第23話 貴族がみんなおしとやかだと思ったら大間違いなのは皆様もうすうす感づいてるとは思いますが
通路に張り巡らされた分厚い金属は、視界に入る壁・床・天井の全て覆い、外部からの通信、あるいは交流の一切を拒んでいた。実際にこの施設を設計するにあたって、そういう明らかな意図が込められていたのは確かである。一方でまたその設計は、この施設に『消極的に』関与する人物に対し、精神的な影響を与える副次的な効果も期待できた。金属光沢の怜悧な輝きは、それと対峙する者に対して心理的な圧迫的な印象を与えるとともに、その人物が抱える言い知れない不安感を増幅させる。
もっとも、辛気臭くてしょうがないこの施設のとある一室をあてがわれた人物が、そういった工夫に対し、目に見えるような影響や、あるいは動揺を示すことは無かった。
「水…もらえるかな」
「あいにく、飲食はただいま禁じられております」
「あ、そう」
あくまで低姿勢を意識しての要求ではあったが、机の反対側で資料をめくる役人の男性はその申し出をむげなく却下した。しかし彼女は、図太い精神が取り柄の宇宙海賊らしい横柄な態度を取り戻すと、足を組みながらさらなる追撃に転じた。
「さっきまで飲ませてもらってたみたいな上等な茶じゃなくて、普通に水を飲ませてくれって言ってんの。それともあれかい?貴族様は水を飲むのにも家来かなんかに注いでもらってるのか?」
「飲食は禁止されておりますので」
「そもそも、淑女をこんな場所まで閉じ込めてどうするつもりなんだい?」
「担当の者が来るまでお答えできません」
「あたしを呼び寄せたあの貴族のお坊ちゃんは?」
「公子閣下はただいま席を外されております」
「知ってるよそんくらいは…。いかつい奴らに連れ去られるのを見たからね。じゃあさっきまで一緒に茶を飲んでた貴族のお嬢さんは?」
「お答えできません」
「貴族のお坊ちゃんにくっついてた方のお嬢さんは?」
「お答えできません」
「さっきからめくってるその紙にはなんか書いてあんの?」
「お答えできません」
「弁護士は呼べる?」
「お答えできません」
「逆にこれなら答えられるってものある?」
「お答えできません」
あまりの頑固さにかえって自分の頭が痛くなったベルナデーテは、そこで質問を打ち切った。撤退を選択した以上、今ここで彼女が取れる手段は、自身の爪を眺めるか、指にはめ込まれた装飾品を弄るか、あるいは足を組み替えて出来るだけ負担のない座り方を調べることくらいであったが、それも20分以上やっていれば無駄で無駄でしょうがないという感情が湧き上がってくる。
円環がもたらす無窮のエネルギーは有史以来課せられてきた労働という名のくびきから多くの人々を解放した。ゆえに帝国における大多数の国民は、一日のほぼすべてを占める余暇の時間を如何に消費するべきか常に頭を巡らせているわけなのだが、宇宙海賊という身の上のもと、アウトローな暮らしを余儀なくされた彼女にとって、ただ無為に消費させられる時間というのは慣れてないが故にたいへん不愉快なものであった。
「失礼します」
突然前触れなく、浅黒い肌の男性がドアを開けて部屋に入ってきた。ベルナデーテにしてみれば、その事態だけでも閉塞しきった事態に打開をもたらしてくれるサプライズイベントだったわけだが、その後ろに続く女性の存在を見やり、思わず声を上げた。
「これはこれは」
押し問答に辟易し、人生の意味について深い洞察を得ることに無駄な熱意を注ぐしかなかったベルナデーテは、丁重さを微塵も含まないまま入室してきたその女性に対して、遠慮のない視線と声を投げかける。
「侯爵家のお嬢様がよくぞおいで下さいました」
気安い呼びかけに対して大貴族の令嬢が返した目線の強烈さは、おおよそ戦列艦に搭載された電離砲を想起させるものであったが、それでも刺激に飢えていた元宇宙海賊にしてみれば、退屈を解消させるための少しばかり愉快そうな出来事の一つでしかなかった。
さかのぼること数時間前のことである。アウステルリッツ公国における首都星系スラフコフ・ウ・ブルナの4番惑星軌道上を周回する宇宙港の一つに、一人の少女が降り立った。本来であれば多くの人数でごった返しているはずの宇宙港はしかし、折からの恒星風の影響から人影もまばらであった。
「テオドラ・フォン・フロイツハイム公領騎士、確認いたしました。遠路はるばるご苦労様です。あちらの通路をお進みください」
身分証を読み込んだ宙港保安管理官の了承とともに、ジン・ヴィータから数万光年の距離を踏破してきた文学少女は、宇宙港の奥に設置された往還用の離発着ターミナルに足を向ける。数十時間の旅路であったにもかかわらず、そこに疲労の色は一切と言って良いほどなかった。
『続いて、スラフコフ・ウ・ブルナ星系気象台からの予報をお知らせします。先週まで荒れていた恒星の動きは現在安定しており、少なくとも来週において内航船が被る影響は極めて軽微なものと予想されます。しかしながら、先日発生した大規模な恒星風の影響については現在詳しい観測が続いている一方、その範囲が非常に広大になるため、艦船搭載のレーダーに予期せぬトラブルが発生する可能性があります。旅客輸送を中心とする内航船事業者も、安全のため引き続きの運行中止を発表し…』
ARグラスのデータ通信をつけっぱなしにしていたため、宇宙港の一角に設けられた全方向スクリーンが送信している映像が不意に流れ出した。スラフコフ・ウ・ブルナの視聴者にとっておなじみのキャスターが柔和な表情とともに周辺宙域の状況をお伝えするその模様は、その内容にかかわらず、スラフコフ・ウ・ブルナ、あるいはアウルテルリッツ公国における日常の一コマを彩る存在であった。
そう、日常である。ジークフリート・フォン・アウステルリッツに始まる多くの偉人たちが追い求め、営々の努力を積み重ねることにより得られた最大の成果が、今や公国のほぼ全土を覆いつくしている。そして4000m級の未確認航宙艦船がワープアウトするという大事件が、発生直後の数日間はニュースをにぎわせた一方、今では数ある話題の一つに過ぎない存在まで押し込められているのも、日常という概念が為せる業といっても良かった。
『少なくとも、帝国航路護衛艦隊に関する報道は充分抑え込めている模様…。これに関しては未確認航宙艦船とは違って明確な「てこ入れ」が効いてるみたいですね。…問題なし』
もっともな話として、ありのまま起きた出来事を、ありのままに大衆へ知らせるほど、公国という組織は寛大でも、また無防備でもなかった。特に、安全保障に関連する『情報』がそれ単体で国家に対して及ぼす影響というのは、もはや予測不可能の域に達している。ましてや公世子が、一時的とはいえその安全を脅かされたのだ。なまじ政府の透明性をアピールするために事実を公開し、未だ公国各地において潜伏の可能性が指摘されている『擾乱勢力』の暴発を誘導してしまうよりは、はじめからそのような出来事自体をなかったこととして処理する方が、よほど『賢い選択』と言えた。『日常』というのは結局のところ、あるがままの事実や美しい正義と同時に得ることが出来るほどお手軽な存在でもないのだ。
そしてまた、テオドラ・フォン・フロイツハイムが、薄暗い書庫の奥底から抜け出してわざわざこの場にいるのも、事実を伏せ、正義を捻じ曲げげることでようやく達成することが出来る『日常』を守るためであった。
「それでもって…。久々に来たので場所が分からなくなってしまいました」
思わず口に出したテオドラはARグラスの電源を切り、紙の地図を広げて場所を確認する。自身が仕える主とともに首都星系を離れてから、優に10年以上は経過している。それに人もまばらとはいえ広大な宇宙港なのだ。目指している場所も、道に迷った旅行客か、あるいは手段に血迷ったテロリストが入り込まないような分かりにくい場所にあるのも一因だった。
そもそも宇宙港は、衛星軌道上の大気圏外から離発着する航宙艦と、地上に生活の拠点を置く人々とを繋げる存在であり、本来であれば地表から延びて宇宙港と直接に接続されている軌道エレベーターを通じて、軌道~地表間の上下移動を実施するのが普通だ。にもかかわらず、彼女は相応の理由から大気圏内外の航行が可能な往還連絡機を用いる必要があった。
『テロ対策とはいえ、ここまで複雑だと往生してしまいますね…』
