言の葉の栞
「お母さんはエリスみたいだね」と言ったのは、アイが十二歳の時だった。母は笑わなかった。
あの時の母の顔を、アイはまだ覚えている。笑わなかったのではなく、笑えなかったのだと気づいたのは、ずっと後になってからだ。
カフェのドアを押すと、ドビュッシーが流れていた。カイトのセットリストだ。アイは窓際の席に座り、鞄から文庫本を取り出した。森鴎外の「舞姫」。もう何度読んだかわからない。
「また舞姫?」
カウンター越しにカイトが言った。アイは答える代わりに、本を開いた。
「返事くらいしてよ」
「してる」
「してない」
カイトがカップをソーサーに置く音がした。アイは顔を上げなかった。長い付き合いだから、これくらいで機嫌を損ねないことはわかっている。
窓の外では、銀杏並木が風に揺れていた。十月の午後、光が斜めに差し込んで、テーブルの上の文庫本を照らしていた。アイはそのまましばらく、活字を目で追い続けた。
豊太郎はエリスを捨てた。故郷へ帰るために、愛した女を捨てた。アイはそのページをめくるたびに、決まって同じことを思う。捨てた側は、どんな顔をして生きていくのだろう、と。
「アイちゃん、いらっしゃいませー!」
大きな声がカフェに響いた。ユナだ。トレイを両手に持ったまま、満面の笑みでこちらへ向かってくる。
「静かにして」とカイトが言った。
「えー、だってアイちゃん久しぶりじゃないですか」
「三日前にも来てた」
「三日ぶりは久しぶりです!」
ユナはトレイをカウンターに置き、アイの向かいの椅子を引いた。座っていいかという確認はない。アイは栞を挟んで本を閉じた。
「ねえアイちゃん、聴いてくださいよ。昨日また皿割っちゃって」
「何枚目」
「えーと、今月だけで四枚」
「今月だけで」
「でも去年の私は今月だけで七枚割ってたから成長してます」
カイトが遠くから「成長の方向性がおかしい」と言った。ユナは気にしない。
アイは閉じた文庫本をテーブルの端に寄せた。ユナの話を聞きながら、さっき読んでいたページのことを考えていた。豊太郎が書いた手紙の一節。言い訳と後悔と、それでも帰らなければならないという決意が、ぐるぐると混ざり合った文章。
父もあんなふうに思っていたのだろうか。
「アイちゃん?」
ユナが顔を覗き込んでいた。
「聴いてますよ」
「絶対聴いてなかった顔」
「四枚割ったんでしょ」
「そうそう! カイトさんがすごく怖い顔するんですよ、割るたびに。怖くないですか」
「怖くない」
「なんでそんなに落ち着いてるんですか」
アイは少し考えてから答えた。
「本を読んでると、だいたいのことは大丈夫になる」
ユナはきょとんとした顔をした。それからにっこり笑った。
「アイちゃんってやっぱり不思議ですね」
ドビュッシーが静かに流れていた。月の光。カイトが選んだ曲だ。アイはまた窓の外に目をやった。銀杏の葉が一枚、風に乗って空へ舞い上がった。
エリスは待ち続けた女だ。
アイが初めて舞姫を読んだのは、十歳の時だった。父の本棚から抜き取った、少し黄ばんだ文庫本。難しい言葉がたくさんあって、意味がわからない箇所も多かった。それでも読み続けたのは、エリスのことが気になったからだ。
待っている女の話だと思った。豊太郎を待って、待って、待ち続けて、それでも捨てられた女の話。
母に似ていると思ったのは、その時だった。
ユウカはいつも待っていた。父が帰るのを待ち、父から連絡が来るのを待ち、父がまた笑ってくれる日を待っていた。アイにはそれが子供心にもわかった。母の待ち方は、いつも少し苦しそうだったから。
「お母さんはエリスみたいだね」
アイが言った時、母は台所に立っていた。夕飯の支度をしながら、ラジオを聴いていた。振り返った母の顔を、アイは今でも覚えている。笑わなかった。笑えなかったのだと気づいたのは、ずっと後になってからだ。
その三ヶ月後に、父は出て行った。
海外出張と聞かされたのは最初だけで、やがてそれが嘘だったとわかった。父と母は離婚した。アイは母と二人で残された。
父の本棚だけが、そのままの形で残っていた。
アイは時々その本棚の前に立つ。背表紙を指でなぞる。父が読んでいた本たちは、父がいなくなっても、ここにあり続けている。不思議なことだと思う。人間は出て行くのに、本は出て行かない。
舞姫は、その本棚で見つけた本だ。
だから何度も読む。父が触れた活字を、自分も触れることで、何かが繋がるような気がして。あるいはそれは錯覚で、ただの習慣になっているだけかもしれないけれど。
カフェを出たのは夕方だった。
空がオレンジ色に染まっていた。アイは鞄の中の文庫本の重さを感じながら、商店街を歩いた。夕飯の買い物をしている主婦たち、自転車で走り抜ける学生、犬を連れて散歩している老人。日常の景色が、夕陽に照らされてすこし非現実的に見えた。
本の中の世界の方が、ずっとくっきりしている。
アイはいつもそう思う。現実は輪郭がぼやけていて、どこからどこまでが自分なのか、よくわからない。でも本を開けば、全てがはっきりする。活字は嘘をつかない。書かれた言葉は、書かれた通りにそこにある。
家に着くと、母はまだ仕事から帰っていなかった。
アイは鍵を開けて中に入った。薄暗い廊下に、夕陽が細く差し込んでいた。靴を脱いで、リビングへ向かう。テーブルの上に母のメモがあった。
「今日は遅くなります。冷蔵庫にシチューあるから温めて食べてね」
アイはメモを手に取った。母の字は丸くて、少し右に傾いている。小さい頃から変わらない字だ。
冷蔵庫を開けると、タッパーにシチューが入っていた。几帳面にラップがかけてある。母はいつもこういうところが丁寧だ。アイのために、ちゃんと準備をしていく。
エリスと違う、とアイは思った。
エリスは豊太郎に全てを捧げた。自分を捧げすぎて、捨てられた時に何も残らなかった。でも母は違う。父が出て行った後も、ちゃんと立っていた。仕事を続けて、アイを育てて、タッパーにシチューを入れて冷蔵庫に入れておく。
それでもあの日の母の顔を思い出すと、胸の奥が痛くなる。
笑えなかった母の顔。
アイはシチューを鍋に移して火をつけた。ぐつぐつと煮える音が静かな台所に広がった。文庫本をテーブルに置いて、アイはぼんやりと炎を見つめた。
豊太郎はなぜ帰ったのだろう。
エリスを愛していたのに、なぜ捨てることができたのだろう。
父もそうだったのだろうか。母を、アイを、愛していたのに、それでも出て行くことができたのだろうか。
答えは出ない。父はいないから、聞くこともできない。
シチューが温まった。アイは一人でテーブルについた。窓の外はもう暗くなっていた。街灯が灯り、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってきた。
一人で食べるシチューは、いつも少しだけ味が薄く感じる。
母が作ったのだから、味は同じはずなのに。
次にカフェへ行ったのは、二日後の放課後だった。
学校帰りにそのまま寄ったから、制服姿だった。カイトは「また来た」と言い、ユナは「アイちゃん制服かわいい」と言った。アイはいつもの窓際の席に座って、鞄から舞姫を取り出した。
「その本、何回読んでるの」とカイトが聞いた。
「数えてない」
「数えられないくらい?」
「そう」
カイトはそれ以上何も言わなかった。アイが本を読んでいる時に余計なことを言わない、というのがカイトの流儀だ。子供の頃からそうだった。アイが本の世界に入っている時、カイトはいつも静かにそこにいた。
ドビュッシーが流れていた。今日は別の曲だ。アイにはタイトルがわからないけれど、柔らかくて少し寂しい旋律だった。
アイは本を開いた。
今日読もうと思っていたのは後半の場面だった。豊太郎がエリスのもとを去る決意をする場面。何度読んでもここが一番苦しい。豊太郎の言い訳と、エリスの絶望と、どうにもならない二人の距離。
読み始めて三十分ほど経った頃、ユナが近づいてきた。
「アイちゃん、ちょっといいですか」
アイは栞を挟んで顔を上げた。
「なに」
「あそこの棚、見ました?」
