ブレイン・リラクスト 5-4
「カロン~待ってよ……進むの速すぎ……」
シフォンの声を聞き、振り返ってため息を1つ。
俺は岩の上に立ってノロノロと登ってくるシフォンを待った。
夕方の祭まで、懐かしい山を見て回ろうと出掛けたときシフォンも着いてきた。
始めはお喋りだったシフォンだが、道なんかない獣道を歩いてるうちに、お喋りは少なくなり、最終的に無言になった。
俺はそのまま気にせず進んでいたが、結局シフォンを気にしながら歩くことになった。
まぁ、山道に慣れている俺と、都会育ちのシフォンでは歩くスピードが違うのは当たり前。
「だから、ついて来なくて良いって言っただろ。俺は慣れてるから良いけど、足場も悪いし、危ないぞ。ほら、そこ滑るぞ……」
俺は苔の生い茂った岩の上からシフォンに手を差し伸べる。
「だって、山の中を自由に散歩出来るなんて、滅多にない体験よ。行ってみたいじゃない……」
シフォンは俺の手をしっかり掴んで岩に足をかけて登った。確かに、舗装された山道を登ることは出来ても、ここまで自然のままの山に登るのはそうそうないだろうな……
岩に座り込み息を整えるシフォンを見て、俺は呆れながらも少し感心していた。
(女の体力でよくここまで来れたな……)
シフォンの息が整ったのを確認してから、また足を進める。
シフォンも座った際に少し汚れたジーパンを軽く払ってから、俺にの後を追って登り始めた。
「もうちょっとしたら良い場所があるんだ。そこで休憩するぞ。それまで頑張れよ。頼むから転けるなよ。」
俺が言うとシフォンは頷いて山を必死に登った。
そう言った矢先に、シフォンは石に躓いて転けた。これは先が思いやられる……
少し登ると、視界が開けた場所に到着した。
疲れ切っていたシフォンもここから見える景色に圧倒され、動きが止まった。
「綺麗……」
シフォンは風景を眺めながら呟いた。
山の間から流れる風が冷たくて気持ちいい。
「だろ? ここは俺がガキの時に父さんに教えてもらった、お気に入りの場所だ。ここからだと町全体が一望出来るんだ。ほら、あそこからあっちまでがジーニの土地だ。広いよなぁ~クソ野郎……」
俺がそう言うとシフォンはクスクスと笑った。
あの後も、シフォンは足を何度も滑らせ転けそうになったため、いつの間にか手をひいて歩くようになっていた。
「ねぇ、カロンは帰ってきて良かったって思ってる?」
シフォンは俺の顔を見上げながら聞いてきた。
俺達がここに良い思い出がないことを昨晩シフォンに話した。
「そだな……この町は俺の故郷……嫌なこともたくさんあったけど、やっぱり帰れる場所があるって良い物だな……なんだか落ち着くよ。だから、帰ってこれて良かったよ。」
俺はシフォンに笑いながらそう言った。
こんな醜い町でも、俺達の故郷だ。
結ばれた手は離すことなく繋いだまま。
景色を眺めていると繋いだシフォンの手に力が入ったのが分かった。
「ねぇ、カロン。私一つ気になってることあるんだけど、聞いてもいい?」
シフォンは俺を見つめながら聞いてきた。
こいつがわざわざこうやって聞いてくるってことは、なんか聞きにくいことなのか?