行き先が書かれた案内表示もなく、それどころかどこを進んでも似たような通路が伸びている不親切さは、間違いなく意図的なものであった。こういう事態にも備え、時間にも余裕を持った旅程を組んでいた以上、遅刻するようなことはまずない。しかし予定時刻ギリギリに到着したのでは、あの令嬢の機嫌を損ねてしまうかもしれない。気難しい雰囲気を纏いながらも、どこか抜けていて気安げな部分もある自身の主とはことなり、これから相まみえるその人物は「いかにも貴族的な」苛烈さを容赦なく振りまくことで有名な人物であった。ゆえに、宇宙港の最下部に位置しているターミナルまでたどり着いた彼女は、無意識的にこわばっていた神経がほぐれるのを実感した。足元のすぐ下は高度500㎞の高度を保っているにもかかわらず、である。
「フロイツハイム様ですね、お待ちしておりました。…といっても、常に退屈している職場でしてね。地表に到着するまで可能な限りのスペクタクルをお届け出来ればと思います」
「普通にお願いします。普通に」
添乗員兼操縦士とのやや不穏な挨拶もそこそこに、テオドラは機体内の椅子に深く腰掛ける。実際のところ、宇宙港を経由する旅客・貨物のうち、99%以上は軌道エレベーターを通じて運ばれるのだ。軌道往還連絡機の運航要員が暇を持て余してしょうがないのも、うなづける話である。
そういった事情があるにもかかわらず、テオドラが搭乗する機体は、一機あたりで優に3桁人は運べるだけのキャパシティを有していた。遂行する任務の頻度に対して、その輸送量がどれだけオーバースペックなのは指摘するまでもないが、より一層注目を集めるのは、スラフトフ・ウ・ブルナに限っても、この往還連絡機が型番違いも含め、常に4000機以上稼働できる状態を保っているという事実である。当然維持費もバカにならないし、公国の国民議会においても幾度か、この手の往還連絡機の配備に関しその予算運用が『端的に言って無駄である』との指摘を受けてきた。しかしそれに対して『緊急時等における輸送用に転用可能である』との反対意見が出され、結局のところ配備数が削減されるどころか、むしろ緊急輸送用としては逆に少なすぎるという理由から、議論する度に次期会計年度にて運用予算の増額要求が上がるため、やがて誰もその予算運用について口を挟まなくなったという経緯が存在する。
そういった散文的な背景はともかくとして、往還連絡機の窓から見ることのできる風景は、普段は文字と情報資源の中に入り浸っている少女の心を動かすのに十分であった。宇宙港の位置が現在、惑星の自転的には夜の時間であり、スラフトフ・ウ・ブルナの中央で燦然と輝くその恒星の光が、惑星の淵を焦がしながら、地表を彩る様々な風景を今まさに、鮮やかに映し出そうとしている最中でもあった。
往還連絡機は宇宙港から発進すると、公国の首都惑星が発生させる重力に従い、その高度を真っ逆さまに落として大気圏に突入する。断熱圧縮に伴って機体の表面を焦がし、また単純な比率から見ればリンゴの皮以上に薄い大気は、しかし人類の生存には絶対不可欠な要素であり、また宇宙空間とははるかに異なる空力学的特性を発揮するため、大気圏の内と外の双方を航行可能にする機体の存在は、単純な機体数を別にすれば、この時代においてあまりポピュラーと言える存在ではなかった。
そのうちにテオドラが搭乗する往還連絡機は、透き通った青が広がる空を駆け抜け終わると、一方で生活感のある猥雑さを醸し出している地上へ向けて接近し始める。始め沿岸部を起点に発展し、高度な区画整理を進めながらも500年以上の歴史を積み重ねた結果として広がるその光景は、数億の人口を抱える大都市として相応しいだけの威容を保っていた。
そうして航行管制に用いられる機上レーダーが、沿岸部のさらに先の方角に設定された目的の座標に接近しつつあることを知らせると、機体は今一度ゆっくりと高度を下げ、目的地の孤島に展開された滑走路にそのまま軟着陸した。
『足元にお気をつけて』
おおよそ一切の不手際も感じさせない操縦ぶりは、いい意味でテオドラの想定を上回るものだった。そこはかとない自信と自負をにじませた機内放送を背にしながら、彼女はそのまま機体側面に横付けされたタラップを降り、久しぶりの惑星地表へと降り立つ。滑走路のすぐそばの崖からは青々とした大洋が、そのさらに向こうの対岸には、都市のスカイラインが広がり、先ほどまでテオドラがいた宇宙港と地表とをつなぐ軌道エレベーターがそびえ立つさまが見て取れた。
しかし対岸といっても、テオドラの降り立った場所はあくまで大洋の中にひっそりとたたずむ孤島でしかない。後ろを振り返れば、目につくような市街もない単調なだけの台地が広がっており、さらにその先には木々に覆われた起伏の多い光景が目につくだけであった。
「お待ちしておりましたフロイツハイム様。『キャンプ・ガネット』へようこそ。所長のドノヴァです」
木々の多い自然にあふれた空間とは似つかない都会的なスーツを着込んだ長身の男が、サングラスの下にこやかな表情を浮かべながらテオドラを出迎えた。一見すれば商談に来た人当たりの良いビジネスパーソンにしか見えなかったが、迷彩服を着込み、顔にまで迷彩柄のドーランを塗り込んだ屈強そうな兵士2名を後ろに控えさせているあたり、ただの優男では無いのは明らかであった。
「こちらが、本日ご担当していただく『ケース32』の資料です。紙ですみませんねぇ。この手のやり取りってのはどうにも機密がうるさくて」
「感謝します」
テオドラは丁寧ながらも簡潔に応じながら書類を受け取り、用意されていた高機動車両に向かって歩き出す。
「ろくに舗装もされていない場所ですが、窮屈はご勘弁ください。保安上の理由というやつです」
柔らかな人柄を醸し出す彼であったが、その職務的な立ち位置が原因なのであろうか。言葉の端々からやけに不穏な空気感が漏れ出ていた。
「問題ありません。移動の不便を甘受してでも達成しなければいけない責務がありますでしょう?」
「まぁ、予算の都合がなかなか付かないっていうのもあるんですが」
あっけらかんとした口調を返しながらも、収容所所長は上部に重機関銃を乗っけた物々しい雰囲気の装甲車の後部ドアを開けてテオドラとともに乗り込む。同時にきびきびとした動作の兵士たちが運転席と銃座にそれぞれ乗り込むと、でこぼこした道なき道に向けて車体を発進させた。それでも軌道往還機が着陸した滑走路付近を走っているうちはまだマシであったが、うっそうと木々が生い茂る森林部にまで到達しだすと、サスペンションではそうそう抑えきれないレベルの揺れが乗員に襲い掛かってきた。気候も適度に涼しげで、木漏れ日の柔らかな光に満ちた空間というのは休暇中の散歩として巡るには結構なのかもしれないが、重機関銃を装備した車両で巡るにはただ単に居心地の悪い未整備の道路に過ぎないものであった。
「いや~、乗り心地悪いでしょ?道もそうなんですが、そもそもこの車自体がボロでしてね。施設を預かってる身の上としてはお恥ずかしい限りですが…」
「お気になさらず。こういうのは慣れていますので。軍の装甲兵員輸送車に比べればだいぶ恵まれている方です」
「あぁ、あの腰に直接響くヤツですね。分かりますよ~、あれはツラかったなァ」
「あら。部隊勤務のご経験が?」
「えぇ、10年くらい前ですけどね。書類上は法務省の管轄施設になってはいますが、管理職レベルになると警察上がりと軍隊上がりが半々くらいを占めますから。それにしても警察上がりの面々は結構乗り心地に文句を言いがちでしてね」
「慣れるほど乗りたくないのはごもっともです」
その職務に反して気安い性格をしている所長は、テオドラの発言に対して改めて口元を緩めてさらに言葉を繋ぐ。
「政府所属の秘密組織といえばカッコいいように聞こえますけど、結局のところ予算のしがらみから抜け出せないのは一緒ですから。実際問題、使い道も公開できない事柄に税金が使われてるってなったら私だって文句の一つくらい言いたくなりますし、無い袖は振れないのも分かります。とはいっても、車両の更新くらいさせてもらってもバチは当たらないと思うんですけどね。収容所が出来た時期から稼働してる骨董品ですよ」
「ここの収容所が作られ始めた当初…?といいますと…」
「ええ。ざっと450年前ですかね」
所長はさも軽々と言った。
「笑っちゃいますよね。年単位にもらえる金額は少ないけど、数百年単位で支給されちゃうんで整備に整備を重ねてこうなっちゃったんです。メーカーも頑丈に作りすぎちゃったみたいで、致命的な欠陥みたいなのが全っぜん発生しないんですよこれが。道路もでこぼこなのに不思議なもんですよ」
「そういうことでしたか」
