婚約破棄された瞬間、婚約中の記憶がすべて公開されました——都合よく忘れていたのは、あなただけではなかったようです
舞踏会の夜、シャンデリアの光が大広間を白く塗りつぶしていた。
数百の蝋燭が揺れるたびに、招待客たちのドレスや勲章が煌めき、笑い声と弦楽器の音が混ざり合って空気を満たす。
私——エヴェリーナ・ヴォーリス公爵令嬢——は、その輝きの中心に立ちながら、どこか遠くを見ていた。
いつものように、笑わずに。
「エヴェリーナ」
ルシアン殿下が私の名を呼んだのは、真夜中に差しかかる少し前のことだ。
王太子殿下——銀糸の刺繍が施された白い礼服に、金色の瞳をした美しい青年——は、私の前に立ち、その視線をまっすぐに向けていた。
しかし、その瞳の中に、いつもの温度はない。
(あ、と思う。)
「君との婚約を、今夜限りで解消したい」
声は静かだった。
けれどその言葉は、弦楽器の音を割って広間の隅々まで届いたように思う。
一瞬の静寂のあと、ざわめきが広がる。
私は動かなかった。
動けなかったのではなく——動く理由を、とっさに見つけられなかったのだ。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
自分の声は思ったより落ち着いていた。
ルシアン殿下は、少しだけ視線を逸らす。
「君は冷たい。いつも何も言わない。僕が何かを話しかけても、笑顔のひとつも見せてくれたことがなかった」
「……」
「クロエは違う。彼女はいつも僕の傍にいて、言葉をかけてくれる。支えてくれる。君にはそれがなかった」
クロエ——ベルナール伯爵家の次女、クロエ・ベルナール——は、ルシアン殿下の少し後ろに立ち、俯いている。
その頬はほんのり紅く、目には薄く涙が光っていた。
うまい、と私は場違いなことを考える。
「殿下」
「婚約はこれで終わりだ。エヴェリーナ、君を縛りたくない」
縛る、という言葉が耳の中で妙に反響した。
縛られていたのは、どちらだったのだろう。
その問いを口にする前に——世界が、変わった。
光だった。
白ではなく、淡く青みがかった光が、空間の中央からにじみ出すように広がり始める。
招待客たちが声を上げ、後退る。
私自身も、その光の意味を知るまでに、一拍の間を要した。
「……婚約解消の、記憶封印魔法」
誰かが囁く声が聞こえた。
そう。
この王国には古い法がある。
正式な婚約は魔法的な契約によって結ばれ、その破棄が公の場で行われた場合——婚約期間中の"重要な記憶"が、その場に集う者たちの前に再生される。
当人の主観とともに。
複数の視点から。
嘘は映らないが、解釈のズレは、すべて。
「待て、これは——」
ルシアン殿下が手を伸ばすが、光はすでに収縮する段階を過ぎていた。
大広間の天井に、巨大な水面のような膜が広がる。
そこに最初の映像が、ゆっくりと浮かび上がる。
三年前の春だ。
私とルシアン殿下が初めて正式に顔を合わせた日の記憶である。
「ルシアン殿下、エヴェリーナ・ヴォーリス公爵令嬢でございます」
父の声が映像の中に響く。
私は十七歳で、水色のドレスを着ていた。
殿下の前に立ち、礼をする。
顔を上げたとき、私は殿下と目が合った。
映像はそこで、ふたつに割れた。
光の膜が中央から二分し、左右それぞれに別の映像が流れ始める。
一方の映像は、殿下の目に映った光景だ。
礼をしてから顔を上げた彼女は、無表情だった。
微笑みもなく、感情の色もなく、ただ形式的に顔を向けてくるだけだ。
映像の中の殿下は、それでも言葉をかける。
「よろしく、エヴェリーナ」
彼女は短く、
「はい」
と答えた。
——これが婚約者か。美しいが、人形のようだ。
殿下の内心が、静かな字幕のように広間に浮かぶ。
もう一方の映像は、あの日の私だ。
顔を上げたとき、殿下の目がまっすぐ私を見ていた。
綺麗な人だ、と思う。
そして——怖かった。
どう話せばいいのか、分からない。
失言したら、どうなる。
父の顔を汚したら。
この国の未来を左右する方の隣に、私などが立っていいのか。
笑いたかった。
でも、引きつった顔を見せるくらいなら、黙っている方がいい。
「よろしく、エヴェリーナ」
何か、言わなければ。
でも何を?
