第24話 いざというときのための準備を、人はそれほど深く考えてはいない
ヘッドセットから飛び込んできた言葉を耳にしたマオは、向こう側に存在している『シーク・ホーク』が発した発言の内容について、その意味するところを理解することができなかった。
『繰り返す!D433便、回避機動を続けるんだ!未確認飛翔体がミサイルを撃墜!』
「…どういう意味ですか?」
「文法の勉強だ。ミサイル『が』未確認飛翔体を撃墜したんじゃない。未確認飛翔体『が』ミサイルを撃墜したんだ」
「私が気になってるのは文法の正確性じゃなくて内容の正確性なんですが」
「俺は文法よりもお堅い管制官が喋る内容の方がよっぽど信頼できると思うぜ」
人類の果てしない探求心を糧にした宇宙文明が発展して発展してもうどうしようもないこの時代において、ミサイルの有効性は地球時代に期待されたそれよりもはるかに限定されてしまっているのは確かである。しかし、それは近接防御に余裕のある大型の軍用艦船か、或いは打撃に対する脆弱性に反して戦場における価値が高い指揮・通信施設や砲兵陣地における話である。せいぜいその全長が50mに満たない単座戦闘艇相当の機体が、強力な電波妨害を発信しているとは言っても、空中管制機によって支援されている戦闘機編隊が発射したミサイルの雨あられを防ぎ切るというのは、あまりに常識はずれな事態であった。
「た、単に戦闘機隊がミサイルを外したってことはないんですか!?」
「ミサイルの心配より自分の心配をしろ。衝突まであと90秒だ」
直前まで落ち着いていた心持ちであったからこそ、事態の急展開を受け入れがたかったマオはしかし、クラウスのある種冷徹なその話口調によってかろうじて冷静さを取り戻すことに成功した。
「フレアとチャフの射出設定がFULLになってるか確認。合図したらケチらずに全部打て」
「設定確認しました。いつでもいけます」
「『シーク・ホーク』へ。どう考えても被弾する可能性の方が高いが、自力の回避機動でどうにかやってみる。そっちは電波妨害でもなんでもやって相手さんの狙いをそらしてくれ」
『D433便。役に立つことが出来ず面目ない。そちらの方で未確認飛翔体は確認できるか』
「あぁ大丈夫だ。画像解析センサーでもこの距離ならだいぶはっきり確認できる」
『了解した。こちらの方でも可能な限り電子支援を実施する。幸運を祈る』
『シーク・ホーク』からの通信を聞き遂げたクラウスは、再び口元に不敵な笑みを取り戻すと、飄々な口調をマオに対して投げかける。
「さぁスペクタクルの時間だ。乗客が居ないのがなんとも残念でしょうがない」
「ど、どうやって回避するつもりなんですか?」
人間、特に軌道往還機のパイロットという人種には大別して2つの類型が存在する。危機を前にして普段通りのパフォーマンスが期待できるタイプと、期待できないにしても努力を示すことが出来る人間。つまりそれはD433便の操縦席に座っている二人のことであり、実際のところ、クラウスとマオの両人にとって、お互いこそだけが、この世界で唯一認識し、頼りにすることが出来る人間であった。
「この機体の熱源は機体上部のエンジンだ。それでもってフレアとチャフの射出口も機体上部に設置されてる。ちょうどいいと思わないか?」
「…射出の合図だけは忘れないでくださいよ」
「当たり前だ。俺はいつでも生き残ることを第一に考えてる」
いかにも格好をつけたようなセリフを放ったクラウスは、視線の先を細かく移動させることで自身が装着するサングラス型HUDの設定を機体制御モードから有視界飛行モードに切り替える。
彼が本当の異変に気付いたのはまさにそのタイミングだった。
「副機長、画像解析センサーに何か変わったことは?」
「へ?…い、いいえ。飛翔体が速度を保ったまま接近している以外には…」
「機体の真正面を見ろ!!50倍設定だ!!」
例え機体の真正面に迫っているのが地面だったとしても、クラウスはそんな風に声を張り上げなかったに違いない。だからこそ、マオが自身の装着するHUDの設定を切り替えるのに多少手間取ってしまったし、だからこそ、目の前に広がるその光景を目の当たりにして、驚きの声すら上げることが出来なかった。
「…なんですか、これ?」
かろうじて絞り出した声は疑問の体裁を保ってはいたが、HUDに搭載された追従機能が捉えることが出来たその空間の歪み、あるいはあきれ返るほどに大きい蜃気楼とでも言えばいいのだろうか。マオのそのセリフは、せいぜい50m相当と誰もが思っていた、あまりにも大きなその『物体』の正体に対する畏怖のそれでしかなかった。
「光学迷彩だ!!」
一方、目の前の事象に対するクラウスの感性は極めて現実的な部分に立脚したものであった。だからこそ、彼はパイロットとして持ちうる全ての知識と経験、そして想像力を即座に総動員することで、突如として現れた超常現象の正体をその一瞬にして看破した。
「50mどころの騒ぎじゃない…!全長500、いや、800mはあるぞ!星系内航船並みの大きさだ!」
「どうやって避けるんですか!?体当たりされたら木っ端みじんですよ!」
「ここまで来たら最初のやり方で押し通すしかない!掴まってろ!」
クラウスがらしく無い叫び声を張り上げると同時に、下向きの慣性がマオの頭の先からつま先まで一斉に襲い掛かる。それでもマオの左手はチャフとフレアの射出を制御するトグルスイッチを完全にとらえていた。
「チャフ、フレア全投射!!」
音の塊のように飛んできたその言葉に弾き出されるように、マオの人差し指が細長いトグルスイッチを捉えて手前に向けて力を入れる。
刹那の一瞬が経過したのち、パッシブレーザーや赤外線、更には画像解析センサーすら欺くための妨害措置が機体上部から射出される。いや、既に機体のキャノピー越しに写り込む光景は天地がひっくり返っていたものであった訳だから、惑星を原点とした座標系で考えた場合、D433便から撒き散らされる煙と光源と金属片はそのまま下方向に向けてすっ飛んでいく。
「すごっ…」
空が広いというのは、山が高いように、そして海が深いように、この世の摂理を示すひとつの事柄として広く理解されている。しかしその一方、パイロットにとって空という空間は法律や航行規則によって厳格に管理されている、意外にも窮屈な場所でもある。もっとも、それらは安全で正確な航行を実現するために必要なルールであるわけだから、窮屈であることに対して別段文句が存在するわけではない。むしろ、空の安全を損なうような危険な航行は、パイロットとして最も忌避すべきものであるというのがマオの意見である。
それでも、である。人生のどこかの瞬間でパイロットを志したような人間が、広い空を、無限の空間を縦横無尽に駆け巡るイメージを抱かない訳がなかったし、それを理想に思わない訳もなかった。ゆえに、それが自身の信条に反するような振る舞いであったとしても、ましてや自身の命に直接的な危険が及ぼされるような状況であったとしても、あまりにも傍若無人で堂々と、そして何より自身の双眸に自由そのものに映ったその飛翔体に対して、彼女は感嘆の言葉を漏らさずにはいられなかった。
「冗談じゃねぇ…ッ!」
さて、世の中には自身の追い求めるロマンチズムを達成させるために、己の存在すら思慮の外に置くことが出来る人物がいる。クラウスはこの場合違った。マオにとってまるで永遠かのように思われたその瞬間は、彼にとってはまさしく須臾の時間でしかなかった。だからこそ、衝突せずにすれ違うことそれ自体は可能であった飛翔体が、今度こそ本物のミサイルを自身が操縦する機体に向けて射出して来たにもかかわらず、うめくような声を上げるしか出来なかった。
「…ッッ損傷は!?」
だとしても直撃だけは回避することが出来た。主観的な下方向に引っ張られていた身体全体の血液が慣性から解放されることで再び循環し始める。とてつもない緊張と急激血流の変化に伴って意識が遠のきかけるが、後ろに向かって急速に離れていく爆音によって辛うじて精神は現実に繋ぎ留められていた。
「ま、待ってください…。自己診断プログラムを今走らせてます、結果が出るまであと8秒…」
「少なくとも口頭で伝えきれないレベルで損傷が発生したことはよくわかった」
誰にぶつけるわけでもない憎まれ口を叩いたクラウスは、その中で小規模なカクテルパーティが開催されていてもおかしくない自身の頭蓋を拳で小突きながら、自己診断プログラムの結果に目を通す。
「…おいおい、こりゃどっちが壊れてるのか分かんないな」
一件発生しただけでも報告書の提出が求められるレベルの重大トラブルが、軒を連ねてHUDに表示されていく。もしすべてを表示させようとすれば、HUDに囲まれた目の前の全てがトラブル発生の警告メッセージによって埋め尽くされていたはずだろう。見るものが見れば現代アート的な創造性を刺激されたかもしれないが、あいにく命を懸けてまで芸術を探求するほど2人は暇人ではなかった。
「多分ですけど、電子制御系が丸ごとイカれちゃったのかもしれません」
「電子制御系がイカれたってことはつまり全部がイカれたってことを意味するんだが大丈夫か?」
「ゆ、油圧による手動制御をすればどうにかなるかと」
「俺たちはついさっきまで、公国の技術の粋を集めたミューオン核融合炉推進型の大気圏往還機を操縦していたと思ってたんだが、今からそのことをすっかり忘れて、核融合炉がなんか知らないけど上の部分に乗っかってるグライダーを操縦しろと、そういうことを言いたいんだな?」
「…そういうことになりますね」
「D433便より『シーク・ホーク』へ。聴こえるか?『シーク・ホーク』、応答せよ」
この状況において、ほんのわずかな逡巡でさえも贅沢極まりない行為であることを、クラウス自身の頭脳は重々承知していた。しかし、空電音すらも流れずに沈黙する無線と相対し、頭を抱え込んだまま熱いシャワーでも浴びて気分をスッキリさせたい思いに駆られるのも、人である以上致し方ない話では合った。
「電波妨害どころの騒ぎじゃない。サージ電流を引き起こすEMP攻撃だ。手の込んだマネしやがって…」
「あの飛翔体は…、結局何なんでしょうか?」
「俺たち二人が仲良く集団幻覚を目撃したっていう線はひとまず無いな。光学迷彩機能を搭載した宇宙艦船だと仮定すれば、何かと辻褄が合う。どおりで画像解析センサーが騙されるはずだ」
「『シーク・ホーク』は、というか、私たち以外の人は、あれの正体に気づいてるんでしょうか…?」
「よほど注意深く観察しないと無理だろうな。俺たちは直接目視の上で確認できたが…、それだけ近くまで接近すればEMPの二番煎じを喰らうのがオチだろ」
「機長。それと、今の飛翔体。てっきり私たちを撃墜するのが目的だと思ってましたけど、どうやらそうじゃなかったみたいですね」
「…どういうことだ?」
「さっき自分で言ってたじゃないですか。ペリカン地上空港のある島、あれが政府の秘密機関だって。あの飛翔体、大まかな航路としてはそっち方面に向かってるはずですよ」
「おいおい勘弁してくれよ…。超能力を信じないカタブツ相手に、ちょっと目の前で手品したらすぐに信じ込むみたいなノリじゃねぇかよ」
「違いますって!とにかく、光学迷彩を搭載した宇宙艦船が、首都上空を飛んでるってだけでもめちゃめちゃ大変な緊急事態じゃないですか!」
「…言われてみればそうだな。いや、そうだ。おい、マジでヤバイぞ!」
「ど、どどどうしましょう?まずは不時着しないといけないんですけど」
「クッソ…、参ったな。のんびり大陸を半周してから海上に不時着水でもすりゃあ良いって思ってたが、こうなったら適当な場所を選んでさっさと降りなきゃダメだぞ」
「い、今から海まで引き返して不時着水するってのはダメなんですか?」
「ダメだ。こっちは直近にミサイルを喰らった機体だぞ?ちょっとした旋回でも空中分解を起こす原因になりかねない。今は機体の状態すらロクに判断できないから、どうせ壊れるならせめて地上付近の方がマシだ」
「そ、それはそうですね。万が一高度がある状態で核融合炉が落っこちたら…」
「つまりそういうことだ。着陸のその瞬間までスペクタクルをお届けすることになったんだから、さっきのお嬢さんが乗っていないのが本当に惜しいな」
気合いを入れ直すように両のほほを叩きながら、クラウスはそうつぶやく。
「機長、一応私も乗ってるんですよ。曲芸飛行につき合わせてください」
平和と安定を愛する凡人であることを志向していたはずのマオは、累計して30分も経過していない一連の経緯でもって、すっかりその信条を忘れ去ってしまった表情でクラウスに喋りかける。
「お前もいっちょ前に言うようになったな。だが、今のお前は観客として不十分だ。いいか?スペクタクルを味合わせるだけの甲斐がある観客っていうのは、プロモーターの顔も、出演者の素性も知らないようなのが良いんだ。『ひょっとしたら墜落するかもしれない』『ひょっとしたら死んでしまうかもしれない』、そんな不安感っつーのを相手に芽生えさせる必要がある訳だよ」
クラウスは語気をだんだんとヒートアップさせながらそう主張する。操縦桿を握りしめる彼を鼓舞させようとする意図は明白であった。対するマオは、特に何を言い返すわけでもなく黙ってその長台詞を聞いていたが、その口元には二ヤけた笑みが浮かんでいた。
「武門たるプロスニッツ家の伝統と将来は、貴方たちにかかっています。そのことを、どうかお忘れなきように」
普段であれば、孫たちに対して、特に末子である自身に対してはおおよそ無尽蔵ともいえる愛情と慈しみを注ぐ祖母であったが、その時に限っては厳粛で、そして威厳のある空気を湛えていた。
夕食の席であった。家格としては他の首都防衛諸侯家に対していくらか譲るものの、公国騎士家と言えば曲がりなりにも領邦貴族の一員であることに違いはない。一般的な国民が生涯かけて手に入れるそれよりも二回りは大きいだけの屋敷には住んでいたし、加えてその日はお祝いの席だったはずだ。食堂の長テーブルの上には、住み込みの料理人たちが特に腕を振るったご馳走が並んでいた。
「ご安心くださいおばあさま。私は…」
