2 遠吠山
寒空の中でも暖かなオレンジ色の夕日は廊下の窓ガラスで乱反射し、二人だけの教室に傾れ込む。
僅かな時間のみのスポットライト。
宙に舞う埃すら幻想的に思える空間で、その二人の内の一人は受け取ったペンの感触を己の手のひらで確かめ。今まさに起こったイレギュラーについて脳をフル回転させていた。
『なぜ、どうして、どうやって、どのように』
「料理、得意なの?」
複雑怪奇な頭の中とは裏腹にすんなりと紡げた言葉は、彼女。佐藤さんの手元に握られている料理専門学校のパンフレットから話を膨らませる。
『潔癖症がなくなった?…いや、彼女が特別ーー』
「え?…あ、いや…これは」
僕の身に起きたイレギュラー。その原因解明の時間稼ぎとして話の種に選んだ、特に興味もない質問だったのだが、どうも彼女の琴線に触れる話題だったらしい。
先ほどまでの冷徹でクールな表情はどこへやら、慌ただしくパンフレットをカバン奥へと押し込み、話の種の隠蔽を試みる姿は粗相が見付かった子犬のようだ。
「…少し気になったから見ていただけで、別に料理が得意だとか興味があるとかそういう訳では…特に」
「ふーん、そうなんだ」
仮に彼女だけが潔癖症の対象外であるのなら、理由を探らねば。
『その為には一体どうすればいい…どうすれば潔癖症克服の鍵となりえる可能性を宿す、この人の謎を引き出せるんだ?』
頭の中はそんなことで一杯。だから彼女の秘密を探る為の会話にもあまりリソースを割けず、おざなりな返答となってしまう本末転倒具合。
だが氷の人だなんて噂とは異なり、目の前でぐしゃぐしゃとなったパンフレットを必死に手で伸ばす彼女とは普通に会話が出来ていた。
普通に言葉を交わせ、普通に感情の波がある。
パンフレットは諦めたのかファイルにしまう彼女は他のクラスメイトと何ら変わらない、普通の女子高生であった。
だからこそ聞かなければならない、だからこそ暴かねばならない、だからこそ僕は知らねばならない。
彼女が握っている…もしくは僕に眠る秘密を、どうして彼女にだけは触れられても平気なのかを、だから――
「ーー申し訳ないんだけど、手を握ってもいいかな?」
「…えっ、何故」
「―――…」
「…」
「…」
「…」
「…え」
『やってしまったぁ!』
再現性はあるのか、単なる錯覚ではないのか、どうすれば秘密を解明できるんだ云々と回転させ続けた脳みそは空回り。
脳のオーバーヒートは空のオレンジ色すらも通り越し、真っ赤な危険信号となって体の各所を走り回ったかと思えば、口からもおかしな言葉を走らせていた。
しまったと気がついた時にはもう手遅れ。
佐藤さんの眼差しはクラスメイトへ向けるものから一転、ナンパ男へ向けるかのような軽蔑に近いモノへと変容していく。
噂通りの…いや噂以上に冷たい、まさに氷のような眼差しだ。
ただ見つめられているだけで、自分の心が冷えて凍っていくのを感じる。
「あ、いや変な意味じゃなくてーーほら、感謝の現れ的な…外国人の挨拶的な?……もし手を握るのが嫌なら手首を掴むとかでも良いから」
心は慌て、頭は空回り、口は災い、舌先は走る。
失言に気付いて焦った僕は、どうにかこうにか取り繕うと自分でもわけの分からない言葉を並べるのだが、凍った心の上を鮮やかに滑る舌は余分な一言まで添えてしまい。
結果、よけい気持ちの悪い感じになってしまった。佐藤さんの眼光は氷点下だ。
『失敗した』
大事な場面で大こけてしまった。
どうにかして彼女の秘密を聞き出さねばならないというのに、また最後の最後で台無しにしてしまった。
『僕はいつもこうだ。この前のテストも…って、これはさっき後悔したからいいや』
「…」
とにかく、僕はしくじったのだ。
間接的に触れるのは本当に大丈夫なのか、直接触れても大丈夫なのか、直接触れて大丈夫ならばなぜ彼女だけは大丈夫なのか、どういった判断基準で僕は…僕の潔癖症は彼女を例外と認めたのか?