気の利いた言葉など出てこない。
せめて、ちゃんと答えることだけは。
「はい」
それが、精一杯だった。
広間は静まり返っていた。
同じ場面が、ふたつの解釈で流れたことを——その場の全員が、理解していた。
私は自分の記憶を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。
あの日の自分が、あんなにも必死だったことを。
誰かに言ったことはなかった。
言える言葉を、持っていなかったのだ。
ルシアン殿下の横顔を盗み見る。
殿下の表情には、微かな動揺が走っている。
しかし映像は、まだ続く。
次の記憶が、光の膜の中で形を結び始めていた。
婚約から半年が経った頃の場面だ。
今度も映像はふたつに分かれ、それぞれの内側を映し出す。
殿下の側には、執務室の光景が広がっていた。
彼女が報告書を三枚、机の上に置いて、簡潔に概要だけを述べる。
何か感想を言っても、彼女はただ頷くだけだ。
——彼女は僕に興味がないのだろう。婚約者として傍にいながら、心はどこか別の場所にある。
——助言を求めても、意見を言わない。感情を見せない。これでは、夫婦になったとき、どうなるのか。
もう一方に映るのは、同じ日の私だ。
報告書を置くとき、手が少し震えていた。
あの書類を仕上げるために、私は三日間、父の書庫に籠もった。
北部の税制改革案で生じた矛盾を調べ、過去の判例を洗い出し、殿下が議会で恥をかかないよう、指摘されそうな論点をすべて潰した。
これを、直接伝えるべきなのだろうか。
でも、それは自分の苦労を誇示することになる。
殿下には殿下の仕事がある。
私が裏でしていることをわざわざ言うのは、押しつけがましい。
ただ、役に立てれば、それでいい。
私が頷いたのは、それ以上言う言葉がなかったからだ。
賛同でもなく、無関心でもない。
ただ——伝え方を、知らなかった。
広間に、ざわめきが戻ってくる。
今度はより大きく、複雑な響きをはらんでいた。
「あの報告書は……殿下の議会答弁の資料では?」
誰かが呟く。
「三年前、北部改革の議論で殿下が完璧な答弁をされたのは……」
「エヴェリーナ様が準備をしていたということ?」
声が幾重にも重なっていく。
私はその声を聞きながら、もう一度、映像の中の自分を見る。
震えた手。
押し黙った唇。
伝えることを諦めた、あの瞬間。
(私は、何をしていたのだろう。)
その問いはしかし、答えが出る前に——次の記憶によって、更新されることになる。
映像の膜が、再び揺れた。
今度の場面には、クロエ・ベルナールの姿がある。
クロエ・ベルナールの記憶は、殿下のものから始まった。
ある午後の庭園——薔薇が満開の、春の終わりの場面だ。
クロエが殿下のそばに寄り添い、花を一輪手折って差し出している。
「殿下、今日もお疲れではありませんか? こういう日は、少しお外の空気を吸うのが一番ですわ」
にこりと笑う顔は、やわらかく、明るい。
殿下の内側の声が、静かに浮かぶ。
——クロエはいつも、こうして気にかけてくれる。エヴェリーナとは違う。
映像が、もう一方へと切り替わった。
同じ庭園の、同じ午後だ。
しかしこちらには、私の姿はない。
代わりに映るのは——私が見ていた、廊下の角からの光景だ。
クロエが殿下に笑いかける直前、彼女は一瞬だけ視線を横に走らせていた。
そこには、廷臣が数名いた。
それから彼女は、笑顔を作った。
順番が、逆だった。
笑顔が先ではなく——見られていることを確認してから、笑顔が生まれていた。
私はあの日、その順番に気づいて、何も言わなかった。
言ったところで、証拠にもならないと思っていたから。
それに——私には、同じことを言える立場がなかった。
私自身が、殿下に何ひとつ差し出せていなかったのだから。
広間のざわめきが、また変わる。
今度は囁き声ではなく、明確な動揺の色を帯びていた。
「クロエ様は……」
「あの笑顔は、見られていたから?」
クロエの立つ場所から、小さく息を呑む音が聞こえた気がした。
私は振り返らない。
映像はまだ続いている。
次の記憶は、もっと古い。
婚約一年目の冬、殿下が外交使節団との晩餐で失言をした夜のことだ。
殿下の視点では、こう映っていた。
晩餐の席で、隣国の通商政策について軽口を叩いた。
相手方の使節が表情を曇らせたのは分かった。
しかしその後、使節団は何事もなく帰国し、翌月には正式な条約が締結された。
——あれは、うまく収まった。自分の判断は間違っていなかった。
もう一方の映像に、私が映っている。
晩餐の翌朝、私は父の書斎にいた。
父に頭を下げ、隣国との伝手を頼んだ。
使節団の団長と面識のある商人を通じて、非公式の書簡を一通、届けてもらうために。
