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婚約破棄された瞬間、婚約中の記憶がすべて公開されました——都合よく忘れていたのは、あなただけではなかったようです

作者: カルラ
掲載日:2026/05/11

舞踏会の夜、シャンデリアの光が大広間を白く塗りつぶしていた。

数百の蝋燭が揺れるたびに、招待客たちのドレスや勲章が煌めき、笑い声と弦楽器の音が混ざり合って空気を満たす。

私——エヴェリーナ・ヴォーリス公爵令嬢——は、その輝きの中心に立ちながら、どこか遠くを見ていた。

いつものように、笑わずに。


「エヴェリーナ」

ルシアン殿下が私の名を呼んだのは、真夜中に差しかかる少し前のことだ。

王太子殿下——銀糸の刺繍が施された白い礼服に、金色の瞳をした美しい青年——は、私の前に立ち、その視線をまっすぐに向けていた。

しかし、その瞳の中に、いつもの温度はない。

(あ、と思う。)

「君との婚約を、今夜限りで解消したい」

声は静かだった。

けれどその言葉は、弦楽器の音を割って広間の隅々まで届いたように思う。

一瞬の静寂のあと、ざわめきが広がる。

私は動かなかった。

動けなかったのではなく——動く理由を、とっさに見つけられなかったのだ。

「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」

自分の声は思ったより落ち着いていた。

ルシアン殿下は、少しだけ視線を逸らす。

「君は冷たい。いつも何も言わない。僕が何かを話しかけても、笑顔のひとつも見せてくれたことがなかった」

「……」

「クロエは違う。彼女はいつも僕の傍にいて、言葉をかけてくれる。支えてくれる。君にはそれがなかった」

クロエ——ベルナール伯爵家の次女、クロエ・ベルナール——は、ルシアン殿下の少し後ろに立ち、俯いている。

その頬はほんのり紅く、目には薄く涙が光っていた。

うまい、と私は場違いなことを考える。

「殿下」

「婚約はこれで終わりだ。エヴェリーナ、君を縛りたくない」

縛る、という言葉が耳の中で妙に反響した。

縛られていたのは、どちらだったのだろう。


その問いを口にする前に——世界が、変わった。

光だった。

白ではなく、淡く青みがかった光が、空間の中央からにじみ出すように広がり始める。

招待客たちが声を上げ、後退る。

私自身も、その光の意味を知るまでに、一拍の間を要した。

「……婚約解消の、記憶封印魔法」

誰かが囁く声が聞こえた。

そう。

この王国には古い法がある。

正式な婚約は魔法的な契約によって結ばれ、その破棄が公の場で行われた場合——婚約期間中の"重要な記憶"が、その場に集う者たちの前に再生される。

当人の主観とともに。

複数の視点から。

嘘は映らないが、解釈のズレは、すべて。

「待て、これは——」

ルシアン殿下が手を伸ばすが、光はすでに収縮する段階を過ぎていた。

大広間の天井に、巨大な水面のような膜が広がる。

そこに最初の映像が、ゆっくりと浮かび上がる。

三年前の春だ。

私とルシアン殿下が初めて正式に顔を合わせた日の記憶である。


「ルシアン殿下、エヴェリーナ・ヴォーリス公爵令嬢でございます」

父の声が映像の中に響く。

私は十七歳で、水色のドレスを着ていた。

殿下の前に立ち、礼をする。

顔を上げたとき、私は殿下と目が合った。

映像はそこで、ふたつに割れた。

光の膜が中央から二分し、左右それぞれに別の映像が流れ始める。


一方の映像は、殿下の目に映った光景だ。

礼をしてから顔を上げた彼女は、無表情だった。

微笑みもなく、感情の色もなく、ただ形式的に顔を向けてくるだけだ。

映像の中の殿下は、それでも言葉をかける。

「よろしく、エヴェリーナ」

彼女は短く、

「はい」

と答えた。

——これが婚約者か。美しいが、人形のようだ。

殿下の内心が、静かな字幕のように広間に浮かぶ。


もう一方の映像は、あの日の私だ。

顔を上げたとき、殿下の目がまっすぐ私を見ていた。

綺麗な人だ、と思う。

そして——怖かった。

どう話せばいいのか、分からない。

失言したら、どうなる。

父の顔を汚したら。

この国の未来を左右する方の隣に、私などが立っていいのか。

笑いたかった。

でも、引きつった顔を見せるくらいなら、黙っている方がいい。

「よろしく、エヴェリーナ」

何か、言わなければ。

でも何を?