素直に感心したテオドラは、450年前の骨董品とともに、森に閉ざされた洋館といった雰囲気の建物ーーいや、むしろ『屋敷』と言った方がこの際適切と思われるような建築物ーーの前に到着した。
「既に、お嬢様は到着されてます。中へどうぞ」
車を降りたテオドラと所長が、注意深く周囲を警戒する兵士達を後ろに従えながら屋敷まで向かう。もうすこしばかり日当たりのいい場所であれば、貴族の別荘として十分通用するほど豪奢な構えをしていたその屋敷はしかし、人よりも文学的な感受性の優れるテオドラにしてみれば、言い表しようのない鬱々とした雰囲気を放っているように思えてならなかった。もっとも、『施設』を預かる所長たちに言わせれば、そういった情緒的な雰囲気はむしろ『そりゃボロい建物ですから』とあっさり切り捨てられる類のものに過ぎなかった訳であるが。
「ここまでご苦労。車を戻して、警備に戻ってくれ」
「了解しました」
一度振り返って護衛の兵士たちにそう命じた所長は再び前を向くと、木のきしんだ音を奏でながら、慣れた所作で扉を開ける。この場面だけでも切り取れば、麗らかな日和とともに人里離れた別荘へ招待された令嬢とその使用人に見えたかもしれない。
「お待ちしておりました」
お嬢さま、と言葉を継いでもおかしくはない、品のある正装に身を包んだ職員が出迎える。護衛に当たっていた、いかにも軍人らしい兵士たちとはまた異なる洗練されたその所作は、屋敷の外観もあいまっていかにも貴族趣味な空気感を醸成するのに役立っていた。
そうして職員なんだか貴族家の使用人なんだか分からない人物の先導に従いながら、テオドラと所長は屋敷の中に足を踏み入れる。薄暗い光量が保たれたその内部は、年季を経過した建物のみが醸し出す独特な雰囲気に満ちていた。宇宙時代における建材がそうやすやすと経年劣化するわけではないが、数百年単位に及ぶ時間と、その施設が本来果たすべき陰湿な役割がその印象を醸し出しているようにテオドラには思えてならなかった。
「こちらへどうぞ」
こつ、こつ、こつ、という静かな靴音を響かせながら、黙したままの三人は屋敷の奥、『施設』を構成する部分まで足を進める。実際のところ、屋敷の見た目はあくまで演出、あるいはカムフラージュの一環に過ぎない。いくつかの扉を開けた向こう側には、金属特有の冷たい雰囲気に満ちた近代的な設備が広がっていた。
「念のため確認させていただきますが、時間は大丈夫ですか?」
あくまで落ち着き払った態度を保っていたテオドラは、傍にいる二人に対して唯一の懸念点を口に出す。当然、時間を間違えるような事務的ミスを起こすことなどありえないが、相手が相手である。機嫌を損なうことは可能な限りあってはならなかった。
「ご安心ください。近侍の方にも確認を取ってます」
気安げな所長であるが、少なくとも話題があの令嬢相手となるとさすがの飄々さも引っ込むらしい。口の端に浮かんでいる笑みにも若干の硬さがあった。そして案内の先に連れてこられた扉の前でノックをする段階に至って、彼の裡に抱える緊張感はピークを迎えたようであるが、それは無言のまま彼の傍に控える職員にも、テオドラ自身にとっても同様であった。
「失礼します」
少なくとも表面上は平静を取り繕った挨拶の向こう側。陰気と冷気が支配する『施設』の中にあって、比較的人権を実感できるデザインが施された室内に、近侍であるローゼルをそばに置きながら、地味なスーツを身にまといつつも誰よりも主人然とした態度でその場に居座るバイエルン=アウステルリッツ侯リーゼロッテ嬢は、造形の良い顔から放たれる鋭い視線を入室者たるテオドラに向けた。
「お初にお目にかかります侯世子閣下。テオドラ・フォン・フロイツハイム一等公領騎士でございます」
「あなたは私のことを知っているでしょうから、形式ばった挨拶は省かせてもらうわ。掛けなさい」
周囲の視線に囲まれた儀礼の場か、あるいは我らが公爵家嫡男が相手であればまず出さないであろう怜悧な声とともに、令嬢はテオドラに着席を促した。
「恐れ入ります」
テオドラの着席を待って、リーゼロッテは口を開いた。
「ここにあなたが呼ばれたのは、そもそもあなたが帝都の別邸において情報の収集、およびその管理を担当する立場であるから。まず、あなたがその職務に対して間違いなく責任を果たしていることは間違いないわね?」
「間違いございません閣下」
「事態はあなたも聞いているはずよ。宇宙海賊を若様がかくまったという話」
「伺っております」
テオドラの返答に対して、リーゼロッテはひとつ、深いため息をついた。一瞬、自身の返答に問題があったのかと内心ひやりとしたテオドラは、直後、それが杞憂であると理解した。
「2h@[;[@8q3q!!!!!!08noy]:##%&$:@p/;;pp;:[][!?!?!?9:@:;;@p:9!!?!?qvwy2y9p45%&’78!!!!!!!!!!!」
貴族でありながら、否、貴族であるがゆえにため込まれた鬱屈の感情が、堰を切ったように爆発した。悪口雑言の内容はほとんど聞き取れなかったものの、その内容のほとんどが、宇宙海賊に対する明確で果てのない敵意であることは明らかであった。その場にいた所長はまったくの予備動作なしに放たれた音の塊に腰を抜かしかけ、室外で待機していたで職員も、防音機能すら貫通するその怒声に慄いて周囲を見渡す。耐衝撃の訓練を受けているテオドラと、もうすでにこの手の癇癪には慣れていたローゼルだけがその場で平静を保っていた。
「まぁそれはともかくとして」
刹那、まるでつきものが一瞬で剥落したかのように、リーゼロッテは落ち着きを取り戻した。
「聞くまでもないことだとは思いますが、フロイツハイム家の前当主、あなたのお父様とお母様のことについて、詳しいことは知っているはずよね?」
「…存じ上げております」
目の前の激昂に対してまったくと言って良いほど動揺を示さなかったテオドラはしかし、その質問に対して一拍おいたのち、そう答えた。
「結構。ついてきなさい」
さも時間が惜しいと言わんばかりに、リーゼロッテは席を立ち上がり目指す場所へ向かった。テオドラも遅れないようについていく。
「あなたの仕事は三つ。まず一つは宇宙海賊の詳細について出来るだけ詳しく聞き出すこと。組織体系・資金源・情報源・歴史的背景・軍事力・技術力・生産力、ほか、宇宙海賊を撃滅するために必要な情報すべて。そしてもう一つ」
足早の移動にもかかわらず、全く息も上がらないまま一息に言い切った彼女は不意に立ち止まると、後ろを歩くテオドラの方へくるりと振り向き、長身である彼女の顔を見上げながら念を押すように言う。
「今回の襲撃と、グリーゼ王国を名乗るあの巨大艦船との間に、何か関連がないか聞き出すこと。いいこと?『関係ないです』と言わせるだけじゃ不十分よ。理由付きで、なぜ関係が無いと言い切れるのか、向こうから証明するまで聞きとおすこと」
「無いことの証明を行うのは…」
不可能です、と言いかけた公領騎士であったが、こちらをにらむ侯世子の奥に潜む感情が、激発の手前である雰囲気を敏感に察知した。
「いえ、なにもございません」
恐怖からの萎縮というより、テオドラ自身、仕事を前に無駄な時間を費やすことを厭ったことの方が大きかった。
「そして最後にもう一つ」
テオドラに対してくるりと背を向けたリーゼロッテが、再び足早に歩き始めつつ一言。
「私があの女をもし殺しても何も言わず黙っていること」
声色は感情を全く押し殺し、表情もうかがい知ることはできなかった。しかし、鉄面皮で知られている近侍のローゼルの表情が、一瞬だけひるんだのをテオドラは見逃さなかった。
あくびを噛み殺すのはマッシュ軍曹にとっては習慣づけられた動作の一つであり、意識的にやっているものでは無い。だからこそ、あくびを噛み殺した自分自身の存在に気づくことで、古巣において過ごしてきた日々が、自身の根底に未だこびり付いている感覚に彼は囚われるのだった。
「211アルファより210へ定時連絡。周辺に異常なし、報告終わり」
『210より211アルファへ、了解。引き続き監視にあたれ』
「了解」
現在の部署に着任してそれほどの時間が経過したわけではないものの、もうすでに何百回以上繰り返されてきたやり取りに更にもう1回分を追加し終えると、彼は何の気なしに周囲を見回して思わず呟く。
「クソねみぃ…」