書簡の内容は短いものだった。
殿下の発言は外交上の軽口であり、王家としての正式な見解ではない。
通商の協議は誠実に進める意志がある。
そう、丁寧に、しかし明確に記した。
書くのに、一晩かかった。
言葉の一つひとつを選びながら、失礼にならず、しかし言い訳にもならない文面を探した。
条約が締結されたのは、その書簡があったからだと、父だけが知っていた。
殿下には、言わなかった。
言えば、殿下が恥をかく。
それだけのことだ。
広間が、静まり返った。
静寂は今度、長く続いた。
「……エヴェリーナ様が、あの条約を?」
誰かの声が、乾いた空気の中に落ちる。
「使節団との件は、てっきり外務卿が処理されたのだとばかり」
「いや、外務卿はあの時、病で臥せっておられた。では一体誰が——」
私は映像の中の自分を見ていた。
一晩中書き直した書簡を、震える手で封じている。
あの夜の自分が、こんなにも必死な顔をしていたとは、知らなかった。
自分のことなのに、知らなかったのだ。
映像はさらに続く。
記憶は積み重なるように流れ、止まらない。
殿下が体調を崩した折に、侍医へ事前に症状を伝えて診察の準備を整えていたこと。
王太子主催の園遊会で、招待客の座席順を巡る貴族間の対立を、事前に察知して静かに調整していたこと。
殿下が好む楽曲を演奏団へ匿名で依頼し、晩餐の席が和やかになるよう整えていたこと。
どれも、殿下の目には映っていなかった。
どれも、私は誰にも言わなかった。
殿下の視点に映る私は、いつも無口で、無表情で、ただそこにいるだけの人間だった。
私の視点に映る私は、いつも考えすぎて、言葉を飲み込んで、一人で手を動かし続けていた。
どちらも、本当のことだ。
どちらも、全部ではない。
「全部……彼女がやっていたのか」
低い声が広間に響く。
年配の侯爵だった。
殿下の政務を長年傍で見てきた人物が、映像を見上げたまま、静かにそう言った。
「三年間、ずっと」
その言葉に、誰も続けない。
続けられる者が、いない。
私自身も、返す言葉を持たなかった。
三年間、ずっと——そう言われると、なぜか胸の奥がひりついた。
労われているのか、責められているのか、分からない。
ただ、誰かに見えていたということが、ひどく遠い場所の話のように感じられた。
ルシアン殿下は、映像を見ていた。
黙ったまま、じっと見ていた。
その顔に浮かぶのは、怒りではない。
困惑でもない。
——何か、もっと静かで、しかし深いものだった。
私はそれを見て、初めてかすかな痛みを覚えた。
殿下は、悪い人ではない。
ずっとそう思っていた。
思い込みが強くて、見たいものしか見ない人だけれど、根は真面目で、誠実で——だからこそ、婚約を結んだ日に、私は少しだけ安堵したのだ。
この人となら、うまくやれるかもしれないと。
うまくやれなかったのは、私の伝え方のせいだと、ずっとそう思っていた。
でも。
映像の中の殿下は、私を見ていなかった。
見ようとしていなかった、のではないかもしれない。
ただ——見えていなかった。
見える場所に、いなかった。
それは、どちらの話なのだろう。
映像の膜が、また揺れる。
次の記憶へと、光が移ろっていく。
私は息を整え、前を向いた。
まだ終わっていない。
記憶は、まだ残っている。
次に流れてきた記憶は、私自身が忘れかけていたものだった。
婚約二年目の秋——殿下との、数少ない二人きりの時間だ。
広間ではなく、小さな温室の中。
殿下が珍しく政務の話ではなく、子どもの頃の話をしていた。
「父上に認められたくて、ずっと必死だったんだ。でも何をしても、足りない気がして」
私は隣に座って、その言葉を聞いていた。
映像の中の私は、何も言わない。
ただ、静かに殿下の横顔を見ている。
殿下の視点では——こう映っていた。
話しかけても、彼女は黙っていた。
共感も、慰めも、何もなかった。
やはり、心が通じない人だと思った。
しかし私の視点では、あの沈黙の中身が映し出される。
(どう返せばいい。)
("大丈夫ですよ"と言うのは軽い。"辛かったですね"と言うのは、的外れかもしれない。)
(この方の痛みを、私ごときが言葉で包めるとは思えない。)
(でも——分かる、と思った。)
(認められたくて、必死で、それでも足りない気がする、という感覚が。)
(私も、ずっとそうだったから。)
言葉にできなかった。
言葉にすれば、自分の話になってしまう気がして。
殿下の話を、自分のことにしてはいけないと思って。
だから、黙っていた。
ただ、そばにいようと思って。
それだけだった。
映像が消えた瞬間、私の胸に何かが刺さった。
鋭いものではなく——ゆっくりと、じわりと広がるような痛みだ。
(私は……ちゃんとやっていた?)