「ん? 俺が答えられることならいいぞ。」
俺は目線だけをシフォンに向けて答える。
「ブレイン君はなんで自分の家に帰らないの? ここが故郷なんでしょ?」
シフォンの言葉を聞いて俺は体が固まった。
繋がったシフォンの手にもう一回力が入ったのが分かった。
俺はう~んと空を見上げながら考えた。
「あいつの家は……もうここにはないんだよ……」
「え?」
俺がそう言うとシフォンは俺の顔を見て驚いていた。
俺はゆっくりと岩に足を伸ばして座った。
シフォンも俺の横に座って俺は話しだすのを待っていた。
こいつに話すべきか少し悩んだが、シフォンとシンパティーは親友同士だ。
話してもいいだろう。シンパティーの支えにもなってやれるかもしれないし……
「あいつの家族はこの町で死んだ。それも、自分の父親の手によって……そして、その父親はブレイン本人が殺した……」
シフォンは俺の話を聞いて、目を大きく見開いて驚いた。
しかし、何も言わずに俺の話に耳を傾けていた。
「怪我をしたブレインはその後、目を覚ますまでに3日かかってな……怪我自体はそうたいした物じゃなかったんだが、ショックが大きかったんだろうな……そりゃそうだよな、たった一日で家族が全員死んじまったんだから……っで、3日後にやっとブレインは目を覚ましたんだ……」
****
「っで……やっと目を覚ましたと思ったら、いきなりマドレーヌが食べたいだぁ? もう一回くたばれ!?」
俺に背を向けてベッドで寝転がっているブレインに殴りかかろうとする俺を、救護班の人たちが必死に止めている。
ジーニは椅子に座ったまま、ため息をついて紅茶を飲んでいる。
「だって、お腹すいたしマドレーヌが食べたい気分なんだもん……」
「このクソ!? 何がマドレーヌだ!? 心配して損したぜ!?」
「カロン、五月蝿い。とりあえず落ち着けよ。」
俺はジーニと医療班の人たちになだめられ、この怒りをどこに持って行けば良いのか分からないまま、ベッドの横の椅子に座った。
なにが“なんだもん”……
「とりあえず、目覚まして良かったよ……気分はどうだ?」
「マドレーヌが食べたい気分……」
「こいつ!?」
俺は壁に向かって横に向いて寝ているブレインの頭を叩いた。
「痛いな……俺は怪我人だよぉ~もっといたわってよ……暴力反対~あぁ~なんか傷開いたぁ~痛いなぁ~」
ブレインは横に向けていた身体を仰向けにして、腹を抑えながら騒いだ。
餓鬼か……
少し騒いだ後、電気の明かりが眩しいのか腕で目元を隠した。
俺はため息をつきながら椅子に座り直す。
今までこいつが目が覚めないからどうなってんのかと思えば……
何がマドレーヌだ……心配して損したぜ……
「まったく……お前のおかげで俺の家は大打撃だぞ。怪我人のお前に胃袋無限ホールのカロンを2人も宿泊させたんだからな……」
ジーニは今日もご機嫌斜めなようで……
俺は睨み付けるジーニを見て、少し肩をすぼめて苦笑い。
ブレインが目を覚ますまで、俺はジーニの家で晩ご飯をご馳走になった。
その時に俺は何度もおかわりをしてしまった。
だって、腹減ってたしめっちゃうまかったから……
「そっか、2人ともありがとね……そういえば、俺なんでここにいるの? 途中で行き倒れたと思ったんだけど……」
ブレインは何度も瞬きをしながら、首を傾げた。こいつがすんなりお礼を言うなんて、相当弱ってるな……
そういえば、ブレインは倒れてからここに来るまでの経緯を知らないのか……
俺達はブレインに今までの大まかなことを話した。
俺がブレインを見つけたこと、そのままジーニの家に連れてきたこと、その後ブレインの家に行ってあの惨事を見てきたこと……
ブレインの家族の遺体はブレインの祖母が全てやってくれた。
『きっとブレインのことだから、自分のことを責めると思うの……あなたたちはブレインも信用しているようだから、あの子のことをよろしくね……』
ブレインの祖母はそう言って葬儀が終わったと共に帰って行ってしまった。
俺達は葬儀には出なかった。ブレインの分まで出ようと思ったが、出る気分になれずジーニと二人でボーっと過ごしていた。
今までのことを全て話し終わるとブレインは“そう……”と呟いて、目を閉じた。
「カロンとジーニには、迷惑かけたね……そういえば……俺の家、今どうなってる?」
ブレインはジーニと俺を見る目はどことなく悲しそうだった。