長子たる兄が、得意げな表情で自身が公国軍士官学校で順調な学生生活を送っている旨を語る。いささか尊大な部分はあったが、それを補って余りある人間的な魅力、いわゆる『カリスマ性』を備えた人物であった。
「お兄様ばかりに良い格好をさせてる訳にはいきません。私も良いご報告が…」
3兄妹の真ん中に位置する姉が、公国軍士官学校に合格したことをそこで発表する。学業はもちろんだが、未来の将校を選抜するための試験である。体力面も評価対象となる厳しいモノだったはずだ。それでも文武の面で共に秀でた姉なら問題なかったはずだろう。母や父に兄、それに周囲で控える使用人たちが揃って拍手をし、姉の生涯最初の『戦果』を称える。テーブルの奥に鎮座する祖母も、満足げな表情を浮かべていた。
「…」
明るい空気に満ちたその空間は、3人兄妹の末子、ヨゼフィーネにとってみれば、居心地の悪いものでしかなかった。そもそも歳の離れた兄と姉なのだ。10にもならない自身と比較にすらならない。一般的な同学年と比べて遥かに優秀な学業成績を修めている彼女にとって、頭でそのことを理解することはそれほど難しい事ではなかった。
「フィーネ。貴方の学業成績も見せてもらいました。頑張っていますね。私としても鼻が高いですわ」
「あ、ありがとうございます」
大好きな祖母からの称賛である。本来であれば心から温かみを感じられるはずの言葉であったが、今のヨゼフィーネは頭を下げてぎこちない返答しかできなかった。そして頭を下げた視線の先に、膝の上にちょこんと乗っかる自身の小さい手元が映る。
『小さい…』
…悲しいかな。優秀な兄と姉、そして自身との間に確たる隔たりが存在しているのを、頭で理解していたとしても、納得出来るかどうかはまた別問題である。もっとも、彼女が兄や姉を含む家族から厭われている訳ではない。端的に言えば、彼女の感じている『隔たり』とは幼年期特有の劣等感…、即ち自分自身の物事の捉え方に由来していたのだが、頭の良い彼女であっても、そうした精神的な自縄自縛に気づけるほど考え方の部分について成熟しているわけではなかった。
「さぁさぁ、皆さんいただきましょう。せっかくのお祝いです。冷めてしまっては料理人たちも浮かばれますまい」
にこやかなやり取りがひと段落したところで、父親が声を上げて食事を促す。慶事に併せて揃って食卓を囲むことは、一族の結束を重視する領邦貴族にとって喜ばしい時間である。保守的・貴族的な傾向の強いアウステルリッツ公国において、特にその風潮は根強かった。
「ほほぉ、このポルケッタは特に出来がいい。そうそう食べられるものじゃないな。もっと寄越してくれ」
「ヘルベルトったら、士官学校であまり食べられませんからね。味覚が研ぎ澄まされているんでしょうか」
「あぁ。入学できたのは喜ばしいことですが、クレーデルの料理が食べられなくなるのは憂鬱ですわ」
「あそこに入れば、食事も訓練の一環になりますからね。ですが、皆で食卓を囲むことを忘れてはいけませんよ。将校たるもの、部下とは一蓮托生。寝食を共にしてこそ、精強な部隊につながるのです」
特に体格の良い父と兄は当然として、普段から活動的な姉もその分よく食べる。既に現役を退いた祖母も、かつては師団を率いた経験のあるバリバリの現場指揮官であったし、現在でもトレーニングを欠かさず、歳に似合わない頑健さを誇っているから、当然よく食べる。これが食事を用意した料理人であれば、さぞかし満足のいくような景色であっただろう。しかし、決して活発的とはいえず、ごくごく一般的な同年代と比べても小食気味なヨゼフィーネにしてみれば、ただただ圧倒される光景であった。
「フィーネは脂身があまり好きじゃなかったな。丁度いい、父と獲ってきた鹿モモ肉のローストがあったろう?あれなら美味しく食べられるはずだ」
「おぉ、そうだったな。春先の獲物だから余計な脂もついていないだろう」
「あら、獲物の鹿ですか?相変わらずフィーネに甘いですね。兄さま」
兄の指示に従い、給仕を担う使用人が薄切りの鹿肉ローストを乗せた白磁の皿をヨゼフィーネの前に差し出す。確かに鹿肉はヨゼフィーネの好物であった。コンプレックスを抱える彼女であっても、その提案が兄による本心からの善意であることは理解できていたし、自身が家族の一員として大事にされていることを無意識のうちに実感できる出来事でもあった。
「あ、…ありがとうございますお兄様。それでは」
ヨゼフィーネは遠慮がちに感謝の言葉を述べると、ゆっくりとナイフを差し込み、切れ端を口元に運ぶ。血抜き自体はしているがそれでも時間の経っていない新鮮な鹿肉だ。口に入れずとも濃厚な、まるで鉄錆のようなツンとした香りが彼女の鼻腔をくすぐり…。
「…ッゲホ!!ッゲホ!!」
衝撃を受けて硬直していた身体が突如覚醒したプロスニッツ少尉は、抑えようのない生理現象によって喉奥に入り込んだ砂ぼこりを無理やり排出しようとする。
「…長、…ょう隊長!!そこですか!?」
気付かないうちに仰向けの状態で倒れてしまっていたらしい。顔を横に向けて、口の中にまとわりついた砂利を吐き出そうとするが、からからに乾いた口内ではそれすら難しい作業だった。口から息を吸おうとしても、口内の砂が喉奥まで入り込んでしまうため、咄嗟に片手を口元に持っていこうとするが、その瞬間、自身がとてつもなく思い何かの下敷きになっていたことに気づいた。
「待ってください!今モース兵長をどけますから…っ!」
ウル軍曹の必死な掛け声が聞こえたと思った直後、眩いばかりの日の光と新鮮な空気がプロスニッツ少尉に降りかかる。自身に覆いかぶさるように倒れ込んでいたモース兵長は、自身をどかそうとするウル軍曹に対して特に抵抗することなく、どさりと音を奏でながらそのまま横向きに転がった。
「小隊長、ご無事で!?」
ウル軍曹の呼びかけに答える為、そして、重いものが急にどかされた開放感から、思わず上体を持ち上げたプロスニッツ少尉だが、そのほんのちょっとした動作によって、こわばっていた筋肉に溜まっていた血流が一気に巡りだし、とんでもないめまいに襲われる。
「たまげま…よ。…が、いきなり…した……で」
「す、すみません。…み、耳がまだ聞こえなくて…」
声色からして、駆け足で近づいてきたマッシュ軍曹だろうか。視界が白っぽい光で満たされ、酩酊状態に近しい感覚に襲われていたプロスニッツ少尉は、筋肉の強張っている喉からそう言葉を絞り出すと、少しでも正気をかき集める為、掌で自身の頭を殴りつける。
「おっとおっと小隊長、落ち着いてください。まずは深呼吸です。口の中の砂をほら、吐き出して」
目の前で自分の頭を殴りだした小隊長の腕を片手で鷲掴みしたマッシュ軍曹は、そのまま彼女の頭を地面に向かせてヘルメットを外す。耳元が隠れるくらいまで丁寧に切り揃えられた黒髪が、重力に曳かれてさらりと垂れ下がるが、同時に口の中に容赦なくマッシュ軍曹の指がねじ込まれ、口腔内にたまった砂を強制的に掻きだし始める。
「う…、おえ…」
口の中に冷たい異物を突っ込まれるのは不快極まる動作であったが、それでも平衡感覚すら失った彼女自身にとっては必要な介抱であった。ゆっくりと、落ち着きを取り戻しながら口の中の土ぼこりを吐き出し、代わりに新鮮な空気をゆっくりと吸い込む。
「も、もう大丈夫です。ありがとうございます軍曹…」
まだ少しふらつくし、視界もぼやけている。それでもある程度まで人間らしい感覚を取り戻したプロスニッツ少尉は、小隊長としての職責に付随した様々な役割を思い出す。まずは人員の把握をしないといけない…。そう思いながら、自身の体を持ち上げるために地面に手をついた瞬間、柔らかな、それでいてごわごわとした感覚に包まれた。
「すみません、モース兵長。状況が状況です、警備本部に通信を…」
どうやら倒れ込んでいたモース兵長を片手で踏んづけてしまったようだ。謝罪もそこそこに、焦点の定まらない視線をモース兵長に向けた瞬間、思わず彼女の身体は硬直した。
「へ、兵長…」
爆風で吹き飛ばされた破片をもろに喰らってしまったのだろう。右腕の大半と、下あご部分がすっかり吹き飛ばされており、収まるべき部分を失った舌の部分がだらんと垂れ下がっていた。その姿によって、緑と黒のドーランで塗りたくった顔面であっても、一枚めくれば人間なんてものは単なる肉の塊に過ぎないことを、よくよく分からせてくれていたのであった。
「小隊長、安心して下さい。こんななりですが、兵長はまだ息をしています。医務室まで運ぶ訳にはいきませんが、応急処置をして安全な場所に移動させれば命は助かるはずです」
「わ、分かりました。では、マッシュ軍曹、急いで処置を…」
冷静極まりないその言葉は、プロスニッツ少尉の精神を辛うじて繋ぎとめた。そして、藁にもすがるような思いで後ろを振り向き、その場にいるマッシュ軍曹とウル軍曹を視界に捉えた彼女は、今度こそ言葉を失った。
「あー…」
プロスニッツ少尉ともろに目が合い、ウル軍曹は気まずそうな声を上げる。
一瞬だけ、プロスニッツ少尉は自身の視覚が深刻な機能不全に陥ってるのではないかと疑問に思った。しかし、木陰に阻まれることでほどよいはずだったはずの日差しが、容赦なく照り付けているのだ。見間違えることなんてありえない。あるいは認知機能そのものが錯乱状態にあるのだろうか?いや、自身の配属先である屋敷が半壊状態にあるのは信じがたいが、ミサイルの爆撃を受けてそうなってしまうことは想像に難くない。で、あれば、やはり見たままのそれが間違いのない事実なのであろう。応急処置キットから取り出した包帯と冷却噴霧材を抱えるウル軍曹の腕は、人造皮膚が焼け落ちて鈍い金属光沢を放っていた。加えて、もろに破片を喰らったのであろう。腹部を覆っていた金属プレートはズタズタに引き裂かれ、配線と機械油がそこから漏れ出ていた。
「…小隊長。大丈夫ですか?」
ゆっくりと、不用意な刺激を与えないよう心掛けながらマッシュ軍曹が尋ねる。とはいえ、彼は彼で破片こそ喰らわなかった一方、爆風による熱波によって顔面を覆う人造皮膚のほとんどが焼き付いたまま金属製の顔骨格にこびり付き、首元を支える脊椎のパーツが露出してしまっている状況であった。
もっともプロスニッツ少尉自身、深刻な戦傷を負った自身の部下の多くが、身体の大半を機械部品によって機能させていることを知識としては知っていた。そもそも補充兵という名称自体、『機械によって、身体の部品を『補充』ないしは『代替』された兵士』といったニュアンスに基づいている。とはいえ、配属されるのは本来危険の少ない現場なのだ。手ひどい戦傷を背負い、あるがままの姿を晒す機会なんて、普通に考えればあるはずもなかった。である以上、武門貴族として、血肉にまみれた戦場に赴くだけの覚悟をそれなりに有していたプロスニッツ少尉であっても、余りに現実味のないその光景に、焼け焦げた人造皮膚特有の酸化した脂のような匂い。加えて急激に与えられた過度なストレスを前にして、腹部に由来する深刻な反射を起こさずにはいられなかった。
「うぅ……ッッ!!」
しかし、プロスニッツ少尉は両手で口を抑えながら深くうつむくと、小さい身体そのものを小刻みに震えながらも胃の中の不快感をその場でぶちまけることなく、凄まじい、しかしごくごく短い葛藤の末に、『それ』を再び胃の中に戻して見せた。
『…お、飲み込んだか』
マッシュ軍曹の義眼の奥に内蔵された有機シリコン製の虹彩。それらによって囲まれた瞳孔部分が、意外な光景を目の当たりにして僅かに拡大された。
初めての戦場で嘔吐をするのは決して珍しい事でも、ましてや非難や中傷の対象にすることでもない。公国医学界における消化器分野の名医としてその名を残し、第8代アウステルリッツ公爵の盲腸摘出手術の執刀医としても抜擢されたルーカス・フォン・バルヒェット医師も、軍医時代における自身の経験を盛り込んで執筆した医学指南書である『貴方が戦場で嘔吐するべきこれだけの理由』において、医学的見地から嘔吐の我慢がいかに人体に悪影響を与えるのかを力説している。ちなみに同書は医学的な評価よりもむしろ『過度な虚飾や虚栄を廃し、冷徹な学術的視点に立脚して戦場のあるがままを明晰に記述した』ことによる文学的功績を評価され、公国学芸省主催秋の文化・芸術大賞を受賞したことで有名である。
とはいえ、である。ほとんど生理的反射的に発生してしまう嘔吐を飲み込むその行動は、医学的見地をひとまず置いておいても評価すべき、根性ある振る舞いなのは確かであった。
「…し、失礼しました軍曹。モース兵長の処置をお願いします」
「了解しました」
普段は人造皮膚によって覆い隠されたモーター駆動の関節をわずかに響かせながら、マッシュ軍曹はモース兵長の傍まで駆け寄る。
「小隊長、兵長の処置に入るのはともかくとして、この場から早急に離れる必要があります。敵による第2射が来ないのは奇跡に近いはずで…」
「いえ、その必要はありません」
逆流した胃液をさらに飲み込んだことで、喉元から食道を中心に不快感が纏わりついているのだろう。顔をしかめながらではあったがしかし、彼女がウル軍曹に向ける目線と声色には冷静さが染みついていた。
「本部周辺に設置されている早期警戒レーダーを搔い潜れるだけのミサイルです。可能性を考えるのであれば、潜水艦をはじめとした海中ドメインからの打撃であるはず。…とはいえ、防衛総軍所属の艦艇部隊からの哨戒をすり抜けるだけの射撃アセットは限られているハズです。で、あれば…」
「あるかどうかも分からない、貴重なもう一撃を易々と消費する訳じゃないと?」
「…予想、ですけど」
「いえ、おっしゃる通りです。マッシュ軍曹、兵長はどうだ?」
「止血は出来ました。この場で安静にしておけば、少しの間はどうにかなるはずです。補充兵向きの根性の持ち主ですね。本人がなりたがるかどうかは別ですけど」
「では、どうしましょう小隊長?敵の狙いは、この施設にご来訪いただいているハズの貴族サマでしょう。さっさと中に入って、警備部隊と合流を目指すのが良いかと。屋敷部分は半壊状態にはありますが、肝心の収容施設そのものは無事のはずです」
動作を確認するように関節部分を動かしながら、ウル軍曹が尋ねる。実際、身体の機能を代替するだけの精密機械が爆風をまともに受け止めれば、多少なりとも動作不良を起こしている可能性もありえるのだが、少なくとも補充兵に対してはそういった常識は当てはまらないらしい。