その問いが、頭の中に浮かんで、消えなかった。
三年間、私は自分のことを、足りない人間だと思っていた。
笑えない。
うまく話せない。
殿下を支えられていない。
クロエのように、明るくそばに寄り添うこともできない。
だから婚約破棄されるのは、仕方のないことだと——今夜、殿下に告げられた瞬間、どこかで納得していた。
しかし映像の中の私は、三日間書庫に籠もっていた。
一晩中、書簡を書き直していた。
震える手で、報告書を届けていた。
あの人は、足りない人間だっただろうか。
(違う、と思う。)
その答えが出た瞬間、目の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。
泣く場面でもない、と思っていた。
それでも——こみ上げてくるものを、止められなかった。
私は、自分を正しく見ていなかった。
殿下が私を見ていなかったのと、同じように。
いや、もしかしたら——それ以上に。
殿下は少なくとも、見ようとはしていたのかもしれない。
ただ、見え方が違っただけで。
しかし私は、自分を最初から「足りない」と決めていた。
見るまでもなく、価値がないと。
誰かに言われたわけでもないのに。
(いつから、そう思うようになったのだろう。)
答えは出ない。
でも映像の中の私を見ていると——あの人は確かに、懸命だった。
不器用で、言葉が足りなくて、伝え方を知らなかったけれど。
それでも、やっていた。
ちゃんと、やっていた。
「エヴェリーナ様」
声がした。
映像を見上げたまま、侍女頭のマリアが呟いていた。
長年、ヴォーリス家に仕える老女だ。
「あなたが毎晩遅くまで書き物をされていたのは、存じておりました」
「疲れた顔を見せないようにされていたのも」
「でも、こんなにも——」
マリアの声が、そこで途切れた。
続きは、言葉にならなかったらしい。
私は彼女の方を見られなかった。
見たら、泣いてしまいそうだったから。
広間の空気が変わっていくのが、分かった。
ざわめきの質が、変わった。
先ほどまでの驚きや困惑ではなく——何か、もっと重いものが、この場に満ちていく。
「殿下は……ご存じなかったのですか」
若い廷臣の声だった。
責めるような色はない。
ただ、純粋な問いとして。
ルシアン殿下は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
映像はまだ光の膜の中に残っていて、殿下の目にも、私の三年間が映り続けていた。
クロエが、小さく動く気配がした。
何かを言おうとしたのかもしれない。
しかし映像の膜が、またひとつ、新しい場面を映し出した。
クロエの記憶だ。
今度は彼女の内側も含めて、全てが映る。
場面は、半年前。
クロエが初めて王太子の執務室を訪ねた日だ。
廊下で偶然行き合ったように見えたあの日——しかし映像の中のクロエは、前日から人の動きを確認していた。
殿下がその時間に執務室を出ることを、侍従から聞き出していた。
花を持参したのも、偶然ではない。
殿下の好む花の色を、事前に調べていた。
クロエの内心の声が、映像の中に静かに流れる。
——エヴェリーナ様は、殿下に何もしない。私がそばにいれば、殿下はきっと——
その先は、言葉になっていなかった。
しかし意図は、十分に伝わった。
広間に、冷たい沈黙が落ちた。
クロエへの視線が変わっていくのが、分かった。
彼女は俯いたまま、動かない。
先ほどまで頬に光っていた涙の跡が、今は違う意味を持って見える。
私はクロエを憎む気にはなれなかった。
彼女は彼女で、必死だったのだろうと思う。
ただ——その必死さの向け方が、違った。
それだけのことだ。
それだけのことが、三年分積み重なっていた。
「そんなはずは……」
ルシアン殿下の声が、広間に落ちた。
低く、掠れた声だった。
「僕は、ちゃんと見ていたつもりだった」
映像の膜が、静かに揺れる。
「エヴェリーナが何も言わないから、何も考えていないのだと」
「笑わないから、僕に心を開いていないのだと」
「そう、思っていた」
殿下の言葉は、言い訳ではなかった。
ただ——本当にそう思っていた、という告白だった。