つい半年前まで、公国国民の99%は場所も知らないような辺境惑星の自由地域において、公国軍の精鋭たる『狙撃猟兵』として平和維持任務に従事していたのがまるで夢のようであった。無論、この場合の『夢』とは悪夢を意味する語彙であって、その当時の自分からしてみれば現在のほうが余程夢心地のような仕事に思えることだろう。実際にやることと言えば、初夏を思わせる柔らかな木漏れ日が周囲を照らし、一呼吸するごとに木々が放つ新鮮で穏やかな芳香が鼻腔をくすぐるような森の中をひたすら歩き回るだけである。今日に限って言えば、珍しくやってきた客人を護送するために高機動車両の運転手役に駆り出されたが、それすらそれすら1時間も限らず終わってしまうなんてことのない作業に過ぎない。
強いて面倒なことを挙げるとすれば、公国軍の正式採用アサルトライフルである重さ3kgの金属の塊を持たされていることであるが、合計で20kg以上あるフル装備を抱えながら1kmを4分弱で走り切れるだけの体躯を未だに維持している彼にとってみれば、特に不自由をおぼえる対象でもなかった。
「くはぁ…っ」
今度こそ彼はあくびをする。口を大きく開くことで、塗りたくられた迷彩柄のドーランに皮膚が引っ張られる。
それは意識的な振舞いであり、積極的に過去の呪縛から自身を解放させようとする行為であった。 加えて、あくびそのものをするのに今の環境ほど適切な場所はなかった。なんなら木陰に座って居眠りをかましたとしてもバレることはないだろう。公国政府所有の、それも首都惑星の海に浮かぶ孤島における警備任務などという、形式と形骸以外の何物でもないような仕事においてわざわざ真面目さを発揮するのは、反帝国を掲げながらその実態は麻薬と迷信と各種銃火器にまみれた擾乱勢力を相手どる以上に困難な任務であった。
「…?」
そうであっても、狙撃猟兵として叩きこまれた身のこなしがそう簡単に抜け切るわけではない。草木が何かと擦れる微かな音を彼は聞き逃すことなく、ぶら下げていたAst422を構えて素早く振り向いた。
「オッケー、オッケー。俺だよ」
「…ったく」
5m向こうに草木に紛れながらたたずむウル軍曹が、おどけたように両手を挙げてマッシュ軍曹の警戒心をほどく。ついさっきまで自身とともに真面目腐った態度で銃座に鎮座していた彼であるが、退屈極まりない警備任務の経歴については一日の長がある。マッシュ軍曹にとって戦友というよりむしろ悪友といってよい存在であった。
「元降下誘導小隊所属の元降下猟兵の態度かよ」
「そりゃ言いっこなしのお互い様だろ?元狙撃猟兵さんよ」
マッシュ軍曹が呆れたように背を向けると、すかさず駆け寄ったウル軍曹は尻に向けて軽いキックを放つ。少し前までは精鋭として扱われ、修羅場を潜った経験も一度や二度では済まない彼らではあったが、はたから見てそれを感じさせない気の抜けたやり取りであった。
「その『元』っていうのがどうも慣れねぇんだよ。連隊から離れてまだ3ヶ月くらいだからな」
「あぁ、そうだったの?そいつはご苦労様だ」
自身がかつてどこに配属され、どのような作戦に従事していたのかなどということは、自分から喋らない限り、相手が知る由もない事柄であった。例え話好きそうな人物であったとしても、その手の絶妙なラインを越えないだけの分別をすべからく有しているのが普通である。それが、働かずとも生活が保障されるこの時代であってなお、軍人という職業に就く者としての最低限の常識でもあった。
「でもまぁ、ここにいる奴らだってみんな『元』っていう肩書に困惑してるよ。ようやく慣れたころには晴れて退役してる訳だから、結局みんな慣れないわけなんだけど」
「そういうお前さんはもう慣れたのか?」
「退役した後にこんなとこで油売るほど暇なわけないっしょ?」
「…つまり慣れてないわけだな」
「そゆこと」
…地宙両軍併せて定数1億2000万人の常備兵力を誇るアウステルリッツ公国軍は、公国が形成する公共セクターのいちセクションとしては最大の規模を有している。その一方、この誇り高き定員数が健軍以来達成されていないのも覆しようのない事実ではあった。
もっともな話として、平和を享受することが許される時代に軍隊が慢性的な人員不足に悩むのはある意味で当然な話であるが、そうである以上、今いる人材を手放すまいと公国軍があの手やこの手を駆使するのも一方で当然であった。下士官ですらない一兵卒に対しても、勤務態度次第で(低位ながらも)貴族としての地位を(本人の意向に関係なく)下賜する(押し付ける)ことが一般化しているのも、人材の流失を防ぐ公国軍なりの方策といえよう。
「そういや聞いたか?貴族の令嬢様が今日来るってウワサ」
雑談の流れでそのままついてきたウル軍曹が話しかける。警備ではなくもはや森の中の散策であった。
「さっきのあれのことか?確かにちょっとした振る舞いは貴族ぽかったけど、せいぜい騎士階級くらいのもんだろ」
一口に貴族、といってもその種類は千差万別で、もっと言えばピンキリである。星系を丸ごと『私有』する貴族もいれば、一兵卒ですら分類上は貴族に相当する(もっとも『臣民』には少なくとも相当するこれら『士族』の階級を『貴族』として分類するかどうかについては学者の間でも意見が分かれる問題ではあるのだが)。その中でも『騎士階級』程度であれば名前の間に『フォン』を名乗ることが許されるくらいには貴族しているわけであるが、それにしてもワクワクしながら雑談のネタとして提供するほど物珍しい存在であるわけでもなかった。
「いやいやそんなもんじゃなくてさ、俺が言いたいのは爵位持ち…。それも伯爵か侯爵レベルの超大物が来るっていう噂なんだよ。『本邸』の奴らがやけに気合入ってるの、お前さんだって気付いてるだろ?」
「…まぁ心当たりはあるけどよ。そもそも、そんなエラいお貴族様が来るなら事前に情報共有とかされるんじゃないか?一応俺たちだって警備にあたってるんだぞ」
「『補充兵』にその手の情報は来ないのが普通よ。高位な人ほど位置情報の取り扱いはシビアだからね」
「…ったく。人手を大切にしたいのかしたくないのかよく分からねぇな」
有事、あるいは戦時に際して軍隊が必要とする人員は、平時において構成されるそれよりも遥かに多いものになるのがふつうである。そのために軍隊、あるいはその母体となる国家が、人材プールの手法として『予備役』の制度を整えている訳だが、公国軍にはそれに加えて『補充兵』や、あるいは『交代役』、もしくは『予備兵』と呼称される独自の立ち位置が存在している。もっとも、制度として公的な存在である予備役と異なり、補充兵たちの存在はその呼称も含めて、あくまで非公式か、あるいは組織内における便宜上の立ち位置とも言うべきモノである。誤解を恐れずに言えば軍隊の中における窓際部署のようなものだが、とはいえ、配属される人材は激戦地での戦闘や特殊作戦に従事した(元)精鋭が中心となっているのがこれら『補充兵』の大きな特徴でもある。施設や、あるいは地上における物資輸送の警備など、重要でかつ一定程度の戦力を必要とするが、直接的な危険が及ぶ機会自体は少ない任務を中心とする配属先などがこれに相当する。現在では、人材のプールという当初の組織内における目的よりもむしろ、特殊部隊要員に対して認められる給与上の手当がそっくりそのまま上乗せして支給される、事実上のアーリーリタイア先としてもっぱら評判になりつつあるが、それでも空挺技能を持つ降下猟兵や、特殊作戦に従事した経験のある狙撃猟兵など、育成に相応のコストを掛けた人員があっさり退役されるよりは余程マシだとして多大な人件費を垂れ流しながら運用されているのが現状である。
もっとも、こうした『補充兵』に相当する任地に配属されたその全員がFIRE気分の軍人によって構成される訳ではない。確かにマッシュ軍曹が実施している施設警備の任務は、補充兵が担う任務の中でも相当楽な部類に入りはするが、領邦貴族の来訪や、或いは特別な配慮を要する『客人』の対応に備え、当該任務に従事する補充兵たちから『本邸』と称される施設警備部隊が配属されている。いずれにせよ、人より予算の方がよほど余裕のある公国軍だからこそ出来る部隊運用であった。
「それにしても思い出すね。降下猟兵の時はこういう視界の開けないところによく投入されたもんだよ」
補充兵たちの間でマナー違反となっているのはあくまで「他人の経歴を尋ねること」である。『元』が付くとは言え特殊作戦要員だった人物がぺらぺらと戦歴を喋るわけにはいかないからだ。一方で、自分から勝手にしゃべるのはあくまで本人の自由である。しがらみのない武勇伝をお互いに披露するのは、安全であるが退屈しがちな補充兵たちにとってはありふれたコミュニケーションの一形態であった。