気の利いた言葉など出てこない。

せめて、ちゃんと答えることだけは。

「はい」

それが、精一杯だった。


広間は静まり返っていた。

同じ場面が、ふたつの解釈で流れたことを——その場の全員が、理解していた。

私は自分の記憶を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。

あの日の自分が、あんなにも必死だったことを。

誰かに言ったことはなかった。

言える言葉を、持っていなかったのだ。

ルシアン殿下の横顔を盗み見る。

殿下の表情には、微かな動揺が走っている。

しかし映像は、まだ続く。

次の記憶が、光の膜の中で形を結び始めていた。

婚約から半年が経った頃の場面だ。


今度も映像はふたつに分かれ、それぞれの内側を映し出す。

殿下の側には、執務室の光景が広がっていた。

彼女が報告書を三枚、机の上に置いて、簡潔に概要だけを述べる。

何か感想を言っても、彼女はただ頷くだけだ。

——彼女は僕に興味がないのだろう。婚約者として傍にいながら、心はどこか別の場所にある。

——助言を求めても、意見を言わない。感情を見せない。これでは、夫婦になったとき、どうなるのか。


もう一方に映るのは、同じ日の私だ。

報告書を置くとき、手が少し震えていた。

あの書類を仕上げるために、私は三日間、父の書庫に籠もった。

北部の税制改革案で生じた矛盾を調べ、過去の判例を洗い出し、殿下が議会で恥をかかないよう、指摘されそうな論点をすべて潰した。

これを、直接伝えるべきなのだろうか。

でも、それは自分の苦労を誇示することになる。

殿下には殿下の仕事がある。

私が裏でしていることをわざわざ言うのは、押しつけがましい。

ただ、役に立てれば、それでいい。

私が頷いたのは、それ以上言う言葉がなかったからだ。

賛同でもなく、無関心でもない。

ただ——伝え方を、知らなかった。


広間に、ざわめきが戻ってくる。

今度はより大きく、複雑な響きをはらんでいた。

「あの報告書は……殿下の議会答弁の資料では?」

誰かが呟く。

「三年前、北部改革の議論で殿下が完璧な答弁をされたのは……」

「エヴェリーナ様が準備をしていたということ?」

声が幾重にも重なっていく。

私はその声を聞きながら、もう一度、映像の中の自分を見る。

震えた手。

押し黙った唇。

伝えることを諦めた、あの瞬間。

(私は、何をしていたのだろう。)