だからこそ、質が悪い。
悪意があれば、まだ怒れる。
しかし殿下は本当に、見えていなかっただけだ。
見ようとしなかったのか、見る方法を知らなかったのか——それは、もはや私には関係のないことだが。
「全て、彼女がやっていたのか」
先ほどとは別の声が上がった。
外務卿だった。
長く王家に仕える老人が、映像を見上げたまま、ゆっくりと首を振る。
「あの条約の件も、使節団との調整も——私は外務省が処理したと思っておりました」
「しかし記録を辿れば、あの時期、外務省に動いた形跡はない」
「動いていたのは……」
老人の視線が、私に向く。
「あなたでしたか、エヴェリーナ様」
私は答えなかった。
答える言葉を、持っていなかった。
ただ、小さく頷いた。
それだけで、外務卿は目を閉じた。
広間の空気が、ひとつの方向へと傾いていくのが分かった。
同情ではない。
驚きでもない。
もっと静かで、しかし確かなもの——評価が、塗り替えられていく音だ。
三年間、この場にいた全員の認識が、ゆっくりと修正されていく。
私はその中心に立ちながら、不思議と落ち着いていた。
怒りも、悲しみも、今この瞬間は遠かった。
ただ——映像の中の自分を見て、初めて知ったことが、胸の中にある。
私は、価値のない人間ではなかった。
そのことが——ただ、静かに、そこにあった。
映像の膜が、最後の光を放った。
もう新しい記憶は流れてこない。
三年分の時間が、この広間に広げられ、そして静かに閉じようとしていた。
光が収束していく中、残ったのは——この場にいる全員の、沈黙だった。
「エヴェリーナ」
ルシアン殿下が、私の名を呼んだ。
今夜二度目だ。
しかし声の質が、まるで違った。
最初に呼ばれた時の、決然とした冷たさはない。
今の殿下の声には——何かが、欠けていた。
「僕は……間違っていた」
殿下が一歩、こちらへ踏み出す。
「君のことを、何も分かっていなかった」
「見ていたつもりで、見ていなかった」
「それは……認める」
広間が、息を呑む。
王太子が公の場で非を認めることは、滅多にない。
周囲がざわめく中、殿下は続けた。
「だから——やり直したい」
「婚約破棄の言葉は、撤回する」
「今度こそ、ちゃんと見る。君のことを」
殿下の金色の瞳が、まっすぐ私を捉えていた。
その目には、本気の色があった。
後悔も、あった。
私は、少しの間、殿下を見ていた。
三年前、初めて目が合った時のことを思い出す。
怖かった。
どう話せばいいか分からなかった。
それでも、この人となら、と思っていた。
その気持ちは、嘘ではなかった。
だから——だからこそ。
「いいえ」
私の口から出たのは、その一言だった。
短く、しかし迷いのない声だった。
自分でも驚くほど、澄んでいた。
殿下の表情が、止まる。
「エヴェリーナ……」
「殿下」
私は一歩も動かなかった。
「あなたは"知らなかった"のではありません」
言葉が、静かに出てくる。
三年間、飲み込み続けた言葉ではない。
今夜この映像を見て、初めて形になった言葉だ。
「"知ろうとしなかった"のです」
広間が、完全に静まり返った。
「私が伝えなかったのは、事実です」
「言葉が足りなかったことも、笑えなかったことも、全部本当のことです」
「でも——」
私は殿下の目を、まっすぐ見た。
「あなたは一度でも、私に聞いてくださいましたか」
「なぜ笑わないのか、と」
「何を考えているのか、と」
「疲れていないか、と」
殿下は、答えなかった。
答えられなかったのだろう。
「聞かれなかったから黙っていた、とは言いません」
「私にも、伝える努力が足りなかった」
「でも殿下、それは同じことです」
「あなたも——知ろうとしなかった」
殿下の口が、かすかに開いた。
何かを言おうとして、言葉が出てこない。
その様子を、私は静かに見ていた。
怒りはなかった。
憎しみも、なかった。
ただ——もう、いい、という気持ちがあった。
この三年間は、無駄ではなかった。
でも、続ける理由も、もうない。
「殿下が今夜おっしゃったことは、取り消せません」
「公の場での婚約破棄は、魔法が記録しています」
「そして私は——それを、受け入れます」