「…マッシュ軍曹、屋敷に戻って情報を取ってきてください。ウル軍曹と私は施設周辺の警戒を続け、周辺警戒に当たっていた兵士たちとの合流を目指します」
「…戻らないつもりですか?」
非難がましい…とまではいかなかったが、それでもウル軍曹の視線に意外性を見出す成分が含まれていたのは確かである。なにせ嘔吐すら飲み込むくらいには根性のある貴族将校だ。より高位の貴族を守るため、がむしゃらに施設の奥深くまで突き進むくらいはするはずだ。…そんな予想は、軍人としては妥当なものだったのかもしれないが、少なくとも生来からの武門貴族であるプロスニッツ少尉の発想は異なっていた。
「まず、お伝えしておきましょう。本日、当施設はバイエルン侯爵令嬢であらせられるリーゼロッテ・フォン・バイエルン=アウステルリッツ様にご来訪いただいています」
「は?…侯爵!?」
「バイエルン侯爵家って、おいあれか?統合参謀本部総長のとこかよ…!?そりゃ機密指定モンだわな…」
貴族制度が創設されて500年が経過しようとしている。時にはお貴族サマを揶揄するようなジョークを飛ばし、目の前でミサイルが炸裂しても平常心を保っていた図太い彼らにして、思わず驚愕の表情を浮かべさせるほど素朴な権威性を根付かせるのは、おそらく十分の時間だったのだろう。
「であるからこそ、我々は恥の無いよう、己が責務を果たさなければなりません」
当然、時間の重みというのは、端くれとはいえ、歴史ある武門貴族の一員たる彼女に対しても重くのしかかっていた。実際のところ、内心では迷いもあったし、なんなら森林部に潜伏してるであろう敵の存在に対して対して恐怖心すら抱いていた。であっても、…いや、であるからこそ、『大貴族の身辺を護衛する』ことを大義名分として、周辺に未だに存在しているかもしれない敵の存在を見逃すことは、小柄な彼女の抱える責任感が許すような行動では到底なかった。
「了解しました。では一旦警備本部まで向かいます。通信もつながりませんから、事前の警備ルートの沿って警戒を進めてください。30分後…、遅ければ1時間後には追いつきます。どうぞご無事で」
「お、お願いしますマッシュ軍曹」
「あと、もう一つ」
時間の浪費は許されない。マッシュ軍曹とて、そんなことは百も承知なはずだったのだろうが、それでも軍曹はプロスニッツ少尉を呼び止め、そして言葉を繋ぐ。
「もっと堂々と振舞っても罰は当たりませんよ。むしろ、お貴族様であるならもう少し威厳を振りまいた方が、部下としても付いていく甲斐があるってもんです」
「は…?」
こんなタイミングで指摘されるとは夢にも思ってもなかったのだろう。ぽかんとした表情を浮かべた新任の貴族将校は、四肢を失ってもなお軍人としての役目を果たそうとする兵士の顔を見返し、そして慌てて言葉を紡ぐ。
「そ、そんな。…いえ、私も騎士階級ではありますが、それでも、命を懸けて戦闘に従事した貴方がたと比べてひよっこにすぎません。だから…」
「何言ってるんですか。目の前でミサイルが落っこちたのに、吐きかけたブツをギリギリのところで飲み込めるくらい根性のあるお人なのは、私もアッシュ軍曹も分かってますよ」
「ウル軍曹!わ、分かってたんですか!?」
動揺を隠しきれないプロスニッツ少尉を見やり、軍曹たちは口元に笑みを浮かべる。本人にとっては不本意な経緯であったかもしれないが、少なくとも、数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の補充兵相手に対し、目の前の新任貴族将校は多少ながらも信頼を得ることが出来たようだった。
「では、行ってまいります軍曹。後は手筈通りに」
「ぐ…、分かりまし…、いや、分かった」
恥じらいに由来するのだろうか。顔を赤くしながら、プロスニッツ少尉はマッシュ軍曹を見送る。
「ウル軍曹、先導を」
「了解しました」
自身の感情を誤魔化すようにAst422のスリングを肩にかけ直したプロスニッツ少尉は、歴戦の軍曹たちがむしろ笑ってしまいそうになるくらい真面目腐った表情を浮かべながら、正真正銘の戦場と化しつつある森林部へ歩みを進めた。
「…こちらが、防衛総軍所属の人工衛星から撮影された画像です。本島北部の港湾施設に対し攻勢を実施している部隊が敵の主攻と見て、まず間違いないはずです」
「輸送潜水艦からの強襲上陸か…。切り札も良い所だな。例の巡航ミサイルもこの潜水艦からのものか?」
配線と配管がむき出しになった薄暗い地下通路を突き進みながら、収容所長は側に控える憲兵隊長からの報告に対して顔をゆがめる。
「いえ、情報部による一次解析の結果、おそらく輸送任務を実施しているこちらの潜水艦に、巡航ミサイルを用いた打撃能力は無いものと思われます。発射地点は既に判明していますので、付近の海域にて偵察航空隊が哨戒飛行を実施中です」
「であれば、今しばらくは増援無しで耐え抜かねばなりませんね」
リーゼロッテがポツリと呟く。意識したわけではないのだろうが、その怜悧な声色を聞いて、収容所長は思わず背筋が凍る感覚に襲われた。収容所長に付き従う憲兵たちも、いかつい顔を強張らせている。実力があるがいまいちやる気の無い補充兵を中心に構成される収容所配属部隊にあって、要人警護を担う憲兵部隊は名実ともに精兵と称して良いだけの実力を持っているが、そうであっても目の前の貴人を守る責任は余りに重大であった。
「森林部に潜伏している破壊工作部隊への対応はどうなっていますか?」
「その点についてはご安心ください。現在、プロスニッツ少尉指揮の警備第2中隊第1小隊が中心となって対応を行っています。直接の通信自体はつながっていませんが、同部隊の伝令が警備本部に直接状況を報告したそうです」
「プロスニッツ…。なるほど、因果なものですね」
「は、何か?」
「いえ、単なる独り言です」
一瞬だけ表情を緩めた貴族令嬢はしかし、再び鋭い視線を取り戻すと、所長らに対して質問を飛ばす。
「敵兵力の規模のほどは?」
「詳細については未確認ですが、港湾施設においては砲迫やロケット弾による攻撃も報告されています。森林部に潜伏している敵部隊についても規模は同様のものかと。少なくとも、収容施設に立てこもるのは得策ではありません」
「また性懲りもなく重火器なんぞ引っ張り出して、…戦争を吹っ掛けてくるつもりですことッ!?」
心底うんざりするような彼女の発言は、銀河帝国における貴族と、それに反抗する擾乱勢力が数百年単位に渡ってお互いに積み重ねてきた闘争の重みを実感させるものであった。
「今から向かう地下通信施設ですが、辺境総督府時代に作られたものです。かなりの年代物ですが、構造自体は頑丈に作られていますのでご安心ください」
一見して通路の行き止まりまでたどり着くと、護衛の一人が地面に敷いてあった敷物を引っぺがし、一見して便利な地下収納のように見えなくもない扉に手をかけて上に引っ張る。
「こちらへどうぞ」
扉の下には金属製ながら年季が入ってくたびれた雰囲気を醸し出す階段が伸びており、更にその向こうには、炭坑と下水道と地下トンネルを組み合わせたような、要するに陰気臭く如何にも逃走ルートっぽい雰囲気を醸し出す空間が広がっていた。
「定期的に整備はしていますが、足元にはお気を付けください」
むしろ心配な気持ちがより増幅される言葉を聞き流しながら、一列になって地面まで下りていく。通路の天井部分にへばり付いた数本の電線だけでその余命を保っている電球が、頼りないながらも必要最低限の光源を提供していた。慣れない人が走れば50mもしないうちに足元を取られて転んでしまいそうなものだが、所長の側を付き従う数名の護衛や諜報員として活動する必要から並みの軍人以上に体力の余裕があるテオドラは当然ならが、大貴族のご令嬢であるリーゼロッテであっても、体力的な側面について余計な心配をすることは皆無であった。
元来、帝国における貴族、特に爵位を有して一般的に大貴族と称される地位にある人物というのは、その外見や行動、あるいは発言や思想といった要素に関係なく、ただ存在するだけで周囲から価値を認められる非常に稀有で、そして都合の良い存在である。そういう側面だけ切り取れば、蝶よ花よと育てられた貴族が薄暗い地下通路を駆けずり回る必要なんぞ無さそうなものなのだが、ただ一方で、非常に皮肉に満ちて逆説的な話ではあるのだが、本人が特に糾弾されるような悪いことを別段していなかったとしても、というか、本来であれば多くの人から称賛されるような素晴しい善性を持ち合わせていたとしても、「大貴族だから」という理由だけで彼彼女らは時に疎まれ、時に嫌われ、時に命を狙われる存在でもある。そのうえで、大貴族本人が一体どのような人物像を形成しているかはこの際関係ない。例え未だ言語を解さずにちょっとした移動すら自らの思い通りにならない幼児であっても、わざわざ他人が手を下さずともそのうち死んでしまいかねないほど衰弱した老人であっても、貴族として存在する上で伴い得るあらゆる責任がそこに降りかかる。
本質的には10代の麗らかな少女に過ぎないはずのリーゼロッテと、その安全に対して責任を有する一行。そして訳が分からないまま頭に布を被せられて強制的に歩かされている一人が、500年どころか500万年くらいは経過していてもおかしくはない遺跡級の地下通路に潜り込み、その内部を走り回っているのも、究極的にはそのような理由に基づいていた。
「彼我の状況について、改めて報告して頂戴」
それなりの全力疾走にもかかわらず、全く息も上がらないままリーゼロッテは更なる現状把握に努める。
「ハイ。まず、敵兵力は本島北部の港湾施設に対して、一部機甲戦力を備えた1個中隊に相当する兵力の着上陸を既に完了しています。当該施設に固有の警備兵力では既に対応に限界がありますので、港湾施設より南部に位置している採石場付近を防衛ラインに設定し、敵の迎撃準備に当たっています」
「結構です。敵部隊の企図について、本施設の責任者である卿はどのように考えますか?」
リーゼロッテが怜悧な声で相手に喋りかけるのは今に始まったことではないが、それでも自身に対して責任のあり様を明確に求める問いかけに対して、収容所長は内心で冷や汗をかきつつも、可能な限り明晰な返答を心掛ける。
「当然ながら、閣下のご訪問は機密事項に指定のうえ、本施設における情報の取り扱いについても適切な管理を心掛けております。ですので、少なくとも敵兵力が、閣下のご身辺に対して危害を加える意図をもって、攻勢を実施している可能性は低いかと思われます」
「そう。で、他に考えられる可能性は?」
「はい。敵兵力の規模および襲撃が実施されたタイミングから推測して、おそらく…」
「そう」
台詞の末尾を言いよどんだ所長であったが、それでもリーゼロッテが彼の意図を理解するのに皆までは必要なかった。
であるため、淑女である彼女が一度走るのを止めて、優雅なしぐさでベルナデーテの首根っこを掴んだままごつごつとした壁に押し付けたのも、彼女なりの確信があるがためであった。
「…布なんか被せられてるからさぁ、アタシを絞め殺そうとしてるのが誰かわからないんだけど、例のお嬢様がやってるっていう認識で大丈夫?」
両手の自由を拘束されて更に視界まで奪われるという、武装集団から逃走するに際して最悪なコンディションを強いられていたベルナデーテはしかし、それでも我が身恋しさ故なのか、文句ひとつ言わずに黙ってついて来てはいた。しかし、ここまで明確な敵意を向けられれば文句の一つや二つ言うのは当然以上の権利といってよかっただろう。もっとも、大貴族の令嬢が悪党に対してひとかけらでも権利の所在を認めるかどうか、甚だ疑問であるわけだが。
「薄汚い小悪党相手にここまで神経を割いてあげることに感謝してほしいくらいですが…」
よほど悪役らしいセリフを口にしながら、リーゼロッテは首根っこをつかむ手にさらに力を込めて詰問する。
「武装集団が、捕虜であるあなたの奪還、ないしは『口止め』を意図しているのはおおよそ間違いないはずです。何か分かってることを貴方が口にすれば、幾分か楽になることを保証して差し上げますわ」
「…なんも分からないって言えば?」
「もっと楽にして差し上げてもよくってよ?」
「…ッフ」
一般的に報道されている事実以上にリーゼロッテという人物の人となりを知っている者であれば、彼女が口にする台詞が脅しを超えた内容を含んでいることを理解出来ていたであろう。まぁ、だとしてもである。宇宙海賊という生き方をしていた彼女が、脅しに対して吹き出すような笑いで応じるのも全くもって不自然な話ではなかった。
「一応確認したいんだけどさ、公爵家にとって、保有してる無人島にいきなり武装した一個中隊が上陸してくるってのはよくあることなのか?よっぽど恨まれてるみたいだね」
その表情をうかがい知ることは出来ないものの、口元の両端に相手を軽んじるような笑みを浮かべる様が容易に想像できる言い草で、ベルナデーテは大貴族の令嬢にそう問いかける。陰鬱な雰囲気が漂うトンネル内の壁に首元を押し付けられ、昆虫の標本かのような体勢を強いられている割には、非常に堂々とした態度といえた。
「一個艦隊をもって宇宙空間を航行中の輸送船団相手に襲い掛かる方が、よほど礼を失しているとは思いませんこと?」
「…まぁ、それもそうか」
暴力的な面を見せると同時に、まっとうな態度で正論を述べるリーゼロッテの振る舞いは貴族の二面性を端的に示すものであった。
実際に、『銀河帝国』という単一の国家組織のもとで政治的に統合される人類社会においてなお、公爵家は200隻前後の艦船から構成される宇宙艦隊や、数百万単位から構築される地上戦域軍を複数個保有している。これはなにも公爵家が無為な使命感に駆られて軍備に関する特段の浪費を行っているというわけでは決してない。むしろ、宇宙海賊の私掠船戦術や、麻薬や武器をはじめとした密輸集団によるテロ攻撃、あるいは公国領内に所在する自治領において分離独立を名目とした武装蜂起などなどなど。公国内に潜在的にも顕在的にも懸念されるあらゆる脅威に対して、迅速な対応を実現するうえで、これらの兵力は無くてはならない存在であるわけだ。