その問いはしかし、答えが出る前に——次の記憶によって、更新されることになる。

映像の膜が、再び揺れた。

今度の場面には、クロエ・ベルナールの姿がある。


クロエ・ベルナールの記憶は、殿下のものから始まった。

ある午後の庭園——薔薇が満開の、春の終わりの場面だ。

クロエが殿下のそばに寄り添い、花を一輪手折って差し出している。

「殿下、今日もお疲れではありませんか? こういう日は、少しお外の空気を吸うのが一番ですわ」

にこりと笑う顔は、やわらかく、明るい。

殿下の内側の声が、静かに浮かぶ。

——クロエはいつも、こうして気にかけてくれる。エヴェリーナとは違う。


映像が、もう一方へと切り替わった。

同じ庭園の、同じ午後だ。

しかしこちらには、私の姿はない。

代わりに映るのは——私が見ていた、廊下の角からの光景だ。

クロエが殿下に笑いかける直前、彼女は一瞬だけ視線を横に走らせていた。

そこには、廷臣が数名いた。

それから彼女は、笑顔を作った。

順番が、逆だった。

笑顔が先ではなく——見られていることを確認してから、笑顔が生まれていた。

私はあの日、その順番に気づいて、何も言わなかった。

言ったところで、証拠にもならないと思っていたから。

それに——私には、同じことを言える立場がなかった。

私自身が、殿下に何ひとつ差し出せていなかったのだから。


広間のざわめきが、また変わる。

今度は囁き声ではなく、明確な動揺の色を帯びていた。

「クロエ様は……」

「あの笑顔は、見られていたから?」

クロエの立つ場所から、小さく息を呑む音が聞こえた気がした。

私は振り返らない。

映像はまだ続いている。


次の記憶は、もっと古い。

婚約一年目の冬、殿下が外交使節団との晩餐で失言をした夜のことだ。

殿下の視点では、こう映っていた。

晩餐の席で、隣国の通商政策について軽口を叩いた。

相手方の使節が表情を曇らせたのは分かった。

しかしその後、使節団は何事もなく帰国し、翌月には正式な条約が締結された。

——あれは、うまく収まった。自分の判断は間違っていなかった。


もう一方の映像に、私が映っている。

晩餐の翌朝、私は父の書斎にいた。

父に頭を下げ、隣国との伝手を頼んだ。

使節団の団長と面識のある商人を通じて、非公式の書簡を一通、届けてもらうために。

書簡の内容は短いものだった。

殿下の発言は外交上の軽口であり、王家としての正式な見解ではない。

通商の協議は誠実に進める意志がある。

そう、丁寧に、しかし明確に記した。

書くのに、一晩かかった。

言葉の一つひとつを選びながら、失礼にならず、しかし言い訳にもならない文面を探した。

条約が締結されたのは、その書簡があったからだと、父だけが知っていた。

殿下には、言わなかった。

言えば、殿下が恥をかく。

それだけのことだ。


広間が、静まり返った。

静寂は今度、長く続いた。

「……エヴェリーナ様が、あの条約を?」

誰かの声が、乾いた空気の中に落ちる。

「使節団との件は、てっきり外務卿が処理されたのだとばかり」

「いや、外務卿はあの時、病で臥せっておられた。では一体誰が——」

私は映像の中の自分を見ていた。

一晩中書き直した書簡を、震える手で封じている。

あの夜の自分が、こんなにも必死な顔をしていたとは、知らなかった。

自分のことなのに、知らなかったのだ。


映像はさらに続く。

記憶は積み重なるように流れ、止まらない。

殿下が体調を崩した折に、侍医へ事前に症状を伝えて診察の準備を整えていたこと。

王太子主催の園遊会で、招待客の座席順を巡る貴族間の対立を、事前に察知して静かに調整していたこと。

殿下が好む楽曲を演奏団へ匿名で依頼し、晩餐の席が和やかになるよう整えていたこと。

どれも、殿下の目には映っていなかった。

どれも、私は誰にも言わなかった。


殿下の視点に映る私は、いつも無口で、無表情で、ただそこにいるだけの人間だった。

私の視点に映る私は、いつも考えすぎて、言葉を飲み込んで、一人で手を動かし続けていた。

どちらも、本当のことだ。

どちらも、全部ではない。


「全部……彼女がやっていたのか」

低い声が広間に響く。

