好感度の上がりようもなかった話
出会いからして最悪だった。
ここから何かを育む気持ちも起こらないと言うか、その芽を潰されて更地をさらに踏み固められた。
と言ったらいいのだろうか。
とにかく、すべてが最悪だったと言う記憶だけ残して、出会いは終わり、その後も、最悪は更新され続け、もう、一欠片の関心すらなかった。
いや、正直に言おう。すっかり忘れてた。
婚約者が居るのはかろうじて覚えていたが、婚約者が存在してるのを忘れていた。
「貴様との婚約を破棄するっ」
ビシッと格好付けて指を差す男を見て、思わず首を傾げる。
まさに心中は、こいつ誰だ? だった。
そうして、婚約者居たな。と思い出す。もう幻かと思ってた。
「なんだその顔はっ」
「顔、ですか? そうですね。初めて出会ってこの方、贈り物一つ、手紙一つ無く、会うこともなかったので、婚約者とか、存在してたんだ。と言う顔です」
そう言ったら、ひどく驚いた顔をしている。
いや、自分の行いくらい覚えておいてください。
「数年前はまだ、居るんだよねと、両親に確認していたのですが、余りに音沙汰がないので、両親共に見た幻だったのではと思い、それは怖いなと、確認もしなくなりました。
本当に存在したんですね。もう、はじめましての気分なので、破棄は了承しますが、双方合意の白紙になると思われますよ」
私も手紙も贈り物もしなかったからね。いや、はじめの一年くらいはしたかな。返事がこない手紙とか虚しいし、私も翌年からすっぱりとやめた。
やめたことを両親には伝えたが、苦言は呈されなかった。
いや、あの最悪の出会いからして、両親見てるしね。
でも、こいつのが爵位高いってんで、うちから破棄とか解消とかの申し入れがなかなか出来なかったんだよね。
両親も没交渉過ぎるので、この婚約はなかったことにしようって何度か進言はしたらしいんだけど、あいつあの性格だから、高位貴族からはすべてお断りされて、私が最後だったらしい。おかげで、体面もあるからとずるずるとここまで来た。
と言うのが真相だ。
しかし、よくこいつ覚えてたな。私なんか姿形も名前すら忘れてるわ。
それとも、手当たり次第だったのかな。後で噂好きに聞いてみよう。
「貴様っ。レイナにさんざん嫌がらせをしてた癖に」
「そのレイナさんがどのレイナさんか知りませんが、正直、私、あなたの名前も思い出せないくらいなので、嫌がらせをするのは無理かと。
あ、もしかしてその後ろに隠れてるのがレイナさんですか? 初めまして、どこかでお会いしたことありましたか? 私、なぜか、このパーティーに来いと脅しのような招待状が来たのです。
あんまり恐ろしいので、警備隊にお知らせして、付いてきていただいたのですけど、もしかして、お二方が出されたのです?」
いやだってね。突然、おまえがこのパーティーにこなければ、両親ともども、裁判に掛けてやるからな、なんて脅し文句がありましたからね。
裁判に掛けられる覚えも、トラブルも無かったですからね。あと、パーティーの主催も全くうちと付き合いがなかったので、何でこんなところから招待されたのかも謎で。
まあ、このアホみたいなことで、だいたいの状況は理解しましたが。
「あ。もしかして、余興ですか? 私が全く婚約者の顔も名前も覚えてないので、誰が婚約者役をやったところでバレないだろうと、わざわざ付き合いもない門下の私を呼び寄せられました?」
婚約者の名前も顔も覚えてないし、むしろ存在すら怪しいんだけどって言うのは、私と付き合いの長いお友達の間では、鉄板のネタですからね。
どこかで漏れてもおかしくはないでしょう。声を潜めたこともないですから。場所は、そこそこ選んでいたような。まあ、その程度の気配りでしたからね。
ちなみに、彼との婚約より前からのお付き合いなので、私が無礼に憤慨したのもよく覚えているらしい。
少ない語彙で頑張って罵詈雑言をはいてたのが大変可愛かったと、年上の友人には微笑ましく思い出されている。