ユナが指差したのは、カフェの壁際に置かれた小さな本棚だった。お客さんが自由に読んでいい本が並んでいる棚で、アイも何度か手を伸ばしたことがある。
「見てないけど」
「なんか新しい本が入ってたんですよ。アイちゃん好きそうだなって」
アイは席を立って棚へ向かった。ユナが横に並んでついてくる。
棚には文庫本や単行本が雑多に並んでいた。誰かが持ってきて置いていったのだろう、背表紙の色もばらばらで、ジャンルも統一されていない。アイはゆっくりと背表紙を目で追った。
その名前を見つけたのは、ちょうど視線が棚の中段に差し掛かった時だった。
星見エリス。
アイは手を止めた。
薄い単行本だった。白い表紙に、タイトルが縦書きで入っている。「夜に降る雪」。著者の名前は、星見エリス。
知っている名前だ。母の本棚にも何冊かある。日本の純文学を書く作家で、静かで繊細な文体が特徴だと、どこかで読んだことがある。でもアイ自身はまだ読んだことがなかった。
手に取った。
表紙をめくると、扉ページに短い文章があった。
「この物語は、帰れなかった者のために書いた」
アイはその一行を、二度読んだ。
帰れなかった者。
胸の奥で何かが動いた。うまく言葉にできない感覚だった。本を閉じて、表紙をもう一度見た。白い表紙。星見エリスという名前。
「どうですか?」とユナが聞いた。
「借りてもいいの、これ」
「カイトさんに聞いてみてください」
アイはカウンターへ向かった。カイトは手を動かしながらアイを見た。
「棚の本、持って帰っていい?」
「構わないけど、また持ってきてよ」
「うん」
アイは席に戻った。舞姫の隣に、星見エリスの本を置いた。二冊並んで、テーブルの上に置かれていた。
なぜだかわからないけれど、目が離せなかった。
窓の外では風が吹いていた。銀杏の葉が舞い上がって、空に溶けていった。カフェの中にドビュッシーが流れていた。カイトが誰かの注文を取っていた。ユナがまた何かを言っていた。
アイはただ、その二冊の本を見ていた。
森鴎外の「舞姫」と、星見エリスの「夜に降る雪」。
何かが繋がりそうな気がした。うまく掴めないまま、でも確かに、何かが。
その夜、アイは「夜に降る雪」を読み始めた。
一ページ目から、息が詰まった。
主人公は十代の少女だった。父親のいない家で、母親と二人で暮らしている少女。本が好きで、言葉が好きで、現実よりも活字の世界の方が息がしやすいと感じている少女。
アイは本を持つ手が震えているのに気づいた。
これは、自分の話だ。
そんなはずはないと思った。星見エリスはアイのことを知らない。アイも星見エリスのことを知らない。それなのに、なぜこんなにも、この少女がアイ自身のように読めるのだろう。
読み進めるほど、その感覚は強くなった。
少女の孤独、言葉への愛着、父親への複雑な感情。全てがアイの内側にあるものと、形は違うけれど、同じ温度をしていた。
気づいたら深夜になっていた。
母がもう眠っている時間だった。アイは電気スタンドの明かりだけで最後のページまで読んだ。読み終えて、本を閉じた。
帰れなかった者のために書いた、という言葉が頭の中で繰り返された。
星見エリスは誰のために、この物語を書いたのだろう。
帰れなかった者とは、誰のことだろう。
アイはしばらく天井を見つめていた。窓の外で風が鳴っていた。カーテンが微かに揺れていた。
眠れないまま、夜が更けていった。
母が星見エリスを知っていたのは、意外だった。
翌朝、朝食の準備をしながらアイが「星見エリスって知ってる?」と聞くと、母は少し手を止めた。
「知ってるよ」
「読んだことある?」
「昔、一冊だけ」
母はそれだけ言って、また手を動かし始めた。トーストが焼ける匂いがした。アイはテーブルに座って、母の背中を見ていた。
「どんな話だった?」
「静かな話だったよ。誰かを待っている人の話だったと思う」
誰かを待っている人。
アイは昨夜読んだ「夜に降る雪」のことを思った。あの少女も、ずっと何かを待っていた。父が帰ってくることを、というよりも、もっと曖昧な何かを。自分の輪郭が定まる瞬間を、待っていたのかもしれない。
「お母さんは好きだった、その話」
「どうだろう」と母は言った。「好きかどうかよりも、なんか、刺さったって感じかな」
刺さった。
アイはその言葉を手帳の隅にでも書き留めておきたいと思った。好きという言葉よりも、刺さったという言葉の方が、本との関係を正直に表している気がした。
「また読みたいと思う?」
「どうかな」
母はトーストを皿に乗せてテーブルに置いた。向かいの椅子に座って、コーヒーカップを両手で包んだ。
「なんでそんなに聞くの」
「カフェに本があって、借りてきた」
「星見エリスの?」
「うん」
母は少し考えるような顔をした。それから「そう」とだけ言った。それ以上は何も聞かなかった。
アイはトーストを一口食べた。バターが溶けて、少し甘い味がした。
「お母さん、エリスのこと覚えてる?」
「エリス?」
「舞姫の。前に話したことあるじゃない、エリスはお母さんみたいだって」
母の手が止まった。コーヒーカップを持ったまま、少しの間黙っていた。
「覚えてるよ」
「あの時、笑わなかったよね」
「そうだっけ」
「そうだよ」
母はカップをソーサーに置いた。窓の外を見た。今日は曇り空で、光が薄かった。
「笑えなかったのかもね」と母は言った。
アイは息を止めた。
笑えなかった。自分が思っていた通りの言葉が、母の口から出てきた。
「なんで」
「なんでって言われても」母は少し困ったような顔をした。「上手く説明できないけど、エリスみたいだねって言われた時、あなたは私のことをそう見てるんだって思って」
「そう見てるって」
「待ってばっかりの、可哀想な人って」
アイは言葉が出なかった。そういうつもりで言ったわけじゃなかった。ただ、似ていると思っただけだった。でも十二歳のアイには、その言葉が母にどう届くか、考える力がなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」と母は言った。穏やかな声だった。「子供だったんだから。それに、あながち間違ってもなかったし」
「間違ってなかった?」
「待ってたのは本当だから」
母はまたコーヒーを一口飲んだ。それ以上は言わなかった。アイも何も言えなかった。
トーストが冷めていた。
学校へ行く時間になって、アイは鞄を持って玄関へ向かった。母が「いってらっしゃい」と言った。アイは「いってきます」と言って、ドアを開けた。
曇り空の下、肌寒い風が吹いていた。
アイは歩きながら、母の言葉を反芻した。待ってたのは本当だから。その言葉の重さを、どこかに置きたかったけれど、置ける場所が見つからなかった。
鞄の中に、星見エリスの本が入っていた。
帰れなかった者のために書いた、という言葉が、また頭の中で繰り返された。
その週の金曜日、カイトから連絡が来た。
「今日、店終わりに少し話せる?」
珍しいと思った。カイトから「話せる?」と連絡が来ることはほとんどない。アイの方から押しかけて、カイトが付き合う、というのがいつものパターンだった。
「いいよ」と返信した。
閉店後のカフェは静かだった。ユナはもう帰っていて、カイトが椅子を逆さに机の上に乗せながら片付けをしていた。アイはカウンターの端の椅子に座って待った。
「何、話って」
カイトは片付けの手を止めないまま言った。
「星見エリスって知ってる?」
アイは少し驚いた。
「知ってる。なんで」
「店に来たお客さんが話してたんだよ。最近また新刊出たとかで」
「新刊」
「うん。なんか久しぶりらしくて、話題になってるって」
アイは棚の方を見た。「夜に降る雪」はまだそこにあった。アイが借りていったのは別の一冊で、棚に残っていたものだ。
「読んだことある、星見エリス」とカイトが聞いた。
「最近読んだ。棚にあったやつ」
「どうだった」
アイはしばらく考えた。
「刺さった」
カイトは片付けの手を止めて、アイを見た。
「珍しいね、そういう言い方するの」
「お母さんがそう言ってたから借りた」
「お母さんが?」
「星見エリスを読んだことがあるって。刺さったって言ってた」