年配の侯爵だった。

殿下の政務を長年傍で見てきた人物が、映像を見上げたまま、静かにそう言った。

「三年間、ずっと」

その言葉に、誰も続けない。

続けられる者が、いない。

私自身も、返す言葉を持たなかった。

三年間、ずっと——そう言われると、なぜか胸の奥がひりついた。

労われているのか、責められているのか、分からない。

ただ、誰かに見えていたということが、ひどく遠い場所の話のように感じられた。


ルシアン殿下は、映像を見ていた。

黙ったまま、じっと見ていた。

その顔に浮かぶのは、怒りではない。

困惑でもない。

——何か、もっと静かで、しかし深いものだった。

私はそれを見て、初めてかすかな痛みを覚えた。

殿下は、悪い人ではない。

ずっとそう思っていた。

思い込みが強くて、見たいものしか見ない人だけれど、根は真面目で、誠実で——だからこそ、婚約を結んだ日に、私は少しだけ安堵したのだ。

この人となら、うまくやれるかもしれないと。

うまくやれなかったのは、私の伝え方のせいだと、ずっとそう思っていた。

でも。

映像の中の殿下は、私を見ていなかった。

見ようとしていなかった、のではないかもしれない。

ただ——見えていなかった。

見える場所に、いなかった。

それは、どちらの話なのだろう。


映像の膜が、また揺れる。

次の記憶へと、光が移ろっていく。

私は息を整え、前を向いた。

まだ終わっていない。

記憶は、まだ残っている。


次に流れてきた記憶は、私自身が忘れかけていたものだった。

婚約二年目の秋——殿下との、数少ない二人きりの時間だ。

広間ではなく、小さな温室の中。

殿下が珍しく政務の話ではなく、子どもの頃の話をしていた。

「父上に認められたくて、ずっと必死だったんだ。でも何をしても、足りない気がして」

私は隣に座って、その言葉を聞いていた。

映像の中の私は、何も言わない。

ただ、静かに殿下の横顔を見ている。

殿下の視点では——こう映っていた。

話しかけても、彼女は黙っていた。

共感も、慰めも、何もなかった。

やはり、心が通じない人だと思った。


しかし私の視点では、あの沈黙の中身が映し出される。

(どう返せばいい。)

("大丈夫ですよ"と言うのは軽い。"辛かったですね"と言うのは、的外れかもしれない。)

(この方の痛みを、私ごときが言葉で包めるとは思えない。)

(でも——分かる、と思った。)

(認められたくて、必死で、それでも足りない気がする、という感覚が。)

(私も、ずっとそうだったから。)

言葉にできなかった。

言葉にすれば、自分の話になってしまう気がして。

殿下の話を、自分のことにしてはいけないと思って。

だから、黙っていた。

ただ、そばにいようと思って。

それだけだった。


映像が消えた瞬間、私の胸に何かが刺さった。

鋭いものではなく——ゆっくりと、じわりと広がるような痛みだ。

(私は……ちゃんとやっていた?)

その問いが、頭の中に浮かんで、消えなかった。

三年間、私は自分のことを、足りない人間だと思っていた。

笑えない。

うまく話せない。

殿下を支えられていない。

クロエのように、明るくそばに寄り添うこともできない。

だから婚約破棄されるのは、仕方のないことだと——今夜、殿下に告げられた瞬間、どこかで納得していた。

しかし映像の中の私は、三日間書庫に籠もっていた。

一晩中、書簡を書き直していた。

震える手で、報告書を届けていた。

あの人は、足りない人間だっただろうか。

(違う、と思う。)

その答えが出た瞬間、目の奥が熱くなった。

泣くつもりはなかった。

泣く場面でもない、と思っていた。

それでも——こみ上げてくるものを、止められなかった。


私は、自分を正しく見ていなかった。

殿下が私を見ていなかったのと、同じように。

いや、もしかしたら——それ以上に。

殿下は少なくとも、見ようとはしていたのかもしれない。

ただ、見え方が違っただけで。

しかし私は、自分を最初から「足りない」と決めていた。

見るまでもなく、価値がないと。

誰かに言われたわけでもないのに。

(いつから、そう思うようになったのだろう。)