「侯世子閣下。お気持ちはごもっともですが、この者も宇宙海賊とはいえ相応の立場にあったはずです。そう易々と口を割ることはないかと」
タイミングを見計らったテオドラが、貴族令嬢の気まぐれをなだめるためリーゼロッテ相手にささやきかける。
「…状況が状況ですので、この際は卿の言うとおりに致しましょう」
荒れ狂う暴力性に匹敵するだけの強烈な理性によって、大貴族のご令嬢が宇宙海賊相手に向けていた興味を急速に薄れさせる。と同時に、優美さを感じさせるほっそりとした腕が発揮させていた万力のような圧力が消えることで、ベルナデーテはそのまま壁と重力に沿いながら崩れ落ちるが、今度はローゼルがベルナデーテの肩を鷲掴みにして無理やり持ち上げる。尻もちをつくだけの余裕も彼女には与えられていなかった。
「…ゴホッ、ゴホッ!!…ったく、何喰ったら細い指にそんだけ筋肉がつくんだよ」
慄くよりもむしろあきれ返るような台詞はしかし、より対応を優先すべき他の事態によってかき消された。
「停電です!」
必要最低限しか提供されてなかったとしても、無くなってしまえばそのありがたさが身に染みるものである。一瞬だけ電球が瞬いたかと思うと、周囲は完全な暗黒に包まれた。一部の配線部分に限った故障であればどこからか漏れる光が頼りになったはずであるが、それすらも望めない状況は確かに停電そのものでしかなかった。
「発電施設に攻撃を…?」
憲兵たちが揃ってフラッシュライトを点灯させることで、一寸先が闇と化す最悪すぎてもはやアホらしい状況を一旦は回避することが出来た。だとしても、破壊工作から逃れるため地下施設として構築された発電施設が打撃を受けたという事実は、事態がより一層深刻であることを端的示していた。
「おいおい、港湾施設への攻撃はブラフってことかい?」
ベルナデーテの質問は、既に鎮静化されたリーゼロッテの神経を再び、そして著しく逆なでするものであった。深刻さと丁寧さをまるで感じさせない口調だったのもそうであるが、むしろ質問の内容が敵の戦術的優位性を暗に示す鋭いものだったのが主な原因である。一方でテオドラはあくまで落ち着いた態度を心掛けつつ、貴族令嬢に対して丁寧な説得を試みる。
「閣下。北部の港湾施設に圧力を与えることも、敵にとっては必要な戦術行動のはずです。おそらく少数の工作部隊が後方まで侵出し、破壊工作に取り掛かったということでしょう」
「では、この状況へ対応することを考え過ぎるあまり、北部への展開を準備している我が方の主兵力を、収容施設のある南部まで引き返させるのは、戦術的な観点からみて賢い行動とは言い難いですわね」
「おそらくは…。ですが、既に我が方の深部に浸透している敵の遊撃部隊に対応し、我々の護衛を強化する目的に限れば、北部に展開予定の部隊の一部か、あるいは後方にてゲリラ狩りを実施している警備第2中隊に対して応援を要請するのは、この場合適正な対応と考えます」
「結構です。ですが、私としてはより積極的な対応が必要だと考えます」
口調そのものは淡々としていた一方で、貴族令嬢が続いて述べる内容はより一層オフェンシブなモノであった。
「護衛の強化は不要です。警備第2中隊も含め、地上における掃討に注力させましょう。なにせ時間がありません」
「…恐れながら閣下。現状において、敵の目標はこちらの捕虜にあると考えるのが自然ですが、閣下の存在はそれと比べても遥かに枢要なものです。我々はひとまずこの場で待機し、増援と合流することを優先すべきかと」
「閣下。本施設の安全に対して全責任を負う立場としましても、情報管理官殿の意見に同意致します。どうか、ご安全な対応をお心がけいただけますでしょうか」
めんどくさいことになった…。わざわざ口に出してそのように物申す恐れ知らずはさすがにいなかったが、テオドラや所長の発言の延長線上に、そう言った感情があることは確かだった。
「ローゼル。施設内部における経路は把握してますこと?」
「問題ございませんお嬢様」
「よろしい。捕虜の護送は所長を含めた施設職員の皆様にお任せします。ローゼルとフロイツハイムは私についてきなさい。よろしいですか?」
リーダーシップには様々な形がある。集団の意見を尊重し、折衷案的な方針を重視するタイプや、独断専行をモットーとし、スピーディさを重視するタイプなどがそうである。リーゼロッテはこの場合典型的な後者であった。これは『民を導く指導者像』を尊ぶより古風な臣民的風潮に合致したものであるが、むしろリーゼロッテ自身の生来の気質に由来するものといってよい。しかしながら、強権的に振る舞い、周囲を自身の思い通りにさせることがリーダーシップの在り方であると考えるのも一方で早計である。事実として、相応の距離を移動するに際して、敵兵力による当面の標的である捕虜と、悪党たちによる永遠の標的である貴族という二つの高価値目標を分散させるのは確かに合理的な判断とは言えた。
もっとも、万が一にもリーゼロッテ自身が負傷した場合、とんでもない責任問題が発生しかねないことを考えれば、周囲としてもある程度の合理性を排除したうえで、出来る限りの護衛を付けておきたいというのが本音である。それを分かっているからこそ、テオドラは一縷の望みにかけて近侍のローゼルに小声で話しかけてみる。
「…ローゼル殿。仮定での話ではございますがね、閣下に対し万が一…、そう万が一なんですが、御身のご安全に危険の加わる事態があった場合、バイエルン侯爵を始め、多くの人々が悲しまれるはずです。どうか、ローゼル殿から閣下ご本人をどうか説得していただいて…」
「テオドラ様」
耳元で切りそろえられたプラチナブロンド色の髪をほんの僅かに揺らしながら、整いつつも表情に乏しいローゼルはこの際に限っては口を開き、そしていともあっけない口調でテオドラに対して告げる。
「無理なものは無理です」
…リーダーシップに様々な形があるように、近侍に対して主人が求める役割というのも様々な様態が存在する。リベラルな気質の貴族であれば、近侍に対しても対等な人間関係を構築しようとするし、慎重な貴族であれば自身の行動について積極的な助言や或いは諫言を許す場合もある。いずれにせよ、貴族にとっての近侍というのは最も信頼できる存在である訳だが、一方、全く以て助言を許さず、ただ自身の意向にのみ忠実に従うことを良しとするリーゼロッテとローゼルの関係が信頼関係に基づいていない訳では決してない。…まぁそういった事情はこの際置いておくとしても、当人間における信頼感の在る無しにこの際関係なく、『貴族当人の意向に影響を与える為、まず近侍に話を通す』という貴族社会において一般的な手法が通じない以上は、リーゼロッテこそがこの場における間違いなしの最高意思決定者であり、また最高権力者である事実は変えようがなかった。
「では、ローゼル」
「こちらをお使いください」
そうして主人の(ローゼル以外に対して到底通用しないと思われる最低限未満の)指示に従い、ローゼルが手品と見まがうほどの手際の良さで回転式の弾倉を備えた散弾銃をリーゼロッテに手渡す。
「悪いけどさ。どっちみち緊急事態なんだろ?目隠しを外すぐらい柔軟な対応をしてもいいと思うんだけど?」
一応は自身の命にも関わるため、得意の減らず口を封じて静観を決め込んでいたベルナデーテが、タイミングを見計らって口を開く。
「外してあげなさい」
リーゼロッテは淡々とした口調で周囲の面々に命じる。おそらくこれが頭に銃弾をブチ込ませる為の命令であったとしても、同じような態度を示していたことだろう。
「あ~、よかった。見えないのはともかく走ったとき息苦しいんだよねこれ」
「貴方はこちらについて来てもらいます。暗いので、足元には気を付けてください」
「あいよ兵隊さん。いやぁ、久々の淑女扱いだね」
シンプルに転ばれたら護送するのに面倒くさいのが理由なのだろうが、ベルナデーテはそれを理解したうえでなおふてぶてしく応じた。
「では、ここで二手に分かれましょう。卿らの無事を祈ってますわ」
「閣下。どうかご無事で」
もはや何を言ってももはやどうしようもないことを悟った収容所長が、せめてもの思いを込めてそのように告げる。向かう場所は異なっているものの、テオドラとしても同じ胸中であった。
「ところで。最後に聞かせてもらいますがあなた、今回の事態について、何か申し開くことはありますこと?」
リーゼロッテのその尋ね方があまりに不意を付いたものであったため、ベルナデーテとしてもぎくりとした表情を一瞬浮かべた。しかし、直後に再び人を食ったような笑みを浮かべながら混ぜ返すように口を開く。
「いくら私が重要人物だって言っても、わざわざ首都星系に上陸部隊を仕向けてくるほど私の古巣が義理堅いとも執念深いとも思えないね。あんたら公爵家がそれだけコテンパンにやってくれたじゃないか」
「行きますわよ」
さも時間が惜しいと言わんばかりに貴族令嬢は後ろを向いて別の通路を進みだす。
だからこそ、というわけではないものの、ベルナデーテが最後に口の中で呟いた台詞に耳を傾けたものは全く皆無であった。
「どうせやるんなら上陸作戦なんていうけち臭い事で手を打たずに、航宙艦艇でも使った空挺降下くらい豪快なことをやらかすとは思うがね」
「まったく…。こういう横やりを避けるためにわざわざ首都惑星まで出向いたというのに…。お兄様も一言くらい何か仰ってくださったらよかったのに…」
二手に分かれてからしばらくは黙りこくっていたが、それでもローゼルしかその場に居ない事で多少なりとも気を許したのだろう。リーゼロッテが状況に対して誰にぶつける訳でもない文句をぶつくさと呟き始めた。貴族特有、というよりも、年頃の少女だからこその気難しさがそこに現れていた。
ちなみに、ほぼほぼ初対面となるテオドラもそこにいた訳であるが、リーゼロッテの中で彼女は『敬愛するお兄様の子飼そのN番目』という認識でだいたい固まっていたため、態々体面を気にする必要のない存在として現状カテゴライズされているようであった。
「ところで、今のうちに聞いておきますが武器は何を?」
「は、はいっ」
まったく気まぐれなものである。いない扱いしておく一方で、兵力としてはちゃっかりカウントしている訳だ。話しかけられないものだと思っていたテオドラは不意の問いかけに対して一瞬戸惑いながら即座に言葉を繋ぐ。
「AstMp388の携行カスタムです。予備弾倉は5本ございます」
「あら、卿は狙撃猟兵あがりでしたか」
「はい。14歳で幼年訓練課程を卒業しました」
そういいながら、テオドラは上着の下に装着したホルスターの感触を改めて確かめる。2mm口径のケースレス弾薬を40発装填出来るグリップの存在感は、ほっそりとしたデザインを基調とした全体から見るとややアンバランスな印象を与えるものでもあるが、使用者に対して確たる信頼感を与えてくれるものでもあった。
さて、このタイミングでいささか話の腰を折ることにはなってしまうが、一方で本作品においては読者の皆様に対して反物質をエネルギー源とした宇宙船が飛び交い、核反応をエネルギー源とした飛行機が飛び交うような科学技術の進展をお示している訳であり、そのような状況において、なぜ未だにレーザーではなく火薬式の銃が通用しているか。この部分について説明を行わないのはさすがに不親切すぎるという認識をぬぐい切れない。なのでここは不躾であることを承知の上で、未だ発展途上でしかない人類社会が作り上げたこの産物について、少しばかり解説を挟むことを許してもらいたい。
そもそも未来社会において未だに銃による暴力が実施されている事実こそ、人類社会が発展途上であることをもっとも端的に顕している訳であるが、一方でそういった鋭い指摘を行ったとしても、なぜレーザーを用いた銃撃戦が行われていないのかについて理由にはならない。実際のところ、個人が携行する銃火器に、レーザー光源を導入しようという試みは宇宙時代の前史の時点において既に存在していたし、護身用、或いは暗殺に用いるだけの特殊なガジェットとして開発されることによって、ある一定程度までは確かに成功を収めた。しかし、実際に技術としてのレーザーが進歩を迎えるのと同じように、技術としての火薬火器類が同じく進歩を迎えたという事実を、未来社会に生きる火器開発担当者は決して見逃さなかったのだ。例えばそれはより少量でより強力な推進力を発揮させる高性能火薬の開発であったり、或いは射撃時における排莢を不要とするだけの高度な材料科学の進展、更には命中精度と信頼性を向上させるための機械設計技術の向上などなどによって実現された訳であるが、結局のところ、片手に収まるだけのサイズに数十発単位の弾薬を装填し、電源に頼ることなくその役割を発揮させることが出来る火薬式の銃火器に対して、大型、かつ大容量の電力の確保を必要とし、また排熱機構をはじめとした機械的信頼性の部分に劣り、それゆえに携行性についても損なわれ、更には射撃に必要となるエネルギーの補充などなどの部分について未だに課題を抱えるレーザーが、銃火器という区分においてデファクトスタンダードの地位を奪い取るだけの将来性は、結局のところ見出されることはなかったのである。
「お待ちください」
出し抜けにローゼルが言葉を上げ、手元に持っていたフラッシュライトの照明を切る。
小走りに進む三人の中で先頭を進んでいた彼女によるその不意の行動は、その他二人の行動に対して直接的な影響を与えた。単に彼女の体力が限界を迎えたわけではない。むしろ、曲がり角の向こう側をにらみつけるような振る舞いには、得も言われない気迫がにじんでいた。
「…」
むろん、ローゼルの振る舞いを解しない二人では当然なかった。リーゼロッテは身を隠しながらもすぐに動けるような中腰の構えで、一方でテオドラはうつ伏せになりながら銃を構える。
あきれ返るほどの暗闇なので、目が慣れることもない。テオドラの装着している戦術支援用ネットワークコンタクトレンズも僅かばかりの赤外線探知機能を備えてはいるが、所詮は体内電気を電源にするだけの支援用なので機能も限られている。むしろ耳を澄ませて接近しつつある敵のわずかな足音に注意を払う方がよほど有用であった。
「うぉッ!!」