カイトはまた手を動かし始めた。椅子を一脚ずつ、丁寧に机の上に乗せていく。その手つきを見ながら、アイは続けた。
「あの作家、何者なんだろうって思って」
「調べてないの?」
「調べたけど、あまり情報がなかった。覆面作家みたいで、顔も本名も公開してないから」
「へえ」
「文体が独特で、読んでると息が詰まる感じがする。でも離せない」
カイトは最後の椅子を机に乗せて、カウンターの中に入った。グラスを磨きながら言った。
「それ、好きってことじゃないの」
「好きと刺さるは違う」
「どう違うの」
アイは少し考えた。
「好きは、心地いい感じ。刺さるは、痛い感じ。でも痛いのにやめられない」
カイトはグラスを磨く手を止めて、アイを見た。何か言いたそうな顔をして、でも何も言わなかった。また手を動かし始めた。
「ドビュッシーみたいだね」とアイは言った。
「何が」
「月の光。綺麗だけど、聴いてると少し苦しい。でも聴きたくなる」
カイトはグラスをカウンターに置いた。それからピアノの方を見た。カフェの隅に置かれたアップライトピアノ。カイトが時々、閉店後に弾く。
「弾いてほしい?」
「弾いてくれるの?」
「たまにはいいかと思って」
カイトはピアノの前に座った。椅子の高さを調整して、鍵盤の蓋を開けた。少しの間、鍵盤を見ていた。
最初の音が鳴った。
月の光だった。
アイは目を閉じた。静かなカフェに、音楽だけが満ちていった。ドビュッシーの旋律は、本当に月みたいだと思う。光があるのに、どこか遠くて、触れると冷たそうで。
鞄の中の星見エリスの本のことを考えた。
帰れなかった者のために書いた。
その言葉と、月の光の旋律が、頭の中で重なった。
帰れなかった者は、どこへ行ったのだろう。帰れないまま、どこで何をしているのだろう。
カイトの指が鍵盤の上を動いていた。
アイはその音を聴きながら、自分でも気づかないうちに、父のことを考えていた。
星見エリスの新刊が出たのは、十一月の初めだった。
書店へ行ったのはアイ自身だ。カイトから聞いた話が頭に残っていて、授業が終わるとそのまま駅前の本屋へ向かった。文芸の棚を端から端まで見て回って、すぐに見つけた。
「冬の産声」。
白を基調にした表紙だった。前作の「夜に降る雪」と同じデザインだ。星見エリスの本はいつも白い表紙で、タイトルだけが細い字で入っている。余白が多くて、手に取るとひんやりした感じがする。
アイは表紙をめくった。
扉ページに、またあの一文があった。
「この物語は、帰れなかった者のために書いた」
前作と同じ言葉だった。
アイはその一行を見つめた。全作品に同じ言葉が入っているのだろうか。あるいはこれは、星見エリスにとって変わらない誓いのようなものなのだろうか。
帰れなかった者のために。
その言葉を書いた人間は、どんな顔をしているのだろう。
アイは本をレジへ持っていった。
家に帰って読み始めたのは夜だった。主人公は今度も少女だった。でも前作とは少し違う。今作の少女は、父親を探している。行方不明になった父親を探して、父親が最後にいた街を一人で歩き回る話だった。
読み進めるうちに、また息が詰まってきた。
少女が父親の痕跡を見つける場面があった。古い喫茶店のノートに、父親の字で書かれたメモが残っていた。少女はそれを見つけて、ページをめくることができなくなる。父親の字を、ただじっと見つめる。
アイは本を閉じた。
閉じないと、泣いてしまいそうだったから。
深呼吸した。天井を見た。電気スタンドの光が白く丸く、天井に映っていた。
父の字を、アイはまだ覚えているだろうか。
思い出そうとした。右利きで、少し癖のある字だったはずだ。でもどんな形だったか、具体的には思い出せない。子供の頃に見た年賀状や、メモ書きの断片が、ぼんやりと浮かぶだけだ。
本棚へ行った。
父の本棚の前に立って、一冊ずつ手に取った。見返しに父の名前が書いてある本があるかもしれないと思ったから。あるいは、読んでいた形跡でも。
三冊目に手に取った本の見返しに、鉛筆で書かれた一文があった。
「いつか、エリスに会いに行く」
アイは息を呑んだ。
父の字だった。癖のある、右に少し傾いた字。忘れていたと思っていたのに、見た瞬間にわかった。
いつか、エリスに会いに行く。
エリスとは誰のことだ。舞姫のエリスか。それとも別の誰かか。
アイは本を持ったまま、その場に座り込んだ。本棚の前の床に座って、その一文を見つめ続けた。
父が残した言葉。
いつか、エリスに会いに行く。
その言葉の意味が、まだわからなかった。
翌日、学校で上の空だった。
先生の声が遠く聞こえた。黒板の文字が見えているのに、頭に入ってこなかった。ノートを開いたまま、一文字も書けなかった。
「大丈夫?」
隣の席の友人が小声で言った。アイは「大丈夫」と答えた。大丈夫じゃなかったけれど、説明できることでもなかった。
放課後、カフェへ行った。
ユナが「アイちゃん顔色悪い」と言った。カイトは何も言わなかったけれど、いつもより少し視線をよこした。アイはいつもの席に座って、でも今日は本を出さなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
十一月の空は低くて、灰色だった。木々の葉がほとんど落ちて、枝だけになった銀杏が風に揺れていた。
「カイト」
カウンターの方へ声をかけた。
「なに」
「星見エリスの本、全部で何冊あるか知ってる?」
カイトは少し考えた。
「三冊か四冊じゃないかな。調べてみようか」
「いい、自分で調べる」
アイはスマートフォンを取り出した。検索窓に「星見エリス」と入れた。
公式サイトも、SNSも、顔写真も出てこなかった。出てくるのは書評サイトや本の紹介ページだけだった。著者プロフィールの欄には「日本在住。純文学を中心に執筆」とだけ書かれていた。
作品は四冊だった。
「夜が明ける前に」「夜に降る雪」「冬の産声」、そしてデビュー作の「帰り道」。
アイは「帰り道」のページを開いた。あらすじを読んだ。
父親と娘の話だった。
長い間離れていた父と娘が、ある夜偶然に再会する。でも二人はうまく話せない。積もった時間が重すぎて、言葉が出てこない。そのまままた別れる話だ。
アイはスマートフォンを置いた。
全部、同じだと思った。
星見エリスの作品には、いつも誰かとの別れがある。帰れない者がいる。待ち続ける者がいる。そして毎回、扉ページに同じ言葉が入っている。
帰れなかった者のために書いた。
この作家は、一体誰のために書き続けているのだろう。
「アイちゃん、これ」
ユナが温かいミルクティーをテーブルに置いた。「カイトさんが作って」とユナが言った。アイはカウンターの方を見た。カイトは背中を向けていた。
「ありがとう」とアイはカウンターに向かって言った。
カイトは振り返らずに「どういたしまして」と言った。
アイはミルクティーを両手で包んだ。温かかった。少しだけ、胸の中の硬い部分が緩んだ気がした。
窓の外で風が吹いた。枝だけになった銀杏が、激しく揺れた。
アイはミルクティーを一口飲んで、またスマートフォンを手に取った。「帰り道」を購入するボタンを押した。
今夜読もう、と思った。
「帰り道」を読み終えたのは、夜中の二時だった。
最後のページを閉じて、しばらく動けなかった。
父と娘が再会する場面。積もった時間の重さ。言葉が出てこない二人。そしてまた別れる瞬間。父が背中を向けて歩いていく、その最後の描写が、網膜に焼き付いたように消えなかった。
泣いていた。
気づいたら涙が出ていた。声は出さなかった。ただ頬を伝って、顎から落ちた。
なぜ泣いているのか、アイには正確にはわからなかった。小説が悲しかったのか、それとも別の何かが悲しかったのか。境目がわからなかった。
本を閉じて、電気スタンドを消した。暗い部屋で天井を見た。
父のことを思った。
最後に会ったのはいつだろう。離婚したのがアイが十二歳の時で、それから一度だけ会った記憶がある。どこかのファミリーレストランで、父と二人でご飯を食べた。何を話したか、ほとんど覚えていない。父がオムライスを食べていたことだけ、なぜか覚えている。