そんな思考や感情に気持ちが、今日一日苦しんだ分だけ前のめりになっていた…けど、だからこそ僕はその所為で唯一の希望になりえる存在を掴めず終える。掴まれもされず終わる。
「やっぱりダメ…かな?」
「―――……はぁ」
それは完膚なきまでの懇願。
告白かのように右手を佐藤さんへ向けて差し出す僕は、比べればやや背の低い彼女を見つめるだけしかできない。
僕にはもう、そんなみっともない手札しか残されていない。
『こんなにも強い、心からの願いを人にぶつけたのは一体……いつぶりだろう』
こんな時ですら思考は纏まらず、感情は滅茶苦茶。紡ぎたい言葉は出せず、余計な焦りや緊張が考えの邪魔をする。
潔癖症は苦しい、潔癖症から解放されたい、だからまずは僕を煩わせる…僕に患う潔癖症のメカニズムを解明しなくてはならない。
それには彼女の存在が必要不可欠だと僕の役に立たない第六感が騒いでいる。
思考も感情も心もごちゃごちゃと五月蠅い中で、下らない勘だけは喚いている。
現状、彼女が本当に僕の潔癖症の対象外なのかも確定してはいないのに大騒いでいる。
なので彼女と信頼関係を結び、徐々に潔癖症の情報を引き出したかった。
けれども今の僕と彼女の関係値は最悪だ…最悪にしてしまった。
僕の差し出した手ではもう、どうしようもできない。どうにかできる可能性を自分から潰してしまった、、自業自得だ…。
だから僕はただただ祈るだけ、願うだけ、待っているだけ――彼女が動いてくれるその時を。
塩対応でなければ簡単に人気者になれたであろう整った顔の佐藤さんを見詰める僕。
今日一日で溜まった数多くの疲労によりくたびれた顔の僕へ睨みを利かす佐藤さん。
そんな無言の間は数秒、数十秒と続いた。
彼女がこの時間で僕の顔から何を汲み取り、何を感じ取り、何を読み取ったのかは分からない。
分からないが、彼女は静寂を断ち切るように動き出し、その雪のように白く透き通った手で勢いよく僕の右手首を掴んだかと思えば、すぐさま踵を返して教室から去っていった。最後に「これで良いですね」なんて台詞を吐き捨てて。
「―――」再び舞い戻った静寂。
正真正銘教室に一人だけ残された僕は希望的観測の通り、潔癖症による嫌悪感に襲われる事はなかった――がしかし、氷なんかよりもよっぽど冷たな嫌悪の視線には晒されたのだった。
◇
本日は土曜日。
あの放課後の出来事から大体二十時間ほど経過したというのに、相も変わらず潔癖症なんていうハンデを背負う僕は、病院からの帰り道を歩いていた。
――というのもあの後、学校から帰った僕は急いで潔癖症関連の記事やら資料、海外のレポートやらを母のアカウントで読み漁ってみれば、そこには潔癖症の治療についての事柄が数多く記載されていたのだ。残念ながら自分と全く同じ症状の人こそ見つけられなかったが、それでも昨日の僕にとっては大きな収穫だった。
『もしかしたら病院にも希望はあるのかもしれない』
当然、そういった思考に行きついた。
そうして日を跨いだ今日、近くの大きな病院まで出向いてみた…という訳だ。
それがつい今しがたのことである。少し広い診察室の奥から現れた医師へ、昨日起こった出来事を洗いざらい全て話した。自分を襲う潔癖症に対しての悩みを初めて人に打ち明けた…がしかし、医師から返ってきた答えは『ストレスが原因ですね』なんていう、答えになっていそうでなっていない回答だけ。それだけで診察は終了した。
「ストレス…ストレスかぁ」
公共交通機関を使えなくなった僕は、土曜の昼だというのに誰もいない大通りを歩く。