向こうからすれば、何の気なしに進んだ曲がり角でしかなかったはずだが、消音性能に優れ、マズルフラッシュも可能な限り低減させたその一撃を食らうことにより、自らの死の原因すら分かることなく絶命する形になった。
「ちょ、待っ」
続けざまに2人が散弾の餌食となり、最後の一人となったその人物は、幸運にも大貴族のご令嬢のご尊顔を仰ぎ見ながら、動揺の声を直接本人に向けて申し出るだけの余裕を賜ることが出来た。下賤の民とはいえ心より漏れ出たその一言に対し、高貴なるバイエルン侯爵家一門の家格を担うご令嬢はその者が直ちに迎える運命について今できるだけの思いやりを込めつつ、慈悲深き27ゲージフレシェット散弾の一撃をその眉間に向けて礼儀正しく撃ち込んだ。直径1mmにも満たないタングステン製のフレシェット弾をまともに喰らうことで、血しぶきというよりもむしろ血煙と化した脳みそでは、死の苦痛すら知覚することもなく霧散してしまっていたことだろう。
「素人ですって?」
リーゼロッテの発した言葉はしかし、暗闇の中で敵と遭遇したことに対する緊張感でも、ましてやそれらの敵を瞬く間のうちに圧倒した優越感でもなく、ただ単に敵のふがいなさに対してあきれ返るような感情しか込められていなかった。実際、こちら側が相応に練度を積んでいるとはいえ、ほとんど警戒感もなしに曲がり角を突き進み、咄嗟の事態に対して慌てる以上の態度も示さないその振る舞いが、素人としか言いようのない物だったのは確かだろう。
「服装はともかく、装備自体は充実していますね」
「使いこなすことが出来ない時点でたかが知れていますわ」
テオドラが暗闇の中で死体の傍に駆け寄り、装備や持ち物の検分を行う。歩兵用装備のアーマーを貫通するだけの4mm口径アサルトライフルをはじめ、暗視用サングラスも付属したヘッドセットすら装備していた。首都惑星に殴り込みをかけてきた擾乱勢力の装備としてはまずまずの充実度と言えたが、リーゼロッテの言う通り、使いこなせなければただの金属の塊にしか過ぎない。
「一応言っておきますが、拾って使おうなんて考えはよしておきなさい。まぁ、訓練課程の教官がよほどの間抜けでない限り分かっているでしょうけど」
「えぇ、承知しております」
それなりの装備で固めた武装集団と正面からカチ合うにあたって、火器が絶対的に足りないのは動かしようのない事実ではあるのだが、それでも直前まで敵が所持しており、整備状態もよくわかっていない装備を拝借するほど落ちぶれるつもりはテオドラとてなかった。それでも手持ちの弾薬すら完全に撃ち尽くした状態であればまだ手段の一つ足り得はするが、だとしても常に暴発や給弾不良の恐怖に怯えながら射撃するくらいなら、まだナイフ一本で戦った方がマシだという意見すら一般的には存在していた。
「たった今倒された敵兵が、あの恐ろしい訓練軍曹の元で一週間でもしごかれていれば話は別ですけど」
「フフフ。それなりに気の利いたことが言えるようですね。嫌いじゃありませんわよ」
木っ端の雑兵とはいえ、10秒足らずで相手を無力化した事実は、精神的にはある程度の余裕が生まれていた。あの大貴族の令嬢が、所詮は木っ端の家臣であるテオドラの発言に笑みを返すくらいには。
「…ローゼル?」
とはいえ、それでも敵が本来企図しただけの『隙』を彼女たちから引き出すことは不可能であった。いや、ほんの僅かだけでも注意をそらすことが出来た分大したものではあったのだが、少なくともローゼルだけは一切の油断もちょっとした隙も見せることはなく、結果としてリーゼロッテ自身もまだ見ぬ敵兵が接近しつつある事実に対して気付くことが出来た。
「おわっ!!」
結果的にテオドラの反応が一番遅れてしまったわけだが、それでもローゼルが今まで進んできた方向に振り返って射撃体勢を構えた時点で危機を察知することが出来た。屈んだ姿勢から射線を邪魔しないように素早くその場から退くとともに、気の抜けた破裂音が響く。音の迫力と反比例した凶悪な一撃がその場で再び放たれた。
『まずいっ!!』
一般的な話として、直径20.167mmの銃口から音速で射出されるタングステン製の針を数百本以上も至近距離から浴びせられて耐えきれる歩兵用装備というのは存在しない。そのため、赤外線遮蔽用装備を着用して暗闇に紛れながら近づいてきたにもかかわらず、ローゼルの超人的な察知能力によって50m先から位置を看破され銃撃を喰らった一名が速やかに無力化されたのはまだよかった。とはいえ、射線から離れようとするあまり体勢ごと崩してしまったテオドラからしてみれば、不運なるその1名に後続する兵士から向かってくるであろう銃撃にこそ対応する必要が存在した。とにかく命中するかどうかはどうでもよい。左肩が地面とほぼ水平な姿勢になりながらも、右手に掴んだAstMp388を敵の存在するであろう方向に向けてとにかく引き金を絞る。
「ローゼル!」
「はい、お嬢様」
間の抜けた破裂音が連続してがらんどうな空間に響き渡る一方、リーゼロッテとローゼルは素早くお互いの位置を切り替える。どこまでも忠実な近侍はまるで猫を思わせるしなやかな身のこなしで曲がり角の向こう側に位置取り、散弾銃のセレクタレバーを素早く引き絞ってから躊躇することなく連射する。敵の位置が見えている訳ではないが、L&D社製の回転弾倉式ショットガンはセレクタレバーを引き絞ることでライフリングが施された銃砲身が銃口を底面とした緩やかな円錐状に広がるよう設計されている。そうすることで27ゲージ弾に込められたタングステン針が通常よりも素早く拡散し、閉所空間の制圧において絶大な効力を発揮する。
「来なさい。前方はローゼルが警戒します。私と後ろを見張って」
リーゼロッテがひっくり返ったテオドラの首元を素早くつかみ取り、膂力に任せて無理やり引っ張り込む。
「すみませんお見苦しい所を」
「敵の銃弾で脳みそをぶちまけるまでその言葉は取っておきなさい。消音器を外して」
ご令嬢は冷静さを通り越して冷徹さすら漂わせる口調でぴしゃりと言い放つと、甲高い銃声をトンネル内に響かせながら曲がり角の向こう側に向けてきっちり3発の散弾を撃ち込む。位置を露呈するリスクを背負ってまでわざわざ音を出して射撃するのは敵を牽制させるためだ。狙いすました一撃でなかったとしても、『命中するかもしれない』という危険性を敵に対して強いることはまっとうな戦術行為である。名門貴族家の令嬢がそのような常識を知らないはずがなかった。
「ご注意あそばせ。目がつぶれるわよ」
こちらの威嚇射撃に対して敵が反応し、物陰に隠れる。それを確認したリーゼロッテはそう言い放つと、さもなんでもないような動作で懐から卵型の物体を取り出すが、彼女の発言とともにその物体を目にしたテオドラはぎょっとした表情を浮かべながら慌てて目をそらす。
「走りなさい!全速力!」
大きな声を上げるリーゼロッテであったが、その行動ですら彼女にとっては武装集団を誘い出すための罠であった。後ろを振り向き、片腕で覆ったとしても目がチラつくほどの閃光が、トンネルの暗闇を覆うとともに、人間では感知できない速度で数十回に渡って瞬く。その機能は暗視装置が備える入光量の自動調節機能を狙い撃ちにしたものであり、武装集団の視力は文字通り光の速度で失われた。
当然ながら、この場合において取りうるもっとも戦術的な行動は応戦ではなく撤退である。アウステルリッツ公国軍統合参謀本部総長を祖母にもつうら若き少女がそのような判断を取れないはずがなかった。
「閣下、こちらです!!」
「い、いいから後ろを警戒して!追手はすぐそこですわよ!」
後ろから銃撃を喰らわないように常に曲がり角を意識して、それでなお出来るだけ足音を立てないよう注意しながら全速力でトンネルの中を駆け抜けるのは生易しい仕事ではなかった。それは人並み以上の体力を誇るリーゼロッテにとっても同様であり、地下通信施設の付近にて収容所長が率いる一団とようやく合流できる段階に至っては、既に息も絶え絶えの状態であった。それでもなお涼しい顔をしながらその側に付き添っているローゼルの忠節ぶりはもはや異次元の域に達していたわけだが、だとしても彼女の肩を借りることもなく重い足を引きずりながら歩みを進めるリーゼロッテの振る舞いは、彼女なりのプライドの在り方を示していた。
「中の階段をあがってください!あぁ、ご無事でよかった!」
収容所長からしてみれば、この侯爵令嬢は自主的な単独行動を好む割に、傷一つ付けただけでも重大な責任問題を引き起こしかねないという厄介極まりない存在であるはずなのだが、所長の見せた安堵の情感は当面の責任問題が回避された以上のものを示していた。彼はそのまま老朽化のあまり壁そのものと一体化しているかのような風格を醸し出している扉をこじ開け、3人を中に押し込める。
「定置爆破、用意!」
銃弾が壁にめり込む非音楽的な響きとともに憲兵たちの怒号が聞こえたが、その直後にくぐもった爆破音と岩の砕ける音が大音響で轟き、つかの間の静寂が訪れた。
「うぃ、お疲れ~」
「…」
「お嬢様、こちらへどうぞ」
武装集団に追い立てられて神経が参ってしまうほどヤワな彼女たちではなかったが、それでも肉体的には疲労困憊の最中にあるわけで…。そんな所に気の抜けた挨拶を投げかけようものなら、その先に待ち受けている運命についてはいっそ想像したく無いもののはずである。しかし、宇宙海賊がその手の常識を有していないことに対して憤るのは、ひょっとすると海の方が山より低いと憤慨する事と同じくらい無益な事なのかもしれない。
「ゆっくり閉じろ。結構な骨とう品だからな」
大銀行の金庫室もかくやといわんばかりの威風をたたえた重厚な扉を、憲兵たちがゆっくりと押し込んで閉じ込める。宇宙時代にあっても、重く、大きく、硬く設計することがセキュリティとして最も威力を発揮する事実に変わりはないのだ。
もっとも扉に限らず、儀礼という概念そのものが根本的に欠如した宇宙海賊が鎮座していることを除き、リーゼロッテらが逃げ込んだ地下通信施設はその古さに関係なくそれなりに小しっかりしたものであった。外部から遮断され隔離されたその環境は「通信施設」という表現から与えられるイメージよりもむしろ潜水艦や航宙艦船の発令所にふさわしい雰囲気を醸し出していた。
「当然ですわ。通信施設という名目で設置されていますが、実態は政府要人向けの緊急シェルター兼臨時司令部として機能するよう設計されていますからね。まぁ、情報管理官の卿なら小耳にはさんだことはあるでしょうけど」
「えぇ、確か首都区画に対する核攻撃を受けても擾乱勢力への反撃を指揮できるだけの指揮命令施設だとか」
「そもそも擾乱勢力が核戦力を保持していても不思議ではなかった時代の産物ではありますが…。しかしこれほどの打撃を受けてしまった以上、この施設は放棄せざるを得ませんね」
「閣下、よろしいでしょうか?」
「構いません。ですが、手短に願いますわよ」
珍しく疲労が色濃く表れているリーゼロッテであったが、やや遠慮がちな所長の申し出に対してそれでも対応を拒むようなことはしない。部下からの申し出を厭うことがあってはならないという姿勢に、上に立つ者の義務を背負う彼女なりの責任感が現れていた。
「はい、2点ございます。1点ですが、本島周辺の海域における安全が確保された為、陸戦部隊を含む増援がつい先ほどサンティレール基地を出発したとのことです。2点目ですが、こちらは大気圏航行局からの緊急連絡です。…どうやら本島付近の空域にて、航行届の受理がなされていない星系内航船の航行が確認されているとのことで」
「…はい?どういうことですか?」
当然、責任感を抱いて行動したとしても、常にふさわしいだけの結果が付いてくるとは限らないのが現実である。加えて疲労が重なって頭の動きが鈍っていたのも原因なのだろうが、所長が報告した内容について理解が及ばなかったリーゼロッテがすかさず疑問を呈した。
「先ほど、ペリカン地上空港を離陸して宇宙港に向けて移動中だった大気圏往還機が、機体の故障を受けて河川部に不時着したのですが、その操縦士から『光学迷彩を搭載した星系内航船からEMP攻撃を受けた』との報告が大気圏航行局に行ったようで…」
「ちょっと待ってくださいね」
所長による報告はリーゼロッテにとっては予期せぬ方向からの一突きと化していた。それでも混乱する状況が津波のように脳内を揺るがす感覚に苛まれながら、辛うじて言葉を絞り出す。
「…それは敵なのですか?」
「不明です。スラフコフ・ウ・ブルナ防衛総軍の航空部隊でも、詳細を把握できていない模様です」
「詳細が把握できていない?その不明機体はまだ見つかっていないのですか?」
「はい。ステルス機能が非常に強力なことに加え、搭載している光学迷彩機能も、目視での確認によってようやく視認できた程度らしく」
「…わかりました。いや、まだ分かってはいないのですが」
即断即決を旨とするリーゼロッテが歯切れ悪く、それでも果敢に思考を巡らせる。その結果導き出された結論はひどく単純明快なものであった。
「直接そのパイロットと話をさせなさい。伝言ゲームでは埒があきません」
貴族令嬢のご要望は、現在彼女を覆っている厳しい状況に関わらず相応のスピード感を以て実現された。500年前に構築されたとはいえ、核戦争にも耐えられる設計がなされた臨時司令部は当然のように強力かつ強靭な通信機能を未だに保持したままであったのだ。いざというときには惑星に巣食う擾乱勢力に対して核による反撃を通達する予定であったその通信設備は、辛うじて不時着に成功した苦労の多い大気圏往還機パイロットとの連絡に役立てられることになった。
「で、卿が確認したのは本当に光学迷彩を搭載した星系内航船ということでよろしいですね?」
『はぁ、実際に星系内航船であるかどうかの確認は取れていないのですが、少なくとも至近距離から目視で確認したところで言いますと、全長が800から1000m相当でしたのでおそらく内航船に相当する機体だと思料した次第です』
「防空飛行隊が画像解析センサーで確認したところ、当該飛翔体は50m相当と確認されたそうですが、その部分についてはどう考えますか?」
『センサーの専門家ではなくあくまでパイロットとしての視点でお答えいたしますが、おそらくエンジン開口部付近に限っては、ステルス加工自体可能ですが光学迷彩機能を搭載できないので、画像解析センサーに反応したものと思われます』