「空挺降下ってのはふつう開けた場所に降りるもんなんじゃないか?」
どちらかというと寡黙がちなマッシュ軍曹が、この場合に限ってウル軍曹の他愛のない独白に乗っかったのには二つの理由がある。そもそもマッシュ軍曹自身、寡黙とはいえ会話のとっかかりを無視するほど険のある性格をしていなかったから。加えて、会話を続けることで、自身の保持するAst422の弾倉を取り換える仕草に注意が向かないよう仕向けるためであった。
「それは大隊かもしくはグライダー部隊みたいな、まとまった数で降りる場合の話。逆に誘導小隊は出来るだけバレにくい場所に送り込まれるもんなんだよ。…ってか、部隊によってこの手の常識って意外と通用しないもんだんだね」
「…俺は固定翼機よりもヘリかティルトローター機の移動がメインだったからな」
ウル軍曹の気配を後ろに感じながら、マッシュ軍曹は何気ない動作とともに左のポーチから細長い消音器を取り出し、Ast422の銃口に取り付ける。ゆっくりとしたテンポ感で続けられる会話は、己が明確に湛えているはずの殺意を相手に悟られないようカムフラージュするには好都合であった。
「じゃあ視界の開けない所とか専売特許じゃん」
「…まぁな。空挺作戦に使う輸送機がどんなもんかは知らないが、基本的に低空飛行で飛ぶのがウチでは普通だからな」
ウル軍曹の問いかけに応じながら、さも凝った上半身をほぐすような仕草で肩にかかっていたスリングを外し、持ち運び易くするため畳まれてストックを展開する。
「でもこういう場所じゃ戦う気にはなれないでしょ?案外日差しが明るいし、なにより雰囲気じゃないよね」
「言えてるな。明るい場所は狙撃猟兵向きじゃない。逆に、降下猟兵だったらどういう場所が好みなんだ?」
「そうだな。この辺で言うんだったら例えばああいう…」
何気ないまま話を向けられたウル軍曹が、右斜め前方に位置していたマッシュ軍曹に向けていた視線をずらし、左方向を向きながら指で指し示そうとする。
それこそマッシュ軍曹が待ち構えていた瞬間だった。ウル軍曹の仕草につられて左を向いたような動作をしながら、左手でバレルを鷲掴みにしつつ右手でコッキングレバーを引っぱる。ゆっくり引っ張ると給弾不良の原因になることから、この動作に限っては音を出さずに居られなかったのだ。そうして草木の擦れる柔らかい空間の中に金属同士が擦れる硬い音が響き渡った直後、後ろを振り向いたマッシュ軍曹は素早い動作で射撃体勢を取ると、全くの躊躇なく引き金を2回絞った。
「…ッ!」
ウル軍曹…の後方30m離れた位置に潜んでいた兵士が、頭蓋から鮮血を撒き散らしてその場に崩れ落ちる。
「行くぞ」
「はいよ」
マッシュ軍曹の合図とともに、機敏そのものといった動きで二人はたった今脳みそを撃ち抜かれた兵士のもとに駆け寄る。
「211アルファより210へ定時連絡。周辺に異常なし。戻ったらハチミツを一さじ加えた紅茶を用意しておいてくれ。報告終わり」
『…ッ!210より211アルファへ、了解。ミツバチが4匹しかいないから時間がかかるだろうが容赦してくれ。引き続き監視を続けるように。以上』
合言葉が組み込まれたマッシュ軍曹の報告に対し、通信相手の上官が一瞬息をのむが、すぐさま平静な態度を取り戻して事前に決められた定型文を返す。敵性勢力による通信傍受を念頭に置いた対策であったが、やけにのどかなその通信内容は、木漏れ日の降り注ぐ今の状況に悪い意味でぴったりだった。
「身元を確認できる装備は無いね。こりゃつまらん」
「分かった。一応こいつは隠ぺいしておこう。ついでにアクセサリをOFFにして生体ビーコンを捨てとけ」
手近な草むらの中に死体を押し込み、どっさりと流れ出た血だまりには血液反応剤を振りかける。5分もしないうちに真っ赤な鮮血はねばねばとした黒ずんだ液体に変化するだろう。土や草木でも重ねておけば、凄惨な殺害現場であっても多少は誤魔化すことが出来る。振りまき終わったマッシュ軍曹はすぐさまポケットに入っていたボタンデバイスを押し込むと、右手のグローブを外して口の中に突っ込み、右ほほの内側にその先端を接着させていていた合成繊維製の糸を引っ張り上げる。小指の先端ほどはあるゲル状物質が、胃を起点として食道を逆なでしながら、ぬめりとした感覚とともに喉を通じて口腔内に到着する。そうして胃酸にまみれた生体ビーコンを素早く吊り上げたマッシュ軍曹は吊り上げた糸を纏めて口の中に押し込むと、ゲル状の物質とともにその場に吐き捨てた。
「…うぇ。おえこえにがえなんらよな(俺これ苦手なんだよな)…」
苦戦しながらも生体ビーコンを吊り上げたウル軍曹が、マッシュ軍曹と同様に吊り上げた糸を口の中に押し込んでその場に吐き捨てる。
「電源切るだけじゃダメなのか?」
生体ビーコンは兵士たちの生体反応および体内状況をリアルタイムに観測する生体依存型デバイスの一種であり、これを装着しておくことで応急手当を行う際などに適切な診断と医療処置を講ずることが出来る。しかし、微弱とはいえ常に電波輻射を行っているデバイスは、敵に対して自分の位置を晒す危険をもたらしかねないのも事実である。それでも本来であれば生体ビーコンと同期しているボタンデバイスを押すことで通信を遮断できるはずであり、それを知っているウル軍曹が不満げに言葉を漏らす。
「元が精密機械だから故障して電源がオフに出来ない場合があるんだよ。もともと電源をオフにさせる機能が後付けのモンだからな」
「狙撃猟兵さんは神経質だね」
「まぁな。降下猟兵さんは違うのか?」
「狙撃猟兵と違って降下誘導小隊は位置を知らせるのが仕事なんだよ」
「そういうもんか」
軽口を叩きあいながらであったが、周囲を警戒しつつ緊急時用の集合場所へ向かう二人の所作には一分の隙も見当たらない。草木の中を突き進んでいるにもかかわらず、それらが擦れる音すら最小限に抑えた身のこなしは、意識の有無にかかわらず勝手にそうなってしまう身体にしみ込んだ振る舞いであった。
「で、元降下誘導小隊のアテクシとしては、本地域に潜入している敵がさっきのひとりだけだとは到底考えられないんだけど、どう思う?」
「同感だ。さっきの敵は斥候だろう。狙いはここにきてるっていうお貴族様か?」
「だろうよ。噂もバカにならないねぇ」
マッシュ軍曹の古巣とも言える狙撃猟兵は本来、森林や山岳部、あるいは湿地帯や降雪地帯など、機甲戦力や砲兵などといった重戦力による火力支援を受けづらい地域における戦闘に特化した部隊である。であるため、似たような任務に従事していたであろう敵の思惑についても、大まかながら推測することが可能であった。
「で、どうやってこの離島部までやってきたのかが問題だね。つっても空挺降下か水際からの上陸の2択だろうけど」
「空挺降下はないな。一気に兵力を送り込めるが、その分動きが派手になるからバレずに送り込むのは難しいはずだ。あと、足元についてた白っぽい泥から見て多分島の北側からだろうな」
「遥か昔に廃棄された採石場を突っ切ってここまで来たって予想?」
「そんなところだ。警備の穴を突かれたな」
「島全体を厳戒態勢にしようとしたら補充兵があと1個大隊は必要になっちゃうよ」
軽口を交えながらのやり取りであったが、それでも付近に位置する友軍の動きを察知できるだけの明敏さは保たれたままだった。常人の駆け足に匹敵するほどの速さから、即座に立膝の状態に移行し、合図のために配布されていた器具をカチカチと鳴らす。聞こえようによっては鳥のさえずりに聞こえなくもないシロモノであったが、草むらの向こうから返事を鳴らしてきた相手は、カムフラージュ用のドーランを顔面に塗りたくった、おおよそ小鳥の愛らしさとは縁もゆかりも感じられないむさくるしい風貌の味方2名であった。
「敵ですか?」
のっそりとその場に現れた両人のうち、小隊無線用の通信機を背負った片方がやや緊張した面持ちで尋ねる。小隊長付きの無線手であるモース兵長はゴツい見た目とは裏腹に、マッシュ軍曹やウル軍曹のような戦場経験を持ち合わせていない(と同時に補充兵にはない生真面目さを持ち合わせている)、兵士の一人であった。しかし、隙の無い身のこなしや何より兵士向きのガッチリとしたその図体は、軍隊以外に居場所を見つけるのが困難であることが容易に想像ついた。
「800m向こうでこちらの様子を伺ってた1名と遭遇。敵性勢力と判断し、これを無力化。装備の具合から判断しておそらく斥候だな」