私は、腹が立ったのは覚えているが、なにを言ったかまではほとんど覚えてない。
ただ、「あいつもたいして美男子ってわけじゃないのに、私のことブスって言うとか、あいつの家には鏡がないか、あっても歪んで見えるんだろう」って言ってたのは、かろうじて覚えている。
私、あの頃、自分は最っ高に可愛いと思ってたので、少なくとも私の美意識では、あいつはさして美男ではなかったため、自分を美男だと思ってるなら、頭がおかしいと思ったわけです。
ちなみに、今現在、改めてみても、自分が美男だと思ってるなら、見てる鏡は歪んでるんだろうと思う。
「き、貴様っ。そんなことを言って、言い逃れをするつもりなんだろうっ。顔だけでなく心まで卑しいのか」
「自分もさして、美男子と言うわけでもない癖に、人の容姿をとやかく言えると思ってるのでしたら、目か脳か鏡がおかしいので、早急に対処された方がいいかと」
思わず、昔のことを思い出していたせいで、なめらかに反論してしまった。
でも、人のこと言えるほどの美男子じゃないですよ。ほら、クスクス笑われてます。あれ、私の言に対する同意のあざ笑いですからね。
まあでも、これが本当に私の婚約者本人だったら、こんな場所で騒ぎを起こした以上、確実に婚約はなくなるだろう。
ここで騒ぎすぎると、家からの破棄で、色々と金銭要求って事になるだろうけど。だって、こんな大勢の前で、辱められたわけですしね。
だいたい、婚約を無くすことは了承したんだから、その、某かのレイナさんと一緒になれば良いだけだと思うんですよね。
「あ。もしかして、ここまで没交渉だったというのに、私が名前も顔も覚えてない婚約者とか言う概念を好きだと思っていると、考えていたとか。ですか?
さすがに私も、名前どころか顔も覚えていない人を好きだと思えるほど酔狂ではないのですけど、もしや、ご自身はそう言うタイプなのですか?」
顔も覚えてない人を好きだと思えるとか、凄い能力だと思いますよ。褒められるかどうかは分からないですけど。
個人的には、頭が危ないと思うんですけど。
世の中は、そう言う妄想恋愛に寛大になったんでしょうかね。
「そんなことあるわけないだろっ」
「そう思われます?」
「当たり前だっ」
「では、私が、名前どころか顔も覚えていない婚約者に親しみを感じることがないと理解して頂けますよね」
にっこり笑って、正論を突きつければ、わなわなと唇を震わせて、握りしめた拳がいささか白くなっているのが見える。
「その、名前も顔も覚えていないと言うのが、貴様の嘘でないと言い切れるのかっ」
あー。悪魔の証明ってやつですかね。いや、実は証明できるんですけど。
「できなくはないですが、本当によろしいのですか?」
だってね。これ証明されちゃうと、大変なのはそちらのはず。
「いいから、証明できるならして見ろ」
できないと思ってるのか、嘘だと思ってるのかは知らないけれど、よくもまあ、こう、悪手をとれるものだ。
「では、そちらにいらっしゃいます、ランティール伯爵令嬢、つい最近ですから、お忘れではないですよね。先月のダンスパーティーで、フロアに私の婚約者がいると教えてくださいましたものね」
先月、なにやら婚約者が居たらしく、エスコートもなしによく来れたもんだなと絡まれた。
いやもう本当に顔も名前もすっかり忘れていたもんだから、素で、どこにいるんですかと、たずねたら、目の前通り過ぎたらしい。
そう言えば、先月ニアミスしたのに、絡んでこなかったんだな。
なんでだろう。
「金髪で青い服を着た殿方なんて、あの場にざっと見ただけで十人ほどいたので、誰がどれやら分からなかったのですが。
いえ、さすがに主催は分かっておりますよ。あと、有名どころの方は分かりますが、派閥の違う方と爵位の低い方は、なかなか覚えられなくて。結局、ランティール伯爵令嬢が指し示した方はわからずじまいで、「あんた婚約者の顔も分からないのっ」と怒鳴られてしまいましたね。
そこで、友人と一緒に、あらやだ、私が婚約者の顔と名前をすっかり忘れてるなんて、公然の秘密みたいなものですよと教えて差し上げたんです。
