1 お気に入りのペン
僕、柳レイは目が覚めたら――
「あれ、え?なんだこれ」
それは秋の終わりが近付き、冬の始まりが見え隠れしだした頃。
六時手前の肌寒い時間帯に目覚めた僕は、部屋のあらゆる物から感じる、言い知れない違和感や忌避感にすぐさま気付き、理解する。
「なんで…だろ」
物語みたく――目が覚めたら『都会に憧れる田舎の美少女巫女』とか『地球の歴史を見守る世界最古の山』になっていた、とかいう訳ではなく。
僕、柳レイは目が覚めたら――潔癖症になっていた。
◇
僕、柳レイは基本的には普通の男子高校生である。
成績は上の下で、運動も苦手ではないが得意でもない程度。
性格は両親の教えもあって比較的穏やかで、自分第一なきらいがあるものの、それでも他人に優しくできる感性と善性を持ち合わせた普通の人間だと個人的には思っている。
――事実。この優しい人柄もあり学校では多少、人気があると自負もしているけれど、それ以外は家が裕福であることくらいしか特筆すべきところのない、本当にただの高校生だったーー昨日の夜までは。
目覚めと同時に手に入れたこいつの所為で、普通からズレていくのを感じる…これが俗に言う潔癖症デビューなのか?
マラソン途中に突然、いらないものを押し付けられた気分だ。
「……ぅ」
それもこの潔癖症、中々に重度な代物みたく。
家の中の蛇口にドアノブ、机やソファーを使用することはおろか、触れることにすら嫌悪感が襲ってきたのだ。
幼いころから食べ慣れてきた家政婦さんの料理が口に入れられなかったのは流石にショックで、朝食も喉を通らない程だった。
辛うじて自分で洗濯している衣類などに対しては何の感情もなく触れられたが、他人の触れる可能性があるものに対しては途端に忌避感が募ってしまtt。
降って湧いた災い。
僕の生活を脅かすこの潔癖症とやらは、僕以外の人間…その全てに対して強弱の差はあれど嫌悪感を抱かせてくるモノなのだと本能で理解する。
更にその理解は、学校へ向かう道中でより鮮明に強烈に明確に実感させられることとなるのであった。
◇
普段と変わらない筈の通学路を普段とは違う面持ちで歩く。
首に巻いたマフラーで周囲の人間臭を誤魔化しながら、表面上は淡々とーー
「―――」
小学生が何の気なしに触れた看板から距離をとる。
『気持ち悪い』
「―――…」
前を歩くおばさんの通った道から距離をとる。
『気持ち悪い、きもちわるい』
「―――……」
沢山の人が座ってきたであろうバス停のベンチから距離をとる。
『気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ』
いつもなら思い付きすらしない考えや想像が脳みそを占拠し、視線の動きも早く多くなる。
こんなにも自分の思考を好き勝手に書き換えられれば違和感で頭がおかしくなりそうなものだが、それ以上に嫌悪感が勝っていた。
他人の一挙手一投足の方が気になった。
高校へ向かう路線バス車内なんかは、まさに最悪だった。
椅子に降車ボタン、手すりに吊り革と何から何まで、今の僕には耐えがたい空間であったからだ。
挙句、昨日まで一度たりとて気にしたことがなかった車内に充満する二酸化炭素のことで、頭が一杯になる始末。
「ふぅ…ふう」
急激な気分の悪化を感じつつも深呼吸すらできない車内では、どうにか頑張って耐えるしかなく。
腰の痛そうなおばあさんも、子供をつれて大変そうなお母さんも、大きな荷物を抱えしんどそうな学生も気遣うことはできず。
ただマフラーを鼻に押し当てるだけの僕は、吐き気と嫌悪感と後悔で頭がおかしくなりそうであった。
◇
「――はい、ありがとうございました!」
そんなある種の生き地獄を十数分間味わった僕は、無駄に元気の良いバスの運転手に若干の苛立ちを覚えながら、ようやっと到着した学校へ向けて心なしか軽くなった足取りで進む。
『この先にも新たな地獄が待ち構えているのかもしれない』なんて、末恐ろしい想像を心の奥底に押し隠しながら。
階段を上った先にある教室からはいつも通り、友人達の賑やかな話し声と笑い声が聞こえてきた。
どうやら思考の片隅にあった、友達も僕と同様『突然、潔癖症になっていた』なんてことはなさそうな雰囲気だ。
「ふぅー…よし」
少しの嫌悪感と共に扉の取っ手を掴んだ僕は、まるで入学式の入場時と同じような面持ちと緊張感を携えて扉を開く。
ガラガラガラ
ゆっくりと開かれた扉の先に広がる教室の中は、当然と言えば当然。
いつもと同じ光景が繰り広げられていた。
朝の部活動から帰ってきたのだろう、声の大きな運動部の集団が教卓前を占領し。
漫画?ゲーム?恋バナ?何の話をしているのか分からない男子と女子のグループが一つの机に固まり。
窓際後方の一帯を友人達が陣取る。
この教室にあるのはいつもと変わらない日常…僕以外は何も変わっていない青春の一幕。
「あ!おはよう、レイ」
「レイちん、おっはー」
「おはよう柳君」
「柳、おはよ」
僕の登校に気が付いた仲の良いクラスメイト達から続々と飛んでくる挨拶へ、僕もおざなりにだが挨拶を返す。
「うん…おはよう、おはよう」