あいにくストレスとは無縁の世界で生きてきた僕がストレスによって潔癖症を発症したとはおもえない――というか寧ろ、この他者と関わり合えない潔癖症の所為でストレスが溜まっているまである。
けれど高い金と時間を払って得られた答えはストレスと言うもの…。
『昨今の医者は実際どうか分からないが、何も知らない僕からすると原因不明な症状や事柄を全て、ストレスの所為にしているかのように感じる』
体調不良も、便秘も、家庭内暴力も、なんでもかんでも。
まったく使い勝手のよい言葉だ。よく分からない、解明できない謎は全てストレスが取り敢えずは解決してくれるのだから。
名探偵もびっくりだ。ストレスと言っておけば患者は納得せざるおえず、医者も己の無知を晒して恥じ入る事はないのだから。
「…」
「…はぁ」
いや、分かっている。
今回僕の身に起きた事象に関しては医師の所為ではないと、そう分かってはいる。
この静かな怒りが、行き場のない気持ちの…やるせない気持ちの八つ当たりだという事は分かっている。
潔癖症完治の情報を見つけた僕が勝手に期待して、勝手に裏切られたと思っているに過ぎないことなど――けれどこちらも突然、押し付けられた身の上だ。その回答が『ストレス』だけでは、納得しようにもできない気持ちを納得してほしい。
などなどと、心の中で荒ぶる不満を宥めては新たな不満と対峙するイタチごっこを繰り返す僕だって、こんなことをしても潔癖症問題が解決する訳でないことは分かっている…ので、縋ってみる事にした。
「…仕方ない、登ってみるかぁ」
潔癖症を発症する理由に原因、近場の病院を調べる際の副産物として見つけた、この町の成り立ちから現在までの歴史が簡潔に綴られた市役所のサイト。そのサイトには、かつてこの地を治めていた優秀な殿様の話から歴史的価値の高い神社が創建された理由。果てはこの町に古くから言い伝えとして残る狼伝説の謎などがわかりやすく記されていた。
そんな潔癖症とは直接関係のない数々の文献を文字の流れで読み漁った僕は、眠りにつく前にとある保険を思い付く。
もしも自分の潔癖症が現代医学でどうにもできなかった場合の保険。それはひどく古典的な手法であり、古くから民衆に信じられてきた方法。
「――よし!」
僕は今、病院から家への通り道に存在する山の麓に立っている。
周辺にはビルやら住宅やらが建ち並ぶ中でぽつんと一つだけ残された山。僕はこの保全された山の頂上にある歴史的価値の高い建物――神社を目指し、求めここまでやってきたのだ。
『そう、最後の保険とは神頼みのことだ』
自分の都合が悪い時だけ神様に縋るような都合の良い人間である僕は、恥も外聞も捨て…母も携わる現代医療を否定し。
神頼みを敢行しようとしているのだ。
――というか、僕にはもうそれしか残されていない。
この降って湧いた災いの原因が、ストレスだなんてあやふやな物であると信じきれていない僕にはそれしか。
『これ以外の方法はもう、自分の力だけではどうこうできる範囲にない』
「だからこれはある種、穏便に解決できる最後の手札なんだ」なんて、心中と現実での発言が入り混じりながらも早速、石畳が用いられた趣ある階段を僕は上ってみる。創建された時代を考えるに人の手だけで作られたのだろう階段は、お世辞にも整っているとは言えないが、それでも大切にされてきた重みは伝わってくる。
「この階段も、神社と同等の歴史が刻まれているんだろうな」