答えは出ない。

でも映像の中の私を見ていると——あの人は確かに、懸命だった。

不器用で、言葉が足りなくて、伝え方を知らなかったけれど。

それでも、やっていた。

ちゃんと、やっていた。


「エヴェリーナ様」

声がした。

映像を見上げたまま、侍女頭のマリアが呟いていた。

長年、ヴォーリス家に仕える老女だ。

「あなたが毎晩遅くまで書き物をされていたのは、存じておりました」

「疲れた顔を見せないようにされていたのも」

「でも、こんなにも——」

マリアの声が、そこで途切れた。

続きは、言葉にならなかったらしい。

私は彼女の方を見られなかった。

見たら、泣いてしまいそうだったから。


広間の空気が変わっていくのが、分かった。

ざわめきの質が、変わった。

先ほどまでの驚きや困惑ではなく——何か、もっと重いものが、この場に満ちていく。

「殿下は……ご存じなかったのですか」

若い廷臣の声だった。

責めるような色はない。

ただ、純粋な問いとして。

ルシアン殿下は、答えなかった。

答えられなかったのだと思う。

映像はまだ光の膜の中に残っていて、殿下の目にも、私の三年間が映り続けていた。


クロエが、小さく動く気配がした。

何かを言おうとしたのかもしれない。

しかし映像の膜が、またひとつ、新しい場面を映し出した。

クロエの記憶だ。

今度は彼女の内側も含めて、全てが映る。


場面は、半年前。

クロエが初めて王太子の執務室を訪ねた日だ。

廊下で偶然行き合ったように見えたあの日——しかし映像の中のクロエは、前日から人の動きを確認していた。

殿下がその時間に執務室を出ることを、侍従から聞き出していた。

花を持参したのも、偶然ではない。

殿下の好む花の色を、事前に調べていた。

クロエの内心の声が、映像の中に静かに流れる。

——エヴェリーナ様は、殿下に何もしない。私がそばにいれば、殿下はきっと——

その先は、言葉になっていなかった。

しかし意図は、十分に伝わった。


広間に、冷たい沈黙が落ちた。

クロエへの視線が変わっていくのが、分かった。

彼女は俯いたまま、動かない。

先ほどまで頬に光っていた涙の跡が、今は違う意味を持って見える。

私はクロエを憎む気にはなれなかった。

彼女は彼女で、必死だったのだろうと思う。

ただ——その必死さの向け方が、違った。

それだけのことだ。

それだけのことが、三年分積み重なっていた。


「そんなはずは……」

ルシアン殿下の声が、広間に落ちた。

低く、掠れた声だった。

「僕は、ちゃんと見ていたつもりだった」

映像の膜が、静かに揺れる。

「エヴェリーナが何も言わないから、何も考えていないのだと」

「笑わないから、僕に心を開いていないのだと」

「そう、思っていた」

殿下の言葉は、言い訳ではなかった。

ただ——本当にそう思っていた、という告白だった。

だからこそ、質が悪い。

悪意があれば、まだ怒れる。

しかし殿下は本当に、見えていなかっただけだ。

見ようとしなかったのか、見る方法を知らなかったのか——それは、もはや私には関係のないことだが。


「全て、彼女がやっていたのか」

先ほどとは別の声が上がった。

外務卿だった。

長く王家に仕える老人が、映像を見上げたまま、ゆっくりと首を振る。

「あの条約の件も、使節団との調整も——私は外務省が処理したと思っておりました」

「しかし記録を辿れば、あの時期、外務省に動いた形跡はない」

「動いていたのは……」

老人の視線が、私に向く。

「あなたでしたか、エヴェリーナ様」

私は答えなかった。

答える言葉を、持っていなかった。

ただ、小さく頷いた。

それだけで、外務卿は目を閉じた。


広間の空気が、ひとつの方向へと傾いていくのが分かった。

同情ではない。

驚きでもない。

もっと静かで、しかし確かなもの——評価が、塗り替えられていく音だ。

三年間、この場にいた全員の認識が、ゆっくりと修正されていく。

私はその中心に立ちながら、不思議と落ち着いていた。

怒りも、悲しみも、今この瞬間は遠かった。