「…なるほど、理に適ってはいますわね。で、その飛翔体がこちらに向けて飛翔中であると?」
『その通りです。ですが、あくまで「その方向に向けて飛翔中だった」ということを確認しただけですので、本当にその…、なんというか…、孤島ですよね?そちらを目標にして航行しているかどうかはあくまで推測の域を出ていないのですが』
「…で、卿はその未確認飛翔体が我々に対し及ぼしるうる影響について意見を持っているということですが?」
「ハイ。あ、いや、正確には意見を持っているのは副操縦士でして」
『ちょちょちょ待ってくださいよ!侯世子閣下と話すなんて無理ですよ!代わりに機長がしゃべってくださいって!!』
『バカお前ここまで来てビビるな、逆に失礼だろ!』
「いいから」
表面的には余裕そうだが、実際のところ精神的には我慢の限界を迎えつつあるリーゼロッテがぴしゃりと言い放つ。
「報告しなさい」
無線越しでもその冷え切った気迫が伝わったらしく、やいのやいの騒いでいた相手からの通信も途端に黙り込み、覚悟を決めた副操縦士がおずおずとした態度で喋り始める。
『お、おそらくですが、例の未確認飛翔体の目的は、ペリカン地上空港が所在する離島部への強襲上陸にあると思われます』
「…続けなさい」
『ステルス機能と光学迷彩を搭載しているとはいえ、星系内航船が首都惑星に接近できたのはおそらく先週以来の恒星風に紛れることが出来たからです。離島部にて、奪還ないしは無力化する必要のある重要人物の収容を察知し、また恒星風の発生と到来時刻を推察すること、それに加えて、ステルス機能と光学迷彩機能を搭載した星系内航船を運用し、戦闘へ投入できること。…これらを難題を同時に達成できるのは、よほどの実力を持った擾乱勢力に違いありません』
「ちょっと待ちなさい」
不意にリーゼロッテが相手の言葉を制止し、送信機に手をかざして後ろを振り返ると、明らかに機嫌の悪そうな低い声色を所長に向けて投げかける。
「…所長。私の記憶が正しければ、本収容所の存在、および機能は重要機密事項に相当するはずです。政府連絡機の運航要員とはいえ、これらの情報にアクセスする権限はないはずですが?」
「そ、それは…」
思わぬところから不意に情報の不備を突きつけられた所長は目に見えて狼狽するが、すかさずテオドラが言葉を挟み込む。
「閣下。お言葉ですが、本収容施設の存在は一般における噂としてある程度の流通が確認されています。例の副操縦士の推察についても、そのようなある種の流言をベースにしたものではないでしょうか」
「つまり、噂を土台に組み立てられた机上の空論に耳を貸せと、卿はそう言いたいのですか?」
「恐れながら申し上げますが、その操縦士たちは未確認飛翔体を直接目視し、機体の損傷を顧みず果敢にも不時着を行った上で、それらの情報を伝達してきた骨のある者たちです。耳を傾けるだけの価値はあるかと」
「フン。言うようになりましたね」
不機嫌そうに応じながらも、それなりの理を感じ取ったリーゼロッテは再び向き直り無線に声を吹き込み始める。
「続けなさい」
『は、はい!当該飛翔体ですが、防空隊による対空ミサイルを迎撃するだけの能力を有し、また接近してその存在を目視した当機に対してEMP攻撃を実施するなど、敵対行動を行っていることは明白です。しかしながら、目視で存在を確認できるまで接近した当機や、あるいは防空隊所属の飛行隊に対して、自ら積極的に攻撃を行うことはありませんでした。となると、当該飛翔体は自己防衛機能は豊富な一方で、攻撃手段自体は非常に限られているはずです』
「…それで?」
『え、えーと、つまり、その、確認させてほしいんですが…よろしいでしょうか?』
「聞きたいことがあるならハキハキしなさい。自信がない様を見るのはあまり好きではないの」
『す、すみません!え、えぇと、ひょ、ひょっとしてなんですが、我々が先ほど使用したペリカン飛行場か、あるいは北部にあったはずの港湾施設に対して擾乱勢力の攻撃があったりとかって…』
「…お得意の推察ですか?それが、未確認飛翔体とどう関係あるの?」
『た、多分ですが、未確認飛翔体の本来の任務は輸送にあります。強襲揚陸か、或いは空挺降下の母艦の可能性が考えられます!その上で、港湾施設か、あるいは飛行場に対する擾乱勢力の襲撃があった場合、それは恐らく陽』
その瞬間、侯爵家令嬢に対して果敢にも意見を申し出たその副操縦士は、自らの組み立てた推論を証明する責任を幸運にも免除された。言葉に頼らないその確固たる証拠は、はじめズシリと響くような低音によって周囲に響き渡り、その直後、足元の揺れが等しく全員に襲い掛かる。
『あれ。…皆さん?どうかされましたか?』
「失礼しました。なんでもございませんわ」
揺れた時間そのものはほんの数秒に過ぎなかった。しかし、核攻撃にも耐えきれるだけのシェルターが実際に揺れたのだ。その事実こそ、事態が深刻な状況にあることを何よりも克明に示していた。にも関わらず、貴族令嬢はそれでも気高く、誇り高く感情を取り繕いながら、努めて明るく無線通信越しの相手に語りかける。
「それにしても、限られた情報と時間の中で推論を組み立て、他に対して説明できるまで仕上げることのできる卿のその着想力はなかなか興味深いものでした。バイエルン侯爵家家中の者として、またお会いさせて頂ければ光栄ですわ」
『はっ!?え、いや、そんな滅相もない!さ、さすがに私だけで出来たことでもないんです、機長あってのことですので』
「じゃあ次にお会いする際は機長も一緒に呼ばせていただきます。それでは」
それまでの振る舞いからしたら不自然なまでの明るさで会話を終わらせ、送受信機を通信兵に押し付けたリーゼロッテは、所長の方に振り返ると再び冷たい口調を取り戻して尋ねる。
「噂レベルであれば、一般に対して本施設の情報が流通していても致し方ないと、そういう話でしたね」
「は、ハイ。お恥ずかしながら…」
「なにも500年に渡って積み重ねられてきた情報漏洩の責任をあなたに背負わせるわけではありません。ですが、確認させて頂きたいことが」
一旦言葉を止めたリーゼロッテは、重い頭を右手で支える体勢を取りながら再び口を開く。
「噂レベルの話が一般に流通されているのであれば、このシェルターの構造や、あるいは破壊方法が擾乱勢力に渡っていても不思議ではないのではありませんか?」
分厚い金属板か、或いは岩盤か。何かはわからないが、少なくとも途轍もなく重いものが割れる音が周囲に響く。その瞬間、リーゼロッテの疑問は確証に変化した。
「あー。…つまりさ」
完全に蚊帳の外を決め込み、暇そうにしていたベルナデーテが不意に言葉を挟み込む。
「あたしたちここで死ぬの?」
「ご、ご安心ください閣下」
リーゼロッテの抱える爆弾は、導火線に既に火がついている状態である。にも関わらず目の前で火遊びをするのをやめない宇宙海賊を牽制するように、所長が言葉を挟み込む。
「施設の上部構造は核の直撃にも耐えられる設計になっています。もし、…万が一その詳細な構造が漏洩していたとしても、友軍による応援が到達するまで余裕があるはずです」
「…さようですか」
「上部構造だって?」
漏洩の可能性そのものを否定するわけではなかったが、しかし責任者本人からの言い分に信頼を置かないほど貴族令嬢は狭量ではなかった。しかし、空気の読めない、…というかハナから読む気のないベルナデーテはまたしても口を挟み込む。
「…ったく。地上の連中はやっぱどっか抜けてるね。そりゃ核の直撃に耐えることを考えたら上を固めるのも妥当な考えだけど、相手さんだってそのことは承知のうえでしょ?」
「…つまり、どういうことですか?」
リーゼロッテが怒りを爆発させるのも時間の問題ではあったが、彼女の発言に不穏なものを感じ取ったテオドラが敢えて尋ねる。
「側面か、下か、まぁ詳しい部分はわからないけど、この部屋の全周部分に分厚い装甲があるわけじゃないんだろ?じゃあ、その薄い部分かあるいは構造的な弱点か、そういう部分を敵さんは突けるんじゃないか?ってコト」
ごとり。という低く、重い音が内部に響き渡る。音自体が反響してしまうので、どこからそれが聞こえたのかは判別できない。しかし、どうにも楽観できる状況ではないようだ。
「…なにか、言いたいことは?」
「は?これ以上のことを?」
「すっとぼけるのは、得策ではなくってよ」
ふつふつとした怒りの感情をそれでも辛うじて抑えながら、リーゼロッテは散弾銃の銃口をベルナデーテに向ける。
「待ってくれお嬢さん。荒事は得意じゃないんだ」
「あらそう」
軽量化が施されているとはいえ、それでもうら若き少女が片手で振り回すには少しばかり不安の残る散弾銃を、しかしリーゼロッテは片手で軽々と持ち上ると、躊躇うことなく引き金を引いた。
「私は得意ですわ」
お互いに有しているコミュニケーションの文化が違ったとしても、暴力は有効な共通言語として機能することを貴族と宇宙海賊の二人は証明して見せた。ベルナデーテの頭から数センチ横の壁にめり込んだタングステン針は、どんな語彙よりも雄弁に彼女の内心を表現した。
「ちょ、ちょちょちょ、待ってくれって。そもそも、アタシは財務屋で…」
「財務屋ですか。その割に、結構なものを普段から持ち歩いてるようですね」
はっとした表情のベルナデーテが目線を泳がせた先で、テオドラが指環をつまんでいた。ジャラジャラと身に着けていた数多ある装飾品のうちの一つではあったが、今の彼女にとっては致命的な一撃であった。
「指環に見せかけた暗殺器具の一種です。この宝石部分から1発だけですがレーザーを照射できますね。威力自体は大したことないですが、相手の首元や心臓を狙えば確実に殺せます」
「土壇場になって、私か、もしくは別の人を人質にとってこちら側を脅すことが出来たわけですね」
「驚いたね…。おとなしい見た目のわりに、お嬢さん結構手が早いじゃないか」
逆転の一手を失い、いよいよ口先以外に手をなくしたベルナデーテは、肩をすくめてそう呟いた。
「…私程度のことは造作もありません。私の両親はもっとすごかった」
相手の称賛に対して、テオドラは無表情で応じ、更に言葉を続ける。
「専門の教育を受け、それにふさわしい実績を上げていた私の両親が、単なる事故で死ぬはずがないし、ましてや、貴方たちのような海賊風情に殺されるはずもない」
思わず感情が籠るテオドラの語気に対して、言いようのない気迫を察知したベルナデーテは捉えどころのない態度を引っ込めて黙りこくる。その様を見て取ったテオドラは、長年に渡って自身の内部を巣食い、追い求めてきた疑問を目の前の相手に対してぶつける。
「分かりますか?この銀河には、我々と、帝国と、擾乱勢力以外の『何か』がいるんですよ。そして、貴方はそれを知っているはず。…話す気には、なりましたか?」
そういって詰め寄る騎士と海賊との間にただよった沈黙は、きっかり10秒で破られた。
「噂でいいなら、聞いたことがある。帝国でも、海賊でもない存在」
「グリーゼ王国のことですか?」
ようやく口を開いた宇宙海賊に対して、リーゼロッテもすかさず疑問を挟み込む。
「違う違う。確かに、グリーゼ王国は今でも存在するが、結局のところ単一星系の国家だ。海賊風情とは一線を画す存在とはいえ、公国、あるいは帝国と比べてもだいぶ格が下がる立場だよ」
「では、『商人』のことですか?」
「『組合』のことか?近いけどそれも違う。『組合』は要するに海賊たちの自治組織だ。その気になれば宇宙艦隊だって用意できる連中だが、あたしの知ってる噂はそれ以上に強烈だよ」
「焦らされるのは好みじゃありません。早く答えなさい」
散弾銃を抱えながら鋭い口調で言葉を発するリーゼロッテに対し海賊は一瞬たじろぐが、すぐに気勢を取り戻し、はっきりとした口調で告げる。
「『人民連邦』。名前だけだけど、聞いたことがある。お嬢さんたちが聞きたいのはこの情報だろ?」
「他に、何か知ってることは?」
焦がれていた回答がすぐそこに存在する。その期待感から、テオドラの詰問にも思わず熱がこもった。だからこそ、ベルナデーテは少しだけ満足げな表情を浮かべた。相手が持っていない、その上、喉から手が出るほど欲している情報を自分自身は持っている。それまでは向こう側が絶対的に優位だったはずの力関係が微妙に変化したことを、ベルナデーテは鋭敏に感じ取った。
とはいえ、優雅にして凶悪なる貴族令嬢を前にして、己が命の値段を不当に吊り上げるような愚を彼女は起こす気にもなれなかったようだ。
「あたしが聞いたことあるのは、『人民連邦』っていう名前と、それがグリーゼ王国のさらに向こうにある国だってことだけだよ。ただ、グリーゼ王国の向こう側っていうのは、おたくらにとっては新鮮な情報じゃないのかい?」
「グリーゼ星系の…?オリオン暗礁宙域のさらに向こう側?くだらないことを言わないでください」
さもくだらない…。そう、言いたげな態度で、リーゼロッテは言い切った。…くだらない。それ以上にあり得ない。ペルセウス動乱のさなか忘れ去られた星系の、さらに向こう側の宇宙空間について、帝国が有している情報なぞほとんど存在しない。エネルギーと資源の供給もままならず、人が踏み込めるはずのない不毛の宙域として記録されているその場所を、好き好んで調べようとする人物すら存在していないのだ。
「あと…。そうだな、もう一個だけ思い出した。これは聞いたら驚くよ。人民連邦人の、身体的特徴だ」
口の端を吊り上げながら、ベルナデーテはうそぶいた。明らかに、彼女は楽しんでいた。自身の命を吊り下げながら、一方で新情報にたじろいた人を眺めて愉悦に浸っていた。
「減らず口をたたくようであれば、利用価値もそれまで」
当然と言えば当然なのだが、自身の安全すら弄ぶ胡乱な輩を相手にリーゼロッテがまともに取り合うはずがなかった。百戦錬磨の宇宙海賊が相手であっても、貴族令嬢が易々と駆け引きに応じるような彼女自身の信条が許さなかった。
「憲兵隊長、さっさと殺し…」
「お待ちくださいお嬢様」
