第2話 優雅な目覚め
「過労でございます」
屋敷住み込みの医者は、あっさりとそう告げた。
「そうか、助かったよ。ありがとう」
傍らにいるソレリアを安心させるため、ベッドで寝そべったままの私は努めて明るくそう答えた。
あまりの痛みから失神した私は、医務室からすっ飛んできた医者からの診療を受けた。ひと一人が寝るのに相当な余裕、というか頑張れば4人くらいなら一緒に寝られるんじゃないか、という位には大きいベッドの感触を味わいつつ、私はその後の処置について話し合う医者とソレリアの会話をどこか他人事のように眺めていた。そしてふと気になり、膨大な量となってあふれた先ほどの記憶を、もう一度確かめようと試みる。
「うっ!」
「若様!?」
先ほどではないにしろ、鋭い痛みが頭の中を駆け巡った。顔をしかめながら苦痛の声を上げた私に、ソレリアが慌てて声をかけた。
「うーむ。過労と、軽度の栄養失調を起こしてるやもしれません。厨房に言ってなにか滋養のあるものを作らせましょう」
「そ、それではわたくしが行ってまいります。若様、どうかご安静にしていただきますようお願いいたします」
心配そうな様子を崩さないソレリアが部屋を出たのを確認した医者は、一息つくと側の椅子に座って私に話しかけた。
「若様。ソレリア殿から伺いましたよ。おとといから図書室にこもりっきりで、それ以来なにも召し上がっていらっしゃらないようですね。学問に熱心なのは大変結構でございますが、やはり根を詰められるのはよろしくありません」
優しく諭すような医者の言葉だったが、私はむしろ前半の部分に意識が持っていかれた。
「図書室、か」
「さようです。えー、なにか書き物をなさっていたご様子と伺いました。お書きになっていたものはソレリア殿が現在預かっているはずです」
「そうか…。わかった」
おそらく、疲労したように感じた原因は極度の空腹感にあったらしい。その後、ソレリアの持ってきた何やら得体のしれない粥状のものと、少量の白湯を飲むことで体のだるさ自体は相当解消したが、いまだ医者の名前一つ思い出せない自分に対して、だんだんと不安感の方が大きくなっていった。
「お料理は若様のお好きなミルヒライスをご用意しました。お口に合えばよろしいのですが…」
「ミルヒライス、…ということはこれは米か」
どうやら転生先でも記憶の奥底には日本人としての食い意地が引っかかっていたようだ。ミルクと砂糖で甘く煮込まれた米が口の中で優しくほぐれ、じんわりと体の中に栄養が染みていく。
「二人ともありがとう。もうだいぶ楽になったよ」
相変わらず頭が少し重いが、疲労感も空腹感もだいぶ収まった。私は二人に対して感謝を述べる。
「いやはやそれは何よりです。顔の血色も元通りなられましたし、安静にしていれば大丈夫でしょう」
「申し訳ございません若様。わたくしめがついておりながらこのような事態になってしまうとは…」
「あぁいえ、ソレリア殿のせいだけではございません。わたくしとて医者としての見地から若様にご意見申し上げることを怠っておりましたゆえ…」
「いやなに。もう治ったから気にすることはないさ。二人ともご苦労だった。え、ええと、そうだ。持ち場に戻ってよろしいよ」
責任感が強く、誠実な対応を崩さない医者の名前が最後まで出てこなかったのは心が痛むことであったが、当の医者本人はそのことを気にすることなく、一礼ののち部屋を出ていった。
「ふぅ」
ソレリアや医者の態度からして、おそらく自分は相当の忠誠心を向けられている存在らしい。私は一息つくと、残っていたミルヒライスをつつきながら、改めて周辺を見回して状況の確認に意識を向ける。
広さとしては前世のころに住んでいた家のリビングルームくらいはあるだろうか?床には重厚なデザインのカーペットが敷かれ、壁にはなにやら得体のしれない優雅な幾何学的模様が広がり、絹の白い輝きを放つカーテンの向こうにはのどかな田園風景が広がっていた。歴史の教科書でチラッと目にしたようなヨーロッパの貴族らしい住まい空間だ。ここでは、私なんぞよりも側に控えるソレリアのほうがよほど深窓の令嬢というべき雰囲気をまとっていた。
「そういえば…。私が図書室で書いていた紙。あれをもらえるかな?」
さっきの膝枕の感触を振り払うように、私は先ほど医者が言っていた台詞を思い出してソレリアに尋ねる。ひょっとしたら、現状における何かしらの手掛かりになるかもしれない。何しろぶっ倒れる直前まで書いていたものだ。