それから会っていない。
連絡も来ない。アイの方からもしていない。
父は今、どこにいるのだろう。何をしているのだろう。
星見エリスの本の中に、父がいる気がした。登場人物として、ではなく、もっと別の意味で。あの文体の中に、あの別れの描き方の中に、何か父に繋がるものがある気がして、でもそれが何なのか、まだ掴めなかった。
翌朝、母に聞いた。
朝食の準備をしている母の背中に向かって、できるだけ何でもない声で言った。
「お父さん、今どこにいるか知ってる?」
母の手が一瞬止まった。すぐにまた動き始めた。
「日本にいるんじゃないかな。小説家になったって聞いたことあるけど」
「小説家」
「うん。誰かから聞いた話だから、確かじゃないけど」
アイは息を整えた。
「ペンネームとか、知ってる?」
「知らない」
母は振り返らなかった。アイも母の背中を見続けた。
トーストが焼ける音がした。コーヒーメーカーが低く唸った。いつもと同じ朝の音。
「なんで急に」と母が言った。
「星見エリスの本を読んでたら、なんとなく」
母はまた手を止めた。今度は少し長い間、止まっていた。
「そう」とだけ言った。
それ以上は何も聞かなかった。アイも何も言えなかった。
トーストが皿に乗って、テーブルに置かれた。二人で向かい合って座った。母はコーヒーを飲んだ。アイはトーストを食べた。
いつもと同じ朝だった。
でも何かが、少しだけ変わった気がした。空気の中に、言葉にならない何かが漂っていた。母もそれを感じているような気がしたけれど、確かめる方法がなかった。
学校へ行く時間になった。
鞄を持って玄関へ向かいながら、アイはふと振り返った。母はまだテーブルに座って、コーヒーカップを両手で包んでいた。窓から薄い光が差し込んで、母の横顔を照らしていた。
待っているみたいだ、とアイは思った。
エリスみたいだ、と。
でも今度は、その言葉を口に出さなかった。
医者と出会ったのは、偶然だった。
十一月の半ばの、雨の午後だった。アイは図書館へ向かっていた。傘を差して、人の少ない路地を歩いていた。
曲がり角のところで、老人とぶつかりそうになった。
「失礼」と老人が言った。深みのある声だった。
「すみません」とアイが言った。
老人は傘を差していなかった。白髪で、背筋が真っ直ぐで、どこか時代がかった雰囲気の人だった。コートの襟を立てて、雨の中を平然と歩いていた。濡れることを気にしていないようだった。
「図書館へ行くのかね」と老人が言った。
アイは驚いた。なぜわかったのだろう。
「そうですけど」
「この時間、この路地を傘を差して歩く学生は、大抵図書館か本屋へ行く」
老人は穏やかに笑った。しわが深くて、でも目が若かった。
「君は本を読むのが好きかね」
「好きです」
「何を読む」
「最近は星見エリスと、森鴎外を」
老人の目が、少し変わった。笑ったまま、でも何かが揺れたような気がした。
「森鴎外」と老人は繰り返した。「舞姫かね」
「はい。何度も読みます」
「なぜ」
アイは少し考えた。見知らぬ老人に話すことでもないかもしれないと思いながら、でも口が動いた。
「エリスのことが気になるから。捨てられた後、どんな気持ちだったんだろうって」
老人はしばらく黙っていた。雨が傘を叩く音がした。
「エリスは、捨てられたとは思っていなかったかもしれない」と老人は言った。
「どういう意味ですか」
「豊太郎が去ったのは、エリスを愛していなかったからではない。愛していたから、余計に傷つけた。エリスはそれを、わかっていたかもしれない」
アイは老人を見た。
「でもわかっていても、壊れてしまった」
「そうだね」と老人は言った。「わかっていても、壊れることはある。それが人間というものだ」
老人は空を見上げた。雨が降り続いていた。
「君のお父上は、どんな方かね」
アイはまた驚いた。なぜ父の話になるのだろう。
「知りません。会っていないので」
「そうか」
「おかしいですか」
「少しも」と老人は言った。「会えない父を持つ子供は、世界中にいる。それぞれが、それぞれのやり方で折り合いをつけて生きている」
折り合い。
アイはその言葉を口の中で転がした。折り合い。自分は折り合いをつけているのだろうか。ただ、考えないようにしているだけではないのだろうか。
「あなたは誰ですか」とアイは聞いた。
老人は微かに笑った。
「医者だよ。ただの通りすがりの医者だ」
「なんでそんなに、舞姫に詳しいんですか」
「好きだからさ」と老人は言った。「昔から、好きな話だ」
それだけ言って、老人は歩き始めた。傘も差さずに、雨の中を真っ直ぐ歩いていった。アイはその背中を見送った。
白髪が雨に濡れていた。
しばらく立ち尽くしてから、アイはまた歩き始めた。図書館へ向かいながら、老人の言葉を反芻した。
エリスは、捨てられたとは思っていなかったかもしれない。
豊太郎が去ったのは、愛していたから、余計に傷つけた。
アイはその言葉を、父に当てはめてみた。
父が去ったのも、愛していたから、だったのだろうか。
愛していたから、余計に傷つけた、ということなのだろうか。
図書館のドアを押した。温かい空気が流れてきた。雨の音が遠くなった。
アイは濡れた傘を傘立てに入れて、文芸の棚へ向かった。
森鴎外の全集が並んでいた。分厚い背表紙が、静かに光を反射していた。
アイはその前に立って、しばらく動けなかった。
カイトにその話をしたのは、三日後だった。
閉店後のカフェ、カイトがグラスを磨いている横で、アイは老人との会話を話した。できるだけ正確に、言葉を選びながら。
カイトは黙って聞いていた。
「おかしいと思う?」とアイは言った。「見知らぬ老人と、雨の中でそんな話をするなんて」
「おかしくないよ」とカイトは言った。「アイらしいと思う」
「どうして」
「本のことになると、誰とでも話せるじゃない。アイって」
アイは少し考えた。確かにそうかもしれない。本の話なら、相手が誰でも、言葉がするりと出てくる。
「その人、また会えると思う?」とカイトが聞いた。
「わからない。通りすがりって言ってたから」
「でも同じ街にいるんでしょ」
「そうだけど」
カイトはグラスを棚に戻した。別のグラスを手に取った。
「その人が言ってたこと、どう思った。エリスは捨てられたと思っていなかった、っていう話」
アイは窓の外を見た。夜の街が濡れて光っていた。さっき少し雨が降ったのだ。
「わからない」とアイは言った。「でも、ずっと頭に残ってる」
「なんで残ってるんだと思う?」
「多分」とアイは言ってから、少し止まった。「父のことを考えるから」
カイトは何も言わなかった。グラスを磨き続けた。アイはカウンターの端の椅子に座って、自分の手を見た。
「父が出て行ったのも、愛していたからかもしれないって、思いたいのかな」とアイは言った。「思いたいのか、思いたくないのか、自分でもわからないけど」
「どっちでもいいんじゃない」とカイトが言った。
「どっちでも?」
「理由がわかっても、変わらないことはある。お父さんが出て行った事実は変わらない。アイが傷ついた事実も変わらない。理由が何であっても」
アイはカイトを見た。カイトはグラスを磨きながら、どこか遠くを見ていた。
「カイトって、そういうこと考えるんだ」
「たまに」
「ピアノを弾いてる時も?」
カイトは少し間を置いた。
「弾いてる時は何も考えない。ただ弾くだけ」
「羨ましい」
「何が」
「何も考えない時間があることが」
カイトはアイを見た。少しの間、目が合った。それからカイトは目を逸らして、また手を動かした。
「弾こうか」と言った。
「え?」
「ピアノ。弾いたら少しは空っぽになるかもしれない」
アイは少し笑った。久しぶりに笑った気がした。
「お願いしていい?」
カイトは答える代わりに、ピアノの椅子に座った。鍵盤の蓋を開けた。少しの間、鍵盤を見た。
最初の音が鳴った。
月の光だった。
アイは目を閉じた。音楽が静かなカフェに満ちていった。雨上がりの夜、窓の外に街灯が光っていた。ドビュッシーの旋律が、空気の中に溶けていった。