静かに、だが確実に殺意を高めるリーゼロッテに対し、テオドラが機先を制した。あえて火中の栗を拾おうとするテオドラの行為に、ローゼルを除いたほぼ全員がひきつったような表情を向けるが、しかし彼女は毅然とした態度で大貴族家の令嬢に物申す。
「彼女は貴重な情報源です。利用する価値があると言ってもよいでしょう。嘘か本当かはともかくとして、彼女は我々に人民連邦の情報を伝えました。今少しだけ話を聞くだけの価値はあると思います」
不満気そのものの表情を浮かべるリーゼロッテはしかし、正論を前に自身の怒りを優先しないだけの理性は持ち合わせていた。不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、引き金から指を話し、銃口を下げる。
「話の早い人は好きだよ」
一方でベルナデーテは口元の端を吊り上げながら、テオドラに対して慇懃に礼を言う。
「それじゃあ話すけどね。あたしも噂で聞いただけだから本当かどうかはわからないんだが…」
さも、裡に秘めた重要な一言を漏らすような、ゆっくりと、勿体ぶるような態度で彼女は再び口を開く。
「なんと、驚いたことにね。人民連邦人っていうのは、…ケガかなんかした時には、緑色の血を流すらしいよ」
…ほんの数秒、時間の経過そのものが停止したような感覚を周囲が共有した直後、ベルナデーテはおしとやかな貴族家令嬢による心のこもった拳からの高貴なる一撃を顔面で受け止める羽目となった。
「よろしいですか?」
「なに一つとしてよろしいことはございませんが、聞きましょう」
殴った直後の手をさすることもせず、リーゼロッテはおずおずと話しかける所長の方を向いて問いかけに応じた。
「3点ございます。まず、地上にて掃討を指揮しているプロスニッツ少尉からの連絡です。座標XXX,XXX.YYY,YYY地点にて未確認飛翔体の降着を確認。次に、北部に展開している敵部隊に対する航空攻撃が1148時ジャストに実施されるとのことです。この航空攻撃の後に、陸戦部隊を含む我が方の増援の揚陸も実施予定です」
「マズいですわね…」
一発殴りつけることで一時的にストレスは発散されたがしかし、所長の報告を聞いて貴族令嬢は再び頭を抱えて唸り始める。
「…恐れながら申し上げますが、プロスニッツ少尉が確認したのは敵による空挺戦力のはずです。それも、規模からして防空戦力を含んでいてもおかしくはありません。彼女の部隊には降下誘導小隊に所属していた降下猟兵も配属されていますので、見間違えるこよもないでしょう」
「であれば、防衛総軍が慌てて寄越してきた増援は、この場合誘蛾灯に引き寄せられた哀れな羽虫如きになりかねませんね。敵はあくまで地上での決着を望んでいるようです」
「であれば、現場判断で航空攻撃は中止させて…」
「いえ、そうもいきません…。3つ目の報告は?」
うつむき加減だったリーゼロッテは気怠そうな態度で顔を上げて尋ねる。その声色はせめてもの希望を求めるような切なさをわずかに含んでいた。
「はい、こちらは秘匿回線による電文での通信でして…」
「そう。じゃ、その場で読み上げてなさい」
「は?…い、いえ、分かりました」
一瞬怪訝そうな表情を浮かべた所長はしかし、目の前に居座る令嬢の視線に双眸に再び鋭い光が取り戻されたことに気づいた。手元の用紙を開き、注意深く言葉を繋ぎ始める。
「読み上げます。えー、『茶席のスコーンにラズベリージャムとクロテッドクリームの用意を。マーマレードは紅茶に入れて』。以上です」
「…結構です。所長、返答をして頂戴。文面はこちらで」
「承知しました」
手元のペンで走り書きをした紙切れを所長に手渡した貴族令嬢は、すっくと立ち上がって肩を回し、自身に向けて気合いを入れ直す。そして再び所長の方を振り向くと、気怠さなどとうに振り切った態度で再び尋ねる。
「所長。地上部隊の状況は、つつがなく把握できていますか?」
「問題ございません閣下」
「結構です。相撃ちだけはないよう徹底させなさい。さて、皆さんいいこと?」
両の手を叩き、貴族令嬢は周囲の人たちの注意を引く。その立ち振る舞いは、常に人の前に立つよう教育されている貴族の人間ならではのものでもあった。
「1148時に、森林部も含めたこちらの離島部に対して航空攻撃が実施されます。地上に跋扈する敵はこの攻撃を以て全て焼き払う予定ですが、一方で、現在目の間に接近しつつある敵については我々自身で対応せねばなりません。よろしいですね?」
当然、答えは決まり切っている。だとしても、本人たちの口からそのことを述べることが重要なのだ。そしてそれを確認したリーゼロッテはハキハキとした態度で再び自身の配下たちに下命する。
「まずはバリケードの設置!椅子でも何でもいいから使えそうな備品を引きはがして!」
緊張と敬意、それに畏怖の混ざった視線を一身に浴びながら、なおその態度は堂々たるものであった。そして、周囲の兵員たちが動き出すタイミングを見計らい、所長と憲兵隊長、それにテオドラが側へ駆け寄って相談事を始める。
「本施設は核攻撃時における物理的な衝撃や、或いは地殻変動に伴って発生するひずみを与えないよう、構築物全体を中空構造とし、震動を吸収する柱状バネ構造で全体を下からを支えている仕組みになっています。ですので、おそらく破壊するとすれば横方向、つまり壁部分ですね。そちらからアプローチしていくものと…」
「ここだと30cm圧の合金ですか…。確かに、泣き所になるのはこの部分でしょうね。我々がとるべき方策は?」
「壁の破壊が実施されたタイミングで、銃火を集中させるしかないでしょう。問題は敵が機先を制して化学物質などを注入させる可能性ですが…」
「幸い、緊急時に備えて防毒マスクなどは準備されています。敵が使用する可能性も備えて…」
システムのアップデートを含めたこまめな改修自体は繰り返されている一方、大元自体は500年前に構築されたテーブル設置のモニターに、これまた500年前に作成されたシェルターの設計図を映しながら、リーゼロッテらが敵の攻撃場所を推測する。
「音響の位置、特定できました!こっちの方向です!」
センサーを壁に押し当てて敵の方向を探知していた憲兵の一人が声を上げた。それに呼応するように、周囲の憲兵たちも椅子やら引っぺがした壁の一部やらを組み上げて即席のバリケードを築き上げる。
「で、ここを襲っている武装集団は、結局のところ人民連邦などという輩の手先なわけですか?それともアナタが個人的に恨みを買っているだけ?」
「ひぃやぁ、わぁったふぉんふぁはいえぇ(いやぁ、分かったもんじゃないねぇ)」
人類であることの何よりの証明である赤い血液を鼻から垂れ流しながらベルナデーテが返答するが、返答の中身自体はそれだけの価値があるものでもなかった。
「しょ、所長!」
出し抜けに憲兵の一人が素っ頓狂な声を上げ、壁に向けて指をさす。その場にいた人々がつられて目線を飛ばすと、分厚い金属をぶち抜くドリルの先端が顔を出していた。
「閣下、こちらを!」
憲兵の一人がすっ飛んで緊急用の物資が詰め込まれたボックスを取りに行き、手渡された所長が慌てて中身を取り出してリーゼロッテ他その場にいる人員に中に入っていたガスマスクを手渡す。本来であれば放射性物質が立ち込めるであろう室外作業用の備品であるのだが、壁に空いた穴から敵が毒ガスを流し込む可能性もここでは考える必要があった。
「おいおい、こりゃ大分骨とう品じゃねぇか。放出品頼りの海賊風情でも廃棄するレベルだぞ?」
「問題ありませんから、早くつけてください」
「あ、ホントだ。ゴム臭くないや。保存状態が良いからかね」
500年前であればそれこそ戦列艦の装甲にも用いられていた金属の塊であっても、材料工学の進展に伴って単なる切削加工でも破壊が出来てしまう。そんな脆弱性があるにもかかわらずなぜ壁面の材質を更新しなかったと言えば、わざわざ地下を掘ってまでシェルターの壁面にドリルを突き立てる不逞な輩を想定していなかったからだ。立てこもる全員が一定の距離を保つ中、金属同士が擦れる不快な音を大音量でがなり立てつつ、同時並行で進められた作業によって十数個の穴がたちまち穿たれる。
「破壊方法は、炸薬か?それともプラズマ?」
「ちょっと黙りなさい」
「いやいや、ケチ臭い勢力だったらプラズマなんか使わないはずだろ?」
「じゃあどうやって破壊するかなんて私たちが分かるハズないでしょ!?」
「そりゃそうか」
聞いている周囲がハラハラしてしまうような掛け合いをよそに、ドリルで空いた穴にピッタリはまるだけの棒が差し込まれる。武装集団が選択したのは高電圧大電流を流し込んで材質の剛性を崩壊させるプラズマ方式であった。もっとも、彼女たちがその事実を知ったのは円形に輝く眩いばかりの光源に危うく目を焼かれかけてからであったが。
「閣下、航空攻撃まで残り2分です。しかし敵の防空部隊は…」
「ここまで来たら遠くの味方を信じるしかありませんし、目の前の敵に対しては抵抗するしかありません。お分かり?」
「しょ、承知しました」
困惑気味な所長が尋ね、肝の据わった態度でリーゼロッテが答える。そんなやり取りはありつつも、総じて静寂とも言える状況下、十数個の銃口が向けられる中で、円柱状に焼き切られた厚さ30センチの金属塊が重そうな響きとともに押し出され、ゆっくりと、重力に従って地面に転がり落ちた。
「撃て!!」
火薬が弾けるつんざくような音がたちまちのうちに周囲を覆いつくすが、頃合いを見計らったリーゼロッテが指揮者のごとき振る舞いで左手を挙げると、それらが一瞬で静まり返る。
「ローゼルは右、卿は左から制圧射撃。良いわね?」
「はい、お嬢様」
「了解です」
貴族令嬢の呼びかけに対して、防毒マスクのくぐもった声で応じたローゼルとテオドラが音を立てず、そしてしなやかにバリケードを乗り越えると、憲兵たちの援護射撃にギリギリ被らないラインを攻めながら慎重に穴の部分へ歩みを進め、向こう側が見えそうになったタイミングで容赦なく引き金を絞る。小口径炸薬の甲高い音と、散弾銃特有の重たい銃声音が同時に溢れ、それらの弾丸が岩盤にめり込む音もまた鳴り響く。
「…?」
しかし、最前に位置する彼女たちの耳に入る音はそれがすべてであった。防弾プレートが割れる音も、逆にこちらの銃撃に反撃する銃声音も、或いは死と痛みに直面した者が発する絶望を誘う声色も聞こえなかった。
ただ、その直後にまた別の音が聞こえた。極めて重く、頑丈なはずの金属がきしみ、ひび割れる、不吉極まりない音が。
「お嬢様…っ!!」
「マズい、天井が…!!」
敵の破壊工作が一枚上手だったのか、或いは400年を越える月日が積み重なることで、深刻なダメージの切っ掛けとなったのか。理由はともかく、シェルターは己自身の重さに耐えきれなくなったらしい。恐ろしく分厚い金属製の天井が、とんでもなく大きくそして極めて不愉快な轟音をまき散らしながら斜めに向かって崩落し始める。壁に埋め込まれたモニターがまるで紙細工のように簡単にひしゃげ、唯一この事態を外に向けて連絡するための通信機器がまるで飴細工のように容易く押しつぶされた。そんな中にあって、一連の出来事に対しいち早く動き、リーゼロッテの傍へ駆け寄ったローゼルが、彼女を軽々と抱き上げて再び穴の外へ向かう。一方で、奥に引っ込んでいたベルナデーテは慌てて穴に向かって転がり出る。テオドラが穴の外に向けて銃を乱射しながら居るかもしれない敵を牽制する。所長が顔を引きつらせながらバリケードを乗り越える。憲兵たちが我先に外へ出たい気持ちをぐっと堪え、それでも万が一の望みに託し、バリケードを構築していた資材を縦に動かしてどうにか生存空間を確保しようと試みる。
「明かりを!!」
穴の外には、シェルターの中空構造を実現するために設けられていた真っ暗な空間が広がっていた。当然、わざわざ壁をぶち破って中から外に出ることなんて設計時には想定していなかったから、それなりに広い空間ながら光源は一切見当たらない。手持ちの照明では周囲を照らしきれないテオドラが轟音の中でなお叫び、辛うじてそれを聞き取った憲兵の一人が、穴の外に向かって照明弾を投げ込む。
「うわ、ちょっと高っ…」
設計図をいくら確認したとしても、500年に及ぶ浸食作用が、シェルターの設置された地面に対していかなる影響をもたらすかまでは判別のしようがない。それに、破壊工作を仕掛けた側にとってもそれは好都合だったのだろう。投げ込まれた照明弾が重力に引っ張られ、そのままかなり下の方まで落ちていく様を目にしたテオドラは思わずひるむ。が、そのすぐそばをローゼルが通り抜け、薄暗い空間に向かって躊躇なく飛び込んだ。と同時に、その腕の中に抱き締める何よりも大切な人物に向けて、ローゼルは口早に、しかし可能な限りの敬意と、そして申し訳なさを込めてささやきかける。
「申し訳ございませんお嬢様。後でいかなる処罰をお受けいたします。今しばらく、ご辛抱ください」
「ローゼル、貴方…!」
優に10mを超えるだけの高さはあっただろう。それに、地面から岩か何かでも突出していれば取り返しの付かない重傷を負ったとしても全く不思議ではなかった。だからこそ、ローゼルはその行動を取るだけの価値を見出したのだったが。
「閣下!?」
咄嗟の行動に対し、所長もテオドラも思わず声を上げ、下方向に意識を向けてしまう。
「おいちょ、待て!!上、上だ!!」
だからこそ、穴の外に広く意識を向けていたベルナデーテは、ハーネスを身にまとった敵兵が穴のすぐ上にいることにいち早く気づいた。もっとも、これら不届き者たちはシェルターの屋根部分にロープを打ち付けていたのだろう。今まさに歪んで不規則な動きを示すロープに引っ張られ、狙いを付けられないようだった。
だからこそ、その隙をついてテオドラが穴からすかさず顔を出して発砲し、丁寧に敵兵たちの頭を撃ち抜く。
「いや、は!?おい高ぇな!?あいつらここを飛び降りたのか!?」
「潰されるよりマシです!リーゼロッテ様を踏みつけないようにだけお願いします!」
所長の発言に抗議を上げようとしたベルナデーテだったが、分厚い金属製の天井がバキンという轟音を立てながら折れ曲がった様を今一度目の当たりにして不満の言葉を飲み込んだ。
「行きます、まず私が!」