「装備の詳細は、どうですか?」
モース兵長の傍らから、軍人としては明らかに威厳と身長が足りていないであろう女性将校がおっかなびっくりな態度でそう尋ねる。表情こそドーランで塗れであるから評価のしようがないが、ヘルメットから僅かに首元へこぼれ出た絹糸のようにサラサラの黒髪が生来からの育ちの良さを表している彼女こそ、小隊長として補充兵連中を束ねる役割にあるプロスニッツ少尉であった。
「CvZ86です。すっかりテロリスト御用達ですね」
小隊長の問いかけに対して、マッシュ軍曹は柔らかくも的確に答える。
軍人として働いた期間も、単純な戦闘スキルも自身のそれより遥かに下回っている相手ではあったが、そのような人物であっても階級が上であれば服従と敬意を必須とするのが軍隊という組織である。そうでなくとも、見た目とは裏腹に日々の訓練や部隊運用については小隊長としての地位にふさわしいだけの働きぶりと責任感を示す相手に対して、ぞんざいな態度を取る理由は見当たらなかった。
「そんなもん担いでたら『私は正規軍に所属してない不届き者です』って自己紹介してるようなもんなんですがねぇ」
「逆に考えると、わざわざ自己紹介しても問題ない程度には、それなりにまとまった数で動いてる可能性もあります」
「マズいですね…」
「時間の問題でしょうが、死体は要領に沿って隠蔽処理しておきました。せっかく重たい通信機を運んでるモース兵長には悪いですが、傍受の危険を冒して通信を入れるよりも、お屋敷まで戻って直接応援を呼んだ方がいいでしょう。どうせ急げば10分もしない距離です」
もっともな話として、命の危機を前にして普段通りに振舞える人間はそう居ない。ひよっこ少尉の実家であるところのプロスニッツ公国騎士家といえば、エステルライヒ城伯やクライェヴィナ子爵を始めとする爵位もちの名門には譲るものの、首都防衛諸侯家に連なる家々としてはそれなりの格式がある武門貴族家として名が通っている。分類上貴族にカテゴライズされるか怪しい士族身分の補充兵たちであっても、公国草創期にプロスニッツ家の示した軍功については一般常識として伝え聞いているところである。また同時に、現在少尉の地位にある彼女が、軍人として嘱望されていた兄や姉たちが不測の事故で死亡か、あるいは退役を余儀なくされてしまい、役人勤めだったのを慌てて引っ張り出されてきたという不憫な経歴を持ち合わせていることも、補充兵たちは聞き及んでいた。そうした裏事情を知っているからこそ、元精鋭としての自負を持つ部下たちは、自身の知識と経験に基づく今後の対応を『提案』する。
「わ、分かりました。行きましょう。私とモース兵長を中心に、ウルさんは10m先行。マッシュさんは20m後ろから周辺の警戒をお願いします」
「とりあえず4人で大丈夫ですか?」
ウル軍曹がすかさず尋ねる。口調は丁寧であったが、状況が状況なだけあり、普段の彼らしい気安さは感じ取れなかった。
「今のタイムテーブルだと警戒に出てるのは8名です。もちろん多い方が安全ですが、集合を待って対応を遅らせるよりは良いでしょう」
「…分かりました」
一瞬考えた上で、ウル軍曹は承知の意を示す。
「では、配置についてください」
「了解です。マッシュ軍曹、ちょっと」
不意にウル軍曹が振り向き、呼ばれたマッシュ軍曹が硬い表情のまま歩み寄る。ウル軍曹は小隊長からは見えない、そして聞こえない位置から、マッシュ軍曹に向けてこっそりと話しかける。
「…相変わらず敬語が抜けないね。あのお嬢さんは」
「言ってやるべきか?」
「正直難しいな。よりによって相手が俺たちみたいな補充兵風情だし」
「命令形の方がやり易いって奴もいるんだけどな」
ため息交じりに言ってのけたマッシュ軍曹が横目でちらりを視線を飛ばした先のプロスニッツ少尉は、お気楽な補充兵たちがむしろ気が滅入りそうになるくらい真面目腐った表情を浮かべながら、まだ見ぬ敵が潜んでいるであろう森林の奥深くを、じっと睨みつけていた。
「…なぁ、どう思う?」
退屈な待機時間が待っている宇宙港へ機首の方向を向け、そこへの帰還を目指す往還連絡機の操縦桿を握りながら機長であるクラウスは、副機長であり雑談相手であるマオに対して尋ねる。
「なにがですか?」
淡々とした業務内容に内心飽き飽きしている直属の上司とは異なり、安定こそが人生の幸福と考えるタイプのマオはしかし、なんやかんや言いながらも腕は確かな彼が放つ質問の意図を理解しかねていた。
「見えるか?ほらあそこ。HUDの300倍設定越しでギリギリ見えるはずだ」
「いや、さっきから気にしているなぁとは思ってましたけど…」
さっきからキャノピーの外にチラチラと視線を飛ばしていたから、クラウスが何かを見つけようとしているのは分かっていた。しかし、だからこそマオは理解が出来なかった。
「レーダーには反応がありません。なにかの見間違いじゃないんですか?」
勿論、何事にも故障という事態はあり得る。だからこそ、無人操縦技術が究極的に発展した現代であっても、こうしてライセンスを持った操縦士が機体のコックピットに居座っているのだ。それも二人も。
とはいっても、特に衝突の危険もないようなこの距離で、見えるかどうかも分からない未確認飛行物体をやたらと気にする上司の振舞いに対して、彼女はあまり積極的に関わろうとは思えなかった。
「いやほら。さっきのお嬢さんを乗せてったろ?ありゃ絶対訳アリだよ。だから気になってさ」
「はぁ?関係あるんですか?あのお嬢さんとレーダーの不具合が」
「逆だよ逆。俺が気になってるのはお嬢さんの送り先と、あそこに浮かんでる未確認飛行物体のこと」
「…すみません。まったく話が見えてこないんですが」
仕事に対するスタンス。あるいは人生における価値観の違いからか、マオはクラウスに対してあまり好印象を抱いていなかった。単純な経験差、あるいは技量の差からある程度の敬意を払ってはいたものの、少なくとも人間性に対して積極的にその意を汲もうという態度を取る気にはなれなかった。
「なぁ、『部屋の中の像』って知ってるか?」
「何ですか急に。…まぁ聞いたことありますけど」
「なら話は早い。じゃ、『ザ・ロック』に関する噂はどうだ?」
「知りませんよ。だから何の関係があるんですか?」
ついに退屈で頭がおかしくなってしまったのだろうか。もとより突拍子のないことを口走るタイプの人間だったが、更に勿体ぶった言い回しまでし始めた。そこはかとない不安感が彼女の胸中に立ち込みはじめ、思わず口調も若干ばかり棘っぽいものになる。
「まぁ、聞けって。『ザ・ロック』ってのはさっき俺たちが着地したあの島の別名だよ。といってもうわさ程度だがな」
「あの島全体が刑務所みたいな場所がですか?聞いたことありませんけど」
「お、その通り。いい勘してるな」
クラウスはチラチラと外に向いていた頭を翻すと、退屈の紛らわしを見つけて安堵したような表情をマオに対して向けた。
「あそこはいわゆる『擾乱勢力』、まぁ分かりやすく言うとテロリストだな。そういった類の犯罪者とか、あるいは自治領で公国軍相手に色々派手をやらかした捕虜なんかを閉じ込めて拷問やらなんやらをするための施設っていう話だ」
「なんですかソレ、聞いたことありませんよ。…噂っていうか都市伝説の類じゃないんですか?なんでよりによって首都星系にそんなのがあるんですか」
「グッド・クエスチョンだ。なんだか今日は冴えてるじゃねぇか」
余計な一言を付け加えてマオをほめながら、クラウスは引き続き喋り始める。
「捕虜収容施設ってのはそんなポンポン作れるもんじゃない。法律とかのしがらみがあるからな。だけど必ず必要なモンだ。少なくとも初代の公爵サマはそう考えららしい。だからこそ、このスラフコフ・ウ・ブルナが首都として機能する以前の、領邦貴族の自治権やら帝国政府の主権やらが色々ごちゃ混ぜになって法律の適用な曖昧などさくさなタイミングに紛れて設置された、伝統と歴史ある収容施設こそ、あの『ザ・ロック』っていう訳だ」
「…よく出来た話だとは思いますけど、じゃあなんなんですか?都市伝説と未確認飛行物体がどう関係あるんですか?」
「やっと本題だな。いいか、良く聞け」
いくら普段から突拍子のない言動を行っている人物とは言え、今回くらいは多少真面目に聞いてあげてもいいかもしれない…。そう思ったマオは、直後になって自分の優しやが如何に空虚なものかを改めて認識する羽目になった。