さすがに先月ですもの、覚えてらっしゃいますよね。
ちなみに、あのパーティーにいた金髪の青い服のどなた様でしたの?」
こうして顔を合わせても、先月のパーティーにいたらしい、金髪の青い服の男と、目の前の男は一致しない。
「先月のダンスパーティーには、出席していない」
答えは、私の婚約者を名乗る男から出てきた。
おや、居なかったのか。自信たっぷりに、ランティール伯爵令嬢が言っていたから、てっきり居るものだと思っていたんだけど。
もしかして、私が婚約している人って言うのも、勘違いしている人も居たのかも知れない。それよりも何よりも、私が覚えてないから、確認しようもないしね。
「あら、私、ランティール伯爵令嬢に嘘を吐かれましたのね。まあ、どちらにしても、誰だか分からないことには変わりませんでしたから、誤差ですわね」
居ないことすら分からなかったわけで、これ、証明されたのではないかしら。
「本当に今のこれは、私が婚約者の名前も顔も忘れてるから仕掛けられた訳ではないのです?」
むしろ私を出汁にした茶番かなっと思うんですが、違うのかな。
むしろそれが正解であってほしい。
さすがに公然の秘密っぽくはなっていたけど、自分で暴露する気はなかったので。
嘘と言ってよ。と、何かにすがりたくなる。
「なっ、なっ」
「すっかり名前も覚えていないもので、確認させていただいてもよろしいかしら。
あなた様はどこのどちら様ですか?
確認とれましたら、婚約の解消なりの手続きに入らせていただきますので」
「ふざけるなっ」
今までで最大級の大声を上げ、肩を怒らせているのを見て、怒鳴り声に驚いたものの、さして脅威を感じているわけではない。
「あの、その、レイナ何某さんの身分が低くて、せめて私を貶めないと箔が付かないとかで、今更後に引けないと感じているのでしたら、早々にあきらめた方がよろしいですよ。
おそらく、誰に聞いても、私が婚約者を覚えてないのは、明白なので」
本当に、名前なんだっけ。
帰って両親に言ってみて、確認するしかないかな。本人名乗らないし。
「分かりました。早急に家に持ち帰り確認の上、粛々と進めさせていただきます」
これ以上は話し合うだけ無駄だなと、早々に撤退を決め込む。
主催に断りを入れ、馬車を呼び出すと、さっさと帰路についた。
ちなみに、帰り際、どうするかを聞いたら、付いてきて貰った警備隊は、まだなにかと質問することがあると、大変にこやかな、目の笑っていない笑みを浮かべていたので、こんなちんけなことで騒ぎになるようなことしやがってと思っているのかも知れない。
お疲れ様な事である。
両親にことの顛末を話たところ、あーうん、みたいな生返事と共に頭を抱えていたが、二週間ほどして、婚約は恙無く解消されたと聞いた。
その間に一度、婚約者の父親だという人と話をしたが、終始表情が変わらなかった。なんというか、驚くのも悲しむのも、ある一定を越えると凪ぐんだなって表情だった。
聞いて頷き、いくつか私に質問して、納得したように頷いていたのが、大変印象的だった。
今まで保っていたのが不思議な婚約は、今までどうしてと問いたくなるほどにあっさりと解消になった。
先方は慰謝料を払っても良いと思ってたようだけど、それをすると痛くない腹も探られるし、なにより、解消と周りに思われた方が穏便に済む。
十年も続いた婚約だったけど、私が婚約者と一緒にいたのを見た人は誰もいないから、おそらく、ここ数年の話と思われてるだろう。
なので、解消の方が互いにというか、私にとって痛手が少ないのだ。
そこまで慮ってくれる父親から、あれが生まれたのかと思うと、なかなかに感慨深い。
母方の影響なのかな。まあ、その可能性は高そう。
そう言えば。
「あ、最後まで名前わからないままだったわ」
と、今更ながらに気が付いたが、知らなくてここまで来れたのだから、この先も知らないままで良いかと思い直し、両親に彼の名前をたずねることはしなかった。