「今は立ち入り禁止になってるよ。お前のばあちゃんは家を建て直すとか言ってたけど……」
血まみれのブレインの家は今、誰も入れないし入らない。
大人は家を建て直して新しい家を建てるつもりらしい。
まぁ、土地はブレインの物だからそれが一番良い考えだろうな。
「そっか……あっ、カロン~俺さぁ3日ぶりに紅茶が飲みたいんだぁ~ストレートティーでいいからさ。」
「なんで俺に催促してるんだよ……まったく……まぁ、飯も食いたいだろ。持ってきてやるよ。」
俺はそう言って、部屋から出て厨房へと向かう。
何となく分かった。きっと俺に言いにくいことでもジーニと話してるんだろう……
だったら、俺が邪魔することじゃない。
ブレインは悲しい目がそう言ってたから……
****
ブレインが目を覚ました次の日。
ジーニは俺と少しの召使いを連れて夜に出掛けた。
客室で寝ている俺を無理矢理たたき起こし、寝間着のまま連れてこられたのはブレインの家だった。
「なんだよ、こんな遅くにブレインの家に来てなにするんだよ……っておい、ジーニ聞いてるか?」
「あ? 聞いてる聞いてる。ブレインしばらく俺家から学校に行くことにあるからな、教科書とか集めてくれ。えぇ~と確か、タンスの裏に保険の書類があるって言ってたな……」
ジーニは荒れたブレインの家の中を散策しながら的確に必要な物を集めている。
俺は疑問に思いながら、必要な学校の教科書やノート参考書などを拾い集める。
全て集め終わりジーニの所に戻ると、ジーニの手には通帳や保険の書類、印鑑などがあった。
「なんでそんなもの持ってんだ? 建て替えるんだろ?」
この家は建て替えるって聞いたし、それまでの間ジーニの家にいるってことだと思ってたんだけど……
「あぁ、気にするな。よし、これで全部だな。じゃぁ、外に出るぞ。おい、用意しろ。」
ジーニは書類などを全て持って俺を引っぱって家の外に出た。
俺達と入れ替わりに何人かの召使いがなにやらタンクを持って家に入った。
少しすると召使いは空のタンクを持って出てきた。何やるつもりだ?
「よし、じゃぁやれ。」
俺は何が何だか分からないまま、キョロキョロしていると、ジーニはそう言って指を鳴らす。
すると何人かの召使いはマッチを擦って家に向かって投げた。
その瞬間、ブレインの家が爆発といってもいいぐらいに激しく燃えた。
「うおっ!? なにやってんだよ!」
俺はびっくりして爆発した家を見上げる。
ブレインの家はメラメラと火の粉を飛ばしながら燃え上がる。
「なにって、家燃やしてるんだけど。」
「何当たり前みたいに言ってんだよ!? ブレインの家燃やしてどうするんだよ!?」
「土地はあいつのもののまま何だから大丈夫だろ。土地自体がなくなる訳じゃないし。それに、これはブレインの要望だから俺に責任はない……」
ジーニはそう言って燃える家に手をかざして暖をとっていた。
****
「家を焼いた!?」
シフォンはびっくりしながら叫んだ。まぁ、常識人からしたらびっくりするよな。
西に傾き始めた太陽を見ながら、俺は大きく伸びをしてそのまま倒れ込んだ。
「そう、あいつは自分の家を全て焼いてほしいって言ったんだって……びっくりしたぜ、いきなりジーニが家を燃やし始めるから……理由を聞いてもブレインは“焼いて”っていうだけで、何も言ってくれなかったから何も言えないんだけどな。」
ブレインはうわごとのように焼いてと言うだけで、自分で家を見に行こうともしなかった。
見たくなかったのかもしれない。
ブレインは自分の家で家族が絶命してるのを間近で見ている。
フラッシュバックするのが、怖かったのかもしれない……
「で……結局どうしたの?」
シフォンはおずおず俺に聞いてきた。
「最終的には家は全焼とまでは行かなくてさ、柱とかは残ってる。ブレインには内緒だけど、全焼させるのはやるせないからな……その後、ジーニに聞いても何を言っても答えないし、なんてったって本人の要望だの一言だけで……まぁ、ジーニは“俺が放火犯で捕まったら末代まで祟るからな”って言いながらだったが……」
俺とジーニの2人で夜にブレインの家に行き、ブレインが必要だというものや教科書、貴重品などを回収し、灯油をかけて綺麗に焼いた。
もちろんのこと、ブレインは来なかった。
燃え盛る炎を見上げながら俺とジーニは今後のことを考えていた。
今後、ブレインはどうやっていくのだろう……
まぁ、あいつのこと、うまく生きていくだろう。