何も考えなかった。
ただ、音だけがあった。
カイトの指が鍵盤の上を流れていた。アイはその音を聴きながら、少しだけ息ができた気がした。
十二月になった。
街がクリスマスの飾りで溢れ始めた。カフェにも小さなツリーが置かれた。ユナが「かわいい!」と声を上げて、カイトが「うるさい」と言った。
アイは変わらずカフェへ来て、本を読んだ。
星見エリスの四冊を、全て読み終えていた。どれも白い表紙で、どれも扉ページに同じ言葉が入っていて、どれも誰かとの別れが描かれていた。
読み終えるたびに、同じ問いが浮かんだ。
この作家は誰なのだろう。
何のために、帰れなかった者のために書き続けているのだろう。
ある日の放課後、図書館で調べていると、古い文芸誌に星見エリスのインタビューが載っているのを見つけた。デビューした年のものだから、十年近く前の記事だった。
顔写真はなかった。でも言葉はあった。
インタビュアーの質問に答える形式で、星見エリスはこんなことを言っていた。
「私が書くのは、謝罪の代わりです。直接謝れない相手がいる。その人に届けるつもりで書いています。届かなくてもいい。ただ、書かずにいられない」
アイはその一節を、ノートに書き写した。
謝罪の代わり。
直接謝れない相手。
アイの手が止まった。
直接謝れない相手、という言葉が頭から離れなかった。星見エリスには、謝れない誰かがいる。その人への謝罪として、四冊の小説を書いた。
帰れなかった者のために、という言葉の意味が、少しだけ変わって見えた。
帰れなかった者とは、書いた側のことかもしれない。
謝れない側の、帰れなかった者。
アイはノートを閉じた。図書館の窓から外を見た。十二月の空は澄んでいて、青く高かった。
父の本棚の、あの一文が浮かんだ。
いつか、エリスに会いに行く。
星見エリス。
エリスに会いに行く。
アイは息を止めた。
まさか、と思った。
そんなはずはない、と思った。
でも一度浮かんだ考えは、もう消えなかった。
父が小説家になったと、母は言っていた。ペンネームは知らないと言っていた。星見エリスは顔も本名も公開していない。謝れない相手への謝罪として書いている。帰れなかった者のために。いつか、エリスに会いに行く。
全てのピースが、一つの形に向かって動こうとしていた。
アイはスマートフォンを取り出した。カイトにメッセージを送った。
「今日、カフェ行く」
すぐに既読がついて、「来な」と返ってきた。
アイは荷物をまとめて立ち上がった。図書館を出ると、冷たい風が吹いていた。
空が青かった。
高くて、遠い、十二月の青空。
アイは足を速めた。カフェへ向かいながら、頭の中で言葉が回り続けた。
星見エリスは、父かもしれない。
その考えが、怖かった。
正しいことも怖かった。間違っていることも怖かった。どちらであっても、何かが変わってしまう気がした。
カフェのドアを押すと、ドビュッシーが流れていた。
ユナが「いらっしゃいませー」と大きな声で言った。カイトが「また来た」と言った。
アイはいつもの席に座った。
窓の外に、冬の空があった。
カイトに話したのは、その日の閉店後だった。
全部話した。
星見エリスのインタビュー記事のこと。謝罪の代わりに書いているという言葉のこと。父の本棚の「いつか、エリスに会いに行く」という一文のこと。父が小説家になったという母の話のこと。
カイトは黙って聞いていた。グラスを磨く手が、途中で止まった。
話し終えて、アイは息を吐いた。
「おかしいかな」と言った。「考えすぎかな」
カイトはしばらく黙っていた。
「確かめたい?」とカイトが言った。
「確かめる方法があるかどうかも、わからない」
「お母さんに聞くとか」
「聞いたら、傷つけるかもしれない」
「アイが傷つく?」
「お母さんが」
カイトは頷いた。
「じゃあ、自分で調べる?」
「調べ方がわからない。星見エリスは情報を公開してないから」
カイトはグラスを棚に戻した。カウンターに両手をついて、アイを見た。
「もし本当だったら、どうする?」
アイは答えられなかった。
もし星見エリスが父だったら。父がずっと、アイへの謝罪として小説を書き続けていたとしたら。
怒ればいいのか、泣けばいいのか、会いに行けばいいのか。
何もわからなかった。
「まだわからない」とアイは言った。
「それでいいと思う」とカイトは言った。「わからないまま、少しずつ近づいていけばいい」
アイはカイトを見た。
「カイトって、いつからそんなに落ち着いてるの」
「落ち着いてないよ」
「落ち着いて見える」
カイトは少し苦い顔をした。何か言いかけて、やめたようだった。
「月の光、弾こうか」と言った。
「また?」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
「弾く」
カイトはピアノの椅子に座った。鍵盤の蓋を開けた。
アイは椅子に深く座り直した。目を閉じた。
最初の音が鳴った。
いつもと同じ旋律だった。でも今日は少し違って聞こえた。同じ曲なのに、聴く日によって聞こえ方が変わる。本と同じだ、とアイは思った。同じ本でも、読む時期によって全然違う本になる。
月の光が流れた。
アイは音の中で、父のことを考えた。
星見エリスが父であるとしたら、父はずっとアイのために書いていたことになる。届かないかもしれない言葉を、それでも書き続けていたことになる。
そう思うと、星見エリスの本の文体が、違って見えてくる気がした。あの静かで、少し苦しい文体。息が詰まる感じ。それは謝罪の言葉だったのかもしれない。直接言えない、だから小説にした言葉。
月の光が終わった。
カフェに静寂が戻った。
「ありがとう」とアイは言った。
カイトは振り返らなかった。鍵盤を見たまま、少しの間黙っていた。
「アイ」とカイトが言った。
「なに」
「どんな結果でも、ここに来ていい」
アイは何も言えなかった。
カイトはそれ以上何も言わなかった。鍵盤の蓋を閉めて、立ち上がった。片付けの続きを始めた。
アイは窓の外を見た。
十二月の夜、街灯が冷たい光を落としていた。
どんな結果でも、ここに来ていい。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
確信を持ったのは、年が明けてからだった。
一月の初め、アイは図書館でもう一度、星見エリスの資料を漁った。古い書評、出版社のプレスリリース、文芸誌の短い紹介文。全てを読んだ。
その中に、一行あった。
デビュー作「帰り道」の出版社のプレスリリースに、こんな一文が入っていた。
「著者は長年海外に在住した後、帰国。本作はその経験を基に書かれた」
長年海外に在住した後、帰国。
アイの父は、海外出張から帰ってこなかった。そのまま離婚した。それから何年か経って、日本に帰ってきたという話を、母から聞いていた。
全てが繋がった。
アイは図書館の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
星見エリスは、父だ。
確信はなかった。証拠もなかった。でも、これだけのピースが揃って、別の答えを考えることができなかった。
父は帰ってきていた。
日本にいた。小説を書いていた。アイへの謝罪として、書き続けていた。
いつか、エリスに会いに行く、という言葉を残して。
アイはノートを閉じた。鞄を持って立ち上がった。図書館を出ると、一月の風が吹きつけてきた。冷たくて、鋭い風だった。
どうすればいい、とアイは思った。
会いに行けばいいのか。
でも、どこにいるかわからない。
出版社に問い合わせればわかるかもしれない。でもそれは、父が望んでいることなのか。情報を公開しないのは、会いたくないからかもしれない。
あるいは。
会いたいけれど、会いに行けないからかもしれない。
帰れなかった者、という言葉が浮かんだ。
父は帰れなかった者だ。アイのところへ帰れなかった者。だから小説の中に謝罪を込めて、書き続けている。
アイは立ち止まった。
冷たい風の中、一人で立っていた。
どうすればいいのか、まだわからなかった。