いやーでも、解消されたって聞いたときは、え、本当に存在してたの? 概念じゃなかったの? て思った。
友人とは、しばらくこのネタで遊べるのではないかなと思いつつ、この後の婚約とかどうなるのかしらと、今更ながらに現実をみた。
お一人様も楽しいかもしれないから、何か収入考えなきゃ。
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初めて出会ったとき、こんなちんくしゃが婚約者なのかと、罵詈雑言を吐いた。
両親にはこれでもかと怒られたが、こんなやつは俺に相応しくない。
俺にはもっと相応しい相手がいると思っていた。
「どういうことだ」
あのパーティーの一件の後、父に呼び出され、尋問のようなことになった。
「どういうも、俺はレイナとっ」
「その話じゃないっ」
「え?」
「婚約者に手紙も出さず、贈り物もせず、会いにも行かなかったのはなぜだと聞いてるんだっ。
お前は、婚約者に会いに行くといって金を出させていただろう。あれをどうしたのかと聞いているんだっ」
「いや、その、あれは」
友人と遊び歩いて使い果たした。などと言えば、おそらく、さらなる雷が落ちるだろう。
しかし、婚約者に使ってないことはバレている。
最近はレイナに使っていたので、さらに油を注ぐだろう。
なにをどう取り繕っても、怒られる。
「あの女は気にくわなかったからっ」
だから、話をはぐらかそうと、そう言ってみたが無理だった。
「なら、なぜ、解消したいと言い出さなかった。先方からは季節の挨拶並に来てたぞ。娘が名前も覚えていないため、解消したいと」
「は?」
「一年手紙を出してみたが、返事もこないので、こちらからも手紙は出さないと、先方の両親のお墨付きを貰って、最後の手紙を出したと言っている。
控えも見せてもらったが、お前は手紙すら見てなかったのか?」
「いや、俺宛に手紙は」
「おまえ宛にくるわけがないだろう」
「なんでっ」
「おまえはあの場で、婚約者に名乗りすらしてないんだぞ。名乗られてないもの宛てに手紙など出せるはずがないだろう」
「え?」
「なにか? お前は、名前を名乗られていない人宛に、直接手紙を出すのか? 初めましてと」
「そんな不作法するわけがないっ」
「そうだろう。だから先方もしなかった。私宛に送ってくれればよかったんだが、さすがに当主宛に出すのは気が引けたと、妻宛に出したと言われた。
で、ノーニャ、おまえはその手紙をどうしたんだ?」
今度の矛先は母に向いた。少しばかりほっとしたが、俺への追求が終わったわけではない。
「覚えてないわ」
「何で覚えてないんだ。息子の婚約者からおまえ宛に手紙が来たのに、おまえは読みもしなかったのかっ」
「いえ、だって」
「旦那様、発言をお許しいただけますでしょうか?」
静かに後ろに控えていた執事が、そっと会話に加わってきた。
「許す」
「そのお手紙は、奥様が封も開けず、「やだ、私の名前を間違えて書くなんて、非常識な子ね。この子から来た私宛の手紙は息子に届けてちょうだい」と、おっしゃいましたので、以後は坊ちゃまにお届けしましたが、見ることなく打ち捨てられておりました。奥様宛の手紙でございましたので、僭越ながら私が保管しておりました」
「持ってきてくれ」
「はい」
そうして、母と俺はいささか顔色を悪くしながら、その手紙を見ることとなった。
十年前の手紙は、きちんと保管されていたようで、黄ばみもなく綺麗なままだった。
そう、封を切られもせず、保管されていたのだ。
無造作に一番上の手紙の封が切られる。
「ご機嫌麗しいでしょうか。初めての手紙がこのような不躾な手紙で申し訳ございません。顔合わせで、ご子息が名乗ってくださいませんでしたので、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? お名前をお聞きせねば、手紙を出すこともままなりません。 大変不躾とは思いますが、今後のことも考え、恥を忍んでこの手紙を認めました。 お手数をおかけしますがどうぞご返信いただければと存じます」