だが、ああ見えてブレインは繊細なところがある。
壊れてしまわないか少し不安だ。
「大丈夫だろ。あいつも何かそれなりに考えてるだろうし。俺たちがどうこう出来る問題でもないしな……俺たちは見守ることしか出来ないよ。まぁ、お節介するつもりもないしね。」
ジーニは燃える炎に手をかざしながら呟いた。
火が消えたのは東の空に朝日が登る頃だった。
焼いたっと言うことを聞いたブレインは“ありがとう”って言って微笑んだ。
その笑顔は悲しそうで切ないが、どことなくホッとして顔をしていた。
だいぶ後で、家を焼いた理由を聞くと、
『俺の家族はいなくなった。俺の帰るべき家はなくなったんだ。だったら、家を残しとく必要はないだろ?』
って、笑いながら言った。
そんなこと言ってたが、本当は忌々しい記憶を消したかったのではないか……って俺は密かに思ってる。
「っで、家無き子のブレインは卒業まではジーニの家に居候することになったんだ。でも、この町がよっぽど嫌になったんだろうな。進学先を急遽変更してミドルの隣町の大学に進学したよ。」
ブレインは今まで目指していた大学を止めて、この町以外の大学に進学した。
お互い大学に入ってからは簡単な連絡だけで、あまり会ったりはしてなかったが、充実していたようだ。
やはり町を出たのと、シンパティーさんの力が強かったのだろう。
「さて、そろそろ山を下りるか……ナッツ達が帰ってくるし、祭に行くんだろ?」
俺は思いっきり立ち上がって大きく伸びをしてシフォンを見下ろす。
シフォンは一度大きく頷いて、立ち上がった。
「そうね、今日はいっぱい楽しむわよ! 美味しいものたくさん食べて、たくさん遊ぶんだからら! さぁ、さっさと帰りましょう!」
シフォンはそう言って岩からゆっくり降りて俺に手を振る。
まったく、調子の良い奴だ。
俺はシフォンを追って岩から飛び降り、山を下る。
この町の軍事学校を卒業して……
俺はミドルの町に、ブレインは隣町に、ジーニは国の国立大に……
ずっと一緒だった俺たちは、18歳で初めてバラバラの道に歩き始めた。
その後に起きた嬉しいこと楽しいことも、辛いこと悲しいことも……
一人ではきっと解決出来なかった。
俺たちは離れても結局、誰かしらに助けられていた。
(俺達って馬鹿みたいに一緒にいるな……)
そんなことを思いながら、下りる山の夕焼け空はとてもキラキラ輝いていて綺麗だった。
そんな時、ポケットに入れていた携帯がブルブルと振動した。
誰だろうと思いながら液晶画面を見る。
「げっ……」
****
人通りの多い道を手をシンパティーと繋ぎながら歩く。
今夜の祭の用意で町の人たちは大忙しのようだ。
小さな屋台や仮装した子供たちが行き交う。
「お祭り、とても楽しそうね。そう言えな、このお祭りってどんなお祭りなの?」
シンパティーは俺の横でキョロキョロと周りを見渡しながら聞いてきた。
「ん? 俺も詳しくは知らないけど、なんか収穫祭らしいよ。収穫する名物品もないのに収穫祭って変な話だけど。」
俺は黙々と歩きながら昔にジーニから教えてもらった情報を言う。
シンパティーはそれを聞いて“へぇ~”と言ってまた忙しなくキョロキョロと見渡していた。
「シンパティー、無理しなくていいよ……大丈夫だから……」
俺は繋いだ手に少し力を入れてシンパティーの髪に軽く唇をつける。
普段物静かなシンパティーは無理に話を探しているのが俺には分かった。
俺が今から行く所を知っていてわざと話をしているようだった。
その後は二人とも無言のまま黙々と歩いた。
俺は目的地が近づいていくほどに手が震えているのが自分でも分かった。
その手をシンパティーがギュッとしてくれる度に心が少しずつ落ち着いていく。
「ブレイン……本当に大丈夫? まだ時間もあるんだし、後日でもいいのよ……」
「ありがとう……でも、もう逃げるのは止めようと思って……逃げてたら、きっとこのまま俺は進むことが出来ないから……だから、お願い。シンパティー、俺の隣にいてくれ……」
俺は少しだけ立ち止まってシンパティーに言う。
シンパティーは一度大きく頷いて俺の肩に額をつけてもたれ掛かる。
右側に感じる体温がとても暖かくて、俺の怯えた心を落ち着かせる。
大通りから一本道を外れると一気に一般家庭の雰囲気が溢れる。
細い路地の上には洗濯物や花瓶などが無数に置かれている。
スラム街と言われても分からないほど汚くて、荒れている。
この先に目的地がある。