頂上まで伸びる階段を見上げながら僕はそのような、普段であれば思いもしないだろうことを独り言ちる。
『もしもこれで何の効果も得られなかったら…』などという、潔癖症に目覚めてから度々湧き上がるようになったネガティブな思考を頭の隅に携えながら。神秘的とでもいうのだろう雑木林と木漏れ日に囲まれた空間の中を一歩ずつ、一段ずつ手すりも使わず登っていく。
考えたって答えはでない、意味もない、仕方ない。
――なんてことは何度だっていうが、僕だって理解っている。
わかっていながら考える…だって僕にはそれ以外に潔癖症へ抗う術を知らないから。
◇
「現金が使われない時代になれば、お賽銭なんかもキャッシュレスとか電子マネーとかになったりするのかな…」
自分以外には人っ子一人いない静かな境内。
まるで緊張感のないその一人語りは、緊張を必死に和らげようとする緊張感が伝わってくる。
「…はは」
ダメ押しの乾いた笑いを賽銭箱前で挟んだりしてみても、緊張感は少しも和らいでくれない。
『プラシーボでもなんでも良い、祈った程度で潔癖症を抑えられるのなら』
『けど、でも、しかし、もしもここまで来て…神に縋って何の効果も得られなかったら一体…僕は』
この身体を震わす動悸は、決して階段を登っただけの所為ではないだろう。
もう帰りたい、後悔したくない、諦めたくない、我慢したくない。胸中渦巻く感情は一陣の風を誘い込み、微かに前髪を揺らす。それは神様が僕に『覚悟がないのなら帰れ』と、言っているような気がした。
「――でも、やるしかない」覚悟なんて大層なものは固まらない。
けれど、好きな物は最後まで取っておく派であり、尚且つ嫌な事は早々に片付ける派の僕は、覚悟ではなく勢いに身を任せ。
作法に則り、昨今の情勢も鑑みて財布からから五百円玉を賽銭箱へと投げ入れる。
直接お金を触るのは嫌だったので、布越しに掴んで投げてみたのだが、以外と硬貨は綺麗な放物線を描いて、すとんと賽銭箱内へ落ちていった。
チャリンチャリン
賽銭箱の中で金銭の弾け合う音が鳴り止む前に、僕は目を瞑って神様に願う。
「―――」
他人からでは本気かどうかの判断が付きかねない、柳レイ的には真剣なお参り。
瞑った目の奥で何度も、何度も…そこに込められた願いに呼応したのか、はたまた神様の気紛れか、境内に突如吹き荒れる強烈な風が身体を少し宙に浮かせ、賽銭箱を眩い光に包んでいく――みたいな。
そういった特殊で特別で不思議な現象が起きるでもなく、参拝はつつがなく一連の流れを終えてしまう。
『拍子抜けだ』
残されたものは僅かに軽くなった財布のみ。
吐く息とともに抜けた緊張感は心にぽっかりと穴を残し、変化ない身体からは『願いも礼拝も空しく辺りに響いただけなんだな…』という実感を無理やりに押し付けてくる。神様に願いが届かなかったんだ。
「…はは」
心を締め付けていた緊張感がなくなったというのに、笑い声が乾いたままな僕はとどまっている理由も必要もないので、足早に来た道を戻っていく。
石畳で出来た道を無視して、手水舎を横切って、砂利道はショートカットして。
まるで何か恐ろしいものから逃げる子供のように、現実から目を逸らす大人のように、治っていない潔癖症の所為で相も変わらず手すりすら触れられぬまま、長い長い階段を景気よく、リズムよく下っていく。
タッタッタ、タッ、、タッ…。
しかし数十段降りた頃だろうか、ざわざわと揺れる雑木林が突然ピタリと止まったと同時に、背後から誰かに見られているような気配を感じた僕は足を止める。
「!?」
もしかしたら山の神か!