「おはよーレイ。こんなギリギリの時間帯に来るだなんて珍しいけど…なんかあった?」
「まぁ、ちょっとね…」
「なぁ、そんなことよりレイも聞いてくれよぉ…また詩乃がさぁ――」
「また言ってる。レイちんも――」
『気持ち悪い』
軽いスキンシップとして薫に触れられた肩から、怖気が走る。
それはまるで、得体のしれない軟体生物に直接肌を撫でまわされたかのような気持ちの悪さが襲ってきた。
『友達に対してもこんな感情が湧いてくるのか…』
「――悪い、先にちょっとトイレ」
「えー、来る前に行っとけよぉ」
「悪いって、じゃあ」
「おう、いっトイレー」
「あんた、その寒いギャグいい加減やめな」
「うっせ」
後ろから聞こえてくる、朝の夫婦漫才にて自分の異変が話題に上がっていないか耳だけは傾けながら、さっき入ってきたばかりの教室を出る。
その際、出来うる限り触れられた箇所に意識をもっていかないよう空の模様を楽しむ僕は、逃げるように廊下を歩くのだった。
◆
「沙織?どうかしたの」
「レイの様子、少しおかしくなかった?」
「え、そう?そんなことなかったと思うけど、どうだろう…」
「ううん、やっぱり気のせいだと思う」
「なんだぁ、また惚気かぁ」
「ほっほっほ、そんなに旦那さまのことが気になりますかな?行き過ぎた束縛は関係悪化に繋がりますぞい、奥様」
「ちょ、だからレイと私はそんなんじゃ――」
一人の青年を除き、いつもと変わらぬ光景がそこには広がっていた。
◇
「ばいばーい、レイちん」
「うん、またね」
「レイ、じゃあ俺ら先帰るわ!」
「おう、またな」
「柳君、バイバイ」
「ばいばい、小清水さん」
「私たちももう帰るね、レイ」
「そっか、また来週」
「また来週」
「まったねー」「またね、柳くん」
キーンコーンカーンコーン
空がオレンジ色に染まる放課後。
僕は一人、遅くなった帰りの支度を進めながら、苦難と我慢の連続だった今日という日を振り返る。
――目覚めから現時点までの濃い時間は…他人との関りを遠ざける学校生活は僕に新しく、この症状についての理解を深めさせた。
そのなかでも一際大きな発見は人間以外の生物…例えば『虫や植物などに肩や膝を触れられようと撫でられようとも、以前と変わらず何ら嫌悪感や忌避感は湧いてこない』というものだ。
つまり僕のこの潔癖症とやらは、人が関係しなければ発症しないわけだ。
対人間の場合のみ、僕の潔癖症は反応する。
それはまるで、僕を人間から遠ざけようとする何者かの作為的な何かを感じさせるほど明確に――
「あっ…」
などと考え事をしていたからか、鞄を持ち上げた拍子に横のポケットからペンが転がり落ちる。
普段とは異なる慣れない生活によって溜まった疲労は、こういう些細なところで現れるのかもしれない。
落っこちたペンはその感性のまま傾斜のない床を窓際後方から前列の席までコロコロと転がって旅をし、教室に僕を除けば一人だけ残る女子生徒の足元まで転がった。
『あの人は確か…斎藤、いや佐藤さんだったかな?』
僕とあまり関りのない人…というか、この学校で彼女と関りのある人間はいないのではないか?
僕が知る彼女はいつも一人だ。
しかもその原因は周囲というよりも彼女の放つ雪よりも冷たい極寒の雰囲気が、他者を寄せ付けない所為だったりするのだが、そのことはいま関係ない。
それよりも大事なのは、転がったペンの行方だ。
もし万が一にも僕がペンを落とした事に彼女が気付き、ありがた迷惑にも拾おうとしてくれでもしたら僕は二度と、あのそこそこ気に入っているペンを使えなくなってしまう。
だから素早く見つけて回収せねば――と、瞬時に判断した僕の予想を上回り、空回り。
女子生徒は手に持っていた本を机へ置き、想像とは違ってちんたら・まごまごと動く僕の歩みを尻目にその場へしゃがみこむ。
『取るな、触れるな、やめてくれ』
そんな声にならない心の声は「ッわ」という情けない声で掻き消され、誰の耳にも届かない。
その僅かな間に、ありがた迷惑佐藤さんは床に転がるシンプルで無骨なデザインのボールペンを拾うのだった。
「あぁ…」
思わず、言葉にならない声が喉から溢れ出る。
「…はい」
その短いながら初めて聞いた彼女の意外と暖かで穏やかな声なんて気にもせず…気にもできず、柳レイは失敗を悔やむ。
『僕という奴は昔からそうだ。いつも、いつも最後の最後で詰めが甘い。
この前の小テストの最終問題でもそうだ、解答欄を書き間違えて百点を取り逃した。そんな小さなケアレスミスで結果にケチがついたなんてことは何度もある。
今日だって疲れこそ普段の何倍も溜まりはしたが、目に見えた失敗はなかった――今この時を除いて』
「?…これ貴方のでしょ」
胸中にひしめく言い訳がましい後悔に夢中で、目の前の親切な女子生徒の存在を無視してしまい…忘れてしまい、反射的に差し出されたペンを受け取ってしまう。
『あ、来る』
嫌悪感や忌避感を通り越した、恐怖心が襲ってくる。
おぞましい感触が身体を這いずり回るような、そんな気持ちの悪い感覚が――
「あれ?」
――と思ったがしかし、予想とは裏腹に僕は彼女の触れたペンはすんなりと受け取れたのだった。