ただ、一つだけわかったことがあった。
父は、アイのことをずっと思っていた。
それだけは、確かだと思った。
出版社に問い合わせたのは、一月の末だった。
メールを書くのに三日かかった。何度書いても、言葉がうまく出てこなかった。短すぎると失礼な気がして、長すぎると読んでもらえない気がして、何十回も書き直した。
最終的に送ったのは、こういう内容だった。
「星見エリス先生の作品を愛読しています。先生にお手紙をお送りしたいのですが、転送していただくことは可能でしょうか」
送信ボタンを押した後、後悔した。
こんなことをして、何になるのだろう。父かどうかもわからない。もし父だったとして、会いたいと思っているかどうかもわからない。
でも送ってしまったのだから、もう戻れなかった。
返信が来たのは、一週間後だった。
「ご愛読ありがとうございます。著者への郵便物はお受けしておりますが、転送をお約束することはできません。なお、著者より直接ご連絡を差し上げることも難しい状況です。ご了承ください」
そっけない文面だった。
でも受け付けてはもらえるらしい。
アイはまた三日かけて、手紙を書いた。
何を書けばいいかわからなかった。本の感想を書いた。どの場面が好きか、どの言葉が刺さったか。そして最後に、一行だけ付け加えた。
「もしかしたら、あなたのことを知っているかもしれません」
それだけ書いて、封をした。
郵便局へ行って、出版社宛に送った。
ポストに入れた瞬間、心臓が跳ねた。
もう戻れない、と思った。
カフェへ行ったのは、その日の夕方だった。
ユナが「アイちゃん今日なんか顔が赤い」と言った。カイトは何も言わなかったけれど、コーヒーを一杯作ってテーブルに置いてくれた。
アイはコーヒーを飲みながら、本を開いた。
舞姫だった。
何度読んだかわからない、黄ばんだ文庫本。父の本棚から抜き取ったまま、何年も読み続けている本。
豊太郎がエリスのもとを去る場面を開いた。
何度読んでも、ここが一番苦しい。豊太郎はエリスを愛していた。愛していたのに、去った。理由は複雑で、社会的な事情もあって、単純に悪者とは言えない。それでも、エリスは壊れた。
愛していたから余計に傷つけた、という老人の言葉が浮かんだ。
あの通りすがりの医者。雨の中で、傘も差さずに歩いていた白髪の老人。
エリスは、捨てられたとは思っていなかったかもしれない。
アイはページをめくる手を止めた。
もし父が星見エリスなら、父は四冊の小説でアイに謝り続けていたことになる。言葉にできなかった謝罪を、活字に変えて、届くかどうかもわからないまま書き続けていたことになる。
それは、愛していたから、ということにならないだろうか。
愛していたから、直接会えなかった。愛していたから、小説の中にしか謝罪を込められなかった。
アイはわからなかった。
それを愛と呼んでいいのか、わからなかった。
でも手紙は送ってしまった。
あとは待つだけだった。
二月になった。
手紙を送ってから三週間が経った。返事は来なかった。
アイは待った。
毎日ポストを確認した。何も来ない日が続いた。来るはずがないかもしれない、と思った。出版社が転送するとも限らない。転送したとしても、父がアイからの手紙だと気づくとも限らない。気づいたとしても、返事を書くとも限らない。
それでも待った。
学校へ行って、カフェへ寄って、家へ帰って、ポストを確認する。それが毎日の習慣になった。
ユナが「アイちゃん最近ポストをよく見てる気がする」と言った。鋭いなと思った。
「手紙を待ってる」とアイは答えた。
「誰から?」
「遠くにいる人から」
ユナはにっこり笑った。「ラブレターですか」と言った。アイは「違う」と言った。
カイトは何も言わなかった。
でもその日の閉店後、カイトがアイに聞いた。
「返事、来た?」
「まだ」
「そっか」
「来ないかもしれない」
「そうかもしれない」
カイトは正直だと思った。大丈夫だよとか、きっと来るよとか、そういうことを言わない。ただ、そうかもしれない、と言う。それがアイには、ありがたかった。
「来なかったら、諦める?」とカイトが聞いた。
アイはしばらく考えた。
「諦めるっていうか」とアイは言った。「それが答えなんだと思う。来ないことが」
「来なくても、星見エリスが父親だって可能性は残るけど」
「そうだけど、確かめる術がなくなる」
カイトは頷いた。
「どっちにしても、アイはどうしたいの」
「会いたい」
言葉が出てから、アイは自分でも驚いた。
会いたい、という気持ちが自分の中にあるとは、はっきりとは思っていなかった。怖いとか、わからないとか、そういう気持ちの方が大きいと思っていた。
でも口から出たのは、会いたい、という言葉だった。
「会って、何を言いたい?」とカイトが聞いた。
アイはまた考えた。
怒りたいのか。泣きたいのか。謝罪を求めたいのか。
どれも違う気がした。
「ただ、顔を見たい」とアイは言った。「それだけかもしれない」
カイトはそれを聞いて、何も言わなかった。
ただピアノの方を見て、それから窓の外を見た。
二月の夜、街が静かに光っていた。
返事が来たのは、三月の初めだった。
封筒は白くて、差出人の名前がなかった。消印だけがあった。東京のどこかの郵便局の消印だった。
アイはポストの前でしばらく立っていた。
封筒を持つ手が震えていた。
家の中に入って、テーブルに座った。封筒を前に置いて、しばらく見つめた。開けるのが怖かった。開ければ何かが変わる。変わってしまう。
深呼吸した。
封を切った。
中には便箋が一枚入っていた。手書きだった。
右に少し傾いた、癖のある字だった。
アイは震える目でそれを読んだ。
「手紙を受け取りました。読みました。あなたが誰かは、わかりました。会いたいと思っています。ただ、会う資格が自分にあるのかどうか、わかりません。それでも会ってくれるなら、場所と時間を指定してください」
それだけだった。
署名はなかった。
アイは便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
字を見ていた。右に少し傾いた字。子供の頃に見た、年賀状やメモ書きと同じ字。記憶の中の字と、今目の前にある字が、ゆっくりと重なった。
父だ、と思った。
確信した。
涙が出た。声は出なかった。ただ涙が出て、便箋に落ちた。父の字の上に、丸い染みができた。
アイはしばらくそのまま泣いた。
なぜ泣いているのか、今度はわかった。
会えるからだ。
怖かったけれど、会えるからだ。
母には言わなかった。
言えなかった。
父と会う、と言ったら、母がどんな顔をするかわからなかった。傷つけるかもしれなかった。止められるかもしれなかった。
カイトには言った。
「返事が来た」とだけ言ったら、カイトは「そっか」と言った。
「会うことになると思う」と言ったら、カイトは「どこで」と聞いた。
「まだ決めてない。どこがいいと思う」
カイトは少し考えた。
「カフェ以外がいいんじゃない」
「なんで」
「ここはアイの場所だから。お父さんを入れる必要はない」
アイはカイトを見た。
カイトは真剣な顔をしていた。普段はあまり感情を表に出さないカイトが、今は少し険しい顔をしていた。
「カイトは、私が父に会うの、反対?」
「反対じゃない」とカイトは言った。「ただ、アイを傷つける人間を近くに置きたくない」
アイはしばらく黙っていた。
カイトがそういうことを言うのは珍しかった。いつも静かで、アイの選択を尊重して、余計なことを言わないカイトが。
「ありがとう」とアイは言った。
カイトは「どういたしまして」と言って、また手を動かし始めた。
アイは窓の外を見た。
三月の空はまだ冷たかったけれど、光の色が少しだけ変わっていた。冬の光より、柔らかい色になっていた。
場所は、公園にしようと思った。
広くて、出口がたくさんあって、いつでも立ち去れる場所。
アイは父への返信を書いた。
「来週の土曜日、午後二時。〇〇公園の、噴水の前で待っています」
土曜日の朝、目が覚めたのは六時だった。
眠れなかったわけじゃない。ちゃんと眠ったはずなのに、六時に目が覚めた。