俺の暗い過去、思い出したくない記憶がそこに7年も置き去りになっている。
7年前のあの日から俺はここに一度も来たことがない。
ここに近づくと、あの日の夜のことを思い出し、足が震えて身体が動かなくなってしまう。
「ブレイン、大丈夫よ。あなたは強い人だもの……私はここにいるから……大丈夫よ。」
立ち止まって7年間踏み出したことのない道を見つめているとシンパティーは俺の手をギュッと握りしめた。
俺はその手を強く握り返し、一歩踏み出す。
踏み出した足が黒く焦げた家屋の前に立つ。
一歩踏み出してしまえば、後は簡単だった。
不安と恐怖はだんだんと薄れ、どんどん足は昔の記憶を懐かしむように進んでいく。
「こんなんになってたんだ……」
目の前にある半焼した家屋を見下ろして呟いた。
昔住んでいた、忌々しい記憶の元凶である家はもう何も残っていなかった。柱の骨組みだけがはっきり残っており、家の間取りは確認出来る程度になっていた。
いつの間にかシンパティーの手を離し、足は家の中に向いていた。
燃えて炭になった柱、風化して崩れた階段、鼠や虫が足下を行き交う台所。
目の前には、生活用品やおもちゃなどが無数にちりばめられていた。
ここで……
ここで母親は、弟妹は息絶えていた……
そしてあの日、父親が今ここに立ってた。
でも、今はもう無い。
俺の忌々しい記憶の風景はもうここにはない。
こんなに鮮明に覚えているのに、家族の顔も声も思い出せなくなっていたのに……
夢に出てきて、何度もうなされて、辛い目にあったのに……
「あぁ……駄目だな……ここは思い出が多すぎる……やっと忘れてたのに……」
俺は膝を地面につけて、目の前に落ちている野球ボールに手を伸ばす。
『兄ちゃん、キャッチボール下手すぎ! もっと肩使って投げなきゃ!』
『俺は野球なんてしないからいいの~練習に手伝ってあげてるんだから、さっさと投げなよ。』
『ふん、俺の剛速球見て驚くなよ!』
忘れていたはずの良い記憶がここに来た途端大量に頭に流れてきた。
あぁ、こんなんだったらもっとキャッチボールしてやれば良かったな……
目の前に落ちているボールはもうボロボロで手に触れると崩れてしまった。
この家にたくさんあった記憶は一気に蘇ったせいで、もう何も考えられなくなった。
誕生日に祝ったケーキも入学の祝杯も、他愛のない日常が……
この家で送った毎日が懐かしくて、暖かくて……
うずくまって瞳から止めどなく流れる涙と嗚咽……
あの日から流れることのなかった涙が、大量に流れる。
塞き止められていた悲しみが俺の心に流れ始める。
「うっ……くそやろう! なんで……なんで……」
嗚咽が混ざる声で何度も叫ぶ。
やっと忘れてたのに……
なんでこんなに嫌だったのに、今はこんなに暖かくて落ち着くんだ……
嫌で嫌で仕方が無かった家が……無くなって寂しいなんて……
蹲っていると誰かが俺の頭をギュッと抱きしめた。
「ブレイン、思い出してあなたが辛いなら忘れたらいい。でも、忘れることであなたが辛いなら、無理に忘れることなんてないわ。全て忘れることはないの……大丈夫よ、覚えていたって忘れたからってあなたの家族は怒ることもないわよ。ね? だから、もう自分を責めるのはもう止めて……あなたが壊れてしまうわ……お願いだから……」
シンパティーは涙を流しながら俺を抱きしめた。
彼女の瞳から溢れる涙が俺の頬を濡らす。
忘れても良い、覚えていても良い……
俺はどっちを望んでいるのだろう……
忘れては苦しくなり、思い出しては苦しくなる。
でも……
「ありがとう……もう大丈夫だから……もう、吹っ切れたから……今日ここに来れて良かった。もう心の整理も出来たから……だから、もう少しだけこうしてて……」
俺はシンパティーを強く抱きしめて、ただひたすら涙を流した。
今まで流せなかった7年分の涙を……
俺は覚えていることにするよ。
だって、俺が覚えていたら家族のきっと生きていけるから。
どこかで聞いたんだ。人は記憶から消えた時に本当の死が訪れるって。
なら、俺が覚えている限り、家族は俺に中で生きてけるよな。
昔の楽しい記憶も忌々しい辛い記憶の全て俺の中で生き続けるから……
俺が死んだ時に一緒に消えればいいよ……
それまで、少し待ってて……
「あのね、シンパティー……俺はここで……」
さて、懐かしい思い出話をしようかな……
きっと、思い出話が宝物になる日が来るから……