ただ——映像の中の自分を見て、初めて知ったことが、胸の中にある。

私は、価値のない人間ではなかった。

そのことが——ただ、静かに、そこにあった。


映像の膜が、最後の光を放った。

もう新しい記憶は流れてこない。

三年分の時間が、この広間に広げられ、そして静かに閉じようとしていた。

光が収束していく中、残ったのは——この場にいる全員の、沈黙だった。


「エヴェリーナ」

ルシアン殿下が、私の名を呼んだ。

今夜二度目だ。

しかし声の質が、まるで違った。

最初に呼ばれた時の、決然とした冷たさはない。

今の殿下の声には——何かが、欠けていた。

「僕は……間違っていた」

殿下が一歩、こちらへ踏み出す。

「君のことを、何も分かっていなかった」

「見ていたつもりで、見ていなかった」

「それは……認める」

広間が、息を呑む。

王太子が公の場で非を認めることは、滅多にない。

周囲がざわめく中、殿下は続けた。

「だから——やり直したい」

「婚約破棄の言葉は、撤回する」

「今度こそ、ちゃんと見る。君のことを」

殿下の金色の瞳が、まっすぐ私を捉えていた。

その目には、本気の色があった。

後悔も、あった。


私は、少しの間、殿下を見ていた。

三年前、初めて目が合った時のことを思い出す。

怖かった。

どう話せばいいか分からなかった。

それでも、この人となら、と思っていた。

その気持ちは、嘘ではなかった。

だから——だからこそ。

「いいえ」

私の口から出たのは、その一言だった。

短く、しかし迷いのない声だった。

自分でも驚くほど、澄んでいた。


殿下の表情が、止まる。

「エヴェリーナ……」

「殿下」

私は一歩も動かなかった。

「あなたは"知らなかった"のではありません」

言葉が、静かに出てくる。

三年間、飲み込み続けた言葉ではない。

今夜この映像を見て、初めて形になった言葉だ。

「"知ろうとしなかった"のです」

広間が、完全に静まり返った。

「私が伝えなかったのは、事実です」

「言葉が足りなかったことも、笑えなかったことも、全部本当のことです」

「でも——」

私は殿下の目を、まっすぐ見た。

「あなたは一度でも、私に聞いてくださいましたか」

「なぜ笑わないのか、と」

「何を考えているのか、と」

「疲れていないか、と」

殿下は、答えなかった。

答えられなかったのだろう。

「聞かれなかったから黙っていた、とは言いません」

「私にも、伝える努力が足りなかった」

「でも殿下、それは同じことです」

「あなたも——知ろうとしなかった」


殿下の口が、かすかに開いた。

何かを言おうとして、言葉が出てこない。

その様子を、私は静かに見ていた。

怒りはなかった。

憎しみも、なかった。

ただ——もう、いい、という気持ちがあった。

この三年間は、無駄ではなかった。

でも、続ける理由も、もうない。

「殿下が今夜おっしゃったことは、取り消せません」

「公の場での婚約破棄は、魔法が記録しています」

「そして私は——それを、受け入れます」

最後の言葉を言い終えた時、自分の中で何かが、すとんと落ちた。

重かったものが、降りていく感覚だ。


クロエが、震える声を上げた。

「殿下、わたくしは……」

「クロエ」

殿下の声は、今度は冷たかった。

振り返りもせず、ただその名を呼んだだけで——クロエは口を閉じた。

殿下自身、今夜の映像で全てを見ていた。

クロエの笑顔の前後を。

その計算を。

庇う言葉は、出なかった。


外務卿が、静かに前へ出た。

「エヴェリーナ様」

老人は、深く頭を下げた。

「三年間、気づかず申し訳ございませんでした」

その言葉に続くように、侯爵が、廷臣が、次々と頭を垂れていく。

私はその光景を見て——なぜか、困った。

謝られることに、慣れていなかった。

「……顔を上げてください」

それだけ言うのが、精一杯だった。


ルシアン殿下は、その場に立ち尽くしていた。

周囲の目が、少しずつ変わっていくのが見える。

先ほどまで向けられていた敬意の色が、薄れていく。