天井を見た。
今日、父に会う。
その事実が、胸の中にずんと落ちた。
起き上がって、顔を洗った。鏡の中の自分を見た。いつもと変わらない顔だった。変わらないのが少し不思議だった。これだけ大きなことが起きようとしているのに、顔は同じだった。
朝食を作った。母はまだ眠っていた。土曜日だから、ゆっくり起きてくる。
トーストを一枚食べた。味がよくわからなかった。コーヒーを飲んだ。温かさだけがわかった。
母が起きてきたのは、八時過ぎだった。
「おはよう」と母が言った。
「おはよう」とアイが言った。
母は冷蔵庫を開けて、オレンジジュースを取り出した。グラスに注いで、テーブルに座った。
「今日、出かけるの?」と母が聞いた。
「うん、ちょっと」
「どこへ」
「友達と」
嘘をついた。
母は「そう」と言って、ジュースを飲んだ。それ以上は聞かなかった。
アイは母を見た。
土曜日の朝の母。パジャマ姿で、髪を一つに結んで、ジュースを飲んでいる。いつもの母。何年も変わらない、いつもの母。
この人が、エリスだと思っていた。
捨てられた女、と思っていた。
でも母は捨てられても立っていた。待ち続けながらも、ちゃんと生きていた。タッパーにシチューを入れて冷蔵庫に入れておける人だった。
エリスとは、違う。
じゃあエリスは誰か。
今日、その答えが変わるかもしれないとアイは思った。
「いってきます」と言って、立ち上がった。
「いってらっしゃい」と母が言った。
ドアを閉めた。
三月の空は青かった。風が冷たかったけれど、光は春に近かった。
アイは歩き始めた。
公園まで、三十分かかる。
噴水の前に着いたのは、一時五十分だった。
十分早かった。
噴水は冬の間止まっていて、水が出ていなかった。石の縁に、枯れ葉が積もっていた。周りのベンチに何人かが座っていた。犬を連れた老人、スマートフォンを見ている若者、弁当を食べているカップル。
誰が父か、わからなかった。
アイは噴水の縁の一角に立って、入り口の方を見た。
時計を見た。一時五十五分。
深呼吸した。
心臓が速かった。手が冷たかった。鞄の中に、舞姫が入っていた。お守り代わりに持ってきた。何度も読んだ文庫本、父の本棚から抜き取った本。
二時になった。
人が来た。
入り口から、一人の男が入ってきた。
コートを着た、五十代くらいの男。背が高くて、少し猫背で、キョロキョロと周りを見ていた。目が合った。
男が立ち止まった。
アイも立ち止まった。
遠くて顔がよく見えなかった。でも、何かが来た。胸の奥から、何かが込み上げてきた。言葉にならない何かが。
男がゆっくり近づいてきた。
十メートル。五メートル。三メートル。
顔が見えた。
知らない顔だった。でも知っている顔だった。子供の頃の記憶の中にある顔と、目の前の顔が、少しずつ重なっていった。
男が止まった。アイの前、二メートルのところで。
「アイ」と男が言った。
声を聞いた瞬間、泣きそうになった。
堪えた。
「お父さん」とアイは言った。
二人はベンチに座った。
噴水から少し離れたベンチだった。誰もいなかった。風が吹いて、枯れ葉が転がった。
しばらく、何も言えなかった。
父は膝の上に手を置いて、前を向いていた。アイも前を向いていた。二人で、止まった噴水を見ていた。
最初に口を開いたのは父だった。
「大きくなったな」
アイは何も言わなかった。
「最後に会ったのは、いつだったか」
「ファミリーレストラン」とアイは言った。「私が十三歳の時。お父さんはオムライスを食べてた」
父は少し驚いた顔をした。
「覚えてるのか」
「オムライスだけ」
父は少し笑った。泣きそうな笑いだった。
「そうか」
また沈黙が来た。
アイは鞄の中の舞姫の感触を確かめた。文庫本の固い背表紙。何度も読んだから、少し角が丸くなっている。
「手紙を読んだ」と父が言った。
「うん」
「本の感想が、丁寧に書いてあった」
「好きだから」
「どの作品が好きか」
「全部。でも一番は、帰り道」
父の手が、膝の上でわずかに動いた。
「なぜ」
「父と娘の話だから」とアイは言った。「再会して、また別れる話」
父は何も言わなかった。
風が吹いた。枯れ葉が舞った。どこかで鳥が鳴いた。
「あなたが星見エリスだって、思ってた」とアイは言った。
父はゆっくり頷いた。
「そうだ」
確認したことで、何かが崩れた気がした。崩れて、でも同時に、何かが固まった気もした。
「なんでエリスっていうペンネームにしたの」とアイは聞いた。
父はしばらく黙った。
「背負うためだ」と父は言った。「エリスという名前を背負って生きるために」
「誰のエリスを」
「お前の」
アイは息を止めた。
「私はエリスじゃない」
「俺が捨てた」と父は言った。静かな声だった。「お前を。家族を。捨てて出て行った。豊太郎と同じことをした」
「豊太郎はエリスを捨てた。私はエリスじゃない」
「俺にとっては」と父は言った。「お前が、エリスだった」
アイは前を向いたまま、目を閉じた。
胸が痛かった。
父にとって、アイがエリスだった。捨ててしまった、大切な存在。帰れない場所にいる、かみさまみたいな存在。
いつか、エリスに会いに行く、と書いた言葉。
今日、父はエリスに会いに来た。
「本棚に書いてあった」とアイは言った。「お父さんの本の見返しに。いつか、エリスに会いに行く、って」
父は目を細めた。
「覚えていたのか、あの本棚」
「全部残ってた。お父さんの本が、全部」
父は少しの間、何も言わなかった。
「捨てなかったのか」
「捨てられなかった」
また沈黙が来た。
今度はさっきよりも、重い沈黙だった。でも不思議と、苦しくなかった。重くて、でも温かい沈黙だった。
「舞姫が好きなのか」と父が聞いた。
「お父さんの本棚にあったから読んだ。何度も読んだ」
「どこが好きか」
「エリスのところ」とアイは言った。「エリスがどんな気持ちだったか、ずっと考えてた」
「どんな気持ちだと思う」
アイはしばらく考えた。
「最初はお母さんのことだと思ってた。エリスはお母さんみたいだって」
父の顔が、わずかに動いた。
「でも違った」とアイは続けた。「お母さんはエリスじゃなかった。お母さんは、ちゃんと立ってた。捨てられても、壊れなかった」
「そうだな」と父は言った。静かな声だった。「お前の母親は、強い人だ」
「うん」
「俺よりずっと」
アイは父を見た。横顔だった。五十代の男の横顔。子供の頃に見ていた父の顔より、ずっとしわが増えていた。疲れているように見えた。でも目だけは、記憶の中の父と同じだった。
「エリスは誰だったんだろう」とアイは言った。「舞姫の」
「豊太郎が愛した人だ」
「捨てられた人」
「そうだ」
「でもある人が言ってた」とアイは言った。「捨てられたとは思っていなかったかもしれないって」
父は少し驚いた顔をした。
「誰が言った」
「通りすがりの医者。雨の日に、路地で会った老人」
父は何か言いかけて、やめた。不思議な顔をして、それから前を向いた。
「賢い人だな、その医者は」
「舞姫のことをよく知ってた」
「そうか」
風がまた吹いた。三月の風はまだ冷たかったけれど、どこかに春の匂いが混じっていた。
「エリスは」とアイは言った。「捨てられたと思っていなかったのかもしれない。豊太郎が行ってしまったのは、愛していたからだって、どこかでわかっていたのかもしれない」
父は黙っていた。
「それでも壊れたけど」とアイは続けた。「わかっていても、壊れることはある。それが人間だって、その医者は言ってた」
「そうだな」と父は言った。
「私は壊れなかった」とアイは言った。
父がアイを見た。
「お前は」
「壊れなかった。お父さんがいなくても、ちゃんと生きてた。本を読んで、カフェへ行って、友達と話して、ちゃんと生きてた」
父は何も言えないようだった。
「だから私はエリスじゃない」とアイは言った。「お父さんにとってはそうかもしれないけど、私は違う」
父の目が、赤くなっていた。
「そうだな」と父はやっと言った。「お前は、エリスじゃなかった」
アイは前を向いた。
止まった噴水を見た。
