7:悟る
月明かりが降り注ぐ自分の部屋には、タロウの布団がまだ残っている。母が綺麗に整えてくれたのだろう。起き抜けの汚い状態ではなかった。その上に寝転がってみると、微かに子犬の匂いがする。そう認識して、俺は涙を流しながら呻いた。柔らかい布団を握り締め、歯を食いしばって。後悔とも懺悔ともいえない想いをたぎらせる。
「泣かないで」
唐突に声が響いた。昨夜、俺に子犬を託した声だ。ハッと顔を上げて周囲を見渡すが、何の姿も見えない。
「青年よ、泣くのはおよしなさい。あの子が心配しますよ」
「俺……っ、たいしたこと、できなかった。幸せなんて、幸せなんて……!」
口を動かすたびに涙が溢れる。喉が張り付く感じがして、思うように話せない。そんな俺を宥めるように声は言った。
「幸せを、確かに感じましたよ。あの子は幸せでした」
そんなはずがない。大きく首を振っても、声は全く動じず、穏やかに先を続けた。
「あの子の最期の笑顔を覚えているでしょう。なんとも幸せそうな笑顔を」
幸せ?あの笑顔が幸せだったというのか。
「あなたにとっては些細なことでも、あの子には大きな喜びだったのです。体をお湯で清め、満腹になるまで食事をし、温かな布団で夢見ることが出来た。友達と遊ぶことが出来た。そして、名前をもらい、優しさに触れ、常にあなたが手をひいてくれた。……それは、とても大きな幸福な記憶となったのですよ」
思えば、タロウはいつでも笑顔だった。どんな時でも、小さな幸せを拾っては喜んでいた無垢な魂。俺が過ごしてきた当たり前の日常から、幸福を探し当てた小さな掌。そして、笑顔。
俺は体を折り、むせび泣いた。何がどう悲しいのかも分からぬまま、ただひたすらに涙を流した。不思議な声は、もう泣くなとは言わなかった。ただ「ありがとう」と残して、二度と聞こえなくなった。
* * * *
一ヶ月が経った。俺は今、保父の資格を取ろうと講習に参加したり、勉強プログラムを組んだりしている。タロウは死んだ。あんなにも綺麗な命は散った。でも、俺は生きている。ならば、精一杯に頑張って生き抜かねばならないと思ったのだ。もがきながらでも、迷いながらでも、命を粗末にするような生き方をしてはいけないと悟った。生きたくても生きられない人もたくさんいる。そんな人の分まで、俺は満足のいく日々を重ねようと考えた。どうでもいい、などと二度と思わないように。
なんでもない日々に、ささやかな喜びで微笑む。それは、とても幸せなことなのだ。そして、幸せを見逃しながら幸せを探し求めて生きる人間とは、何と愚かで、何と幸福な生き物だろう。様々な命が散りゆく中で、そんな滑稽な姿を暢気に晒すことを神に許されているのだから。タロウと出逢い、別れたことで俺は思い知った。
以前の俺のような人間は決して少なくないだろう。無気力に生きているようで、その下には押し潰されそうなほどの不安を抱えていたり、漠然とした苦しみを感じたりする。そんな時には思い出して欲しい。どんな些細なことでも、幸福な記憶を。それを礎に生き抜いていけるだろうから。
この広い空の下、確かに俺たちは愛され、祝福されている。