「あの未確認物体は政府の秘密組織である『ザ・ロック』に収容された人類外知的生命体を救出しに来た星間宇宙船だ!そんでもってさっきのお嬢さんは人類外知的生命体に関する情報を隠ぺいするために帝国政府から派遣されたエージェントって寸法さ」
「…噂ってきりがないですよね。人類外知的生命体の宇宙船を見たって言い出したパイロットはクビになるって噂も聞いたことありますよ」
「おいおい俺が退屈なあまりイカれちまったって言いたいのか?」
「イカれて言ってる方がまだマシまでありますよ」
「ったく、つれないな」
一瞬でもそれっぽい話かと思ってしまった自分を含めて恥ずかしい…。そんな感覚にとらわれてしまったマオが、コントロールパネルから突如鳴り響いた警報音に対して一瞬反応が遅れるのもしょうがない話ではあった。
「…冗談じゃねぇ」
冗談めかした笑みを口元に張り付けたまま漏らすには、あまりにも皮肉めいたセリフであった。
「レーダーに反応なし…。画像解析センサーからの警報です!」
「異常接近だ!付近の管制施設に現在位置と高度を報告!」
突然の事態を前に、内臓が持ち上がるような緊張感がマオの体内を駆け巡る。それでも意識と体が分離されたかのように左手がコントロールパネルに向かって伸び、所定の手順に従って付近の管制施設を呼び出そうとする。しかし、仕事の時以外に聞けばなんてことないハズの雑音が、この時に限ってはとんでもなく耳障りに響いた。
「空電です、通信不能!」
マオは事態の深刻さをこれ以上ない簡潔さで表現して見せた。
「受信機がイカれた訳じゃないんだな。もしこれが通信妨害ってことなら航路をトチ狂った内航星間船って線は無さそうだ」
「センサーの反応によると、大体30〜50mくらいです。衛星軌道上の浮遊物質、…ってわけじゃないですよね」
「不意に進行方向を転換してこっちに向かってくる物体が、自然の摂理で動いてる方がゾッとするね」
大気圏スレスレを飛び交う宇宙線に紛れてしまった小さい欠片や、あるいは破損してしまった軍用艦船の破片など、レーダーに反応のない飛翔体が存在することそれ自体は不思議なことでない。それに加えて、移動する飛翔体が方向を変化してまだ別の飛行の飛翔体に向けて急接近することも、その危険性を考えさえしなければ不思議なことではなかった。しかし、その二つの事象が同時に発生すること、すなわち『レーダーに反応しない飛翔体が、別の飛翔体に向けて方向を変化させること』それ事態は、極めて不自然なことであった。
「回避機動を取る。相手だって好きでぶつかりたいと思ってはないはずだ」
普段のニヤけた喋り方と比べたら考えられないくらいぶっきらぼうな物言いいとともに、クラウスは操縦桿を傾けて鈍重な機体が実行できるギリギリの角度を取り始める。
「飛翔体の位置情報は?」
大気圏航行機の推進用に搭載されるミュオン触媒核融合炉エンジンはごく少量の燃料でもって莫大なエネルギーを生み出す一方、急加速や急制動のタイミングにおいては慎重かつ厳密な出力制御を必要とする。だからこそ自身の装着するHUDが映し出す制御パネルに視神経の全てを集中させたクラウスは、首元を前方に固定しつつそのように尋ねる。
「な、南東方向です!自機から約200km離れてますが、方角は西北西方向…、こっちに向かってきてます!!」
「そんなこったろうと思ったが、そんなこったろうとは思わなかったな。通信系統の回復はまだか」
哲学的な、もしくは支離滅裂な言い回しの直後に、クラウスは現状において極めて現実的で建設的な質問を投げかける。
「待ってください、もう少しで聞こえそうな感じが…、」
要人護送用の大気圏往還機として、通常とは異なる強力な電子戦防護機能が搭載されているからこそであった。
『……ッ、、ら、管制……ッ、2、、AS、…ッ、F』
「A、S、Fが識別符号にある管制施設、えーと、オルミュッツ=ブリュノ宇宙港です!真南の方角です!」
「分かった。一か八かだが、機体ごと傾ける」
「それ意味あるんですかぁぁぁああ!?」
疑問符のつもりで投げかけたセリフは、急激に発生した下方向への慣性に対する驚きへの絶叫に変化した。全くの比喩なく天地がひっくり返ったキャノピー越しの光景は、本来お上品な航行が前提とされている要人護送用の大気圏往還機パイロットが味わうはずがない、いや、味わっていいはずがないものであった。
「か、傾けるっていう意味に360度全部が含まれてるとは知りませんでした!」
「180度でキープされるよりはマシだろ。安心しろ、昔軍隊でこの手のアクロバット機動を片手間にこなしてんだぜ」
「機長って確か大型輸送機のパイロットでしたよね!?」
信じられない、というようなマオが向ける抗議の視線を華麗に無視しつつ、クラウスはひざ元に緊急退避させた制帽を再び被り直し、再び目の前の制御パネルに意識を集中させる。
「それよりお前は通信に集中しろ。役割分担だ」
「う~、心臓がいくつあっても持たない…」
未だに心臓が上気する左胸を右手で抑えながら、もう片方の手でヘッドセットを耳に押し当てるマオは、極めてクリアになった無線通信がつんざくように左耳に飛び込むことで、さっきまで自分が音声出力を最大まであげていたことを思い出した。
『こちらオルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制!!!!!ペリカン地上空港よりシュターレ・ヴィノフラディ宇宙港に向けて復路を航行中のD433便応答せよ!!!!!繰り返す!!!!!』
「ちょ、ちょっと待って…」
慌てて音量調整のノズルを絞り、深呼吸をすることで可能な限り落ち着きを取り戻したマオは、改めて自身の果たすべき任務を思い起こす。
「オルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制に伝達。こちらペリカン地上空港発、シュターレ・ヴィノフラディ宇宙港行きD433便です。機長は現在航行作業中のため、副機長であるマオ・シェンムーが現在通信中。現在本機が航行中の航路に未確認飛翔体が接近中につき、緊急通信を実施中です」
『こちらオルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制。D433便へ、状況を把握した。貴機の位置と状況の詳細を報告せよ』
「D433便よりオルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制へ。現在当機は政府要員の輸送任務完了後、シュターレ・ヴィノフラディ宇宙港に向けて座標XX.XXX,YY.YYY付近を北東方向に向けて航行中。乗員は機長、副機長の2名を除いて無し。接近中の飛翔体は推定して全長50m前後、当機より南東方向へ100㎞の距離から急速接近中です。機上レーダーに反応はありませんが、本機の画像解析センサーより接近が確認できました。当該飛翔体は当初北西方向に向けて飛翔中なのを機長が目視により確認していましたが、自身の飛行経路を西北西方向に向けて変化させたため、破片ないしは隕石体である可能性は低いと判断しました。当機と飛翔体の現在の速度から計算して、衝突が予想される時刻まであと250秒です。付近を航行予定の民間ないしは軍用機について、そちらの方で分かってる情報があれば共有願います」
『D433便へ。詳細について把握した。ひとまず、貴機の取りうる措置について報告せよ』
「当該飛翔体に対して通信を試みてみますが反応はありません。現在当機は機長判断にもとづき回避機動を実施中ですが、画像解析センサーの解像度が限界なので効果のほどは期待できません」
『D433便へ。把握した。…現在付近の複数管制施設と貴機の状況を共有し、宇宙港の航空レーダーで当該空域を走査しているが、報告のような飛翔体は確認できていない。また、圏内航行局のデータベースにも問い合わせたが、付近の空域において事前の航行申請は受理されていない』
「…どういうことですか?宇宙港に併設されてるレーダー施設ですら確認できない飛翔体って…」
「こりゃマジで、電子戦システムが搭載されたミサイルの類かもしれないな」
さも何でもないような言い方で、マオが無意識に触れようとはしなかった内容をクラウスは言い放った。あくまでつっけんどんな態度であったが、それが緊張感ゆえなのか、それとも彼本来の気質ゆえなのか、マオには判断できなかった。
「そ、そんなハズはありません。仮にミサイルだったとしても、発射母体がどこかのタイミングで確認されてるはずです。それが全く気づかれずに首都星系の防空網を突破出来るなんて…」