春になれば、また水が出るだろう。冬の間止まっていても、春になれば動き出す。そういうものだと思った。
「また出て行くの」とアイは聞いた。
唐突な質問だと思った。でも聞きたかった。
父は少しの間、黙っていた。
「来月、また海外へ行く」と父は言った。
「そう」
「仕事で。長くなるかもしれない」
「何年も?」
「わからない」
アイは頷いた。
また別れるのだ、と思った。再会して、また別れる。帰り道の、父と娘みたいに。
「書き続けるの」とアイは聞いた。「小説を」
「書くつもりだ」
「誰かのために?」
父は少し考えた。
「ずっとお前のために書いていた」と父は言った。「届かないと思いながら、それでも書いていた」
「届いた」とアイは言った。
父が顔を上げた。
「届いたよ」とアイは繰り返した。「読んだから。全部読んだ。刺さった」
父の目から、涙が一粒落ちた。
五十代の男が、公園のベンチで泣いていた。声も出さずに、ただ涙だけが流れた。アイはそれを見ていた。泣き方が自分に似ていると思った。声を出さずに、ただ涙だけが出る。
アイも泣いていた。
気づいたら、涙が出ていた。
二人で、止まった噴水を見て泣いた。
声はなかった。ただ涙だけがあった。
三月の風が吹いた。ベンチの周りの枯れ葉が、くるくると舞った。
どのくらいそうしていたか、わからなかった。
やがて父が目を拭いた。アイも袖で目を拭いた。
「星見エリスのペンネーム」とアイは言った。「これからも使うの」
「どうだろう」と父は言った。「お前に会えたから、変えようかと思っている」
「変えなくていい」
父がアイを見た。
「エリスを背負って書いていたんでしょ」とアイは言った。「それが書く理由だったんでしょ。変えなくていい。ただ、もう私のためじゃなくていい」
「じゃあ、誰のために書く」
アイは少し考えた。
「帰れなかった者のために、って扉ページに書いてあった。それでいいんじゃない。帰れなかった全ての人のために」
父はしばらくアイを見ていた。
それから静かに、頷いた。
帰る時間になった。
二人でベンチを立った。噴水の前まで歩いた。止まった噴水の縁に、三月の光が落ちていた。
「また会えるか」と父が聞いた。
「わからない」とアイは言った。
「そうか」
「でも手紙は書けると思う」
「それで十分だ」と父は言った。
十分じゃないかもしれない、とアイは思った。でも今は、これが精一杯だった。
父が先に歩き始めた。出口の方へ向かっていく背中を、アイは見ていた。
コートの背中。少し猫背の、五十代の男の背中。
子供の頃に見た背中より、小さくなっていた。
父が出口のところで振り返った。
アイは手を振らなかった。父も振らなかった。ただ目が合った。一秒か二秒、目が合って、それから父は出口の向こうへ消えた。
アイは一人になった。
公園に、一人で立っていた。
止まった噴水を見た。
枯れ葉が積もった石の縁。冬の間ずっと止まっていた噴水。春になれば動き出すけれど、今はまだ止まっている。
鞄の中の舞姫を取り出した。
表紙を見た。黄ばんだ文庫本。父の本棚にあった本。何年も読み続けた本。
ページを開いた。
エリスが壊れる場面を、もう一度読んだ。
今まで何度も読んだ場面。エリスが捨てられて、豊太郎が去って、エリスが壊れる場面。
読みながら、気づいた。
今まで、エリスを外側から見ていた。
お母さんに似ている、捨てられた人、可哀想な人、と思いながら読んでいた。ずっと外側から、エリスを見ていた。
でも今、初めて気づいた。
エリスは、アイだった。
父にとってのエリスがアイだったというだけでなく、アイ自身がエリスだった。父を待っていた。気づかないまま、ずっと待っていた。本を読みながら、カフェへ行きながら、壊れなかったふりをしながら、どこかで父が帰ってくるのを待っていた。
待っていたのは、母だけじゃなかった。
アイ自身も、エリスだった。
でも今日、父に会った。
エリスは会えなかったけれど、アイは会えた。
それが、舞姫とアイの物語の違いだった。
本を閉じた。
空を見上げた。
三月の空は青かった。高くて、遠い、青空。
どこかで鳥が鳴いた。
風が吹いた。
アイは深呼吸した。
冷たい空気が肺に入ってきた。それから、ゆっくりと吐いた。
また来よう、と思った。
春になって、噴水が動き出したら、また来よう。
その時はもう、舞姫を持ってこなくていいかもしれない。
四月になった。
桜が咲いた。
カフェの窓から見える桜並木が、淡いピンクに染まっていた。ユナが「きれい!」と言って窓に張り付いた。カイトが「仕事しろ」と言った。
アイはいつもの席に座っていた。
テーブルの上に、本が一冊あった。
舞姫ではなかった。
星見エリスの「夜に降る雪」だった。カフェの棚から借りてきた、最初に読んだ本。もう一度読もうと思って持ってきた。
開いた。
一ページ目から、また息が詰まった。
でも今回は、違う読み方をしていた。
前は外側から読んでいた。主人公の少女を、どこか遠いところから見ていた。今は違った。主人公の中に入っていた。少女の息が、自分の息と重なっていた。
それが、本というものだとアイは思った。
何度読んでも、同じ本にならない。読む時期によって、読む自分によって、本は変わっていく。あるいは本は変わらなくて、読む側が変わっていく。
どちらでも、同じことだ。
「アイ」
カイトが声をかけた。アイは顔を上げた。
カイトがカップをテーブルに置いた。コーヒーだった。
「ありがとう」
「どう?」とカイトが聞いた。
「何が」
「全部」
アイは少し考えた。
「わからない」とアイは言った。「でも、少し軽くなった気がする」
カイトは頷いた。
「父から手紙が来た」とアイは言った。「海外に着いたって。元気だって」
「返事は書くの」
「書く。少しずつ」
カイトはそれを聞いて、少し表情が緩んだ。普段はあまり表情が変わらないカイトが、確かに少し、緩んだ。
「そっか」とカイトは言った。
カウンターに戻りかけて、止まった。
「アイ」
「なに」
「また来なよ」
アイは笑った。
「来るよ。毎日来てるじゃない」
「これからも」
アイはカイトを見た。真剣な顔だった。
「これからも来る」とアイは言った。
カイトは頷いて、カウンターへ戻った。
ドビュッシーが流れ始めた。月の光だった。
アイは本に目を落とした。
窓の外で桜が散っていた。風に乗って、花びらが舞い上がった。白くて、淡くて、どこへ行くのかわからないまま、空へ消えていった。
アイは本を読み続けた。
月の光の中で、静かに、読み続けた。
父からの手紙は、その後も続いた。
月に一度、くらいのペースで来た。長くはなかった。便箋一枚か二枚、右に少し傾いた字で、海外の街のことや、書いている小説のことが書いてあった。
アイも返した。
カフェのこと、ユナがまた皿を割ったこと、カイトが新しい曲を弾いていたこと、本のこと。
父の本棚は、まだそのままだった。
いつか整理しようと思いながら、できないままだった。でもそれでいい、とアイは思うようになった。あの本棚は、父の本棚であると同時に、アイの本棚でもあった。父が触れた活字を、アイも触れてきた本棚。それはどこへも行かない。
舞姫は、本棚に戻した。
返す場所に、戻した。
でも時々、また手に取るだろうと思った。読む自分が変わっていくたびに、また違うエリスを見つけるだろうと思った。
エリスは捨てられた女だ。
でもアイは、壊れなかった。
それで十分だ、と思った。
噴水の公園へ、また行った。
四月になって、噴水が動き出していた。水が上がって、光の中で散っていた。
アイは噴水の縁に腰を下ろして、それを見ていた。
鞄の中に、本が一冊あった。
舞姫ではなかった。
星見エリスの、まだ読んでいない頁が残っていた。
アイはそれを開いた。
扉ページに、いつもの言葉があった。
「この物語は、帰れなかった者のために書いた」
今は、その言葉が違って読めた。
帰れなかった者のために。
父のために。
アイのために。
そして帰れなかった全ての人のために。
風が吹いた。噴水の水が揺れた。光が散った。
アイは続きを読み始めた。
水の音の中で、静かに、読み始めた。