敵兵に向けてあらかた銃撃を加えたテオドラが先陣を切って飛び降りる。先に降りたリーゼロッテたちをその場から移動させる意味合いも込められていた。それなりの高さだったにも関わらず軽やかな身のこなしでくるりと降り立ったテオドラが、素早く銃を構え直して周囲を見渡す。
「閣下!すみませんが移動してください!」
上にいる敵兵はあらかた始末したとはいえ、まだその周囲に潜んでいないとは限らない。場合によっては集中砲火を喰らうかもしれないが、それでもテオドラは防毒マスク越しに大声を出して、むしろその狙いが自分に来るようあえて誘導する。大貴族の令嬢が銃撃を喰らうよりも自身に対して向けられた方がよほどマシだという苦渋の判断ではあった。
「ローゼル…、ローゼル!?あぁなんてこと!?」
がしかし、決死の覚悟で行ったテオドラの声かけはリーゼロッテに対して微塵も届くことはなかった。むしろ、彼女の持つ注意、関心事、或いは集中力は、頭から血を流してぐったりと倒れ込む近侍とその介抱に対して全てが注がれていた。命の危険が迫ろうとも顔色一つ変えなかった彼女が、すっかり青ざめた表情で気道を確保し、ガーゼと消毒スプレーで後頭部にざっくりと開いた傷口を洗い流す。高慢ながらも誇り高く、常に冷静さを重んじる彼女が、恐怖で両手を震わせながら包帯を頭に巻き付けて更なる失血を防ぐ。敵に対して容赦を知らず、一切の慈悲をかける心算のない彼女が、自身の持つ絹製のハンカチを躊躇い無く破り、足りない分の布に充てる。しかしそれらも瞬く間に血に染まり、ことの深刻さが大貴族の令嬢に向けて容赦なく突きつけられる。
「しっかりして!!ローゼル!?」
結局のところ手持ちの物で行う応急処置では、限界は目に見えていた。それでもせめて意識をつなぎ留めるために、リーゼロッテは半狂乱になりながら悲痛な叫び声をあげ、呼びかけ続ける。
「お、お嬢さ、ま…、ご、ご、ご無事で?」
「当たり前じゃない!貴方が抱えてくれたから助かったのよ!?だから次は貴方が助かりなさい!!」
幽かな声を聞き及んだリーゼロッテだが、いつ何時でも自身に向けられていたはずの双眸が急速に光を失いつつあることに改めて気づき、再び絶望の表情を浮かべてローゼルの身体に懸命な思いで縋りつく。
「ローゼル…、嫌、いやよ…。なんでこんな危ないことを…」
この時、可憐にして常に優雅な貴族令嬢は、傷を負った己の子どもを守ろうとする猛獣そのものの激情しか持ち合わせていなかった。だからこそ、テオドラは無理にリーゼロッテをローゼルから引きはがそうとはせず、ゆっくりと、彼女の理性に通じるよう祈りながら、これから取るべき方策を語りかける。
「閣下。傷の具合は深刻ですが、手を打てばまだ命は助かるはずです。ローゼル様の安全を確保するためにも、賊のいるこの場を直ぐに離れましょう。私めもお手伝いいたします」
「…そうよ」
「は?」
血の滴る頭を左手で支え、優しく、ただ懸命にその身体を抱きしめながら、絶望と恐怖で小刻みに身体を震えさせていたリーゼロッテがポツリと呟いた。その小さな声を再び聞き逃すことがないよう、ゆっくり近寄ったテオドラであったが、直後その両耳に叩きつけられるような絶叫が飛び込んだ。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!お前たち!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!さっさと下賤なゴミ共の死体をここに持って来なさい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
まさにその瞬間であった。照明弾によってかすかに照らされた薄暗い空間の奥から、固定化した影としか言いようのない何かが飛び出した。そして固定化した影は、顕在化した死と変化して、周囲に潜みながら機を伺っていた敵兵に向かい襲い掛かる。
「うごっ!」
「がっ、ぐえ!」
手も足も出ないとはまさにこのことであった。抱えた小銃を構える隙すら与えられず、一瞬で身体の自由を奪われた直後、敢えて派手に噴き出るようにナイフを突き立てられ、血しぶきと僅かな断末魔をまき散らしながら瞬く間に命が刈り取られてゆく。
…しかし、声を上げられた者に与えられた運命はまだ手ぬるかったらしい。
「…っ!!」
声にならない絶叫とともに落下した敵兵は、腹部を掻っ捌かれ、内臓までもズタズタに切り刻まれていた。加えて、…なんという神業だろうか。それほどまでに凄惨な処置を受けておきながらも、地面に叩きつけられるその瞬間まで、命脈は保たれたままだったようである。『それ』を目の当たりにしてから命を落とすまで、ほんのわずかな時間であったにも関わらず、その表情は恐怖によって硬く引きつっていた。
命を弄ぶようにも思える凄惨な光景ではあったが、一方でそれは、見ようによってはむしろ圧巻と畏怖を従える聖性な情感さえ呼び起こすものであった。この哀れな肉の塊が、偉大なる存在に向けて、その怒りを出来る限り鎮めるよう捧げられた生贄に過ぎないことを思えば、そうした感覚に囚われるのもあながち間違いではなかったわけだが。
『こ、この手際っ…!?』
当然、少しでもまともな感性を持ち合わせている者であれば、その光景に残虐性以外を見出せるわけがなかった。テオドラの場合、防毒マスクをしていたから、鉄錆をさらに強烈にさせたような生臭い匂いを浴びずには済んだものの、それでも目の前に広がるその光景に、思わず吐き気を催さずにはいられなかった。とはいえ、凄惨とはいえ余りに高い技量を目前に、その残虐性を抜きにしたとしても凍り付くような感情がテオドラの背骨を通り抜ける。
「ここへ」
しかしながら、である。下賤なる者の命をどれほどまでに多く捧げようとも、目の前に横たわる人物を、ただ大切そうに、愛おしそうに、そして慈しむように抱えながら、絶対零度の声色で自らに傅くよう命じる貴人の激情を鎮められる保障は、全くと言っていいほど存在しなかった。
「はっ!侯世子閣下。お待たせしてしまい、申し訳ございません。第100狙撃猟兵連隊、第3大隊第2中隊長テオバルト・フォン・グレゴリウス。御身の前に」
名乗りを上げることによって、リーゼロッテの前にゆらりと現れた影のよう存在が輪郭を伴い、深く頭を垂れた姿勢のまま顕在化する。第一印象から違和感を感じさせる、なんとも奇妙な人物であった。岩のような重量感のある筋肉を身にまとう一方、その風貌と目線は立ち枯れた植物のように生命力が削ぎ落されていた。本来であれば、おおよそ夜道に出会いたくないような容姿であったハズだろうが、深くうつむきながらも僅かに垣間見えるその表情はむしろ、最も恐ろしい物に自身こそが遭遇してしまったかのような、恐怖心と切迫感に満ち満ちたものであった。
「医者をお連れしました。直ちに、ローゼル殿の治療に当たらせていただきます」
いずれにせよ、彼の容姿が放つアンバランスさは、この際において極めて些細な問題に過ぎない。第100狙撃猟兵連隊…通称『バイエルン連隊』は、公国八侯爵の名を通称として用いることが許された他の部隊同様、空挺降下による強襲や後方攪乱、目標回収任務や或いは要人護衛といった、公国の利益に資するありとあらゆる軍事作戦を遂行できるようデザインされた精鋭中の精鋭である。当然、特殊作戦に随行できるだけの能力を持った専門医もそこに所属している。ましてや事態が事態であるのだ。たちまちのうちに、影を思わせるような捉えどころの無い空間から幾名かが現れて大貴族の令嬢の下へ駆け寄り、ぐったりと横たわったその付き人を、極めて丁重な態度を心掛けながら引き受けると、瞬く間に野戦病院さながらの処置を始める。その一連の作業は、切迫感を通り越し、むしろ悲壮感すら伴う正確極まりない所作の連続によって構成されていた。
「面を上げなさい」
歴戦を思わせる軍人が、血塗れになりながら座り込む少女の叱責を恐れるかのような態度で駆けずり回り、そしてひざまずくその光景は、異様としか言いようのないもののはずであった。しかし、ブラックホールを思わせる昏い眼差しを見やり、研ぎ澄まされた刃を想起させる怜悧な声を聞けば、傍から見るだけの人物であっても、この少女こそが目の前の軍人の生殺与奪を握る最高権力者であることを即座に理解しただろう。だからこそ、中隊長は顔を上げざるを得ない。絶対的な忠誠を誓うからこそ命令に背くことはあり得ないし、絶対的な忠誠を誓うからこそ目の前の貴人が途方もつかない怒りの感情を内包させていることを理解していた。
「『人民連邦』という言葉に聞き覚えは?」
「…畏れながら、可能な限り思い返してみましたものの、私の記憶ではそのような言葉に聞き覚えはありません」
かのような人物を前にして、誠実である以外の手段を取れるはずがない。だからこそ中隊長は、わずかな逡巡の上、ありのままの事実を目の前の貴人に対して申し出る。それが、彼女が本当に欲している言葉でなかったとしても、である。
「そう」
対する貴族令嬢の言い様は、さも初めから興味がなかったかのような雰囲気を纏ってはいたが、その裡に怒りの感情が存在することは明白であった。でなければ、あえて平坦な話し方にする理由がない。
そう、彼女は確かに怒っていた。激怒していた。激昂していた。憤懣たる思いであった。…一方で、それらの感情を途方もなく強力な理性によって抑えつけているのもまた間違いのない事実であった。
「大切なローゼルが怪我を負いました」
「…誠に申し訳ございません。いと深き侯爵家の御恩に対し、」
「黙りなさい。言い訳を聞く気分ではないの」
淡々とした口調だからこそ、その一言は何よりも明晰に周囲の者たちの耳へ響く。だが、当の貴族令嬢は一見して意に介さないような態度で、再び言葉を繋げる。
「あの子は優秀で、忠実で、優しい子です。ただそれ以前に、とても賢い子です。だからあの子は私をがっかりさせるような行動を取りません。私を悲しませるような振舞いをしません。私に、…深い絶望を植え付けるような手段は絶対に取りません。そんなあの子が、自らを犠牲にして、あのような選択をしました」
そう言い終わると、貴族令嬢はふらりと立ち上がり、自らの視線を先ほどまで抱えていた人物へと向ける。その身のこなしがあまりにも自然であったから、その直後。まるで映像のフレームが抜け落ちたような素早い所作で、有機クリスタル製の極々薄い刀剣が中隊長の頭部めがけて突き刺される瞬間、周囲がまさしく息をのんだ。
「お分かりですか?我が侯爵家の、…いえ、公国の培ってきた、高貴で気高く、誇らしい精神ですら太刀打ちのし難い、何かが迫っているんです」
「大恩ある侯爵家の目であり剣。そして盾たる身の上として、御心を悩まし奉ること、痛恨の極みと申し上げるほかありません。もし挽回の機会を賜ることが叶いますならば、必ず、必ずや…っ!」
左頬に刻まれた絹糸ほどの切り傷からわずかに血を流しつつ、中隊長は静かな熱意をたぎらせて言葉を紡ぐ。
実際の所、中隊長にとって己の命が侯爵家の手にかかることに何ら恐れの感情を抱いていなかった。彼が最も恐れることは、自らが忠誠を誓うバイエルン侯爵家に危害が及ぶことであり、深い憂慮の感情を抱かせることもそこに含まれていた。
「…結構です。私も、己の身の振り方に向き合わねばなりませんね」
あくまでも優美で、そして余裕のある所作で仕込み刀を仕舞い込んだリーゼロッテは、どれほどの怒りが全身を突き抜けようとも、結局のところ、上に立つものとしての責務を忘れてはいなかった。
「中隊長。此度の一件は後手を取った卿の失態であり、そして先手を読み誤った私の失策です。そしてそれは侯爵家の蹉跌を意味し、ひいては公国が不利益を被ることにもつながりかねません」
「今一度肝に銘じます。…して、『人民連邦』がその元凶にあると?」
「調べなければ分かりません。あらゆる関係諸機関と連携を取り、委細を手のうちにする必要があります。場合によっては、帝国政府と協調することも頭に入れておきなさい」
貴族令嬢の語り口は淡々としたものではあったが、それが怒りを抑えつけた結果ではなく、むしろ先を見据えるだけの凛々しさを取り戻したが故のものと言った方が適切だろう。
「良いこと?守るべきものを守れず、知りたいことも知れないようであれば、爵位も、公国も、円環も意味を為しません。速やかに、徹底的に我々は敵を知り、圧倒し、打倒し、ひき潰さなければなりません」
『友に調和と親愛を。敵に覚悟と制裁を』を家訓として掲げるバイエルン侯爵家にあって、排他的とも言える親愛も、独善的とも言える制裁も称賛されこそすれ、批判の対象となるべきものでは無かった。
「我が公国への攻撃は兆倍にして返す。それが私たちのやり方です」
「承知しました。我が侯世子閣下。我が力、我が忠誠。その全てを捧げ奉ります」
薄暗いほら穴の奥であって、その決意、その決心は堅く、同時に見る者の心を揺さぶった。一騎当千の兵士たちがかしずき、感涙にむせび、目の前の貴人が掲げる意思の尊さにむせび泣く。古式ゆかしい貴族家として、それがあるべき姿なのは間違いなかった。
「こっわ~…」
狂信が精神を犯し尽くしたカルトの教祖も、妄信が脳内を凌辱し尽くした独裁者も、宇宙海賊として生き、ひしゃげかけた核シェルターからついさっき脱出できたベルナデーテにしてみれば失笑を買わせるだけの愚かな存在でしかなかった。だからこそ、目の前で繰り広げられる少女と人相の悪い軍人のやり取りには茶番以上の意義を見出せなかったし、だからこそ、今まで感じたことのないような不可解な感情を吐露せずにはいられなかった。
さて、ニュースもろくに届かない地下空間における、貴族令嬢の新たなる決心と、それにドン引きする宇宙海賊はひとまず置いておくとして、オリオン暗礁宙域の果てに位置するグリーゼ王国が『人民評議会社会主義共和国連邦』、即ち『人民連邦』を名乗る星間国家からの侵攻を受けていることは、既に公国の、というか帝国に住まう多くの者が既に知ることとなっていた。
一連の事件を重く見た帝国議会は、直ちに当事者であるところの辺境総督ーーアウステルリッツ公爵、ならびにその嫡男の召喚を決定。歴史の舞台は、すべての領邦貴族の悪夢であるところの、帝国議会臣民院会議場へと移されることとなったのである。
次回、新章入ります。