なんて捨てきれない思いのままに振り返り、さっきまで立っていた頂上を見上げてみるが、そこには誰もいなかった。
「気のせい…まぁ当たり前か、、」
武術を少しかじった程度の僕には第六感なんて便利なもの備わっていない。
なのだから、気配なんてあやふやな物を始めから感じ取れる筈なかったのだ。
しかし『…こういう場所だからか?それとも潔癖症を患ったからなのか?なんとなく気配に敏感…もしくは――』
「――過敏になっている気がする」
揺れる枝に呑み込まれた呟きが消え去る前に、僕は再び足を踏み出す。
◇
「…ふぅ」
山の斜面そのままに作られた階段はとても急勾配で、手すりを掴めない状態での登り降りは、真冬でありながら額に汗が滲む程度の辛さがあった。
「古い神社で有名だから…なんてミーハーな理由で来たけれど、そもそもここって何の神様を祀ってたんだろ」
階段の途中で休憩がてら膝に手をついて呼吸を整える僕は、今更ながらに思い起こす。サイトに記載されていた記事は全文、
読んで確認はしたものの歴史や成り立ちなんて外付けの情報ばかり気にして、重要な中身を注視していなかった。
『まるで学生恋愛の失敗談みたいなミスだなぁ』なんて、焦りと勢いで何も見えていなかった過去の自分を一笑に付しながら、体が休まるまでの間。僕はこの神社について、そこそこ出来の良い頭をひねってみる事にした。
「遠吠神社って名前から推察するに…イヌ科の神様が祀られた神社なんだろうけど…でも、だとしたら一体何のご利益がある神様なんだろ?」
八百万といる日本の神様にはそれぞれ役職と役割がある。出産、勉学、恋愛、健康と様々。
「それで言うと犬の神様は…厄除けとか?」
神社を悪いモノから守る狛犬を想像しながら半ば勘で答える僕は、ここで気付く。
「……もしかして、来る神社を間違えたか、」
昨日の夜は神社の詳細を見てこれだ!と思ったけど尚早だったか…と言うかそもそも、潔癖症に効く神様って一体何の神様なんだろう。
温泉の効能じゃないんだ。そんな都合のいい神様はこの世界に存在するのか?
潔癖症の退治でいうのなら厄除けはある意味で求めているモノに近しいのか?
見下ろしていた階段を最後にもう一度見上げ、真っ赤な鳥居の奥――もう見えなくなった、神社本殿の方向を伺い見る。
例え潔癖症に関係のない神社であったとしても、来るだけの価値は確かにあった。オーラとでも言うのだろうか、目には見えない圧力のような物を感じたのだ。登って、拝んで、逃げ出した時には思えなかったが,、今ならそう思える。もしかしたらそれは、場の雰囲気に呑まれただけかもしれないが…。
所詮は第六感も優れた気配察知能力も勘も持ち合わせていない只人の戯言だ、だがこういった場所には本当にそういう不可思議な何かがあるのかもしれない。
「まぁ、僕にはもう関係のない話だけど…」
「――何が関係のない話なんですか?」
「ほわっつ!!」
ぞわりと背筋が凍る。
古い作りの狭い階段。人が登ってきていたらすぐ気づくだろう階下から、突然掛けられた意識外の声に驚き。思わず下手くそな英語もどきを叫ぶ僕は、山頂を見上げていた頭と腰を恐る恐るまわして後ろを振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
少し長めな黒髪のウルフヘアを後ろだけ結い、雑木林に差し込む光のような白を基調とした服を身に纏う…僕と同い年のはずなのに何処か大人びて見える女性は、手を伸ばせば触れられる距離に立っていた。
「……なんで…」
そこいたのは、ここにいる筈のない女性。
教室内で見るのとは全く印象の異なる衣服と雰囲気の彼女は、先ほどまで考えていた自分の力でどうこう出来る範囲の外にいる人であり、昨日の放課後に僕のペンを拾わってくれた人であり、僕のペンを拾って上げた人である――佐藤さん。
僕の潔癖症。その撃破の鍵となる可能性が最も高い人でもある彼女は、たった数段下の階段上に立っていた。
「こんにちわ、奇遇だね」
「…どうも」
『…もしや、さっそく神頼みの効果が出たのか?』
彼女が何故こんな場所にいるのか?なんて疑問を、どうでも良いと数秒で放り投げた僕は、誰かの奇声によって不審な顔つきの佐藤さんに笑顔で話しかける。
「まさか学校の外、それも神社で会うなんて…」
「……」
