィネイラ王の側近として、宰相として。あの美しいティアータを我が王の傀儡国家にしようとしているのは、事実なのだから。

「質問に答えなさい、お前は、何者だ」

 冷静な声に、女は悔し涙に頬を濡らしながら、声を絞り出した。

「私は、フィオレナ様付きの侍女をしておりました」

「……名は?」

「ニーナ、と申します」

 その名前に覚えがあった。スヴァログに嫁ぐという彼女を徹底的に調査したとき、確かに彼女の存在があったはずだ。フィオレナの姉のような、もう一人の母のような、近しい存在だったと。

「お前のような者であれば、先日の婚儀にも出席していて当然ではないのか?」

 ――あの日、あの教会いたはず。そうであれば、この女はあの時グウィネイラの騎士の前に絶命していたはずだ。そうでないと言うなら、あの場にはいなかったということになる。それはいささか、不自然に感じた。

「あの日、現ティアータ王アミルカレ様に頼まれごとをしていたのです。私は、断り切れず、言われた通りフィオレナ様にお渡しせよと頼まれた祝いの品を取りにいき、婚儀には遅れて出席するはずでした……」

 あの野郎、とラドミルは心の中で舌打ちした。

「宰相殿、あなたたちは……いったい何を考えているのです? アミルカレ様を王にしたのが、あなたたちの目的なのですか? 我が国の花を連れ去り、権力争いと見せかけティアータの内政を崩壊させ、傀儡にして……いったい何が目的なのか、私には皆目見当がつきません」

「……私が答えるとお思いか? 使者殿」

「私は……」

「私たちを疑うのも、アミルカレ殿を疑うのも、あなたの勝手です。ですが、それは賢い生き方ではないでしょうね。強大な我々か、遠く離れた小さな王女さまか。どちらにつくにせよ、あなたにとってフィオレナ様が一番でしょう? あなたの大切なお方のためには、考えることは時に邪魔な力にしかなり得ないこともある。……そう、思いませんか?」

 柔和な笑顔で淡々と諭すその言葉は、ニーナには残酷な刃でしかなかった。『フィオレナを危険にさらしたくなかったら、黙って権力の手足になっていろ』と、そう言っているのだ、この男は。

 ニーナが言い返せずうつむくと同時に、部屋の扉が開いて医者が入って来た。後ろには伝達係の少年もいる。ラドミルはすぐに彼らを迎え入れ、ニーナはベッドから一歩離された。

 彼女は、この国では、無力な使者でしかなかった。



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