代わりに広がるのは——困惑と、失望だ。

悪王ではない。

暴君でも、嘘つきでも、ない。

しかし——三年間、隣にいた人間を見ていなかった王太子を、このまま信じていいのか。

その問いが、広間の空気の中に漂っていた。

声にする者はいない。

でも全員が、考えていた。


クロエは、もう泣いていなかった。

泣く場面ではないと、理解したのだろう。

ただ静かに、俯いている。

彼女の周囲から、人が少しずつ離れていく。

露骨ではない。

ただ——自然に、距離が生まれていく。

社交界とは、そういうものだ。

言葉より先に、立ち位置が変わる。


私は、その全てを見ていた。

そして——もう、ここにいる必要はないと思った。

踵を返す前に、もう一度だけ、殿下を見た。

殿下は私を見ていた。

何かを言いたそうな顔で、しかし言葉を持てない顔で。

私は小さく、頭を下げた。

礼儀として。

それだけだった。


大広間を出ると、廊下には夜の冷気が満ちていた。

シャンデリアの光も、弦楽器の音も、ここまでは届かない。

静かだった。

ひどく、静かだった。

私は立ち止まって、息を吐いた。

長い息だった。

三年分の何かが、少し混じっているような気がした。


マリアが、いつの間にか後ろに立っていた。

「お疲れになりましたでしょう」

「……少し」

正直に答えたのは、珍しいことだったかもしれない。

マリアは何も言わず、そっと肩に上着をかけてくれた。

その温かさに、目の奥がまた熱くなる。

こういう時に泣くのか、と自分で思う。

大広間では泣かなかったのに。

「帰りましょう」

マリアが言う。

「はい」

私は答えた。


夜空は、澄んでいた。

馬車に乗り込む前に、一度だけ振り返る。

煌々と光る舞踏会の館。

あの中にいた三年間が、遠く感じた。

遠いけれど——消えたわけではない。

映像の中の私が、三日間書庫に籠もっていた事実は、消えない。

震える手で書簡を封じた夜も、消えない。

私がいた、という記録は——あの魔法が、永遠に刻んだ。

それで、十分だと思った。


馬車が動き出す。

窓の外に、夜の街が流れていく。

私は自分の手を見た。

今夜は震えていない。

三年前、書類を持って執務室に入った時とは、違う手だ。

いや——手は同じかもしれない。

変わったのは、この手を見る目の方だ。

(私は、価値のない人間ではなかった。)

その言葉が、胸の中で静かに灯る。

誰かに言われたわけではない。

映像の中の自分を見て、自分で気づいた。

だから——誰かに消されることも、ない。


これは、婚約破棄の話ではなかった、と今になって思う。

殿下への怒りの話でも、クロエへの勝利の話でも、ない。

私が、私自身を、初めてちゃんと見た夜の話だ。

他人の目ではなく。

記憶という、嘘のつけない鏡を通して。

三年分の自分を、取り戻した夜の話だ。


馬車は夜の中を進んでいく。

どこへ向かうのか、まだ分からない。

でも——それでいいと思えた。

分からないまま進む足が、今夜初めて、少しだけ軽い。

窓の外に、星が見えた。

私はそれを、黙って見ていた。

いつものように——しかし今夜は、少しだけ違う目で。

終幕


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― 新着の感想 ―
まぁアピールできないのは致命的ではある。 コミュ症が王子妃に向かないのは確か。 でも王子は王子で節穴なので、為政者でいてほしくない奴ではある。ハニトラに弱そう。
1番身近な相手にすら安易なレッテル貼って相手を理解した気になる人物である 人の上に立つ器ではないことが証明されたのは相当痛いな せめて関係者のみならの場なら王の判断次第ではなんとかなったかもしれんが、…
面白い作品でした。 婚約者が無表情なら笑わせようとか、なんとか表情等を引き出す努力をせず浮気をしてしまった王子。 どんなに優秀でも浮気しちゃうとクズ王子にしか見えなかった。
感想一覧
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