「そ、そういえば、昨日ペンを拾ってくれたお礼がまだだったね」
「別に大丈夫ですから」
「そっ…か」
「…」
『あれ?――佐藤さんって最初から、僕に対して敬語だったっけ?』佐藤さんの冷たな口調とぶっきらぼうな態度は潔癖症治療、その道程の険しさを教えてくれる。
「ここにはよく来るの?」
それでもめげすに親交を図ろうと、深めようと急遽用意した中身の伴わない会話を繰り広げる僕は、まるでではなく本当にナンパ師のようであった。
「遠くないしね」「急な階段だよね」あれやこれや、言葉を放ち。
なんとか佐藤さんの気を引き、あわよくばお近付きになり、さらに欲をかけばこの身を蝕む潔癖症の謎を解明できればなんて考える僕の吐いた、軽い発言の何かに引っかかる所でもあったのだろうか。訝し気な表情はそのままに、山頂を見上げていた佐藤さんの視線は僕へと戻り、ハムスターのように小さなその口を開く。
「神社に何か用事でもあったんですか?」
「用事というか、お参りというか、お払いにね。困った時の神頼みってやつだよ」
「…そう…ですか」
質問を質問で返されたことは気しない。
それよりも会話が成立したことのほうがうれしかった『――まともに人と会話したのはいつぶりだろう』昨日、今日は人と会話するだけで相手の不潔な部分が強調されて見え、話し合いなんてできなかった。
だから例え、相手が煩わしそうにしていても会話できてうれしかった…のだが、質問に対する僕の当たり障りない返答を聞いた佐藤さんは眉根を少し顰めるだけで二の句を告げてはこなかった。
『え、会話終了!――もっとボールを投げ合おうよ。それとも、もしかして僕の回答が望んでる答えじゃなかったのか。嘘だろ、それでキャッチボール終了?滅多に笑わない父さんの方がまだ優しいぞ、そんなの』
「うう˝ん…君こそ、なんでここに?」
「………貴方、本当に知らずに来たの」
「なにが?」
「…はあ」
めげない。諦めない。離さない。
落ち込んでいる暇なんてないと言い聞かせ、僅かな会話の糸に縋り。鬱陶しがられることなんて覚悟のうえで、睨まれることも承知のうえで、無視されて傷付くことも我慢のうえで話しかけてみれば、しかし佐藤さんの口からは予想外の答えが返ってくる。
「ここ、私の家だから」
「え?」
「This is my home」
「言葉が分からなかったわけじゃないよ!、え、どういうこと」
もしかして、さっきの下手糞な英語を遠回しに馬鹿にされた?小粋なジョーク?
「…うちは先祖代々、この遠吠神社を管理する神職の家系だから――なんでいるのも何もないわけ。だって私の家だもの」
「都会に憧れる美少女巫女」
「?え」
「いや、なんでもな…――あれ?ってことは、いま帰ってきたところだった?」
「…そうかもね」
「用事が終わって家でこれから休むところだった?」
「そうかもね」
『それならチャンス、あるんじゃないか!』
いまこそ過去の失敗を取り返し、険しい道のりの第一歩を踏み出す時。
「もし、もしさ。この後もしも時間あいてたらで良いんだけど…良かったらペンのお返ししたくてさ…」
「いえ、だから本当に大丈「少し、僕に君の時間をくれないかな?…お願い、少しだけで良いんだ」、、そう――」
だから僕は真摯に願う。厚かましく求める。
ただでさえ近かった距離をさらに一歩、前へ詰め。佐藤さんの顔を除く僕は境内で、神様にではなく彼女に祈る。そう、祈る…結局は祈るだけ。相手次第の博打でしかないその懇願は、けれど佐藤さんの僕には測れない思惑もあってか…。
「――なら、少しだけ貴方に付き合ってあげる」
「ホント!マジ、嘘じゃない?よっしゃあ、ありがとう佐藤さん!」
「―――」
「近くにね、オススメのお店があるんだ…そこで「別に、このまま付きまとわれたら面倒だと判断したまでですらから、貴方に感謝されることではありません。費用対効果です」――ん?」
『あれれ?おかしいな。また空気が冷たくなってきぞ』
「それと」
「…それと?」
「――私の名前は佐藤ではなく遠無遠無です」
『あ―、、やっちまったぁ!!』
こうして掴んだ、潔癖症問題の鍵…になるかもしれない蜘蛛の糸。
やっぱり最後の最後で間違いを犯した僕は佐藤さん、改め遠無さんのご機嫌取りと敬語取りに苦心するのであった。
◇
「ごめんってばぁ」
「だから、もう怒っていませんので」