手紙を読み上げ、父は母と俺をみる。
「で、ノーニャはこれを読んで、宛名を間違えたと思うのか? 俺としては、六歳の子供が書いたとは思えない丁寧な手紙だと思うが、どうだ?」
「いえ、あの」
「なぜ、せめて中を見なかった。おまえ宛の手紙だぞ。もし宛名を間違っていたというなら、それを指摘してやるのも大人の仕事だろう。どうして放置したんだっ」
「それは、その」
言い訳する間にも、封はどんどん切られていく。
二通目はお返事がないけど届いているかという問いかけだった。三通目は、目を通されているのかの確認。四通目は、この婚約が気に入らないから放置しているのかという落胆。五通目は、翻って、やっぱり届いてなかったのかと再確認。六通目は、六ヶ月たちましたがご子息から、手紙もこないのですがという、ほんの少しの苛立ち。七通目は、この婚約に意味があるのかの問い。八通目は、義理で出してるけど、手紙に返事もしない夫人って、お仕事してないんですか?という嫌み。九通目は、もしかして、読まずに燃やしてるんです?という人間性への問い。十通目は、返信のない手紙には、ネタが無くて困りますという、もうあきらめてるなというのがありありと分かるもの。十一通目は、ご子息から、誕生日のプレゼントもこないんですが、こないから送らないわけじゃないんですけど、早く名前教えてくださいという、最後通牒のような内容。
そして、最後の十二通目は。
「一年間、がんばって手紙を出してみましたが、ついぞ一通もお返事がいただけませんでした。名前も知らない仲ですので、今後一切、やりとりはしないと言うことでよろしいでしょうか? さすがに私一人では決められないため、両親に一筆書いていただきました。三ヶ月以内に反論無き場合、今後すべてを没交渉で行かせていただきます」
中に入っている婚約者の両親が書いたであろう紙を眺め、父は大きなため息を付いた。
「おまえたちを信用していた俺がバカだったのか?」
両親公認の没交渉。まさにあり得ない状態だが、それを引き起こしたのは、紛れもなく、母と俺だ。
それは、季節の挨拶並に解消しようと言われるだろうと、俺でも分かる。
「お前が、婚約者と会う、婚約者に贈り物をすると言っていたから、今まで退けていたんだ。なぜ、婚約を解消したいと言わなかったっ。
まるで仲の良いふりなどしているから、こんな、笑い物にっ」
「だって、俺はあんなやついやだった」
「会いたくないほど嫌だと、言い続ければよかっただろう。俺だって鬼ではない。おまえがそれほど嫌なら、婚約を解消もできた。先方からも言われていたしな。
ご令嬢にも会ってきた。「名前を覚えていないため、そちらのご子息でよいのかも分からないのですけれど、合っておりますか?」とまじめな顔で問われた。そこで、名乗られていなかったので、手紙も出せず、奥方に問い合わせたがなしのつぶてで、一年間、贈り物一つ、手紙一つ無く、会いにも来なかったため、名前を知る機会を失ったので、両親に一筆書いてもらって、最後の手紙を出したと聞いた。控えも見せられたが、まさかと思っていたんだ」
存在してたと信じたくなかったと、父は力なくつぶやいた。
「ご令嬢は友人とお話しするときの鉄板ネタでしたと朗らかにいっていたぞ。
婚約者というものが存在するらしいが、すっかり顔も名前も忘れてしまって、本当に存在してるのかも分からないと言っては、皆を笑わせていたので、多少はこの婚約も役に立っておりましたとな」
婚約者の名前も顔も覚えてないと言うのは本気だったのだと、今更ながらに気がついた。
あちらは、パーティー会場に俺が居ても分からなかったのだ。本当に。
先月のパーティーに出ていなかったことすらも、本当に分かってなかった。
俺が一人で忌々しく眺めてただけで、存在すら忘れられてた。
そんな人間が、レイナをいじめるわけがない。