「それでしたら、こちらに」
部屋の机の上においてあった紙をソレリアから受け取り、目を通した私は一瞬だけ眉をひそめた。
「ソレリア」
「はい若様」
相変わらずの恭しさでソレリアは応じる。
「ちょっと聞きたいんだが、君はこれを読んだかね」
一瞬だけ虚を突かれたような表情を見せたソレリアは、その直後に頭を下げ、落ち着き払った様子で再び口を開く。
「ご安心ください若様。以前に『決して見るな』とのご指示いただいた以上、たとえ若様おつきの侍従といえど、書き物に目を通すことはあってはなりません。もしなにかご不安な部分がございましたら、なんなりと処分をたまわります」
「あ、あぁいやなんでもない。気にしないでくれ」
かつての自分が言ったことなど気にもしてなかった私は、すぐさま非礼を詫びた。
『軽々しく他人を疑うことなかれ。信頼とは、上に立つものが臣下に対して与えることの出来る第一の褒美である…』そんな言い回しが、記憶の奥底から自分自身に向けて警告を発しているようにも感じたのである。
一方で、やや不安げな様子でこちらに視線を飛ばすソレリアを気にしつつも、手元にある紙の内容に意識を注がざるを得なかった。
固い質感を持つそれにブルーブラックのインクで書かれていたのは、おそらく転生前、城崎佳紀としての私の生活を記したものだったからだ。
「なにか変わったこと、でございますか」
「あぁ。やっと一息つけたからね。根を詰めている間に、私がなにか変わったことでも口走ったりしてないか、一応確認しておきたくて」
自身の主人がいきなり転生しましたバンザーイなんて言い出しては当然話がややこしくなるばかりだ。とりあえず私は、ふかふかのベッドの海に半身を沈めながらも、手元の紙を手掛かりとして、自身が今までどういう状態だったのかを把握することにした。
「確か、毎晩変わった夢を見るとおっしゃられていましたから、それ以降図書室に行かれる頻度が多くなりました。普段から勉強熱心ではございましたが、なにか古い時代の歴史書などを熱心にお探しになったりして…」
変わった夢、おそらくそれが前世における日本の生活の記憶のことであろう。ファンタジーな雰囲気漂う世界でのほほんと貴族としての生涯を送っていながら、急に訳の分からない世界の訳の分からない男の人生なんぞを夢に出させられては気になってしょうがないはずだ。「古い時代の歴史書」ということは、その夢が、なにかしら呪術的な影響を受けたものだと見当をつけて調べたということか…。
「そういえば、私はいつから図書室にこもっていたんだ?すまない、そこらあたりの記憶がどうもあいまいでね」
仕組みはわからないが、記憶の覚醒というものはすさまじく脳に負担がかかるらしい。私がさっき感じた頭痛も、おそらくはそれのせいだろう。当然、覚醒する前の私が同様の状態に陥っていたとしても不思議ではない。
「はい、そのことですが…。今から3日ほど前の夕方から、急に図書室に用があるとおっしゃって、私もご一緒させていただきましたが、足りなくなった紙を所望された後は、お独りでひたすらこもりっきりになられまして…」
訳が分からない夢を見続けて不安に駆られたのか、それとも奇妙な体験のせいでハイになったのか。いずれにしても、私が図書室に籠って一心不乱に書き物を始めたのは、なにかしらの衝動に後押しされたことが原因らしい。おそらく、図書室の中で記憶の覚醒が起きて、頭痛のあまりその場で失神したというところか…。
もっとも、考え事をする一方で、私の視線は自然とそばのソレリアの方に向いてしまっていた。前世でほとんど異性との交際経験のない私が、ただ座っているだけでも瀟洒なその姿に胸の高鳴りを覚えるのは仕方のないことであろう。明らかにファンタジー要素満載な色をした髪の毛だが、近くで見ると一本一本が柔らかみのある輝きを放ち、やや憂いがこもった視線を奥底から放つそのつぶらな瞳は、引きこまれるように複雑な緑青色を放っていた。それにしても、本名と、お付きのメイドである彼女の名前はあっさりと思い出せたというのも不思議な話である。
『まぁ、今すぐ考えてもしょうがない。のか?』
ひとまず私は今の現状をよりよく解決するため、彼女に人払いを頼んだのち、まるで天使の羽の上かのように暖かく心地の良いベッドの上で睡眠を楽しむことに決めた。