最後の言葉を言い終えた時、自分の中で何かが、すとんと落ちた。
重かったものが、降りていく感覚だ。
クロエが、震える声を上げた。
「殿下、わたくしは……」
「クロエ」
殿下の声は、今度は冷たかった。
振り返りもせず、ただその名を呼んだだけで——クロエは口を閉じた。
殿下自身、今夜の映像で全てを見ていた。
クロエの笑顔の前後を。
その計算を。
庇う言葉は、出なかった。
外務卿が、静かに前へ出た。
「エヴェリーナ様」
老人は、深く頭を下げた。
「三年間、気づかず申し訳ございませんでした」
その言葉に続くように、侯爵が、廷臣が、次々と頭を垂れていく。
私はその光景を見て——なぜか、困った。
謝られることに、慣れていなかった。
「……顔を上げてください」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ルシアン殿下は、その場に立ち尽くしていた。
周囲の目が、少しずつ変わっていくのが見える。
先ほどまで向けられていた敬意の色が、薄れていく。
代わりに広がるのは——困惑と、失望だ。
悪王ではない。
暴君でも、嘘つきでも、ない。
しかし——三年間、隣にいた人間を見ていなかった王太子を、このまま信じていいのか。
その問いが、広間の空気の中に漂っていた。
声にする者はいない。
でも全員が、考えていた。
クロエは、もう泣いていなかった。
泣く場面ではないと、理解したのだろう。
ただ静かに、俯いている。
彼女の周囲から、人が少しずつ離れていく。
露骨ではない。
ただ——自然に、距離が生まれていく。
社交界とは、そういうものだ。
言葉より先に、立ち位置が変わる。
私は、その全てを見ていた。
そして——もう、ここにいる必要はないと思った。
踵を返す前に、もう一度だけ、殿下を見た。
殿下は私を見ていた。
何かを言いたそうな顔で、しかし言葉を持てない顔で。
私は小さく、頭を下げた。
礼儀として。
それだけだった。
大広間を出ると、廊下には夜の冷気が満ちていた。
シャンデリアの光も、弦楽器の音も、ここまでは届かない。
静かだった。
ひどく、静かだった。
私は立ち止まって、息を吐いた。
長い息だった。
三年分の何かが、少し混じっているような気がした。
マリアが、いつの間にか後ろに立っていた。
「お疲れになりましたでしょう」
「……少し」
正直に答えたのは、珍しいことだったかもしれない。
マリアは何も言わず、そっと肩に上着をかけてくれた。
その温かさに、目の奥がまた熱くなる。
こういう時に泣くのか、と自分で思う。
大広間では泣かなかったのに。
「帰りましょう」
マリアが言う。
「はい」
私は答えた。
夜空は、澄んでいた。
馬車に乗り込む前に、一度だけ振り返る。
煌々と光る舞踏会の館。
あの中にいた三年間が、遠く感じた。
遠いけれど——消えたわけではない。
映像の中の私が、三日間書庫に籠もっていた事実は、消えない。
震える手で書簡を封じた夜も、消えない。
私がいた、という記録は——あの魔法が、永遠に刻んだ。
それで、十分だと思った。
馬車が動き出す。
窓の外に、夜の街が流れていく。
私は自分の手を見た。
今夜は震えていない。
三年前、書類を持って執務室に入った時とは、違う手だ。
いや——手は同じかもしれない。
変わったのは、この手を見る目の方だ。
(私は、価値のない人間ではなかった。)
その言葉が、胸の中で静かに灯る。
誰かに言われたわけではない。
映像の中の自分を見て、自分で気づいた。
だから——誰かに消されることも、ない。
これは、婚約破棄の話ではなかった、と今になって思う。
殿下への怒りの話でも、クロエへの勝利の話でも、ない。
私が、私自身を、初めてちゃんと見た夜の話だ。
他人の目ではなく。
記憶という、嘘のつけない鏡を通して。
三年分の自分を、取り戻した夜の話だ。
馬車は夜の中を進んでいく。
どこへ向かうのか、まだ分からない。
でも——それでいいと思えた。
分からないまま進む足が、今夜初めて、少しだけ軽い。
窓の外に、星が見えた。
私はそれを、黙って見ていた。
いつものように——しかし今夜は、少しだけ違う目で。
終幕