あれは、本当に親切心だったんだ。俺を慮っての。
「は、はははは」
嫌悪すらなく、無関心だった。俺が忌々しく思ってることすら知らず、たまに、婚約者が居るらしいと、笑いのネタにしてた程度。
それすら、忘れている自分を笑っていただけで、俺を笑っていたわけじゃない。
一人で熱くなって、一人で騒いで。本当に良い笑い物だ。
一年間、嫌だと言い続けていれば、この婚約はすぐになくなっていたんだろう。
「お前は後継から外す。弟の子を引き取って育てることにする。
お前には言わなかったがな、家の評判は悪く、婚約を打診しても断られた。あのご令嬢が最後だったのだ。無理を押して何とか婚約に持ち込んだがこれだ。
そして、ノーニャ、おまえとは離婚だ。我が家の評判の悪さはおまえのせいだ。分かるか? おまえと縁付きたくないから、断られていたんだ。
断られる度に、おまえの評判の悪さを聞いたが、あの頃はおまえの家の後ろ盾が必要だった。だが領地も安定した。これ以上おまえが居ると家が潰れる」
寝耳に水だったようで、母も驚いた顔をしている。
「ノーニャ。お前の意地の悪さは、妃殿下にすら届いていたんだ。家は存続できるのかと時折たずねられるくらいだったが、息子に婚約者もできたので、大丈夫だと答えていた。
まあ、全く大丈夫じゃなかったがな」
最悪は弟に爵位を譲ると力なくつぶやく父親は、部屋に入ってきたときより一回り小さくなったように感じた。
「話は終わりだ。ノーニャは、離縁が済めばすぐに出られるように、荷物をまとめておけ。おまえの両親が引き取ってくれるかは知らないがな」
すでに母の家は代替わりが済んでいる。母の兄、俺にとっての伯父とは折り合いが悪く、代替わりをしてから、家をたずねたことはない。
先代との契約があったため、父は何かとあちらに顔を出していたようだが、それに母が付き添ったことも、俺がついて行ったこともない。
父方のいとこの顔も知らない。
家に遊びに来たこともない。叔父もパーティー会場などで挨拶は交わすが、家をたずねてきたことは俺の知る限りなかったはずだ。
父の言葉で、遠巻きにされていたのだと、うっすらと気が付く。
俺自身は良くても、結婚となれば家の話。婚約してるからと思っていたが、母の評判が悪く嫌煙されていただけだったのか。
その後、父には、結婚は諦めろと言われ、能力があるなら、従兄弟に領地で雇って貰えるように口添えすると言われた。
もう、華やかな場所にはいられないのだと分かり、自分の凋落を実感する。
きちんと彼女と向き合っていれば違ったのか、とも思ったが、どんなに考えても、あの頃の自分が、彼女と向き合って話をする姿が浮かばなかった。
母が見もしなかった手紙を見ていたとしても、多少違っただけで、この結末は変わらなかった気がする。
「結局、俺は母と同じような物か」
母が何をしていたかは聞かなかったが、ろくなことをしていなかったのだろうなとは思う。
如何に自分が周りを気にしていなかったかを思い知らされる。少しでも周りに注意を向けていれば、おそらく何かしら、漏れ聞こえてきたのだろう。
その母はと言えば、母方の伯父は、決して母を受け入れず、母の両親も一時的に母を受け入れはしたが、その後、いつ自分たちが面倒を見られなくなるか分からないと言い、母は修道院に預けられることになったらしい。
それが体の良い厄介払いだと、母本人も気が付いているのだろうか。
どちらにしろ、ここまで来てしまえば、進む道は狭まり、選択肢もなくなる。
これから先を思えば、なんとも気が重くなるが、逃げ場がないだけましかも知れない。どんなに足掻こうと、ここにしか居場所はないのだから。
相手の彼女と母親の名前しかでてこない。(笑)
いや、女の子の名前は出そうかとも思ったんだけど、ご令嬢で良いかなって思ったら、出てこないことになりました。
婚約者より、母親の方がむしろざまあなのではと思わなくもない。
本当は連載で、前後編で対比にしても良いかなって思ったんだけど、面倒で、短編で押し込みました。