「あれが本当にミサイルかどうかはどっちみちわからないが、スラフコフ・ウ・ブルナの防空システムに全幅の信頼を置くのは間違ってると思うぜ。星系気象台のお天気予報、覚えてないのか?」
「…ま、まさか昨日の恒星風ですか!?それに紛れてこんな場所にまで侵入を許したって…」
「オルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制へ。D433便機長、クラウス・ケッヘンカーターだ。当該飛翔体と最接近するまで残り200秒くらいだが、なんにせよ画像解析センサーに頼りっきりの状況だから、相手さんとの衝突コースに掠ってるのかすらよく分からない。当機は可能な限り回避機動に努めているが、当職としては宇宙海賊によるテロ攻撃の可能性も考慮したい。間に合わないとは思うが、電子戦システムを搭載した機体による応援を願いたいが、可能か?」
『D433便へ。貴機が担当する任務の重大性に鑑みて、既に付近の空域で空中待機中の電子戦システムを搭載した空中管制機を含む一個飛行隊がそちらに向かってる。貴機の真南の方面からアプローチを実施する予定だ』
「副機長聞こえたか?電波妨害中だからレーダーに反応がない可能性も考えられる。画像解析センサーで当該方向から接近中の公国軍機を確認しろ」
「広域センサーに反応ありました!中型航空機4機と大型機1機がマッハ10の速度で接近中!」
「オルミュッツ=ブリュノ宇宙港管制へ。応援機の接近をこちらで確認した。迅速な対応感謝する」
『礼には及ばない。以降の管制支援については空中管制機の指示に従え。コールサインは『シーク・ホーク』、認証コードはTW、周波数帯はXXXX.XXを使用せよ。幸運を祈る。通信終わり』
「『シーク・ホーク』へ。こちらD433便機長。認証コードTW、以降の管制支援は貴機に従う。挨拶も出来ない状態で悪いが、未確認飛翔体の未来位置を教えてくれ」
『こちら「シーク・ホーク」、認証コードを確認した。D433便へ、貴機に接近中の未確認飛翔体を確認した。…あぁおそらくだが衝突コースだな。衝突まで残り3分弱』
「『シーク・ホーク』へ。あの未確認飛翔体はミサイルのたぐいなのか?」
『詳細は不明だが、我々は防空司令部より迎撃の許可を得ている。貴機は回避機動をそのまま実施してくれ。最後に確認だが、貴機には乗組員のほかに乗員はないという認識で大丈夫だな?』
「安心しろ、当機に余計なお偉方は乗っかってない。だからと言って巻き添えは勘弁してほしいぞ」
『余計な気苦労は不要だ。全周波数帯にて未確認飛翔体に対し警告を実施し、反応がなければ直ちに迎撃を実施する』
緊急事態に似つかない軽口をあっさりといなした『シーク・ホーク』による無線の直後、ひどく堅苦しい表現の羅列がスピーカーからこぼれ始める。
『アウステルリッツ公国軍スラフコフ・ウ・ブルナ防衛総軍所属機より、惑星標準座標xx.xxxx、yy.yyyy地点を高度30㎞で北西方向に飛行中の未確認飛翔体に告ぐ。飛行進路には公国政府所属の航空機が航行中である。直ちに進路を変更せよ。繰り返す、直ちに進路を変更せよ。この通信が終了して30秒以内に飛行進路の変更が確認されない場合、即時武力行使を実施する。通信終わり』
「30秒か。長いんだか短いんだか…」
危機的状況とはいえ、『シーク・ホーク』から非情としか言いようのない通信が飛び込んできたのは、クラウスがその言葉を漏らしてから、きっかり30秒後であった。
『「シーク・ホーク」よりD433便へ。当該未確認飛翔体より返答無し。随伴無人機による迎撃を実施する。IFFの作動を確認し、引き続き回避機動を実施せよ』
「『シーク・ホーク』へ。了解した。間違って迎撃されたらたまったもんじゃないから、可能なら迎撃に使用するミサイルの型式だけでも教えてくれないか?」
『D433便へ。軍機につき答えられない。ちゃんと狙うから安心してくれ』
「『シーク・ホーク』へ、了解した」
緊迫した瞬間のなか、通話ボタンから指を離し、言葉のラリーを一時的に中断させたクラウスは誰に聞かせるわけでもなく一人言葉を漏らす。
「ったく。管制機乗りってのはどうしてこうもお堅い奴らばっかりなのかね」
「機長、でも大丈夫ですか?あぁは言ってますけど、うっかりこちらに当たったりなんてことは…?」
「そこまで気にしたところでしょうがないだろ。まぁ俺の予想が間違ってなければ、おそらく発射するミサイルはレーダー誘導と赤外線画像解析センサーを両方搭載したデュアルシーカータイプのヤツのはずだ。それに『ちゃんと狙う』って言ってたしな、ワンチャン手動誘導も搭載されてるかもしれないな」
「元空軍パイロットの勘ですか」
「BETし甲斐のある予想だと思うぜ」
遠心力に引っ張られているとはいえ、水平状態から70度以上傾いた姿勢を保ったままの二人であったが、言葉のキャッチボールに現れるその飄々さは、普段のそれと変わらないものであった。
「貴族のお嬢さんというのは、もっとおしとやかな教養を身に着けているのかと思っていたよ」
「あいにくながら。私たちは主家たるアウステルリッツ公爵家に仕える身の上でございます。時と場合に応じて、自身の責務を果たすのが己に課せられた使命でございますゆえ、ご承知おきを」
「つまり、あたしに対してつっけんどんでぶっきらぼうな対応をするのが、今のあなたたちの仕事ってわけね」
なるほど、とテオドラは感じた。価値観が異なりすぎている。生活や人間関係の中で強いストレスを覚えつつ、それに対して一種自虐的な応対を癖づけることで、精神の均衡を無意識的に図ろうとしている。物質的に恵まれた生活を送る一般的な帝国国民からはまず生まれない精神性であろう。
「まず一つ、伺いたいのですが」
テオドラは自身の言葉を心の中で反芻しつつ、頭の中で構築した、尋問に必要な情報体系の一端を口先まで持って行く。
しかし、その試みは残念なことに当人たちの及ばぬ理由によって中断されてしまう。まず最初に異変に気付いたのはローゼルであった。常からリーゼロッテの最も付近に付き添う彼女は、驚いたことであるのだが、たびたび主人の撒き散らす度の超えた癇癪を普段から間近で浴びているにもかかわらず、並外れた知覚神経を保ったままであったのだ。
だとしても、周囲に対してほんの僅か先んじた彼女が主人のために出来ることは、周囲を見回しながらリーゼロッテの肩をわしづかみ、その御身を守るための体勢を取るだけであった。
「おいおい…」
異変の前駆症状に対して何も知覚することのなかった凡人、例えばそれはベルナデーテであったわけだが、彼女の視点からすれば、自身の目の前で偉そうにしている貴族の女が不意にお付きの人に身体の自由を奪われたようにしか見えなかった。だからこそ彼女は半分呆れたような、半分皮肉げな声をかけたわけであるが、まさにその直後、遠雷のような重低音と僅かな地響きが周囲を襲った。
「ローゼル、結構ですわ」
「失礼します」
瞬時に事態を把握したリーゼロッテが身体の自由を回復させるのと、収容所長がノックもなしに部屋の扉を開けたのは同じタイミングであったから、ぎろり、という効果音が聞こえてきそうな視線をリーゼロッテが飛ばすのも仕方ない話では合った。対する所長は余りに険のあるそのしぐさに対して一瞬気おされながらも、自身の職業意識を発揮させつつ、当人の傍に駆け寄って耳打ちを行う。
「間違いありませんか」
自身にまとわせた殺気だった雰囲気とは裏腹に、大貴族の令嬢は極めて落ち着き払った声色で所長に尋ね返す。そして無言のまま頷く所長を一瞥した彼女は即座に、そして優雅に振り返る。その振る舞いを切っ掛けにテオドラとローゼルが次に行うべき行動も決定づけられた。
「何何何どういうこと??」
言葉ではなく自身の振る舞いで表現する貴族特有のコミュニケーションを目の当たりにしたベルナデーテが、突然の状況の変化に対して戸惑いと不平を露わにする。
「ローゼル」
「かしこまりましたお嬢様」
「痛たたたたもうちょっと優しくしてよ!」
思うままに銀河を股にかけ、公国軍すらもその存在を恐れた宇宙海賊の女傑の身体的自由は、必要最低限の命令によって即座にはく奪された。しかし、多少の窮屈ははこの際肯定されてしかるべきであろう。歴史の行方が風雲急を告げようとしているさなか、とある惑星の孤島で、銀河の大きさと比べればごくごく小規模な戦闘が発生しようとしていた。